5 普通教育の歴史(戦前2)―国民教育の時代

【「普通教育」から「国民教育」へ】

・小学校条例取調委員であった大窪実は1887(明治20)年、「各人自己ノ為の教育」と「国民タルニ適当ナラシムル為」の教育、という二つの「要点」を有する「普通教育」を「国民教育」と呼ぶ、と演説した。この二者を二元論的に並列させ、結果として「各人自己ノ為の教育」(普通教育)を否定するという国民教育論の主張であるが、普通教育の時代から国民教育の時代への転換を予兆する演説と言えよう。

・『教育報知』はわずか3年の間に教育は普通教育を根幹とすべきという社説から教育は国家教育であるべきとする社説に急転換させている。この急激な変質の背景には大日本帝国憲法制定、教育勅語頒布という政治過程への順応がある。

【大日本帝国憲法、教育勅語と普通教育】

1889年、大日本帝国憲法が制定されたが、その過程で教育条項を置くかどうかが争点となり、教育に対する天皇の独立命令権を確保するという見地から除外されることになった。

1890年、地方長官会議は「普通教育の件」を審議したが、これが、「徳義涵養ノ件ニ関スル建議」としてまとめられ、最終的に「教育ニ関スル勅語」を生み出した。

・大日本帝国憲法、教育勅語体制への転換を受けて1890年、小学校令が改定されたが、これまで教 育目的とされていた「普通教育」は削除され、「国民教育」に換えられた。この語句の文部省原案は「帝国臣民ニ欠ク可ラサルノ普通教育」であった。

1891年、江木千之普通学務局長は「帝国小学教育ノ本旨」と題する演説において「国民教育」を「国家ノ特性」に対応する教育と説明し、その教育を全国に普及するのが「普通教育」であると述べた。

【普通教育学への進展】

・法律用語からは「普通教育」は消滅したが、1900年以降、『普通教育学』など師範学校生を主な対象とする教育学文献や「普通教育」「普通教育新聞」などをタイトルとする教育誌や新聞、「普通教育研究会」などが刊行、発行あるいは組織された。

・沢柳政太郎は1909年、『実際的教育学』において「教育学がその研究対象とする教育の範囲は学校教育中の普通教育に限定したい」と主張した。沢柳の場合の「普通教育」とは「成るべく長く小国民(陛下の赤子一引用者)が共通同一の教育を受けることは国民精神の統一上望ましい」という見地からのものであった。

・帝国教育会は1909年、『普通教育制度年表(増補改訂版)』を発行した。

1932年、大日本学術協会編『日本教育行政法論』(『教育学術界』収録)は、第5章を「初等普通教育論」、第6章を「高等普通教育論」に充てている。

1939年、岩波書店『教育学辞典』に石川謙・船越源一署名の「普通教育」の項目が置かれた。「意義」、「分類」、「教科目とその沿革」および「外国における普通教育の教科目」からなる学術的な内容のものであった。

【普通教育制度の進展】

1893(明治26)年、『教育時論』は「実業教育を以て普通教育を害すること勿れ」という論説を掲げた。石川県では明治1718年頃から各小学校に農事・養蚕・陶器等の科を置いて、父兄も子どもたちも受け入れたが、数年にして「事実の利益少なきを認め校舎は月に衰え生徒は歳に減じ今や一校を存するのみ」という事態に陥った。論説はその主な原因を「普通教育の範囲内に強いて実業なる専門科を加え両者の間に避くべからざる衝突を来した」と断じている。

 なお、この事実は1885年の教育令改正の際に構想された「小学校及小学教場教則綱領」が小学校(科)を第1種普通小学校、第2種普通小学校、農業小学校、工業小学校、商業小学校および男児高等小学校・女児高等小学校の7種に再編しようとしていたことに見るように、当時の職業教育重視政策を背景としたものである。

1907(明治40)年の小学校令改正で小学校の義務教育年限は6年、高等小学校は23年とされた。その際、牧野文相は「高等小学校」の教育目的を中学校・高等女学校のそれと区別して「一層 精深適切ナル普通教育」と説明している。このことは小学校の教育目的を「普通教育」と認識する状況があったことをも意味している。その後、高等小学校の教育目的は「更ニ進ミタル普通教育」と規定されていく。

・その後、義務教育としての普通教育(小学校)を拡充していくべきなのか、義務教育ではない高等普通教育(中学校)を拡充するべきなのかが重要な政策課題となっていく。

1923(大正12)年に制定された盲学校及聾唖学校令はその目的を「盲人・聾唖者ニ普通教育ヲ施シ其ノ生活ニ須要ナル特殊ノ知識技能ヲ授クルヲ目的トシ」と定め、盲学校および聾唖学校においては「普通教育ヲ施ス」ことを第一義的目的としている。

1927(昭和2)年、沢柳政太郎は「小学校教育即ち初等普通教育は国民一般の教育」とした上で、「中産階級の勢力は偉大なものであるから、之が教育の重要なことは云ふまでもない」としてその教育を「中等普通教育」と呼んでいる。この場合の「中等」という言葉の意味は、発達段階的な意味というよりも「中産階級」に対応するという意味で用いられていることである。

【高等普通教育について】

・学制において中学校の教育目的は「普通ノ学科」であったが、1879年制定の教育令では「高等ナル普通学科」とされた。

1886年の中学校令では尋常中学校・高等中学校を通して「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育」とされた。1890年の高等中学校官制は高等中学校の教育目的を「高等ノ普通教育」とし、一方、1891年の中学校令改正で尋常中学校および高等女学校の教育目的は「高等普通教育」とされた。

・以後、中学校、高等中学校および高等学校の教育目的はいずれも「高等普通教育」という用語を用いているが、高等学校の方は「更ニ精深ナル程度ニ於テ高等普通教育ヲ」などと規定されることとなった。

・高等小学校については「一層精深適切ナル普通教育」、高等学校令については「更ニ精深ナル程度ニ於テ高等普通教育」など無理な目的規定となるのは、普通教育を大学や高等学校の側から位置づけるのか、小学校の側から位置づけるのかについて、文部省が明確な理念を持ちえないでいたからと思われる。この問題は戦後教育改革においても根本的な解決をみることなく、事実上今日まで引きずっていると言えよう。

【初等普通教育の法令用語化】

1941(昭和16)年に制定された国民学校令は国民学校の教育目的を「皇国ノ道ニ則リテ初等普通 教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とし「初等普通教育」という文言を法令用語として初めて用いた。

・この時点で「初等普通教育」という言葉が採用されたのは、「中等普通教育」という語句が広く用いられてきたこと、高等普通教育と中等普通教育という語句に合わせて新設の「国民学校」の教育目的を構想する必要が意識されたこと、などが考えられる。なお、「初等普通教育」という言葉自体は1884(明治17)年以来断続的に用いられていた。

【戦前日本における普通教育という語句の性格】

 戦前全体を通して普通教育という語句がさまざまに論じられ、また制度化されていったが、総じて以下に掲げるような意味で理解され用いられていた。

①普通教育という語句は独立、民主主義、平和、平安、幸福、文明、文化、真理、自由、個人、人間性、国民、国会開設、主権、参政権、生産力、社会の進歩、品位、理性、政治的判断力、自治自立、基本的人権、人間としての義務、等の語句とむすびついて論じられてた。

②普通教育制度は社会の基礎的な部分を構成するということ、同時に社会の維持・存続にとって普通教育のあり方はつねに政治上の基本問題として意識された。

③普通教育制度は理念・目的・内容・行政等におよぶ包括的な制度である。

④普通教育は本質的には人間の育成を第一義的に求めるものであり、その中に国民の育成を包含するものである。

⑤子どもの養育は基本的には父母の責任・義務のもとで行われなければならないが、普通教育は社会の共同事務であり、社会の共同事務としての実質化を求めるものである。その成熟の度合がその時々の普通教育制度のあり方を規定するということが意識された。

⑥人間的諸能力全体の成長・発達の過程には一定の法則があり、普通教育はそれに即したものでなければならない。

⑦普通教育を受けることは子どもの権利であり、それを保障することは父母の義務である。

⑧義務制、男女共学制、無償制の問題は普通教育と不可分である。

⑨理念としては普通教育の修業年限は12年である。

⑩普通教育は基本的には高等教育や専門教育と対をなすというよりも、普通教育自体の存在理由がある。