第一条(教育の目的)について

 

第一条(教育の目的) 教育は人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 

 (1)教育の理念や目的は、教育基本法に先立って、憲法第二六条に掲げられている「教育」および「普通教育」という概念自体が示しています。このことはあまり知られていません。『解説』でも述べられていません。しかし、憲法が示す「教育」および「普通教育」の理念・目的も明確に示すことはきわめて重要であると思います。しかし、第一章では『解説』が示す「教育の目的」について述べることとし、憲法が掲げる「教育」「普通教育」の理念・目的については第4条のところで述べることとします。なお、日本国憲法の「普通教育」概念の性格については拙著『普通教育とは何か―憲法にもとづく教育を考える』(共著、地歴社、二〇〇八年)で述べています。

 

(2)第一条の「教育の目的」は学校のみならず、学校外の教育、社会教育さらには生涯教育なども含め、「あらゆる機会あらゆる場所で実現されなければならない」(第二条)とも述べています。その場合、実現されなければならないのはあくまでも教育基本法が示す「教育」であって、教育であればどんなものでもいいというものではありません。

 

○まず、「人格の完成」ということですが、『解説』によれば「人格」とは「自己意識の統一性又は自己決定性をもって統一された人間の諸特性、諸能力」であり、「完成をめざす」とは「その内容の全方向に発展せしめ、個人をそれぞれの能力に応じて、なるべく完全ならしめること」とされています。これはいささか難解な説明ではありますが、『解説』では力をこめて説明しているところでもあります。『解説』はこの説明を簡潔に「個性の伸長、完成」とも言い換えています。そしてこの「完成」は「普遍的な基準」によって「調和的に」もたらされなければならない、とも述べ、「一様に発展させる」とか「万人を同様に教育することではない」と釘をさしています。この「普遍的な基準」については、『解説』の筆者特有の理解もあると思いますが、私たちは主観的な個人的な見解に依拠するのではなく、私たち自身が、より客観的に、人間性に内在する性向に着目して探求していくべきもの、と思います。

 

 子どもたちは成長の中でさまざまな特性や能力を表出させます。これらの特性や個性は、教師や仲間関係の中でさまざまに受けとめられます。感心したり肯定的に受けとめられた場合、また自らも納得できた場合、それらをよりのばしたいという意欲が生まれて来るでしょう。つまり、そこに「普遍的な基準」が意識的無意識的に働いているのです。そうではない場合は、自らの特性や個性は複雑に展開することになります。ともかく個性や特性は一人の個人のなかで個性的に統一されて内在していると言えます。教育は個人に統一的に存在している諸特性、諸能力を、時間をかけて受けとめ解明し、その個人の人間的成長に資する方向で援助・指導していくのです。

 

 『解説』はさらに踏み込んで「人格の完成」とは「科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成」であり、「個人の尊厳と価値との認識に基づくものである」とも述べています。

 

 また、『解説』は「人格の完成」は「個人のために個人を完成するというにとどまるものではなく、かかる人間が同時に国家および社会を形成するよい人間となるように教育を行われなければならない」とも述べています。それぞれ重要な解説と言えます。

 

○『解説』は「平和的な国家および社会の形成者」について、憲法前文にも言及しながら「この平和は単に国際社会にのみ限られるべきではなく、国内のあらゆる社会において実現されなければならない」と述べています。

 

 しかしながら、平和はどうすれば実現できるのか、教育は平和とどのように関係するのかについての解説はかならずしも十分ではありません。 

 

 一般に「平和」とは「戦争のない状態」とも言えますが、厳密に考えれば「戦争のない状態」というものは相対的にしか存在しないとも言えます。条約や法律や約束や個々人の精神的状態のなかに存在するものと言えます。誤解や対立、もめごとやケンカ、衝突や暴力など広い意味で、戦争は人間社会に不可避的に存在しているものです。「誤解」を例に考えてみます。それはいつどこでどのように生まれたのか、どういう性質の誤解なのか、原因は自分なのか相手なのかそれ以外なのか、どうすれば解決できるのか、自らに誤解を解決しよう、解決したい、解決しなければならない、という思いや勇気があるのかどうか、ないとすればそれはなぜなのか、ということについて、教育の場でさまざまな機会に経験していくことが重要です。解決した場合は、こころからそれを認め合う、褒め合うという仲間関係、教育関係が重要です。このような経験が乏しい状況では「誤解」は固定化されより複雑に絡まり合い、解決不能な状況になります。誤解が誤解を生むと言う状況になってしまいます。このような問題を適切に解決していくことは普通教育の重要な内容となるもので、問題が生じたら担当の先生や学校と言う組織が対症療法的に解決すればいいというものでは決してありません。このような普通教育を通して、子どもたちは「戦争状態」を真に平和的に解決することができるのです。戦争の悲惨さなどを見聞したり、どんなに疑似体験したとしても、どんなに図解きしても、それ自体は重要であるとしても、「戦争」状況を解決し平和を実現しようとする自主的能力は育成されるものではありません。

 

○『解説』は「四七年基本法」第一条にならって、「平和的な国家および社会の形成者」として要求される「資格」について述べ、また「真理と正義を愛すること」について解説しています。

 

 これらのことについても「平和」について述べたことが関係しています。『解説』は、真理について、科学的、道徳的、芸術的などに言及し、「正義」については等分的、配分的などについて触れていますが、それらが教育とどのように関係するのでしょうか。

 

 真理、正義それぞれについて述べたいところですが、ここでは「真理」についてのみ触れておきたいと思います。

 

 子どもたちは日常生活の中で「真理」というものにどのようにつきあたっているのでしょうか。年齢によってもさまざまでしょうが、例えば、仲間の悪口を言えば、自分はすっきりしたり後悔したりします。相手は怒ったり不快になったりします。悪口を言われて喜ぶ仲間は見かけることはないでしょう。どういう状態が不快で、どういう状態が快であるか、それは経験的にしか把握できませんが、しかし、そこにも「真理」の一側面があります。あるいは水たまりで泥遊びしながらこうすれば水は流れる、こうすれば水はせき止められる、などさまざまな動きを通して水が流れるということについての真理を発見しています。そのような規則性がさまざまに応用されて機械技術が生み出されていくことも子どもたちは蓄積していきます。ここにも「真理」に関わる経験をしているのです。このようなことをベースに教育活動を通して、人々が実に多くの「真理」を発見しながら、人間社会を豊かに、かつ平和な社会を築きあげてきているのだということ知ることになります。そのことに誇りや歴史への関心を膨らましていくことでしょう。出来合いの知識や「実験」をふりかざして子どもたちに科学への興味を持たせようとする試みが社会や教育に蔓延していますが、そんなことで真理に接近できるものではありません。しかし、真に充実した普通教育のもとでは「真理」へ近づく機会は無数に存在していると言えます。「真理」や「正義」については他にも無数の事例が挙がるでしょう。大いに考えてみていただきたいと思います。

 

○『解説』は「個人の価値を尊ぶ」ことについて、憲法前文の「個人の尊厳を重んずる」と対比させて、解説しています。

 

 「すべての人が人間として一様に有する尊さ」としての「個人の尊厳」ではなく、『解説』は、それぞれの個人の資質のもつ測り知れない発展能力、個人の生み出す業績、それらを互いに尊び合うところに個人の発展があり、社会の発展が可能となる、と述べています。このこと自体はきわめて重要なことですが、「測り知れない発展能力」、「業績」をいきなり提示されても、子どもたちは一時的な感動を覚えても、おそらく持続する興味・関心をしめさないでしょう。

 

 普段つき合っている口数の少ない目立たない仲間やいじめに関わっている仲間との関わりを通して、ときにはあいつは誰もが考えないようなことを考えている、すごい音感や美感をもっているということに気づくことがあります。仲間の中にあるいは自分の中にそのような資質を見出したとき、そのような資質を認め、その表出を促したり、周りの人に理解してもらうことことを通して、誰でもがそれぞれ異なりながらすばらしさをもっていることに気づくのはそれほど難しいことではありません。問題はそのような関係に社会や教育現場が鈍感なだけなのです。「この個人の価値を軽視する形式的画一的教育の弊は、断然改められなくてはならない」と『解説』が強調しているのは、今日の教育がまさにその「弊」があまりにも深刻になっているだけに重要なことと言えます。

 

○「勤労を重んずる」ことについて『解説』は憲法第二七条と関連づけながら、社会の維持存続と勤労との関係を述べたのち、「みずから進んで働く精神に充ちた人間を育成しなければならない」と述べています。このことは現代日本にとっても重要な社会問題にもなっていますが、教育においてどのような課題があるかについては検討が必要のように思います。いろいろな議論や実践がおこなわれている問題ですが、ここでは敢えて簡略に、筆者が考えていることについて述べてみたいと思います。

 

 子どもたちは日常生活の中で、人々がさまざまに働く姿を見聞し、「働く」ことについて、きたないとか辛そうだなど複雑で否定的な観念を抱いています。ですから、教室の中では、親や身近な人々の仕事を、あらかじめ自分たちで調べておきながら、相互に紹介しあい、どうしてそのような仕事があるのか、人々はどのような思いで仕事をしているのか、仕事はどのようにして行われているのか、などについて、教師を交えながら、お互いに学び合うようにします。その中で、辛く目立たない仕事も社会になくてはならない仕事があること、人々はそれぞれの生活のなかで自分に合った仕事を見つけようとしていること、つらさとともに喜びを感じながら仕事をしていること、それぞれの仕事を通して社会に役立とうとしていること、どのような教科も「働く」ことと関連している、などということを学ぶことができます。青年期になるにつれて「働く」ことの意義や自分との関係を見出していくことができるようになります。このことは特別な「勤労教育、労作教育、職業教育」でなくても、日常の普通教育活動のなかでこそ行われなくてはなりません。

 

○「責任」についても『解説』は憲法第一二条と関連づけて、「基本的人権を守るために、国民が責任をもってこれにあたらなければならない」と述べていますが、教育を通してどうすれば責任を果たすことができるようになれるのかが解明されなければなりません。

 

 自分が行った行為について、他の仲間たちがどのように感じるのかはなかなか確認が難しいところです。しかし、教室の中では、さまざまな事例をとおして、人々が行った行為が他者に及ぼす影響について学び合うことはできます。この学習活動を通して、自分が果たせる責任とその内容・大きさ、仲間が負うべき責任、学校や社会が負うべき責任などについて、学ぶことができます。このような継続する知的訓練を通して、基本的人権を果たすためにとるべきさまざまな責任について判断し、行動することができるようになります。そのような訓練が不十分な教育のもとで、責任だけが子どもに負わされるというのは不条理なことと言わざるを得ません。

 

○第一条の最後に「自主的精神に充ちた」について考えてみたいと思います。

 

 「自主的精神」について『解説』は「すべての物事にあたってみずから主となって能動的に行動する精神」であり、「民主主義社会を発展させるもの」であり、「現下の日本において特に必要とされる」と述べています。

 

 子どもたちの行為は、初期の発達段階においては自己中心的と特徴づけられています。だからといって教育において「みずから主となって」といくら叫んでもそのようになるわけではありません。子どもたちはお互いに自己中心的に行動しながら他者の存在を意識し、徐々に周囲のことを考えながら行動することができるようになります。この過程で仲間に依存したり周囲に埋没するような行動も生まれてきます。消極的な行動をとるような場合もあります。クラスと家庭の中では異なる場合もあります。その子どもがどのようなことに興味や関心を持ち、それをどのように実現しようとするかはまさにさまざまですが、相手のことを考えながら、みずからの欲求を実現しようとするにはどのようにすればよいのかは、まさに子どもたちの学習活動のなかで育まれます。このような学習活動を教育課程の中で組織していくことが普通教育と言えるのではないでしょうか。

 

 「〇六年基本法」も「四七年基本法」も、教育の目的は述語としては「国民の育成」とされていますが、しかし、すでに前文でも述べたように「四七年基本法」の場合は「人間の育成」が前提とされていることが決定的に異なるところです。