4 普通教育の歴史(戦前1)―普通教育の時代

【はじめに「普通教育」ありき】

・前島密は1867(慶応2)年、「漢字御廃止之議」を上奏し、そのなかで「普通教育」という言葉を多用し「少年の時間こそ事物の道理を講明するの最好時節」と説いている。現時点では「普通教育」という言葉が用いられた我が国最初の文献である。

・木戸孝允は1869年、「普通教育の振興を急務とすべき建言書案」を提出した。

・福沢諭吉は1869年、松山棟庵宛の書簡で「コンモン・エジュケーション」という言葉を用いている。

1869年、大学校は「急務件々」において「小学」の目的を「普通学ヲ修メ」としている。

1870年の「中小学規則」でも小学は「普通学ヲ修メ」とされている。この時期における「普通学」という言葉の意味としては「セケンツウレイノガクモン」という意味の他、「専門学」の対としての意味、さらには「普通教育」という意味でも用いられていた。なお、西周は『百学連環』において専門学に対比されるcommon scienceの訳語としての「普通学」と〈世に言う「普通学」〉とを区別することを主張している。

【学制と普通教育】

・学制(1872年)は中学校の教育目的を「普通ノ学科」、小学校の教育目的を「教育ノ初級」としている。

 なお、中学校の「普通ノ学科」はその後「高等普通教育」と呼称され、高等普通教育と普通教育の二重構造が制度化されることになる。なお、この時点では中等普通教育、初等普通教育という言葉は一般的には用いられていな い。

・学制起草者の一人・西潟訥中督学は「小学ノ教育」を「普通学ト称スル」とした上で、その内容を「人ノ人タル知識ヲ具へ人ノ人タル務ヲ成ニ至ル迄ノ業」と説明している。普通教育本来の理念を表現したものとして注目される。

【「普通教育」の公用語化】

・太政官は1875年、「文部省職制及事務章程」において「普通教育須要ノ学科ヲ改正スル事」を掲げた。公文書に「普通教育」という言葉が登場した最初の文献と思われる。

・この時期、『文部省雑誌』は欧米の教育事情等を紹介する中で「普通教育」という言葉を多用している。

『新選中地理書』の著者であり、のち師範学校条例取調委員などを務めた山田行元は1877年、「強迫就学法」という呼称を「普通教育法」と改めるべきであると主張した。

・西村茂樹大書記官は視察報告(1877年)のなかで当時の地方学事の状況を「普通教育ノ病」と特徴づけ、①「専ラ外面ノ修飾ヲ務メテ教育ノ本旨ヲ後ニスルニ在リ」、②「教育ノ為ニ人民ノ金卜時ヲ費スコト多キニ過クルニ在リ」、③「小学ノ教則中迂遠ニシテ実用ニ切ナラサル者アリ」、④「一定ノ教則ヲ以テ之ヲ全国ニ施サントスルニ在リ」などを掲げた。

・九鬼隆一大書記官も同年の視察報告において、「今ノ普通教育」の現状と課題を述べ、そのなかで「教育」とは「心性発達ノ自然ニ一致シ其発達ノ順序ヲ察シテ知識ヲ給スルコト」と述べている。

1882年に創設された大日本教育会は「普通教育の改良進歩」を目的に掲げた。

【普通教育論の展開】

・植木枝盛は1877年に「普通教育論」を執筆している。植木はそのなかで「学制」における「教育ノ初級」を「一般普通ノ科」ととらえ直した上で、「人間」の「本質ヲ開発伸展」させることの重要性を主張した。

・庵地保は1880年に『民間教育論』を、1885年に『通俗教育論』を著し、わが国において初めて普通教育論を本格的に論じた。

・赤松常次郎は1880年、『教育新誌』上に論説を寄せ「人ノ子女タルモノ普通ノ教育ヲ受ケンコトヲ要求スルハ其ノ固有ノ権理」であり、父母は子女に「普通ノ教育」を与える義務を負っている、と述べている。

【教育令と普通教育】

1879年に制定された第一次教育令は小学校の教育目的を「普通教育」と規定した。この語句の文部省原案は「人間普通欠ク可ラサルノ学科」であった。

・基本教科を充たす教育課程を「普通教育の正格」とし、要件を欠いた場合「変則小(中)学校」と呼称するなど、普通教育の理念から導かれる教育課程の基準も制度化されていった。

・教育令は1880年に改正されたが、「改正」理由は「普通教育ノ衰類ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属スル」というものであった。「修身」が首位教科に位置づけられた。

・教育令改正は主として文部省内で普通教育政策を推進する自由民権派を追放するという政治的意図と結びついていた。

・自由民権派に立つ島田三郎権大書記官は「普通教育」について「人生日常欠ク可サルノ智識ヲ養育」し、「人民ヲシテ通常ノ智識ヲ有セシメ社会ノ程度ニ相応スル人タラシムル」ものと述べている。

1881年、教育令改正の趣旨を体現して「小学校教員心得」が出されたが、そこには「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル」と述べられていた。

1882年、文部省は全国の学務課長等を招集した学事諮問会において「普通教育ノ修業年限ハ小中学ヲ通シテ率ネ十二年トス」などの方針を提示した。

・第3次教育令(1885年)、第1次小学校令(1886年)においても小学校の教育目的は「普通教育」とされた。1886年制定の中学校令は中学校の教育目的を「高等普通教育」とした。

1885年、初代文部大臣森有礼は埼玉県尋常師範学校において演説を行い「普通教育」について多く言及しているが、その場合の「普通教育」とは師範学校を「本源」とするものであった。それ以後、森の発言等には普通教育という言葉は用いられなくなった。