第三条(教育の機会均等)について

 

第三条(教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

 

 『解説』は第三条を憲法第十四条第一項および第二六条第一項と関連させながら、「教育の機会均等」とは「すべての児童や青年に平等に教育の機会を与え、さらに教育にあたって被教育者の能力以外の属性によって区別しないということである」と述べています。「能力以外の属性」だけではなく、近年では就職上の差別や教育政策上の差別も挙げておきたいと思います。徹底した競争主義、詰め込み教育のもとで、成績や偏差値を根拠とする学力差あるいはその地域差が近年大きな社会問題になっています。それがために希望する高校、大学に入学できない、就職差別を受けるなどの子どもたちや若者が増えています。こうしたことも念頭におきながら論を進めていきたいと思います。

 

 『解説』は「教育を受ける権利を有する」とした場合、これに対する義務はだれが負うのかという憲法制定議会における議論の経過を紹介しながら、「要するに一つの宣言的規定として、国家がかかる権利の行使を妨げてはならないとともに、その行使を完全ならしめるための政治的義務を負うもの」といささか不明確な説明をしています。この不明確さは憲法第二六条の第一項と第二項との混同から生じているように思います。つまり、普通教育を行う学校と大学や専門学校などの高等教育を行う学校との区別を曖昧にした議論と言えます。

 

 普通教育について、国民・保護者はそれを子どもたちに受けさせる義務を有しており、国はそれを実現する憲法上の責務を負っています。このことについては、憲法第二六条第二項および「四七年基本法」第四条における「無償」規定と関係しますのでそこで改めて検討したいと思います。

 

 一方、高等教育については、国民は「能力に応じて」教育を受ける権利を有しているとされています。例えば、高等教育機関への入学選抜で合格した者はその学校に入学する能力を有する者と認定されたわけですから、そこでの教育を受ける権利を有することになるのです。その場合、『解説』は「(学力試験に合格した)優秀な人間にすべて国費でもって専門教育を受けさせるような方法をひらく必要はない」と説明していますが、合格者は入学する権利を有しただけであって、入学するかどうかは合格者の判断によります。国が入学者にそこでの教育を国費で受けることができるような義務を負っているわけではありません。この第三条は入学後に等しく教育を受ける機会を保障するための具体的措置をとることを国に求めているのです。国は専門教育を受けさせる義務を負っているわけではありません。以上のことは憲法第二六条に伴う明確な権利義務関係であり、「宣言的な規定」と説明する必要はないのです。

 

 本条は、その上で、高等教育・専門教育を受ける権利を有する者に「差別」なく受けさせることを教育基本法上保障しているわけですから、政府は当然その責務を負うことになります。

 

 さて、『解説』は本条第二項の「国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない」という規定について、「単に高等教育を受ける者についてだけではなく、義務教育を受ける者でも、家が貧困で就学困難な者について、その保護者を経済的に援助することも奨学の中に含めるのである」と説明しています。ここでも「高等教育を受ける者」と「義務教育を受ける者」について、憲法があえて区別して規定していることについての無理解があります。

 

 普通教育(義務教育)を受けさせることについて、憲法は明確に国の責務とし、その「無償」を保障しているわけですから、その趣旨を徹底することが求められるわけです。どんなに経済的に苦しくともその子どもが普通教育を受けることができるよう国は全力をあげるべき第一義的責務があるのです。奨学制度があるからというものではないはずです。しかし、現実は、ささやかな奨学制度にとどまっていて、十分な普通教育(義務教育)をすべての子どもたちに保障するまでには至っていません。

 

 「奨学制度」に関して、社会保障の観点から生活保護受給世帯の子どもを対象とした教育扶助制度がありますが、これに連動して、教育上の措置として準生活保護世帯の子どもには就学援助制度があります。その申請基準は自治体毎に設定され、自治体の姿勢によって運用実態はさまざまになっています。これらも憲法上の普通教育無償の見地から抜本的に改革する制度化が求められています。

 

 この間、公立高校の授業料無償化問題が大きな問題となりました。この問題も憲法理念からすれば当然でありむしろ遅きに失したと言えますが、教育基本法上は高校教育の無償化の対象にはされてきませんでした。政治上の施策として位置づけられ、したがって時限的なものにする、所得制限を設ける、朝鮮学校を排除する、私立学校を別だてにする、などきわめて不安定・不徹底な制度を余儀なくされています。これを憲法規定から導かれる法律上の無償化制度にしていくことが切実な課題となっています。

 

 大学生の奨学問題については、長い間、社会問題となってきました。筆者が50年前、大学生時代にも自治会などは奨学金の給与化の要求を掲げておりましたが、今日では、とくに奨学金が利子付きになってから事実上教育ローン化し、貸与を受けた卒業生たちは長い間多額の返済義務に苦しんでいます。

 

 なお、日本が批准している国際人権B規約(社会権規約)第一三条(教育への権利)は、初等教育、中等教育、高等教育別に「無償教育」およびその「漸進的導入」について規定し、その具体化をわが国に対して勧告してきましたが、高等教育について日本は、長い間「留保」していました。しかし、国内での批判に押されて、二〇一二年、この留保を撤回する旨回答しましたが、その具体化はなお実現していません。

 

 なお、「男女平等」は第五条で述べますが、人口の五%程度とされている「性同一性障害」あるいは「性的違和」も「教育の機会均等」問題として社会問題になっています。二〇一四年一一月二日、朝日新聞は「性的少数者」問題を取り上げた記事の中で、二一歳の青年が「性同一性障害」のためにいじめや学校に行けないなどに苦しみ、薬を過剰摂取して亡くなった事例を取り上げています。同居していた准看護師は「手術しても『ふつうの男』になれないと絶望していたのかもしれません」と語り、その若者は「ふつうを求めてなにがいけない」というノートを書き留めていたとのことです。

 

 「〇六年基本法」は「教育の機会均等」条項(第四条)にあらたに「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない」という文言を追加しています。これ自体は前進と言えますが、この場合も、「〇六年基本法」の理念・目的が重要な障害になります。