ロバアト・オウエンにおける「教育と生産的労働の結合」の思想(1)(2)

 

                        武田 晃二  

 

1、はじめに

 

  戦後、わが国の教育学研究の中で、教育原理上の問題としてさかんに論議されるようになったテーマの一つとして、この「教育と生産的労働の結合」がある。し かし、この論議は、その多くがすぐれて実践的な性格をもってなされたにもかかわらず、あるいは、ある意味でそうであったがゆえに、今日の国民教育の現状と 課題にたいして、かならずしも有効な成果として反映されていないようである。それは、それなりの理由があると思われる。

 一つには、この「結合」の機械的な適用からくる非現実性がある。また、現実における適用の困難性の認識から、逆に、現実的に適用可能な範囲の中に、この思想をおしこめてしまう、いわば「思想」の歪曲の問題がある。

 さらには、児童労働が現実に存在していないという認識に立って、この思想を、児童労働が広く存在していた歴史上の一時期においてのみ有効であるとして、今日におけるこの思想の意義を否定する見解が一部に生まれたこと、などがあげられる。

  しかし、だからといって、このような経過から、この思想そのものを否定したり、軽視したりすることは、まったく正しくない。むしろ、このような経過から私 たちが学ばなければならないことは、教育や生産的労働などの概念について、この思想が独自にもっている豊かな内容の深い検討よりも、両者をたんに「結びつ ける」ことに主たる関心が払われてきたこれまでの「実践的な」見地について再検討することである。

  この「結合」の思想は、実は、社会とその歴史発展における人間についての認識、そこでの教育との本質的なかかわり方についての深い洞察と、社会にたいする すぐれて変革的な姿勢の中から生まれたものである。このことは、この思想をもっとも強く科学的に提起した科学的社会主義の創始者たちにおいて、両者の概 念、とりわけ「教育」の概念、すなわち、生産的労働と結合されるべき「教育」の概念が、非常に豊かに理解されていたことからみても明らかだと思われる。 「結合」の思想であるにもかかわらず、いま重要なことは、両者(教育と生産的労働)を「分離」して、しかも両者をバラバラにではなく、この思想の全体的な 基本的な性格との関連で明らかにすることであり、そうすることによって、この思想における両者の関連がいっそう明確になり、また両者の「結合」の本質的な 意義と、その具体的適用の正しいあり方が明らかになると思われる。このような反省に立つならば、今日の深刻な国民教育の現状と今後の課題およびその解決に たいして、「教育と生産的労働の結合」の思想の見地から、多くの点で、寄与することができるのではないかと思う。

  周知の通り、この「結合」を、①「社会的生産を増大するための一方法」であると同時に、②「全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法」として、真 に科学的に提起したのは、マルクス、エンゲルスであるが、しかし、かれらのこの見解は、すでに少なからぬ思想的実践的萌芽を「源泉」としてもっており、そ の科学的総括として生まれたものである。マルクスが、その「源泉」 のもっとも有力な一人として高い評価を与えたのが、ほかならぬロバアト・オウエン(17711858)の思想と諸活動であったことは、オウエンの死後わずか10年後に出版された『資本論』第一巻の中で、明確に規定されていることからも明らかである。(大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』第23a630ページ)。さらに、オウエンとこの「結合」の思想との関係を教育学説史上に位置づけ、その評価を確定したのは、クループスカヤの『国民教育と民主主義』 (1917)である。

 オウエンは、この思想を、理論的かつ包括的に展開しているわけではない。したがって、かれの多くの著作や諸活動−−とくに工場法を要求していく過程やニュー・ラナーク、ニュー・ハーモニーでの教育実践を 通じて、その骨格を跡づけていくほかはないが、これまでのオウエン研究史上の反省として、今日とくに必要と思われるのは、かれの思想を、(もちろん「結 合」の思想にかぎった問題ではないが)かれ独自のものにしている諸特徴を、かれの社会的諸活動もしくは生涯の中に一本の赤い糸のように貫いているかれの個 性的内面的発想法との関係で明らかにすることだと考える。そうすることによって、例えば空想的社会主義についての一般的規定をもってオウエン解釈にかえた り、オウエンの諸著作(しかもその一部分)だけに依拠して解釈したりするようなことから生ずる観念性、一面性を避けることができると思われるからである。

  そういうわけで、本稿は、まず最初に、「結合」の思想に焦点をあてながら(といっても繰り返し述べるように、極端に言えば「結合」の思想を語ることは社会 (変革)の思想を語ることだ、と考えているが)、オウエンの生涯を、とくにその前半を概観し、その中で、工場法を要求していく論理の必然性、工場改革、教 育実践へ志向する思想的エネルギーの内的構造を明らかにしたいと思う。続稿では、それらの具体的展開と、オウエンにおけるこの思想の問題点と克服されるべ き方向、などについて述べることにしたい。

 

 2、オウエンの生涯

 

 オウエンは、1771年に北ウェイルズのニュータウンに生まれ、10歳になるまでこの地で過ごしている。70年代といえば、まさに産業革命の開始を告げる時期である。その台風の目から遠く離れたこの人口1000人たらずの小さな町は、あいかわらず中世風のおだやかな状態がつづき(とはいえ、やがて「不潔な、けれど繁華な、相当の工業都市に変わってしまった」とオウエン自身述べている)、中流家庭の7人中5番目に生まれた明敏で早熟なオウエンは、のちに『自叙伝』の中で、この地でのさまざまな経験が、かれのその後の思想形成、性格形成に多大の影響を与えたことを強調している。産業革命以前の労働者の生活様式については、エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)の中で次のように述べている。

 「労働者は、まったく快適な生活を楽しみながら、のんびりと暮らし、きわめて信心深くかつまじめに、正直で静かな生涯を送った。……彼らは自分の庭や畑で健康な労働を する余暇をもち、その労働は、彼らにとっては、それ自身レクリエーションになった。……彼らの子どもたちは、自由な田園の空気の中で成長した。……彼らは 自分の子供を一日中家のなかで自分のそばにおき、従順で敬虔な子供に育てあげた。……青年たちは、結婚するまでは、牧歌的なほど素朴に、遊び仲間と親しみ ながら成長した。……」

 しかし、エンゲルスは、このような生活様式がかれらの知的精神的性格におよぼす影響について、「彼らのうちで字の読めるものはまれで、字の書けるものときたらもっと少なかった……精神的には彼らは死んでいた……そとの人類世界のあいだに進行していた力強い運動については、なにも知らなかった。彼らは自分たちのもの静かな植物的生活が気に入っていた。そして、もし産業革命がおこらなかったとすれば、たしかにきわめてロマンティックで情緒に富んではいたが、人間にはふさわしくないこうした生活から、けっしてぬけでることはなかったであろう」と述べている。

  オウエンが育ったニュータウンの町とその周辺の生活も、基本的には、このようなものだったと思われる。人間の精神的肉体的全面発達にとって、「人間的」な 自然・社会環境それ自体はプラスにもなりマイナスにもなる。それを真に保障するのは、人間の自然、社会に対する合法則性の認識と変革の立場である、とする マルクス主義の人間観は、無意識、無自覚的であったにせよ、明敏、早熟なニュータウン時代のオウエンの日々の行動に、はげしく作用していたようである。そ のことは、かれの『自叙伝』(1875) の中に、多くの具体的体験として述べられていることからも推察できる。多方面にわたるはげしい読書欲、宗教界にみられる対立・憎悪の事実にたいする異常な 関心、自然にたいする鋭い正確な観察、自己の経験にたいする深い洞察とそこから得られた教訓にたいする確信、それにもとづくその後の実践的態度、人間関係 に対する驚くべき観察力と洞察。

 オウエンの労働観を示唆する例を一つあげておこう。

  「乾草の収穫時のある暑さの酷しい日のこと、あまり着ぶくれしていたわれわれは、家を出て広い野の方へ歩いてゆくとき堪えがたいまでの暑さをおぼえた。野 には大勢の草を刈り乾す人びとがいきいきと働いていた。何もしないで暑さにへたばっているわれわれには、その人たちがいかにも涼しく気持よさそうに見え た。私はいった、“リチャード!一体どうしてこうなんだい? あんないきいきと働いている人たちは暑いどころか、楽しく涼しそうで、僕らみたいにへたばっ てなんかいやあしない。一体どうした訳なんだ。一つちゃんとあの通りをあいつらと一緒にやってみようよ、何かわかるかも知れないから。  リチャードはすぐに同意した。おそらく私が9つで、彼が8つの時でもあったろうか。われわれは、誰も彼もが上衣もチョッキもつけずシャツもあけているのを 見た。われわれも同じことをやってみた。草掻きと熊手の一番軽いのをとり―どちらも時々入用だったからだ―重い着物をぬぎすてて、リチャードと私は、何時 間も何時間も野をあちこちした。そしてただぶらぶらして時間を潰している時より、ずっと涼しくなり、へたばり方もめっきりへった。これがそれ以来2人に とって、常にいい経験になりいい教訓になった。ただぶらぶらして過ごす時間より、活発に働いている方が、遥かに気持がいいとわかったのだから」(五島茂訳、岩波文庫、22ページ。傍点はオウエン)

 オウエンは、また機械や技術についても強い関心を示したし、「むやみに一番になりたがる」性向もてつだって、音楽やダンスやいろいろなスポーツにも人並以上の能力を発揮した。ダンスについての思い出の中で、かれの教育観を示唆するつぎのようなエピソードがある。

  「私は家を離れるまでひきつづき大好きなダンスを習っていた。子どもの生まれながらもっている同情や憎しみあるいは嫉妬心とを、私が始めて意識してきたの は、これらの課業の時であった。私は同じ級でも一番うまい踊り手とされた。そしてその頃第一級にいた女の児の間でのダンスの相手のとりあいは、面白いこと も多いが、時には私も本当に困った。彼らのうちのあるものは、自分の好きな相手を得られないとその感情を制しきれなくなって、見るもいたましいほど苦しん でいた。私は長らく考えてきた。幼い子供の心や感情は、然るべく考えられたり注意されたりすることはごく稀だ。しかも大人たちが、もし根気よく子どもらを 励まして、子どもらが考えたり感じたりした事をありのままにいわすようにすれば、子供の多くの悩みは救われるであろうし、大人は人間性に関する多くの有益 なる知識を得られるであろうに、と。私は今にしておもう。あの舞踊室のなかには多くの真のなやみがあった、もし舞踊教師のうちに、子供の親たちのなかに、 人間性の知識がもっとあったならば避けられたであろう真のなやみが」(同、27ぺージ)

  オウエンの教育観、労働観が、このようにニュータウン時代の思い出と結びついていることは、興味あることである。また同時に、この土地の一面における「人 間的」環境が、その後、かれが身を置いた産業革命の全進行の中で、それがもたらしたニュータウン時代とはきわめて対照的な非人間的な諸結果にたいして、 けっしてそれらから逃避するのではなく、むしろその進行の歴史的進歩的側面を正しく認識しながら、単なる改善にとどまらず、新社会の構想をたずさえつつ、 社会変革の事業に没頭していくオウエンのエネルギーの泉であった、といっても過言ではない。とはいえ、オウエンにとっては、この地の知的、精神的刺激の欠 如は、いかんともしがたいものであった、「小さい田舎町の風習を好まないので、私は異なった活動の舞台を欲し始め、両親にロンドンへゆかしてくれと望ん だ」(『自叙伝』、26ページ)

 10歳から18歳 まで、オウエンは、スタムフォード、ロンドン、マンチェスターにおいて、呉服商の店員として、いわば徒弟時代をおくる。この間、仕事を通して、上流階級や 下層階級にたいする精細な観察、商品、経営についての天才的な観察と知識を蓄積しつつ、一方では、多いときには一日5時間にも及ぶ読書を一貫して続け、主 として、宗教上の疑問について思索しながら、着実にかれの社会思想をつくりあげていく。19歳で企業家として独立したオウエンは、54歳までの35年 間、綿紡績工場の経営者であったことは、周知の通りである。この間、かれは、当時の産業革命期の諸事情とも関連して、年代順にいえば、共同経営者、単独経 営者、支配人、合資人兼支配人、合資人筆頭支配人として、綿業経営者としての成功への道を歩んでいくが、この過程は、オウエンにおいては、同時に社会改革 者(=空想的社会主義者)としての成長・成熟の過程でもあった。この一見矛盾にみえる過程を詳細に解明することは、かれの独自の思想を知る上で、非常に重 要なことである。

 すでに20歳すぎから、「マンチェスター文学哲学協会」などとの交流を通じて、これまで独自に形成してきたかれの思想に加えて「唯物論的啓蒙思想家の学説を身につけていた」(エンゲルス)オウエンは、1800年、29歳で、ニュー・ラナーク村の大紡績工場の総支配人となるが、しかし、かれにとっては、この年はその村(=社会)の改革者としての出発点でもあった。以来25年にわたるニュー・ラナーク時代は、13年を境に二分することができる。前期は、オウエンの思想のニュー・ラナーク村内部で の具体化の時期で、他の合資者との関係で大きな制約がありながらも、労働・生活諸条件の改善をはかりながら、全体として工場経営を大きく成功させ、かつか れの思想の不可欠の一部である教育論を、大胆に実地に移していく。後期は、一言で言えば、かれの思想の全社会的展開と具体化の時期であり、かつその「挫 折」に終わる時期でもある。

 この時期は、オウエンのきわめて多面的な活動にいろどられた時期であるが、主として三つに分けることができる。

 その第1は、1813年に自著『新社会観』を出版して、その思想上の「同調者」 のみによって「合資関係」を再組織し、いっそう大胆にニュー・ラナーク村の「統治」をおしすすめていく活動である。16年には、待望の「性格形成学院」が開校され、そこでの教育実践は、国の内外の注目を集めていく。

 第2は、自ら起草した「工場法案」(1815年)をたずさえて、その法律化を要求していく精力的な活動である。

 第3は、かれの思想の大宣伝活動である。 

 これらの活動は、しかしいずれも1820年 までには終わりをつげ、翌年「公刊」された『ラナーク州への報告』の執筆を機に、かれの思想と行動は一つの転機を迎える。ニュー・ハーモニー(アメリカ) での実験、イギリスにおけるいくつかの「共同村」実験への関与、そしてそれらと平行して、『新道徳世界』、『新道徳世界の書』などの精力的な執筆と編集。 これらの経過の中で、オウエンは、ニュー・ラナーク時代の思想を、さらに前進させていることは大いに注目すべきである。

 工場経営者としての地位を、実質的には20年前後、すなわち50歳前後に失ったオウエンは、これらの諸活動を、ほとんど私財を投じながら続けていくのである。ついに1858年、ほとんど無一文の状態で、87歳の生涯をとじる。

 

 3、オウエンにおける「結合」の論理

 

 オウエンの生涯の素描からもわかるように、彼の活動は、思想的にも実践的にも、きわめて多面的なものであった。しかしこの多面性は、当時同時に進行していた産業革命の社会的影響の多面性と、その歴史的革命的意義にたいするオウエン的反映でもあった。

 「原理上も実際上もこの急激なる変革にも達せず、また細大いずれよりも方向はずれずに、原理と一致した実践をするにも至らぬような改革案は……ただ価値がないのみでなく、人類全体に善、叡知、幸福を直ちに達成さすのをはばむあやまった妨害物なのだ」(『自叙伝』、前出、146ぺージ)と考えていたオウエンは、たとえば、産業革命の必然的結果として、当時広く存在し、しかもきわめて悲惨な状態のもとにおかれていた児童労働にたいして も、これにたいする博愛主義者、開明的工場主、人道主義者、急進主義者らの対応とは本質的に異なる独自の立場から、その解決策をその社会変革の諸実践の中 に組み入れていく。その具体化が、ほかならぬ「工場法」の要求とニュー・ラナークでの諸実践である。一見して異質にみえるこれらの活動が、オウエンの思想 の中でどのように統一されていたのかを知ることは、かれ固有の「教育と生産的労働の結合の思想」を理解するうえで、重要なポイントになる。もしオウエン が、児童労働の問題を、その悲惨さのみに目を奪われて、あるいは「児童問題」という観点からだけとらえ、かれの社会変革の思想と実践から切り離して提起し たとすれば、この「結合」の思想自体、かれの中に成立しなかったであろうし、前述の二つの活動をふくめて、「ニュー・ラナーク時代」自体が存在しなかった であろうと思われる。

  オウエンの社会批判や変革の論理と、不可分ではあるが相対的に区別しうるかれの結合の論理は、つぎの通りである。かれは、人類の幸福、社会の繁栄は、なに よりもまず物質的富の増大=生産力の発展に求められるべきであると考えていた。資本主義生産の運動法則や産業革命の本質を科学的にとらえることができな かったオウエンは―そのことはかれのブルジョア性を意味するものではけっしてなく、当時の不可避的な制約の反映だったのだが、 主として「科学の力」(オウエン)によってひきおこされた「産業革命」がもたらした巨大な富は、けっして私的に領有されるべきものではなく、社会的公的な ものとして、国民全体の幸福と繁栄の増進のために消費されるべきものと考えた。しかし、かれが現実に見るのは、この巨大な富にたいする「製造業者(階 級)」の一方的な排他的な略取と、それが原因となって生ずる「労働者階級」の貧困と失業の増大に他ならなかった。

 オウエンは、このような現実にたいして、国家、政府の果すべき役割を強調し、とりわけ「製造業者(階級)」の横暴にたいする国家的規制を法的に要求すると同時に、両「階級」がそれぞれ正当な「収益」を得た残りの部分を、「余剰収益(surplus profit)」として国家管理のもとにおき、それは社会的共同の事業のために充当されるべきであると考えた。したがって、かれにとって社会の繁栄は、「余剰収益」の増加に求められた。

  他方、オウエンにおいて、「余剰収益」の増加は、労働者にたいする搾取によってではなく「科学の力」によって(さらにまた工場とその地域全体にたいする科 学的「統治」によって)もたらされるものと考えられたから、そのために、「成長中の世代」にたいする基礎的な学力と自然科学の教育が、とりわけ重視され た。したがって、この「教育」は、「余剰収益」の増加の基礎となるべきものだったから、当然国家政府が、そのための教育制度を充足するべきものとして期待 された。            

 さらに、オウエンは、生産的労働にたいして「成長中の世代」をふくめて、すべての人間が従事することは、かれの人間的成長にとっても、社会的生産にとっても前提条件であると考えていたので、かれの「児童労働」にたいする現実の対応も、「成長中の世代」における一定の年齢(10歳)を境にして、それぞれ独自に、すなわち10歳以下の児童における生産的労働の従事の禁止とそれ以上の児童の労働時間の制限が考慮されていた。しかし、この「禁止」や「制限」は、けっしてそれ自体意味があるものではなく、オウエンにとっては、両者をふくめた「成長中の世代」にたいする「教育」の保障と結びつくことによって、真の意味をもつものであった。

 オウエンのニュー・ラナークにおける全実践と、1815年に起草した「工場法案」およびその実現のための全活動が、かかるオウエンの思想の実証とその全社会的展開として位置づけられていたことは言うまでもない。次回は、それらの具体的な展開過程からはじめたいと思う。  

 

 4、産業革命と児童問題

 

 18世紀末以来の産業革命がイギリス国内におよぼしてきた経済的社会的諸結果は、1815年の対仏戦争の終紙を契機に、いっそう大規模にその諸矛盾を露呈した。インフレ、高物価、低賃金、戦後恐慌は生み出されつつあった大量のプロレタリアートの生活を、その全体において極度に深刻なものにした。巨大なスラムと化したマンチェスター等の諸都市におけるかれらの状態については、ここで述べる余裕もないので、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)や、最近のものでは角山栄『産業革命と民衆』(1975年、河出書房新社、生活の世界歴史10)をぜひ参考にしていただきたい。大気汚染、住宅難、疫病の流行、都市住民の精神的・知的・道徳的荒廃、性的頽廃、飲酒癖、犯罪、暴力、餓死、自殺の激増、労働者の身体的虚弱化、社会不安…。産業革命といういわば科学技術革新を契機とする「高度経済成長」がもたらした社会的諸結果は、その結果についてあらかじめ警告されながらも、国家の手によって、人為的に、しかも政治的反動と結びついて強行されている今日のわが国の「高度成長政策」がもたらしている諸結果と、なんと酷似していることか。

 このような中で、児童はとくべつ深刻な状態のもとにおかれた。かれらの悲惨さは重層的に展開した。旧来の家内工業制度は、産業革命の進展につれて急速にその経済的基盤を失うことになるが、かれらの職人的保守性は、新たな事態への円滑な対応を困難にし、かれらの家計の崩壊は「子どもを工場へ出す」ことによってしばしばくいとめられた。親にとってはまた、「子どもたちを工場に出すのでなければ、救済(救貧法などの―筆者)を拒石れる」(AL・モ―トン『イングランド人民の歴史』邦訳、未来社、1972年、288ページ)という事情もあった。 「子ともの収入に依存している場合にのみ、親は子どもとともに工場での仕事にありつけるという奇妙な雇用関係が生まれた。また紡績や織布作業は主として婦人や子どもによっておこなわれたから、労働者階級の家庭では、しばしば、母親と子ともが仕事へゆくのに、父親が失業しているという現象が起こった。こうした主婦や子どもの脱家庭現象は、従来の平和な家族共同体の解体、すなわち家庭のなかに統合されていた諸機能の分解、分化を促進した」(岩波講座『世界歴史』第18巻、186ページ)。また、工場において、児童は直接工場主によってでなく、熟練工層によって雇われることが多かったから、かれらの収入の向上は、児童への残酷な搾取によって保障された。家庭の貧困、工場での過酷な労働環境、都市のスラム化の中で、その害悪はたちまち児童の上にふりかかった。「マンチェスターでは、労働者の子どもの57パ―セント以上が5歳末満で死亡している」(エンゲルス、前掲書)のにたいし、他階級や農村での平均寿命は、きわだった対照をなした。種々の伝染病は児童の死亡率をさらに高めた。家庭の経済的崩壊にともなう親の子どもにたいする愛情喪失の結果、乳児はビール、ジンさらにはアヘン入りの乳児酒をふくませられて静かにさせられた。また「ロンドンの売春婦の多くは、やっと13歳に達するか達しないかの少女」(角山、前掲書、220ページ)であったといわれるように、成長期の世代の道徳的頽廃が野放しにされた。

 一方、このような児童に対応する教育施設としては、日曜学校、慈善学校、ディム・スク―ルなど、ごく小規模な施設や、一人の正教員にたいし1,000人、多いときは2,000人の児童をまかせる超マスプロ式のランカスタ学校などがあげられるが、いずれにしても、これまで述べた労働者階級の児童の身体的、知的、道徳的状態の前進的解決には、ほとんど無関心であったといっても過言でなかった。

 したがって、当時において、多くの医者、治安判事、工場主などが、それぞれの立場から人道主義者、博愛主義者、温情主義者、開明的工場主として立ちあらわれたのはむしろ当然であった。

 

 5、オウエンの教育論とその実践

 

 しかし、「救済」とか「改善」、あるいは教育問題、児童問題というような特定の分野での「変革」とは本質的に異なり、明確に社会変革として提起し、独自の社会経済論、人間論、政治・宗教論、教育論に立って全生涯をつらぬいた当時におけるもっともすぐれた社会主義者こそが、ロバアト・オウエンであった。本節では、かれの教育論、教育実践(それらのオウエンの思想全体の中での位置づけについては、前号第3節に述べたのでここではくり返さない)を、その特徴的側面について、主題に即しつつ、概観したいと思う。

 

 1)ランカスター(学校)にたいするオウエンの態度 

 オウエンの教育活動ほ、ニュー・ラナアク村、工場法要求活動の中にとどまるものではない。産業革命という社会的変動に対応した新しい形態の学校として、ベルおよびランカスタ―らの提唱にもとづくモニトリアル・システムの学校が当時注目されていた。角山氏(前掲書)によれば、1807年には全国で45校を数え、1810年までにこの学校に出席した児童数は10万人と推計されている。オウエンは、この学校とかれらの教育観にたいしては、宗教教育、画一性、教育内容の貧困などの点から、早くから批判的であったが、しかし同時に、一時期両氏にたいしかなり多額の資金援助をしていたことが知られている。このことについてオウエンは、「私は(両氏を―筆者)励まして彼らの方策それぞれの制度の志すいささかなりとも貧困教育をなさんとする事業のわが国での皮きり―に向かっては、随分多くのむしろ法外な金を使ったものだ。けだし皮きりをすれば、次第次第に社会に対して実質的な、そして将に有利なあるものへと唱かれることもできるかと信じたからだ」(『自叙伝』196ページ、傍点筆者)と述べ、さらに1812年にはグラスゴウにランカスターを招き、歓迎会を催してもいるのである。ランカスターの教育論を批判的に念頭におきつつ、『新社会観』が構想されたこともオウエン自ら述べている。ここに見るかぎり、社会観、教育観上の基本的な相違を認めつつ、そのことをもって第一の障害とするのではなく、現実に解決の迫られている児童・教育問題について、一歩でも改善しようとする立場に立つ人と共同していこうとするきわめて誠実で現実的な態度にわれわれは注目すべきであろう。と同時に、そのような試みが、現実に「皮きり」となると確信するオウエン固有の楽天性もまた指摘されるべきである。

 

 2) ディルにたいする批判とその克服の仕方

 オウエンは、他の合資者とともにニュー・ラナアクの工場を前経営者D・ディルから買いとり、みずから総支配人として早速、その「統治」に着手した。1800年、29歳のときである。「ニウ・ラナアックも当時(オウエンが着任した当時筆者)、一般のレベルからみていい住宅、教育を与えた。1300の職工とその家族。それに4500人の教区徒弟表むき7歳から12歳といわれ、実は5歳から10歳までの貧民の子どもたちは年期証文で雇っていて、そこには教育条項があった。彼らは、(中略)衣食を供され、夏も冬も朝6時から夜7時まで働かされ、朝食30分、昼食45分を含んで実働は11時間45分。終業後読み書きダンス。日曜はバイブル・クラス。開明的配慮で強制されたこの夜学も、疲れてねむり倒れる子どもたちには何であったろう。(中略)工場内には公然と盗み、横領が横行し、低生産性、不規則な就業怠惰、不秩序、乱性交、不摂生、軋轢、猜疑、泥酔などあらゆる害悪は工場にあふれひろがっている。赴任してきたオウエンの目撃したのはこれだ」(五島茂『ロバアト・オウエン』家の光協会、1973年、94ページ、傍点筆者)。博愛主義者、開明的工場主としてきこえたディルの工場はこのようなものであった。オウエンがはじめに着手したいくつかの改善の中で注目すべきことは、「新しい教区徒弟の雇い入れを禁止し、幼少年工の雇い入れもやめ」(五島、前掲書、95ページ)て、家族のある労働者にきりかえていったことである。当時の児童のおかれていた状態を考えるとき、博愛主義者等の心情とはまったく異質の「動機」が現実に妥協することなくオウエンに作用した点に注意するべきである。オウエンと老ディルとの親交は『自叙伝』の全体をつらぬいているが、しかし同時に、ディルにたいする批判もおだやかではあったが、一貫していた。オウエンは、ディルとはまったく別の立場から、ニュー・ラナアクを政治社会の一小単位として、また住民の生活と生産の共同社会としてとらえ、この社会の全般的な諸改革村全体の環境整備、家庭の衛生管理、工場共同組合施設(ここでの収益によって、のちに述べる「新学院」の経常経費がまかなわれた)、工場付の医師の雇い入れ、薬代の無料化、疾病救済基金、貯蓄銀行、厨房・食堂の共同化による婦人労働者の家事労働からの解放(しかしこれは実現されなかった)の中に、教育改革もまた位置づけられたのである。かれの教育論のきわめてすぐれた側面と同時に、きわめて素朴な、転倒した、空想的な側面をここに見ることができる。今日流に言えば、地方自治体の革新化の量的増加がそのまま国政の革新の保障とならないという問題と、ある意味で共通している。

 

 3)「性格形成学院」建設をめぐる他の合資者との対立

 ニュー・ラナアクの工場(四つの大工場からなる)は、オウエンの管理(1800年〜1825年)のもとで、2度(すなわち9年と13年)合資関係の交替を見た。これは、「性格形成学院」の建設の是非をめぐってオウエンと他の合資者たちとの対立の結果にほかならない。オウエンによれば、他の合資者たちの主張は、つぎの通りである。

 すなわち9年の時は、「(オウエン氏の)諸計画は、一々切り離してみればごもっともだが、その計画がわれわれの教育、習慣、実際に反対する結論に導かれるから、それは全体として間違っているに相通ない。われわれはすでに非常に大きいこの工場を統治し拡張するのに、そんなに新しい原理に基づいていくことはできない」、また22年の時は、「白分たちは紡績業者だ。儲けんがために商売をやっている実業家なのだ。児童教育なんかに何の関係ももっていないはずだ。誰だって工場の中で教育などやっているものはありはしない」というものであったが、オウエンは、「私は私流のやり方でのみこの工場を経営して成功してゆけるのです」(いずれも『自叙伝』、前出、160163ページ、傍点筆者)と断固と主張している。かくして1809年に建設の構想が公表され、途中建設中止の通告を受けたりしながら、ようやく『新社会観』の趣旨に共鴨することを条件として結成された新しい合資組織のもとで、1816年「性格形成学院」は完成したのである。建設費は3,000ポンド。当時のニュー・ラナアク工場の収益は年平均約2万ポンドと推定されている。

 

 4)教育制度、教育実践

 ニュー・ラナアクにおける教育は「性格形成学院」および「ザ・スクール」を中心に展開された(その詳細については紙数の関係でここでふれることができないので、さしあたり五島氏の前出書を参照していただきたい)。

 ①、幼児学校(Infant School 1歳から6歳まで前後2クラス、各30ないし50名が各1名の「児童取り扱いの心得ある」婦人教師によって保育される。人間の気質、性格(人格とは区別される)は生まれて1、2年で形成されること、それらは合理的に形成されねばならないこと、また児童はそれが可能であるような自然的資質をそなえていること、乳幼児にたいする社会と家庭のもつ役割は相互に区別され、かつ統一されねばならないこと、などを主内容とするオウエンの幼児教育観は、それを実現していく上で、当時の家族制度、婚姻制度、ないしは宗教観と対立せざるをえなかったし、事実オウエンの実践も、かかる障害を排除、解決しつつおしすすめられたことことは注目に値しよう。オウエンがのちに私有財産制、宗教、婚姻制度をいわば三位一体のものとして激しく攻撃したのも、オウエンのかかる教育観を実現する上で、それらがいかに困難な障害物であったかという彼自らの経験とけっして無関係ではないと思う。

 ②、小学校。5歳から12歳まで、計300名。数グラスの編成。教師は各クラス1名の他、ダンス兼音楽担当、教練担当、裁縫担当各1名、校長1名(当時計2名の教師が年合計550ポンドの俸給を受けていた)。学科目は、読み方、書き方、算術、裁縫、博物、地理、歴史、音楽、ダンス、軍事教練(宗教教育は最後の一時期譲歩によって組込まれただけ)。被服費無料支給。授業料月3ぺンス。これは教育が慈善でないことを親に確認させるためにとられた処置だった。(19世紀中頃の3ぺンスは、朝食一食分。またディム・スクールの授業料は3ぺンスだったといわれる)。教科書は原則として使用しない徹底した視覚教材による実物教育。

 さて、注意すべきことは、小学校においては、教育と生産的労働は「分離」していたことである。このことは、オウエンの教育論、「結合」の思想と矛盾するどころか、まったく一致していたと考えられる。しかもオウエンは、12歳以下の児童を生産的労働から排除していたのであり(実際は親が10歳をすぎると学校を退学させて仕事につかせるケースが多かったのだが)、このことは、ほぼ併行しておしすすめていたオウエンの工場法要求活動における12歳以下の児童労働の禁止と国民教育の義務づけの内容とほぼ完全に一致していた。

 ③、青少年学校。「成人学校」と名づけられたもので、小学校卒業生から20歳までを対象に、昼間の就業12時間が終わった後、夜間、「学院」において行われた。多い時期には毎夜400人近くの出席がみられたといわれているが、その実情はあまり明らかではない。ここでは、いわゆる教育と生産的労働が文字通り「結合」していたわけだが、しかしオウエンは、「結合」の当時の現状に必ずしも大きな教育的意義を見出していなかったようである。オウエンは、ニュー・ラナアクを去ってしばらくして8時間労働制を強力に宣伝しはじめるが、それは、「結合」の教育的意義を実効あるものとするためからも考えられたものと思う。

 

 5)ペスタロッチ批判

 オウエンが「性格形成学院」を開設して2年後、またオウエンが作成した工場法案の議会でのなりゆきにすっかり失望した年である1818年、かれはヨ―ロッパを訪ね、スイスにおいて、フライブルグにオーベルリンの学校を、ホフヴィルにフェレンベルグの学校を、そして、イヴェルドンにペスタロッチを訪ねている。(それぞれについては、オウエン『自叙伝』、グルプスカヤ『国民教育と民主主義』、1917年、邦訳、岩波文庫、等を参照のこと)。オウエンは、とくにペスタロッチについて「彼の理論はいい。が彼の手段や経験は甚だ限られたもので、彼の原理は旧制度のそれであった」と批判すると同時に、「とはいえ、彼の学校は普通の小学校、すなわち普通社会の貧民のための旧式な型にはまった学校を一歩進めたもの」(『自叙伝』、310ページ、傍点筆者)とその積極的側面をし」らえていた。なおぺスタロッチ主義者とオウエンは、その後とくにニュー・ハーモニーの実践の中で行動を共にしていくのであるが、両者の教育観の相違は、ニュー・ハーモニー崩壌の重要な要素であった。なおクルプスカヤは、ぺスタロッチとオウエンについて、つぎのような明解な対比をおこなっている。①両者はともに人間は環境の産物であると主張しているが、ぺスタロッチは、環境を労働条件として理解し、オウエンはそれを社会的諸関係としてとらえた。②このことから、ペスタロッチは基本的には現存社会に順応しつつ、教育事業の改善を重視し、そのかぎりで労働の教育的意義を承認しているが、オウエンは、現代社会の根本的変革、新社会の建設を重視し、その中に教育事業を位置つけている。③ぺスタロッチは、家庭の教育的役割を重視し希望を託しているが、オウエンは、幼児教育の公教育化を要求している。④児童労働については、ぺスタロッチはこれを生活費を補填させるべきものとして把握していたのにたいし、オウエンは児童の生産的労働への参加を禁止すると同時に、労働の教育的意義を認め、年少者の生産的労働と教育の結合を主張した―と(クルプスカヤ前掲書6876ページ)。

 

 6)宗教教育をめぐる他の合資着たちとの対立

 1813年にオウエンが再組織した他の合資者たちは、かれの同年刊行された『新社会観』に同調した人々によって構成された―哲学者のJ・ベンタムをふくめ、社会的政治的有力者たち6が、その多くがクエーカー教徒であったことから、オウエンとかれらの教育事業についての立場の相違は、当初はかれらがオウエンの事業への賛同者であるというたてまえから表面化しなかったが、17年のオウエンの宗教否定大キャンぺーン、工場法要求、『ラナーク州への報告』出版による社会変革の一層の具体化の表明などの中で、ついに決定的なものとなった。「彼(合資者の一人、W・アレン―筆者)のこころは、クエーカーの偏見とランカスター式の不完全教育制度にせばめられていた。(中略)彼の非常に神聖ぶること、音楽、舞踊、軍事訓練をやたらに気にすることを見出して、私は遠からず別れる宿命をだんだん悟るようになった。数年ならずしてそれが起こったのである」(『自叙伝』、前出、408409ぺージ)。かくて1825年、オウエンは事実上ニュー・ラナアクから手を引いた。

 

 6、工場法要求の基本的性格

 

 『新社会観』を出版し、ニュー・ラナアク工場の合資関係を再確立したオウエンは、1814年、さらにおしひろげようとしているニュー・ラナアク村での社会変革の個別的実践を、さらにイギリス全体に拡大する決意を公にした。「私の注意は一転して公的性格をもった諸方策に向かった」(『自叙伝』、前出、206ぺージ)。なお、この経過を個別資本の立場から総資本の立場への移行ととらえる見解もあるが、適当と思われない。

 その最初の方策が工場法の要求であった。18151月、オウエンは、グラスゴウでの製造業者の集会において、はじめて工場法案提出のプランを公表した。そこでの内容は、オウエンの工場法案要求の基本的な意図を表現したものとして意味がある。

 すなわち、①いかなる分野の機械工場においても、②12歳以下の児童の雇用は禁止されるべきこと、③就業時間は1時間半の食事、休憩をふくむ12時間とすること、④いかなる工場も、たとい児童が12歳をすぎても、かれらが読み、書き、四則計算、そして少女たちは簡単な裁縫ができなければ、就業させてはならないこと、⑤この間の教育は、国(the country)によって行われなければならないこと、以上であった。

 これは、まさにオウエンがニュー・ラナアクで試みている社会変革を法的手続によって一般化しようとしたものであり、イギリス工場法史上でいう、いわゆる工場法とは異質のいわば社会改革法案というべきものであった。この法案が、当代の大紡績業主であり、政治的野心家R・ピールによって議会にもちこまれ、特別委員会が組織され、そこでの議論を通じてオウエン的色彩がすっかり漂白され、19年に「似ても似つかぬ」工場法が成立したことは周知のことである。この間の事情については、五島氏の前出文献、ならびに拙論「R・オウエンにおける1815年『法案』をめぐる思想的研究」(北大教育学部紀要第22号、1973)などを参照していただきたい。

 主題に即して言えば、オウエンが、この活動を通して主張したものは、12歳以下の児童の就労禁止とその間の国の手による基礎教育の義務づけであり、12歳以上の若い世代にたいする生産的労働と教育の結合についてはみずからの実践にもかかわらず、強く打ち出されていないことは注意されよう。これらの論理構造については、前号第3節を参照されたい。

 

 7、むすび―オウエンの「結合」思想の継承

 

 一人ひとりの人間が、人間的に生きていける生活と生産の真に調和した政治社会。オウエンは中世風の調和はとれていたが人間的に停滞していた幼少年時代の社会に育くまれながら、もちまえのすぐれた科学的精神と批判的精神およびずばぬけた多面的な諸能力、ゆたかな感受性にささえられて、一貫して変革的立場から、当時摂取しえたあらゆる進歩的遺産を活用しながら、自らも生産活動に従事しつつ、あの悲惨な諸結果を生み出しつつ進行した産業革命の歴史的進歩的側面を天才的に受けとめ、生涯追い求めつづけた社会こそが、そのような社会であったと思う。オウエンの「結合」思想は、かかる文脈の中に正しく位置づけてこそその深い内容がとらえられるはずである。もちろん、かれの社会変革の諸理論は、剰余価値の発見、史的唯物論の発見等によって科学的に再構成されねば今日に生かすことはできないけれども、したがってまた、彼の「結合」思想も新たに組立てられねばならないが、オウエンの人間的、革命的エネルギーは、今後ともいっそう生かされねばならないだろうし、オウエンの遺言は、その死後百数十年の今日に至るまで確実に世界の人民によって守り育てられてきていると思うのである。  (完)

HP掲載に当たり、語句の一部補正を行った―武田 20118月)