父のこと —あとがきに代えて

                           武田 晃二

        

 父(本名・武田暹(すすむ))は、1981(昭和56)年1019日、盛岡の病院で消化管出血のために80歳で亡くなった。

 本全集は父の遺志を実現したものである。父は生前、2度にわたり、自作集を出す構想をたてたことがある。最初は、亡くなる7年ほど前で、遺作となった「新山燃ゆ」(未発表)がまだ書かれていない頃である。1冊本の自選集といったようなもので、自ら「後書」を書くほど構想は具体化したが、結局は実現にいたらなかった。その「後書」は、「此の一巻は、選集とも生前遺稿集とも言えるかも知れぬけれど、そのような殊勝な心掛けで編んだわけでは無い。ペンの遊びを知ってから60年、今までに折りに触れ書き散らした文を掻き集め、老後の無聊を慰めんものと、一つ所に焚かんとするのに過ぎぬ」で始まり、「此の一巻を上梓するに当たり、言葉に尽きせぬお力添えを惜しまれなかった方々に、爰に更めて心からなる謝辞を申し上げる」と結んでいる。

 2度目の構想は、亡くなる10日ほど前の盛岡の病院の1室で、ほぼ本全集に近いところまで具体化した。私は少なくない原稿、資料等病室にもちこんで、4日間のほとんどを父とプランについて打合せた。この上下2冊の本の中に、父の気持はほぼ完全に生かされていると思う。出版社との交渉はその頃内地研究で東京に滞在していた私に委せられたが、そのプランを携えて立風書房を初めて訪ねることにしていたまさにその日の早朝、盛岡から訃報が伝えられた。

       *        *

 父は1901(明治34)年49日、武田金吉・松枝の2男として、札幌区南1条西10丁目4番地に生まれた。祖父・金吉は山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)の出身で、松枝は同じ鶴岡の磯島家の長女で、ともに同年齢で23歳で結婚している。のちに父が世話になる磯島家は当時製糸業「磯島商店」を経営しており、アメリカへの輸出の波に乗って成功し、庄内でも屈指の規模を誇っていたという。

 祖父・金吉は看守をしていたが、詳しいことはほとんど分らない。また羽黒山等で神官としての修行にも励んでいたという。金吉夫婦が9歳と6歳になる長男・長女の手をひいて、札幌に移り住んだのは、彼らが30歳の時で、転居した1ヵ月後に父が生まれている。大きな腹をかかえての一家移住であったが、移住の動機ははっきりしない。戸籍でみる限り、移転の直前に、曾祖父・佐平治が17年間の失踪の後、家に戻っているから、それなりの複雑な事情があったのであろう。

 札幌に移り住んだ金吉は巡査をしていたと聞いているが、数年で退職し、戸籍上は、明治4010月に小樽市花園町西2丁目26番地に転居している。父は4年ほど札幌にいたと話していたから、実際の転居は明治38年頃であったかも知れない。この転居は、花園町周辺に12町歩余の広大な土地を所有する浅羽靖氏(当時衆議院議員、現在の北海学園の創設者)からその土地の管理を依頼されたためである。「この土地は武田金吉に管理を委任してあったが、大正310月、彼(浅羽靖氏―引用者)の死亡後―(中略)―その殆んど全てを函館の小熊幸四郎に売り渡された」(『浅羽靖』中嶋健一著、昭和44年、学校法人北海学園発行)。札幌で生まれた次女をいれて親子6人はこうして小樽での生活を始めることになった。金吉はこの土地管理人としての仕事の他に、奥沢町にある住吉神社の神官をも勤め、また町内の消防団の仕事にも精を出した。さらにどういう訳か56軒の家を所有し、そこからの上がりも収入の一部であった。祖母・松枝は自宅の玄関先でタバコ屋を営んでいた。小樽に移ってからも金吉夫婦はさらに3人(12女)を出産しているが、いずれも幼くして死んでいる。

 当時、小樽中学、小樽高商へとつながる名門校として、寄留してまでも通う児童がかなりあったという花園尋常小学校を卒業した父は、そういう進学、出世コースに反発したかどうかは定かではないが、ともかく「中学校に進みたくなかった」(父の談)から、当時稲穂小学校に併設されていた高等小学校に進んだが、結局その後、樽中(庁立小樽中学校、現在の道立小樽潮陵高校)に進学した。読書好きで長身の、どこか大人びた青年が浮かんでくる。

 中学を卒業する前年(1920年)の11月、同校を中心とする文学青年たちによって文芸総合雑誌『群像』が創刊された。父もこの仕事に当初から積極的にかかわり、小説部門の選考などにあたっていた。この『群像』は、創刊に先立って地元紙に投稿を募る広告を出していることにも見られるように、同人組織(「群像社」)でありながら、同人誌という枠にとどまらず、文芸各部門にわたって投稿を広く募り、したがってかなり広い読者を獲得した。また大月源二や木田金次郎らが表紙絵を描き、途中から後援会員として宇野千代、小林多喜二などが名を連ねるなど、重量感のある文芸誌であったが、3年半の間に8号まで出して終刊となった。「(北海道)文壇に寄与した功績は充分に注目されて差支えない」という父の評価(「北海道文壇小史」)は今日ほぼ認められている。

 さて、この『群像』、わけてもその創刊号への父の参加は、父にとって、2つの意味において、その後の生涯の中でもおそらくもっとも記念すべき出来事であった。

 その1つは、この創刊号が父のいわば処女作の発表の場となったことである。当時小樽中学の最終学年に在籍していた20歳の父は短編小説「その自殺」を載せている。

 同校の1年下にいた伊藤整は、のちにこの作品に触れて「彼(武田)の小説は、彼が私と同級生だった美少年との同性愛を描いていると、学校内の評判になり、詩をかきはじめていた私は、それを読んで興奮した。そして、私は随分長い間彼が小説家になるものと思っていた。」(「若い詩人の肖像」)と書いている。主題といい力量といい初期短編群への確かなデビュー作品と言えよう。

 第2の出来事と言うのは、この創刊号の編集を通して、父にとって生涯敬愛してやまなかった友人・小林多喜二と出会ったことであった。

 父よりも2歳年下で絵や文学に若い情熱をたぎらせていた青年が小樽商業高校に在学していた。海岸に沿って細長い小樽の町の中で、小樽中学と商業学校はちょうど父の住む花園町を中点として反対側にあった。両校は何かと反目する間柄にあったが、その文学青年は、新聞で知ったのか早速小説を書いて「群像社」に送ってきた。原稿の第1ページには「駄菓子屋、小林多喜二」と書かれてあった。選考にあたっていた父は、のちにつぎのように回想している。

  「私は、家にかえり、その『駄菓子屋』を読みかえし

    てみた。ちっともケレンというものがない。こころに

    くいばかりにおちついた筆致で描いている。この境地

    は、2年や3年の短い小説勉強では決して生れてくるも

    のではないことは、私はいやでも確めざるを得なかっ

    たのである。そして、私は、作品からうけた感銘と、

    作者の印象との間に、大きなギャップがあるのにびっ 

    くりしたのだ。そればかりではない、小林の出現にた

    じろぐ敗北感に、私は、いつの間にか打ちのめされて

    いたのであった。すきな作品ではなかったけれど、私

    は小林の小説にはかなわないと、おもった。だから、

  われわれの雑誌に、私と肩をならべて小林のものをの

    せる勇気や雅量を、持つことは出来なかったのだ。

   かように、小林をはばむものが、私のうちにふかく

    根をおろしてしまった。それ故、「駄菓子屋」が『群

    像』から閉めだしをくらったのは、作品そのものがま

    ずいからではなかった。また、中学対商業という学校

    の閥からでもなかった。それは、小林と私との2人の間

    だけにかもし出された、一種特別な関係からによるの

    であって、卒直にいえば、競争心理なるものが私のう

    ちにはたらいたからに相違ないのであった。」(「回

    想の小林多喜二」)

 

 没書事件とまで言われ、いわば伝説化したこのエピソードも、父にとっては、多喜二の作品評価、作家としての力量、人格への関心、今後の対応の仕方、などが一瞬にして交錯する衝撃的な出来事であった。没にした理由についても、いろいろ言われているが、先の父の文章が私には一番納得できる。しかし、「おれの小説を没書にするくらいだから、『群像』の武田はよほどえらい奴にちがいない」という意味のことを多喜二が周辺に言いふらしているという噂を時折耳にする程度で、2人の直接の出会いはすぐにははじまらなかった。多喜二もその後『群像』には投稿していない。

 ついでに言えば、後に父は、いわば部外者であるにもかかわらず、何のこだわりもなく投稿してくる小林と、『群像』のもっとも身近にあって、しかもすでに詩作などに手を染めていたにもかかわらず、一編の作品も投稿しない伊藤整とを対比して、2人の対照的な個性についても書いている(「小林多喜二と伊藤整」)。

 さて、1921(大正10)年、小林多喜二は伯父の援助を得て小樽高商(現在の小樽商科大学)へ進み、父は北海道帝国大学附属図書館(但し、この名称は翌大正115月の勅令257号による)に臨時雇として就職した。間もなく常雇となるが、月俸は42円だった。職員数は当時14名で、蔵書は大正14年で13万余冊とあるが、農学部を中心とする自然科学的分野のものが大半であった。しかし、当時このような職場は文学などを志そうとする青年にねらわれていたのであろうか、父も自ら進んで就職したようでもあるし、2年後には島木健作(本名・朝倉菊雄)も雇員となっている。

 父はなぜ大学を志向しなかったのか。家族の反対とか、経済上の理由はほとんど考えられない。あるいは、かつて名門コースに乗ることを嫌って「中学へ行きたくなかった」と考えた時と同じような心情が働いたのかも知れない。「大学なんて」という気持と同時に、多喜二や伊藤整らが高商へ進み、自らも絶えず大学の内外に身を置いていたこともあって、大学、学問、教授というものをどう受け止めるべきかは父にとって、文学的というよりも、むしろ人生論的課題として、深刻なテーマであったように思う。心情的にはかなり屈折したものを形成していったように思う。

 創作第2作は「胎芽」という短編で、大正11年発行の『群像』第5号に掲載された。何らかの事情で家族を異にしている16歳と14歳の兄妹の恋愛感情を描いたものである。父はこの作品について自ら4年後の「一夜」の中でつぎのように書いている。

  「男は小説らしいものを書いた。しかし、彼自身でさ

  え認めることの出来ない作品を書いた。恥ではあった

  が、苦しみは猶強かった。只、幸福なことには、その

  十字架に直面するだけの勇気を失ってはいなかったこ

  とだ。

 

    女は続けた。

  『けれど、(胎芽)という兄妹間の恋愛を措いた小説

  は、わたしには理解できませんでした。愚かな質問で

 

  しょうかしら。若しおいやでなかったら、あの作品に

  立ち入ってお伺いしたいと思いますの』

   男は黙った。女のこの質問に答え得るだけの立派な

  科学的論拠は勿論、芸術的弁証さえも持ち合せなかっ

 

  た。認識が浅く、その上表現の不足が作品を曇らせて

  いたからだ。」

 

 この「一夜」は『クラルテ』終刊号に載ったものだが、あるいはこの中の「女」は小林多喜二の声であったのかも知れない。もちろん、札幌に下宿し、図書館に勤務し、「胎芽」を書いていた頃は、多喜二との直接の交流はなかった。

 さて、1924(大正13)年、しばらく開設準備にあった小樽市立図書館は、建物も完成し、3月には初代館長として北海道史学を史学たらしめたと評されている大人物・河野常吉を迎え開館している。そこの書記を求めていた館長は、小樽の人間だからということだったのかどうかはわからないが、北大図書館に勤務していた24歳になったばかりの父を小樽に呼んだ。三浦迪彦氏によれば「今様のいい方をすればスカウトされたのである。当時の北大司書官柴田さんと河野さんはお互いが苦手で、或る日突然見えられた河野さんは、武田さんを物蔭に呼んで強引にウンと言わせた。武田さんは勿論、後で柴田さんにしぼられることになる」(『北方文芸』1982年新年号)。というわけで517日付で書記となった。月俸は50円から60円となった。当時小樽図書館には館長の他司書・書記各1名と2名の職員がいた。のちに父は司書をも兼ねた。

 この年、小樽高商を卒業し、北海道拓殖銀行小樽支店に就職した小林多喜二は自ら主宰して同人誌『クラルテ』の発行をめざしていた。志賀直哉や葉山嘉樹に傾倒していた多喜二は高商時代にも活発な創作活動を行っているが、同人誌を組織するのははじめてであった。多喜二は友人を通して父にも同人になるよう誘っている。一度は没にした相手から逆に同人の誘いを受ける立場におかれた父は少なからず狼狽したが、同時に多喜二の文学にたいするひたむきな姿勢を感じ、いっそう尊敬の念を強めた。

『クラルテ』創刊号は同年5月に出たが、父は2号から同人として参加している。その2号(同年7月刊)には、あの「駄菓子屋」も載っているが、意地悪ともあてつけともとれる編集の仕方について、誰れも何も語っていない。

 多喜二が『クラルテ』にこめた想いについて、父は「クラルテ張りの雑誌(フランスの行動的思想家であるアンリ・バルビュスが主宰発行していた週刊『クラルテ』のこと―引用者)を出したかったにちがいなかった」と回想しているが、実際は「ほかの同人たちは誌名にとらわれるようなことがなく、それぞれに各人各様に書いていた」ようであった。しかし、10名の同人たちは「自作原稿をもちよって、朗読しあい、遠慮のない批判をやり、その合評会をへて『クラルテ』に」載せることを原則としていたようであり、「みんなの文学勉強は、いまおもってもすさまじいものがあった」と父は壊しんでいる。当時はいわば同人誌全盛期でもあり、大正期の独特な若さ、熱っぽさが時代にみなぎっていたことも背景としてあったと思うが、やはりつねにその中心にいた多喜二の情熱が同人たちをふるいたたせていたのではないだろうか。多喜二の批評は、外に向かっては正確でかつ手きびしいものであったが、同人に向かっては乱暴な表現は決して用いず、たえず相手をはげまし、元気づけるようなものだった。いずれにしても、多喜二にとって批評活動は、批評のための批評というものではなく、それを通して自らの創作活動を一歩一歩向上させていく真剣な精神活動の一部であったのであろう。当然のことながら、多喜二は「自分の作品に対する批評を猛烈に欲求して」いたという。

 同人たちは、父がいわば住み込みのように起居していた小樽図書館の当直室だったかも知れない和室に、夜な夜な集まってきて、文学を論じ合った。多喜二の日記「折々帳」に散見される「夜武田のところから帰る」とはこのことを指す。甥の正木亘はしばしば食事を運ばせられたと言う。

 『クラルテ』は19262月の5号をもって終刊となるが、このほぼ2年間は、多喜二にとって文学活動以外にも重要な時期であった。拓銀就職、父・末松の死、田口タキとの出会い、東京商科大学受験のための上京とその失敗等である。同人たちはお互いの生活全般にわたってもよき友人たちであった。

 さて、父は2号から終刊号まで毎号作品を載せている。「東京へ」(2号)、「正義派」(3号)、「靄(もや)」(4号)、「一夜」(5号)である。

 「東京へ」は、高等学校の図書館職員がたまたま入学試験の監督を命ぜられ、試験場で言葉を交わした「顔のきれいな受験生」に、その学校の教官であると思われ、彼が入学してきたときのことを考えて狼狽し、「底知れない憂うつ」に悩み、一刻も早く、その町から逃れ、東京へ、と夢をつなげる、という話である。「正義派」は、お互いに相手の夫・妻を本当は愛し合っている2組の若い夫婦の感情を細やかに書いている。夫が病死したというその妻からの通知を手にして、その妻に寄せるもう一方の夫の複雑な動揺を軸に、「体裁のいい正義派」と自己規定して、お互いの立場に立たなければならない気持を「心から淋しい」と感じながらも、どうすることもできない心理を浮かびあがらせている。多喜二はこの作品を掲載号巻末の「仲間雑記」の中で「力作である」と評しているが、男女の複雑な感情が24歳とも思えない筆致で描かれているように思う。

 「靄」は、カフェの女給をしている女と結婚しょうとしている男が、そのためと称してかれの妹を妻にしている友人の銀行員に多額の借金をせがみつづける。銀行員はこれを拒むことができず翻訳の内職までしてこの無理に耐えようとするが、そんな夫を見ていることができない貞淑な妻は自分の身体で金をつくろうと家を出る。この事情を知ったカフェの女給はうろたえるが、なおも男への愛を捨てきれず苦悩する。そのカフェから出てきた銀行員はすぐ前を通りすぎた乗用車の中の女を見て、靄の中に自分の妻だと思う。

 『クラルテ』第5号に載った「一夜」についてはすでにふれたが、ストーリーの展開というよりも、これまでの自分の作品を振り返り、「表現派!と独白する男にたいし、「そういう傾向的な言い方は、己にアカデミックになりかかった証拠ではないでしょうか」と女に言われ、芸術に対して永遠の処女、「なにものにも囚われない、自由な正しい本質」への愛を今一度確認している。芸術的価値の永遠性と結びつけて、自由・正義を捉えようとする父独特の見地(もちろん、そのような見地はその時代の芸術意識の主要な傾向の反映でもあったようでもあるが)と動揺とが芽生えているように思われる。

 確かに父はここで動揺している。不安を感じている。とくに「正義派」を書く父の気持の中にこの不安、文学上の壁はすでに意識されていたはずである。愛の喪失ないしは不在を意識している夫婦が、「体裁のいい正義」によって愛をとりつくろおうとすることの不合理性をとらえ、その倫理的紐帯を越えたところに(つまり、人妻への愛という形において)真の愛が、自由で正義にささえられた愛が存在するというテーマは、すでにそのテーマ自体において単純性、短絡性を内包している。その時代の中にあって、愛の喪失、不在の意味を単に個別的特殊的にではなく、歴史的、社会的、文化的連関において深く掘り下げてとらえ、その時代的変化の中に夫婦における愛の回復の可能性を探求する、という文学的方向は当時においても可能だったのではなかろうか。これはブルジョア・リアリズムの枠の中でも存在しえた方向であったと思う。しかしながら、新しい倫理的価値の現実的・歴史的探求の努力が、「体裁のいい」という一語で放棄させられ、愛そのものという、より広がりをもった芸術的価値にすりかえられて、抽象的、普遍的世界のかなたへ飛んでいってしまうのである。また、自由とは、囚われるべきもの(必然性)には徹底的に囚われることによって、囚われるべきでないもの、を克服する力として存在するものであろう。「何ごとにも囚われない」ことを無条件的に肯定する父の自由観はあまりにも囚われなさすぎると言わなけれはならない。

 当時おそらく父において意識されていたであろうこの文学創作上の不安・動揺は必ずしも正しくは解決されなかった。私見によればそこにはそれなりの理由があった。より特殊的には、やはり小林多喜二との関係の中に見出すことができよう。多喜二のプロレタリア・リアリズムへの傾斜が、父にはあるいは環境決定論的手法への傾斜と映ったのではあるまいか。多喜二は『クラルテ』の合評会等でその作品について「自然主義的に古い古いとみんなからよくいわれ」(「『クラルテ』時代」)、また、父も時には、「好きではない」という時、そこにはすでにお互いに文学の課題に対する深刻なズレが少なくとも体験的には意識されていたはずである。しかし、プロレタリア文学がその萌芽期において、おそらく不可避であったであろう形式上の「古さ」と、それを媒介としてどのような内容上の新しさを獲得するかという課題は、複雑な政治的思想的試練をくぐりぬけながら、相当な時間的摸索が必要だったのであろう。にもかかわらず、『クラルテ』を中心に、毎夜のごとき文学論議の中で、十分な総括をなしえぬままに、自己の文学的形式を闡明にせざるを得なかった父にとって、無媒介的に新しさをのみ追求する文学的傾向をいっそう固定化させることになってしまったのではなかろうか。

 と同時に、より一般的・客観的に言えば、文学的リアリズムをめぐる作品批評のその時代における未成熟さも、父の文学的傾向をいっそうおしすすめることになったように思われる。

 ところで、この頃の父の文学観を知る上で『群像』・『クラルテ』を通じて唯一の父自身の文学批評が『群像』第2号(大正103月刊)に「雑感」と題して収録されている。父の小樽中学卒業直前のものである。当時の文学的動向として民衆文学・社会文学・野性文学をとりあげ、武者小路実篤に依りながら、「作者の性格内部に燃焼され、生み出される真の芸術を、民衆化し、社会化し、野性化されない限りは、本当の正しい意味の民衆文学、社会文学、野性文学は生れないのだ」と強調している。だがしかし、「作者の魂」をそれ自体として文学創作の基本においていること、民衆性、社会性、野性性をいかに作者あるいは作品の中に内在化させていくかについての積極的な探求がなされていないこと、などいくつか指摘されるべき論点を胚胎した文章であるように思われる。

 さて、父の文学的行きづまりは、同人誌『クラルテ』の行きづまりでもあった。プロレタリア・リアリズムの方向へ確信を深めていった多喜二にとっては、より高いより広い文学上の飛躍を意識せずにはいられなかった。金銭上の理由もさることながら、むしろ文学的必然性を内包して『クラルテ』は消えていったのである。とはいえ、同人問の文学的・日常的交流、父と多喜二との関係は、それによって終るのではなく、さまざまな実際的な活動の広がりの中で、しばらく続いていった。

 1926(大正15)年、『文芸春秋』6月・8月号はくりかえし懸賞小説の応募を呼びかけ、「同人雑誌による若き作者が妙に取すましているのは変だ。ドシドシ投稿あって如何」とけしかけている。結局集まった1200余編のうち54編が第1次選考を通り、さらに10数編が佳作として残ったが、その中に父と小林の作品が入っていたという。というというのは、父の作品が入っていたかどうか私は今現在その事実を確認していないからである。多喜二のは郷利基(ゴーリキー)のペンネームで「最後のもの」という作品だったが、この作品1編のみが、昭和32月に創刊された『創作月刊』に収録された。父の作品は現存していず、その題名も父の記憶では「丘」であるが、多喜二の日記「折々帳」(192768日記)によれは「武田の半歳の力作『尼』を読んで、その批評を書いた。文章に力強いところがあった。概念的に大ざっぱなものだが」と書いてあるところからすれは、あるいは「尼」だったかも知れない。時期的に言えば、『文芸春秋』に応募した作品と「丘」あるいは「尼」はほぼ同一作品と思われるが、今は確かめようがない。父の作品系列、多喜二の感想の抱き方などからみても、作品が現存していないのが悔やまれる。

 1927(昭和2)年という年は、父にとっても多喜二にとっても、さらに2人の関係にとってもきわめて重要な年となった。

 多喜二はこの年、社会科学の理解を大いに前進させている。「折々帳」の2月のところでは、「社会主義者として、自分の進路が分っていながら、色々な点で、グズグズしている自分である。マルクスの『資本論』でも読んでみたい気がしている。が、それの根本的な処に疑いをもっている自分は、結局社会主義的情熱を永久に持てぬように思われる」と書いているが、しかし4月頃から「共産党宣言」、「資本論」、「経済学批判」、「反デューリング論」、「唯物論と経験批判論」など科学的社会主義の古典や河上肇・福本和夫のものなどを矢継早に読み進めている。また古川友一らが中心となっている「研究会」の熱心なメンバーにもなっている。

 36日、余市実科高等女学校において「文芸講演会」が開かれ、『クラルテ』同人の四人が講演している。父もその1人だった。5月には、改造社が企画して芥川竜之介と里見弴が北海道各地を講演して回り、20日は小樽でも講演会が開かれた。父と多喜二も当然顔を出したが、伊藤整も彼らとは別に聞きにきていて、この講演会の模様を詳しく伝えている(「若い詩人の肖像」)。『クラルテ』同人はその夜の部を受持つことになり、会場となった料亭「新中島」の部屋には芸者もそろって賑やかな一時が始まろうとしていた。しかし、すでに芥川や里見に文学的関心を寄せていなかった多喜二にとって、この場には別の明確な目的意識をもって臨んでいた。すなわち文士たちの消息に明るい里見から、その頃傾倒していた志賀直哉のあれこれについて直接聞き出すことだった。父はといえは、依然として強い影響を受けている大作家・芥川を目の前にして顔を紅潮させていたにちがいなかった。父は、芥川の表情の中に、2カ月後のかれの死の影を見ることはできなかったであろう。その7月の芥川の自殺は、当時の文学界にとって大事件であったが、当然父にとっても深刻なショックであり、その後の父の運命をも左右するほどであったと思われるが、多喜二にとっては、「折々帳」にその事実がさりげなく一行記されているのみで、言わばすでに芥川の文学上の死を見ぬいていたかのようでもある。

 労働運動、農民運動、文化運動へ多喜二が大きく踏み込んでいくのもこの年であった。磯野小作争議や小樽港湾大争議にも銀行員、作家としての立場から積極的に参加し、労農芸術家連盟にも加入している。

 同じ頃、自ら身を引こうとする田口タキの態度に苦しみ、「憂うつだ。自殺したくなる迄!」と叫んでいる多喜二でもあった。

 8月と11月には、築地小劇場が来樽しているが、そういうときにはきまって、『クラルテ』の同人らが、ポスター貼り、前売券さばきなどにかけずり回った。秋には、カア・ソンダースの著書を「人口問題研究」として翻訳した奈良勝美氏の出版祝賀会が開かれ、父は多喜二らとともに出席したが、南亮三郎小樽高商教授の講演が終るや否や、予期した通り、多喜二が論戦を挑んだ。南教授の回想によれば、「思いがけない論敵の出現で、私は瞬時、どきんとした。祝賀会の席がたちまち火花の発する論議の場所となった。/……私の答弁は小林君の再度の発言を封じてしまった。……小林君は仲間の若いグループにかこまれて、席を蹴るようにして出て行った」(小樽商大同窓会誌「緑丘」第22号)。ところが会場を出たとたん、「小林が、わっと、大きな声で空にむかって泣き出したのである。まさに、号泣だった。……小林は、からだを私にまかせながら、畜生、敗けるもんか、いまに見てろ、と、マントの中でさけんだ。……/私はいまでも思うのである。あの時、小林はなぜあんなに泣いたんだろう。月並に解釈すれは、南教授との論戦に敗けたくやし涙ともとれる。祝賀会をめちゃめちゃにした恥ずかしさの涙であったかもしれぬ。しかし、小林はそんなケチなことであんなに泣く男ではなかった。キッカケにはなったが、小林はあの時、もっと強くなれ、信ずる道をまっすぐに突きすすむんだ、と自分自身への誓を涙で誓ったのだと思うのである。私はあの時、一塊の火の玉となって燃えあがろうとする小林を肌に感じとったからである」(「『クラルテ』時代」)

 こんなわけで、小林の日記「折々帳」にもこの年を通じて、父の名もしばしば登場しているが、しかし、1010日記の「武田は東京へ行った」を最後に姿を消している。そしてこの「折々帳」も翌年11日をもって終っているのであるが、そこにはつぎのように記されていた。「我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ」と。この決意は単に年頭にあたってのそれというようなものではなく、すでに前年、社会科学的力量を大いに深め、労働争議、小作争議、文化運動等の分野にも大きく踏み込んでいた多喜二にとって、その後の人生をまさに象徴するにふさわしい決意であり、事実、多喜二は「火の玉」となって、その年を出発したのである。

 「防雪林」の執筆、東倶知安への山本懸蔵候補支援、全国無産者芸術連盟の結成にともなう小樽支部の設立、「1928315日」の執筆と『戦旗』への発表、「東倶知安行」の執筆、「蟹工船」の執筆、さらに29年に入って「蟹工船」の『戦旗』発表、日本プロレタリア作家同盟・中央委員、「不在地主」への着手、とつづく。

 これらの仕事が、銀行員としての生活と並行して進められていたのだが、「不在地主」が、勤務している銀行の収集した資料に依拠していることを理由に、次第に圧迫が加えられ、ついに2911月中旬解雇となった。

 一方、この2年間の父の動静については、ひきつづき小樽市立図書館に勤務しているということ以外には、ほとんど知ることがない。ただ、「不在地主」という題はオレが選んでやったんだとか、拓銀解雇の際にはいろいろと相談にのった、というような話を父の回想の中に散見するだけである。

 ここに、いわゆる「過渡時代」にあって、かなりな生活を共にしながら、文学に込めた想いの発散の仕方において、きわめて対照的かつ象徴的な二つの軌跡を見るおもいがするのは私だけでもないと思う。

 父と多喜二らとの最後の仕事は、同人誌『新機械派』の編集・発行であった。これは多喜二が解雇されて、その翌年5月に出版されているが、多喜二にとっては小樽時代の最後の仕事であり、父にとっては、いわば『群像』・『クラルテ』時代の最後の作品の発表の機会であった。

 この同人誌発行の意図については、その「編集前記」に「『新機械派』は各派・各流文学の錯綜している中にあって、最も必然性を持った『イズム』の把捉にある。なぜなら近代機械機構を根底とする芸術建築設計の現示にあるから、である」とある。小林は必ずしもこの発行の中心になったわけではないと思われるが、自ら「『機械の階級性』について」というすぐれた評論を書き、芸術における形式と内容の弁証法的交互作用の深化・発展の必要性を強調し、「形式主義」およびその時代的流派である「超現実主義(シュウルレアリズム)」を批判し、さらに「機械」を文学が対象とすることの意義を論じながら、その「ロマンティシズム」的立場と「レアリズム」的立場の本質的差異を明確にし、「機械と芸術の交流を飽くまでも『プロレタリア・レアリズム』の立場から問題にする」ことを力説している。

 実は、ここでの小林の論点は、その時代における一般的意味と同時に、北条道太郎というペンネームで同誌に掲載された父の「カタムク大尉」にたいする批判ともなっているように思われる。陸軍大学への受験準備をしている青木大尉は妻の入院中、自宅で妻の妹の世話を受けるが、その彼女・リン子と微妙な関係になる。そのことに気づいている軍人の家柄に生まれ育った古い妻は、ただひたすら受験準備を夫に催促する。しかし、大尉は、友人からもはや空軍の時代であること、また軍縮の時代のもとでの軍人失業にそなえて飛行技術の習得が必要であること、を示唆されヵタムク(傾く)。連隊長からは退職をほのめかされ、その上リン子を部下の嫁にくれないかと脅かされる。退職後の相談に小学校時代の恩師を訪ねるが、君が大尉であるのは学校としての誇りであると一蹴され、そしてまたカタムク。「この先ににぎやかな街があるにちがいない」と「この道をひきかえすのがほんとうらしい気がするんだが」との間をさまよい、リン子を伴って死の道を選ぼうとするが、義兄への思慕を感じながらも、戦争はイヤだ、戦場で死ぬのはイヤだ、あるいは時代の中で生きる展望を失った人間と死を共にするのはイヤだ、と彼のもとを離れるリン子。片仮名まじりのいくらか幻想的な作品である。不倫な愛を軸にしているという点ではこれまでの作品の延長上にあると言えるが、時代性、登場人物の広がりという点では発展の面も認めたい。また幻想性ということに関して言うならば、父の連作となった半世紀後の「新山燃ゆ」に直接つながるものとも言えよう。父の文学的世界の体質的特徴の一面をなすとも言えると思う。

 さらに言えば、多喜二が先の評論において、「超現実主義」にふれて「とにもかくにも一つの『内容』への努力を持っている。その限りでは一つの積極性をもっている愛すべき流派ではあるが、その方向が何処を指している積極性かということになって、これは始めて他愛のない本体をバク露する」と評しているが、この指摘は、父の作品中の、

                                           とくに父の戦争観に至って見事に妥当する。すなわち、「戦争を、是非、やらなければならない時わ(ママ)、その(兵器や戦術の―引用者)発明論文を提出し合って、その優劣を、問うことになる。……つまり頭脳戦争と、ゆうことになるだろう」と言うのである。

 ところで、創刊号を出しただけに終ったこの同人誌『新機械派』は、父と多喜二との関係だけから言えば、まさに呉越同舟性を鮮やかに浮きぼりにした、とも言えようが、文学にはズブの素人である私の率直な感想を述べるならば、文学批評の基準をめぐる当時のいくつかの制約性・未熟性などが、あるいは両人の呉越同舟性を必要以上に増幅させる結果になったのではないか、と思うのである。

 わが国における文学的リアリズムの経験の浅さの上に、歴史的必然性を帯びてプロレタリア・リアリズムが昂揚してくるという文学的状況の中で、その時代の文学的感性が受けとめた文学的課題に固執するあまり、必要以上にリアリズムそれ自体への接近をも警戒しょうとする姿勢が、父の多喜二に対する関係を規定していたし、また父の作品の弱点ともなっていたであろうことはすでに触れたように思う。ここでは、多喜二の先の評論「『機械の階級性』について」に触発されて、そこに展開されている論点の一つである、文学における「個」の取扱いについて、一言だけ感想を述べてみたい。

 多喜二はその中で「超現実主義」を批判して、そこでの「個人」は、「社会関係から離された個人、『ロビンソン』の個人である。…‥人間の本質というものは、歴史、社会に於てはぢ(ママ)めて現実的に展開するものであり、そこから離れてしまった人間の本質は単に『種属』としての、純粋の『生理学』上の個人でしかないということを知らない」と強調している。この指摘は少なくとも社会科学的にはきわめて重要であり、かつ文学の上でも重要であると思う。ただ単純に論理的に言うならば、現実的・歴史的「個人」の力説が、当時の文学上の課題にどのように深くかみあっていたのだろうかという素朴な感想を抱くのである。プロレタリア文学運動にとってその時代、何が創作上の課題であったのかという問題はもとより別個の問題である。

 この評論における多喜二の論議に見るかぎり、「個人」をとらえるという点においては、「超現実主義(シュウルレアリズム)」もプロレタリア・リアリズムも、方法論上変わるところがない。そのとらえ方の科学性・階級性が問題とされたのである。しかし、いささか父の味方になって言うならば、不倫であれ何であれ、ともかくというような問題にこだわろうとした父の文学的関心は、誤解を恐れずに言えば、個人と個人の関係、そこにおける芸術・文化固有の価値現象を問おうとしている、という点においては、その科学性・階級性を全く度外視するかぎり、むしろ方法論上、より文学的であったとは言えないのだろうかと思うのである。文学的・芸術的価値を相対的にも、かつ絶対的にも、全体として相互に複雑に入り混じったものとして、しかも現実的・歴史的文脈の中にダイナミックに描くべく方法論の確立こそが望まれていたのではなかったろうか。父も、多喜二との文学交流の中での自意識の確認を、むしろそのような方向において徹底させるべきであったと思うのである。しかし、両者のこの間隙を埋める作業は、仮に多少は意識されていたにせよ、両者の文学活動に対する目的意識や創作活動のテンポの相違、あるいはその時代の政治的・思想的諸要因によって、現実には期待しえない課題であったのであろう。

 かくして、この「カタムク大尉」以後、実に10余年、父は1編も作品を書いていないが、それは生前の父の表現によればプロレタリア文学運動の隆盛のため、俺のような芸術派は作品を書くことができなくなった″ためということだが、私からすれば、食いたりない不徹底な清算的な言い方のように思われるのである。それは、その後15年戦争が拡大し太平洋戦争に突入する時期になって、不幸なことだが、すでにプロレタリア文学運動が壊滅させられてしまっていた頃、父は第2の創作活動昂揚期を迎えることになるのだが、しかし、そこでの文学は、かつての芸術派の、よりいっそうの「超現実主義」への接近でもなく、またリアリズムへの接近でもなく、少なくとも客観的にはいろいろ内包していたはずの文学的可能性をかなり割切ってしまったところの文学としての再出発だったのではないかと私には思われるからである。

 さて、『新機械派』を出して間もない19305月、多喜二は上京した。関西各地での『戦旗』防衛講演会、検挙、投獄。翌年、「オルグ」、「独房」を執筆するかたわら日本プロレタリア作家同盟書記長、10月日本共産党入党、「転形期の人々」執筆開始、さらに32年に入って地下活動をしながらの文化運動再建、日本反帝同盟執行委員、伊藤ふじ子との結婚、「党生活者」の執筆、そして33年、「地区の人々」が『改造』3月号に掲載され、その2日後の220日、スパイの手引で築地署特高らに逮捕され、その数時間後に虐殺され、29歳の生涯を閉じたのである。

 かけがえのないライバルを東京に奪われた父は、しばらくはひきつづき小樽図書館に勤務していたが、1932412日、突如としてそこを退職している。前年11月には祖父・金吉が死亡しているから、85円の俸給を受けていた父の退職は、母にとって大きなショックであったと思われる。退職の動機はまったくわからないが、父にとっての図書館は同時に文学仲間の社交場でもあったから、その中心メンバーがいなくなった今、退職は経済的にはともかくとして、気持の上では当然の成行であったのかも知れない。しかし、その退職がおそらく計画的であったと思われるのは、退職後ほとんど同時に、自宅の一部を改造して古書店「尚古堂書店」を開いていることからも分る。開店間もない6月には、約450冊を収録した立派な「目録」が発行され、そこには次のような開店の「挨拶」が刷り込まれている。「各位益々御清勝お慶び申し上げます。さて今般小生事小樽図書館を退き古本店を開業いたしました。この度開店御挨拶代りに小目録を御贈呈いたします。ただ時日の浅いため、良書の乏しいため大方の御満足を得ないのを残念に思います。そのために初号を考古・人類並北海道誌科その他の一部に心ならずも限定しました。なお追って全般書目を刊行いたします。(後略)」

 その頃しばしば北大附属図書館に顔を出していたというから、古書蒐集にあたっては北大図書館や、かつての上司である小樽図書館長であり名実ともに北海道史学の権威でもあった河野常吉らのアドバイスを受けていたと思われる。また、外回り専門の従業員も一人いたというから、当初はそれなりの気持で取組んでいたのであろうが、もとより商売上の器量はもちあわせていなかったから、一般受けするような本を店頭に並べるというわけでもなく、独り奥の部屋で読書に耽るという具合で、結局、大きな借財をかかえ、一年半後には店をたたまなければならなかった。しかし、後の『北方文芸』時代の父の作品群を見れば、この間の文献蒐集と読書は、大きく影響しているように思われる。

 友人・多喜二はすでに虐殺され、人生的・文学的葛藤に苦悩する父にとって、侵略拡大に狂奔する時代の重圧は、息苦しいばかりであったにちがいない。あたかもすべてを失ったかのごとく、34歳の独身であった父は老母を連れて、両親の郷里・山形県鶴岡にひっそりと身を寄せることになったのである。

 ほぼ5年余の鶴岡生活については、生前父から「あまり聞くな」と言われたこともあるが、ほとんど知られていない。記録によれは、最初の部分で述べた叔父の経営する製糸業・磯島商店の手伝いということになっているがおそらくそれも長くは続かなかったのであろう。指圧師のまねごとのようなものをしていたとも聞く。母子ともども部屋を借りては移り住んでいたともいう。経済的にはほぼどん底だったようで、磯島家には大変お世話になった。人生の大事な時期にあえてこのような生活に耐えていたのも、父にとってはひたすら文学活動の再起の機会をねらっていたからに他ならず、最低の生活費を捻出すること以外はほとんど本ばかり読んでいたようであった。その後の作品の矢継早の執筆を考えると、とくに幕末の北海道に関する史料・文献等に関心は向けられていたように思う。なお、この5年間の最後の1年半余、父はおそらく早稲田大学文学部の聴講生のような形で東京生活をしている。その頃の東京での父を知る小樽時代の友人・風間六三氏によれば「とにかくひどい恰好で歩いていた」そうである。

 その頃、小樽では、父の縁談がもちあがっていた。父の姉・久恵は正木家に嫁いで小樽に住んでいたが、その親友に同じ長橋町に嫁いでいる山下キミがいた。キミは同市緑町の野上家の2女で、1番下には32歳になるただ1人独身の妹がいた。39歳の弟と32歳の妹をもつこの2人の姉同士は同じことを心配していた。キミの実家・野上家は当時小樽でも最大手の建設業を営んでおり、市内の主要官庁の庁舎の建築を一手に引き受けていたが、世の中はままならぬもので、野上家では長男を若くして失い、あとの5人はすべて女で、当時未婚だったのは5女竹子のみであった。野上家にしてみれば、後継者となるべき婿を迎える最後のチャンスであった。その竹子といえば小柄で色黒ではあったが、才気煥発なところがあり、市内の緑ヶ丘女学校時代には英語教師の授業が気に入らないということで仲間を組織して授業放棄をしたということで新聞に大きく報道され、市民を驚かせたその時のリーダーでもあった。女学校卒業後も長い間東京に滞在し、伊藤洋裁研究所に通い、また帽子製作の技能にも習熟した。またヴァイオリンやマンドリンなどにも親しみ、帰樽してもフランス・モードやフランス化粧に身をつつみ、市内で相当目立った存在であったという。しかし、野上家ほどの建設業を継げる才覚をもち、しかも32歳のモダンガールの婿に適う人物など中々いるものではない。

 だから、2人の姉の相談はまとまるようでなかなかまとまらなかった。久恵が念頭に置いている人物はそういう意味では最も不適格者だった。かといって他にいるかと言えばいるわけでもなかった。かくして鶴岡にいる父のところへ帰樽するようにとの連絡が入ったのである。母子は昭和13年の大晦日、なつかしい小樽に戻ってきた。

 結婚式は野上家にふさわしく「越中屋」で盛大に行われた。こうして極貧生活から一夜にして大建設業者の若旦那・野上暹が誕生した。しかし、父は周囲の予想を決して裏切らなかった。しばらくは国民服にゲートルを巻いて現場を回る父の姿もみられたが、長続きするはずもなく、義父の心配をよそに相変らず着流しで縁側で終日本を読む日がはじまった。妻・竹子のほうも、そんなひたむきな青白の背の高い40男に何かしら好感をよせていたようで、そういう夫を見てもかえって理解を示すばかりで、とうとう2人は野上家を飛び出すことになった。野上暹としては一年も続かなかった。野上家も結局建設業者としては1代で終ってしまった。

 その頃、北大附属図書館では、戦争のあおりを受けて男子職員に欠員が生じていた。徴用逃れの女子職員は多くいたが、司書の経験者を採用するのは難かしかった。その話は父の耳にも伝わり、結局昭和1599日付でもって、父は再び北大図書館の職員となったのである。すでに中年の若夫婦は札幌市北3条西7丁目の北大植物園のすぐ向いの家に落着くことになった。その年、祖母松枝が没し、長男が生まれている。

 ようやく安住の地を見出した父は、早くも創作に情熱を燃やし、以後ほぼ5年間は、いわば『北方文芸』時代とも言うべき父の第2の創作高揚期となった。

 1941(昭和16)年、「北海道文芸協会」が発足し、そこを母体にし『北方文芸』が発行されることになった。植物園に近い自宅の2階には更科源蔵が間借りしていたし、隣りにはかつての『クラルテ』の同人・平沢哲夫(林容一郎)が住んでいたから、自ずと武田の家は『北方文芸』の編集部となった。

 父はその創刊号に間に合わせるべく筆を速めていた。この時に生まれたのが中津川俊六というペンネームである。後に『読売新聞』の記者に語ったところによれば、「ペンネームは、作品を北方文芸に載せるため友人につけてもらったんです。15年頃、慶応だか早稲田に中津川という名ショートがいた。こすくて、なかなかずるい。『お前がよく似ている』とその友だちに言われ、姓は決った。名の方は、この年に長男が生まれ俊一とつけた。この1字と、ろくでない人間なので俊六とつけました」(『読売新聞』1976125日付)とのことである。

 さて、創刊号は昭和165月に出て、父のカムバック1弾「五郎治千島日記」()が載り、その後3号まで連載された。

 17世紀末にはすでにカムチャツカ半島にまで及んでいた帝政ロシアの東進政策は19世紀に入って、鎖国政策をとりつづける日本、とりわけその北方の島々を武力を背景に威嚇を強めていた。クナシリ、エトロフ周辺の島々はその最前線であり、ようやく事の重大性を認識した幕府は松前藩をして警備の強化にあたらせていた。物語はそうした緊張するエトロフ島の小さな港から始まる。

 突如として現われたロシヤ船2隻を前にして、出世と安穏のみを求める役人の出す指示にあきたらない(中川)五郎治―かれは陸奥の水呑み百姓だったが飢えを逃れてこの島に渡り、たまたまロシア語に接する機会にめぐまれたことから、この地で番人兼通訳をしていた―が自らの判断で策略をめぐらすが捕縛されてしまう。ロシア語がわかるという有利な立場に立った五郎治の、一方では同じく捕縛された他の日本人を何とか釈放せねばと船中で奮闘するが、他方自らはまだ見ぬ異国への憧れにつき動かされるという複雑な心理が描かれる。結局ロシアへ連行される。五郎治はイルクーツクを中心に6年間抑留することになるが、その間日本語学校の教師をしたり、たまたま医者の家に仮寓したことがきっかけでジェンナー式種痘法を身につけた。ある日、日本側に捕縛されているゴロウニンらの奪還の交換要員として、他の日本人数名とともに日本へ向う船中の人となる。クナシリ沖についたディアナ号は、通訳・五郎治を間に幕府(番所)側と息のつまるようなかけひきを行うが、五郎治独自の策略も功を奏して、全員帰国を果す、という筋書きである。五郎治はその後わが国で初めてジェンナー式種痘法を導入・普及させた人物として、主として北海道・東北で知られるようになる。

 この作品についてはいくつかの批評が残されている。『北方文芸』第3輯(1941年)には、父の 『クラルテ』時代からの仲間・林容一郎が「北海道文化の現状」の中でつぎのように述べている。「未完ながらこの一作をもってわれわれの周囲にも相当論議の種を蒔いた。『五郎治』は淡々たる平叙の形式で、いかにも危なげのない筆致であるが、当時の物情騒然たる社会的、政治的事情には敢えて泥もうとはせず、もっぱら五郎治の『人間的条件』についてのモノロオグが中心となっている。全体にスキのない心理の突込みで、豊かな量感を盛りあげているが、この点やや物足りぬものがあると考えられる。」と書いている。『北海タイムス』にも2つの批評が載った。1つは「相変わらず老練な筆致である。十分小説というものを心得ている作家なのであろう」(昭和161015日付)という伊藤整のものと、当時すでに芥川賞受賞作家であった鶴田知也の「第一号以来愛読していたが又改めて文通読して感銘を新たにした」(昭和17121日付)というものである。

 後になって、小笠原克氏は以下のようなていねいで正確かつきびしい批評を寄せている。「五郎治の心理の変化が捉えられている。何が彼をそうさせたのかについては知らされておらぬ……。五郎治の識域下にはオロシヤがあった。彼はこの行為によって6年間の異国生活を送ることになり、それはそれで小説の一主題たりうるのだが、嘉内の『何事かを訴え、憐みを乞うような』表情の裏にある日本はどこへ行くのだろうか。作者はそれを追おうとせぬ。五郎治の心理的事実にすべてを委ねてしまう。つまりは『五郎治千島日記』自体の漂流が始まったのである。(中略)『洋式種痘法を密かに我がものとした五郎治の躍如たる面目を我々も亦我がものとして深く胸に刻みつけなければならぬ』と作者はいうが、そこにこそ真の主題があっただろうにと思わざるを得ない。結果として作者は安易な道についたのである」(小笠原克「近代北海道の文学―新しい精神風土の形成」日本放送出版協会、1973年)。ごく最近の「肩すかしをくわされてしまう」という神谷忠孝氏の批評(『北海道文学全集』、立風書房、1981年、第15巻「解説」)もほぼ同じことを指しているのであろう。

 小笠原氏の批評を、父はコピーにして大切に保管していたが、生前私に「すれちがっているんだよなァ」ともらしたことがあった。父に言わせれば、小笠原氏の注文するところは、作者が作品を執筆する前提として自分の頭の中に十分心象として形成しておくべきことであって、その上でなおかつその時代を越えて生きようとする人間のロマンをこそ文学は課題とするべきなのだ、ということだったのだろうか。しかし、それにしても、どんなに作者が主観的には、頭の中で心象が形成されていると主張したところで、その文学が客観的に評価されうるためには、あるいはその時代にあって文学として説得力をもつためには、まさにその部分をも含めて作品化されなければならないはずであり、人間のロマンも実はそのような作品化に媒介されなければ、文字通り現実から漂流″してしまうことになるのであろう。

 そのことは、この作品から受けるもう一つの別の印象とも関連しているように思う。

 真珠湾攻撃によって全面戦争化した15年戦争のただ中に生まれた『北方文芸』の誌上において、父の『クラルテ』時代の一連の作品にはみられなかった、北方という地域性、幕末という時代性、侵略的驚異にたいする国防という政治性、を強く背景にもった題材を求めるということは、当然そこには作者の考えぬかれた文学的立場が奥深く内在化されて然るべきであろう。『北方文芸』全体としては「雑誌の文学的姿勢は必ずしも時局への露骨な迎合を示してはおらぬ」(小笠原、前出)という指摘は、父の作品についても妥当すると私は考えるが、しかし、特別に困難な歴史的状況の中で、まさにその象徴的ともいえる歴史的素材を文学において真向からとらえようとすれば当然にもにじみでてこざるをえない文学的苦しみというものがどうしてもこの作品から伝わってこないのである。

 ともかくも、あの重苦しい時代的状況の中で、時代の政治的要請にムキになることなく自己の信じる方向(それはあまりに偶然性や直観性によってしか支えられていないが)に自由に生きぬいた人物を、その心理を軸に浮きぼりにしたこの作品は、その時代にあっては一服の清涼剤の役割を果したのであろうか。

 『北方文芸』誌は、6号(昭和1712月)から終刊号となる8号(昭和192月)までの3回にわたって、父の「北方」を連載している。これは昭和19年に設定された『北方文芸』賞の第1回小説部門の受賞作品となった。

 1793(寛政5)年、43日、水戸修史館総裁立原翠軒はその門下木村謙治宅に飛脚を走らせた。そこには「急用御座候間早々御出にいたし度侯。如此申入侯上者御心得御支度に而早々御越可被成侯。委細之儀跡面詰候。壱年はかゝり可申侯と御心得可被侯。早々。」とだけ記されていた。1年を要する用件があるから、すぐに出てこい、としか書いていない師の書状に木村謙治は深く思い至ることがあった。その用件には、実は、幕府の北方対策の成否、幕府と水戸藩、水戸藩と修史館の運命が託されていたのであった。簡略に過ぎる書状の行間の中に、その意味を探りたぐっていく木村謙治の4、5日間の思考のプロセスがこの作品の骨格をなしている。

 北方の警備が俄かに重要視されてきたためその基本政策の確立を迫られていた幕府は、この4月のうちに総勢180人余の大規模調査団を蝦夷に派遣することにしていた。団長格の若手幕吏近藤重蔵はその案内役にその方面の実力者最上徳内を考えていたが、幕府内外の思惑もあってこれを退け、その推薦方を小宮山楓軒に依頼してきた。楓軒はその師立原翠軒(水戸修史館総裁)に相談したところ、翠軒は5年前の寛政5年に水戸藩の蝦夷巡察便の1人として松前に渡ったことのある門下生の木村謙治を用いることにし、今度の書状ということになったのである。

 大日本史の編修にあたる修史館のために藩費の3分の1を支出しなければならなかった水戸藩にとって、その長期化は藩財政窮乏の大きな要因となっており、その救済策としての北方経略は水戸藩の藩是ともなっていた。一方、修史館内部においても立原派(実際派、紀伝派)と藤田派(修史派、学問派)とが反目しあい、立原門下内部でも師に対する関係で対立が生じていた。それは総裁が藩の財政事情を考慮して北方経略という修史館本来の任務からは無縁の問題にかかわっているという反発に端を発していた。学問派といっても実際は反総裁派ということであって、内部は風紀・人倫上の乱れに毒されていた。

 また、北方経略の面で、たえず一歩先んじていた水戸藩は、幕府にとってもけっして愉快な存在ではなかった。ところが幕府の北方対策の重鎮となっていた最上徳内の不行跡や林子平らに対する不当な処罰などが絡んで、水戸藩とくに修史館には反幕府的空気が強く流れていた。当然、木村謙治には幕府の調査団に与することにおいて大きな落差があった。

 にもかかわらず、総裁立原翠軒は、この機会に幕府との関係改善を図り、藩財政の救済、ひいては修史館の存続につなげたい、と考えざるをえなかったし、また中庸温和な謙治の兄弟子小宮山楓軒は奇矯粗慢な木村謙治が性急な判断をすることを心配し、「この悪条件を克服し、のり越えていくことが、謙治にとって、いわば一つの人間修養になるのではないか、謙治一生の一大試練になるのではないか、あの奔放不覊、剛直にして偏狭な謙治の性格を懲らすといえば変だけれど、もっと素直な、闊達な人間性格にたたき直すには、こんな機会はまたとあるものではない」と考え、謙治推薦を師翠軒に申し出たのであった。

 翠軒からの書状を受け取って江戸の小宮山楓軒宅に身を寄せるまでの45日の間に、ようやく納得のいく心境に達することができた木村謙治は、気持を新たに机に向い、「隊則」の執筆にとりかかるのである。

 主人公、木村謙治の微妙な心理の変化を、心憎いまでに描きこみ、その中に幕府の大規模蝦夷調査団派遣に至るまでのさまざまな事情を写し出す手法は、ほぼ成功していると思われる。しかし、主人公・木村謙治自身の人格の実在性が稀薄であることや、幕府の北方政策への批判に向いながら、それが不徹底なまま、木村謙治の人間的成長の問題に言わばすりかえられているという印象は免がれない。昭和17年から19年という時代がそうさせたのであろうか。

 そういう時代の「北方文芸賞」受賞ということは、名誉なことなのか、不名誉なことなのか、は私にはよく分らないが、少なくともそういう機械的な評価を許さない文学性は保持しているのではないだろうか。「北方」連載が完結するほぼ同じ時期、父は、いわゆる『北方文芸』時代の中編3部作の最後の作品「詩人松浦武四郎伝」を執筆していた。これは昭和196月、北海道翼賛壮年団本部から、父にとっては唯一の単行本として出版された。父には珍らしく縦断的な、文字通り伝記小説であるが、父好みの人間性が松浦武四郎を通して遺憾なく描き出されている。「道名の『北海道』は、武四郎の雅号である『北海道人』から採ったものではあるけれど、ここにわれわれが深く銘記しなければならぬことは、武四郎が単なる名付親でないという一事である。まさに、武四郎の陣痛によって『北海道』が生まれたのであった」と父が書く武四郎は三重県の生れで、天性の文学的才能に恵まれ、未知に対する好奇心、精神的なものへの憧憬につき動かされ、13歳から修業のために家を出るが、18歳からは文字通り全国遊歴の旅に出、自然と社会への観察を通して自己の人生観を探求していくが、長崎での体験から、大陸への関心、さらには蝦夷への関心を急速に強めていく。27歳から6回にわたり蝦夷、樺太、南千島の実地調査を敢行しているが、その間を貫ぬく武四郎の精神は、より具体的なもの、より正確な事実に裏づけられた愛国精神の確立であり、その精神は「初航蝦夷日記」12巻、「再航蝦夷日誌」15巻、「三航蝦夷日誌」8巻その他として結実し、そこでの諸見解は、民族線を基準にして樺太北緯50度国境説を先駆的に主張し、幕府の何ら具体的独自的根拠を示さない対露軟弱外交を批判し、また安易な攘夷論・開国論の主張以前に実証的・具体的根拠に基づく方策を樹立することの必要を幕府に求め、松前藩の堕落・腐敗にみられる幕府の北方対策の無為無能をついた。もはや無視できなくなった幕府は、1855(安政2)年、39歳の武四郎を幕府役人に重用したが、それ以後の三度にわたる蝦夷調査を貫ぬいた武四郎の立場は、アイヌ人への真の理解なくして北方経略なしというものであった。蝦夷人(アイヌの美談を集録した「近世蝦夷人物誌」(安政5年)、松前薄の蝦夷人虐待の実態を告発した「北蝦夷余誌」(万延元年)を紹介しながら、父はこう書いている。

  「しかし、松前藩の北門経営策に、敢然身を挺して戦

  わざるを得なかったものは、すなわち発してそこにい

 

  たらしめた原動力ともいうべきものは、実に蝦夷人に

  対する武四郎のただしい理解と深い愛情であったので

  ある。

   もとより土人撫育は政策としても北方開拓に必須欠

  くべからざるものではあるけれど、それにしても、武

 

  四郎のように心底に燃ゆるが如き熱情の迸りがなかっ

  たならば、ついに一片の空しい政策論に終らざるを得

  まい。武四郎は政治家ではあるが、政策を事とする単

 

  なる政治家ではない。政治性を強力ならしめるもの、

  いや、政治の根基をなすものは詩人的感情であるが、

 

  この詩人的感情の発露なくして政治は形成されぬし、

  発展も望まれない。武四郎は詩人であった」と。

 松浦武四郎の実像追求は今日さらに進んでいるであろう。そこには父の武四郎像とくい違う部分もあるだろう。しかし、研究書と文学書の異質性を認めるならば、父が武四郎に抱き、かつ求めた人間像は、それはそれで、とくに執筆された時代を考慮するならば、基本的にはヒューマニズムの立場に沿うものと考えてよいのではないかと思う。

 父は戦前戦後の価値転換をほとんど苦しむことなく、と同時に強烈な喜びを感じることもなく、くぐりぬけている。

 戦後間もなく、父は随筆集「新蝦夷草紙」(昭和21年、柏葉書院)を出している。これは、『北方風物』(月刊、更科源蔵編、北日本社)に3回にわたって載せた随筆3編を、最上徳内の「蝦夷草紙」にちなんで「新蝦夷草紙」と括った上で、さらにその前後に書きためた七つの随筆と併せて1冊にまとめたものである。本全集には、その枠をはずし、さらにその後に書かれた短文を含め、計17編を「昔を今に語る北の徒然草」としてまとめた。

 また、戦後は父にとって、小林多喜二の回想の出発でもあった。それは当然、自分にとっては多喜二とは何であったのか、また何でありうるのか、を問う父なりに深刻な総括のスタートでもあったはずである。諸雑誌・新聞、ラジオ・テレビ、座談会・研究会等々で、ある時は求められ、またある時は自ら進んで、多喜二を語りつづけている。その時は、しばしば作家・中津川俊六の名はかき消され、「多喜二の友人だった武田さん」という紹介のされ方だったが、そんなことにはおかまいなく、『クラルテ』のことはもちろん、多喜二の人柄、母や姉弟に対する思いやり、田口タキとのこと、友人に対する態度などを、心から懐かしむように、またそこから真に汲みとるべきものを、しぼりだすような眼差で語っている。少なくとも文学的傾向において一見両極とも言えるような差異を感じながらも、自分には持ちえない多喜二の文学的・人間的情熱を憧憬のまなざしで肯定し、彼の人格的高潔さ、人間的誠実さを裏書きする父の一連の回想は、客観的には、あるいは父の意図とは別に、とでも言おうか、文学論・政治論・前衛党論などの抽象的・イデオロギー的高みから、多喜二の作品や、さらにはプロレタリア文学(運動)を安易に評価し、時には断罪する少なくない批評に対して、一つの力強い反証になっているように思う。

 だから、父の回想の中に作品論・文学論に直接ふれて多喜二を論ずることがほとんどないなかで、次の一節は、父の多喜二にたいする精一杯の問題提起だったのではないだろうか。

  「小林のリアリズムは、しかし小林自体にふかく喰い

  いるばかりで、ついに横へのひろがりを持つことがで

 

  きなかった。だから彼は、いわゆる私小説の作家とし

  て完壁にちかいところまで肉迫していたけれど、この

  私小説作家が 『蟹工船』から『党生活者』にいたる

 

  までの幾つかのプロレタリア作品を書きつづけたので

  あった。破綻は当然だった。長編に欠けてはならぬ立

  体感と構成力が、いずれの作品にも稀薄であったばか

 

  りでなく、大事なことには、小林のリアリズムが、そ

  のいずれの作品においても作者とおもわれる主人公を

  描くことに成功しているだけで、数多い登場人物に彼

 

  のリアリズムの手がついに及ばなかったことであっ

  た。文学的価値からすれば、私には 『クラルテ』時

 

  代の作品と、プロレタリア作品とをおなじレベルにお

  いてみたいのであるが、これは私がクラルテ時代を愛

  惜するあまりのひとりよがりでもあろうか。それとも

 

  プロレタリア作家の最高峰小林多喜二をそねむ旧友の

  はしたないひがみ根性のせいでもあろうか」

 

 父は生前、私によくマルクス・ボーイとか、「革命は銭函まできている」といったことをひきあいに出して、1930年代前後の政治風俗やムードにたいして、一文学青年として“正しく”批判したこと、そしてその批判の正しさ”はその後の歴史経過の中で立証されたこと、を自慢げに語ることがあった(ついでに言えば、戦後のいわゆる50年問題も父にとっては同質の問題として受けとめていたようである)。そのような経過がある種の文学上の信念にまで高められ、父の当時のプロレタリア文学運動に対する独特な距離感を固定化させていったと思われる。もちろん、濃淡・軽重はあれ、この傾向は当時の少なくない知職人・文化人にとっても共通していたのであるが。ついでに言えば、にもかかわらず、父は、小林多喜二を吸収した当時の日本共産党にたいして、その科学性よりも革命性において、他の少なくない知識人とともに、ほとんど畏敬の念を共有していたようでもあった。

 前述の小林多喜二に対する父の問題提起も、もちろんこのような背景に裏づけられていたのであるが、実はそうであるがゆえにこそ、文学論それ自身のよりつっこんだ解明が妨げられることにもなっているように思われる。

 言うまでもなく、父の問題提起にも見られるような当時の、そしてその後の少なくない論議は、1930年以降のプロレタリア文学(運動)にしばしば向けられる重要な論点をも内在させていた。小林多喜二の作品・活動・あるいは当時のプロレタリア文学(運動)等にたいする父の批評は、今日の文学上の到達点に立って再検討されるべき意味を今日なおも有していると思われる。

 さて、戦後の価値転換の中での一般的な苦悩や解放的・民主的ムードに加えて、北海道大学に文学部をはじめ文系学部が設置されたことなども響きあって、北海道各地に雨後の竹の子のごとく同人誌が生まれ、また北海道に紙枠を求めて札幌に相次いで出店を出した中央大手出版社がそれぞれに中央文化人を招いて各地で講演会を開くなど、まさに「文芸復興」とも形容されるほどの文芸・文学ブームがまきおこった。このムードを象徴するかのように、昭和22531日から1週間の日程で、北海道教育記者クラブの主催で北海道出版文化祭が北大中央講堂で開かれた。川端康成、亀井勝一郎、久米正雄、河上徹太郎、中村光夫、小林秀雄などの中央組の他、在住組として高倉新一郎、中谷宇吉郎などが加わって、今日で言うパネル・ディスカッション風の討論や講演がなされたという。私の従兄で当時読売新聞札幌支社の北大担当記者をしていた竹内清もこの討論に司会役として参加していたが、竹内の話によれば、父もパネラーの一人として参加している。この時に用意された冊子「北海道出版小史」(高倉新一郎編)は父が作成したものであると、高倉自身が語っている。

 このような状況の中で、地方文学のあり方をめぐる論議も当然のごとく活発となり、父も求められて「地方文学をめぐって」を昭和23年に書いている。その中で、父は「戦後東京の出版屋が北海道に進出したといっても紙獲得のための営利主義がもたらしたもので地方文化に寄与しようなど夢にももち合せてはいない」などと気焔を吐き、そもそも文学の領域として地方文学などというものは存在しないことを、小林多喜二をひきあいに出して、「彼くらい小樽を愛しつづけたのもめずらしかったが、その小樽が彼の文学的情熱を東京へ追いやった」と回想しながら、地方への愛着と文学的情熱というものが本来「異った2つのもの」であることを力説している。しかし、この「2つのもの」がそれではどのような内的連関をもつべきものであるかという説明は十分なされているわけでほない。私見からすれば、文学というものは、地方にかぎらず、個人をとらえる場合でも、民族、階層、階級、男女、老若、今昔、その他環境を構成するありとあらゆる具体的歴史的連関において、その出発点はそれぞれにおける特殊に立脚せざるを得ないものであり、そこでの特殊への文学的洞察を通して文学的価値(相対的にせよ絶対的にせよ、個別的にせよ普遍的にせよ)を文字として表現するものだと思う。その意味で、父の一連の作品を通覧して感じる特殊へのこだわり方の稀薄さはやはり父の文学を特徴づけている一つの要素であるように思われる。と同時に、いささか弁明になるが、父の「地方文学をめぐって」が、その時代的状況としての特殊への埋没への警告として解釈することができるならば、その限りでは妥当な指摘であったのかも知れない。

 ところで、私たち家族はそれまでの植物園向いから一時円山公園近くで暮らしたのち、昭和241130日に、当時は札幌村烈々布(レツレップ)と呼ばれていた北26条東4丁目に移り住んだ。その一角は後に大学村という名で知られるようになったが、当時はマッチ箱住宅、10万円住宅と呼ばれたバラックの集落であった。戦後北海道大学に文系各学部が新設されたことによる教職員急増と、戦後の教職員の住宅困窮解消のため、ヤチダモ・ハンノキの生い茂る北大の第三農場を宿舎用地として開墾し、解除されたアメリカ進駐軍資材を買い受け、急ごしらえで造成した職員集落であった。父はそのために組織された北大職員住宅組合の初代組合長として努力していたという。しばらくは電灯もつかず、文字通り「入植」に近い状態での生活の苦労は「大学村建設記念誌」(昭和263月刊、編集には父があたっている)に詳しいが、50歳を越えようとしていた父や心臓が弱かった母にとってかなりきびしい環境であったと思う。しかし、秋には、大学から貸与されたわずかな空地を利用した畑からは、もともと農場だったために肥えていたのか、トマト、キウリ、トウモロコシ、エダマメなどが見事に収穫された。父も畑仕事に精を出し、とても50歳とは思えないほどの若々しい印象のみが残っている。私たち兄弟も一町ほど離れた自宅から下肥桶をかついでせっせと運んだりした。

 その頃ようやく父は文部事務官となり、昭和24年には閲覧掛長になっていたから、仕事の面では何かとはつらつとしていたのかも知れない。しかし、筆の方はどうかと言えば、決して止めたというわけではないが、創作ということに限れば、「詩人松浦武四郎伝」を最後に原稿に向っていないのである。再びその筆を執るのは70歳をすぎてからである。

 私たちには脳性小児マヒの妹・雅子がいた。私たちの話をよく理解し、喜怒哀楽の感情については普通の子どもと何ら変わらなかったが、口はきけず、とくに足が不自由で、時に乱暴することがあった。父はその妹を溺愛した。いつも抱いて寝ていた。私たち兄弟は、ときどき妹を連れて散歩したが、近所の子どもたちは石をぶつけてきた。私たちはムキになって妹をかばいながら散歩をつづけた。目が届かない時など一人で外に出ることもあり、私たちは暗くなるまで行方を探し回ることもあった。

 私たち兄弟がそれぞれ中学・高校へ進学しようという時、父母は私たちに隠して、妹を世話してくれそうな施設を求めて日曜日には出かけていった。帰りにはお土産を買ってきて、さも街へ買物にでも行ってきたようなことを言った。息子たちの勉強の障碍になると考えていたようだった。ある日、学校から戻ってくると妹の姿はなかった。札幌近郊の北広島にある富ヶ岡学園という宗教法人の施設に収容されたのだった。ときどき私たちは家族でその施設を訪ねた。ホールに「知能指数測定表」が大きく貼り出されてあり、ほとんどの子どもたちの欄にはともかくも数字が書き込まれていたが、妹のそこには「測定不能」という漢字が記入されていた。また、施設の人からは「情が移るからあまり訪ねてこないように」とも言われた。帰るときが一番つらかった。

 18歳になった妹を世話する施設はもはやなく、札幌市郊外の精神病院に特別のはからいで入院させてもらったが、ただベッドに横になるだけの毎日のため、そのうちに歩くこともできなくなるほど身体は弱くなり、歯などはすっかり腐ってしまった。風邪をこじらせて29歳で妹は死んだが、母は「さきに娘をおくり出すことができてよかった」とむしろ喜んだ。

 あるとき、私は初めて父に連れられてススキノで飲んだ。そのとき「父さんがものを書かなくなったのは雅子のことが大きな要因になっているのでは」と半ば独言のようにつぶやいたのに対し、父は「そういう見方をしてくれるのはおまえだけだ」と言って酒をついでくれた。その指摘が当っていたとは思わないが、私をしてそう言わずにはいられない気持を父は私に抱かせた。父も母も、妹のことで私たち兄弟に心配させたことは一度もなかったように思う。

 

 さて、話を戻そう。

 父の執筆活動の新しい分野として、新聞・雑誌へのいくつかの連載ものがある。その最初の二つは児童向けに書かれている。昭和23年に、教師・児童を読者とした月刊誌『北の子供』(北日本文化協会)に「新しい北海道の歴史『北のあゆみ』」を6回にわたって書いている。25年春には「ユーコンの嵐」を『中学生タイムス』(新北海新聞社発行)を9回にわたって連載している。「北のあゆみ」の最初の部分は、「考古学を勉強するには、教室や家のなかではできません。かならず野外にでて、太陽のもとで勉強するのですから、からだにとっても、大へんよいとおもいます。こうして何千年もまえにこの北海道に住んでいた人たちを胸にえがきながら勉強するのですから、こんなゆかいなこともないでしょうね。みんな、ちいさな考古学者になってください」というほほえましい子ども向けの書き出しで始まっている。「詩人松浦武四郎伝」やのちの「新山燃ゆ」にもみられるように、自然、大地、地質学、考古学、実地調査等への関心も、父にとってはロマンに遊ぶもう一つの世界であったのかも知れない。

 少しおいて昭和三十一年には「文献からみた北海道」(3回)、昭和34年には「北海道よもやま話」(9回)―いずれも『北海道新聞』―を書いている。

 1954(昭和29)年、父は北大附属図書館の事務長となり、39年に定年退官するまでの10年間その地位にあったが、文系学部の新設・拡充にともなう中央図書館ならびに学部図書室の整備、昭和32年から39年にかけての附属図書館新営とそれに伴う図書館事業の近代化、さらには北海道大学にふさわしい施設・設備の新設、等はその間の附属図書館に課せられていた大きな課題であったから、事務長の立場にあった父もそれなりの苦労があったと思う。経理・実務能力の欠如を自他ともに許していた父は、他方では同僚の中にそういう能力を見出し、それを利用する能力(管理能力とでも言うのだろうか)にかけてはまさに事務長に適任であったらしい。「武田さんはそこ(事務長室)から、法学部図書掛に出た私のところへ、よく用があるから来るようにと電話をかけてきた。出かけると、小さな万古の急須でていねいにお茶をいれてくれた。特別な用事も話もないのである」(『北方文芸』1982年新年号、山川精「さよなら・おやじ」)という回想の中にも、父のやり方がしのばれる。私もときどき父の職場を訪ねることがあったが、いつも白衣姿で両足を靴をはいたままだらしなく大きな机の上に投げ出し、近くの職員と談笑している父の姿をみるのだった。会議のときなどは、議題とはほとんど関係ないような話題が雑談風にしばらく続き、議事に入るとあっという間に終ってしまう、それでいて肝心なことは決められていく、というのが職員の共通した感想である。聞き上手であった半面、結論を出すのが遅く、「ベストセラーは買うな、百年たって読まれる本を買え」と力説し、夜になれは盛り場で若い同僚と政治・文学談議にひたる、そんな事務長であったようだ。

 父は、昭和283439年度文部省司書及び司書補講師、昭和29年から39年まで文部省学術奨励審議会委員、昭和34年から40年まで北大教育学部において「図書館学」講師、をそれぞれつとめた。

 北海道大学を退官したあと、父は北海学園本部事務嘱託となり、4年間同学園経営の札幌商業高校の司書担当として勤務したあと、「図書館司書コース」設置を目玉コースとして期待された札幌香蘭女子短期大学の新設にともない、その専任教授として迎えられた。68歳であった。すでに相当足に自信を失っていた父は、通勤方法の特別配慮を条件に、それでも毎日通勤した。設立2年目の昭和44年、司書講習会が同短大を会場として行なわれたりなどして父ははりきっていたが、しかしそれも束の間、理事者側の高等教育機関に対する見識の欠如と無責任を最大の理由として設立後5年目にして廃学という異常な事態に追いこまれた。教職員は廃学問題全学協議会を組織して廃学反対の立場から、原因究明、責任追求、待遇保障等を要求して奮闘した。同協議会が作成した大部な「大学白書」はその見事な成果である。父も最長老を見込まれて、その責任ある地位にあってがんばった。

 すでに73歳を迎えた父は、ようやく静かな日々を手にし、おそらく長い間胸にしまいこんでいたであろう構想を文字に移しかえていく仕事にとりかかった。これが「新山燃ゆ」として脱稿するまでに4年かかったが、父にとっては初めての長編小説で、同時に遺作ともなった。

 昭和198月、昭和新山はその胎動を開始した。民衆を弾圧し、侵略戦争に駆り立て、まさに不動の権威をほしいままにしていた神国日本の軍部独裁政権がその威力をもってしても抑えることのできなかった自然の力への讃歌、とも言うべき作品である。父は、死の直前、自ら売り込み文句を考え、病床で私に口述させた。

「シュールレアリズムを基調、作者独自のデフォルマシオンを自由自在に駆使し、戦争末期昭和新山生成過程を軸に、自然・動物・人間の織なす妖しき世界を描き出した稀有の芸術的作品である」と。

 この作品を父の創作活動の系譜の中に置いてみると、『群像』・『クラルテ』時代(短編、愛と自由)—10年間の空白『北方文芸』時代(中編、時代と自由) —30年間の空自「新山燃ゆ」(長編、文明と自由)とでも特徴づけることができる程度に、構図やテーマの上で、一つの時代を画する作品となっているように思われる。しかし、自然・必然・生命そのものの無条件的礼讃に科学・政治・文化を無媒介的に対置するという安易な姿勢は前の2時代の作品群にも見られた特徴をさらに大きな広がりの中で、あるいは思想的哲学的味つけをされて、この作品の中にも貫ぬかれているのである。

 その時代にロマンをもって生きるということ、あるいは時代に自由であるということは、決してその時代から遊離したり、越えたりすることではないだろう。あるいは自然や必然に身を任せることでもないだろう。人間あるいは個人への深くて豊かな多面的な考察と、その人間を現実的に規定している複雑な社会的・自然的諸条件への同様に深くて豊かな洞察、とが文学的価値をめぐって内在的に連関づけられるとき、そこにその時代を真に克服する自由とロマンが文学として形象されてくる、と私は素人ながらに思うのである。

 すでに歩行がかなり困難であったにもかかわらず、父はこの作品を書くために、母を伴って昭和新山を歩いている。富山に住む親戚の清原正雄も2人に同行して写真を撮ってくれた。脱稿した2年後の1979(昭和54)年81日、母は2ヵ月間つづいた意識不明のまま息をひきとった。父はこの「新山燃ゆ」の扉に、「今は亡き妻に捧げる」と記すよう懇願するように、死の直前私に言った。

 母の没後、掛付の渡辺医師や私たち兄弟の求めにもかかわらず、札幌住いに固執し、周囲の方々のお世話になりながら2年間の独り暮らしをつづけたが衰弱する一方で、1981年夏の数回の発作にようやく観念し、私たちの住む盛岡の病院に移ったが、2ヵ月後の1019日早朝、80歳の生涯を閉じた。死後、勲五等瑞宝章が授与された。

 

 最後に、本全集の出版、およびこの「あとがき」執筆にあたり、実に多くの方々の暖いご援助、ご助力をいただくことができた。高倉新一郎、更科源蔵、藤沢健夫、木原直彦、小笠原克、中山周三、風間六三、島田正策、三浦迪彦の各氏、北大附属図書館、小樽商大附属図書館、小樽市立図書館、道立北海道文学館、市立小樽文学館、道立小樽潮陵高校、の方々、竹内清、武田和子をはじめ親戚の方々、磯島みどりさん、またこれらの方々の他にも実に多くの方々にお世話になった。そして最後まで私のわがままを聞きいれて下さり力強く出版へと尽力して下さった立風書房の宮越寿夫氏、延平八穂さんには心からお礼申し上げたい。

 

 追記・この「あとがき」を書くにあたって多くの文献を参考させてもらった。それらはその都度本文中に記したが、全体にわたって大きな示唆を得たもので、本文中に書名を掲げていないものとして次の三書をあげておきたい。

 

 『定本 小林多喜二全集』 新日本出版社、1969

 手塚英孝著『小林多喜二』(上・下)・新日本新書、1970

 木原直彦著『北海道文学史』(大正・昭和戦前編)、北海道新聞社、1976年 

 

 さらに、上巻グラビア写真については、新日本出版社の御好意により『写真集 小林多喜二』(手塚英孝編、1977年)から数葉お借りすることができた。

 

  198242

 

  (『中津川俊六全集 下巻』1982年、立風書房、「あとがき」。20117月、ホームページに入力。なお、入力にあたって、縦書きを横書きに、原文の誤記・誤字等を改めた)