ベトナム戦争の記憶をたどる旅

 

                      武田晃二

 

プロローグ

 

 2016818日、昼食後、私はあの大統領官邸を「中村梧郎さんと行くベトナムの旅」ツアーの一員として見学していた。現在の統一会堂である。まさに感激の一瞬であり、今回のベトナム旅行の目的の一つであった。

 

 思い起こせば、45年前の1975430日、旗を振って北ベトナム軍戦車が大統領官邸ゲートを突破し大統領官邸に入り無血革命を宣言したあの写真。人生の中でも忘れられない瞬間であった。

 

 私はその頃大学院生として個人的にトンニャット募金を進めていた。周囲にはベトナム戦争は長期化するであろうという空気があった。そこで私は持続的で楽しく感じられるような募金方法はないものか考え始めたものだ。毎月少額のカンパ額を一口として学生・院生・教職員に呼びかけ、応じてくれた方々には支援団体に納入した領収書を刷り込みベトナム戦争情報を簡単に記した「トンニャット通信」にベトナム切手を添えて配布するという活動だ。毎月一定額の募金が確実に集まった。その一部を利用してベトナム戦争の写真集等を購入し、トンニャット文庫と名づけて院生室に置いた。

 

 新聞を通してだが、私なりに戦況を追っていたこともあって戦争終結は早いと考えていた。しかし、私の予想をも超えてそれよりも早く430日の終結日を迎えたのであった。

 

 その45年後にあの大統領官邸の3階バルコニーに安形君とともに立っていた。今は統一会堂として当時のまま保存され公開されている。ゲートの右側には戦車が2台置かれていた。当時のものは2台ともハノイの方に移されているとのことだった。広い構内の奥の官邸前前庭にはベトナム民主共和国の旗が左右に10本、ハの字型に掲揚されていて眩しく見えた。統一会堂の中のおみやげコーナーには電池で動くおもちゃの戦車があり、私は躊躇することなくそれを購入した。

 

 富士国際旅行社が企画した「中村梧郎さんと行くベトナムの旅」(2016813日から19日まで)の最後の見学施設であった。以下、日程に沿って思い出せる範囲で書き留めていきたい。(帰国後ウィキペディアやインターネットなどで補強した)

 

 

 

 1日目(813日)

 

 この旅に快く参加してくれた安形君と前泊ホテルで朝食を済ませ、シャトルバスで成田空港第1ターミナルに向かった。ツアーのメンバーは中村さんを含め7名(2人は関西空港から別便で)であった。

 

 ベトナム航空で約5時間。隣の席の青年に声をかけるとベトナム人で日本に留学して帰国するところだという。日本の印象を尋ねるとあまり良くなかったようだ。

 

 昼過ぎ、ハノイ・ノイバイト空港に降りた。ODA(政府開発援助)で建設された空港で日本企業が請け負ったことから、援助費は結局日本に還流したとのこと。

 

 現地添乗員・通訳のチンさんが出迎えてくれた。覚悟はしていたがムッとする暑さだ。ハノイ市街まで約30k。ハノイに近づくと右手にタイ湖が見えてくる。さらに進んでタインニェン通りに入りタイ湖の一部であるチュックバック湖に寄る。

 

 市民の憩いの場になっているその湖畔にアメリカの共和党上院議員マケインが撃墜された記念碑が立っていた。その碑には19671026日、軍とハノイ市民はチュックバック湖で、米軍の少佐ジョン・シドニー・マッケインを捕らえた。爆撃機A4は、イエンフ(Yên Phụ)の発電所に撃ち落とされた。同じ日に撃墜した10機の爆撃機のうちの一つである」と記されているというマケインは両腕を骨折し、爆撃機から脱出の際に足にも怪我を負いパラシュートで脱出したものの湖に落ち溺れそうになったところを救出された。トンキン湾事件から3年後である。彼は激しい拷問を受けたが5年後に釈放されたという。

 

 私たちはバーディン広場を歩いていた。がっしりしたホー・チ・ミン廟の前に来た。194592日、ベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた場所だ。その独立宣言にはこう書かれている。

 

 「1940年の秋に、ファシスト日本(日本のファシズム)が連合国との戦いにおいて新しい基地を確立する為にインドシナ半島の領域を荒らした時、フランスの帝国主義者は彼らに膝を曲げてひざまずいて、我々の国を彼らに手渡した。このように、その日付から、我々の身内は、フランス人と日本人の二重の軛に服従した。彼らの苦しみと惨めさは増加した。結果は、昨年の終わりから今年の初めまで、クアンチ省からベトナム北部に至るまで、我々の仲間の市民のうちの200万人が飢餓で死んだ。1940年の秋から、我々の国は実際にフランスの植民地であるのをやめて、日本の所有になった。日本人が連合国に降伏したあと、我々の全部の仲間は我々の国家主権を回復して、ベトナム民主共和国を起こす為に蜂起した。(中略)真実は、我々はフランスからではなく、日本から我々の独立をもぎ取った。」

 

 1890年、儒学者の子として生まれたホー・チ・ミンは官吏養成機関在学中抗税運動に携わり退学処分を受けた後、フランスを始めアメリカ合衆国を含む各国を転々とし、1917年にパリに戻った。そこでロシア革命から影響を受け、フランス社会党に入り、安南愛国者協会を組織し事務局長となり、第1次世界大戦の講和会議(パリ講和会議)に参加し、植民地下のベトナム人の基本的諸権利を要求する8項目にわたる「請願書」を提出している。1920年、レーニンの「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」に感銘を受けたホー・チ・ミンはフランス共産党に入党し、コミンテルンアジア担当常任委員となった。中華民国で北伐開始に伴って広東に赴き、ベトナム青年革命同志会を創立させるとともに1930年、ベトナム共産党を創立した。しかし、民族問題よりも共産社会実現を重視するコミンテルン中枢からは一時疎外されたがやがて復帰。1941年、彼はインドネシア情勢の急変でベトナム入りし、「ベトナム独立同盟会」を組織し主席に就任し、ベトナムの宗主国的存在になっていた日本に対する武装闘争の準備に着手した。その間、曲折の後、1945年の日本降伏により直ちに国民大会を開催し8月革命を経て、ベトナム民主共和国臨時政府が成立し、92日の独立宣言となった。その場所に今、私たちも立っている。

 

 ホー・チ・ミンは「独立ほど尊いものはない」という言葉でベトナム戦争に立ち向かうベトナム人民を鼓舞し続けたが、1969年に79歳で亡くなった。

 

 なお、この臨時政府で内務大臣に任命されたのが34歳の詩作や芸術を愛するボー・グエン・ザップである。ホー・チ・ミンとともにその後25年間、解放闘争を指導することになった。彼の若き妻がフランスの安全に対する政治的陰謀の容疑で無期懲役となり激しい拷問の末自殺した(フランス警察は親指だけで彼女を吊り上げ死ぬまで強打したというアメリカ側の情報もある)。最愛の妻の死を知らずに活動していたザップは4年後のまさに独立宣言の年に妻の死を知ったという。ザップはホー・チ・ミンが亡くなった1969年以後も北ベトナム人民軍を見事に指導し1975年の勝利に導いた。64歳になっていた。2013102歳で没している。

 

 私はホー・チ・ミンやザップらの顕著な指導性以外に、この段階を含めその後のベトナムの政治機構、政権内部の構成、経済社会、民主主義制度等については聞きかじりだけで何も知らないので、この度の旅行を通してベトナムをどこまで理解できるかははなはだ不安である。

 

 バーディン広場の向かい側にはリニューアルしたベトナム国会議事堂がある。まだ工事中のようだが大半は完成しており機能しているとのこと。ベトナムは一党独裁制をとっているというので、複数政党制を主張する運動はないのかと通訳のチンさんに尋ねると「すぐ拘束されてしまうから」とのことだった。党員でない国会議員もいるようで、2010年に日本の新幹線導入をベトナム政府が提案したら国会が否決したという話をしてくれた。高速鉄道化はその後在来線を整備して時速200キロ以下の準高速化を進めようとしているとのこと。

 

 ランビエンホテルに到着。マホガニー材かと思われるような部屋のドアや床でなかなかのホテル。1階にはスターバックスがある。夕食は少し離れたベトナム料理のレストランで。

 

 食事の前に同じ場所で中村梧郎氏の講演が行われた。映像が機器の関係でなかなか映らず、安形君や従業員らが奮闘して1時間後にようやく映るようになった。

 

 1939年の日独伊防共協定が締結され、1940年、フランスがナチスに降伏すると、インドシナでの指揮系統を失い、それを好機に日本がベトナムに進出した。そこからベトナム戦争を説き起こし、枯れ葉剤被害に及ぶ中村さんの話はきわめて傾聴に値するものだった。これからの一週間の旅の心得を与えてくれた。

 

 9時過ぎにホテルに戻ると、安形君がナイトマーケットを見てくると言い出した。私にはとても無理だったので、見送ることにした。一人で夜のハノイを歩くという安形君の心意気を感じた。1時間ほどして興奮冷めやらぬ顔つきで戻ってきた。毎週金土日の19時から24時まで、ホアンキエム湖の南端から北へハンザイ通りのほぼ1キロ区間の大通りが歩行者天国になり、路上一面に小さな椅子を持ち込んでそれぞれに飲み騒ぎする大変なマーケットのようだ。

 

 

 

 2日目(8月14日)

 

 朝食バイキングを取ったあと、「200万人餓死記念碑」を訪ねる。意外にも住宅が立て込んでいる地区の一角にあり、その直ぐ側にはアパート群が迫っていた。「日本占領下のベトナムでは4445年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の全国の人口の10分の1、北部の人口の4分の1にも相当する約200万人が餓死したとされます。」(しんぶん赤旗、2004128日付)

 

 原因は飢饉や日本軍による米の占有、連合国軍の爆撃で穀倉地帯との鉄道が途絶えがちだったことなどがあげられている。記念碑の前には今でもたくさんの花が添えられ、線香が炊かれている。

 

 昼食後、ハノイ西側近郊の枯れ葉剤被害者が暮らしているベトナム友好村を訪問した。

 

 正門前の表示板には「この村は、アメリカの退役軍人ジョージマイゾー(George Mizo)氏の提案のもとにヴェトナム、フランス、ドイツ、日本、アメリカの退役軍人、慈善家の援助で建設されました。この村は、平和、友好、和解の象徴です。」と書かれ、その脇には5カ国の旗が掲揚されていた。正面の建物を入ると立派な応接室があってそこに通された。

 

 ベトナム退役軍人で勤務先を定年退職したという所長から1時間ほどレクチャーを受けた。この施設はベトナム政府国防省の管轄となっており、退役軍人のなかで枯れ葉剤の被害を受けている子どもたちがここで治療と訓練を受けており、その点で他の類似施設と違うことや施設の概要について説明を受けた。質問は?というので、私がドイモイはこのような施設にとって有効なのかどうなのかと質問すると、ベトナムが豊かになったおかげでこの施設も恩恵を受けているとのことだった。

 

 別の棟では絵画、刺繍、裁縫等毎に教室が分かれ、それぞれに10名前後の子どもたちが職業訓練を受けていた。日本の支援団体から贈られたパソコン教室もある。一定の年令に達すると家族や仕事先へいくことになっているようだ。枯れ葉剤の被害を受けた人口は約400万人と推定され、遺伝のために40万人の子どもたちが現在被害に苦しんでおり、規模や性格を異にしながら全国で約400箇所の収容施設があるという。ツアーのメンバーが用意した日本からのおみやげを渡して友好村を辞した。

 

 西部地区に建設中の新しい地域(ASEANの会議場もそこにはあった)を眺めながら、昨日と同じランビエンホテルに戻った。少し離れたレストランで夕食を取った。

 

 食事中、たまたま席が隣だった中村氏と談笑しながら、私の研究に話題が移り、「普通教育」について紹介すると、中村氏は時には大きく笑いながら相槌を打ってくれた。

 

 

 

 3日目(8月15日)

 

 11階の部屋から出勤時間帯の十字路を眺める。オートバイの多さにはいつ見ても驚かされる。家族4人がけというのも珍しくはない。オートバイは移動交通手段というよりも運搬手段でもあり、地方から大きな荷物を運んで毎日商売にやってくる人たちなどが多いという。車も多い。信号もない交差点も多いのに歩行者も混ざり合って、どういうわけか不思議とクラクションもなく東西南北に波のように流れている。後で私たちもその中を車をよけながら歩いてみたがともかく歩くことが出来た。しかし、交通事故も多いと聞く。

 

 今日は南部の海に沿ったニャチャンへ移動する。ノイバイト空港から1時間45分でニャチャン・カムラン空港へ。ニャチャン市街への道路は丘陵地帯を切り開いた箇所が多く、土地の人々の小さな商店・住宅と外資系の住宅などが点々としている。ロシア人も保養地として多く利用しているという。カンホア省の省都で漁港と観光地、リゾート地として知られている。

 

 長い階段を上がってナガル塔を見物。9世紀以降に建設されたチャンパ寺院の一部。祠堂内部は見ることが出来なかったが女神ポー・ナガルを祀っている。その前では7人ほどの老女たちが敷物の上に座っていつまでも祈っていた。周りにはおみやげ屋がある。そこからはニャチャン川を眺めることが出来る。さまざまな船がぎっしりと停泊している。

 

 ダム中央市場を見物した。3階の市場内には電化商品、時計、置物、乾物、衣料品などさまざまな品物がところ狭しと並んでおり、建物周辺では独特な臭気を漂わせながら魚や肉を売っている。その中をやはりオートバイが走っている。店員たちが小さい椅子に座って食事しているところでネズミが追い払われることもなく這い回っているのを安形君が見たという。戦後まもなく、子どもの頃に見た光景と重なる。いささか気が滅入った。

 

 ニャチャンのロサカホテルに到着。周囲には高層ホテルなどが並んでいる。夕食は近くのベトナムレストラン。このレストランで、昨日私と中村氏が談笑していたのを聞いていたツアー一行が安形君から私のことを聞いたらしく「武田さん、普通教育の話聞かせて」という。一般の人からそのようなことを求められるというのは初めてのことだったが、それじゃぁということでしばし話をした。どのように受け止めてくれたかは分からないが、いろいろ質問も出て気持ちよく話を聞いてくれたことには感謝したい。

 

 

 

 4日目(8月16日)

 

 ツアー一行は 中村氏がオプションに加えた原発予定地を視察。私は健康を考えて予定通り一日休息日に当てた。一日中38℃。

 

 午前中は洗濯など雑事で過ごし、海辺に行く途中のリバティーセントラルというリゾート施設らしい建物の一階ビストロで昼食をとる。ビーチも歩いてみたがよくテレビで見る保養地と同様、大きなパラソルがずらっと並び、外国人が泳いだり肌を焼いたりしている。

 

 ホテルに戻るが空調が効いていない。暑さを感じながら夕方まで寝たり読み物をしたりして過ごす。あとで安形君が調べた所、ベランダに出ると自動的に空調がストップするという仕組みになっていた。入り口の空調盤のボタンを押すと動き出し、すぐ爽やかになる。惜しいことをした。

 

 夕食は昼と同じビストロで食べた。その階には螺旋階段があり、そこで10歳前後のほっそりしてかわいらしい少女2人がダンスをするように軽快に上がり降りをしていた。食事中ずっと何度も同じことを繰り返している。いかにも子どもらしく、若々しく、眺めていると、孫とも重なったせいか、何かしら目頭が熱くなった。ベトナムをこれから支えていく若いエネルギーを感じた。今度の旅行中、このような光景に出会ったことは大きな収穫だった。

 

 食事を終えて近くのAマートでサンダルを買い、鼻歌交じりでホテルに戻ると玄関先で安形が泣きそうな顔をして待っていた。一行と一緒に夕食をということで私を迎えに来たが、部屋にもどこには私の姿がなく携帯もつながらず焦っていたという。結局、夕食の打ち合わせが無かったために行き違いになったものだが、タクシーで来たチンさんとまた近くのレストランに戻っていった。

 

 さて、一行はどうだったのか。一行が戻ると口々に「武田さんは今日休んで正解でしたよ」という。38℃の中を二時間も海岸線を歩いて大変な目にあったという。一行はチャム族が住むバウチュック村を訪ね陶器などを見てきたという。そして原発予定地タイアン村へ。

 

 中村氏などからの情報によると、ベトナムの原発問題というのは次のようである。

 

 2000年代に入り、ロシア、中国、韓国、フランス、日本などの政府がベトナムに原子力発電所を売り込む動きをはじめ、第1原発はロシア企業が主導権を取り、続いて第2原発を日本が進める形で動き始めている。いずれもニントゥアン省。

 

 2010年頃から民主党の鳩山、菅首相らが相次いでベトナム政府と話し合いを続けている。予定地のタイアン村代表12名が日本に招かれ、原発メーカーから厚遇を受け、すっかり安全神話を吹き込まれ帰国している。201110月には、野田首相が原発建設計画の実施をベトナム首相と再確認している。なんと東日本大震災、福島原発事故の直後である。12月には自民党民主党の賛成多数で「ベトナム、ヨルダン、韓国、ロシアとの原子力協定」を国会で承認している。

 

 20125月にはハノイの研究者などベトナム人453名が原発輸入に反対する署名用紙を日本政府に送付したが、その直後、代表者の研究所が暴漢に襲われ威嚇され、またハノイ当局からも罰金が課せられたという。

 

 2011年度の政府輸出促進調査経費5億円はなんと東日本大震災復興経費が流用され、それが原子力産業復活に費やされたと言われている。

 

  原発予定地タイアン村には今のところその立て札すら立っていないという。ここはヌイチュア国立公園のなかにありアオウミガメの産卵地で農漁業、エビ養殖など多くの特産物がある。住民たちはわずか数キロしか離れていないところに移住させられるとのこと。

 

 2010年には新幹線計画がベトナム国会で否決されたと思ったら今度は原発。日本はなんという国なのか。ベトナムには原子力関係技術者が不足しているということで、日本政府や日本の関連企業はハノイ工科大学で講座を開設し、留学生も招聘している。授業料免除、奨学金支給、生活費も支給という特別の待遇であるが応募者は少ないという。

 

2015年着工という計画は2020年に延期された。

 

 

 

 5日目(8月17日)

 

 午前中は自由行動。安形君とホテルの窓から見える戦闘機が数機置いてあるのが見える場所を歩くことにした。その向こうには滑走路があり、元のニャチャン空港だという。現在は閉鎖している。5分ほどで近くへ行くと、空軍関係の施設のようで衛兵がいて中には入れない。どうもベトナム戦争中は解放戦線側が使っていたようだ。ソ連製らしい大小の戦闘機やヘリコプターなどが約10機、展示されていた。

 

 カムラン空港で昼食を取り空路約55分でホーチミン空港へ向かう。ホーチミン空港までは約300キロ。

 

 タンソンニャット国際空港に降りる。成田空港という名称と同じで、ホーチミン空港は東京国際空港に当たる。

 

 そのまま、市内のウインザーホテルに入る。なかなかのホテルのようで、フロントには日本人の女性スタッフが働いている。この春、日本の大学を出て直ぐここに赴任したという。いろんな人がいるものだ。

 

 夕食は22階にある屋上レストランで中国料理のいわばバイキング形式。大阪寝屋川からの矢倉夫婦とご一緒。大阪の話など楽しく談笑。他のメンバーは中村さんに連れられて市内のレストランで焼き肉料理。

 

 

 

 6日目(8月18日)

 

 4階のレストランでバイキング朝食。品数は豊富。

 

 ホテルでの精算等を済ませ、一行は戦争証跡博物館や統一会堂に向かう道路をほぼ真っ直ぐ北東に進みその途中のツーズー病院「平和村」を訪ねる。産婦人科の大規模病院でその一角に「平和村」があり、枯れ葉剤被害者の子どもたちを治療・養育している。

 

 応接室に通される。そこには主として日本の支援団体からの贈答品などが陳列されている2つのガラスケースがあり、また各国の交流団体との写真などが飾られている。また、ドク君の結婚写真なども展示されている。副院長などから1時間程度の丁寧な説明を受けた。病院だからハノイの友好村とは異なり、枯れ葉剤障害を持つ子どもたちが治療を受けている。

 

 子どもたちの居室を見て回る。なんとも大変な障害を背負っている。ホルマリン漬けの奇形児がズラーと並べられている部屋もあった。

 

 ベトナムが全土解放されて6年後の1981年、ベト・ドク君はY字型結合双生児として誕生した。枯れ葉剤との因果関係については議論もあるようだが、枯れ葉剤が大量に散布されたベトナム中部高原コントゥム省で生まれている。農業に従事していた母親は枯れ葉剤が撒かれた井戸の水の飲んでいたという。日本でも車いすを贈るなど大規模な支援活動が行われた。

 

 6歳になった1986年、兄のベト君が急性脳症を発症し、治療のために日本に緊急移送されたが、東京で手術が行われたが後遺症が残った。1988年、ベト君が意識不明の重体となり、このツーズー病院で分離手術が行われた。日本赤十字が支援し、ベトナム人医師70名、日本人医師4名の医師団が編成され、17時間に及ぶ手術が成功した。ベト君には左足、ドク君には右足が残された。日本からは義足が提供されている。ベト君は手術後も重い脳障害を抱え寝たきりの状態が続いた。

 

 ドク君は分離手術後、障害児学校から中学校に入学したが中退し、職業学校でコンピュータープログラミングを学び、現在ツーズー病院の事務員になっている。

 

 2006年、25歳のドク君は専門学校生のテュエンさんと結婚した。結婚後はベト君を引き取り夫婦で介護していたが、翌年、ベト君は腎不全と肺炎の併発で亡くなった。

 

 2009年、ドク夫妻に男女の双子が生まれ、富士山と桜にちなんだ名前がつけられた。

 

 ドク君は来日を重ね、東日本大震災で被災した障害者たちを訪問し交流している。

 

 35歳になるそのドク君が私たちに会いに来てくれた。なかなかしっかりした顔つきの青年である。改造したオートバイにも乗って庭を回ってくれた。一緒に写真におさまったり名刺を交換したりした。今回のベトナム旅行でも思いがけない貴重な経験になった。ドク君は日本人民の支援活動や善意の象徴のように感じられた。

 

 病院を辞し間もなく、あのベトナム僧侶が焼身自殺をしたアメリカ大使館前に差し掛かった。66歳のドック師は1963611日、ゴ・ジン・ジェム政権の仏教徒弾圧に抗議して一定の計画のもとにガソリンをかぶって焼身自殺を敢行した。敢然とし禅座のまま身動き一つせず絶命したという。広い立派な慰霊碑の前には多くの花が植えられている。当時の模様を描いたレリーフもある。それにしても痛ましい現実である。近くにそれ以前の小規模な慰霊碑もあり、大きい方は比較的新しいようだった。53年前の出来事であるが、当時、新聞で見た時の驚きとも重なってあらためて仏教徒たちのベトナム戦争、仏教弾圧への怒りが伝わってくる。

 

 私たちは他の日程を変更して統一会堂を見ることになった。その前に統一会堂の真向かいにある立派で大きなベトナムレストランで昼食をとった。解放前は政府関係者たちが利用したのだろうか。

 

 アオザイに身を包んだ美しい女性を安形君が妙に気に入って盛んに写真をとっていた。

 

 さて、昼食後は私にとっては待ちに待った統一会堂(旧大統領官邸)を見学した。その様子はプロローグで述べたからここでは省略したい。とにかく、当時30代を迎えたわれわれの世代にとって、戦車から北ベトナム軍の旗を大きく振りながら正門を突き破り、官邸に無血入場した1975430日の光景(フランス人女性記者が撮影したという)は忘れることが出来ない。

 

 いささか興奮した気持ちで、直ぐ近くの戦争証跡博物館を訪ねた。いよいよ中村梧郎氏の出番である。前庭にはアメリカ軍の戦闘機、ヘリコプター、戦車、大砲などが展示されている。

 

 博物館の正面左側の壁には、焼き払われたマングローブの中に裸の少年が一人で立っている中村梧郎氏の有名な写真が巨大な壁画になって埋め込まれている。2010年に設置された。これはすばらしいことで、76歳の中村氏にとっては人生最大の光栄であるに違いない。日本人にとっても名誉なことだ。計画した人々にもお礼を申し上げたい。

 

 博物館を一通り見学した後、3階の中村梧郎写真常設会場に入った。隣は石川文洋氏など日本の写真家の写真も掲げられている。幸いなことに隣の中村氏から話を聞きながら展示写真を見ることが出来た。

 

 博物館正面左側の壁画になった写真も展示されていた。そこに写っている裸のフン少年がその後後遺症を患いながら若者になった写真、結婚した時の写真、生まれた子どもと一緒の写真が並べられて掲示されている。その人はまもなく亡くなったとのこと。

 

 このように中村氏の写真は単に戦場場面の一瞬をとらえたものだけではなく、戦争の悲惨さを背負った人物に焦点をあて、その後の人生をたどるという理念のもとに写されたものが多い。そのために中村氏は被写体の人物のその後を追って、しばしばベトナムを訪ねているという。今でもその家族たちと交流があるという。そんなことを聞きながら写真を見ることが出来た。ベトナム旅行の最大の思い出になった。

 

 帰国して中村氏のホームページを見ながら、アメリカでも移動写真展が開催されており、アメリカ国民にも深い感銘を与えていることなどを知った。

 

 なぜ、この博物館に常設されることになったのかを中村氏に尋ねると、東京で行った写真展をある放送局が注目してベトナムでも開催したいということになり、そのベトナム展開催中にベトナム首相?が閲覧する機会があり、写真のもつ意味と影響力を自覚した首相がそこに居合わせた中村氏にこの写真を全部ベトナムに置いていってくれと懇願し言われるまま置いてきたところしばらくしてこういうことになった旨の話であった。

 

 ともかく最後のホーチミン市であったが、実り多い一日であった。

 

 私たちはそのままタンソンニェット空港に向かい、夜遅くの飛行機に乗り、ベトナムを後にした。機内で山田洋次監督の『家族はつらいよ』を楽しんだ。

 

  7日目(8月19日) エピローグ

 

 朝8時(日本時間)、成田空港到着。宅急便でスーツケースを送る。これはありがたいサービスだ。東京・丸の内の丸善オワゾで安形君と研究の話をしながら昼飯。安形君と東京駅で別れ、盛岡へ戻る。

 

 旅行中、あれこれの光景を見ながらドイモイのことを考えていた。ドイモイについての感想めいたことを最後に記してみたい。私の研究にも多少の関係がありそうだ。

 

 ドイモイは1986年にベトナム共産党大会で提起されたスローガンとされる。2段階式の社会主義への発展という基本理念のもとで、価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上という経済上の改革のようだが、社会思想面においても新方向への転換をめざすとされている。

 

 全体として経済危機からの脱却、社会経済の発展は肯定的に総括されているが30年後の今日、わが国でもその問題点や弊害などが広く知られている。日本の財界筋のあるレポートでは、経済面に関して「高成長よりも不均衡・非効率の解消が必要」と指摘されている。この状況をどのように解決するのか。

 

 日本の場合、高度経済成長に見られる負の側面を、正の側面を堅持したまま(つまり根本的原因の解明のよる政策転換をしないまま)、負の側面を言わば対症療法的に対応するというような政策に終止している。負の側面というのは正の側面内部の矛盾が顕在化したものだから、政策自身の根本的改革が求められる。ベトナムも同じような問題を抱えているに違いない。日本のような対応策に終わってほしくないと願わずにはいられない。

 

 私の関心事である教育や普通教育分野で言えば、ドイモイ以後ベトナム憲法は2回(1992年と2013年)改正されており、2013年の憲法改正ではそれまで規定されていた「普通教育」条項が削除されている。このこととドイモイ政策がどのように関係するかは現時点ではまったく分からないが、おそらく深い関係があるのだろう。

 

 一般にベトナムの最近の教育事情については市場原理のもとに多様な教育システムが導入されており、競争原理、能力主義が急速に広がっていると言われている。もしそうであるならば、すべの子どもを人間として育成するという普遍的理念を内在させている普通教育規定は障碍になってくる。

 

 わが国について言えば、戦後、日本国憲法が制定されたがそのなかで種々の議論の結果「普通教育」条項(憲法第26条第2項)が盛り込まれることになった。ところがその直後の1951年、政令改正諮問委員会がまとめた「教育制度の改革に関する答申」で「普通教育偏重是正」が基本方針として掲げられた。それを金科玉条にその後の自民党政権は「普通教育」を事実上死語化し、競争原理・能力主義路線で教育制度・政策を構築、推進している。このこととベトナムでの事態は関係ないとも言えるが、私には関係があるように見える。ベトナム教育でも競争原理・能力主義が主導的原理になっているようだ。そのような原理と普通教育は理念的には両立できない。

 

 今回の旅でも、ベトナム原発導入に反対する住民側の署名活動を処罰するベトナム政府の反民主主義的政策の一端を垣間見たが、複数政党制への移行、基本的人権にもとづく諸制度の民主主義的構築、教育制度の発展充実などと両立し得る経済社会の発展を願ってこの旅日記の結びとしたい。ともかく刺激の多い旅であった。