補 章  庵地  保の生涯と教育活動

 

 庵地  保(いおじ・たもつ、1853~1930)の半生自体が「普通教育」問題と深くかかわっている。本論文第8章第2節、第11章第4節において彼の主著『民間教育論』、『通俗教育論』にみられる「普通教育」を検討した。補論においては庵地の半生における教育に関わる仕事の全体を通して彼の「普通教育」観を検討しようとするものである。

 『民間教育論』、『通俗教育論』については重複を避けるために補論では最小限度の言及にとどめる。庵地の教育の仕事は日清戦争開戦(1894年)で終っているが、そのこと自体、彼のような普通教育論を抱懐した社会的活動がもはや当時の社会状況の中で存在し得る余地がなくなったことを彼の活動自体が示している。

 なお、補章では庵地の仕事にかかわる限りで明治前期以降、すなわち1886年から1894年までの普通教育論史にも言及する。

   (1)

 庵地  保は1853(嘉永6)年12月1日、沼津藩水野家の家中・儒臣の二男として生まれた。少年時代はまさに歴史の大転換期であり、そのなかで彼は新時代の息吹きを素直にかつ積極的に吸い込んでいったと思われる。少年時代についてはよくわからないが、「長男夭折のため家督を継ぐ、明治維新に際して一家を挙げて上京」と記された記録もある。

 1869(明治2)年、後の海軍少将本山漸(千葉県士族)が主宰する明親館洋学局(?)に通っていたこと、16歳で開設したばかりの大学南校に入学したが学資が続かず中退しているようであること、などが知られている。その後海軍省に入り艦内教授役介をつとめている。(1)

 その後数年間の足跡は不明であるが、1877(明治10)年、24歳となった庵地は東京府職員8等属として任用され学務課に配属された。時あたかも文部省内において学制を廃止し教育令原案を起草する委員会が設置されようとしているときであった。文部省幹部は当時の教育問題を「普通教育」問題として認識していたし、教育令に小学校の教育目的を「人間普通欠ク可ラザルノ学科」とするか「普通ノ教育」とするかが論じられていたし、植木枝盛が「普通教育論」を主張するなど、「普通教育」問題は当時の重要な教育問題であった。

 1872(明治12)年9月教育令が公布されたが、その直後に「普通教育ノ衰頽ヲ挽回」すると意図のもとに教育令改正の動きが顕在化した。明治維新を「文明開化」と信じ福沢諭吉の影響を受けていた庵地は東京府学務課吏員の一人として「普通教育」とは何かに強い関心をいだいていた。

   (2)

 教育令が改正される直前の12月23日付で庵地は「此編ヤ専ハラ普通教育ノ要領」を述べたという冒頭ではじまる『民間教育論』を出版した。27歳の時である。本書は研究者の間でわが国で最初のまとまった普通教育論として注目されてきた。(2)

 学校設立は大いに進歩しているが、鎮守の祭礼には財を投じても教育には金を出さないというように、学校維持費の父兄負担の状況を考えれば普通教育は未だ進歩とは言えない状況にある。文明開化の中心たる東京府においてすらそうなのであるから、地方ではなおさらのことである。「是レ皆教育論ノ民間ニ勢力ヲ得サルノ致ス所」であるから普通教育の重要性を民間に訴えていかなければならない、というのである。 本書は総論一、総論二、知恵教育の事、行状教育の事、養生教育の事、の五章からなっている。

(イ)教育は「格段ナル教育」と「一般ナル教育」(「尋常普通教育」)に区別される。「尋常普通教育」は「一人ニ対スルモノ」と「公衆ニ対スルモノ」に分けられ、「一個人ニ対スルノ教育」と「一国公社ニ対スルノ教育」がそれぞれに対応する。

 庵地によれば「一個人ニ対スルノ教育」は「父母若シクハ父母ニ代ハルヘキ者ガ其子弟ヲ家庭若シクハ学校ニ於イテ教フルモノ」である。

 庵地にとって「一個人ニ対スルノ教育」は「国政若シクハ民政ノ法則ニ従ヒ一般人民ノ就学ヲ督励スルモノ」であった。「国政ノ法則」あるいは「民政ノ法則」とは何かがかならずしも明らかにはされないまま、政府が法令をもって「人民普通ノ教育ニ干渉スル」ことが導き出される。こうして「一個人ニ対スル教育」は「一国公社ニ対スル教育」に転化される。立法府への期待を飛び越えて直接に政府の干渉に期待するという発想は庵地のみならず当時の多くの識者に共通してみられる。 庵地の場合は「一国公社ニ対スルノ教育」の実現に対する人民の側に見られる意識の遅れをいかに改善するか、に関心は移っていく。

(ロ)「普通教育」はなによりもまず「人間ノ智能」あるいは「人智」の「発育ノ順序」ニ「相応」するものでなければならない。

 「人智諸般ノ能力」の成長には「一定ノ順序」があって「同一ニ発達スヘキモノ」ではない。「必ス一能力ノ先ス発達シテ自由ノ働キヲ為スニ及ヒテ然ル後他ノ能力ノ発動ヲ完備スルニ至ル」とされる。また、それら諸能力は相互に関連しているが、特にある能力が「敏捷ナル時」を基準にして、第一期・視覚力、第二期・分解力、第三期・推理力に区分することができる。

 庵地はこのような「発達ノ順序」が「自然ノ法則」であるとして、教育法・教授法はこの「自然ノ法則」に立脚するべきであると力説している。

 道徳教育について、庵地は「孔孟教外ニ出テサルモノナリ」という時代的枠組を共有しつつも「中庸」に言う天命、道、教のそれぞれについて「人智発達ノ順次」「自然ノ法則」の見地から解明しようとしている。

 「良心ノ働キ」は「人智発達ノ第二期」すなわち「分解力」が発達する時期に発生する「無形ノ思想ニ属シ始メテ発動スルモノ」であるから、それがまだ十分発達していない小児の段階にあっては、たとえ「残酷ノ所業ヲ為スコト」が往々あったとしても「自ラ悔悟」することが出来ないのだから、父母教師は「手製ノ法」をもって「呵責」し、子どもをいたずらに「良心ノ法則」に従わせようとしても無意味である。「自然ニ良心ノ発達ヲ賛助スル」ことによって、子どもが「自ラ悔悟」するように仕向けなければならない。

 庵地はさらに言う、「善行ヲ為セハ愉快ヲ覚ヘ悪行ヲ為セハ不愉快ヲ感スル」。これも「良心ノ法則」であるとする。

 最後に庵地は「行状教育」において、特に「大切ナル注意ヲ要スルコト」は「父母教師ノ行為」であって、どんなに「巧ミニ教訓ヲ施」したとしても、「自然ノ法則」に留意しなければ「効ヲ見ルコト能ハサルナリ」と結んでいる。

 さらに、明治維新という変革期にあって「一人ノ幸福ト一国ノ安寧」を願う庵地の立場から、「退取」ではなく「進取」の養生教育の必要が説かれる。

   (3)

 第2次教育令公布以降、文部省は全面的に普通教育政策を推進していくが、とくに1881(明治14)年10月の政変を契機に普通教育政策の国家主義的な方向を強めていった。とくに「小学校教員心得」においては「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル」と記されているように、政府・文部省は「尊王愛国」の立場からもっぱら「普通教育」という用語を用いていた。

 1882(明治15)年、庵地は東京教育会と東京教育協会とが合併して設立された東京教育学会の機関誌『東京教育学会雑誌』の第5号に「科学的ノ思想ヲ説キ併セテ其発達ヲ論ス」という論説を載せている。(3) 

 「科学」とは「実事乃其関係ヲ定法ニ依テ整理シタルモノ」であるが、我が国について言えば宗教・道徳・政治等についての思想はともかくとして、「科学」についての思想はまったく欠如してきた。近年、学校において科学教育も十分発達して大発明を期待することも夢ではなくなったとはいえ、「日本ノ事実」に相応しく科学を発達させることができるかどうかが問題である。「科学的ノ思想」が「知見ノ広狭ニ因テ脳裡ニ反射シタル事物ノ念慮」である以上、「科学的ノ思想」を「発達」させる「順序方法」も「知見ノ広狭」に依存せざるをえない。したがって、普通教育にあっても「適度ノ実事ヲ取テ之ヲ科学ノ定法ニ応用シ十分ノ念慮ヲ惹起セシメ遂ニ其習得シタル所ノ科学ヲ以テ日本第一流ノモノトナサンコトヲ余輩ノ切ニ願フ所ナリ」と述べている。

 後に見るように、庵地は「事物集散の理」という言葉を用いながら、社会現象にも法則性があるのであってそれを探求するためにも「経験ト交換」することが重要であると述べているが、自然や社会を科学的に考察しようとする姿勢は庵地の生涯を貫いていると言えよう。

 1882(明治15)年11月、文部省は全国の府県学務課長、府県立学校長等を召集し、約1ヵ月という長期にわたって学事諮問会を開催した。庵地も東京府からの出席者5名の一人として出席している。

 1883(明治16年)7月には東京府教育談会が、9月には大日本教育会が相次いで発足し、それぞれにおいて庵地は重要な役割を果たしている。

 庵地は大日本教育会の発足にあたって「第三期ノ教育会」という演説を行い、大日本教育会の発足にいたる経過と大日本教育会に対する期待を述べている。(4)

 庵地にとって教育会とは「演説ニ討論ニ雑誌ニ文書ノ往復ニ力ノ及ハン限リハ諮詢交通ノ道ヲ開」く機会を提供する場所であり、そこでは「進取活発規則ノ範囲内ニ於テ許ス限リハ討論モ勝手タルヘク演説モ自由」であるべきであった。自由な研究交流こそは「科学的思想」の源であるとして庵地がもっとも強く求めていたものである。 しかしながら、全体として大日本教育会はそのような期待に応えるものではなかった。その第1回開会における辻新次副会長(文部省普通学務課長)の祝辞では大日本教育会は「政府ノ学政」を「翼賛」することが期待されていた。大日本教育会はその後森文部大臣からの要請などを受けて文部行政への翼賛的性格を急速に強めていく。 1884(明治17)年2月に開かれた東京府教育談会において庵地は「教育普及ノ一義」と題する演説をおこなっている。(5) 今日、徳育、知育、体育をめぐってそれぞれが重要性を主張しあっているが、本来「教育ノ事ハ徳知体ノ三育鼎立シテ始テ体面ヲ全フスルモノ」である、とはいえ、それらは「教育ノ世界」の話であって、外から見れば「教育」そのものすら理解されていない現状である、したがって「広ク俗間ニ接シテ其交際ヲ円滑」にし、「教育ノ旨趣ヲ和ケ平易ニ解説スル」ことこそ「今日ノ急務」でなければならない、というものであった。この演説は儒教主義的かつ富国強兵的見地からの徳育・体育重視の論調を牽制するとともに、民衆に支持される普通教育論の普及こそが今日の当面する課題であることを訴えたものである。このような課題認識は庵地の仕事をつらぬく特徴のひとつである。

 同年7月20日、庵地は北豊島郡にある私立沢田小学校の開校式に臨み、演説をおこなっている。(6) 庵地は小学校を開設することはなぜ結構と言えるのか、と切り出し、次のように述べた。教育というのは「人間当たり前の知識と行状とを授け以て其将来の安全幸福を図るもの」である、知識を得ることによって人は「時と労とを倹約すること」ができ、また「行状」を習得することによって「世の中に立て満足なる生活を為すこと」ができる、総じて学校は「人間が立身出世を遂くるの門戸」であり、「今日の開校式は取りも直さず門戸の開けたるもの」であるがゆえに「結構」である、と。

 9月に開催された東京府教育談会例会で庵地は「普通教育ノ価値」という論題で演説したようであるがその内容は残されていない。

   (4)

 憲法制定・国会開設を目前に控えながら経済政策・財政政策の破綻にあえぐ政府・文部省にとって普通教育の「改良普及」は国家統治を強化するための最重要な政治課題のひとつであった。大蔵・内務両卿から町村教育費の節減を要請(1885年4月)された文部省は、この要請に応えながら同時に「普通教育ノ改良拡張」を図るという困難な課題に直面した。

  1885(明治18)年2月、庵地は第2の代表的著作『通俗教育論』を東京・金港堂書籍会社から出版している。(7) 庵地32歳の時である。「殊に目下の有様においては普通教育の要用益々切迫の事情ありと信ずる」と冒頭に述べられているように前著『民間教育論』の続編である。前著との構成は「人間発育の順序に従」って体育が知育の前に置かれることになっただけで、「三育並び行なはれて普通教育の全体を成すもの」であることが強調されている。

 庵地は、『民間教育論』における「個人」観念を現実的具体的に深化させ、「文明」「開国」によって顕著になってきた「富強者」と「貧弱者」との格差拡大の中で「貧弱者」たる「個人」を救済することによって「安泰」を実現することが今日における「人間最大の願望」であり、教育の目的であるとした。もちろん「貧弱者」はあくまで個人的貧弱者に留まり階級的民族的貧弱者としては認識されていなかった。だから、庵地にとって「一国の安泰」は「その国民個々の安泰に基づくこと固より論を待たざる」ことであり、それは直ちに普通教育の課題と結びつけられ、そこから干渉教育・強迫教育が導かれるのも『民間教育論』の論理を継承している。 

 徳育については、『民間教育論』で述べた彼の見解、すなわち「維新以来道徳に関する世の現象」は「退歩」するばかりで早急に救済策を取るべきであるとした悲観論、についてそれが「謬見」であったとして自己批判している。

 庵地によれば、それは第1に、道徳の「世態」に「変相」と「常相」とがあり、戦争・混乱があいついだ維新前後は「変相」の時期だったのであり、自分が考えたように「心中に存在せる道徳の分量が・・変遷した」結果ではなかった、第2に「四民同一」により風俗が「軽易簡便」となったことを「一時殺風景の感覚を与え不徳の兆し」と非難したり、また「公事訴訟」が頻繁となったことが「人心の不徳」の増大の証と理解したが、それは政治法律の仕組みや民事裁判制度の簡素化の結果「暗処の不徳が明処に発表した」までのことであった、第3に、「悪業の数が増大した」と見えたのは「交通の便開けたる際と同時に人の悪徳をも披露」することになったまでのことであって、不徳の増大の結果ではなかった、というのである。

 庵地が敢えてこのような自己批判を試みたのは「近来世上に喧ましき道徳衰退の論は甚だ確実なるものと謂ふを得ず」という認識に基づくものであり、根拠なき修身強化論を牽制するためであった。

 同時に「道徳教」の主観性を指摘し、その教育法はさまざまであるから、「徳育の基本」は「造化の法則を軌範にして以て人間の本分を尽さしむる学問」たる「道徳哲学」に求めるべきである。「善行は善結果を生じて自然に愉快に感ずれども悪行は悪結果を生じて自然に不愉快を感じる」、このように徳義品行の基礎を「自然の法則」「自然の賞罰」に求めることが「最も道理に適ひたるものと謂ふべし」と庵地は強調している。

 『 通 俗 教 育 論 』 出 版 の 後 、 東 京 府 教 育 談 会 の 幹 事 に 推 さ れ た 庵 地 は 教 育 談 会の本・支会の集会で盛んに演説を行っているが、1885(明治18)年4月19日の四谷牛込支会での「心の食べ物」(8) の内容が記録されている。   

 「心の食べ物」では「人の思想即ち考の力」を養うには滋養ある食物としての「知識見聞」が必要であるが、とくに「読、書、算」はその中でも「最も滋養分の多きもの」である、しかし、「読、書、算」はそれ自体が「独立」して「有用」と言うわけではない、過食をすれば却って有害ですらある、将来、事柄を知り、事柄を記し、物の数を勘定するためにこそ「読、書、算」が必要なのである、と言うものである。「読、書、算」自体を重視する見地を批判し、いわば生きてはたらく「読、書、算」の重要性を訴えたものである。教育令が改正され、学科目が徳育、実業教育重視を強め、全体として「国家の良民」の育成が強調されているときの発言としては意義あるものといえよう。

 この年8月、『教育報知』第4号発行の祝宴に庵地は招かれて祝辞を述べている。(9) そこで庵地は「一国ノ文明ハ単ニ一二事業ノ改良ニ依リテ進歩スヘキモノニアラス」として政治法律主導のあり方に不満を述べるとともに、経済貿易、教育衛生、殖産工業、往来交通、武備拡張など全体の改良進歩が必要であると述べ、とくに「人民ノ私設ニ係ル教育上ノ会同」が全国的に盛んになっていることを歓迎し、『教育報知』も「日本教育ノ為ニ有益」となるよう期待を表明している。教育の改良進歩は社会全体の改良進歩の中でこそ実現されるという庵地の見解はその後の「四〇年来日本の進歩」でも展開されている。

 1885(明治18)年年9月27日に開催された東京府教育談会第3回総集会では「会員諸君ニ所望アリ」(10) と題する演説を行っている。1885(明治18)年8月の教育令再改正について、条文の数が減ったからといって決して「各自ノ自由勝手ニ放任」しようとするものではなく「厳ニスヘキモノハ一層之ヲ厳ニ」しており、その意味ではこれまでの教育令と変わるところがないと評している。しかし、他方で「地方経済改良」ということで区町村費の教育費を地租の7分の1に制限するというのは「教育ノ事業ヲ引縮メ」ることにならざるをえない、そうなれば「今后ハ人心ノ教育ヲ離ルル事アリハセヌカ」と心配を率直に表明している。

 人心とのむすびつきを重視する庵地は、「元来教育ノ事ハ独リ官ノ一方ニ委托スヘキモノニ非ス官民共ニ配慮スヘキコト当然」との見地から、「我教育談会ト大日本教育会トハ大小ノ区別コソアレ今日ノ事態傍観スベキ時ニ非」ず、双方共に「教育ノ価値ヲ成ルヘク多クノ人ニ知ラシムル方便ヲ講スル事此際ハ最モ必要」であり、「国中至ル所ニ教育談アル」ようにしなければならない、「教育世界ニ人心ヲ集ムルノ工夫甚タ肝要」であると力説している。

  教育令改正によって設置されることになった「小学教場」のあり方をめぐって、その年11月22日に開かれた東京府教育談会第4回総集会で庵地は「小学教場の学期を三ヶ年とするときはこれを無等級にすることがいいかどうか」という議題を発議している。(11)

  庵地はその趣旨について次のように述べたという。「教則ヲ無等級ニ編制スルトキハ生徒ノ智識ニ充分ノ発達ヲ与ヘ、徒ニ其進歩ノ途ヲ遮断スルノ虞レナクシテ仮令ハ読書力ニ富ムモノハ之ヲ進メ算術ニ巧ミナルモノハ亦之ヲ進メテ不得意ナル学科ハ之ヲ充分ニ修メサスレハ最後ニハ終ニ其目的即チ普通学科ヲ均シク卒ルコトヲ得ルノ道理ナレハ実際ノ学力ニ著シキ進歩ヲ呈スルナラン」と。庵地にとって普通教育とは子ども一人ひとりの能力の成長・成熟に即した個性豊かな教育にほかならなかったのである。画一教育とは無縁であった。

 これに対して、もし等級を置かなかったら勉学を奨励することもなくなり教授上錯雑かつ不便になる等の反対意見が出て、「論議百出、殆ど停止するところを知らざるの有様なりしが、決を取るに当たりては、無等級を否とするの説多数を占め遂に否決」された。(『東京府教育談会報告書』第7冊)

    (5)

 1885(明治18)年12月12日、内閣制度への移行にともなって森文部大臣が登場した。この頃、教育界においても実業教育・国民教育の必要性があたかも普通教育論に対する対立概念であるかのように主張され、庵地のような理念に基づいた普通教育論は押されぎみの傾向にあった。  

 東京府教育談会が1885(明治18)年に開催した第4回常集会において、大窪実は「国民教育」と題して演説を行っている。大窪は、「普通教育」の目的を「人ヲシテ天禀ノ性能ヲ完全ニスルコトヲ得セシメ以テ其身ノ幸福ヲ厚フセンコトヲ期スルニ在リ」と自ら定義したうえで、このような「普通教育」に不満足であるとしている。

 大窪は、「国ヲ護ル重大ノ義務ヲ尽ス」ためにも教育が必要であるという見地から、「普通教育」の目的を「人ヲシテ其生命ヲ保ツノ道ヲ知ラシムルノミナラス又国ヲ愛護スルノ精神ヲ養成シ以テ重大ノ義務ヲ尽スコトヲ得ルノ人タラシメンコトヲ期図スベキモノト信スルナリ」とし、「普通教育」が、「各人自己ノ為メニ教育スルコト」と「国民タルニ適当ナラシムル為メニ教育スル事」という二つの「要点」を有していると主張し、そのような「普通教育」を「国民教育」としている。大窪にとって「国民教育」はあくまでも「普通教育」の一種であった。

   このような普通教育観は、大窪の個人的見解であっただけではなく、国家主義的な立場から「普通教育」概念の確立を教育政策上の最重要課題としていた政府・文部省にとっても基本的には共通したものであった。森文部大臣の登場は普通教育の国民教育への転換を一挙に推し進めた。

   (6)

 1886(明治19)年2月、庵地は東京府教育談会神田日本橋下谷浅草連合支会に出席し演説している。「庵地君は普通小学にスクールジスプリン訳して学校のしつけ方を勧め各其生徒をして一様の良習慣を養成するの必要なることを懇話し、その任たる専ら学校長あるいは校主に帰するとの旨意を演べられる」(『東京府教育談会報告書』第7冊)という記事がのこっている。同年7月、33歳で庵地は東京府学務課長に昇格した。

 11月には、庵地は『教育報知』第43号に論説「小学校ノ経済」を書いている。(11) 4月に公布された小学校令についてそれは小学校の「経済上ノ一大変更」である、学校は元来「町村の共同物」であるから「区町村費」で支弁するべきであり、「寄付金授業料等」で支弁することには直ちには困難である、という見地に立ちつつ、長期的には「学校若シクハ学区ニ充分ノ資本ヲ備エテ学校維持ノ独立堅固」を計るべきだが、当面の措置として「小学校或ハ各学区」に「(選挙による)経済整理ニ関スル委員」を置くよう提案している。

 さらに12月、庵地は大日本教育会常集会において「小学校ニ於テ男女共学ノ可否」という議題を発議した。庵地の提案によれば「共学」とは読書算術等の基本教科に関して「男女同一ノ場所ニ於テ同一ノ学科ヲ同時ニ教授スル」ことであり、一般的にではなく「日本ノ現時ノ有様」に即した討論を期待したいというものであった。庵地自身は「自分デモ本題ノ可否ハ分リマセヌ」と断った上で、安易な賛否ということではなく論点を具体的に解明してほしい旨要望している。これは翌年2月・4月の3回にわたって討議され、また『大日本教育会雑誌』上においても討論された。

 翌年(明治20年)2月、学務課長として府下小学校長会議の席上、校訓を主題とする演説を行なっている。(12)  学校教育は教授・校訓ともに重要であるとしたうえで、校訓の中心は学校長と教員がその模範を示すことにある、それは彼らが「生徒ノ心ヲモ以テ己カ心トナシ其間ニ懸隔ヲ生スルコトナク常ニ同一体トナ」ることである、と述べている。生徒の立場にたつ、これは庵地の基本的な姿勢であった。

   同年、庵地ら13名は「書き方改良会」を組織し、その機関紙『教師之友』を東京教育社から発行している。(『大日本教育会雑誌』第50号)

 1887(明治20)4月には議事課勤務を命ぜられたが、その直後に論説「東京府下貧困児童の教育法」が『教育報知』に2回にわたって連載されている。(13)

 公私立小学校の教育が進歩したといってもそれは「金満家」の子弟にとっての教育にほかならず、授業料1ヵ月10銭といってもそのほかに「筆墨紙」「書籍十呂盤石盤」「小遣い」を含めると、大部分の貧困児童は就学することはできない、彼らを「将来自営の民」となすことこそ国家の繁栄の基礎である、という典型的なブルジョワ的立場にたちつつ、したがって貧民学校設立のために資本家は資金を提供すべきである、またそのための教員としては、僧侶をあてるのはどうか、などユニークなアイデアを提言している。

   1887(明治20)年5月に創刊された『国民之教育』は庵地の「通俗教育ニ関スル所見」を載せている。(14) 学校教育で用いる教材は「社会の実際に現存する事実」に即すべきであるという見地から、演劇・歌舞音曲・講談落語・児童玩具・絵双紙錦絵についてその改良の必要を訴えている。なお、ここで「通俗教育」とは庵地の著書『通俗教育論』の場合の「通俗教育」と異なり、今日の社会教育に相応するものである。

 『国民之教育』第2冊(明治20年6月)には「貧困児童の教育を僧侶に依頼するの説」を書いている。(15)

 3分の1の子弟が授業料を払えないでいる状況を放置することは「国の禍根を増進」することになる、一方、貧民教育は本来「国費を以て補助して適当」であるが「今の国経済の有様」では貧民教育に充てる財政的余裕はないとして、僧侶に貧民教育の事業にあたるよう呼びかけている。森文相が授業料を徴収しない「小学簡易科」の設置が小学校令公布以来2年半経過しても「未ダ甚ダ少クシテ大多数ノ不就学児童」がいるのは「天皇陛下及国家ニ対シテ恐縮ノ次第」であると述べ、教育会が事業を起こして資金づくりを行えと主張している時期に対応している。

 なお、『教育報知』は翌年(明治21)年8月、「仏氏ニ質ス」という社説を掲げ、「仏教ノ頼ム所ハ普通教育ニ在リ」という見地から「然ルニ仏氏ハ何ガ故ニ普通教育ヲ度外視シテ顧ミザルゾ」と主張した。これを受けて島地黙雷は「僧侶ハ速ニ普通教育ニ従事スベシ」(明治21年末?)を書いている。島地はそれ以前にもしばしば「普通教育」について発言している。

    (7)

 1887(明治20)年10月、文部省普通学務局主席属に転任した直後、師範学校令改正を受けて秋田県尋常師範学校となったその校長に任ぜられた。約200名が出席した彼の送別会は「近時珍しき教育上の集会」であったという。(『教育時論』第99号)

 庵地の師範学校長時代はまさに普通教育にとって大転換期であった。大日本憲法が公布され、教育勅語が頒布され、小学校令が改正された。小学校令は小学校の目的を「国民教育ノ基礎」として位置づけた。別な言い方をすれば、「天皇」が「統治」する国家体制と一体となった「国民教育」の「基礎」として小学校が位置づけられた。江木千之によれば「普通教育」はそのような「国民教育ノ基礎」として小学校教育を「全国ニ普及」ためのものとして位置づけられることになった。(終章第1節参照)  

 1888(明治21)年から4年間、庵地は尋常師範学校長として活躍するが、同時に県学務課長、県教育会副会長、秋田市教育会会長にも就任した。秋田県教育会は庵地の師範学校校長就任を契機に翌年(明治21)年5月に設立されたものであるが、設立総会での庵地の演説は興味深い。(16)

 まず、秋田県に教育会が無いということは東京でも知られていたことであるが、しかしそれにはそれなりの事情があるのであって、無いからどう、作ればいい、というものではない、そういう意味で機が熟して設立を見たことは喜ばしいことである、また官において教育が奨励され、また教育会が必要であることは当然のことであるとしても、教育方法の研究とその交流こそが重視されなければならないのであって、教育会はそのためにこそ存在すべきである。教育会が設立されたことが喜ばしいかどうかは教育上の経験交流が実際にどのようになされたかどうかにかかっているのであって、祝辞はそのときに譲りたいと述べたあと本題に入って「事物集散ノ理」に基づいて教育会を組織して行くことの必要性を論じた。

 庵地にとって「事物集散ノ理」とは「事物自然ノ約束」であり、また「動カスヘカラサル一大原則」でもあった。「地上ノ水ハ太陽ノ熱ニ遇フテ散シテ蒸発シ、中天寒冷ノ空気ニ逢フテ凝リテ雨トナリ、降リテ再ヒ地上ニ集ル」、庵地はこのような関係は「人事」においても妥当するとして次のように述べている、「人類相集リテ社会ヲ成セハ茲ニ協力分労ノ法行ハレテ有無ヲ通シ経験ヲ交換スル、其際ニハ事物集散ノ理ニ基キテ其中心トナルへキ場所モ定マリ、之ニ依リテ自ラ利シ、自他共ニ其幸福ニ浴シ、遂ニハ社会全体ヲモ利益スルニ至ルハ殆ト社会ノ約束ニ出ツルモノ如シ、而シテ此約束ノ能ク行ハルル所ハ人事次第ニ整頓シテ、人モ富ミ、国モ栄テ、所謂文明富強モ致スコト事実ニ徴シテ明白」と。

  「社会進歩」には「事物集散」が必要であり、例えば、「政治集散」について言えば、政府には中央政府(さらに内閣・各省あり)や地方政府(さらに県庁、郡役所あり)がある、というのである。庵地はこのように述べて教育会の設立は「取リモ直サス事物ノ法則ニ従テ教育事業ニ関シ、経験ト交換スルノ中心ヲ作リタルモノ」であることを強調したのである。ここには庵地の社会思想の特徴が示されているが、教育会開設演説としてはきわめて大胆なものであったと思われる。

 校長としての自覚からか、この時期教師論についての発言が見られる。「教師の位置を安全ならしむる法」(17)は、小学校教員には「自理独立の思想と位置」が不可欠であるとし、そのためには「現在の生活と老後の生計とを営むに足るの準備を設くる」こと、具体的には教師自ら共同の組合を組織し、殖産会社を設立し支配人を置いて事業を興し、教師共同の財産を形成し、それを老後の生計に充てるというのである。

 1890(明治23)年、政府内部で小学校令改正論議が進行しているとき、庵地は「教育者、外ニ対スル務」と題する文章を『教育報知』に連載し、教育を普及するためには教育にたいする人民の信頼を確保することが重要であると強調している。

(18)

 町村制実施を口実に教育費の節減策が実施されようとしているがそのようなことができるのは結局教育が人民に信用されていないからだ、もし人民がほんとうに教育を重要だと考えているのであれば教育費節減などは許しはしないだろう、と力説している。

 どうすれば教育は人民の信用を得ることができるか、それは敵のなかに味方をつくること、すなわち教育社会の外に教育の価値を理解できる人を獲得することであるとし、「町村立学校ニ奉職スル人」の責務を論じている。土地の人情・風俗を理解すること、父兄と親交・親接できること、常に町村人民の先達となり、そのなかで教育の価値を説くことができること、教員等が主催する幻灯会等には人民に参加をもとめること、演説等は俗談平話にできること、などを挙げている。

 庵地には「教育制度」と題する未完の手稿がある。(19) 教育制度や学校組織のあり方が町村制度の整備確立と密接な関連をもってきたこと、『教育時論』がその社説で明治22年2月から11回にわたって「教育制度私儀」を連載していること、などから現実的実践的課題として意識されていたのであろう。400字詰原稿用紙でほぼ24枚程度である。構成は序文に当たる部分と市制および教育制度の沿革、から成っており、市制の部分に多くが割かれている。執筆時期は不明であるが、内容から推量して明治23年から明治24年にかけてと思われる。

 大日本帝国憲法、教育勅語が発布され、市制・町村制(明治21年)、郡制・府県制(明治23年)が制定され、国政と同時に地方制度が確立し、そのうえに小学校令(明治23年)が発布されたことにともない、師範学校長として「教育制度」について講義要綱を作成する必要に迫られたものと思われる。

 庵地は新小学校令が「行政学ノ原則ニ基ツキテ組織シタルモノ」であり、これまでの教育諸法令と違って「応々変更スル等ノ事ハナカルヘシ」と見通したうえで、「学理上ノ研究」の必要がある、したがって師範学校において教育法規は4年生の授業科目であったが、これを3年生から始めるべきである、また校長はもちろんのこと教員もまた、教育制度の研究は不可欠である、と強調している。庵地は「(教育制度ヲ)研究スルニハ地方制度ヨリ始メサル可カラス」と述べているが、それは市町村制以来市町村自治の精神が発達してきたが、そのなかで「市町村ノ便益ヲ主張スル」傾向も強まってきている、本来「教育ハ国家全体ノ為ニ施設シタルモノ」であるから、教育にとって国と地方制度との原則的関係を明確にしておく必要がある、という認識に立ったものであった。

 庵地によれば地方自治・地方分権が必要であるのは、第1に、官は民に一致しなければならず、そのためには「人民ヲシテ公共事務ニ参与セシムル」ことが前提でなければならない。第2に、地方に「直接ニ利害ノ関係アル者」は地方に任せるべきである。第3に、国の基礎は自治分権を保障することによってむしろ強固になる。第4に、人民が自治制度をつうじて政治思想を養うことによってはじめて国家の問題を議することができる、というものであった。

 このような認識は「維新ノ初年カラ明治一二年ノ頃マデハ官治ノ風(=中央集権)」であったという庵地の現実政治認識と政治は本来「民治」であるべきだとする政治思想から導びきだされたものと思われるが、これも「事物集散の理」の思想と合致するものであった。庵地はつづいて我が国の教育制度の沿革について述べ、とくに学制が欧米の制度を基礎にしているがゆえに「我国ノ事情ニ十分適合セサル所モアリ加フルニ細大ヲ問ハス均一ニ定メタル所モアリテ全国各地ノ実施ニテキセス往々不都合ナル事ヲ生シテ人民迷惑トナルコトモ少カラス」と総括したうえで、「画一干渉ノ反動」として明治12年のいわゆる自由教育令が出されそれまでの学区取締を廃して民選の学区委員を置くなどしたが、結果的には「放任スヘカラサルコトマテモ放任」することになり、また世間においても「教育ノ事ハ政府ノ干渉スヘキ限リニアラスナドトイフ」議論が現われなどして、教育は「退廃ノ状」を呈することになった。そこで再び教育令が改正されることとなった、と述べるところで本稿は中断している。時に38歳のことである。

  1891(明治24)年2月に大きな事件が持ち上がった。2月11日には師範学校の寄宿舎新営の開舎式が予定されていた。しかし大部分の生徒が仮病を装って出席せず式を延ばさざるをえなくなり、結局47名が放校処分となった事件である。

 生徒側の直接の言い分は、寄宿舎の重要性にもかかわらず儀式が校舎新築の儀式に比べて簡素である、特別の食事を用意する経費を学校側は寄宿舎の賄料から支出させようとしている、来賓の食事の用意を生徒側に負担させようとしている、というものであったが、呼集が頻繁である、職員のなかに不適任者がいる、生徒を信用していない、なども背景にあったようである。学校側は三週間の禁足処分としたところ、その処分の重さをめぐって校外にも問題が広がり、禁足処分中の生徒が校長とではラチがあかないとして県知事に直訴したことでかえって学校側の態度を硬化させ、学校側は県知事に47名の放校処分を願い出るにおよび、知事もこれを認め放校処分が確定した。(『教育時論』233号)

 師範学校長時代の庵地についての評価には「同校長は尋常師範学校創設当初の困難な時期において専心学校経営に当り、施設の充実、生徒の教育に尽力するとともに、県教育会の創立など、初等教育の指導にも力を尽くし、四年有余の在任を終え、惜しまれながら秋田を去られた」という文章が残っている。(20)

  1892(明治25)年4月、庵地は長崎県師範学校長に転任を命じられているが、結局当校へは着任せず、5月1日付で依願免職となっている。(21)

   (8)

 実はこの春、庵地には東京金港堂書籍会社の監査役として教科書等の編纂の仕事が待っていた。金港堂ではその前年に三宅米吉が副社長に就任していた。また金港堂では明治22年11月から定期刊行教育誌(月2回刊)『普通教育』を企画し、翌年(明治23年)5月までに全13冊を発行していた。三宅米吉はその創刊号扉に「発行の趣旨」を書いているから、三宅(当時金港堂編輯所長)のプランとして企画されたものであろう。庵地を金港堂に呼んだのは三宅であったのであろうか。

 庵地は1892(明治25)年5月16日に開催された全国連合教育会にたいして大日本教育会会員として府県に学務部を設置するよう文部省に求める第3号建議案の提出者となっている。それは「教育事務ヲシテ収税警察ノ如ク府県中ニ別ニ一部ヲ設ケテ之ヲ独立セシムルハ教育拡張ノ為メ緊要ノ事ト信ス」と説明されており、原案通り可決されている。

 庵地は『普通教育』に代わる定期刊行教育雑誌『国之教育』の刊行を企画し、彼を発行人、加藤駒二を編輯人として1892(明治25)年9月に第1号を発行している。これは月3回刊で翌年の8月まで少なくとも68号まで刊行している。

  創刊号には伊沢修二、西村貞、日下部三之助がそれぞれ国家教育社、大日本教育会、東京教育社を代表して祝辞を寄せているが、日下部は庵地・加藤両人と15年来の知己であること、庵地は「実利的の教育」、加藤が「国家的の教育」の見地に立ちそれそれ主義を異にしているが、かえってそのことが金港堂をバックにしている強さも手伝って本誌を磐石なものにするであろうこと、などを述べている。

  『国之教育』は「国の教育」(社説に当たる)、「論説」、「学術」、「教授法」、「実験記事」、「制度」、「文芸」、「漫録」、「雑報」、「寄書」などから構成されているが、これは当時の教育誌によく見られる構成でもある。「実験記事」「制度」などは本誌の特徴ともいえよう。

 創刊号の社説「国の教育」は「発行の趣旨」において、金港堂がこれまで発行してきた『普通教育』が主として「文学学術等の普通教育に関係あるもの」を取り上げてきたが、「教育界多事の今日において」「教育上時時の問題又は雑報等を機敏に報道」し、「教育上につき不偏不党の論説、記事を掲げ、(中略)時に或は政治、法律、経済等に関する事柄をも掲げ」たい、と述べている。さらに「実験の時代」と題して、模倣の時代から実験の時代に入った我が国の教育において「独立」こそが重要であること、「独立とは唯兵備を整へ国防を厳にし、列国交際の間において一国の体面を維持するのみを謂うにあらず、教育には教育の独立あり、学問には学問の独立あり、殖産工業亦殖産工業の独立ありて相互に対峙するこそ必要なれば、我が国の教育も自ら経験して自ら基礎を建つる実に今日の急務にあらずや」と強調している。庵地の見解が表れている。

 『国之教育』は能勢栄、三宅米吉、多田房之輔、渡辺政吉等を執筆人に加えているが、庵地もまた、論説の部で「四〇年来日本の進歩」と題して政治・法律・軍制・農工商、学問教育衛生、等「発行の趣旨」の具体化と思われるシリーズを執筆している。(22)

 『国之教育』第67号(明治27)によれば、『教育報知』と『国之教育』との間に論争が生じている。ことの発端は庵地が茨城県教育会において行なった演説が『国之教育』社説の精神と異なることを『教育報知』が非難し『国之教育』編集上の矛盾を突いたことに始まっているようである。

 これについて『国之教育』は「自動的教育論」を展開した庵地の演説は『国之教育』の精神に背反するものではないが、それ以前に個人の演説と社説は元来区別されるべきものであり、両者を混淆する『教育報知』の非難は当たらない、と反論したうえで、『教育報知』の保守的姿勢をきびしく批判し、併せて「現時の教育が開国進取の国是に反」していることを糾弾している。前年明治26年の所謂箝口令を考えると、『国之教育』はかなり反政府的姿勢を堅持していたと思われる。

 論争は噛み合わないまま『教育報知』側が「アバヨ」という言葉を残して論争を打ちきった。(23) 『国之教育』はその発行元の営業政策の転換もあってこの論争直後、廃刊に追い込まれることになった。

 教育制度に対する国家主義的政策が一層強まっていく中で、庵地は教育に対する情熱を別の分野へ向け始めている。

   (9)

  庵地は沼津藩出身の友人で当時住友本店理事であった田辺貞吉をつうじて、1896(明治29)年、住友家に入社し、日本製銅株式会社の整理監督を経て、翌年現住友電工の前身である住友伸銅所の支配人さらに場長として13年間活躍することになる。「前垂れ姿で住友に勤務し、異彩を放っていた」庵地は「明治期住友家事業の経営理念の実践において一個の存在を主張できる人物である」と評されている。

 58歳(明治43年)で退職した庵地はその年9月に『商人道』(東京・大野書店)を著わしている。(24)

 これは商人道と武士道との関係、武士道の特色、商人道の特色、商人道と武士道との調和、商人道の本義、の五章から構成されているが、全体として、健全なブルジョワ企業家倫理を明快に説くものとなっている。住友退職後の庵地は日本エナメル(株)、東京瓦斯電工(株)等の設立に関係し、また日本原毛(株)の社長にもなっている。1930(昭和5)年、10月19日、77歳で没した。

 

(1)東京都公文書館所蔵、東京都公文明治20年「転免履歴」。

(2)勝田守一・中内敏夫『日本の学校』、岩波新書、1964年、221~222 ページ、中内敏夫「近代日本におけるナショナリズムと教育の展望」、『近代日本 教育論集』、1969年、国土社、所収、中内敏夫『近代日本教育思想史』、19 73年、国土社、272、346ページ、中内敏夫『教材と教具の理論』、197 8年、有斐閣ブックス、191~192ページ。

(2)『民間教育論』、1880年、庵地蔵版。       

(3)「科学的ノ思想ヲ説キ併セテ其進歩ヲ論ス」、1882年、東京教育学会雑  誌、第5号、所収。

(4)「第三期ノ教育会」、1883年、『大日本教育会誌』、第1号、所収。

(5)「教育普及ノ一義」、1884年、『大日本教育会雑誌』、第7号、所収。

(6)「沢田小学校改築落成祝辞」、1884年、『東京府教育談会報告書』、第2 冊、所収。

(7)『通俗教育論』、1885年、金港堂。

  本書については、小川利夫『現代社会教育の理論』、1977年、亜紀書房、に 紹介されているが、書名の「通俗教育」を社会教育と誤解した紹介となっている。  なお、庵地にはいわゆる社会教育を論じたものとして「通俗教育ニ関ス所見」、 『国民之教育 』、1887年、興文社、第1号、所収、がある。

(8)「心ノ食べ物」、1885年、『東京府教育談会報告書』、第4冊、所収。

(9)「祝辞」、1885年、『教育報知』、第5号、所収。

(10)「会員諸君ニ所望アリ」、1885年、『大日本教育会雑誌』、第24号、 所収。

(11)「小学校ノ経済」、1886年、『教育報知』、第43号、所収。

(12)「校訓について」、1887年、『大日本教育会雑誌』、第50号、所収。(13)「東京府下貧困児童ノ教育法」、1887年、『教育報知』、第64号、所 収。

(14)「通俗教育ニ関スル所見」、1887年、『国民之教育』、第1号、所収。(15)「貧困児童の教育を僧侶に依頼するの説」、1887年、『国民之教育』、 第2号、所収。

(16)「秋田県教育会設立総会における演説」、1888年、『大日本教育会雑誌 』、第78号、所収。

(17)「教師の位置を安全ならしむる法」、1889年、『教育報知』、第163 号、所収。

(18)「教育者、外ニ対スル務(1)(2)」、1890年、『教育報知』、第2 13、215号、所収。

(19)庵地家所蔵「教育制度」(手稿)、1890年推定。

(20)『秋田県学事月報』、1891年。

(21)長崎大学玉園同窓会『百歳の歩み』、1986年。

(22)「四十年来日本の進歩」、1892年、『国之教育』所収。

(23)『教育報知』432号、1894年7月28日付。

(24)『商人道』、1911年、大野書店。なお、宇田正「明治中期一住友人の近 代的商人観ー、庵地保著『商人道』の紹介を中心にー」、追手門学院大学『追手門 経済論集』、第17巻第1号、1982年、参照。