庵地 保の生涯と普通教育

 

         庵地保の生涯と普通教育

                                                                                                                    武田晃二

 1  少年時代

 

 庵地保は1853(嘉永6)年121日、沼津藩水野家の家中.儒臣の男として生まれた。少年時代はまさに歴史の大転換期であり、そのなかで彼は新時代の息吹きを素直にかつ積極的に吸い込んでいったと思われる。少年時代についてはよくわからないが、「長男夭折のため家督を継ぐ、明治維新に際して一家を挙げて上京」と記された文献もある

1869(明治2)年、後の海軍少将本山漸(千葉県士族)が主宰する明親館洋学局(?)に通っていたこと、16歳で開設したばかりの大学南校に入学したが学資が続かず中退しているようであること、などが知られている。その後海軍省に入り艦内教授役介をつとめている。

その後数年間の足跡は不明であるが、1877(明治10)年、24歳となった庵地は東京府職員8等属として任用され学務課に配属された。時あたかも文部省内において学制を廃止し教育令原案を起草する委員会が設置されようとしているときであった。しばらくはこの間における普通教育論の展開を追うことにしたい。

 

2  はじめに「普通教育」ありき

 

 「普通教育」という言葉はすでにこの頃から用いられていた。前島密は1867(慶応31月、将軍徳川慶喜に宛てて「漢字御廃止之譲」を提出したが、その中で「普通育」「普通教育の法」「普通一般の教育」「一般普通の教育」という言葉があたかもキーワードのように用いられている。「普通教育」は「国人の知識を開導し精神を発達し道理芸術百般に於ける初歩の門にして国家富強の礎地」となるものであり、「少年の時間こそ事物の道理を講明する好時節」であるにもかかわらず、この時期を無益な古学漢字のために少年の「精神知識を鈍挫せしむる事返すがえすも悲痛の至り」と訴えている。

同じ頃、福沢論吉も「常教」「コンモン・エジュケーシヨン」という言葉を用いながら西欧の普通教育について紹介している。庵地も福沢の影響を受けている

 また、1869(明治2)に出版された小幡甚三の『西洋学校軌範』は「(教育とは)各人固有スル所ノ良知良能ヲ発達シ天理ト人道ニ従テ其行事ヲ静斎セシムル」ことであるとして内容的に普通教育の思想を紹介している。

 

3  普通学

                                                            当時、「普通学」という言葉も用いられていた。政府は1869(明治3)年、「中小学規則」を出すが、それによれば大学における「専門学」のための基礎となる学問としての「普通学」は中学小学での教育内容であった。

 ところが、民衆のための初等教育機関としての小学校あるいは中学校が設置されてくるにともない、そこでの教育内容についても「普通学」という言葉がしばしば用いられた。

 1872(明治5)年に制定された「学制」では小学校は「教育ノ初級」、中学校は「普通ノ学科」をそれぞれ教育目的としたが、小学校の教育内容は「普通学」という言葉でうけとめられいる。「学制」実施を実質的にリードしたとされる中督学西潟訥は18733(明治6)の「説諭十一則」の第一則を「人皆小学ノ教育ヲ受ヘキ事」と題し、「小学ノ教育」を「普通学ト称スル」としている。ここで「普通学」とは「人ノ人タル知識ヲ具へ人ノ人タル務ヲ成ニ至ル迄ノ業」であり、「貧富尊卑ノ別ナク」受けるべきものとされた。

    

4  行政用語としての「普通教育」の登場

 文部省が発行する『文部省雑誌』は主として欧米の教育事情を紹介するものであるが、明治8年の時点で「普通教育」という言葉が「学術ノ教育」と対比されてしばしば用いられている。また、『文部省第二年報』は明治7年の府県学事報告を載せているが、そこでも「普通教育」という言葉が用いられている。

 「普通教育」という言葉が行政用語として用いられるのは1875(明治8)年11月の太政官達「文部省事務章程」が最初と思われるが、そこには「卿ノ意見ヲ具シ上奏裁可ヲ経テ然ル後施行」すべき10項目の1項目として「普通教育須要ノ学科ヲ改正スル事」がふくまれていた。

 

5   「学制」理念の転換換                                                                                                              

 

 1872年の「学制」は「貧富尊卑ノ別ナク」という理念のもとに全国に53,760の小学校を設置するという大規模な計画を実現しようとするものであったが、この具体化をめぐって文部省とくに督学局内部に矛盾が生じ、さらに大久保らによる行政改革のために「学制」構想は破綻を余儀なくされていた。

 地が学務課に配属された1877年、一方では「学制」改正にのりだした文部省では西村茂樹や九鬼隆一大書記官等が「普通教育ノ病」などを指摘しながら「学制」改正の必要性を論じた。なお、九鬼隆一大書記官は彼の報告のなかで「(普通)教育」の目的について「心性発達ノ自然ニー致シ其発達ノ順序ヲ察シテ知識ヲ給スルコト」と述べていることは注目に値する。

 

6   「普通教育法」の提唱                                                                                          

 

 山田行元は「強迫就学法ノ論」(1877年)の中で、「強迫就学法」という呼称を「普通教育法」改めるべきであると主張し、その早急な施行を政府に要求している。

 山田は、イ)子どもを教育するのは「父母天然ノ義務」である、ロ)子どもは父母にその義務を果たすことを求める力はまだないが、それを求める権利はある、)父母がこの「重キ義務」を怠ったり子どもの将来に顧慮しない場合は「人民ノ保護ヲ以テ任セル政府」はこれを「黙視」する道理はない、ニ)そのような子どものために政府は子どもの「天賦ノ能力ヲ鼓舞シ其ノ生涯ノ幸福ヲ保全セシムへキノー種ノ方法」を採用せざるをえない、ホ)したがって父母に対して「就学ヲ督責スルハ政府固有ノ職分」であり、それが「強迫就学」のゆえんである、へ)禁獄罰金も「強迫就学法」の本来の意味に由来するのであり、むしろ「慈愛ノ意」と理解するのが本当である、ト)「強迫就学法」といってもそれは「政府決シテ其ノ権力ヲ恃ミ強ヒテ下民ニ迫リコレヲ抑制スル」ものなのではない、チ)人々は「強迫」という言葉からその本来の意義を誤解してしまうので、「普通教育法」と称することも可能なのである、と述べている。

 山田の見解は、政府.文部省は人民の保護者であるという立場から、人民に向かって強強迫就学法の本質を「通教育法」として理解せよと迫るものであったが、普通教育の性格や内容に対する探究の希薄さ、政府文部省に対する幻想に近い美化、民衆の父母に対する不信等を前提とした普通教育論の主張であるといえよう。ただ、普通教育を受けることは子どもの固有の権利であること、普通教育を保障するのは政府の責任であることなど、普通教育論の重要な論点がふくまれていることを指摘しておく必要がある。

 

7  植木枝盛の「普通教育論」

 

 植木枝盛は「普通教育論」(1877年)において、「一般普通ノ教育」あるいは「一般普通ノ学科」という言葉を用いながら「普通教育」論を展開している。

 植木枝盛は「文明開化」を進める立場から、「学制」において小学校の目的とされる「教育ノ初級」を「一般普 通ノ科」ととらえ直したうえで、それが「強促就学法」とな ることを是認している。「強促シテ教育ヲ受ケシムル ハ圧制ノ法ニシテ人ノ自由ヲ害スルモノニ似タリト雖モ亦決シテ然ラサルナリ」なぜならば、イ)「一般普通ノ教育」は「人ノ目的タル自由幸福」を増大させるものであるから、「圧制」ではなくむしろ「保護」というべきである、ロ)「一般普通ノ教育」を受けなければ「多ク屡々罪悪ヲ為シテ社会ノ害ヲ為スコト明力」である、というものであった。ここから「社会ハ如何様強促シテナリトモ人民ヲシテ其一般普通ノ学科ヲ学ハシメサルへカラサル也コレ其強促就学法ノ圧制暴虐ニ非ラズシテ保護ノ職分タルト云フ所以也」と明言する。ここには前述した山田行元の見解と共通するものが見られるが、山田が「政府」としているところを植木は「社会」としていることに注意したい。政府が強迫するのではなく、社会が強促するのである。

 なお、植木は翻訳教育書によりながらも、a)人間は「薄弱」なる存在であるから、放任しておけば「知識、健康、道徳、富有皆善ク開発長進」することができない、b)人間の性質は「研磨シ習錬セシムレハ其本質ヲ開発伸展」させることができる、c)人間は「五官ニ由リ他力ヲ以テ外事外物ヲ其内心ニ伝通シ而シテ其心ノ能力ヲ誘導シ之ヲ活動セシメテ之ヲ開発進達」させることができる、という認識をこの論稿の冒頭部分で紹介している。

 

8  下村松造「我邦普通教育ノ現状ハ慶スヘキ乎」

 

 下村松造は、1878(明治11)年131日付「東京日々新聞」に、「我邦普通教育ノ現状慶スヘキ乎」を投稿している。当時の文部省と基本的には同じ立場から「普通教育」を論じている。文部省は早速これを『教育雑誌』に全文再録している。

 下村は、最初に「普通教育」を実施するのは「政府ノ義務」なのか、それとも「国民ノ職分」なのかと自問し、「教育」が「天賦ノ才性ヲ暢発シ智能ヲ研磨スルノ要具」である以上、それは「国民各自ノ職分タルコト明力」であると述べている。ところが、「人智」「才能」がまだ開花していない現状では「国権」「国力」がまだ確立しえず、「人間ノ交際」「同類ノ平安」を実現することができない、ということを理由に、一転して「教育施行ノ権」は「政府」に帰し、政府が「一国ノ学制ヲ綜理」すべきであると主張している。下村によれば、政府が文部省を設置し「学制」を制定したのはそのような理念にもとづくものであった。この結果「普通教育」は面目を一新したが、現時点で厳密な総括が必要であるというのである。

 下村の主張は、イ.「学制」の当初の理念は文部省のもとに督学局を置き、督学が地方を監督指導したが、明治7年以後は督学局の権限を縮小し、多くの権限を地方官に委譲した、ロ.その結果、地方官は「文部省ノ主義ヲ拡充」し、「自己ノ独決」によることが多くなったために地方人民の実情に即しない弊害が生じている、ハ.その最たるものは「一定ノ教則」の強行にある、ニ.本来「各地各人ノ状態」は「千差万別」なのであるから、「貧富ノ別」に応じた「普通教育」を実施すべきである、というものであった。

 これは西村.九鬼らの見解とほとんど同様であるが、「普通教育」を実施する権限、あるいは「教育施行ノ権利」について理念上は「国民各自ノ職分」であることを明確に述ベていることは注意しておきたい。

 

9   この時点での継承すべき論点

 

 この時期を前後して政府内外で展開された普通教育論には、さまざまな歴史的階級的特質を帯びていたとはいえ、今日においても継承すべき重要な論点も胚胎していた。それらを列挙しておきたい。

⑴人間的諸能力全体の成長発達の過程には一定の法則があり、普通教育はそれに即したものでなければならない。

(2)独立、平安、幸福、文明、自由、人間性、参政権、生産力等の問題とむすびついる。

(3)「人トシテノ務」、品位、政治的判断力、自治自立などの目標とむすびいてい

(4)普通教育を受けることは子どもの権利であり、それを保障することは父母の義務である。

(5)普通教育は社会的共同の事業であり、政府の責任は重要であるがそれはあくまでも補完的であり、国民の必要に応えるべきものでなければならない。そのためには普通教育とは何かについて人民のなかに広める必要がある。

(6)全体として普通教育の修業年限は十二年と考えられていた。

(7)専門教育との関係においても論じられているが本質的には普通教育自体が自己目的的に追求された。

(8)義務制、男女共学制、無償制の問題は普通教育と本質的にはむすびついているが、それらはその時々の諸条件によって制約される。

                        

10    「大失誤」                                                                                              1878(明治11)年11月に太政官の小泉信吉中上川彦次郎は「御巡幸沿道諸縣学事報告書」を大隈参議に提出した。

   それによれば従来の「大学一中学一小学」という体系は「大失誤」である、小学校を卒業して「各自ノ産業ニ就ク者」が多いのにそこでの教育内容は中学校へ進む者のために編成されている、そのため「小学生徒ノタメニハ其便実ニ堪エ難キモノとなっている、というのである。したがって、「大中小学ヲ区別シテ各自独立ノモノ」とし、「大中小学トモ各別ニ固有ノ性質ヲ具エ」、それぞれで「全備ノ教育ヲ授ル」ことができるようにすべきである、その場合小学校

は「下等ノ農工商等力日常缺ク可ラサル通俗ノ識芸」を、中学校は「中等社会ノ人民ニ必要ナ識芸」を、大学は「学士又ハ重職ノ官吏等最上ノ知識ヲ要スル者ノミヲ教授スルノ場所」にすべきである、と提言している。また、徴兵制度にも言及し、「体操」の重要性を強調している。

  ここには「普通教育」についての自覚あるいは小学校と中学校との接続性についての直接的言及はないが、経済的かつ政治軍事的見地から国家の教育課題が率直に表明されている。後の森有礼の構想を想起させる。

                                                                                                                                     

11 「普通教育」の法令用語化

 

   教育令は1879(明治12)年9月に制定された。第3条は「小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所」とされ、第1416条に「普通教育」という言葉が用いられた。この段階で「普通教育」という言葉が初めて法令用語となった。なお、文部省原案では「小学ハ人間普通闕ク可ラサルノ学科ヲ児童ニ教フル所」とされていた。

  教育令はイ)「貧富ノ別」を「斟酌折衷」し、貧富に応じた普通教育のあり方を確立する、その限りにおいて貧民大衆のための教育は旧来の寺子屋塾を主体とする「私学」にゆだねる、ロ)普通教育を普遍的な人間的諸能力の発達を保障するものとしてではなく、「人間普通闕ク可ラサルノ学科」として位置づける、というものであった。「一定ノ教則」という枠が緩められることになったことから現実には各地にさまざまな混乱も生じた。「自由教育令」と称される所以である。

 

12  普通教育ノ衰ノ挽回

 

   一方、これらの混乱を背景に一元的な国家主義的イデオロギーの注入を焦眉の課題とする皇勢力の巻き返し作戦が展開された。1880(明治13)年2月、政府は文部卿を寺島宗則から河野敏鎌に代え、つづいて田中文部大輔を司法卿に移した。また、6月には読書.習字.算術.地理.歴史.修身の6科およびその兼学をもって「普通教育ノ正格」、「普通教育就学」とみなし、変則を認めないこととした。これによって普通教育の内容に対する国家統制を強化するとともに、普通教育機関としての「私学」は否定されることになった。また、教育行政における中央集権化と道徳教育強化が具体化されていった。

   1880(明治13)年124日、文部省は教育令改正案とともに「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」を上申した。この譲は、イ)「普通教育」が「衰類」したのは「学制ノ主義」に原因があったのではなく、その「施行」にあたって「放任ス可ラザルモノヲ併セテ放任」したこと、すなわち「干渉ノ過度」に問題があったのではなく、「干渉ノ途轍」に誤りがあった、ロ)すなわち、「干渉」は「学校ノ設立費用ノ募集等専ラ外部ノ事」に限定され、「授業ノ得失ヲ考へ、費途ノ緩急ヲ察スルガ如キ内部ノ事」を「放任」してしまったことによる、)「普通教育ハ、国民ノ品位ヲ上下スル力」を有するものであり、「国運ニ関スル最大ナル」ものであるのだから、「普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務トセザル」をえない、ニ)したがって、「普通教育ノ衰退ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属スルヲ以テ、今回ノ改正ハ、専ラ小学ニ係ルノ事ヲ主トシテ、其他ニ及バズ」、というものであった。

 普通教育を国家がどのように掌握するか、その普通教育をどのようなものとして位置づけるか、これは太政官政府にとって重要な政治課題であった。

   改正された教育令は、イ)学期を年32週日以上3ヶ年以上8ヶ年以下とし、1日の授業時間も明確にし、 就学内容を継続した密度の高いものとする、ロ)地方官の権限を強化する、ハ)教員の資質条項を付加する、ニ)補助金を廃止する、ホ)農学校、商業学校、職工学校を学校の種類に組み入れる、などであったが、もっとも重要な転換は最下位教科であった修身を首位教科とすることであった。それは元老院審議終了後に天皇側から押し込まれたものである。

 

13  呉越同舟

 

  教育令改正は緊迫した政争のなかで展開された。島田三郎権大書記官は自由民権派のリーダーでもあった。文部省内には少なくない民権派メンバーも所属していた。島田は文部省主流派とは異なる独自の普通教育論を公言していたが、普通教育にとって政府の干渉が必要であるという一点において主流派とともに教育令改正を推進した。しかしながら正後のいわゆる「明治14年の政変」を契機に自由民権派は文部省から放逐されることになった。島田もまた文部省を去ることになった。

 島田の普通教育論の骨子は次のとおりである。「教育ノ事タル其区域至大至広」であるが、「普通教育」は「専門学」を教授したり、「高尚ノ学士」を養成するものでもない、「普通教育ノ性質」は「普ク生活道徳智識ノ三者シテ全国ニ普及セシメル」ことである、「普通教育」は「人生日常欠ク可サルノ智識ヲ養育」し、「人民ヲシテ通常ノ智識ヲ有セシメ社会ノ程度ニ相応スル人タラシムル」ものである、「父兄」「父母」の子弟の「養育」「教育」に対する関係は第一義的であり、義務的である。またその「義務」は「天下国家」に対する義務でもある、「普通教育ハ自治自立ノ人タルニ欠クへカラサルモノ」である、「政府ノ職掌」は単に「人民ノ害ヲ防グ」だけではなく「公利公益ニ関スルコト」にも積極的に関与していくべきである、普通教育=干渉教育の「施行ノ方法処置ノ計画ハ十分研究」し、いたずらに学校を設置し「民費」を重くすることのないようにしなければならない。また、ともすれば専門的でアンバランスになりがちな教則教育方法については「人生日用不可欠ノ学科ヲ教授」するという普通教育の「本主」を貫徹しなければならない、などと述べている。

 

14  庵地保『民間教育論』

 

   庵地保の主著『民間教育論』はまさにこのような状況のなかで出版された。1877(明治10)年、庵地は東京府職員8等属として任用され学務課に配属された。若き庵地は配属されたばかりの学務課にありながら、国家や政府と普通教育との関係についての独自の立場を探求していた。教育令が改正される直前の1223日付で本書は出版された。27歳の時である。本書はその冒頭に「此編ヤ専ハラ普通教育ノ要領」を述べたものであると記しているように、「普通教育論」を展開したものであり、わが国で最初のまとまった普通教育論として注目されてきた。

 学校設立は大いに進歩しているが、鎮守の祭礼には財を投じても教育には金を出さないというように、学校維持費の父兄負担の状況を考えれば普通教育は未だ進歩とは言えない状況にある。文明開花の中心たる東京府においてすらそうなのであるから、地方ではなおさらのことである。「是レ皆教育論ノ民間ニ勢力ヲ得サルノ致ス所」であるから普通教育の重要性を民間に訴えていかなければならない、というのである。

  本書は総論一、総論二、知恵教育の事、行教育の事、養生教育の事、の5章からなっている。やや詳しく紹介してみたい。(1)教育は「格段ナル教育」と「一般ナル教育」に区別される。前者は医師なり法律家なりになろうとする「一部ノ人」が「特ニ受クヘキ」「一科専門ノ教育」であり、後者は職業渡世にかかわりなく、「一般ノ人」が「普ネク受クヘキモノ」であり、これは「尋常普通教育」である。

 「一般ナル教育」すなわち「尋常普通教育」は「一人ニ対スルモノ」と「公衆ニ対スルモノ」に分けられ、「一個人ニ対スルノ教育」と「一国公社ニ対スルノ教育」がそれぞれに対応する。

 庵地によれば「一個人ニ対スルノ教育」は「父母若シクハ父母ニ代ハルヘキ者ガ其力が「敏捷ナル時」を基準にして、第一期視覚力、第二期分解力、第三期推理力に区分することができる。

  「視覚力」とは「外物ヲ認知スルノ能力」であり、「常ニ五官ヲ使用シテ体外ノ物象ヲ心裡ニ伝へ思想ヲ発起セシムル」能力であり、子どもはこの能力によって「認知スル所ノ物体ヲ明ニ弁知」することができる。またこの能力に「属シテ発達スル所ノ能力」に「知力」がある。この能力は「視覚ノ働キニ依テ心裡ニ伝へタル物象ヲ確知シテ之ヲ貯へ他日復タ自由ニ之ヲ使用シ之ヲ発言スル」力である。この「弁知力」が発達すると、「視覚力」によってはとらえることのできない「事物」を「推知」することができるようにる。このようにして子どもは「知識ヲ得ント欲シテ止マス又其既ニ認知セル知識ヲ人ニ伝ヘン力為ニハ言語又ハ他ニ其思想ヲ伝フルノ道」を習得するというのである。

  「分解力」とは「視覚力」によって獲得した「知識ヲー々分析解剖シテ其秩序ヲ整頓スル」能力であると同時に「視覚力ニ依ラスシテ開陳スヘキ新様ノ思想ヲ発スル」能力でもある。子どもはこの能力によって「其知識ヲ増進」していくのである。

 「推理力」とは「事物ノ道理法則ヲ知ル能力」であり、この能力は「万物ノ系統ラ分」け、「既ニ認知シタル物象ノ原因ヲ求メ及ヒ其結果ヲ推測スル」とされる。また、この能力が現われるのは「人智」発達の最後の段階であるとされる。

  ここには素朴ながら子どもの知的能力の発達に関する唯物論的理解が示されているといえよう。庵地はこのような「発達ノ順序」が「自然ノ法則」であるとして、教育法教授法はこの「自然ノ法則」に立脚するべきであると力説している。

  庵地はこのような見地に立って、「民間教育ノ大勢」がそのような方向に向かっていないことを指摘し、特に「学校用書」の改善を訴えている。つまり地理書や究理書・歴史書などは「人智発達ノ順序」にしたがって編集されておらず、また「西洋ノ事情ニ明力ニシテ或ハ日本ノ事態ニハ暗キモノアリ」と述べている。

  道徳教育について、庵地は「孔孟教外ニ出テサルモノナリ」という時代的枠組を共しつつも「中庸」に言う天命、道、教のそれぞれについて「人智発達ノ順次」「自然ノ法則」の見地から解明しようとしている。

  天命とは「良心」のことであり、それは「身ヲ愛シ人ヲ敬シ」、「国ヲ愛シ天ヲ敬スル等ノ如キ本善ノ性」であり、道とは「良心ノ法則」のことであり、「人間ノ行為ラシテ此良心ノ法則ニ卒ハシムルモノ」が教であり、この教こそが行状教育にほかならないとされる。

 「良心ノ働キ」は「人智発達ノ第二期」すなわち「分解力」が発達する時期に発生する「無形ノ思想ニ属シ始メテ発動スルモノ」であるから、それがまだ十分発達していない小児の段階にあっては、たとえ「残酷ノ所業ヲ為スコト」が往々あったとしても「自ラ悔悟」することが出来ないのだから、父母教師は「手製ノ法」をもって「呵責」し、子どもをいたずらに「良心ノ法則」に従わせようとしても無意味である。「自然ニ良心ノ発達ヲ賛助スル」ことによって、子どもが「自ラ悔悟」するように仕向けなければならない。

 いたずらをして衣服を汚したときは子どもに洗濯をさせるべきである。洗濯の「困苦」を通じて「反省悔悟」の気持が生じるのだから、「此時ニ際シテ丁寧ニ自然ノ法則ニテ斯々アルへキコトヲ教訓スヘシ」。

 庵地はさらに言う、「善行ヲ為セハ愉快ヲ覚へ悪行ヲ為セハ不愉快ヲ感スル」。これも「良心ノ法則」であるとする。

 最後に庵地は「行状教育」において、特に「大切ナル注意ヲ要スルコト」は「父母教師ノ行為」であって、どんなに「巧ミニ教訓ヲ施」したとしても、「自然ノ法則」に留意しなければ「効ヲ見ルコト能ハサルナリ」と結んでいる。

 良心というものが客観的に存在するものであること、しかしそれは人間成長のなかで発達するものであること、快を求め不快を避ける行為自体人間にあっては道徳的行為であり、その行為を通じて善悪の判断基準が獲得されていくということ、子どもは道徳的判断力を自主的主体的に獲得しようとするものであること、道徳律を主観的.強制的かつ言語主義的に注入しても無意味であること、道徳的判断の発達のためには子どもと「父母教師」という社会的関係が不可欠であり、したがって人格形成を通じて道徳的判断力が発達するものであること、などの理解が素朴ではあれ表明されているといえよう。

 さらに、明治維新という変革期にあって「一人ノ幸福トー国ノ安寧」を願う庵地の立場から、「退取」ではなく「進取」の養生教育の必要が説かれる。しかし、精神と身体との関係はあくまでも通俗的理解にとどまっており、知恵、行状教育論に比して精彩を欠いている。「小児ノ頃ヨリシテ身体諸般ノ能力能ク外物ノ力ニ抗敵スルノ習慣ヲ為セハ」「支体五官」ノ「功用」を「逞ウスルモノ」であるから、「文明」に依存する生活が多くなればなるほど日頃から身体健康の習慣を獲得しておくことが重要であると述べるにとどまっている。

 

15  普通教育を受けるのは子どもの権利

  

  赤松常次郎は教育令制定前後、『教育新誌』に「読東京曙新聞教育上ノ巷説」と題す論説を「真正ノ自由主義ヲ主張セントスル」立場から4回にわたって連載している。赤松はしかし、「教育ノ事」は「一般ノ自由主義ヲ以テ論説スべキ範囲外」であり、「最モ政府ノ干渉ヲ要トスル」と述べ、「政府ガ教育ニ干渉スべキ理由」を6点にわたって説明するとともに、普通教育についても積極的に論じている。

 1に、「不良ノ教育」を放置したために「不良ノ子弟」を養成することになれば、「国家ノ衰顔」を招くとい前提のうえで、「人ノ子女タルモノ普通ノ教育ヲ受ケンコトヲ要求スルハ其固有ノ権理」であり、「普通ノ教育」を与える「義務ヲ負担スべキモノハ父母ニ非ズシテ誰ゾヤ」と原則論を述べる。一般に父母は子弟を自分の財産・奴隸とみるか、放任過保護のままにして「子女ノ権理ヲ犯シ」ている。「良民ヲ保護スル所ノモノハ独リ政府ノ職務」であるならば、「子女ヲ保護スルモ亦政府ノ職務」であるというのである。

  2に、「社会ノ景況」が先行して後から「人智ノ進度」が追いつくというのはそ逆の場合よりも困難な課題である、「最良ノ教育法」を準備する上で政府は教育に干渉するべきである。

  3に、「罪悪ト犯罪ノ関係親密」であり、罪悪の原因は無学文盲であるから、「罪悪ヲ防ギ社会ノ安寧ヲ保護ル」のは「政府ノ職務」である、政府は罪悪に先んじて教育を普及すべきである。

 第4に、「国会ノ設立」にあたっては「財産ノ制限」は平等であるべき参政権すなわち「普通選挙法」にとって障害である、しかし「無学無識」のままでは「無数ノ弊害」が生ずるから政府の職務によって「教育ヲ普ク」しなければならない。

  5に、国会開設に当たって「公衆ノ真意」に則した「真正ナル公議輿論」が形成されなければならない、そのための「良法」は「政府ヲシテ普通教育ニ干渉セシメ」ることである。

  6に、「国モ亦分子即人民ノ集合」であるから「善良ノ民ヲ養成スルコトハ政府ヲシテ良教育ヲ普及セシムルニ非ザルヨリハ決シテソモ其目的ヲ達スルコト能ハザルべシ」。さらに「国ヲ強クスルモ亦教育ヲ普クスルニ如クモノハ無シト断言スルコトヲ得べシ」とさえ述べている。

 赤松の「普通教育」論はすでに述べた山田や植木のそれと本質において同様である。父母が子女を財産や奴隸のように見るのは身分社会階級社会のもとで家族が私的所有の基礎単位とされていることに由来するものであり、父母の児童観はそのような支配的社会意識の反映である。政府文部省が父母に代わって子女を保護するとする認識は客観的には政府文部省に対する幻想であり、明治初期の産物であろう。罪悪と普通教育との関係についても貧困、社会不安の経済的政治的原因とその解決の道が探究されず、教育による社会不安の除去が重視されている。

 赤松の場合は普通教育を国会開設請願問題と結びつけて論じている。

  なお、赤松はこの論説の中で、教育を分類して普通教育、中等教育、高等教育すなわち専門教育に分けている。

 普通教育は中等教育以下ということではなく、中等教育とは別系統で普通教育が考えられていたと推察される。とはいえ、赤松の場合、「普通教育」はその本質的な意義が追求されず、「教育ヲ普クスル」という意味で用いられていることは注意しておきたい。

 

16  普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル

 

  1881(明治14)年10月の政変に先だって、文部省は、修身の強化、小学校教則綱領、小学校教員心得の通達など次第に教育内容教育制度にたいする国家統制を強めている。とくに小学校教員心得においては「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル」と記されているように、政府・文部省は「尊王愛国」の立場からもっぱら「普通教育」という用語を用いていた。当時はまだ「国民教育」という言葉は政府内外においても一般的にも用いられていなかった。

                                                                                                                   17  庵地「科学的ノ思想ヲ説キ併セテ其発達ヲ論ス」

 

 1882(明治15)年、庵地は東京教育会と東京教育協会とが合併して設立された東京教育学会の機関誌『東京教育学会雑誌』の第5号に「科学的ノ思想ヲ説キ併セテ其発達ヲ論ス」という論説を載せている。

 科学とは「実事乃其関係ヲ定法ニ依テ整理シタルモノ」であるが、我が国について言えば宗教.道徳政治等についての思想はともかくとして、科学についての思想はまったく欠如してきた。近年、学校において科学教育も十分発達して大発明を期待することも夢ではなくなったとはいえ、「日本ノ事実」に相応しく科学を発達させることができるかどうかが問題である。「科学的ノ思想」が「知見ノ広狭ニ因テ脳裡ニ反射シタル事物ノ念慮」である以上、「科学的ノ思想」を「発達」させる「順序方法」も「知見ノ広狭」に依存せざるをえない。したがって、普通教育にあっても「適度ノ実事ヲ取テ之ヲ科学ノ定法ニ応用シ十分ノ念慮ヲ惹起セシメ遂ニ其習得シタル所ノ科学ヲ以テ日本第一流ノモノトナサンコトヲ余輩ノ切ニ願フ所ナリ」と述べている。後に見るように、庵地は「事物集散の理」という言葉を用いながら、社会現象にも法則性があるのであってそれを探求するためにも「経験ト交換」することが重要であると述べているが、自然や社会を科学的に考察しようとする姿勢は庵地の生涯を貫いていると言えよう。

 

18  普通教育の修業年限は12

 

 1882(明治15)年11月、文部省は全国の府県学務課長、府県立学校長等を召集し、約1ヶ月という長期にわたって学事諮問会を開催した。庵地も東京府からの出席者5名の1人として出席している。124日にはいわゆる「文部省示論」が出された。そは大部なものであるが、特に注目されることは、第1に「普通教育ノ年限ハ小中学ヲ通シテ率ネ十二年トス」と述べていること、第2に「専門ノ学校ト普通ノ学校トノ関係ヲ察シテ彼此相連絡スルノ道ヲ疎通シ以テ斯教育ノ実効ヲ表スルハ実ニ当今ノ緊務」と述べていることである。少数の少年にかぎられるとはいえ「国民ノ品位」を保持する上で12年制の普通教育を文部省は確保するということを明確にしたものであった。「国民ノ品位」を獲得するためには「12年」が必要であると認識されていたことに注目しておきたい。小学校の就学義務が未だ3割にも至らない時期に12年の普通教育を主張するというのは決して驚くことではないのであって、普通教育と義務教育とは今日ほどには同義化されていなかった

 

 

 

19  交流か補翼か

 

 1883(明治16年)7月には東京府教育談会が、9月には大日本教育会が相次いで発足した。

  東京府教育談会の規約は見ていないがいくつかの支会の規約を見るとその目的は「普通教育の改良進歩」とされている。一時期庵地も副会長をつとめるなど積極的に関与していた。

 大日本教育会の発足にあたっても庵地は重要な役割を果たしている。庵地は「大日本教育会誌」第1冊に大日本教育会の発足にいたる経過と大日本教育会に対する期待を書いている。(「第二期ノ教育会」)。

  庵地にとって教育会とは「演説ニ討論ニ雑誌ニ文書ノ往復ニカノ及ハン限リハ諮詢交通ノ道ヲ開」く機会を提供する場所であり、そこでは「進取活発規則ノ範囲内ニ於テ許ス限リハ討論モ勝手タルへク演説モ自由」であるべきであった。自由な研究交流こそは「科学的思想」の源であるとして庵地がもっとも強く求めていたものである。

  しかしながら、全体として教育会はそのような期待に応えるものではなかった。その第1回開会における辻新次副会長(文部省普通学務課長)の祝辞では大日本教育会は「政府ノ学政」を「翼賛」もしくは「補翼」することが期待されていた。大日本教育会はその後森文部大臣からの要請などを受けて文部行政への翼賛的性格を急速に強めていく。

   

20  普通教育の範囲

 

  1882(明治15)年11月、文部省は機構改革をおこない、これまでの地方学務局官立学務局体制を普通学務局専門学務局体制に転換した。普通学務局は「普通教育ニ係ル事務ヲ掌理」するものとされ、幼稚園小学校・中学校のほかに「普通ノ師範学校」、「普通ノ各種学校」が統轄対象とされた。専門学務局は「高等教育及特殊教育ニ係ルー切ノ事務ヲ掌理」するものとされ、大学校専門学校農学校商業学校.工学校のほかに「高等ノ師範学校」「各種学校」がふくまれた。この場合、普通教育と専門教育との関係は「領域」において区別されているのであって、専門教育の基礎として普通教育という関係が一義的に位置づけられていたわけではなかった。

  なお、師範学校が両局にまたがっているが、師範学校の学校制度上の位置づけはその後も問われていくことになる。

  大日本教育会の目的は規約上「教育ノ改良普及」とするものであったが、そこでの「教育」とは「普通教育」のこととされた。例えば、少書記官伊沢修二(前年『教育学』を刊行)は前述の第1回開会での演説のなかで規約第1条にいう「教育」の意味について、その「区域ハ中学校以下ニ施ス所ノ普通教育ニ限ル」(「大日本教育会雑誌」第1号)と述ベている。

  政府.文部省は中学校まで含めた修業年限12年の学校教育をトータルに「普通教育」とすることを基本理念としていたが、普通教育とはなにかをめぐって小学校と中学校の関係、中学校の性格などはさまざまに論議され、制度的にも複雑な変遷をたどることになる。普通教育機関を小学校に限定して小学校の修業年限を12年まで延長させて行くべきであるとする議論、中学校を普通教育的性格を有する部分と専門教育の基礎教育的性格を有する部分に分化させ小学校と中学校の一部を通じて12年の普通教育を構想する議論などが交錯した。

  ここで、「高等普通教育」「中等普通教育」「初等普通教育」という言葉について言及しておきたい。筆者が知る限りそれぞれの言葉の初出は「高等普通教育」については『文部省第8年報』(明治13)、「初等普通教育」については『大日本教育会雑誌』第14号(明治17)、「中等普通教育」については『大日本教育新聞』(明治26329日付)に見られる。それぞれの関連については明確とはいえないが、今日の学校教育法上の用法とは異なり、社会を下層中流、上流に分け、それぞれに対応するという見方が基本にあったのではなかろうか。

 

21  教育学書3点など

 

  この頃、教育学書が相次いで刊行された。伊沢修二『教育学』(明治15)、浅野桂次郎『教育学』(明治16)、若林虎三郎白井毅『改正教授術』(明治16)である。福沢論吉の「徳育如何」(明治15)も挙げておきたい。これらはかならずしも普通教育を自覚的に論じたものではないが、普通教育論の内実の解明に寄与したといえよう。

  伊沢修二の『教育学』では、教育とは「完全ナル人物ヲ養成スルノ術」であるとして、智育(直覚力表現力再現力省察力)、徳育、体育に分けて論じている。

  浅野桂次郎の『教育学』にあっては、「人ノ智能ハ発達スヘキ性質ヲ有スルノミナラス人々各自ノ意見ヲ自由ニ弁論セシムルハ人生ノー大幸福」であるという見地から「幼童教育」を論じている。「幼童教育ノ目的ハ社会ニ生レタル幼童ラシテ後来其ノ自由ヲ使用シテ以テ人生ノ目的タル幸福ヲ得セシム可キノ理法、習慣ヲ教ユルニ在リ」としてそのような教育を「圧抑教育」に対置して「扶助教育」としている。また、教育は本来「自由教育」でなければならず、「政府ハ本ト人民ノ自由平等ヲ保護スヘキモノ」であるという見地から「扶助教育」を実現する限りでの政府の責任を論じている。

  若林虎三郎.白井毅の『改正教授術』は、これまでの「記誦注入ノ法」から「開発抽出」の法に教授法を「改正」する必要があるとして「生徒ノ性質動作、心性発達ノ順序及其諸カノ作用ト関係ヲ観察シテ其理ヲ講究」したものである。

  福沢論吉の「徳育如何」は政府主導の儒教主義的な道徳教育が強化されようとしている情勢のもとで、普遍的な「人情」を善悪の基準とする徳育の重要性を説いたものである。

 

22  庵地 人心と一致する普通教育論を」

 

  1884(明治17)年2月に開かれた東京府教育談会において庵地は「教育普及ノー義」と題する演説をおこなっいる。今日、徳育、知育、体育をめぐってそれぞれが重要性が主張しあっている、それぞれがもっともであるとしても、本来「教育ノ事ハ徳知体ノ三育鼎立シテ始テ体面ヲ全フスルモノ」である、とはいえ、それらは「教育ノ世界」の話であって、外から見れば「教育」そのものすら理解されていない現状である、したがって「広ク俗間ニ接シテ其交際ヲ円滑」にし、「教育ノ旨趣ヲ和ケ平易ニ解説スル」ことこそ「今日ノ急務」でなければならない、というものであった。この演説は儒教主義的かつ富国強兵的見地からの徳育体育重視の論調を牽制するとともに、民衆に支持される普通教育論の普及こそが今日の当面する課題であることを訴えたものである。このような課題認識は庵地の仕事をつらぬく特徴のひとつである。

  同年720日、庵地は北豊島郡にある私立沢田小学校の開校式に臨み、演説をおこなっている(「沢田小学校改築落成祝辞」)。庵地は小学校を開設することはなぜ結構と言えるのか、と切り出し、次のように述べた。教育というのは「人間当たり前の知識と行状とを授け以て其将来の安全幸福を図るもの」である、知識を得ることによって人は「時と労とを俟約すること」ができ、また「行状」を習得することによって「世の中に立て満足なる生活を為すこと」ができる、総じて学校は「人間が立身出世を遂くるの門戸」であり、「今日の開校式は取りも直さず門戸の開けたるもの」であるがゆえに「結構」である、と。

  9月に開催された東京府教育談会例会で庵地は「普通教育ノ価値」という論題で演説したようであるがその内容は残されていない。

 

23  普通教育政策の新たな展開

 

   憲法制定国会開設を目前に控えながら経済政策財政政策の破綻にあえぐ政府文部省にとって普通教育の普及は国家統治を強化するための最重要な政治課題のひとつであった。また、森有礼を迎えた文部省内はにわかに慌ただしくなった。小学校教則綱領、中学校教則大綱の改正にとどまらず、教育令の改正さらに教育令体制から学校令体制への転換が強行されていった。

  『大日本教育会雑誌』第14•15号(18841231日、1885131日)に載った本島松蔵の「普通教育普及改良ノー方案」は、学齢児童の五七%が「不就学」であると言う状況を早急に打開することは政府だけではなく教育家の責務であるとして、とくに「普通教育ヲ下等社会ニマデ及ボ」すこと、そのために「貧民ヲ教育スル学校」を町村育費によって設立すべきこと、などを主張した。教育令改正の機運が醸成されていった。大蔵内務両卿から町村教育費の節減を要請(一八八五年四月)された文部省は、この要請に応えながら同時に「普通教育ノ改良拡張」を図るという困難な課題に直面した。

 「普通教育ノ改良拡張」とは普通教育とりわけ小学校において、儒教主義に基づく徳育と実業教育を重視するとともに就学率を抜本的に引き上げることであった。しかも町村教育費は節減しなければならなかった。そこで案出された最終的な方策は、学務委員を廃止し、かつ「八年間ノ普通教育」を「人民ノ義務」とした上で、授業料徴収を導入すること、小学教場を新設すること、学科目を改正し、徳性の涵養を重視して「皇室ヲ尊」ぶようにすること、および農業商業.工業等に必要な知識技術を習得させることであった。そのために教育令が改正(18858月)され、小学教場が新設されることになった。

 改正された教育令について文部省が太政官に提出した禀告は「普通教育」について次のように述べている。「(普通ノ教育ノ)目的ハ児童ノ徳性ヲ涵養シ心身ヲ発育シ農商工其他人生ノ諸職業ニ必須ナル知識技術ノ端緒ヲ授ケ国家ノ良民タルノ地ヲ做サシムルニ在リ」と。ここには、この時期における文部省の「普通教育」論が集中的に表現されている。「知識技術」は「人間」にとって必要なのではなく「諸職業」もしくは「国家ノ良民タルノ地ヲ做サシムルニ在リ」と。ここには、この時期における文部省の「普通教育」論が集中的に表現されている。「知識技術」は「人間」にとって必要なのではなく「諸職業」もしくは「国家の良民」という見地から必要とされている。

なお、文部省は、第一種普通小学校、第二種普通小学校、農業小学校、工業小学校、商業小学校などの設置をふくむ「普通小学校教則」(全865条)を制定しようとしたが、これは実現しなかった。

 

24  庵地保『通俗教育論』

 

 1885(明治18)年2月、庵地は第二の代表的著作『通俗教育論』を東京金港堂書籍会社から出版している。庵地32歳の時である。「殊に目下の有様においては普通教育の要用益々切迫の事情ありと信ずる」と冒頭に述べられているように前著『民間教育論』の続編である。前著との構成は「人間発育の順序に従」って体育が知育の前に置かれることになっただけで、「三育並び行なはれて普通教育の全体を成すもの」であることが強調されている。

 庵地は、『民間教育論』における「個人」観念を現実的具体的に深化させ、「文明」「開国」によって顕著になってきた「富強者」と「貧弱者」との格差拡大の中で「貧弱者」たる「個人」を救済することによって「安泰」を実現することが今日における「人間最大の願望」であり、教育の目的であるとした。もちろん「貧弱者」はあくまで個人的貧弱者に留まり階級的民族的貧弱者としては認識されていなかった。だから、庵地にとって「一国の安泰」は「その国民個々の安泰に基づくこと固より論を待たざる」ことであり、それは直ちに普通教育の課題と結びつけられ、そこから干渉教育.強迫教育が導かれるのも『民間教育論』の論理を継承している。

徳育については、『民間教育論』で述べた彼の見解、すなわち「維新以来道徳に関する世の現象」は「退歩」するばかりで早急に救済策を取るべきであるとした悲観論、についてそれが「謬見」であったとして自己批判している。

  庵地によれば、それは第一に、道徳の「世態」に「変相」と「常相」とがあり、戦争混乱があいついだ維新前後は「変相」の時期だったのであり、自分が考えたように「心中に存在せる道徳の分量が..変遷した」結果ではなかった、第二に「四民同一」により風俗が「軽易簡便」となったことを「一時殺風景の感覚を与え不徳の兆し」と非難したり、また「公事訴訟」が頻繁となったことが「人心の不徳」の増大の証と理解したが、それは政治法律の仕組みや民事裁判制度の簡素化の結果「暗処の不徳が明処に発表した」までのことであった、第三に、「悪業の数が増大した」と見えたのは「交通の便開けたる際と同時に人の悪徳をも披露」することになったまでのことであって、不徳の増大の結果ではなかった、というのである。

  庵地が敢えてこのような§己批判を試みたのは「近来世上に喧ましき道徳衰退の論は甚だ確実なるものと謂ふを得ず」という認識に基づくものであり、根拠なき修身強化論を牽制するためであった。

同時に「道徳教」の主観性を指摘し、その教育法はさまざまであるから、「徳育の基本」は「造化の法則を軌範にして以て人間の本分を尽さしむる学問」たる「道徳哲学」に求めるべきである。「善行は善結果を生じて自然に愉快に感ずれども悪行は悪結果を生じて自然に不愉快を感じる」、このように徳義品行の基礎を「自然の法則」「自然の賞罰」に求めることが「最も道理に適ひたるものと謂ふべし」と庵地は強調している。

 本書について『教育報知』誌上に二度ほど広告が掲載された。その内のひとつを紹介しておこう。

  「該書ハ表書ニ掲ケタル如ク普通教育ノ旨意ヲ俗談平易ノ文章ヲ以テ誰人ニテモ教育ノ旨

     意ヲナールホドト了解シ得ル如ク民間不学ノ徒ヲモ子弟ヲ教育セネバナラヌトノ主意ヲ

     解得セシムル如ク的実ナル引証ヲ挙ケ得意ノ論ヲ述べラレタル書ニシテ其編成ノ趣向ハ

     第一章ヲ総論ニ起シニ章之ニ続キ教育ノ目的ヨリシテ父母ノ子ヲ教育スル責任ノ事第三

    章体育ノ事第四章知育ノ事第五章徳育ノ事ヲ説キテ以テ完備トス殊ニ徳育ノ如キ玩昧ス

    キモノナリ我儕ハ斯ノ如キ書ノ続々世ニ行ハレンコトヲ希フテ止マサルナリ」(『教育報

    知』第4号)

   

25  庵地保心の食べ物」

 

 『通俗教育論』出版の後、東京府教育談会の幹事に推された庵地は教育談会の本会支会の集会で盛んに演説を行っているが、1885(明治18)年419日の四谷牛込支会での「心の食べ物」、927日の第3回総集会での「会員諸君ニ所望アリ」の内容が今日に伝えられている。

 「心の食べ物」では「人の思想即ち考の力」を養うには滋養ある食物としての「知識見聞」が必要であるが、とくに「読、書、算」はその中でも「最も滋養分の多きもの」である、しかし、「読、書、算」はそれ自体が「独立」して「有用」と言うわけではない、過食をすれば却って有害ですらある、将来、事柄を知り、事柄を記し、物の数を勘定するためにこそ「読、書、算」が必要なのである、と言うものである。「読、書、算」自体を重視する見地を批判し、いわば生きてはたらく「読、書、算」の重要性を訴えたものである。教育令が改正され、学科目が徳育、実業教育重視を強め、全体として「国家の良民」の育成が強調されているときの発言としては意義あるものといえよう。

 この年8月、『教育報知』第4号発行の祝宴に庵地は招かれて祝辞を述べている。そこで庵地は「一国ノ文明ハ単ニーニ事業ノ改良ニ依リテ進歩スヘキモノニアラス」として政治法律主導のあり方に不満を述べるとともに、経済貿易、教育衛生、殖産工業、往来交通、武備拡張など全体の改良進歩が必要であると述べ、とくに「人民ノ私設ニ係ル教育上ノ会同」が全国的に盛んになっていることを歓迎し、『教育報知』も「日本教育ノ為二有益」となるよう期待を表明している。教育の改良進歩は社会全体の改良進歩の中でこそ実現されるという庵地の見解はその後の「四〇年来日本の進歩」でも展開されている。

 「会員諸君ニ所望アリ」は、1885(明治18)年8月の教育令再改正について、条文の数が減ったからといって決して「各自ノ自由勝手ニ放任」しようとするものではなく「厳ニスヘキモノハー層之ヲ厳ニ」しており、その意味ではこれまでの教育令と変わるところがないと評している。しかし、他方で「地方経済改良」ということで区町村費の教育費を地租の7分の1に制限するというのは「教育ノ事業ヲ引縮メ」ることにならざるをえない、そうなれば「今后ハ人心ノ教育ヲ離ルル事アリハセヌ力」と心配を率直に表明している。

  人心とのむすびつきを重視する庵地は、「元来教育ノ事ハ独リ官ノー方ニ委托スヘキモノニ非ス官民共ニ配慮スヘキコト当然」との見地から、「我教育談会ト大日本教育会トハ大小ノ区別コソアレ今日ノ事態傍観スべキ時ニ非」ず、双方共に「教育ノ価値ヲ成ルへク多クノ人ニ知ラシムル方便ヲ講スル事此際ハ最モ必要」であり、「国中至ル所ニ教育談アル」ようにしなければならない、「教育世界二人心ヲ集ムルノエ夫甚タ肝要」であると力説している。

 教育令改正によって設置されることになった「小学教場」のあり方をめぐって、その年11月22日に開かれた東京府教育談会第4回総集会で庵地は「小学教場の学期を3ヶ年とするときはこれを無等級にすることがいいかどうか」という議題を発議している。

 庵地はその趣旨について次のように述べたという、「教則ヲ無等級ニ編制スルトキハ生徒ノ智識ニ充分ノ発達ヲ与へ、徒ニ其進歩ノ途ヲ遮断スルノ虞レナクシテ仮令ハ読書力ニ富ムモノハ之ヲ進メ算術ニ巧ミナルモノハ亦之ヲ進メテ不得意ナル学科ハ之ヲ充分ニ修メサスレハ最後ニハ終ニ其目的即チ普通学科ヲ均シク卒ルコトヲ得ルノ道理ナレハ実際ノ学力ニ著シキ進歩ヲ呈スルナラン」と。庵地にとって普通教育とは子ども一人ひとりの能力の成長成熟に即した個性豊かな教育にほかならなかったのである。画一教育とは無縁であった。

 これに対して、もし等級を置かなかったら勉学を奨励することもなくなり教授上錯雑かつ不便になる等の反対意見が出て、「論議百出、殆ど停止するところを知らざるの有様なりしが、決を取るに当たりては、無等級を否とするの説多数を占め遂に否決」された。

 

26  「普通教育」論3

 

  文部省が『教育雑誌』、『文部省報告』を廃刊するのと入れ替わりに、1884年から1885年にかけて『東京教育新志』、『教育報知』、『教育時論』などが相次いで創刊された。これらの中で普通教育についての論議も活発に展開された。ここでは『東京教育新志』に掲載された普通教育に関する論説3編をとりあげてみよう。

()『東京教育新志』第666768号(1885)は「普通教育ハ何ヲ目的トスルカ」と題する論説を3回にわたって連載している。

 論説は「普通教育ハ何ヲ目的トスルヤ」という問いに誰もただちに答えることはできないであろう、「欧米ノ如キハ数百年来普通教育」が行われており、その議論は相当「淘汰」されているが、我が国の場合は多年を経ていない、したがって普通教育論についての議論も少なく、「霊知ヲ開発スルコト」という程度の議論はあっても、封建時代の残夢に由来する「学者若シクハ他ニ立身スルノ下」であるとか、あるいは「一世ノ英傑」「人物」を作るものいうような議論にとどまっている、という認識が最初に示される。

 そのうえで、「普通教育」には二つの目的、すなわち「国民ノ利益ヲ謀ル」ことと「一己人(私人)ノ利益ヲ謀ル」という目的がある、両者は「ニシテ不二ナリ」、すなわち、「私人ノ利益トナルヘキ目的ヲ貫通スルトキハ矢張国民トシテノ利益ヲ保タントスル目的ヲモ併進スへケレハナリ」と述べている。

 論説はさらに論を進め、「国民トシテノ利益ヲ保タントスル目的」にも政治上の目的と経済上の目的とがある、政治上の目的について言えば、今や数人の「才智力量」に依存するのではなく、「国民平均ノ知識」が求められているとする。その場合、政治は「国民ノ不同意」があってはならないという認識が前提となっている。経済上の目的とは、「今ノ世界ニ於テ必用ナルモノハ富」である、その富を増殖する方法は「教育ノ外ニ出デザルべシ」、したがって政治的にも経済的にも「平均智量ヲ高メンニハ普通教育ニ過グルモノナシ」と論じ、「局部ノ智量ヲ高メル」ところの「専門教育」と対比して「普通教育」の重要性を強調している。

 さらに、論説は「快楽幸福」を「人生ノ目的」かつ「教育ノ目的」であるとするスペンサ一の教育論に対置し、「自立自行」こそが「人ノ人タル所以」であり、「自立自行」がしばしば困難であるのは「普通ノ知識」が欠如しているからである、また「自立自行」を基礎にして人間は初めて「自己ノ快楽ヲ進メ幸福ヲ享クル」ことができる、と主張している。

 論説は、最後に、「国民普通教育」「国民タルノ目的」という言葉を突如として持ち出しているが、それらは「自立自行」こそが「人ノ人タル所以」とする「普通教育」とほとんど未分化なまま用いられている。

 論説が、「平均」概念をもちだしてきたこと、私人としての利益の追求が結果として国民としての利益の追求であると述べていること、「快楽幸福」は政治的経済的「自立自行」を土台として可能であるとしていること、「専門教育」に対して「普通教育」の重要性を強調していること、などは特筆されるべきであるが、「国民」と「私人」との関係、「国民普通教育」と「普通教育」との関係等について論説はなお不明確なままにとどまっている。

()『東京教育新志』第15号(1886年)に掲載された「普通教育ノ焼点ハ何レニ在ルヤ」は、旧来の教育学問のあり方を「専門家ノ望ムべキ所」として厳しく批判したうえで、「普通教育ニ在テハ最モ卑近ニシテ着々実地ニ応用スルコソ普通教育ノ価値アル所ト云ハサルラ得ザルナリ」、「元来普通教育ハ(中略)卑近ニシテ実業ニ応用スルノ知識ヲ培養スルコト普通教育ニ於テ第一ニ着眼スべキ所ナラズヤ」と論じている。さらに、「実業科ヲ小学校ニ置クノ果シテ利ナルヤ害ナルヤニ関ハラズ兎ニ角之ヲ学校中ニ置設センコトヲ望ムハ人民至当ノ願望ナリ」として、そのため当面重視されるべき課題は「実業科」を教授できる教育者のために必要な知識を蒐集することであるとしている。

 ()『東京教育新志』第154号(1886年)に載った「我国ノ普通教育ハ強迫教育ヲ取ルベシ」は、ドイツ、ベルギーの例を出して「干渉主義」「強迫主義」が政治家の世論となっていることを肯定的に論じつつ、我が国の開花が短期間に実現したのは「欧米諸国ノ開化ヲ輸入シテ所謂社会進化ノ秩序ヲ飛ビ超へ」たためである、そのため「内部ノ改良ニ至テハ未タ十分ニ行届カザル所」がある、したがって「我国ヲシテ内貌外観共進歩シ欧米諸国ト相拮抗シテ一歩ヲ譲ルコトナカラシメンコトノ希望ハ我国人民ノ普ク有スル所」であるというのである。この主張の根底には「教育ヲ以テ富国強兵ノ基礎」という確固とした信念があるのである。

  『東京教育新志』に掲載された以上の「普通教育」論を見るかぎり、政治経済上の支配層の普通教育論を表明したものといえるであろう。

 

27  「国民教育」論の登場

 

  1885(明治18)年1212日、内閣制度への移行にともなって森文部大臣が登場した。この頃、教育界においても実業教育国民教育の必要性があたかも普通教育論に対する対立概念であるかのように主張され、庵地のような理念に基づいた普通教育論は押されぎみの傾向にあった。

  東京府教育談会が1885(明治18)年に開催した第4回常集会において、大窪実は「国民教育」と題して演説を行っている。大窪は、「普通教育」の目的を「人ヲシテ天禀ノ性能ヲ完全ニスルコトヲ得セシメ以テ其身ノ幸福ヲ厚フセンコトヲ期スルニ在リ」と自ら定義したうえで、このような「普通教育」に不満足であるとしている。

  大窪は、「国ヲ護ル重大ノ義務ヲ尽ス」ためにも教育が必要であるという見地から、「普通教育」の目的を「人ヲシテ其生命ヲ保ツノ道ヲ知ラシムルノミナラス又国ヲ愛護スルノ精神ヲ養成シ以テ重大ノ義務ヲ尽スコトヲ得ルノ人タラシメンコトヲ期図スべキモノト信スルナリ」とし、「普通教育」が、「各人自己ノ為メニ教育スルコト」と「国民タルニ適当ナラシムル為メニ教育スル事」という二つの「要点」を有していると主張し、そのような「普通教育」を「国民教育」としている。大窪にとって「国民教育」はあくまでも「普通教育」の一種であった。

  さらに大窪は、「凡人タル者ハ各其業ヲ営ミ以テ身ヲ養ヒ其幸福ヲ得ヘキモノ」であるから、その場合でも「各人自己ノ為」と「一国ノ盛衰ト栄枯」は「国民一般ノ生産力ノ如何ニ職由スルモノ」だから、「国ノ為メニモ又国民ヲ教育シテ実業ニ励マシムルコト教育ノー大要務ナリ」として「実業教育」の重要性を強調している。最後に、大窪は学校教育において、「諸事其発達ニ応セサルべカラサルコトハ論ヲ俟タサル所」であって、

  「国民教育」といってもこの発達「法則」を守ることは当然のことであると結んでいる。「法則」が単なる教える「順序」を意味する程度にしか理解されておらず、そのうえでいかなる知識といえども歴史来歴を知ればそれについての尊重愛護の精神が獲得されるという理屈で、「普通教育」が「国民教育」にすり替えられている。

  このような普通教育観は、大窪の個人的見解であっただけではなく、国家主義的な立場から「普通教育」概念の確立を教育政策上の最重要課題としていた政府文部省にとっても基本的には共通したものであった。森文部大臣の登場は普通教育の国民教育への転換を一挙に推し進めた。

 

28 「普通教育ノ本源」

 

  内閣制度への移行にともなって初代文部大臣に就任した森有礼は普通教育にたいしてどのような姿勢で臨んだのだろうか。大臣就任直前の1885(明治18)年1219日、埼玉県尋常師範学校において行った演説では普通教育という言葉が8回も使われていることで注目される。しかし、数多く残されているそれ以外の演説等では普通教育という言葉はほとんど用いていない。埼玉演説はむしろ例外であった。すでに述べたように時代は「普通教育」から「国民教育」へと転換しつつあった。森もまたこの動きを独自の立場から明確にとらえていた。森のその後の3年間は「国民教育」もしくは「国家教育」の確立に捧げられたと言っても過言ではないだろう。文部省は個人もしくは人間の育成ではなく国民の育成のために存在した。

  森にとっては教育とは「丁年未満ノ者ヲ正確ノ人物為用ノ器物ニ養成スル」こと、あるいは「丁年未満ニシテ未タ独裁ノ資格ナキ者専ラ他人ノ指導ニ由テ智育徳育体育ヲ発達セラルル」ことであった。全体として人物の養成に主眼がおかれた。そこから気力.気質が強調された。森にとって教育とは人間が有している諸能力をその成長発達の道筋に沿って合理的に育てることではなく、薫陶感化が重要な教育法となった。広義の教育も普通教育も未分化なまま「国民教育」として同質化された。

  また、埼玉演説において森は「普通教育ノ本源タル師範学校」という言い方をしている。それは薫陶感化を基本とする森の教育論から必然的に導かれるが、上から下へ、中央から地方へ薫陶感化の体系を確立するというのが森構想であった。同時にそこに見られる精神主義鍛錬主義はその後のわが国の教育政策にも受け継がれて行くものであった。

   1886(明治19)年4月、森文相の主導のもとに、小学校令、中学校令、師範学校令等が公布され、教育令体制から学校令体制へ転換することになった。国家としてのトータルな教育理念の提示があらためて求められることになった。

   小学校令の概要は、(イ)父母後見人等は学齢期(8年)の児童に「普通教育」を受けさせる義務を負う、(ロ)小学校は高等(4年)尋常(4年)の2種とし、尋常小学校への就学を義務づける、(ハ)父母後見人等は授業料を支弁する、(ニ)小学簡易科を設置することができる、その経費は区町村費でまかなう、というものである。中学校令では中学校も高等尋常の2種とされた。小学校中学校は以後複雑な経過をたどりつつ全体として大学=専門学校への準備教育機関としての系列と社会人になるための教育機関としての系列に分化して行くことになる。

 

 29  庵地:学校=町村の共同物

 

   1886(明治19)年2月、庵地は東京府教育談会神田日本橋下谷浅草連合支会に出席し演説している。「庵地君は普通小学にスクールジスプリン訳して学校のしつけ方を勧め各其生徒をして一様の良習慣を養成するの必要なることを懇話し、その任たる専ら学校長あるいは校主に帰するとの旨意を演ベられる」という記事がのこっている。

 

  同年7月、33歳で庵地は東京府学務課長に昇格した。11月には、『教育報知』第43号に論説「小学校ノ経済」を書いている。4月に出された小学校令についてそれは小学校の「経済上ノ一大変更」である、学校は元来「町村の共同物」であるから「区町村費」で支弁するべきであるから「寄付金授業料等」で支弁することには直ちには困難である、という見地に立ちつつ、長期的には「学校若シクハ学区ニ充分ノ資本ヲ備エテ学校維持ノ独立堅固」を計るべきだが、当面の措置として「小学校或ハ各学区」に「(選挙による)経済整理ニ関スル委員」を置くよう提案している。

  さらに12月、庵地は大日本教育会常集会において「小学校ニ於テ男女共学ノ可否」という議題を発議した。庵地の提案によれば「共学」とは読書算術等の基本教科に関して「男女同一ノ場所ニ於テ同一ノ学科ヲ同時ニ教授スル」ことであり、一般的にではなく「日本ノ現時ノ有様」に即した討論を期待したいというものであった。庵地自身は「自分デモ本題ノ可否ハ分リマセヌ」と断った上で、安易な賛否ということではなく論点を具体的に解明してほしい旨要望している。これは翌年24月の3回にわたって討議され、また『大日本教育会雑誌』上においても討論された。

 翌年(明治20年)2月、学務課長として府下小学校長会議の席上、校訓を主題とする演説を行なっている(「校訓について」)。学校教育は教授.校訓ともに重要であるとしたうえで、校訓の中心は学校長と教員がその模範を示すことにある、それは彼らが「生徒ノ心ヲモ以テ己力心トナシ其間に懸隔ヲ生スルコトナク常ニ同一体トナ」ることである、と述べている。生徒の立場にたつ、これは庵地の基本的な姿勢であった。

  同年、庵地ら13名は「書き方改良会」を組織し、その機関紙『教師之友』を東京教育社から発行している。

 

30   庵地一教育論3

 

  1887(明治204月には議事課勤務を命ぜられたが、その直後に論説「東京府下貧困児童の教育法」が『教育報知』に2回にわたって連載されている。

  公私立小学校の教育が進歩したといってもそれは「金満家」の子弟にとっての教育にほかならず、授業料1ヶ月10銭といってもそのほかに「筆墨紙」「書籍十呂盤石盤」「小遣い」を含めると、大部分の貧困児童は就学することはできない、彼らを「将来自営の民」となすことこそ国家の繁栄の基礎である、という典型的なブルジョワ的立場にたちつつ、したがって貧民学校設立のために資本家は資金を提供すべきである、またそのための教員としては、僧侶をあてるのはどうか、などユニークなアイデアを提言している。

  1887(明治20)年5月に創刊された『国民之教育』第1冊は庵地の「通俗教育ニ関スル所見」を載せている。学校教育で用いる教材は「社会の実際に現存する事実」に即すべきであるという見地から、演劇歌舞音曲講談落語児童玩具.絵双紙錦絵についてその改良の必要を訴えている。なお、ここで「通俗教育」とは庵地の著書『通俗教育論』の場合の「通俗教育」と異なり、今日の社会教育に相応するものである。

 『国民之教育』第2冊(明治206月)には「貧困児童の教育を僧侶に依頼するの説」を書いている。

   3分の1の子弟が授業料を払えないでいる状況を放置することは「国の禍根を増進」することになる、一方、貧民教育は本来「国費を以て補助して適当」であるが「今の国経済の有様」では貧民教育に充てる財政的余裕はないとして、僧侶に貧民教育の事業にあたるう呼びかけている。森文相が授業料を徴収しない「小学簡易科」の設置が小学校令公布以来ニ年半経過しても「未ダ甚ダ少クシテ大多数ノ不就学児童」がいるのは「天皇陛下及国家ニ対シテ恐縮ノ次第」であると述べ、教育会が事業を起こして資金づくりを行えと主張している時期に対応している。

   なお、『教育報知』は翌年(明治ニー)年八月、「仏氏ニ質ス」という社説を掲げ、「仏教ノ頼ム所ハ普通教育ニ在リ」という見地から「然ルニ仏氏ハ何ガ故ニ普通教育ヲ度外視シテ顧ミザルゾ」と主張した。これを受けて島地黙雷は「僧侶ハ速ニ普通教育ニ従事スシ」(明治21年末?)を書いている。島地はそれ以前にもしばしば「普通教育」について発言している。

 

31  「国家の為」か「一個人民の為」か

 

   1887(明治20)年7月の『教育時論』は社説「国民教育とは如何」を掲げた。社説はこの1、2年「国民教育」という言葉が用いられるようになってきたが、それは「従来の普通教育に反する」ものでも「新奇の事」でもなく、明治年の「学制」以来我が国の教育は「国民教育」の方向をとっていると前置きしたうえで、国民教育の目的は「国家の為に教育を為すもの」であり、「一個人民の為にする者にはあらず」と明言している。この場合「普通教育」は「一個人民の為にする教育」「学校教室内の教育」に置き換えられ、「国家教育の政を奨励するにあらざれば学校の教育普及せず学校の教育普及するにあらざれば国家が教育に望む所の目的を達すべからざる此両者は互に相提携し相離るベからざるものなり」と両者の一体性を強調している。

 明治5年の「学制」以来日本の教育は「国民教育」の方向をとっているとする認識は政府文部省の立場に立っても必ずしも正確とはいえない。

 

32  大日本教育会における普通教育論議

 

  大日本教育会は規約改正の繰返しながら政府文部省にたいする補翼機関としての機能を強化していくが、1888(明治21)年5月の総集会にて会の事業を7つの部門とする条項を新設する規則改正問題が討議された。新設された第8条は以下のとおりである。

 

  8  本会ノ主要ナル事業ヲ分チ初等教育、中等教育、女子教育、通俗教育、学術、文芸、学務ノ七部門トス。

    .初等教育部門ハ小学校幼稚園其他盲等ノ教育ニ関スル事ヲ査ス。

    .中等教育部門ハ中学校師範学校其他各種学校等少年子女ノ教育関スル事ヲス。

    .女子教育部門ハ女子ニ特殊ナル教育及家庭教育ニ関スル事ヲ査ス。

  .通俗教育部門ハ通俗ノ図書玩具演芸其他風教上ニ関スル事ヲ査ス。

  .学術部門ハ学術工芸ヲ普通教育ニ適用スル事ヲ査ス

  一.文芸部門ハ文芸美術ヲ普通教育ニ適用スル事ヲ査ス。

  .学務部門ハ教育上ノ政務及学校ノ経済等ニ関スル事ヲ査ス。

 

  この改正によって規約上初めて普通教育という文言が用いられたが、論議のなかでは、大日本教育会の目的は普通教育の普及改良であって専門教育には及ばないこと、学術工芸.文芸美術等を「普通教育ニ適用スル」ことが企図されたこと、専門教育との関係については「例へバ普通教育上理化学ノ教授ハ如何致スべキヤトノ研究」という限りにおいて密接な関係があるが教育会の基本的な事業として学科自体を専門的に研究するわけではない、ことなどが確認された。この論議の中には「ぺダゴジイ即チ普通教育」という興味ある発言もあった。

 この規約改正によって庵地も初等教育中等教育女子教育学務の各部門を担当することになった。

 

33  コムモンセンス

 

  この頃、志摩の教員松井伝兵衛もユニークな普通教育論を展開していた。「卵紙的製糸的ノ教育」ではダメで「製糸的教育」であるべきだ、「人参広東的ノ人」は役に立たず、「米麦的ノ人」でなければならない、など意表をつく言葉がポンポン出てくる。今日「不生産的労力者」が増えているが「普通教育」は「生産的労力者」育成のために有効でなければならないことが強調されている。結論として「要スルニ普通教育ノ目的ハ、実務的ノ人ヲ養成スルニアリ、需要多キ人ヲ陶冶スルニアリ、通俗心(コムモン.センス)アル人間ヲ製造スルニアルナリ」という。

 

34  「普通教育J三段とび①一基本根底論一

 

  『教育報知』の普通教育に関する論調が数年のうちに急速に変化した。それは大日本国憲法教育勅語体制の確立過程と併行するものであった。

  1887(明治20)年、『教育報知』は3回にわたり社説「普通教育国民教育実業教育」を掲げた。

  社説はまず、最近「教育」にさまざまな「特殊ノ名目」が冠せられてきた状況を取り上げ、それらの中でとくに「普通教育」「国民教育」「実業教育」についてそれぞれの性格と相互関係を明らかにすることが国民にとって関心事になっているとしている。

  社説は普通教育は専門教育に対する概念であるといわれているが、専門教育がなくても普通教育は存在しなければならないものであるとして、次のように説明している、「凡ソ人トシテハ縦ヒー学一芸ニ長セザルモ自然ニ賦与セラレタル心身ノ各能力ヲバ満足ニ発達調和セシメザル可ラズ..故ニ普通教育ハ苟モ人トシテハ国ノ異同ヲ論ゼズ生業ノ何タルヲ問ハズ必ズ経過セザル可ラザルノ正路タリ駅次タルモノナレバ取リモ直サズ人タルノ必須ヨリシテ生ジ来タルモノナリ是レ其ノ特性ナリ」と。また次のようにも説明している、「人タルノ特性ハ理性ヲ有スルニ在リテ皮膚骨格ハ如何ナルニモセヨ苟モ理性ヲ有スル動物ヲバ總テ之ヲ人類ノ中二列スルガ如ク假令執ル所ノ方法ハ異同アリトモ苟モ其能力ヲ発達調和セシメ社会ノー個人タルニ欠ク可ラザル要状ヲ具備セシメントノ目的ヲ以テスルモノハ即チ是レ普通教育ナリ」と。

 「社説」はしたがって「普通教育ハ教育ノ基本タリ根底タリ之ナケレバ他ノ教育ハーモ成立ス可ラザルノ位地ニ立ツモノナリ」として、いわば〈普通教育=基本.根底〉論を展開していた。普通教育自体についてのこのような認識は今日に至るまでもけっして見劣りするものではない。

 一方、「社説」は「国民教育」を説明し、その目的は「各人ラシテ特殊ノー国民タルニ適当ナル勢力ヲ得セシムルニ在レバ則取リモ直サズ各国民各異ノ特性ヲ教練シ堅固ナラシムルノ方便」であるとし、その「国民教育」と「普通教育」とは相反するのではないか、との疑問にこたえて、両者の関係について次のように述べている、国民教育は普通教育の範囲内に属するものであって対立するものではない、国民教育は普通教育の性質を十分に具有したうえでさらに国民教育としての性質を有するものである、「飽クマテく普通教育ノ真理ヲ発揮スルト同時ニ他方ニ於テハ終始我ガ日本国民ヲ造成セントスル熱心ヲ失ハサランコトヲ切望スルモノナリ」。

 

35  「普通教育」三段とび②ー特性分業論一

 

  『教育報知』第120号(1888•明治21)は戸城主幹名の「社説」を掲げ、「地方教育」の必要性を地方教育を国家教育の「属種」であるという見地から強調するとともにし、独自の「特性」論に立って普通教育と国民教育の関係を論じている。「凡ソ物ニハ皆各特性アリ.•而シテ是等ノ特性ハ実ニ是レ分類ノ基趾タリ標準タルモノナリ而シテ人ニアリテハ之ヲ分業ト云フ。今ヤ教育ニ於ケルモ然リ。或ハ普通教育ト云ヒ或ハ国家教育ト云ヒ或ハ専門教育ト云フモ皆是レ各其ノ特性ヲ標準トシテ名ヲ分チ業ヲ異ニセルモノナリ」と。

 「国民教育」と「国家教育」とは一体化され、いわば<普通教育一国家教育特性分業論>が主張されている。これまでの主張に対する「自家撞着」ではないかという指摘に対する回答として執筆されたものである。

 

36  「普通教育」三段とび③一同一論一

 

  さらに1890(明治23)年の『教育報知』社説「日本教育ノ基礎」(第236237号)では「国家ノ普通教育」という言葉が用いられ、また247号社説「国家教育の原理」(1220日付)では「故に国家教育は普通教育にしてまた強迫の教育なり」と書き、普通教育は国家教育もしくは日本教育と同一視されるまでに変質した。

 

37  流産した「国民の教育権」

 

  すでに述べたように、普通教育を受けることは子どもの権利であり、その権利を保障するのは「父母天然の義務」であるという観念は当時存在していた。また、本来、教育は社会共同の事業であり、それは人民もしくは国民(実質的には土地所有者、資産家等に限られていたが)の自由に委ねられるべきであるという認識も為政者周辺にも存在していた。大日本帝国憲法制定に当たってこの問題をどのように処理するかは当事者にとって重要な課題として認識されていた。

  井上毅は一八八ニ(明治一五)に「凡教学ハ各人民ノ自由ニ任スト雖モ、政府ハ公立私立ヲ問ハズ学校ヲ監督スルコトノ権ヲ有ス」という条項をふくむ憲法草案を書いたが、その認識は1887(明治20)年に井上が起草した憲法試草こ案にも受け継がれていた。すなわち、その第13条において「教育ハ人民ノ自由ニ任ス。但、政府ハ公立私立ヲ問ハズ学校教課ヲ監督スルノ権ヲ有ス」と規定されていた。憲法試草甲案には教育条項はふくまれていなかった。ところが伊藤博文首相は第1次憲法草案において試草案にあった教育条項をとりいれなかった。

  1889(明治21)年2月に公布された憲法は天皇の独立命令権をもたせることによって教育権もまた天皇に帰属させることになった。とはいえ、そのことは教育法の法律化をただちに排除するものではなかった。翌年、小学校令改正案が審議される過程で勅令主義による文部省案を退けた法制局は法律主義による案をまとめたが枢密院では異論が出され、結局あらためて勅令主義にたつ閣議案がまとめられ、106日、新しい小学校令が公布されることになった。こうして教育は基本的には議会の関与さえ受けつけない天皇の専権事項となったのである。国民の教育権はこうして流産となり、以後半世紀以上も葬り去られることになった。

 ところで、この過程での森文相の立場はどのようなものだったのだろうか。森文相は1888(明治21)年4月、省内に臨時取調委員を設置し、小学校令等の改正作業に着手している。憲法草案について熟知していた森は改正される小学校令が勅令として出されるものになると当然考えていたものと思われる。江木千之を小学校令改正担当に据えた。

  枢密院における憲法草案審議において森はしばしば発言したが、その立場は「臣民ノ権利」を認めないというものであった。教育条項が盛られていないことについては当然のことであったから森は何も発言していない。教育に関連した発言としては、軍人に政談演説を禁止することが論議された際、森は軍人だけではなく学校教員にも適用すべきであると主張している。

  憲法は支配層内部の権力闘争の所産であるが全体として反動的勢力のイニシャティヴのもとに成立したものである。森は反動的な方向で積極的な役割を果たした。

 

38  普通教育ニ付テ建議」

 

  1890(明治23)2月、地方長官会議が開催され、山県有朋首相兼内務大臣の意向をも受けて高橋五六会長(東京府知事)は「普通教育ノ件」について建議するよう提案した。この建議は「徳育涵養ノ義ニ付建議」という形でまとめられ、226日、榎本文相に提出された。

  この建議は「普通教育ノ要ハ、主トシテ国民タルノ徳性ヲ涵養シ、普通ノ智識芸術ヲ修メシムルニ在リ。然ルニ現行ノ学制ニ依レバ、智育ヲ主トシテ専ラ芸術智識ノミヲ進ムルコトヲ勉メ、徳育ノー点ニ於テハ全ク欠クル所アルガ如シ」という書き出しで始まっている。周知のようにこの建議が契機となって「教育勅語」が策定されることになった。小学校令改正作業は教育勅語作成過程と並行して進められた。

  1888(明治21)年6月には小学校令改正が企図され、大日本国憲法公布、市町村制制定、森遭難を経て、1890(明治23)年1月には江木千之案がまとめられた。3月には文部省原案が出来上り閣議に提出された。法制局を経て法律案(5月)として枢密院に送付されたが、枢密院において法律案とすることに疑義が出され、結局107日、小学校令は勅令として公布された。ついで教育勅語も1030日制定された。

  この経過においても普通教育の位置づけが重要な論点となった。文部省原案に付された改正理由に「市町村ノ義務負担ヲ明カニスルニアラサレハ、帝国臣民ニ欠ク可ラサル普通教育ノ目的ヲ達スルコト能ハス」と述べられているようによれば市町村制との関係が改正の重要な契機とされている。後者の「帝国臣民ニ欠ク可ラサル普通教育」という文言は文部省原案第1条小学校の目的に用いられているが、この点をめぐって江木千之との間に論譲が起こった。江木千之案によれば小学校の目的は「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並ニ其生活ニ必須ナル知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」とされていた。「普通教育」という用語はあっさりと削除され、「道徳教育国民教育ノ基礎」とその限りでの「知識技能」が教育目的とされていた。周知のとおり、公布された小学校令は教育目的に関する限り江木案が採用されたが、一箇所だけ即ち「知識技能」が「普通ノ知識技能」と修正されたたけであった。この場合の「普通」とはもはやcommonではなく  usualの方であった。

なお、「国民教育ノ基礎」についていえば、「国民教育」とは「国家ノ良民」育成の教育であり、それは国家社会全体と通じてさまざまな教育機会を通じて実現されるものであった。小学校はその「基礎」を分担するものであり、文部省がこれまで基本方針として来た修学年限12年の「人間普通欠ク可カラサルノ学科」という普通教育の理念とは性格を異にするものであった。

   改正された小学校令は、小学校を尋常小学校(修業年限3•4年)、高等小学校(同、2•3•4年)、私立小学校のほか徒弟学校、実業補習学校とし、「町村学校組合又ハ其区」の経費によって設立するものとされた。小学簡易科は廃止された。尋常小学校での基本教科目は修身、読書、作文、習字、算術、体操であった。

  森文相が指示したようにこの改正は国家主義の見地からすれば「完全ナル改正」といえるものであり、大日本帝国憲法.教育勅語体制のもとで1941(昭和16)年の国民学校令にいたる半世紀におよぶ学校制度の基盤をなすものとなった。

 

39  庵地事物集散ノ理」

 

 1887(明治20)年10月文部省普通学務局主席属に転任した直後、師範学校令改正を受けて秋田県尋常師範学校となったその校長に任ぜられた。約200名が出席した彼の送別会は「近時珍しき教育上の集会」であったという。(『教育時論』第99号)

  1888(明治21)年から4年間、庵地は尋常師範学校長として活躍するが、同時に県学務課長、県教育会副会長、秋田市教育会会長にも就任した。秋田県教育会は庵地の師範学校校長就任を契機に翌年(明治21)年5月に設立されたものであるが、設立総会での庵地の演説は興味深い。

  まず、秋田県に教育会が無いということは東京でも知られていたことであるが、しかしそれにはそれなりの事情があるのであって、無いからどう、作ればいい、というものではない、そういう意味で機が熟して設立を見たことは喜ばしいことである、また官において教育が奨励され、また教育会が必要であることは当然のことであるとしても、教育方法の研究とその交流こそが重視されなければならないのであって、教育会はそのためにこそ存在すべきである。教育会が設立されたことが喜ばしいかどうかは教育上の経験交流が実際にどのようになされたかどうかにかかっているのであって、祝辞はそのときに譲りたいと述べたあと本題に入って「事物集散ノ理」に基づいて教育会を組織して行くことの必要性を論じた。

  庵地にとって「事物集散ノ理」とは「事物自然ノ約束」であり、また「動カスへ力ラサル一大原則」でもあった。「地上ノ水ハ太陽ノ熱ニ遇フテ散シテ蒸発シ、中天寒冷ノ空気ニ逢フテ凝リテ雨トナリ、降リテ再ヒ地上ニ集ル」、庵地はこのような関係は「人事」においても妥当するとして次のように述べている、「人類相集リテ社会ヲ成セハ茲ニ協力分労ノ法行ハレテ有無ヲ通シ経験ヲ交換スル、其際ニハ事物集散ノ理ニ基キテ其中心トナルヘキ場所モ定マリ、之ニ依リテ自ラ利シ、自他共ニ其幸福ニ浴シ、遂ニハ社会全体ヲモ利益スルニ至ルハ殆ト社会ノ約束ニ出ツルモノ如シ、而シテ此約束ノ能ク行ハルル所ハ人事次第ニ整頓シテ、人モ富ミ、国モ栄テ、所謂文明富強モ致スコト事実ニ徴シテ明白」と。

 「社会進歩」には「事物集散」が必要であり、例えば、「政治集散」について言えば、政府には中央政府(さらに内閣各省あり)や地方政府(さらに県庁、郡役所あり)がある、というのである。庵地はこのように述べて教育会の設立は「取リモ直サス事物ノ法則ニ従テ教育事業ニ関シ、経験ト交換スルノ中心ヲ作リタルモノ」であることを強調したのである。ここには庵地の社会思想の特徴が示されているが、教育会開設演説としてはきわめて大胆なものであったと思われる。

 

40   庵地:教師の老後保障

 

 校長としての自覚からか、この時期教師論についての発言が見られる。「教師の位置を安全ならしむる法」(『教育報知』163号)は、小学校教員には「自理独立の思想と位置」が不可欠であるとし、そのためには「現在の生活と老後の生計とを営むに足るの準備を設くる」こと、具体的には教師自ら共同の組合を組織し、殖産会社を設立し支配人を置いて事業を興し、教師共同の財産を形成し、それを老後の生計に充てるというのである。

 

41  庵地敵のなかに味方を」

 

 1890(明治23)年、政府内部で小学校令改正論議が進行しているとき、庵地は教育を普及するため には教育にたいする人民の信頼を確保することが重要であると強調している(「教育者、外ニ対スル務」)。

  町村制実施を口実に教育費の節減策が実施されようとしているがそのようなことができるのは結局教育が人民に信用されていないからだ、もし人民がほんとうに教育を重要だと考えているのであれば教育費節減などは許しはしないだろう、と力説している。どうすれば教育は人民の信用を得ることができるか、それは敵のなかに味方をつくること、すなわち教育社会の外に教育の価値を理解できる人を獲得することであるとし、「町村立学校ニ奉職スル人」の責務を論じている。土地の人情.風俗を理解すること、父兄と親交・親接できること、常に町村人民の先達となり、そのなかで教育の価値を説くことができること、教員等が主催する幻灯会等には人民に参加をもとめること、演説等は俗談平話にできること、などを挙げている。

 

42  庵地「官ハ民ニ一致セザル可ラズ」

 庵地には「教育制度」と題する未完の手稿がある。教育制度や学校組織のあり方が町村制度の整備確立と密接な関連をもってきたこと、『教育時論』がその社説で明治22年2月から11回にわたって「教育制度私儀」を連載していること、などから現実的実践的課題として意識されていたのであろう。400字詰原稿用紙でほぼ24枚程度である。構成は序文に当たる部分と市制および教育制度の沿革、から成っており、市制の部分に多くが割かれている。執筆時期は不明であるが、内容から推量して明治23年から明治24年にかけてと思われる。

  大日本帝国憲法、教育勅語が発布され、市制町村制(明治21年)、郡制府県制(明治23年)が制定され、国政と同時に地方制度が確立し、そのうえに小学校令(明治23年)が発布されたことにともない、師範学校長として「教育制度」について講義要綱を作成する必要に迫られたものと思われる。

   庵地は新小学校令が「行政学ノ原則ニ基ツキテ組織シタルモノ」であり、これまでの教育諸法令と違って「応々変更スル等ノ事ハナカルヘシ」と見通したうえで、「学理上ノ研究」の必要がある、したがって師範学校において教育法規は4年生の授業科目であったが、これを3年生から始めるべきである、また校長はもちろんのこと教員もまた、教育制度の研究は不可欠である、と強調している。庵地は「(教育制度ヲ)研究スルニハ地方制度ヨリ始メサル可カラス」と述べているが、それは市町村制以来市町村自治の精神が発達してきたが、そのなかで「市町村ノ便益ヲ主張スル」傾向も強まってきている、本来「教育ハ国家全体ノ為ニ施設シタルモノ」であるから、教育にとって国と地方制度との原則的関係を明確にしておく必要がある、という認識に立ったものであった。庵地によれば地方自治地方分権が必要であるのは、第1に、官は民に一致しなければならず、そのためには「人民ヲシテ公共事務ニ参与セシムル」ことが前提でなければならない。第2に、地方に「直接ニ利害ノ関係アル者」は地方に任せるべきである。第3に、国の基礎は自治分権を保障することによってむしろ強固になる。第4に、人民が自治制度をつうじて政治思想を養うことによってはじめて国家の問題を議することができる、というものであった。

  このような認識は「維新ノ初年カラ明治12年ノ頃マデハ官治ノ風(=中央集権)」であったという庵地の現実政治認識と政治は本来「民治」であるべきだとする政治思想から導びきだされたものと思われるが、これも「事物集散の理」の思想と合致するものであった。庵地はつづいて我が国の教育制度の沿革について述べ、とくに学制が欧米の制度を基礎にしているがゆえに「我国ノ事情ニ十分適合セサル所モアリ加フルニ細大ヲ問ハス均一ニ定メタル所モアリテ全国各地ノ実施ニテキセス往々不都合ナル事ヲ生シテ人民迷惑トナルコトモ少カラス」と総括したうえで、「画一干渉ノ反動」として明治12年のいわゆる自由教育令が出されそれまでの学区取締を廃して民選の学区委員を置くなどしたが、結果的には「放任スへカラサルコトマテモ放任」することになり、また世間においても「教育ノ事ハ政府ノ干渉スヘキ限リニアラスナドトイフ」議論が現われなどして、教育は「退廃ノ状」を呈することになった。そこで再び教育令が改正されることとなった、と述べるところで本稿は中断している。時に38歳のことである。

 

  1891(明治24)年2月に大きな事件が持ち上がった。211日には師範学校の寄宿舎新営の開舎式が予定されていた。しかし大部分の生徒が仮病を装って出席せず式を延ばさざるをえなくなり、結局47名が放校処分となった事件である。

  生徒側の直接の言い分は、寄宿舎の重要性にもかかわらず儀式が校舎新築の儀式に比べて簡素である、特別の食事を用意する経費を学校側は寄宿舎の賄料から支出させようとしている、来賓の食事の用意を生徒側に負担させようとしている、というものであったが、呼集が頻繁である、職員のなかに不適任者がいる、生徒を信用していない、なども背景にあったようである。学校側は3週間の禁足処分としたところ、その処分の重さをめぐって校外にも問題が広がり、禁足処分中の生徒が校長とではラチがあかないとして県知事に直訴したことでかえって学校側の態度を硬化させ、学校側は県知事に47名の放校処分を願い出るにおよび、知事もこれを認め放校処分が確定した。(『教育時論』233号)

師範学校長時代の庵地についての評価には「同校長は尋常師範学校創設当初の困難な時期において専心学校経営に当り、施設の充実、生徒の教育に尽力するとともに、県教育会の創立など、初等教育の指導にも力を尽くし、四年有余の在任を終え、惜しまれながら秋田を去られた」という文章が残っている。

 

43  『国之教育』

 

  1892(明治25)年4月、庵地は長崎県師範学校長に転任を命じられているが、結局当校へは着任せず、51日付で依願免職となっている。

  実はこの春、庵地には東京金港堂書籍会社の監査役として教科書等の編纂の仕事が待っていた。金港堂ではその前年に三宅米吉が副社長に就任していた。また金港堂では明治2211月から定期刊行教育誌(月2回刊)『普通教育』を企画し、翌年(明治23年)5月までに全13冊を発行していた。三宅米吉はその創刊号扉に「発行の趣旨」を書いているから、三宅(当時金港堂編輯所長)のプランとして企画されたものであろう。庵地を金港堂に呼んだのは三宅であったのであろうか。

  庵地は1892(明治25)年516日に開催された全国連合教育会にたいして大日本教育会会員として府県に学務部を設置するよう文部省に求める第3号建議案の提出者となっている。それは「教育事務ヲシテ収税警察ノ如ク府県中二別ニー部ヲ設ケテ之ヲ独立セシムルハ教育拡張ノ為メ緊要ノ事ト信ス」と説明されており、原案通り可決されている。

  庵地は『普通教育』に代わる定期刊行教育雑誌『国之教育』の刊行を企画し、彼を発行人、加藤駒ニを編輯人として1892(明治25)年9月に第1号を発行している。これは月3回刊で翌年の8月まで少なくとも68号まで刊行している。

  創刊号には伊沢修二、西村貞、日下部三之助がそれぞれ国家教育社、大日本教育会、東京教育社を代表して祝辞を寄せているが、日下部は庵地加藤両人と15年来の知己であること、庵地は「実利的の教育」、加藤が「国家的の教育」の見地に立ちそれそれ主義を異にしているが、かえってそのことが金港堂をバックにしている強さも手伝って本誌を磐石なものにするであろうこと、などを述べている。

 『国之教育』は「国の教育」(社説に当たる)、「論説」、「学術」、「教授法」、「実験記事」、「制度」、「文芸」、「漫録」、「雑報」、「寄書」などから構成されているが、これは当時の教育誌によく見られる構成でもある。「実験記事」「制度」などは本誌の特徴ともいえよう。

  創刊号の社説「国の教育」は「発行の趣旨」において、金港堂がこれまで発行してきた『普通教育』が主として「文学学術等の普通教育に関係あるもの」を取り上げてきたが、「教育界多事の今日において」「教育上時時の問題又は雑報等を機敏に報道」し、「教育上につき不偏不党の論説、記事を掲げ、(中略)時に或は政治、法律、経済等に関する事柄をも掲げ」たい、と述べている。さらに「実験の時代」と題して、模倣の時代から実験の時代に入った我が国の教育において「独立」こそが重要であること、「独立とは唯兵備を整へ国防を厳にし、列国交際の間において一国の体面を維持するのみを謂うにあらず、教育には教育の独立あり、学問には学問の独立あり、殖産工業亦殖産工業の独立ありて相互に対峙するこそ必要なれば、我が国の教育も自ら経験して自ら基礎を建つる実に今日の急務にあらずや」と強調している。庵地の見解が表れている。

 『国之教育』は能勢栄、三宅米吉、多田房之輔、渡辺政吉等を執筆人に加えているが、庵地もまた、論説の部で「四〇年来日本の進歩」と題して政治法律・軍制・農工商、学問教育衛生、等「発行の趣旨」の具体化と思われるシリーズを執筆している。

 

44  アバヨ!

 

  『国之教育』第67号(明治27)によれば、『教育報知』と『国之教育』との間に論争が生じている。ことの発端は庵地が茨城県教育会において行なった演説が『国之教育』社説の精神と異なることを『教育報知』が非難し『国之教育』編集上の矛盾を突いたことに始まっているようである。

  これについて『国之教育』は「自動的教育論」を展開した庵地の演説は『国之教育』の精神に背反するものではないが、それ以前に個人の演説と社説は元来区別されるべきものであり、両者を混淆する『教育報知』の非難は当たらない、と反論したうえで、『教育報知』の保守的姿勢をきびしく批判し、併せて「現時の教育が開国進取の国是に反」していることを糾弾している。前年明治26年の所謂箝口令を考えると、『国之教育』はかなり反政府的姿勢を堅持していたと思われる。

  論争は嚙み合わないまま『教育報知』側が「アバヨ」という言葉を残して論争を打ちきった。『国之教育』はその発行元の営業政策の転換もあってこの論争直後、廃刊に追い込まれることになった。

  教育制度に対する国家主義的政策が一層強まっていく中で、庵地は教育に対する情熱を別の分野へ向け始めている。

 

45 庵地一住友家入社、『商人道』

 

  庵地は沼津藩出身の友人で当時住友本店理事であった田辺貞吉をつうじて、1896(明治29)年、住友家に入社し、日本製銅株式会社の整理監督を経て、翌年現住友電工の前身である住友伸銅所の支配人さらに場長として13年間活躍することになる。「前垂れ姿で住友に勤務し、異彩を放っていた」庵地は「明治期住友家事業の経営理念の実践において一個の存在を主張できる人物である」と評されている。58歳(明治43年)で退職した庵地はその年9月に『商人道』(東京.大野書店)を著わしている。

  これは商人道と武士道との関係、武士道の特色、商人道の特色、商人道と武士道との調和、商人道の本義、の5章から構成されているが、全体として、健全なブルジョワ企業家倫理を明快に説くものとなっている。住友退職後の庵地は日本エナメル(株)、東京瓦斯電工(株)等の設立に関係し、また日本原毛(株)の社長にもなっている。1930(昭和5)年、101977歳で没した。

 

46  むすび

 

  1890(明治23年)の小学校令改正により法律用語としての普通教育は消滅したが、普通教育についての論議はけっして終わったわけではない。大日本帝国憲法・教育勅語体制という条件のもとにあってさまざまな普通教育論議が展開されていった。

  1に、政府文部省内外において中学校高等学校の教育目的としての「精深ナル高等普通教育」の性格や義務教育年限延長問題をめぐって、また時々の教育政策をめぐってひきつづき「普通教育」という言葉を用いながら論議されている。

  2に、学問的にも政策的にも普通教育論が深められて行く。すこし後になるが沢柳政太郎『実際的教育学』(1909)では「教育学がその研究対象とする教育の範囲は学校教育中の普通教育に限定したい」と述べている。同じ年に帝国教育会は『普通教育制度年表』を刊行している。

3に、普通教育という言葉を冠した出版物等が急増している。明治20年代に限っていえば、東京普通教育社『普通教育新聞社』創刊(1888)、生駒恭人『普通教育提要』(1889、尚友社)、三宅米吉、雑誌『普通教育』創刊(同、金港堂)、国府寺新作『普通教育学』(1891、酒井清蔵・河出静一郎刊、渋江保『普通教育学』(1892、博文館)、松平円次郎『普通教育学』(1895、鈴木安雄刊)、勝浦雄『普通教育二対スル希望』(1896、富山房)、などである。

  このように、明治後期における普通教育論は前期とは異なる様相を呈することになる。明治前期において庵地保をはじめとするさまざまな普通教育論が提起した理念的方向は現実には窒息させられるがしかしその後も消滅することなく生きつづけて行くのである。

 

  主要参考文献

    山本正秀『近代文体形成史料集成発生篇』、楓風社、1978

   『明治文化全集』第一〇卷教育篇、日本評論社、1929

   『明治文学全集三明治啓蒙思想集』、筑摩書房、1967

   『教育新誌』

   『東京府教育談会報告書』

   『東京教育学会雑誌』

   『東京学士会院雑誌』

   『東京教育新志』

   『文部省雑誌』、『明治前期文部省刊行誌集成』、歴史文献、1981

   『文部省日誌』、『明治前期文部省刊行誌集成』、歴史文献、1981

    文部省『教育雑誌』、『明治前期文部省刊行誌集成』、歴史文献、1981

   『大日本教育会雑誌』、

   『教育時論』

   『教育報知』

   『国之教育』

    国立公文書館公文録文部省之部

    国立国会図書館憲政資料室、大木喬任文書所蔵

    国会図書館憲政資料室所蔵、三条家文書

    国立公文書館所蔵、公文類聚

    文部省職員録、国立公文書館所蔵

    早稲田大学所蔵「大隈文書」

    日本史籍協会編『大隈重信関係文書』

    教育史編募会『明治以降教育制度発達史』、教育資料調査会、1964年重版

    明治法制経済史研究所編『元老院会議筆記』、元老院会議筆記刊行会

    『枢密院会議議事録』、東京大学出版会、1984

    『森有礼全集』、宣文堂書店、1972

    『茨城日々新聞』

     植木枝盛「普通教育論」、国立国会図書館憲政資料室所蔵

     植木枝盛「教育ハ自由ニセザル可カラス」、『愛国新誌』第10号、愛国社版、188010

      22日刊行

     松井傳兵衛「普通教育論」、『志摩教育会通報』第5号、1889

    『東京大学百年史・通史(一)』、東京大学、1985

    『島田三郎全集』、島田三郎全集刊行会、1938

   高橋昌郎『島田三郎伝』、まほろば書房、1988

    国民教育奨励会『教育五十年史』、民友社、1922年、国書刊行会復刻    版、1981

    国立教育研究所・教育史資料「学事諮問会と文部省示論」、1979

     下村松造「我邦普通教育ノ現状ハ慶スヘキ乎」、「東京日々新  

    聞」、1878131日付、

     内閣文庫所蔵文部省布達全書、雄松堂マイクロフィルム『明治前期教

      育史料集成』、所収。

    『日本近代教育百年史』、国立教育研究所編、1974

    「大日本教育新聞」、大日本教育新聞社

     沢柳政太郎『実際的教育学』、同文館、1909

     倉澤剛『学制の研究』、講談社、1973

     倉澤剛『教育令の研究』、講談社、1975

     倉澤剛『小学校の歴史1.』、ジャパンライブラリービューロー、  

      1963

     倉澤剛『学校令の研究』、講談社、一九七八年

     海後宗臣『明治初年の教育』、評論社、1973年(本書の稿本執筆は

      1931年)

     海後宗臣『元田永孚』、日本教育先哲叢書、第19巻、文教書院、

      1942

     井上久雄『学制論考』、風間書房、1963

     井上久雄『近代日本教育法の成立』、風間書房、1969

     土屋忠雄「明治十年代の教育政策」、講談社『野間教育研究所紀要』

      第11揖、1956

     土屋忠雄『明治前期教育政策史の研究』、1962

     『近代日本教育論集』、国土社、1969

     中内敏夫『近代日本教育思想史』、国土社、1973

     中内敏夫『教材と教具の理論』、有斐閣、1978

     啄男『日本中等教育改革史研究序説』、第一法規、1988

     山川和子「植木枝盛稿『普通教育論』について」、東京学芸大学大学

      院「教育学研究集録」、1977

     福井淳「嚶鳴社員官吏と『教育令改正』一島田三郎を中心にして

      一」、『歴史学研究』、

      535号、1984

     福井淳「嚶鳴社の構造的研究」、『歴史評論』4・5号、校倉書房、

      1984

     伊藤彌彦編『近代史叢書一日本近代教育史再考』、昭和堂、1986

      年

     『日本近代思想体系6  教育の体系』、岩波書店、1990

     掛本勲夫「教育令改正過程に関する一考察」、皇学館大学紀要第24

      号、1986

     『日本史総覧』、新人物往来社、1984

 

  拙論

 

 「庵地保の生涯と年譜」、岩手大学教育学部附属教育工学センター『教

   育工学研究』、第12号、1990

 「明治初期における『普通教育』概念」、『岩手大学教育学部研究年

   報』、第50卷第1号、1990

 「明治10年代における『普通教育』概念の展開」、岩手大学教育学部附

   属教育実践研究指導センター『研究紀要』第1号、1991

 「明治初期における『普通学』・『普通教育』概念の連関構造」、『日

   本の教育史学』、第34号、1991

 「島田三郎の『普通教育』論」、『岩手大学教育学部研究年報』、第51

   巻第1号、1991

 「『文部省示論』における「普通教育」概念」、『岩手大学教育学部研

   究年報』、第52巻第1号、1992

  「普通教育論研究ノート」、『日本の科学者』、199410月号

 『辞典等における『普通教育』概念の検討』、『岩手大学教育学部研究

    年報』、第54巻第1号、1994年