憲法26条2項(普通教育)の見地から

第1次教科書裁判「訴状」を検討する

〈もくじ〉

はじめに

1 「第三-一①および二①」について

2 「第三- 教科書検定制度の違法性」について

3 「第三- 検定の基準及び手続きの違法」について

4 「第三- 検定基準違反」について

むすび

 

はじめに

 1965612日、東京教育大学教授家永三郎氏が執筆者として申請した高等学校教科書『新日本史』(三省堂)用の原稿に対し、文部大臣が不合格あるいは条件付合格としたことから、家永氏は精神的損害を被ったとして国家賠償を求め、10名の原告訴訟代理人名で東京地方裁判所に提訴した。このときに提出されたのが小論で取り上げる訴状(以下「訴状」とする)1)である。この裁判は1974年の東京地裁判決、1974年の東京高裁判決を経て1993年の最高裁判決をもって終結したが、この一連の裁判がいわゆる第1次教科書裁判と言われる。

 この裁判での判決はいずれもが、教科書検定を合憲とするという点で「訴状」を退けたが、いわゆる「国民の教育権」を主張する側から「不当」であるとの見解がきびしく提起された。教科書裁判はきわめて重要な歴史的意義を有する。しかし、この裁判の真の争点は何だったのか、曲折はあるにせよなぜ原告側は敗訴したのか、国側はいかなる意味で勝訴したのかなどは、依然として解明されるべき論点を孕んでいるように思われる。

 いささか図式的に言えば、「訴状」は主として第21条を論拠に教科書検定制度の違法性を組み立てた。これに対して、国側は、ともかくも憲法26条を論拠にその合憲性を組み立てた。しかし、原告側の主張には、教科書検定問題がどういう意味において教育問題であるのかについての認識に弱点があった。一方、国側のみならず「判決」も、第26条第2項を論拠にしたとはいえ、その解釈は形式的にとどまり、事実上、教育行政権力の政策方向に追随するものであった。ここから浮かび上がる双方に共通の問題は、第26条第2項の意義が明確に認識されていなかったことである。したがって、今日の時点で、教科書裁判(第1次)を総括するとすれば、第26条第2項の意義を憲法理念に照らして深く解明し、それを論拠として、教科書検定制度の憲法上の位置づけを明確にすることである。

 わが国の教科書検定制度は、今日なお、依然として重要な教育問題であり、この制度に対して明確に違憲とする法理を確立することはきわめて重要な課題である。

 小論は、以上のような問題意識のもとに、「国家の教育権論」か「国民の教育権論」かという枠組みとは別に、憲法第26条第2項の理念を重視する見地から、あえて「訴状」自体にさかのぼり、その問題点をあらためて解明しようとするものである。小論の立場は、原告の主張およびいわゆる「国民の教育権論」として括られる見解(これ自体一様ではないが)とは同じではないが、教科書検定裁判が違憲・違法であるという点においては同じであり、その意味では、原告や家永裁判を支援した多くの方々の長期にわたる粘り強い努力を真に生かす方向であると考える。

 なお、原告側の主張は「訴状」だけではなく準備書面等においても述べられているが、小論はあえて「訴状」に限定して検討を行った。判決についての検討は他日を期したい。

 そもそも憲法第26条第2項とは何か、どのような経過と意図で憲法に「普通教育」という用語が採用されたのかについては拙論 2)を参照していただくこととし、ここでは、第26条第2項における「普通教育」概念の性格についてはじめに明らかにしておきたい。3)

 その第1の性格は、憲法制定議会における国会内外の議論の結果として、しかも「憲法ノ指導精神」と結びついて採用された概念である。第2の性格は、戦前におけるわが国の普通教育制度史への深い反省とむすびついていることである。第3に、18世紀以降の西欧における普通教育思想が反映していることである。第4に、明治前期における自由民権思想などが重視し、かつ当時の教育法令にも用いられた「普通教育」概念を反映している、ということである。

 第26条第2項に位置づく「普通教育」概念は、これらの性格を未分化ながらも総体として内在させたきわめて意義深い概念であると言えよう。4) 26条第2項は、このような「普通教育」概念を前提とした上で、それをすべての子どもたちに受けさせることが国民の義務であると定めているのである。この条項の見地に立って、現在に至る戦後教育の経過を捉えることはきわめて重要である。教科書裁判もそのような位置づけのもとに再検討されるべき最重要な教育問題の一つである。

 「訴状」は次のように構成されている。小論は、主として、「第三 被告の不法行為とその違憲・違法性」の、とくに傍線を付した箇所を中心に検討するものである。

   第一 当事者の地位

   第二 本件の概要

   第三 被告の不法行為とその違憲・違法性

    一 本件をめぐる全般的事情(教科書検定制度の実態とその問題性)

     ①教科書検定制度の問題性

     ②歴史的にみたわが国教育行政の問題性

     ③「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態

     ④諸外国の教科書制度

    二 教科書検定制度のしくみ

     ①検定制度の大綱について

     ②検定の基準について

     ③検定の手続きについて

    三 教科書検定制度の違法性

    四 検定の基準及び手続きの違法性

    五 検定基準違反

   第四 損害の発生

   第五 国家賠償法の適用

 

1 「第三-一①および二①」について

 「訴状」は、まず「第三-一①教科書検定制度の問題性」において、「教科書が義務教育乃至普通教育で使用される主たる教材という性格を持つからといって、それだけで直ちにこれに対する国家の関与、とくに中央官庁の事前審査を当然視しあるいは必要視することは誤りである」(傍点筆者)と主張する。この主張自体はその通りである。がしかし、この議論を徹底するとすれば、「教科書が義務教育乃至普通教育で使用される主たる教材という性格を持つ」としても、憲法262項の見地に立つ限り、「国家の関与、とくに中央官庁の事前審査」を許容するものではなく、それとは理念的に異なる教科書制度を構築する必要性を強調するべきだった。

 しかしながら、「訴状」は、わが国の戦前戦後にわたる教科書制度・政策史を総括したうえで、「以上によって、教科書制度は、教育内容の統制、ひいては国民の思想統制という政治的意図に実際に利用されてきたし、あるいは、教科書の内容に対する思想審査にわたる危険性を常に内包する制度であることが明白である」として、思想審査・思想統制の側面を押し出すあまり、憲法262項の見地に立つ積極的な教科書制度のあり方を対峙させる方向を見失ってしまった。

 「訴状」の「第三-一③『新日本史』に対する従来の検定の経緯とその実態」では、それまで「一般市販図書」として刊行してきた『新日本史』を教科書にしたいという出版社からの要請をうけ、『新日本史』を台本に「戦後の歴史学界における研究の成果と原告自身の研究の結果とに基づき全面的に改訂増補」した原稿を書き申請手続きを行ったところ、一旦は不合格になったが、「何らの訂正を加えずに再申請したところ合格」し、1953年度から教科書に採用されたこと、その後、出版社からの要請で改めて改訂原稿を検定申請したところ、「修正を条件に合格」ということで216項目にわたる修正項目が示されたが、一部の修正拒否にもかかわらず合格となり、1956年度から発行されたこと、また1955年の高等学校学習指導要領改訂を経て改めて申請したが、「同様の過程を経て」合格となったこと、などが述べられている。

 「訴状」は「第三-二①検定制度の大綱について」において、教科書の検定権は、当初、都道府県教委におくが、「当分の間」監督庁におくとされていたことが、1953年の教育委員会法改正により文部大臣の検定権が恒久化されたことを述べている。

 「訴状」は、1949年の「教科用図書検定基準」が「絶対的条件」と「必要条件」としていたものが、1958年のそれでは、次のように改変されたことを述べている。

 すなわち、

  1 (教育の目的との一致)教育基本法に定める教育の目的および方針などに一致

   しており、これらに反するものはないか。また、学校教育法に定める当該学校の

   目的と一致しており、これに反するものはないか。

  2 (教科の目標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、

   これに反するものはないか。

  3 (立場の公正)政治や宗教について、特定の政党や特定の宗派にかたよった思

   想、題材をとり、又これによって、その主義や信条を宣伝したり、あるいは非難

   しているところはないか。

 「訴状」はつづいて、教科用図書検定調査審議会令(1950年制定)に基づく検定手続きを説明した後、教科書調査官制度を盛り込んだ教科書法案が1956年に廃案になったにもかかわらず、行政措置によって調査官制度が「不当にも」新設されることになったこと、そのことで「それまで教育専門家や現場教員によって行われてきた教科書検定に、行政官僚が、直接関与することになった」ことなどを論じている。

 以上、「訴状」は、本事案を訴訟に持ち込まざるを得なくなってきた政策変化に着目し、そこから、以下に述べるような「違法性」を直接引き出そうとしている。

2 「第三-三 教科書検定制度の違法性」について

 「訴状」は、教科書検定制度の違法性を論ずるにあたって、第1に、「教科書の著述・編集・刊行は、いうまでもなく憲法上の言論・出版の自由の保障を受けるべきものである」という主張から始めている。その見地から、「訴状」は、現行の検定制度は「教科書の内容に対する思想審査を行い」、結果によっては教科書の使用禁止を求めるものであるから、それは「憲法21条第2項」が禁止する「検閲に該当する」として違憲性を主張している。

 しかしながら、「一般市販図書」と教科用図書(教科書)はその性格が本質的に異なっている。普通教育制度の一環としての教科書という図書の独自性を、憲法第26条2項を論拠に、現実の検定制度の違憲性を論ずる可能性があったと思われるが、「訴状」は主要な論拠を憲法第21条に求めた。すなわち、教科書検定制度の違憲性を憲法21条第2項に求めることの無理がこの「訴状」に内在していた。

 第2に、「訴状」は、検定制度の必要性の論拠とされている「普通教育の特質にもとづく小・中・高校教育の画一化の要請」自体が、「憲法、教育基本法が定める教育の民主的諸原則に反する」と述べている。しかし、検定制度の必要性の論拠が、ともかくも「普通教育の特質」すなわち、憲法第26条2項に求められているのだから、その理念を明確にし、その条項に対する行政優先的解釈の不当性を指摘して「違憲性」を主張することを根本に据えるべきであった。しかし、「訴状」は、「憲法、教育基本法が定める教育の民主的諸原則」という不明確な論拠を持ち出して、検定制度それ自体の「諸原則違反」を組み立てている。ここにも問題があった。

 第3に、「訴状」は「思想・信条・言論・表現・学問等の諸自由」をあげて、それが「わが国の憲法秩序」であり、わが国の教育制度は基本的にこの「憲法秩序」に適合するものでなければならない、としている。この議論も、教育もしくは普通教育の独自性に留意しようとしない議論であった。

 第4に、「訴状」は、教育基本法第10条について、それが、教育を権力的に統制し画一化することを「不当な支配」として禁止し、教育行政が教育の内容に権力的に介入することなく、その外的諸条件の整備に当たるよう、その任務と限界を定めていると論じている。

 しかし、ここでは第10条自体が、憲法26条の第1項および第2項の両側面を有していることについての留意がなく、つまり教育と普通教育とが未分化なまま論じられていること、したがって、大学における教育と普通教育との関係が未分化に論じられていること、いわゆる当時の学説としての内外事項区分論に依拠していること、などの問題性が裁判の過程の中で明確になっていくのである。憲法26条2項の見地に明確に立ち、かつ普通教育の制度・内容をトータルに捉える見地に立って、その見地から「違憲性」を組み立てていく論立てもあり得たのである。

 「訴状」は、つぎに「もっとも、今日の小中学校教育は義務教育として行われるものであり、高等学校も普通教育の一環として行われるものである以上、その教育内容について国や地方公共団体が何等の関与をなしえないということはできない」と述べ、その「関与」は「大綱的な基準の設定に止まるべき」であると論じている。ここでの論じ方自体、憲法26条2項に対する深刻な誤解がある。

 「義務教育」もしくは「普通教育の一環」の場合は教育内容への「関与」はあり得るとし、その点であたかも学問とは区別されてしかるべきである、という認識がそこにあらわれている。「大綱的基準」の論拠もそこから導かれている。

 しかし、憲法262項は、小.中学校も高等学校も基本的に普通教育機関であると見なしている。憲法262項にいう「義務教育」という場合の「教育」とは、国民が子どもたちに普通教育を受けさせる義務を負っているところの教育、すなわち普通教育を意味するのであって、下位法が特定する義務年限下におかれる教育を意味するものではない。教育内容への「関与」の点で「普通教育」と義務教育を区別する根拠はない。しかも、その普通教育と学問との関係については、通念的な教育学的言説はともかく、憲法は何も語っていない。

 ところで、教育基本法第2条の「学問の自由を尊重し」は、憲法23条における「学問の自由を保障する」よりも積極的に規定したものであり、初等教育においても当然尊重されなければならない、とされているのである。5) なお、「大綱的基準」についても、教育基本法に言う「学問の自由を尊重し」という見地から位置づけるべきものである。教科書執筆に関わる学問の自由の問題は、より直接的には教育基本法第2条を論拠に組み立てることが可能であるし、そのことは憲法第21条によってもさらに支えられているのである。

 「訴状」は、わが国の教育法制に「非権力的な指導助言の作用」についての定めがあることについて、「この作用こそは、人間の内面的人格思想、形成を目的とし、高度の専門性を有する教育という作用にもっとも、ふさわしい方法なのである」と述べている。このことも、憲法26条第2項、すなわち普通教育の理念、および教育基本法の「学問の自由を尊重し」という文脈において理解されるべきであろう。

 「訴状」は、上記のような見地に立って、「教科書の自由発行制度こそが、もっともよくこれに適合した制度である」と提案している。「訴状」が、高校までの教育について、「人間の内面的人格思想、形成」と捉え、受けとめようによっては文学や芸術などと同一視できるような認識の下に、自由発行でどのような普通教育制度を維持できるか、普通教育を受けさせる国民の義務の遂行にどのような責任を果たすのか、について明確な説明が必要だったのではないか。

 「訴状」は、その上で、現行教科書検定制度が、「一定の政治的イデオロギー」や「教科書調査官の恣意的な判断」によって運用されているとして、「憲法21条、教育基本法第10条に違反するばかりでなく、わが国憲法の基本的な精神、憲法秩序の全体に反する」と結論づけている。

 

3 「四 検定の基準及び手続きの違法性」について

 「訴状」は、「何等かの形態の検定制度が必要」な場合について言及し、弊害等をもたらさないような「限界」もしくは「制度的、手続的保障」が必要であるとしている。この場合の「限界」等も普通教育の見地から提起されているわけではない。

 「訴状」はその理由として、第1に「検定制度が言論、出版の自由にかかわりをもつ」

からであり、それがなければ、憲法13条(個人の尊重)や憲法31条(法定手続きの保障)にも反することになるからだ、という。「訴状」によれば、検定基準は、包括的と同時に詳細であり、そこでの「文言は、きわめて抽象的、曖昧」で、「調査官等の恣意的判断を防止することはきわめて困難である」と述べている。

 第2に、「訴状」は、教育基本法10条を根拠に「明確な限界」が求められる、とする。

 これについては、「訴状」は、学習指導要領を挙げ、それが「大綱的基準の範囲を逸脱しているので、これに法的拘束力を認めることはできない」と述べている。

 「大綱的基準」というものが訴訟に耐えうるほどの明確な概念なのか、「法的拘束力」なるものが「大綱的基準」の範囲に由来するものか、文部大臣の告示行為に由来するものか、が問われることになるだろう。

 さらに、「訴状」は、「検定基準」の教育基本法との適合性、内容選択の適正性等について、それらは「教育的・学問的な判断乃至裁量」や教科書執筆者の見解によって判断が分かれるから、「行政権がその判断をいわば一義的に行うことは適当ではない」、したがって行政機関による審査は、明白な誤記、誤植や「明白で異論の余地ない欠陥の是正のみを目的とすべき」であると主張する。

 新聞社や出版社が持っているようなこのような機能を持つ「検定制度」が本当に公的制度として必要なものなのか、教育行政機関が意図している普通教育制度としての「検定基準」と真に対抗し得る「審査基準」をどのように制度化するか、などが問われるであろう。

 

4 「五 検定基準違反」について

 「訴状」は、最後に、「不合格の理由および条件付合格の修正要求の内容」が「教科用図書検定基準」に「絶対条件」として挙げられている学習指導要領にすら反しているとして、5点を例示している。1点だけを取り上げておきたい。

 「『神代』の物語はもちろんのこと、神武天皇以後数世代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語である」とする箇所が「強要されて削除を余儀なくされた」ことについて。

 「訴状」は「この箇所を除くと、古事記、日本書紀についての記述が不正確になるだけでなく、古事記、日本書紀の記述をそのまま史実として誤解せしめる記述になり、右削除要求は、史実に基づかない非科学的な歴史の学習を期待しているものというほかない。これは学習指導要領の『史実を実証的に、科学的に理解する能力を育て、史実をもとにして歴史の動向を考察する態度を養う』目標に著しく反するものである」と論じている。

 教育行政機関が自ら設定した基準にすら反する決定を行う、いわば自己矛盾を起こしているという指摘は重要であるが、そのことで「訴状」が学習指導要領を正当化しているわけではもちろんないであろう。ただ、考えてみたいことは、学習指導要領には、部分的にせよ、「正当」視できるような目標や基準も含まれていることを「訴状」が認めていることである。このことは、教科書を普通教育制度の一環として位置づける教育行政機関が、そのことを理由に設定する「検定基準」自体が、それ自体としては、否定できるものではないことを「訴状」が、積極的でないにせよ、認めていることを意味する。だとするならば、その議論を、憲法262項の見地をより積極的に捉える見地に立って、教育行政機関から真に独立した教科用図書審査制度を構築する可能性を「訴状」は主張するべきであった。にもかかわらず、「訴状」は一挙に「教科書の自由発行制度こそが、もっともよくこれに適合した制度である」と主張するのである。「訴状」は学習指導要領が示す「目標」がどんなに正当であっても、検定基準である限り認めるわけにはいかないという見地に立っているのであろうか。ここに見られる「訴状」の不明確さが、裁判の過程の中で「判決」独自の論理から、指摘されていくのである。

 

むすび

 現行の教科書検定制度は、他の教育制度についても同様であるが、今後、憲法26条第2項の意義を明確にした上で、より根本的かつ全面的な検討が必至である。小論がそのための導火線の役割を果たすことができるならば幸いである。

 「訴状」は、本来、憲法26条第2項に位置づく普通教育制度の一環であるべき教科書検定制度を、憲法26条第2項からではなく、主として憲法21条を論拠として、その問題性を論じた。また、教育基本法第10条を論拠としても論じたが、その場合の10条とは、憲法26条1項の側面から捉えた10条であった。結局、憲法26条第2項問題としては把握されなかったのである。

 この「訴状」を受けたその後の一連の「判決」は、曲がりなりにも憲法第26条第2項を根拠として、まさに普通教育制度に関わる問題として捉えた。しかし、憲法用語としての「普通教育」についての憲法上の解明がなされず、せいぜい「普通教育」を学校教育、義務教育という次元で受けとめ、それについての行政解釈に事実上追随する判断に終始した。このことについては別の機会にあらためて論じたい。

 憲法制定過程における第26条第2項、とりわけ普通教育について、まさに「憲法ノ指導精神」7)に立って解明できたならば、「訴状」はもっと別な形で書かれたであろうし、「判決」も異なった方向を向かうことになったのではあるまいか。

 

(1)『家永・教科書裁判 第1部 準備書面』(総合図書、1967)所収。なお、「教育大学新聞、1965725日号」掲載のものがホームページから閲覧できる。

(2)拙論「日本国憲法への『普通教育』概念の導入とその意義」、『岩手大学教育学部

 研究年報』第56巻(1966)第1号、参照。

(3)「普通教育」とは何か、という問題と、日本国憲法に位置づけられた「普通教育」とは何か、という問題は、おのずから別個の問題である。

(4)武田晃二・増田孝雄『普通教育とは何か―憲法にもとづく教育を考える』(地歴社、2008年)参照。

(5)47年教育基本法第2条「教育の方針」に「学問の自由を尊重し」という文言が用いられていることについて、『教育基本法の解説』(辻田力・田中二郎監修、教育法令研究会刊、国立書院、1947年)は次のように述べている。憲法23条の「学問の自由は、これを尊重する」は消極的な規定であり、教育基本法第2条でいう「学問の自由を尊重し」は「更に進んで、積極的にこれを尊重して行こうとするのである。(中略)この意味では学問の自由の尊重は初等教育においても生かされなければならない」(69ページ)

(6)前掲(1)を参照のこと。

                        (201134日記)