序  

 第1節 対象と方法(1) 

 本論文は明治前期における普通教育論の展開過程を分析対象とするものである。

 筆者の研究関心は現代日本における教育学論を普通教育概念を基軸に構成することである。かつて沢柳政太郎は「教育学の対象とする教育の事実は、学校教育中の普通教育である」(『実際的教育学』、1909年)と述べたことがある。「学校教育中の普通教育」とは社会人対象の教育や高等教育・専門教育を除く高等学校までの普通教育という意味である。沢柳の普通教育論と筆者のそれとは基本的に異なるが、普通教育概念が教育学研究の基本的な対象概念であるという点では筆者も同じ認識をもっている。

 現代日本において現実に生起している教育問題はその全体においてさまざまな深刻な問題を顕在化しており、それらをどのような方向において解明し解決していくべきなのかについての確かな教育学的な指針が打ち出せない状況にあるように思われる。「教育学の危機」を指摘する議論も出ている。(1) 社会の急激な変化とか価値の多様化が言われる中で、社会的価値と教育的価値との関係、社会の変化あるいは社会の要求と普通教育との関係、広義の教育あるいは生涯教育と普通教育との関係、普通教育と学校との関係、学校とは何か、学校と社会および家庭との関係、幼稚園から高等学校までそれぞれの学校の相互関係、教育課程の構成原理あるいはそこにおける学習と指導のあり方の問題、理念・目的・内容・制度など普通教育のあり方と国民の意志との関係、普通教育政策と文部省や教育行政との関係、人間の学習権と子どもの普通教育を受ける権利との関係、これらはすべて普通教育に関わる基本問題である。

 私たちにとって普通教育についての共通な事実は日本国憲法、教育基本法および学校教育法がそれぞれにおいて普通教育について規定していることである。これら基本法は普通教育について①すべて国民はその保護する子どもに普通教育を受けさせる義務を負っていること、②義務教育は無償であること、③すべて国民はその保護する子女に9年の普通教育を保障すること、④小学校の目的は「初等普通教育」を授けることであり、その教育目標は8項目あること、⑤中学校の目的は「中等普通教育」を授けることであり、その教育目標は3項目であること、⑥高等学校の目的は「高等普通教育および専門教育」を授けることであり、その教育目標は3項目あること、などである。これらの規定についての理論とはいかなるものなのだろうか、これらの規定における「普通教育」とはいかなる概念なのだろうか、また、普通教育にかんする規定は日本国憲法や教育基本法の理念原則と一体的に理解されるべきだとするならば、どのように理解すべきでなのであろうか、このような疑問に明確に答えることができるような普通教育の理論は存在していない。 

 例えば、すべての国民には子どもたちに普通教育を受けさせる義務がある、といっても、その場合の国民とは何か、なぜすべての国民がそのような義務を負っているのか、父母の義務と国民の義務とは同じものなのか異なるものなのか、その場合の義務とは具体的にはどのような義務か、なぜすべての子どもは普通教育を受けなければならないのか、その場合の普通教育とは何か、普通教育を受けることと主権は国民に存するということとはどのように関係しているのか、義務教育という場合の義務と国民の子どもたちに対する義務とは同じものなのか異なるものなのか、なぜ普通教育もしくは義務教育は無償なのか、など憲法第26条第2項だけをとりあげても普通教育の理論はこれらの問いに明確に答えていない。

 戦後50年が経過した。戦後の政府・文部省の教育政策は上記のような基本法に見られる普通教育についての規定を一応はふまえつつも、社会の変化に対応するなどとと言いつつ、理念・目的・内容・制度等の全面にわたってこれら教育法からは直接導かれない教育政策を追求してきた。臨時教育審議会は「個性重視の原則」とか「生涯学習体系への移行」を21世紀を見据えた教育改革の基本原則とするとした。その後の教育政策は今日の橋本内閣が「行政改革」のなかに「教育改革」を組み込んだことに見られるように、きわめて政治的な動機から(その意味ではきわめて伝統的な動機から)推し進められている。

 戦後基本法制が指し示す教育理念と「個性重視の原則」等の理念とは普通教育のあり方を根底において規定するものである。普通教育は今日この相矛盾する理念の間にあってするどい緊張関係のなかに置かれている。(2)

 また、「普通教育」とは何かをこれら基本法制における諸規定や中央教育審議会・臨時教育審議会等の政策理念だけで理解できるものではない。教育学的にも教育実践的にも教育史的にも明確にされなければ普通教育概念は現実社会に意味のある概念として自立し得ない。普通教育概念の理論化は今後のもっとも基本的かつ重要な課題というべきであろう。

 もちろん、そのことは普通教育についての研究が皆無であったことを意味するものではない。とはいえ、多くの先行研究は政策主体や研究者たちのそれぞれの普通教育論の主張にとどまっており、明確な理論として共有しえる普通教育論はまだ確立しえていないというべきであろう。すくなからぬ辞典等で「普通教育」の定義について「一義的に規定するのは難しい」としているのはその限りでは根拠があると言える。しかし、だからと言ってこの状況にとどまっていいわけではない。

 本論文は以上のような認識のもとに、普通教育概念の理論化に接近する方法として、わが国における「普通教育」論の歴史を詳細に掘り起こすことによってわが国における普通教育概念を歴史的現実的な文脈の中に位置づけ、その文脈に内在するより本質的な契機を手がかりに普通教育概念の理論化を試みようとするものである。もちろんこのような試みは普通教育概念の理論化にとって一つの基礎的な研究にすぎない。しかし、あえて言うならば着実な第一歩になるのではないだろうか。

 より具体的に言うならば本論文において分析の対象とするのは、明治前期における普通教育に関する個人や機関等の主張、見解、思想、論説、学説あるいは政策等の総体であり、また法令上の用語としての「普通教育」あるいは「普通ノ教育」も含まれる。本論文ではこれら事実群を一括して普通教育論と概括し、明治前期における普通教育論の展開過程を通してこの時期における普通教育という観念がいかなるものであったかを解明しようとするものである。

 この時期において、普通教育という言葉はわが国においてはいわば生成期であり、さまざまな普通教育論が、しかもわが国の普通教育論史上きわめて活発に表明された時期である。本論文においてはこれら事実群を直接の分析対象とし、それらの相互関係や内的な関連性等を分析することによって、普通教育という観念の歴史的現実的性格と普遍的本質的な意味を明かにしたい。もちろん、時期的な限定からその解明もおのずから限界がある。それ以後今日にいたる長期的な研究によってはじめてトータルな解明が可能となる。本論文がその意味でわが国における普通教育論研究の基礎的な部分に位置づくものである。

 以上の意味で本論文は普通教育論史研究であって普通教育史研究ではない。普通教育についての定義がある程度明確になり、それについての事実関係が特定され、それについての一貫した歴史的研究が可能になった段階では(必ずしも段階論をとるわけではないが)普通教育史も存在し得るだろうが、筆者の判断では現時点はそのような段階ではない。普通教育論史はある意味で普通教育史を可能とするための準備的研究と言えるかもしれない。とはいえ、筆者は普通教育史は普通教育史であり、普通教育史研究はそれ自体独立した研究領域であろう。筆者の基本的な課題意識はあくまでも今日における普通教育の内実と課題を全面的に提示することであり、普通教育論史研究はそのために不可欠な研究と位置づけている。

 本論文が明治前期としてそれを1885(明治18)年までとしたのは、すでに述べたようにこの年を境に普通教育論が大きく転換していくことになるからである。この年は教育令体制から学校令体制への移行、あるいは太政官体制から内閣制度への移行の年でもある。研究対象に即して時期区分がなされるべきであるという考え方に筆者も立っている。この場合、前期とは現在のところ中期・後期を念頭においた表現である。

 本論文は10数章から構成されているが、それらを編とか部でさらに括っていないのは、今後明治中期・後期への研究の進展を考慮するならば明治前期は全体として一つにグルーピングできると考えたからである。

 

第2節  対象と方法(2)

 第1節で述べたような対象と方法についての限定に基づいて、第2節では明治前期における普通教育論の展開過程について具体的なイメージを描くために普通教育論に関する主要な事実群を時系列的に挙げておきたい。これらの事実群が相互にどのように関連しあっているのか、事実群あるいは諸事実を通じて普通教育についてのどのようなより本質的な契機を見出すことができるのか、についての分析・検討が本論文の主たる内容となる。

(1)前島密は1867(慶応3)年1月、徳川慶喜宛上書「漢字御廃止之議」において、「普通教育」などの言葉を多用して「愛我尊自」「学問の独立」などの課題とむすびつけて少年の時期に「事物の道理」を獲得することの重要性を訴えた。

(2)福沢諭吉は、1867年12月出版の『西洋事情』初編巻1「学校」の中で「常教」という言葉を紹介し、また1869(明治2)年2月、松山棟庵宛書簡において「コモン・エジュケーション」という言葉を用いながら「自主独立」をめざす人間形成の必要を強調している。

(3)1869年の「府県施政順序」、「急務件々」、1870年の「中小学規則」等を通じて小学校の教育目的が次第に明確にされていくが、その中で「普通学」という言葉が用いられるようになった。

(4)1872(明治5)年の「学制」において、小学校の教育目的は「教育ノ初級」、中学校のそれは「普通ノ学科」とされた。

(5)「学制」制定に参画した文部省中督学西潟訥は1873年の「説諭十一則」において、「小学ノ教育」を「普通学」としたうえでその目的を「人ノ人タルノ知識ヲ具ヘ人ノ人タルノ務ヲ成ニ至ル迄ノ業」と説いた。

(6)1875(明治8)11月、太政官は文部省にたいし「文部省職制及事務章程」を通達し、その中に「普通教育須要ノ学科ヲ改正スル事」(事務章程上款第5条)を含めた。筆者の知るかぎり、行政文書で「普通教育」という用語が最初に用いられた文献である。

(7)文部省はとくに明治7年以降、『文部省第2年報』や『文部省雑誌』において国内や諸外国の教育事情を掲載しているが、そこでは「普通教育」という言葉が広く用いられている。

(8)「学制」体制の矛盾が深刻化する中で、新たな教育法制への転換をめざす文部省は1877(明治10)年、幹部を全国に派遣して大規模な調査を行った。西村茂樹大書記官は「学制」以来の小学校教育の状態を「普通教育ノ病」とうけとめ、「民力」に応じた「普通教育」の推進の必要性を論じた。また、九鬼隆一大書記官も視察報告の中で「今日ノ普通教育」の状況を詳細に報告し、「富人ノ子弟」のための「普通教育」の必要を論じた。全体として「学制」理念である「貧富尊卑ノ差別ナク」路線から「民力」「斟酌折衷」路線への「普通教育」政策の転換を志向している。なお、九鬼はその報告のなかで「(普通)教育ハ心性発達ノ順序ヲ察シテ知識ヲ給スルコト」と述べている。

(9)文部省の動きとも関連して、自由民権運動が高まる中でさまざまな普通教育論が主張された。例えば、植木枝盛は1877(明治10)年に「学制」における小学校の教育目的である「教育ノ初級」を「一般普通ノ教育」ととらえなおしたうえで、「人ノ目的タル自由幸福」を増大させるという見地からそのいわば義務化を主張した。文部省内にあっても山田行元は強迫就学法を「普通教育法」とすべきであると主張した。下村松造は1878(明治11)年1月、「東京日々新聞」に「我邦普通教育ノ現状ハ慶スへキ乎」を投稿し、「普通教育」を実施するのは「政府ノ義務」なのか「国民ノ職分」なのかと問い、本来は「国民ノ職分」であるが「人智」がまだ開花していない現状では「教育施行ノ権」は政府に帰せざるを得ないと論じた。このような普通教育権論は文部省の見解でもあった。なお、同じ年の12月、田中不二麿文部大輔は「教育国会」の創設を提唱している。

(10)1878(明治11)年11月、太政官の小泉信吉・中上川彦次郎は「御巡幸沿道諸縣学事報告書」を大隈参議に提出した。この「報告書」は従来の「大学ー中学ー小 学」という体系は「大失誤」である、小学校を卒業して「各自ノ産業ニ就ク者」が多いのにそこでの教育内容は中学校へ進む者のために編成されている、そのため「小学生徒ノタメニハ其便実ニ堪エ難キモノ」となっている、という認識にたって「大中小学ヲ区別シテ各自独立ノモノ」とし、「大中小学トモ各別ニ固有ノ性質ヲ具エ」、それぞれで「全備ノ教育ヲ授ル」ことができるようにすべきである、その場合小学校は「下等ノ農工商等カ日常缺ク可ラサル通俗ノ識芸」を、中学校は「中等社会ノ 人民ニ必要ナ識芸」を、大学は「学士又ハ重職ノ官吏等最上ノ知識ヲ要スル者ノミヲ教授スルノ場所」にすべきである、と提言している。また、徴兵制度にも言及し、「体操」の重要性を強調している。

(11)1878(明治11)年、文部省が上奏した「日本教育令」(案)にはじめて法令用語として「普通教育」という言葉が用いられた(第30、32章)。ただし、小学の目的については「小学ハ人間普通闕ク可ラサルノ学科ヲ児童ニ教フル所ナリ」と規定され(第19条)、また小学の学科(基本6科)については第20条に規定された。なお、中学の目的は「高等ナル普通学科」とされた。

(12)1879(明治12)年5月、教育令案に関する元老院審議が開始される時期に呼応して、福沢諭吉は「東京学士会院雑誌」創刊号に「教育論」を書き、「平安ヲ好ムノ人情ハ世界中ニ通用」するものであるという見地から、教育の目的は「人生ヲ発達シテ極度ニ導クニ存リ」と論じた。この直後に天皇は元田永孚を通じて「教学聖旨」を示したが、これに対して伊藤博文は「教育議」で批判し、また元田永孚は「教育議論附議」で応酬した。ここには「普通教育」という言葉こそ用いられていないが、事実上普通教育権の所在をめぐる鋭い論争が展開された。

(13)その年9月に公布された教育令はその第3条において小学校の教育目的を「普通ノ教育」とし、第4条で中学校の教育目的を「高等ナル普通学科」と規定した。また、第14条、第17条では「普通教育」という言葉が用いられた。

(14)教育令の具体化をめぐって1880(明治13)年1月、文部省は普通教育の基本6学科を具備することをもって「普通教育ノ正格」とし、「正格」を具備した小学校を正則小学校、具備しない小学校を変則小学校としたが、3月に就任した河野文部卿は変則小学校を廃止し、正則小学校以外はすべて私学扱いとした。しかし、普通教育にたいする政府の全一的統制が困難になることに対する支配層の危機感から教育令自体を改正する動きが急速に顕在化してきた。

(15)1880(明治13)年12月、文部省は「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」を上申した。そこでは「普通教育ハ、国民ノ品位ヲ上下スルノ力」があるのだから「普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務」としないわけにはいかない、それゆえ「普通教育ノ衰頽ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属ス」と断じ、もっぱら普通教育にたいする国家の支配権確立のために教育令改正案を策定したのだと説明した。

(16)教育令改正の要点は、すべての小学校は「已ムヲ得サル場合」を除いて基本6学科を具備しなければならないこと、私立小学校の設置には府知事県令の認可が必要なこと、学校の種類に職工学校を新たに加えたこと、などであるが、元老院での審議において学科の種類・程度は教員が左右しうるものではなく文部卿が頒布する綱領にもとずくべきものと説明された。しかしながら、元老院での終了した直後、天皇は基本6教科について修身を首位教科とするよう命じた。

(17)教育令改正過程において島田三郎権大書記官は支配層の改正意図とは別の立場から教育令改正を推進した。島田は1881(明治14)年4月、茨城師範学校において演説を行い主として普通教育を論じた。その内容は国会開設必至という情勢の中で「参政権」を有する人民は「自治自立ノ人」でなければならず、そのような人間を育成することこそが「普通教育」の目的であり、そのためにこそ政府の普通教育にたいする「干渉」が必要であるというものであった。しかしながら、政府・文部省内部に少なからぬ影響力をもっていた島田ら自由民権派はいわゆる明治14年の政変(10月)によって在野に追われることになった。

(18)この時期、普通教育に関するすぐれた見解が相次いで表明された。東京府学務課に所属する庵地保は1880(明治13)年12月、『民間教育論』を著し「専ハラ普通教育ノ要領」を論じた。また、赤松常次郎は教育令制定前後『教育新誌』に論説を連載し、「凡ソ人ノ子女タルモノ普通ノ教育ヲ受ケン事ヲ要求スルハ其固有ノ権理ニシテ父母ト雖モ之ヲ妨グベカラズ」、その「義務ヲ負担スベキモノハ父母ニ非ズシテ誰ゾヤ」と訴えた。

(19)1881(明治14)年、文部省は「小学校教則綱領」を定め小学校を初等、中等、高等の3段階に区分した。また、「中学校教則大綱」を定め、中学校の目的である「高等ノ普通学科」をさらに「中人以上ノ業務ニ就ク為」と「高等ノ学校ニ入ルガ為」とに分けた。

(20)1881(明治14)年の6月、文部省は「小学校教員心得」を定めたが、そこでは「普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル」という見地から小学校教員のあり方が規定された。

(21)1881(明治14)年10月、文部省は普通学務局と専門学務局等とに改組され、普通学務局は「普通教育ニ係ル事務ヲ掌理スル」ものとされた。具体的には、幼稚園、小学校、中学校をはじめ「普通ノ師範学校」、「普通ノ各種学校」などが含まれた。

(22)文部省は1882(明治15)年11月、学事諮問会を開催し、その中でいわゆる「文部省示諭」が提示された。それは「普通教育ノ年限ハ小中学ヲ通シテ率ネ十二年トス」という認識のもとに、「専門ノ学校ト普通ノ学校トノ関係」などについての文部省の方針を説明したものであった。また、そこでは「国家ノ良民」育成という言葉が多く用いられた。

(23)1883(明治16)年9月、大日本教育会が創設された。のちに西村貞は「大日本教育会ノ第一ニ教育ノ区域境界ヲ明瞭ニセザレドモ本会ノ事業ハ高等ノ普通教育マデニ止メ、専門ノ教育ニハ手ヲ出サヌト云フ心得デアリマス」と述べているように、この会は基本的に普通教育に関する事業を任務とするものであった。なお、当時教育会等が各地に設立されているが、その目的には「普通教育の改良普及」や「普通教育上須要ノ学科ヲ研究スルコト」などを掲げたものが多く見られた。

(24)1882年に伊沢修二が『教育学』を、1883年に若林虎三郎・白井毅が『改正教授術』を、また浅野桂次郎が『教育学』をそれぞれ出版している。とくに浅野はその中で「教育学」を「幼童教育一種一団ノ理法」に限定し、教育の目的とは「心、体ノ発達ヲ扶助シ社会ノ幸福ヲ享受セシメントスル」ことであると述べ、そのような教育を「一般普通ノ教育」、「尋常普通ノ教育」と同義であるとしている。なお、伊沢修二は「大日本教育会雑誌」第1号において「教育ナル語ノ区域ハ中学校以下ニ施ス所ノ普通教育ニ限ル」と述べている。

(25)1884(明治17)年、本島松蔵は「普通教育普及改良ノ一方案」を「大日本教育会雑誌」に寄せ、その中で「初等普通教育」という言葉を用いた。

 (26)1884(明治17)年に入って、宮中には制度取調局が設置され、国会開設に向けて憲法・皇室典範の検討が開始された。また、山県内務卿のもとで地方自治制度の国家主義的再編が進められていた。他方、深刻な経済不況に対応する必要から1885(明治18年)4月に内務・大蔵両卿は連署して「区町村費節減ノ議」を上申した。それは町村教育費節減を要求するものであったから、このような情勢のもとで文部省は「8年間ノ普通教育」は「人民ノ義務」であるという認識のもとに、「教場」を設置し、学科目法定条項を削除し、学務委員を廃止するなど、費用節減をはかりつつ普通教育の「改良拡張」を図るという立場から教育令を再改正(同年8月)することになった。

 同時に、文部省は全8章65条からなる「普通小学校教則」を含む「小学校及小学教場教則綱領」を用意していた。それによれば「国家ノ良民」を育成することを教育目的とし、徳育では「皇室ヲ尊ヒ国ヲ愛シ人倫ヲ重ンスルノ精神ヲ養フ」とされた。また、小学校は第1種・第2種普通小学校のほかに農業小学校、工業小学校、商業小学校、男児高等小学校、女児高等小学校の7種に再編され、さらに「歴史」は「日本歴史」とされるなど教科の性格についても大幅な変更が意図された。再改正教育令は翌年4月の学校令体制への転換によって短命を余儀なくされたが、普通教育の国家主義的再編路線は森有礼文部大臣のもとでさらに大規模に展開されていくことになる。

(27)1885(明治18)年2月、庵地保は『民間教育論』の続編として『通俗教育論』を出版し、「富強者」と「貧弱者」との格差が拡大している現状のもとで「貧弱者」の立場に立った普通教育の必要性を論じた。

(28)同年4月、「東京教育新志」は「普通教育ハ何ヲ目的トスルカ」という論説を3回にわたって掲載した。この論説は、「普通教育」には2つの目的、すなわち「国民ノ利益ヲ謀ル」ことと「一己人(私人)ノ利益ヲ謀ル」こと、があるという認識のもとに、「快楽幸福」ではなく「自立自行」こそが「人生ノ目的」であり「教育ノ目的」でなければならないとしてそのような教育を「国民普通教育」としている。

(29)さらに同年11月、小学校条例取調委員である大窪実は東京府教育談会において「国民教育」と題して演説している。大窪によれば、「普通教育」の目的は「人ヲシテ天稟ノ性能ヲ完全ニスルコトヲ得セシメ以テ其身ノ幸福ヲ厚フセンコトヲ期スルニ在リ」と自ら定義したうえで、そのような「普通教育」観に不満足であるとしている。大窪氏によれば「国ヲ護ル重大ノ義務ヲ尽ス」という立場から「普通教育」は「各人自己ノ為」と「国民タルニ適当ナラシムル為」という2つの「要点」を有するものであり、そのような「普通教育」を「国民教育」としている。大窪にとって「国民教育」はあくまでも「普通教育」の一種であった。

(30)森有礼御用掛は文部大臣に就任する直前、埼玉師範学校において演説し、そこで「普通教育」という言葉をしばしば用いた。また「師範学校ハ普通教育ノ本源」であるという見解を述べた。その後の文部大臣以後の森の発言では「普通教育」という言葉は用いられていない。

 

 第3節 課題、視点および意義

 筆者の研究テーマは現代日本における普通教育論不在の状況がなにに起因しているのかを解明し、普通教育概念を基軸とする教育学論を確立することによって、深刻さと混迷を深めている学校教育の改革の方向を明確にすることである。

 普通教育という概念は理念・目的・内容・方法・制度等を含む広い範囲に及ぶものであり、普通教育概念を基軸とする教育学論を確立するという課題は、かりに普通教育の定義が明確であることを前提としても、それは個人の力量をはるかにこえる大変な仕事であると考えている。普通教育とは何かが今だに明確にされていない今日、現実の教育問題について各自の普通教育認識を手がかりに今日的な普通教育研究を進めるとともに、歴史的な考察を通して普通教育とは何かに迫ることも意味あることではないだろうか。

 本論文の課題は上記のテーマのもとに、普通教育研究の現状から判断して、わが国における普通教育論の歴史過程の分析がいまなお、というよりも今後いっそう必要であるという認識のもとに、その一環として明治前期という特定された時期における普通教育論の展開過程を分析することである。明治前期は明治維新から大日本帝国憲法・教育勅語確定に向かうという独特な歴史的時期に対応しており、きわめて短期間ながら普通教育をめぐるさまざまな論点が噴出した時期でもある。その意味でこの時期の普通教育論の展開過程を全面的に検討することは今日における普通教育研究にとってもきわめて意義あるものと考える。

 本論文において研究の視点としたのは次のことである。子育てや教育は子どもを宿した父母が、あるいは宿した当事者が第一義的には責任を果たすべきであるが、子どもを宿すということ自体が社会現象であり、したがって子どもが人間として有している諸能力を人間らしく育成していく仕事は決して個々の父母にのみ委ねられるべきものではなく、社会の共同事業であるということである。この事業のもっとも基本をなすものが普通教育である。このような視点は決して新しいものではないし、筆者独自のものではない。西欧民主主義思想とともに発展してきた普通教育思想のなかにも見いだされれるが、なによりも明治前期に展開された普通教育論の根底に素朴なあるいは即自的な表現とはいえ見出すことができるものである。その意味でも明治前期における普通教育論の研究は日本の近現代を通じて重要な時期と言えるのではないか。

 同時に、普通教育という事業が社会的共同事務であればあるほど明治前期という時期はその実現性がもっとも困難な時期であった。すなわち、憲法も国会も存在していなかったし、それらを生み出す経済的社会的諸条件も、また主体的諸条件も成熟していなかった。民主主義と普通教育とは不可分な相互関係があるということは民主主義の成熟がなければ普通教育は本来の実現はありえないということでもある。

 このような視点にたってはじめて政府・文部省の普通教育政策の特質を明確にすることができるし、また、それと対極にあるはずの民衆の側に立った普通教育論の構築のためにはどのような条件が満たされなければならないかということについても明確にすることができると思う。

 今日、政治的経済的条件は明治前期に比べて質的に高い段階に達している。その意味では普通教育を理念・目的・内容・制度等全面において開花させる客観的条件は前進していると言える。問題は理論的・主体的条件が大きく立ち後れていることであろう。本論文が我が国における普通教育の前進にとっていささかなりとも貢献できるならば望外のしあわせである。

 

 第4節    先行研究

   本論文が対象としている明治前期、すなわち1885(明治18)年までの「普通教育」について直接論及している研究は必ずしも多くはない。以下について若干のコメントをしておきたい。なお、「普通教育」自体についての研究は我が国において少なからず蓄積があるが、本論文においては必要に応じて本論のなかで取り上げることにしたい。

 (1)海後宗臣『明治初年の教育』、1973年、評論社

    本書は1931年に執筆された報告書「明治初年に於ける教育の調査研究」をあらためて「原本の内容のまま」出版したものである。この中で著者は「府県施政順序」等における小学校の基本的性格について「一般四民に対して初等普通教育を行うことにある 」、「当時の教育方針が普通教育機関として小学校及び中学校を設置しようとしたものであるとみることができる」(26・27ページ)と述べている。「普通教育」という言葉を用いている点は興味深いが、「府県施政順序」に「初等普通教育」「普通教育機 関」という言葉が使われているわけではなく、またそれらが概念規定がなされないまま「府県施政順序」等と直結させられている。

 「初等普通教育」という言葉は管見する限りでは1884(明治17)にあらわれるが、法令用語となるのは1941(昭和16)年である。また、戦後の学校教育法における「初等普通教育」という用語とも基本的性格を異にする。

(2)土屋忠雄「明治十年代の教育政策」、1956年、野間教育研究所紀要・第11輯。

 全体として「普通教育」についての特別な関心は示されていない。とくに1880(明治13)年12月4日の「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」を引用しそれに言及した部分では、その主題である「普通教育ノ衰頽ヲ挽回」には留意していない。そのうえそこで論じられている「普通教育ハ、国民ノ品位ヲ上下スルノ力アリ」あるいは「普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務トセサルハナシ」については「国家が国民教育に干渉するのは、国民教育の如何が国家の盛衰にかかわる」(87ページ)と解釈され、「普通教育」は「国民教育」におきかえられている。同『明治前期教育政策史の研究』、1962年、文教図書,207ページでも同様の記述がなされている。

 「国民教育」という概念は明治17年頃から「普通教育」概念との緊張関係のなかで用いられてきた言葉である。また、1890(明治23)年の小学校令改正によって小学校の目的が「国民教育ノ基礎」として位置付けられたことによってわが国固有の概念として法令用語化された言葉である。戦後広く用いられた「国民教育」概念とは基本的に区別されるべきである。

(3)秋山和夫「人間的教養と普通教育の伝統」、1959年、岡山大学教育学部研究集録第7巻第1号、所収。

 西潟訥の「説諭十一則」で用いられている「普通学」概念に着目し、そこには「普通 学」ないしは「普通教育」の備えるべき主要な条件、すなわち、教育されるべき人々の対象を「貧富尊卑ノ差別」を越えた国民大衆に求めていること、そこでの知識ないしは教育が人間として、社会人として基礎的に要請されるものであるということ、が含まれているとしている。また、「普通教育に基礎をおいた国民教育の思想は、わが国においては、明治になってはじめて形成された」としたうえで、福沢諭吉らの「教養・学問」観を支えるものとして「常教」すなわち「普通教育」が位置づけられていたこと、が述べられている。

 また、そこでの「普通教育」は「現実的には国民大衆の生活基盤から生成したものではなく、西欧的知識の受容」にとどまっていたところに、それに対する反 動として「国粋主義に支えられた独善主義的傾向が、普通教育理念の中に強く入り込むことになる」ことが指摘されている。だがしかし、学制・教育令制定の根拠を「学問思想発達のための手段の方に普通教育の重点が置かれた」結果とする見解、政府・文部省の教育政策の立場と福沢諭吉の学問・普通教育観をほぼ同一視していること、普通教育の反動化を洋学重視の反動化と見る見地など、実証性の薄い氏の独自な見地からの展開になっている。

(4)井上久雄『学制論考』、1963年、風間書房。

 「学制」改正準備の一環として実施された文部省高官の大規模な学事巡視の結果として提出された西村茂樹・九鬼隆一等の報告が本書において資料として用いられている。「学制」廃止から教育令体制への転換過程が追求されていながら、そこには「国民教育の普及」という文言はあるものの、やはり「普通教育」への着目はまったくなされていない。文部省指導部は当時もっぱら教育問題を「普通教育」問題として認識していたのであって、教育政策の主題も「普通教育ノ衰頽ノ挽回」、「普通教育ノ改良拡張」であった。当時の文献には「国民教育」という言葉は用いられていない。

(5).小松周吉「中小学規則(明治3)年と地方学制改革」、1965年、金沢大学教育学部紀要、第13号、所収。

 「統一的な国民教育」、「すべての国民の子弟を対象とした普通教育」の成立・実現にとって、身分的制約を排除して学校教育を量的に普及し、「初等普通教育」に「実科(歴史・地理・理科)」を導入することが条件であるという見地から、明治初期(学制 以前)の「中小学規則」、「府県施政順序」および福山藩・岩国藩等での「地方学制改革」をとりあげ、とくにそこにおける「普通学」概念の意味を検討し、「中小学規則における普通学は、それが年齢的にいって初等、中等いづれの段階で学ばれるにせよ、専門学に対する基礎あるいは初歩の意味に解されることは明らかであるが、一方、地方の学制改革では、普通学を、専門学に対する基礎であると同時に人民一般の学ぶべきものと解している例がある」と述べ、「普通学」概念の意味の二重性に注目している。

    土屋氏は「おわりに」の部分で、小学校についての「二つの構想が交わることなく平行的に行われたところに、学制以前における小学校政策の矛盾と混乱があった」とする倉澤剛氏の見解を「不十分」と批判し、この「矛盾」は近代国民教育が内包する本質的な矛盾であり、かつ民衆の初等教育に実科教材を導入したという意味において「学制」の進歩的性格を積極的に評価すべきである、と主張している。

 「普通学」概念の意味の二重性を指摘している点は重要であるが、全体として「近代国民教育制度」を人民大衆の立場からどのように評価するかという点に重点がおかれ、「普通教育」「初等普通教育」という概念の意味についての検討は希薄である。とくに、「普通教育」は「すべての国民の子弟を対象」とするという氏特有の見地から認識している点は問題であろう。

 (6)倉澤剛『学制の研究』、1973年、『教育令の研究』、1975年、講談社。

 『学制の研究』序において、「学制期の教育問題」のひとつは「全国に小学校を普及させ、人民一般にあまねく普通教育を得させる問題」であるといい、『教育令の研究』序において「(教育令期の)問題系列としてはまず大きく一般普通教育と人材専門教育」に別れると述べ、教育政策の二本柱の一つに「普通教育」を据えている。この場合の「普通教育」には小学校政策、教員養成政策、教育課程政策、中学校政策、実業学校政策等が含まれるとしている。

    がしかし、「普通教育」自体の概念内容の解明には関心は払われていない。たとえば、教育令制定過程において「普通教育」という用語が初めて文部省案(第30条)に採用され、法制局案では第3条に「普通ノ教育」という言葉が用いられ、さらに元老院案では第14条、第17条にも「普通教育」という言葉が用いられることになったが、「普通ノ教育」と「普通教育」という用語の意味および両者の関係等は分析されていない。また教育令改正の主題とも言える「普通教育ノ衰頽ヲ挽回スルコト焦眉ノ急」という場合の「普通教育ノ衰頽」が「小学校の衰微」と矮小化して把握されている。

 全体として大学をも含む教育政策の展開過程が政府・文部省側の文書に即して実証的に論述されているが、当時の教育論・普通教育論の民間における展開にまではおよんでいない。

(7)国立教育研究所『日本近代教育百年史』第3巻、第3編概説・第1章第2節、およ び第2章、1974年。

 第1に、「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」の主題である「普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務メトセサルハナシ」の部分は「義務教育については国家が干渉主義をもってのぞむのは当然であるとのべている」(930ページ)と解釈されているように、「普通教育」は「義務教育」におきかえられている。当時「義務教育」という言葉は用いられていない。

    第2に、いわゆる「文部省示諭」が「普通・専門の両教育を組み合わせた国民教育の型をこの時早くも打ち出している」、あるいは「普通教育を基本として制度の体系化、系統化を企画する発想」を表明しているとし、それは「きわめて教育的な、いわば教育内部からの発想された考え方といってよい」(1139ページ)と述べている。ここには「普通教育ノ衰頽ヲ挽回スルコト」を政府・文部省の最大の課題とした政治的意図が見据えられていない。

    第3に、「文部省示諭」が「普通教育ノ年限ハ小中学ヲ通シテ率ネ十二年トス」と述べていることに関連して、それは当時の文部省主流が中学校の高水準化を推進しようする動きに対する「掣肘」と理解されている(1140ページ)。ここでもやはり「普通教育」は「学制」の精神、すなわち「人たるものは学はすんはあるへからす」という見地からとらえられている。しかし、ここに見られる文部省の「普通教育十二年」論は上は「国民ノ品位」の確保、下は3年制の小学校初等科義務化を意図した民衆「教化」という二極化構想から導かれるものであって、「学制」の精神が「文部省になお根強く残っていたこと」の表れと見ることはできない。

 なお、本書第3~6巻の「学校教育」は「初等教育」と「中等教育」から構成されている。それぞれの概念が必ずしも学術用語とは言えないこと、戦後教育法制に準拠するのであれば「普通教育」と括ったうえで「初等普通教育」・「中等普通教育」・「高等普通教育および専門教育」とすることも考えられたのではないだろうか。

(9)中内敏夫『教材と教具の理論』、有斐閣、1978年。

①1870(明治3)年の『中小学規則』に用いられた「普通学」の語源はリベラル・アーツやフマニタスに求められるが「そのまま普通教育や普通学になったわけではない。後者になるためには、前者はいったん制度的人間(広義の官僚層)の教養として、公教育のフィルターにかけられねばならなかった」と述べている。

 当時「普通学」という言葉にはいくつかの用法があったが、開成学校での「専門学」の対概念として「普通学」という言葉が用いられていた。その「普通学」の「基礎」が「中小学規則」に求められていたのである。しかし、大学と小学校・中学校との関係を明確にする過程のなかで小学校・中学校を全体として「普通教育」機関として呼称するようになり、「普通学」と「普通教育」とはしばらくは混在しつつも次第に区別されていくのである。

 この過程で「普通教育」にせよ「普通学」にせよ「制度的人間(広義の官僚層)の教養として、公教育のフィルター」にかけられることになるというのはそれ自体としては首肯できるとしても、そのことを論ずる以前に、明治前期にあっては政府・文部省が中学校までの教育を「普通教育」という用語で把握したことの意味を明確にすることが重要ではないだろうか。当時、一般的にも普通教育をそのように理解したうえで公教育というフィルターにかけることを拒否し、文部省とは異なった「普通教育」論を展開する人々もいたのである。なお、「公教育」という言葉についても少なくとも明治前期には使われていなかったことを指摘しておきたい。

②「1886(明治19)年の小学校令は教育法制上はじめて父母の義務を明記したが、そのとき義務教育の内容とされたものは『普通教育』であった」と述べているが、若干注意を要する。前年公布されたいわゆる第3次教育令では中学校まで含めて「普通教育」とし、小学校の教育目的に限って「普通ノ教育」という言葉を用いていた。小学校令では小学校に限って「普通教育」という言葉を用いている(「普通ノ教育」という用語は用いられなくなった)。中学校までをふくめて普通教育とするこれまでの文部省の基本政策はここで法令上は切断されているのである。しかし、そのことによって普通教育という言葉が小学校のみに対応する概念であると規定するのは無理である。

 また、確かに「義務」という言葉は小学校令がはじめてであるが、それは教育令における「責任」を「義務」と強化したものである。しかしそれ以前において「責任教育」といわないように小学校令をもって直ちに「義務教育」という言葉を用いるのは性急であり、しかも普通教育を「義務教育」の内容を示す概念であるととらえるのも無理である。「普通ノ教育」と「普通教育」との区別はなくなり、「普通教育」に一本化されたとはいえ、それ自体小学校の教育目的を表す用語であり、その「普通教育」を受けさせることが父母・後見人の「義務」とされたのである。そのことは日本国憲法第26条第2項の「普通教育」と「義務教育」との関係についても指摘されるべきである。「義務教育」を先行させるのではなく、「普通教育」が義務制であり、かつ無償制であるという関係を明確にするべきである。中内氏は「義務教育=普通教育」という記述を多用しているが、そのことによって両者の関係がむしろ不明確になるのではないだろうか。

③「普通教育論を説いた初期の文献である庵地保の『民間教育論』(1881)は、『尋常普通ノ教育』の内容として『読ミ書キ十呂盤地理歴史修身等ノ初歩』『諸学術ノ初歩』をあげて、『普通学』の名残りをとどめている」と述べている。そのこと自体は首肯できるとしても本論文で述べているように庵地保の普通教育論の基本的性格はむしろ「普通学」の文脈に位置づくのではなく、子どもが可能性として有している人間的諸能力の成長発達過程に見られる自然法則に即した教育としての「普通教育」を主張したのである。

 なお、中内氏が庵地保を先駆的に紹介したことの意義は大きいといわねばならない。

(10)大林正昭「島地黙雷の普通教育観」、1983年、広島大学教育学部紀要、第1部31号、所収。

 冒頭の「明治初期における普通教育観の性格」において、「常教」「普通ノ学科」などを例示しながら「学制初期の時期に普通教育という用語がほぼ定着しつつ」あったこと、それは一般的には「欠ク可カラサル」「必ズ学ブベキ」教育、専門的・職業的でない教育、と理解されていたこと、その場合「実学」が重視されたが実証性・合理性が軽視され基本的には「人間の普通教育」ではなく「国民の普通教育」としての性格が強かったこと、などが述べられている。

 そのような中で明治7・8年頃ころ「人間のもって生まれた価値を実現する」という観点から「普通教育」を論じた島地黙雷に注目し、島地の論稿「僧侶ハ速ニ普通教育ニ従事スヘシ」を分析しながら彼の「普通教育」観を展開している。明治初期「普通教育」論における島地黙雷の存在を明らかにした点で重要な論稿といえるが、同時期における「普通学」概念の意味の多義性、「普通学」と「普通教育」概念との関係については言及されていないこと、また「人民は教育を受ける権利をもち、一方国(政府)はその権利を保障する義務を負う」という島地の認識と「国民の意識・感情の統合をはかるものとしての普通教育」という認識とがどのように関連しているのかについての言及はされていない。

 なお、大林論文は島地の「僧侶ハ速ニ普通教育ニ従事スヘシ」の執筆時期をおおよそ明治12年前後と想定しているがこれは誤認である。島地の文章は1888(明治21)年8月に連載された『教育報知』論説「仏氏ニ質ス」にたいして書かれたものである。この誤認は『島地黙雷全集』(本願寺出版部刊、1978年)での改題や年譜が一貫して「僧侶ハ速ニ普通教育ニ従事スヘシ」を明治12年執筆と誤記していることに由来したものと思われる。

 以上の先行研究を通して以下のことを指摘することができる。

(イ)人間性もしくは人間の育成という視点からこの時期における「普通教育」に注目しようとする研究も見られるが、その蓄積はきわめて浅い。

(ロ)研究者の造語であろうが「国民の普通教育」と「人間の普通教育」との対比においてこの時期の普通教育論を特徴づけようとする研究も見られる。

(ハ)現実に「普通教育」という政策用語・法令用語がもちいられ、また「普通教育」を主題とする種々の論説等が展開されていたにもかかわらず、それらを直接対象とした具体的な分析・検討がきわめて希薄である。

(ニ)「義務教育」や「国民教育」という言葉が一般的な理解のもとにこの時期の教育史に適用され、概念上の混乱が見られる。

(ホ)「国民の品位」確保という観点にたった「中人以上の子弟」のための特権的普通教育と民衆教化のための強迫就学としての「普通教育」、という二極構造をなす当時の普通教育政策制度の全体構造が把握されていない。 問題はこの全体構造をいかなる見地から解明するかである。

(へ)明治前期の最終段階において全体として「普通教育」政策から「国民教育」への転換が見られるがそのプロセスを解明した研究は見あたらない。

 

(1)窪島務『現代学校と人格』、1996年、地歴社。

(2)列挙すれば以下の通りである。

 ①日本国憲法は「主権が国民に存する」という政治原理を「人類普遍の原理」とし て位置づけたが、この「憲法の指導精神」のもとに第26条全体、したがって憲法 上の普通教育概念が規定されている。人類あるいは人間としての普遍的な諸能力が 十分に育成され開花することが、民主主義を真に実現する保障である、その意味に おいて民主主義と普通教育とは本質的な相互関係があるのである。この点で「日本 人としての自覚に立って国際社会に貢献し得る国民の育成を図ること」を目標とす る「個性重視の原則」は日本国憲法が明記している「自国のことのみに専念して他 国を無視してはならない」とする理念と矛盾することにならないか。

 ②日本国憲法は第26条(教育条項)において、すべての国民は教育(普通教育を 含む)を受ける権利を有すると規定し、国民に教育を受ける義務のみを求めていた 戦前のあり方を根本において転換した。このことは教育のあり方にたいする国民の 意思を最大限に尊重することを前提とするものであるが、「社会の変化」という特 定の「変化」観を前提にそれへの「主体的な対応」を普通教育を含む教育全般にも とめ、かつ「国民の意思」を「家庭、学校、社会の連携」という政策的枠組のなか に 矮 小 化 す る 「 生 涯 学 習 体 系 へ の 移 行 」 論 は 日 本 国 憲 法 の 理 念 ・ 原 則 と 矛 盾 す るのではないか。

 ③日本国憲法第26条は第2項において「すべて国民は、法律の定めるところによ り、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」と規定している。この 規定は、⒜すべての子どもは普通教育を受ける権利を有していること、⒝国民はす べてその子どもの権利を保障する第一義的義務主体であること、⒞国はこの国民の 義務を履行し得る条件整備を図る責任を負っていること、などを含意している。こ のことは修業義務年限を特定する以前のレベルでの普通教育についての国民と子ど もとの関係を規定したものと解釈されよう。この点で、普通教育について積極的な 概念規定をすることなく、子どもにたいする国民の義務を「義務教育」(しかも戦 前的な義務教育観)と直結させて、義務制ではないがゆえの高等学校にたいする政 策的統制や義務制であるがゆえの政策的統制を拡大している現今の教育政策は第2 6条第2項の規定と矛盾しないのかどうか。

 ④教育基本法は前文において「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化を創造をめざ す教育を普及徹底」するとし、個性的な文化にたいする普遍的な文化の第一義性を 明示している。その場合の普遍性は憲法理念である人類性もしくは人間性とむすび つけて理解されるべきと思われるが、「個性重視の原則」は普遍性にたいして個性 性のみを重視し、それを国家主義的民族主義的な方向性とむすびつけようとしてい る。

  また、臨時教育審議会は普遍性についても言及しているがその場合でも「不易」 という「国体」観念を想起する言葉を用いていることに見られるように人間性とは 異質な価値とむすびつけている。

 ⑤教育基本法は前文および第1条において「人間の育成」と「国民の育成」という 文言を用いている。教育基本法制定に関与した文部省側の文献によれば、「過去に おいては国民ということが人間より先にいわれたが、よき国民たるには、まずよき 人間でなければならず、よき人間はそのままよき人間となるとの信念」の表明であ ると説明している。ここには教育もしくは普通教育の目的に関する人間と国民との 関係についての歴史的反省と決意があらわれていると言えよう。この点で「人間の 育 成 」 に は 無 関 心 で 「 日 本 人 の 自 覚 」 に 立 っ た 「 国 民 の 育 成 」 の み を 強 調 す る 「個性重視の原則」は教育基本法の基本理念と矛盾しないのかどうか。

 ⑥教育基本法第4条は憲法第26条第2項をうけて、国民が子どもに普通教育を受 けさせる義務を負う期間は9年であると特定した。この特定は一般的には戦後期に おける財政事情によると説明されているが、それが単なる言い逃れであったことが その後の経過が証明している。とはいえ、憲法上、国民によって保護されるべき子 どもは18歳までとされているから、教育基本法における9年という限定自体矛盾 を内包している。

  臨時教育審議会答申やその後の中央教育審議会答申にあっても、子どもにたいし て負っている国民の義務としての普通教育という問題についてはまったく言及して いないだけではなく、普通教育を義務教育と同一視したうえで、中学校における選 択制のいっそうの拡大などを推進している。

 ⑦教育基本法第6条は「学校」について規定している。ここでの「学校」は普通教 育機関のみを指しているわけではないが、いづれにしても憲法や教育基本法ならび に学校教育法によって性格づけられている。「生涯学習体系への移行」ということ で普通教育に対応する「学校」のあり方が「社会の変化」に安易に従属したり、学 校と家庭・地域との「連携」の名のもとに教育行政と一般行政との無原則的なシャ ッフル化を図ることは、とりわけ普通教育の憲法・教育基本法的性格をゆがめるこ とにならないか。

 ⑧ 学 校 教 育 法 は 小 学 校 、 中 学 校 、 高 等 学 校 の 教 育 目 的 を そ れ ぞ れ 「 初 等 普 通 教 育」、「中等普通教育」、「高等普通教育および専門教育」と規定し、それぞれに ついてさらに具体的な教育目標を法定している。臨時教育審議会答申以降の中央教 育審議会は「個性重視の原則」などの改革理念のもとに学科の新設、教科の改廃、 新設統合等を進めている。第15期中央教育審議会第1次答申では「厳選した教育 内容、すなわち、基礎・基本については、一人一人が確実に身に付けるようにしな ければならない。豊かで多様な個性は、このような基礎・基本の学習を通じて一層 豊かに開花するものである」として「個性重視の原則」の立場から「共通に履修さ せる部分」の大幅な縮減を行おうとしているが、これらが普通教育に関して法定さ れている教育目的や教育目標とどのように関係するのか真剣な検討が求められる。

 ⑨1947(昭和22)年に刊行された「学習指導要領一般編(試案)」は「教育 の一般目標」および「児童の生活」に基づいて「教科過程」「学習指導法の一般」 等を記述したものである。それ以来数度の改訂を通して学校教育の内実を規定して きたが、「学習指導要領」が全体として戦後教育法制に規定された普通教育とどの ような関係があるのかについても全面的な検討が求められている。

 ⑩今日、高等学校に「総合学科」が設置されている。これは「高等普通教育及び専 門教育を施す」とする学校教育法上の高等学校の目的規定にたいしてどのように位 置づくものなのだろうか。また、今日、高校再編論のなかで「共通教育」という概 念がしばしば用いられ て い る が 、それと  普 通 教 育とはどのような関係にあるのだろ うか。

  以上、戦後基本法制から導かれる教育理念・教育目的と臨時教育審議会答申が教 育 改 革 の 基 本 原 則 と す る 「 個 性 重 視 の 原 則 」 あ る い は 「 生 涯 学 習  体 系 へ の 移行」  と が 「 普 通 教 育 」 を め ぐ っ て 惹 起 さ せ る で あ ろ う 緊 張 関 係 を 指 摘 し て き た が、実はそこに見られる少なからぬ論点は決して今日的な特有なものではなく、す でにわが国の戦前・戦後をつらぬく基本的な論点であることを指摘しておきたい。(3)これらの問題について筆者には以下の論文がある。

 ・「戦後教育法等における『普通教育』概念をめぐる若干の諸問題」、北海道大学  教育学部・教育史比較教育研究室紀要「教育史・比較教育論考」、第15号、1  991年

 ・「普通教育論研究ノート」、『日本の科学者』第29巻第10号、1994年

 ・「辞典等における『普通教育』概念の検討」、岩手大学教育学部研究年報、第5  4巻第1号、1994年

 ・「日本国憲法への『普通教育』概念の導入とその意義」、岩手大学教育学部研究  年報、第56巻第1号、1996年