前文(教育の目的)

 

 「四七年基本法」にはご存知のように前文が付されています。『解説』はこの「前文」について、「四七年教育法」の「基調をなしている主義と理想とを宣言するために」付されたものであることを強調しています。

 

 前文は、日本国憲法を確定したことを最初に掲げ、その「理想」の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」と述べています。つぎに、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と述べるとともに、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示する」と結んでいます。 

 

 「〇六年基本法」は、日本国憲法が示す理想についてはまったく言及していません。「真理と平和を希求する人間の育成」については「平和」という言葉を削除した上で「公共の精神を尊」ぶ「人間」を育成する、と改めています。また、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化をめざす教育」という文言は「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」に改められました。

 

 これだけでも「〇六年基本法」は憲法の基本理念と対極にあることがわかりますが、「〇六年基本法」は「前文」の最後に「日本国憲法の精神に則り」と書かれています。どう見ても矛盾する教育理念が日本国憲法に同居させられているという奇妙な教育基本法のもとに現在の日本がおかれているわけですが、この一文を大いに活用することで、「〇六年基本法」を日本国憲法(とくに第二六条)の見地からも大いに検討する必要があると言えます。 

 

 さて、『解説』では「前文」の「民主的で文化的な国家」という文言について、「真、善、美の文化価値の実現をめざす国家」などと憲法の理念とは異なるような説明もしばしば出てきますが、その辺りの解釈については賢明な読者にお任せすることにします。

 

 『解説』は「個人の尊厳を重んじ」について、憲法十三条および二四条を紹介しながら、「従来の国家は、極言すれば国家あって個人を知らなかった」と述べ、「人間は人間たるの資格において『品位』を備えているのであって、その品位が「個人の尊厳なのである」と述べています。

 

 さらに重要なことは、「人間の育成」という文言について、『解説』は「ここに人間と特にいったのは、過去においては国民ということが人間より先にいわれたが、よき国民たるには、まずよき人間でなければならず、よき人間はそのままよき国民となるとの信念に基づくものである」と述べていることです。「四七年基本法」前文について、このような解説がしばしば登場していることが『解説』の真価であるように思います。『解説』の筆者はここで「信念」と述べていますが、内容的には教育学の根本原理に他なりません。問題は「よき人間」とはどのようなものか、なぜそれに着目せざるを得なかったのか、それはどのように育成されるものであるのかが解明されることです。それについて私たちはすでに十八世紀フランスの思想家ルソーが『エミール』において解明したこと、そしてこれを基礎として、この間、「人間の育成」についての学術的探求が歴史的に進展してきたことを知っています。「47年基本法」はこのような歴史的遺産の上に策定されたものであることを確認しておきたいと思います。

 

 つぎに「普遍的にしてしかも個性的文化の創造をめざす教育」について、『解説』は「ある民族が国民的特性を得ようと努力することではなく、自らを忘れて普遍的妥当性を有する課題に自らをささげるとき、はじめて個性ある国民となることができるのである」と述べています。多少、注釈を要するかもしれませんが、ここで私はあえて新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」という作品を想起したいと思います。私だけがどうしてこんなにたくさん苦しみを背負わなければならないのだろうと悲しんでいるでんでんむしは、そこでそのわけを知りたくて仲間を尋ね歩くうちに、苦しいのは私だけではないのだ、誰でもが苦しみを背負っているのだ、ということに気づくと言う話です。個人的な疑問や知的関心を自分だけ閉じ込めないで、多くの人々と対話し、交流していく中で、私たちは誰しもが分からないことに直面しているのだ、誰しもが悩み苦しんでいるんだと言う普遍性に接近していく。この繰り返しを通して、子どもたちは人間というものを理解し、人間関係、社会関係の基本さらにはそれらと自分との関係や生き方、主体性などの理解を深めていくことができるのです。国民とか日本人についての理解や意識もその過程で個性的に形成されていきます。現実にはこの過程にはさまざまな日常生活の中で生起する諸力が作用します。複雑な個性的な過程を通して、子どもたちは徐々に国民あるいは日本人という意識や自覚が形成されていくのです。これら一連の過程で求められているのが、教育であり普通教育なのです。問題は学校教育とりわけ教育課程において、どのような普通教育が営まれるかが問われることになります。この点で、今日、「まなびあい」という言葉のもとに、まだまだ部分的とはいえ、すぐれた教育実践が試みられているのは心強い限りです。