憲法26条2項(普通教育)の見地から

学力テスト旭川事件最高裁判決を検討する

            

武田晃二

 

                 〈もくじ〉

 はじめに

 1 最高裁判決の法理

 2 「子どもの教育と教育権能の帰属の問題」について 

 3 「憲法と子どもに対する教育権能」について

 4 「教育基本法10条の解釈」について 

 5 「学力調査と教育基本法10条」について 

 6 「本件学力調査と教育の地方自治」について

 7 むすび

 注

 

はじめに

 19611026日、文部省は、中学校における全国一斉学力テストを、中学2・3年生を対象にそれまでの抽出調査から悉皆調査に切り替えて実施した。文部省の「行政調査」として行われたものであることに加え、悉皆調査への切換え等が、教育への不当な介入であり、違法であるとする抗議行動やその実施を阻止しようとする行動が各地で取り組まれた。学力テスト実施当日、旭川で取組まれた阻止行動が建造物侵入、公務執行妨害にあたるとして起訴された。第1審判決及び札幌高裁判決(以下「原判決」とする)は、1966年および1968年、学力テストの実施は、教育基本法第10条の「不当な支配」にあたり、学力調査は違法であり、したがって公務執行妨害にあたらずとして、共同暴行罪を適用した。国は、この「原判決」を不服として上告した。1976521日、最高裁は、「不当な支配」にあたるものとすることは相当でないと判断し、「原判決」を退け、公務執行暴行罪を妥当とする判決を出した。これが「学力テスト旭川事件最高裁大法廷判決(以下「最高裁判決」とする)(1)である。

 この「最高裁判決」は、「学力調査」を実施しようとする校長の行為が「公務」にあたるかどうかについて、検察官および弁護人の見解のいずれについても「極端かつ一方的」とし、最高裁としての独自の判断を示した点で注目されている。その独自の判断とは、憲法第26条、とりわけ、第2項に踏み込み、「普通教育」もしくは「子どもの教育」に着目し、そこから判決を導いた点である。判決はその独自な判断を論拠に「学力調査」を合憲した。ここに「最高裁判決」の最大の特質があると同時に根本的な欠陥があった。それは、憲法262項に踏み込みながら、その意義を適切な憲法解釈のもとに解明することなく、行政解釈や通念的な教育学的言説に依拠して解釈し、そこから結論を引き出したことである。憲法262項は、憲法全体の基本理念や制定過程の論議を踏まえるならば、後述するようにきわめて歴史的画期をなす重要な意義を有するものである。憲法第26条第2項の意義を正確にとらえたならば、最高裁の判決は別な結論に至ったのではないか。

 小論は、このような問題意識に立って、あらためて「最高裁判決」を検討しようとするものである。このことは、「最高裁判決」から35年経過した今日の時点で、たんに過去を振り返って問題点を指摘するということではなく、まさに現在進行中の全国学力テストの違憲性を明確にするための不可避な作業であると考えるからである。

 「最高裁判決」の「検察官の上告趣意第2点について」は次のように構成されている。

  1 論旨

  2 本件学力調査の適法性に関する問題点

  3 本件学力調査と地教行法542項(手続上の適法性)

  4 本件学力調査と教育法制(実質上の適法性)

  5 結び

1 「最高裁判決」の法理

(1)「最高裁判決」は、「学力調査」と地方教育行政法との関係について、次のように判断した。イ)学校で行われている教育活動としての試験と文部省が行う「学力調査」の近似性を認めつつも、性格が異なるから「区別」できる、ロ)「学力調査」が「行政調査」であることは明らかであるが、「固有の教育活動としての性格をもつ」から、地方教育行政法54条2項に言う「調査」とは言えない、ハ)地方教育行政法54条2項に基づいた文部大臣の調査要求に対し、地教委がこれに従う法的義務はないが、要求に基づいて地教委が実施した「調査行為」は「手続き上違法」とは言えない、ニ)地教委も地方教育行政法2317号に規定する「調査」を行うことができる。

 「最高裁判決」は、このような判断に基づいて、旭川市教委による調査実施行為が「手続き上の違法性はない」としながら、「地方教育行政法54条2項による文部大臣の要求に応じてされたという事実がその実質上の適法性の問題との関連においてどのように評価、判断されるべきかは、おのずから別個の観点から論定されるべき問題である」として、「4 本件学力調査と教育法制(実質上の適法性)」において、以下のような踏み込んだ検討を行った。

(2)「最高裁判決」の「4 本件学力調査と教育法制(実質上の適法性)」は、「子どもの教育と教育権能の帰属の問題」「憲法と子どもに対する教育権能」「教育基本法第10条の解釈」「本件学力調査と教育基本法第10条」「本件学力調査と教育の地方自治」の5項目にわたって検討している。

 以下、小論では、それぞれの項目について、そこでの検討結果(以下「検討結果」とする)を、憲法第26条第2項の意義に即して、考察する。

2 「子どもの教育と教育権能の帰属の問題」について

(1)「検討結果」は「子どもの教育」について踏み込んだ判断を行っている。だが、まず指摘しておかなければならないことは、「子どもの教育」という言葉自体、憲法用語でも法律用語でもないということである。それに対応する憲法上あるいは法律上の用語は「普通教育」であるから、法制上の問題として議論する場合は「普通教育」問題として論ずるべきである。「子どもの教育」では憲法全体との位置づけや理念が明確にならない。

 「検討結果」は、「子どもの教育」あるいは「普通教育」が「子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営み」であり、「共同社会の存続と発展のためにも欠くことができないものである」と述べている。これは、その限りにおいて、教育学的原理としても、「普通教育」の理念としても、適切な指摘である。

(2)つづいて「検討結果」は、「子どもの教育」、すなわち憲法上の語句でいう「普通教育」は「その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然的関係に基づいて子に対して行う養育、監護の作用の一環としてあらわれる」として「私事としての親の教育」に言及している。「始源的」というのは歴史的、「基本的」というのは社会的、という意味なのだろうか。どちらにしても問題があるが、ここでは問わない。

 「検討結果」では「養育、監護の作用の一環」もまた「子どもの教育」として捉えられている。しかし、養育・監護はあくまでも養育・監護であって、教育ではない。ここには親権の拡大解釈が見られる。また、養育・監護もすべて親権の対象もしくは私事であるわけではない。「子どもの教育」を「普通教育」と捉えた場合、普通教育は親や地域社会による「養育・監護」と一体となって、あるいはそれらにささえられて存在するものである。この区別は教育理念上の原則とも言うべきものである。

 「検討結果」は、「私的施設」における「教育」あるいは「養育・監護」を「親」のそれの「延長」と見ているが、はたしてそうだろうか。時に「私的施設」は「親の教育」の断絶あるいは拒否として設立されている。

 「検討結果」は、「子どもの教育」が、近代社会の進展の中で、「社会における重要な共通の関心事」となり、「社会の公共的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至」りとして、教育史的考察に言及している。ここでの考察は、いわば教育学上の一般的通念として言われていることであって、「最高裁判決」が、これほどまでに教育学的知見を援用していること自体は、理解できるとしても、そのような教育史的考察でいいのだろうか。

 憲法上の「普通教育」概念と近代公教育制度との関係は緊密な関係を有するとはいえ、むしろ矛盾・敵対的な関係を有する経過を辿ってきた。「普通教育」の理念と近代公教育制度に見られる教育理念とは明確に区別されなければならないことも、教育学的知見である。最高裁は憲法条項の解釈にこそ第一義的責任があるのだから、安易に「近代公教育制度」の歴史に依拠するのではなく、憲法上「普通教育」とは何であるのかを、制定過程に即しつつ、明確にして立論すべきである。憲法制定議会において、憲法26条第2項の条文、とくに普通教育概念に関して小委員会を組織してまで議論されたことについては法曹関係者であれば知り得る立場にあったはずである。(2)

 「検討結果」は、その上で、「現代国家においては、子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれている」と述べている。このような認識は憲法・教育基本法についての正確な認識とは言えない。47年に制定された教育基本法第6条を持ち出すまでもなく、国公立に限らず、私立であっても「法律に定める法人」が設置する学校は「公の性質をもつ」と定めているのであり、しかも「現代国家」にあっても、親の子に対する「養育・監護」等は決してなくならないのであって、それらに代わって「学校」があるわけではない。

 しかし、「現代国家」を言うのであれば、わが国の場合は、日本国憲法、とりわけ第26条第2項の意義に、国際的には、国連人権宣言、とりわけ第26条等に、言及しないわけにはいかないはずである。「最高裁判決」がこのようなことにいっさい言及していない。

 「検討結果」はつづけて、「公教育制度の発展に伴って、教育全般に対する国家の関心が高まり、教育に対する国家の支配ないし介入が増大するに至った」ことをあたかも必然的な経過であるかのように述べている。しかし、教育に対する国家の支配・介入はそれに反対する勢力の排除・弾圧の上に築き上げられてきたというのが事実である。これを普通教育に即して言えば、主として自由民権勢力によって支持された普通教育観、もしくは普通教育を法令用語とした教育令等は、帝国憲法・教育勅語体制の確立とともに転換され、天皇制絶対権力のもとに「国民教育」制度が構築された。戦後、「憲法ノ指導精神」と結びついて「普通教育」がより高い自覚の上に「復活」し、教育基本法は普通教育に対する国家の支配・介入を否定したが、その後の教育政策の下でその原則が事実上覆されている。このような経過を、事実と憲法理念に即して理解する責務を有する最高裁が、「教育に対する国家の支配ないし介入が増大するに至った」と、政治権力の視点に立って平板に描くことは許されないのではないか。

 「検討結果」は、教育に対する国家の支配・介入の増大に対する「反省も深化し」と述べ、「子どもの教育」は誰が支配し、決定すべきという問題との関連において、「子どもの教育」に対する国家の支配ないし介入の当否及びその限界が極めて重要な問題として浮かび上がるようになった、と述べている。だが、歴史的には、この「反省」は初めてではない。戦前の教育に対する歴史的反省のうえに戦後教育があるのであって、そのことを抜きに「浮かび上がるようになった」というのは、憲法の番人としてはあまりにも無邪気すぎるのではないか。

(2)「検討結果」は以上のような認識を前提として、「子どもの教育」の内容を決定する権能が誰に帰属するかと問題を提起し、「二つの極端に対立する見解」を検討している。

 「子どもの教育」の内容決定権能を問題にする場合、「子どもの教育」とは「普通教育」のことであり、その「内容」とは、「普通教育」の制度・内容全体を意味するものであることを確認しておかなければならない。

 憲法第26条第2項は、普通教育を受けさせるのは主権者たる国民の義務であると定めている。その場合の「普通教育」の制度・内容を基本において法制度化する権限を有するのは第一義的には国民である。国家はそのことを国民に保障する責務を有しているのである。

 「検討結果」は「二つの極端に対立する見解」の一方(これを「A見解」とする)を次のように要約している。

 A1 「子どもの教育」は親を含む国民共通の関心事である。

 A2 公教育制度は国民の期待と要求に応じて形成、実施されるものである。

 A3 公教育制度において支配し、実現されるべきものは、国民全体の教育意思であ

     る。

 A4 国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国民

     全体の意思の決定の唯一のルートである国会の法律制定を通じて具体化されるべ

   きものである。

 A5 したがって、法律は、公教育における教育の内容及び方法についても包括的に

     定めることができる。

 A6 教育行政機関も、法律の授権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権

     限を有する。

  「検討結果」はもう一方の見解(「B見解」とする)を次のように要約している。

 B1 「子どもの教育」は憲法26条の保障する子どもの教育を受ける権利に対する

   責務として行われるべきものである。

 B2 このような責務をになう者は、親を中心とする国民全体である。

 B3 公教育としての「子どもの教育」は、いわば親の教育義務の共同化ともいうべ

   き性格をもつ。

 B 4  したがって、教育基本法第10条1項も、教育は、国民全体の信託の下に、こ

   れに対して、直接に責任を負って行われなければならない。

 B5 権力主体としての国の「子どもの教育」に対するかかわり合いは、国民の教育

   義務の遂行を側面から助成するための諸条件の整備に限られる。

 B6 「子どもの教育」の内容及び方法については、国は原則として介入権能をもた

   ない。

 B7 教育はその実施にあたる教師が、その教育専門家としての立場から、国民全体

   に対しての立場から、国民全体に対して教育的、文化的責任を負うような形で、

   その内容及び方法を決定、遂行すべきである。

 B8 一方、憲法第23条における学問の自由の保障、学問研究の自由ばかりでなく、

   教授の自由をも含む。

 B9 教授の自由は、教育の本質上、高等教育のみならず、普通教育におけるそれに

  も及ぶと解すべきである。

 以上は、あくまでも最高裁が検察官や弁護人の主張の基底をなしているとして要約した「二つの見解」である。一般的に「A見解」は「国家の教育権論」、「B見解」は「国民の教育権論」と称されている。

(3)「A見解」について総括的に言うならば、「子どもの教育」すなわち「普通教育」は「国民共通の関心事」というよりも、主権者たる国民の総意に基づいて決定されるべき事項であるという認識に立つべきである。そして、普通教育自体がすぐれて文化的・道徳的性格を有することや共同社会の未来にかかわる営みであることから、これに関する国民の総意を反映させるシステムは現実の議会制民主主義的原則の機械的な適用になじむものではなく、例えば3権(立法、行政、司法)に準ずる4権的なシステムの構築が求められるべきである。しかし、「A見解」にはそのような認識はまったく見られない。

 「B見解」はどうか。「子どもの教育」あるいは「普通教育」に対する義務もしくは責務が、「子どもの教育」を受けさせる直接的な責務主体から出発し、それが「親を中心とする国民全体」とされていることである。「親を中心とする国民全体」ということ自体、分かりづらい表現である。憲法第26条第2項が普通教育を受けさせるのは国民の義務であると述べていることは、普通教育の理念を実現させる義務を国民全体に課していることを意味するものであって、子どもたちをそれぞれの立場で教育する親の責務を述べたものではない。

 「B見解」は「親の教育義務の共同化」という特異な概念を導くが、これが、憲法上からは直ちには導かれない議論であることは明確である。教師は普通教育の理念に即した専門家としての責務を課されているのであって、親からの信託に応えて責務を果たすわけではない。もちろん、親も国民の一人として、保護者として、普通教育の現実・現状にたいして当事者であることは言うまでもない。

 さらに、「B見解」は、教育における教授の自由を憲法第23条から説明しているが、第23条と第26条、さらに第26条の1項と2項との区別と関連付けは明確にされるべきである。普通教育における教授の「自由」の性格は、当然のことながら、憲法26条第2項、すなわち普通教育の理念から導きだされるものである。

 ここでは、両見解それぞれについてさらに検討するというよりも、両見解において共通に見られる問題点を析出しておきたい。

 もっとも根本的な問題点は、憲法第26条第2項全体およびそこに位置づけられている「普通教育」概念についての積極的な解明・解釈がなされていないと言うことである。

 「子どもの教育」という語彙は形式的な対象概念に過ぎないが、「普通教育」という語句はきわめて明確な理念を有する概念である。すなわち、「人間を人間として育成する社会的営み」を意味する概念であり(3)、「憲法ノ指導精神」と結びついた概念であった。(4)

 したがって、親であれ、国民全体であれ、国であれ、「子どもの教育」であれ、「公教育」であれ、いずれもがこの普通教育の理念にたいして責任があるのであり、責務や義務があるのである。この理念に抵触するものは、いかに議会制民主主義といえども、原理的には認められないのである。最高裁がこのことについていかなる見識を有しているかが問われることになる。

3 「憲法と子どもに対する教育権能」について

 つぎに「憲法と子どもに対する教育権能」について検討しよう。

 「検討結果」は上記二つの「極端かつ一方的見解」を「全面的に採用することができない」とし、その上で、最高裁としての独自の見解を提示している。すなわち、

C 憲法中教育そのものについて直接の定めをしている規定は憲法26条である

C 憲法26条は、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に教育に関する諸施設を設

  けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにしている。

C3 憲法26条は、子どもに対する基礎的教育である普通教育の絶対的必要性にかん

 がみ、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国

 において負担すべきことを宣言したものである。

C4 憲法第26条の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民とし

 て、学習をする固有の権利を有すること、特に、子どもは、その学習要求を充足させ

 るための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念

 が存在していると考えられる。

C5 しかしながら、このような観念からは、このような教育の内容及び方法を、誰

 がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の

 結論は、当然には導き出されない。

C6 大学における教授の自由と普通教育における教授は区別されなければならない。

 普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会

 均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思

 いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とう

 てい許されない。

C7 子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、教育の内容及び方法などに関

 して、その決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張し衝突することは免れる

 ことができない。

C8 憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的には示し

 ていない。

C9 したがって、関係者らのそれぞれの主張のよって立つ憲法上の根拠に照らして

 各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的態度と言うべきである。(傍点筆者)

 「検討結果」はこうして「二つの極端かつ一方的」な見解に対する最高裁としての結論(これを「C見解」とする)を導きだしているが、この結論自体重大な問題を含んでいる。

 論点を憲法26条に焦点化していること、「普通教育の絶対的必要性」に言及していることは、両見解にも見られない最高裁独自の見解として確認しておきたい。もっとも根本的な問題は、憲法26条第2項について、子どもたちに普通教育を受けさせる義務を親に対する義務としていることである。条文のどこを読めばそのような解釈が出てくるのだろうか。憲法制定過程において金森国務大臣が質問に答えて「総テ国民ガ義務ノ主体トナル」と答弁している通りである。関係者間の矛盾対立の議論も「親に対する義務」という認識に由来していると思われるが、それを解決すべき一定の基準はまさに「人間を人間として育成する」という普通教育の理念に求められるべきである。この理念を基本に、しかも「憲法ノ指導精神」に基づいて、「矛盾対立」を解決することを憲法はまさに要請しているのである。基準は何もない、という認識は最高裁に限らず一般的通念ともなっているが、それ自体、重大な誤解であり、誤った憲法解釈である。

 さて、「検討結果」は、上記のような「合理的態度」に立って、「親の教育の自由」について論を進め、それが肯定されるのは家庭教育、学校選択、私学教育など「一定の範囲」に限られるとした上で、国は「必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有すると解される、と苦しい説明を行っている。と同時に、「子どもの教育」は「本来人間の内面的価値に関する文化的営み」であるから、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」としている。ここでの「教育」とは、第26条第1項での「教育」との区別は明確ではなく、教育は一般的に「本来人間の内面的価値に関する文化的営み」であるという通念的理解に留まっている。「人間の内面的価値に関する文化的営み」とする教育観からは「人間を人間として育成する」社会的営みとしての普通教育観は導かれない。

4 「教育基本法10条の解釈」について

 「検討結果」は次に「教育基本法10条の解釈」について論じている。「検討結果」は、まず、教育基本法の性格を次のように述べる。

憲法において教育のあり方の基本を定めることに代えて、わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されてものである。

教育の根本的改革を目途として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律である。

教育基本法前文は戦前の教育に対する反省から導かれたものであって、各規定を解釈するにあたっても、強く念頭におかれるべきものである。

 ここで留意しなければならないことは、憲法において「教育のあり方の基本」は提示されていないという認識である。憲法制定過程において、どのような議論の結果として、憲法第26条が2項構成になったのか、さらに第2項に「普通教育」という語句が用いられることになったのか、その語句にどのような意味が込められていたのか、について憲法制定過程に即して検討するならば、そのような認識は生まれないだろう。

 また、憲法26条の2項構成は教育基本法全体にも反映していることも留意されるべきである。基本的には、前文をはじめ各条項は、第1項でいう教育と第2項の普通教育との両面から理解することが求められている。このことは第10条についても言えることである。

 さて、「検討結果」は、第10条について、つぎのように述べている。

とくに第10条は極めて重要な規定である。

学力テスト事件で、この第10条の解釈をめぐって、検察官の主張と弁護人の主張との間に「顕著な対立」があった。その要点は2点である。

 (1)教育行政機関が法令に基づいて行政を行う場合は「不当な支配」に含まれ

   ないと解すべきかどうか

 (2)諸条件の整備確立とは、主として教育施設の設置管理、教員配置等のいわ

   ゆる教育の外的事項に関するものを指し、教育課程、教育内容、教育方法等

   のいわゆる内的事項については、教育行政機関の権限は原則としてごく大綱

   的な基準の設定に限られ、その余は指導、助言的作用にとどめられるべきも

   のであるか

 「検討結果」は、まず(1)について、第10条第1項が排斥しているのは、教育が国民の信託に応えて自主的におこなわれることを歪めるような「不当な支配」であって、そのような支配と認められる限りにおいて、その主体のいかんは問うところではない。したがって、教育行政機関が行う行政でも「不当な支配」にあたる場合がありえる、と述べる。教育行政機関でも「不当な支配」を行うことがあり得ることを認めたことは評価できる。しかし、その前提自体が検討されるべきである。

 「検討結果」は、ここでの教育について「国民の信託に応えて自主的に行われる」とする認識についてはどうか。普通教育は主権者たる国民の総意に基づいて営まれるものであるから、教育行政機関はそのような普通教育を実施する責任を国民全体に負っているのである。したがって、普通教育の制度・内容の全体が国民の総意を反映したものとなっているかどうか、その実施の過程が国民全体に対し責任を負えるようなものになっているかどうか、これらのことについて教育行政機関が、国民の総意に反するようなことがあれば、それは「不当な支配」になるのである。「国民の信託に応えて自主的におこなわれる」と言えるほどの自主性は想定されていない。

 しかしながら、「学力調査」を論ずる以前に、例えば、1956年の公選制教育委員会制度から任命制教育委員会制度への変更や1958年の学習指導要領改訂時における「道徳の時間」の導入などに見られるように、普通教育の制度・内容の基本的枠組みにおいて、教育行政機関が「国民の総意」に反して権限を発揮してきたこと自体、明確に「不当な支配」だったのであり、そのような枠組みの上に実施される「学力調査」自体が「不当な支配」にあたるとする見解は十分に妥当なものと言える。

 さて、「検討結果」は、2つの場合を想定し、「憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところ」を「そのまま執行する場合」は「不当な支配」となりえず、「他の教育関係法律」を教育行政機関が運用する場合には、教育基本法が言う「不当な支配」とならないように「考慮しなければならない拘束」を受ける、と説明している。しかし、この2つの場合というのは別々のことではなく、密接に関連している。憲法には教育理念が示されていないという最高裁の立場からは両者は区別できるとしても、教育基本法の趣旨・目的はとりわけ憲法262項が示す教育理念に由来するものである。「学力調査」が教育基本法第10条第1項に照らして違法か否かを論ずる以前に、憲法にさだめる「普通教育」の理念に照らして違憲か否かこそが問われるべきだったのである。

 では(2)についてはどうか。「検討結果」は、「原判決」(1968年札幌高裁判決)が、「教育内容及び教育方法等への(教育行政機関の)関与の程度は、教育機関の種類等に応じた大綱的基準の定立のほかは、法的拘束を伴わない指導、助言、援助を与えることにとどまる」と判示したことに対し、そこから「教育内容に対する行政の権力的介入が一切排除されているものであるとの結論を導きだすことは早計である」(傍点筆者)と批判している。

 「検討結果」はその上で、「原判決」が言う「大綱的基準」について言及し、それが「教育課程の構成要素、教科名、授業時数等のほか、教科内容、教育方法については、性質上全国的画一性を要する度合いが強く、指導助言行政その他国家立法以外の手段ではまかないきれない、ごく大綱的な事項をさしているもののように考えられる」と解している。

 このような解釈を基に「検討結果」は、教育に関する地方自治の原則をも考慮するならば、「原判決」の解釈は「狭きに失し、これを採用することはできない」としている。

 「検討結果」は、この問題を、中学校の学習指導要領を挙げて、「おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしている」とし、「教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは」(傍点筆者)、是認できると結論づけている。

 とりわけ普通教育の内容・方法を論じているときに、「法的見地」をことさら優先させる最高裁の判断にも相当無理があると思われるが、その場合の「法的見地」も事実上行政側の解釈に沿ったもので、憲法262項の理念に立った「法的見地」には関心が払われていない。

 「検討結果」は、全体として独自の教育論に踏み込みながら、最終的には現実的な「法的見地」を優先させて、かろうじて学習指導要領の正当性を主張している。

 なお、この箇所では「義務教育に属する普通教育」という記述があるが、ここでの「義務教育」が中学校・小学校を意味するのであれば、不適切である。憲法第26条第2項の成立過程から言えることは、「義務教育」とは、第一義的には、普通教育を受けさせることを国民の義務として課している普通教育のことであって、戦後の高等学校もまた普通教育機関である。

5 「学力調査と教育基本法10条」について

 「検討結果」は、最後に、「学力調査と教育基本法10条」について述べている。すなわち、「学力調査」が「不当な支配」という規定に違反するかどうかについて検討している。

 「検討結果」は、「学力調査の目的」として掲げられている4項目のうち3項目については、文部省の権限と責務に照らし、「これらの権限と合理的関連性を有するものと認めることができるし、地教委に調査結果を利用させようとすることも不当ということもできない、と断じている。

 「検討結果」は、その上で、残りの1項目、すなわち「中学校においては、自校の学習の到達度を全国的な水準との比較においてみることにより、その長短を知り、生徒の学習の指導とその向上に役立たせる資料とすること」について、それは調査全体の趣旨から見て「副次的」であり、利用すべきことを強制するものではないとして、目的の違法・不当にはあたらないとしている。

 「検討結果」は、その上で、「学力調査」の実施方法について、それが「学力調査」の目的に照らして、「調査目的のために必要と認めることができるかどうか、及び教育に対する不当な支配の要素をもつものでないかどうかは、慎重な検討を要する問題である」とも述べ、以下そのことを検討している。

 「検討結果」は、「必要性」について、資料としての必要かつ有用であり、「同一試験問題によって同一調査日に同一時間割で一せいに試験を行うことが必要であると考えたとしても、決して不合理とは言えない」と断じている。

 「検討結果」は、その上で、このような方法による調査が「不当な支配」となるかどうかについて検討している。このことについて、「原判決」が、授業計画の変更を強要すること、試験である点で「教育的価値判断にかかわる教育活動としての実質を有すること」、日常の教育活動を学習指導要領に沿って行わせる傾向を有していること、を挙げていること、について検討している。

 「検討結果」は、「学力調査」は生徒の一般的な学力の程度を把握するためのものであり、個々の生徒の成績評価を目的とするものではないこと、調査の結果が「指導要録」に記録されたとしても、指導・助言的性格のものに過ぎないと言うべきであって、これをもって文部省自身が教育活動を行ったと見ることはできないこと、授業計画が変更されたとしても年間授業計画全体の一部を強制的に変更させるものとは言えないこと、「学力調査」は、学習指導要領によって生徒の一般的な学力の実態調査のために行われたものであって、学校および教師による学習指導要領の遵守の強制あるいは促進のために行われたものではない、などと述べている。

 「検討結果」は、同時に、クラス、学校、市町村、都道府県間に成績競争の風潮を生み、教育上必ずしも好ましくない状況をもたらし、また、教師の真に自由で創造的な教育活動を畏縮させるおそれが絶無であるとはいえず、教育政策上はたして適当な措置であるかどうかについては問題がありうべく」と認めている。しかし、これらについても「一応の配慮が加えられている」とか、指摘されている危険性も「教育の自由が阻害されることとなる可能性がそれほど強いとは考えられない」として打ち消され、結局は「不当な支配」、あるいは「違法」とは言えない、と結論づけている。

 以上見てきたように、「検討結果」は「学力調査」の目的、方法、実施による諸結果等を「検討」し、「不当な支配」、「違法」とは言えないと結論づけている。しかし、より根本的に「学力調査」を実施しようとする文部大臣の行為自体については、通念的な教育学的言説への批判をテコとした最高裁独自の解釈を優先させ、憲

26条2項についての立ち入った検討を回避しているのである。

6 「本件学力調査と教育の地方自治」について

 「検討結果」は、最後に、「本件学力調査と教育の地方自治」を検討している。

「検討結果」は、教育の地方自治の原則が現行教育法制の基本原理の一つであり、その点から文部大臣の介入、監督の権限に一定の制約が存することを認め、その点で「原判決」の主張を首肯した上で、学力調査が教育の地方自治の原則に反するものとして実質的違法性を生じさせるものであるかどうかを、検討している。

 「検討結果」は、まず、文部大臣の地方教育委員会に対する学力調査の実施要求が「法律の根拠に基づかないものであるとしても」、それがただちに教育の地方自治の原則に違反することになるかどうかは「別個の問題」であると論ずる。したがって、一方では、仮に文部大臣が地右方教育委員会に対し義務の履行を求めたとしても、地方教育委員会は「拘束されるものではなく」、「独自の立場で判断し、決定する自由を有する」とし、他方、義務がない場合でも、「地方教育委員会が当該地方公共団体の内部において批判を受けることは格別、窮極的にはみずからの判断と意見に基づき、その有する権限の行使としてした実施行為がそのために実質上違法となるべき理はない」と述べ、そのことから学力調査の実施が「教育における地方自治の原則に反する違法があるとみなすことはできない」とした。

 最高裁判決は「結び」において、以上のような判断に立って、したがって「原判決」及び第一審判決を破棄しなければ著しく正義に反する、と断じている。

 ここで問題となるのは、「教育の地方自治原則」という最高裁独自の概念である。「検討結果」は「教育の地方自治の原則が現行教育法制の基本原理の一つ」と述べている。憲法第92条を受けた地方自治法は「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本」とし、「国の事務」とは区別して「住民に身近な行政」を行うと定めている。この「福祉」のなかに広い意味で「教育」が含まれることは言うまでもない。しかし、「教育の地方自治原則」という場合の「教育」と、「住民の福祉」にかかわる「教育」とは、おのずから次元を異にするものである。地方自治体にはあくまでも「住民福祉」の見地から「教育」にかかわることが要請されているのである。

 憲法26条2項の普通教育にかかわる重要な教育政策の一つである「学力調査」の実施要請について、「検討結果」は地方自治体が「独自の立場で判断し、決定する自由を有する」としているが、そのような教育政策自体に対して地方自治体が、国といわば対等な立場で、「独自な立場」に立つことは憲法上あり得るのだろうか。もちろん、「学力調査」の基本的な趣旨や概要等とは別の次元で、具体的な実施方法等について「住民福祉」の見地から「独自の立場で判断し、決定する自由を有する」ことは言うまでもない。

 地方自治体の「独自の判断」「自由」の領域に最高裁が踏み込んで、自治体や学校長が自らの判断で実施したのだから、地方自治の原則に反しないというのは、委ねるべきでない事項について委ねさせたという政策の「違法性」こそ指摘されるべきだった。そして、自治体や学校長も本来判断すべきものではない事項について判断しているのである。このように考えたとき、本来、地方自治体の裁量に委ねられるべき具体的な実施細目等をも含む「学力調査」の内容が、すべて「違法ではない」というのはあきらかに地方自治の原則に反する。

 筆者は、国が決めたことは自治体は従えと言っているわけではない。国の政策は「地方自治の本旨」と両立し得るように慎重に策定されるべきであることを強調しているのである。また、したがって、「地方自治体の本旨」と両立しない政策については、そのことを論拠として、受け入れを拒否するなど「独自の判断」ができることを言いたいのである。その見地から、本件「学力調査」自体に問題があったことを最高裁としても明確にすべきだったのである。

7 むすび

 「最高裁判決」は、文部省が「学力調査」の実施を地方教育委員会に求めたこと

は適法であり、教育委員会がそれを実施した行為も適法であり、したがって適法な公務を妨害する行為は公務執行妨害罪に該当するというものであった。

 しかしながら、この事件のもっとも基本的な法的争点は文部省が「学力調査」の実施を地方教育委員会に要請したことの法的根拠についてである。最高裁判決は検察官および弁護人の主張をともに「極端かつ一方的」と批判した上で、あえて自らの見解を提示し、それに基づいて判決を導いているが、この見解自体が根本から問われなければならない。鋭く憲法上の判断が求められているにもかかわらず、最高裁は、憲法第26条第2項そのもの、および「普通教育」についての立ち入った検討をせずに、一般に流布している教育学論言説を論拠に自らの結論を導きだすという「独自の」な判断を行ったのである。

   憲法用語としての「普通教育」概念は、本論でも述べたように、憲法制定議会審

  議過程や当時の文部省側の文献を総合的に判断するならば、「人間を人間として育

  成する社会的営み」として定義できるものである。本件訴訟当時、このような認識

  に至ることは可能であったはずである。

   「憲法ノ指導精神」をどのように理解するかについては一義的でないとしても、

  私はもっとも根本的には憲法前文が「国民主権原理」を「人類普遍の原理」として

  位置づけたことにそれを求めるべきであると考える。その意義はきわめて重い。こ

  の「人類普遍の原理」とは単なる抽象的な理念を表現したものではなく、現実的に

  は国連の人権宣言やその後採択される少なくない条約等によって表現されている

  ものと言うべきである。

   検察側が主張したいわば「国家の教育権」は議会制民主主義等の政治原理を論拠

  にしているが、憲法は、それらは人類的普遍性に照らして妥当なものであるかにつ

  いても検討することを求めている。時の権力の正当性や安易な多数決原理を盾に取

  った形式的機械的な判断を回避する意味がそこには込められているのである。

   このように考えたとき、「人間を人間として育成する社会的営み」である普通教

  育を主権者国民が自らの義務としてすべての子どもに受けさせるという憲法第26

  条第2項の理念は歴史的に意義あるものと言わなければならない。そして、このよ

  うな憲法規定に立つならば、当時既に普通教育概念を「義務教育」として一面的に

  歪めそれに基づいて教育政策を断行していた文部行政のあり方について、法曹関係

  者が憲法理念上の疑義を感じていても決しておかしくはなかったはずである。しか

  しながら、法曹関係者だけではなく教育関係者等もまた一般的に無関心であったと言わざるを得ない。4)

 それから40年あまり経過した今日、文部科学省は、改正教育基本法に力を得たのか、ふたたび、しかも「最高裁判決」が少なからぬ重大な懸念事項を示したにもかかわらずが、それらを踏みにじり、それらに挑戦するかのような内容の「全国学力・学習状況調査」を2007年から実施している。しかし、現在は多くの点で当時とは異なっている。最高裁が40年前、「普通教育」についての知見がなかったことが事実であったとしても、普通教育についての憲法制定議会における議事録が1996年に公開されている。5) もはや、法曹関係者は、憲法判断において普通教育に対応する事項を「子どもの教育」などという理念なき言葉で受けとめることはできないのである。

 

(1)判例時報814

(2)拙論「日本国憲法への『普通教育』概念の導入とその意義」、『岩手大学教育学部

 研究年報』第56巻(1966)第1号、参照。

(3)憲法26条第2項における「普通教育」の定義を「人間の人間として育成する社

 会的営み」とする論拠は、憲法制定過程において、当該条項における「教育」をめぐ

 って、次に示す政府部内からの発言や見解等であり、筆者の定義はそれらを凝縮して

 筆者なりに表現したものである。

文部省・新教育指針(1946年5月15日)は「新日本教育の重點」の第1章を

「個性尊重の教育」とし、その冒頭に「教育は人間を人間らしく育てあげることを目的とする。人間らしく育て上げるといふのは、人間性をおさへずゆがめずに発展させて、りっぱに仕上げることである。(中略)その人間性のあらはれ方は、各人においてそれぞれちがつてゐる。そこに個性が成り立つ。」(近代日本教育制度史料編纂会編『近代日本教育制度史料』第19巻、講談社、1957年、70ページ)と述べた(傍線筆者)。

  ②『教育学辞典』(岩波書店、1939年刊)は項目「普通教育」の冒頭を次のように

  述べている。この箇所は戦後、普通教育についての文部省の定義として採用された。

   「一義的に説明することは困難であるが、最も重要なる基底に於て、この語は、

   一般陶冶の観念に関連する。人たる誰にも共通に且つ先天的に具有するものであ

   り、又、これ有るが故に人が人たることを得る筈の本質たる所の、精神的身体的

   な諸機能を充分に且つ調和的に発達せしめる目的の教育を、一 般陶冶と呼ぶの

   である。かかる意味での一般陶冶を目的とする、如何なる身分、如何なる職業に

   就くものにも共通に必要であるから、名づけて普通教育と唱えるのである。」(傍

   線筆者)

  ③『教育基本法の解説』、辻田力・田中二郎監修、教育法令研究会刊、国立書院、

  1947年、における普通教育の定義は次の通り。

   「普通教育とは、人たる者にはだれにも共通に且つ先天的に備えており、又これ

   ある故に人が人たることを得る精神的、肉体的諸機能を十分に、且つ調和的に発

   達せしめる目的の教育をいうのである。(中略)このように普通教育は人たるも

   のすべてに共通に必要な教育であり、人たるものだれもが一様に享受しうるはず

   の教育である」(日本現代教育基本文献叢書・教育基本法制コンメンタール1、

   1989年、所収、82ページ、傍線筆者

   なお、この定義は「教育基本法制定当時の行政解釈」とされている(文部省大臣

  官房総務課 『教育基本法関係資料集』第2集、1975年)

  ④上記『教育基本法の解説』では、教育基本法前文に「人間の育成」を掲げたこと

  について「ここに人間と特にいったのは、過去においては國民ということが人間よ

  り先に言われたが、よき國民たるには、まずよき人間でなければならず、よき人間

  はそのままよき國民となるとの信念に基くものである」(傍点原著)と述べている。

  (同、56ページ)

 また、国連総会が1989年に採択した『子どもの権利条約』では、子どもの権利としての教育の目的を「子どもの人格、才能ならびに精神的および身体的能力を最大限可能なまでに発達させること」(第29条第1項(a))としているが、これも、本質的には「普通教育」の理念と合致するものである。

(4)衆議院帝国憲法改正案委員会において、教育の理念を憲法に明記すべきであるとの質問に対して、金森国務大臣は「教育ニ対スル大方針ハ此ノ憲法全体ノ精神カラ湧キ出テ来ルモノト思フ」と答弁している。

 また、佐藤達夫政府委員は、小委員会において、憲法第26条第2項の「教育」にあたる用語に何を充てるかが大詰めとなった段階で、法令上「憲法ノ指導精神」を出すためには単なる「教育」ではなく「普通教育」ということにした、と答弁した。(以上(2)に掲げた拙論参照。)

(5)『第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』1995年、衆栄会参照)                    2011年2月16日)