第二条(教育の方針)について

 

第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

  この「方針」という言葉について、『解説』は「筋道、心構」とも言えるもので、技術的に解釈されやすい「方法」とは異なるものであること、また教育者のためのものであるにとどまらず、一般国民の心構えである」と述べています。これらはいずれも重要なことと言えます。

 

 「あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」について『解説』は、教育は学校のみではなく「社会のあらゆる場所において」ということを強調しています。そのために第七条(社会教育)条項が設けられたと述べています。具体的には、新聞、出版、放送、演劇、その他の文化施設」における教育が挙げられていますが、重要なことは『解説』も述べているように、「社会のあらゆる場所において」行われる教育が「四七年基本法」第一条に示す「教育の目的」のもとに実現されなければならないのです。

 

 この間、社会教育や生涯学習が盛んに行われるようになってきましたが、関連施設でどれほど「教育の目的」が追求されて来たかはいささか疑問です。とりわけ、「〇六年基本法」のもとで、もっぱら「国民の育成」のみが強調され、伝統文化、日本文化や政治的色彩の強い「社会教育」等が行われ、子どもたちはその影響下におかれています。「〇六年基本法」になったのだから、ということではなく、「日本国憲法の精神に則った」四七年基本法を前提とすることは今日でも求められるべきであります。

 

○「学問の自由を尊重する」を取り上げます。『解説』は憲法第二三条(学問の自由)にも言及しながら、単に「保障する」ということではなく、とくに教育分野ではさらに立ち入って「学問の自由を尊重する」と定めている、ということに留意しています。「最も広い意味では、すべての人々が本来持っている真理探究の要求が自由になされなければならないということであろう。この意味で学問の自由の尊重は初等教育においても生かされなければならない」という解説は今日においてもきわめて重要なことと言えます。

 

 前にも述べたことですが、真理探究の要求は大人であろうと子どもであろうと共通していることであって、とくに学習活動が旺盛な子ども時代は、大人がある意味で当たり前とおもっていることでも、なぜだろう、どうしてだろうと疑問を感じます。それは普遍的な事実と言えます。

 

 ノーベル平和賞を受賞したマララさんは、お父さんが「川の岸に立って、この水はどこから来てどこに行くんだろう」と思いながら川を眺めていたという話や、コーランに「空がどうして青いのか、どうして海ができたのか、星はどうしてめぐるのか、を学ぶべきだと言っている」という話を紹介しています。(『わたしはマララ』六〇頁、四〇四頁、学研パブリッシング、二〇一三年)このような子どもたちの要求が今日でも子どもたちの内面を満たしています。しかし、現実にはそれらは孤立した日常生活の中で表面化せず、科学的批判的判断として開化していかないのです。

 

 東日本大震災で子どもたちは非日常的な悲劇的な体験を通して、あらゆることを直視せざるを得ない状況に置かれました。生命、自然、家族、仲間、地域、未来などについて、自分たちにとってそれは何なのか、どういう意味があるのか、などを本質に即して学ぶ機会にもなりえたと思います。しかし、現実は「復興教育」の名の下に、相変わらず学習指導要領に基づいて、詰め込みの学習を余儀なくされています。このような状況を変えていくことも「学問の自由を尊重する」ことで可能になって来ると言えます。

 

 『解説』は「学問の自由を尊重する」に関連させて「教授の自由」についても次のように述べています。

 

 「被教育者の年齢によって、教えてよいことと、教えて適当しないことがあるであろう。全く一般的なことであり、一定の発達段階にある学生には教育上極めて適当な問題の取り扱いも、もっと年の若い生徒の場合にあてはめることがすすめられないようなことがあるのである。」と。

 

 今日でも、現実の社会が要請しているさまざまな課題が、教育的配慮が不十分なままに教室のなかで扱われるという現実が広がっています。その最たる者が道徳教育と言えるのではないでしょうか。集団的自衛権などと関連して愛国心教育などが重視され「道徳の教科化」が政府サイドから叫ばれています。

 

 子どもたちは国に対する愛着心をどのように習得しているのでしょうか。子どもたちはみずから居住する地域の人々の生活を見聞しながら徐々に国への愛着心を高めていったり、あるいは戦闘機や戦地に向か自衛隊の姿を見ながら愛国心を育んでいる子どももいます。そこには普通教育の観点から考えるべきさまざまな課題がありそうです。戦闘機はどこに飛んでいくのだろうか、目的地で何をするのだろうか、乗員はどんな訓練をしているのだろうか、いつも楽しそうに生き甲斐を持って働いているのだろうか、仲間や家族はどのように受けとめているのだろうか、自分はどう考えたらいいのだろうか、などもし可能ならば、教育活動の中でも大いに学ぶことができます。そのことを通して、戦闘機を飛ばして国家間の問題の解決することはよいことなのかどうかを高校段階の道徳教育の課題とすることもできるでしょう。そういう一連の経過を簡略にしてひたすら注入の観点から教育を位置づけようとすれば、『解説』が指摘するように「教えて適当しないこと」も起こりえるのです。

 

 政府見解を教科書に記述するという閣僚の言明なども同じことです。『解説』はそういう問題に対して「教育基本法が示す教育の目的」を逸脱しないことを強く求めています。このことは「〇六年基本法」になったからと言って変えていいというものではありません。

 

○「自発的精神を養う」ことについて、『解説』は第一条に用いられている「自主的精神に充ちた」が主として教育の目的に関わるものであり、「自発的精神を養う」とは教育の方法に関わり、「個人の研究的態度を養う」という意味であると述べています。

 

「知識の切り売り教育が、過去においていかに理性の批判力と創造力の形成を妨げてきたであろうか」と述べながら『解説』はアメリカ教育使節団報告書から一部を引用しています。「生徒たちが理性に照らして、かつ可能な結果または実際の結果をもつて解答を吟味しながら、質問を発したり、いろいろな原因を調べたり、その意見を集団の批判に供したりすることができない限りは、発意と独創とは抑えられてしまう。」と。

 

 敗戦直後、つまり戦前の国家主義的教育が崩壊して憲法にもとづく教育に着手しようとしていた時期の文章ならまだ理解できますが、この箇所は、現代日本の教育問題の核心を突いたものとも言えるのではないでしょうか。子どもたちの「発意と独創」が抑えられている教育現場は、今日であれば、誰しもが認めざるを得ないのではないでしょうか。

 

 子どもたちは、発達段階のそれぞれにおいて、なんらかの理性を習得しています。そこには間違っていたり空想的なものも含まれます。それらを仲間との間での率直な交流を通して是正され、より高いレベルに成長していくのです。この延長の結果として、子ども特有の創意や判断力が養われ、社会に出て行って、大いに活動することができるのです。これは子どもの学習活動や授業のもっとも原則的な理解と言えます。

 

 『解説』では、「発意と独創」が抑えられてきた日本の教育制度について、なぜそうなってしまうのかについて、あまり言及していません。戦後、70年近くになっても、「発意と独創」を抑える教育政策、教育課程政策、授業形態などが強固に存続しています。子どもたちがテスト漬け、詰め込み主義、暗記主義、競争原理に追いやられています。なぜこのような状況が改められないのでしょうか。そこには、のちに述べるような日本特有の教育に対する行政主導の締め付けが行き届いているからなのです。近年では「学び合い」とか「協同学習」などの言葉をもちいて従来の「一斉授業方式」に代わる授業方式が一部に取り入れられていますが、このような基本的な原理が、理解はされていても、なかなか実現されていません。

 

○『解説』は「自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」について解説しています。

 

 現在の教育を考えたとき、教師と生徒、あるいは生徒同士の間に「敬愛に充ちた心のつながり」が希薄になっていることが一番問題なのではないでしょうか。『解説』は「敬愛の念の上に、はじめて相互の協力が可能」となり、「教育ということが全うされる」とも述べています。

 

 「心のつながり」がなぜ今日社会問題になるほど希薄になっているのでしょうか。これにはいろいろな見解があるでしょうが、私はやはり政府・文科省が推進している「個性重視の原則」が元凶だと思っています。

 

 一九四六年、文部省が『新教育指針』という教師向けの冊子を発行したとき、「新日本教育の重点」に「個性尊重の教育」を掲げました。これは人間性の上に個性が実現されるというもので、それ自体教育学的原理を踏まえたものと言えます。

 

 ところが一九八五年、中曽根内閣のもとに臨時教育審議会が設置され、その時の改革原理として登場したのが「個性重視の原則」でした。それは個人のみならず、「家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代」において、人間性よりも個性を重視する、というものでした。この改革原理が政府によって今日まで継承され強化されています。結局、家庭や企業や国家の個性はそれぞれのトップが決定するものであり、それぞれの構成員相互もそれぞれ個性的に自己実現を図るというものです。そのことによってそれぞれが活性化すると期待されました。

 

 しかし、そこでは人間的つながりは軽視され、学校でも企業でも「成績」や「結果」のみが重視され、一人一人の個性の内実はどうでもよいこととされています。いじめや低学力はこの政策の言わば必然的結果として生まれ、限りなく増加し陰湿化しているのです。このような「改革原理」は即刻改めなければなりません。

 

 「個性重視」政策のもとで、敬愛の念が育つはずもなく、相互に協力し合うことも期待できず、したがって「教育は全うされない」ことになるのです。この関係を教育者のみならず社会全体がしっかりと自覚し、現時点にふさわしく「個性尊重の原則」を取戻していくことこそ教育の変革と言えるのではないでしょうか。

 

 ではどうすれば「自他の敬愛」が人間関係、教育関係の中で成熟していくのでしょうか。子どもの場合であれば、やはり、仲間との遊びや学習活動のなかでそれぞれの個性を理解し合い、お互いに有している良さに気づき、それらをお互いに大事にし合おうとする関係の中でこそ育まれ、成熟していくのではないでしょうか。これは教師と子ども、教師同士、一般社会の中での人間関係でも根本的には同じことです。『解説』も「相互に教育し、教育され、協力一致してゆくところに偉大な文化の創造と発展がとげられるのである」と強調しています。

 

 「〇六年基本法」にともなって学校教育法も大きく「改正」されました。「教育の方針」に関係するところでは、発達段階が無視され、小学校の教育目標が中学校の教育目標に準じて位置づけられています。例えば、中学校の教育目的・教育目標について、これまでの学校教育法には、「小学校における教育の基礎の上に」とか「小学校における教育の目標をなお充分に達成して」という文言がありましたが、改正学校教育法では「義務教育の目標」がまず掲げられて、中学校は「義務教育として行われる普通教育」を施し、小学校は「そのうち基礎的なもの」を施すとされました。いわゆる「小中一貫校」についても中学校に併せて小学校との関係を一貫させることが意図されています。学校制度の一貫性というのは、普通教育を一貫させるということ以外にはあり得ないのです。