第1章  前史ー「学制」公布までー

 第1節 前島密の「普通教育」論

 現在のところ、わが国において「普通教育」という言葉がそれなりの位置づけを与えられたもっとも初期の文献としては前島密の「漢字御廃止之議」(1) があげられる。これは開成所反訳方として出仕し始めた32歳の前島密(来輔)が徳川慶喜将軍就任直後の1867(慶応3)年1月に上書したものである。

 前島はその後も生涯を通じて漢字廃止、国字改良を主張し続けているが、その前提には「漢字御廃止之議」の冒頭にもあるように、「国家の大本は国民の教育にしてその教育は士民を論せす国民に普からしめ」なければならないという認識があった。1869(明治2)年には「国文教育之儀ニ付建議」(2)を集議院に提出し、明治維新を「偉業」と讃えつつ、「此時機ニ乗シテ国民一般ノ智度開進ノ事即チ教育制度改革ノ事」を審議し断行することが「至極ノ要」であると強調している。

 さて、「漢字御廃止之議」では「国民の教育」という言葉とともに「普通教育」「普通教育の法」「普通の教育」「普通一般の教育」「一般普通の教育」という言葉があたかもキーワードのように用いられている。

 「学事を簡にして普通教育を施す」のは、「普通教育」が「国人の知識を開導し精神を発達し道理芸術百般に於ける初歩の門にして国家富強を為すの礎地」となるからにほかならない。「少年の時間こそ事物の道理を講明するの最好時節」であるにもかかわらず、この時期を無益な古学・漢字のために少年の「精神知識を鈍挫せしむる事返すがえすも悲痛の至り」である。

 また、愛国心にとっても普通教育を改良する必要がある。我が国にあっては「普通一般の教育」は上下二等に別れている、「下等なるものは只僅に姓名の記し方消息の書き方及其職業に就いて要用なる字面を諳するのみ」で、上等についても四書五経の素読をはじめ支那学が中心で、「彼を尊み己を卑むる病」に感染しており、上下いづれにおいても愛国心が無視されている。

 「普通一般の教育」において「肝要な事」は、「本邦の事物を先にし、他邦の事物を容れて自国の事物の如く自国の言語を以て教授し(即ち学問の独立)少年輩の心脳をして愛我尊自の礎を固めしむること」であり、西洋の学問の急速な導入に直面する今日、学問の世界における「主客順序を転倒」する風習を早く改正する必要がある、また、「徳育」「智育」の書を上下両区に分ち「彼我主客等皆其叙次を定て一般普通の教育」に適用するようにすべきである、というのである。

 「漢字御廃止之議」の普通教育論史上の意義は、第1に「普通教育」が「国家の大本の基礎」として緊密な関係において認識されていることである。この緊密さは後発資本主義国家に見られる特質でもあった。

 第2に、「普通教育」概念が単なる知識の詰め込みではなく、「宇宙間事物の道理」の獲得にかかわるものであり、したがって、「普通教育」は、精神発達上少年期の重要な教育課題であると認識していたことである。前島にとって「普通教育」は今日で言うところの「初等教育」よりも青年教育の部分に近い。その後の普通教育概念が総じて初等教育や小学校教育に対応するものとして用いられていることからして、留意されるべきであろう。

 第3に、「普通教育」が「愛我尊自」「自尊独立」「学問の独立」さらには「愛国心」などと密接不可分な関係においてとらえられていることである。前島は「楠木正成は諸葛孔明に似たり」という言い方を「主客順序を転倒するもの」としている。その「愛国心」について前島が特殊と普遍との関係をどのように認識していたかは彼の「普通教育」論の性格を知るうえでもさらに究明されるべきであろう。

 最後に、「普通教育」が上下二等に分かれている現実を当然視していることについても指摘しておきたい。その後の「学制」理念とそれに対する改革論議はまさにこの点をめぐる問題だったのである。

 前島の「普通教育」論は、次に見る木戸孝允の文献に比して好対照をなしており、わが国における普通教育論史において重要なかつ先駆的意義を有するものといえる。

 

 第2節 木戸孝允「普通教育の振興を急務とすべき建言書案」をめぐって

(1)最初にこの文書のタイトルについて検討しておきたい。これまで一般に木戸孝允が、1869(明治2)年1月14日、朝廷に「普通教育の振興を急務とすべき建言書案」を上書したとされてきた。木戸はこの時点で「普通教育」という言葉を意識的に用いていたのであろうか。

 (イ)『松菊木戸公傳』(1927年)には「12月2日(旧暦ー引用者)、 公、  上 書 し て 教 育 振 興 の 急 務 な る こ と を 建 白 す 」 と 記 さ れ て い る 。 ( 3 ) そ こ で は  「普通教育」という言葉は見当たらない。実際に上書したかどうかは確認できな  い。

 (ロ)木戸公傳記編纂所代表者妻木忠太氏は論文「木戸松菊公の教育普及の建言に  就て」(1928年3月)において、「建言した」とはしているが、その文書の  タイトルには触れていない。(4)

 (ハ)『木戸孝允文書・第八』では、この文書に「普通教育の振興を急務とすべき  建言書案」というタイトルが付されるが、その備考欄には「此は木戸孝允が全国  に学校を興し大に教育を奨めんことを冀ひて其意見を建言せるものなり、即ち普  通 教 育 振 興 の 急 務 を 建 言 せ る 草 案 な り 」 と い う 編 者 注 が 記 さ れ て い る 。 編 者 が  「教育」を「即ち普通教育」と言い換えている。また、「草案」であることが記  されている。(5)

 (ニ)宮内庁書陵部に所蔵されている「木戸孝允家文書」(国立国会図書館憲政資  料 室 所 蔵 マ イ ク ロ フ ィ ル ム ) に よ れ ば 、 こ の 文 書 の タ イ ト ル は 「 目 録 」 の 部 に  「普通教育ノ振興ニ関スル建言」とあり、「を急務とすべき」と「書案」が落ち  ている。(6)

   木戸孝允家文書が宮内庁に移管されたのは戦後とされており、したがって宮内  庁が『木戸孝允文書第八』のタイトルとは別に独自のタイトルをつけることはあ  りうる。

   また、同マイクロフィルム・リール5に収められている文書本文(手書き)に  はタイトルが付されていない。

 (ホ)『日本近代教育百年史』は、「この表題は便宜上編者が付したものと思われ  る」(7)としている。

 以上のことから言えることは、①木戸は1869(明治2)年1月14日付で教育の振興に関して建言するべく草案を書いた、②その際、木戸が「普通教育」という言葉を意識的に用いたかどうかは不明である。また、この草案が実際に上書されたかどうか確かな証拠はないが、仮に上書されたとしてもそのタイトルに「普通教育」という言葉が用いられた可能性は少ない、③約半世紀後に関係者によって二種類のタイトルが付された、ということであろう。現段階ではこれ以上の解明は困難と思われる。

(2)この「建言書案」は東北を平定した新政府・朝政の課題は「武政の専圧」を解き、内政においては「人民平等の政」を行い、外交は「世界富強の各国に対峙する」ことであるが、「一般の人民無識貧弱」のまま、どんなに一部の「英豪」が努力しても、「全国の富強」を実現することはできず、結局「専圧」に陥らざるをえない。もともと「国の富強は人民の富強」にほかならないのであるから、「文明各国の規則」に学びながら、「学校を振興」、教育を普及させることは「今日の一大急務」である、とはいえ、そのためには「多少の歳月」は必要であり、拙速に「文明各国の形様」のみを「模擬」するだけではかえって「国家人民の不幸を醸成」することになる、というものであった。

 「国の富強は人民の富強」という木戸の認識と「国家の大本は国民の教育」という前島の認識は同じものだろうか。

 木戸にとって「国の富強」は「世界富強の各国に対峙する」ことに対応するものであった。それは政治的軍事的国家統一の確立であったのみならず、イデオロギー的・思想的国家統一でもなければならなかった。木戸にとって「人民平等」とは皇国のもとでの平等であり、したがってイデオロギー統制は民衆に対してもっとも強く求められた。それを可能にするのが学校であり、教育であった。「国の富強」が経済力や政治力よりも、教育力と直結されていた点では前島の認識と同じであるが、木戸のほうがより包括的であったと見ることができよう。

 なお、前島は「国民」を上下二等に区別して見ていたのに対し、木戸は「人民」の「平等」を問題にした。「平等」という認識は「人民」内部が身分的階級的に分化している(具体的にはのちの「学制序文」に見られるように「華士族農工商」)という現実を前提とするものであり、天皇制のもとでの被統治者としての「平等」にほかならなかった。

 また、前島は「普通教育」に「宇宙間事物の道理」の獲得を期待し、したがってどちらかといえば青少年の時期の教育を念頭に置いていたのにたいし、木戸の場合はもっぱら人民全体を統治の対象ととらえ、そこから初等教育重視が導かれていた。

 

 第3節  「普通学」概念とその性格

 新政府は当初から教育を重視していたが、廃藩置県によって全国支配権を確立するまではその方針をめぐって深刻な模索の時期があった。1869(明治2)年3月17日に布達された「府県施政順序」の第10項目「小学校ヲ設ル事」は新政権最初の教育政策とされている。(8)

 そ れ は 「 専 ラ 書 学 素 読 算 術 ヲ 習 ハ シ メ 」 る こ と を 小 学 校 の 主 目 的 に 掲 げ 、 さ ら に「国体時勢」をわきまえ「忠孝ノ道」を教えること、また「最才気衆ニ秀テ、学業進達ノ者ハ其志ス所ヲ遂ケシムヘシ」としている。これは、大学を中心として小学を位置づけていた当時の教学体系とは別に、大学には結びつかない民衆のための初等教育制度を新政府主導のもとに創設することを意図したものであった。これを受けて京都府をはじめ、各府県において小学校・中学校が設立された。また、これらに対応する新たな教育行政機構も創出されていった。

 一方、京都漢学所御用掛加藤有隣は10月頃「大小学校建議」(9)  を書き、「京師ニハ大学アッテ小学ナキ」と訴えたことに見られるように、従来の大学も新たな情勢のもとでさらに志向された。

    1869(明治2)年12月、大学校は「急務件々」を政府に提出し、大学本校の事実上の廃校を表明するとともに、大学-中学-小学にかんする規則を提案している。(10)

 この場合、小学の目的は全体としては「普通学ヲ修メ兼テ専門四科ノ大意ヲ知ル」とされ、さらに初級と上級に区別され、初級の教科目は句読、国史、万国史、地理、習字、算術とされ、上級は初級書目講義と4科(政科、理科、医科、史科)の大意とされていた。

 これを翌年3月の「中小学規則」における小学の内容と比べると、前者は「府県施政順序」を基本的には継承しているといえよう。このことは当時における「普通学」という言葉が高等教育的性格のみを有するものではなく、初等教育的性格をも付与されていたことを意味する。

 後者の教科構成は4科大意が5科大意、すなわち教科、法科、理科、医科、文科と変更されるとともに、初級・上級の区別が削除された。このことは「専門学」を目的とする中学規則が新たに設定されことにともない、全体として小学校は「普通学」にウエイトが置かれたことを意味しているものと思われる。

 以上の経過を通じて、徐々に「学制」理念の輪郭が形成されていく。先行研究にも依りながら論旨にそくして整理しておきたい。

 第1に、「小学校ヲ設ル事」に示されていたように、小学校の教育内容は「書学素読算術」とともに、「国体時勢」「忠孝ノ道」が位置づけられていたことである。当然のことながら新政権が期待する人間像と教育との関係が自覚されていた。このことを抽象的かつ客観的に言えば、新政権は人民およびその子弟を少なくとも知的・政治的・道徳的存在として認識していたわけであり、したがって、知的・政治的・道徳的能力等の形成、すなわち普通教育のあり方をめぐって新政権は特定の立場・方向を提示したといえるのである。

 第2に、「普通学」という言葉が教育行政上の用語として「小学」の目的にたいして用いられたことである。

 当時、「普通学」という言葉は、より一般的な用法としては「セケンツウレイノガクモン」として理解されていたが、他に開成学校においては専門学に対して対概念として、さらに西周は別の意味でも用いている。(11)  いづれにしても、小学校の目的についても適用されたことは普通教育論史上重要と思われる。

 第3に、「普通学」を教育目的とする小学校が従来の大学体制と異質な学校体系として創出されたことである。少なくとも「普通学」という言葉の用法のひとつは大学あるいは高等教育ときり離され、また高等教育に対する対概念という関係においてでもなく自立し始めたのである。

 第4は、小学校を初級・上級に分ける構想が見られることである。これはすでに前島にも発想されていたように一面では当時の藩校ー寺小屋という二重構造を反映したものであったが、同時に能力あるものをさらに進学させるという意味において両者の接続を図る新たな方向でもあった。

 最後に、大学体制とは別個な教育行政制度が構想されたことである。この教育行政機構の二元化もその後文部省に統合されつつ、督学局の位置づけをめぐって新たな問題を提起することになる。

 廃藩置県を断行し、全国一元的支配構造の確立を急ぐ新政府にとって全国的な学制改革は焦眉の課題であった。「大学」はすでに機能マヒに陥り、学制改革は廃藩置県後、大学に代わる強力な行政組織の創出によって推進されることになるのである。

 

 第4節 小幡甚三郎の「教育論」

 1869(明治2)年2月、小幡甚三郎は『西洋学校軌範』において「教育論」を紹介している(12) 。そこでは「普通教育」という言葉はもちいていないものの、広義の教育とは区別されているという意味では内容的には普通教育について述べているといえよう。すなわち、

①「教育」とは、「各人固有スル所ノ良知良能ヲ発達シ天理ト人道ニ従テ其行事ヲ整齋セシムル」ことである、

②「賞罰ヲ蒙」ったり、「各々其交遊スル所ノ異ナルニ随テ夫々ノ習風ヲ生スル」ものはすべて「教育」の結果である、

③人間は、生涯、教育の中にあるとも言えるが、「一般ニ教育ト云フ所ノモノハ父兄ノ子弟ニ於ル如ク教師ノ生徒ニ於ル如ク身心ノ発達ヲ導クノ訓誨ヲ云フナリ」、

④また「祖先ヨリシテ継承セル所ノ事業ヲ益々整大ニシテ以テ次序ニ子孫ニ遣リ更ニ益々之ヲ整大ニセシムルノ手段」でもある、すなわち「来世ノ人ヲシテ整齋開花ノ域ニ至ラシム」ものである、

⑤「世界中ノ人民其風ヲ異ニシ其土ヲ同フセズ故ニ生計ノ道モ随テ亦異ナレハ教育ノ及ブコトモ皆一様ナラシムル能ハズ」、

⑥従来教授はすべての分野において「宗徒」に託されてきたが今日では「諸学科」とも「教授ノ職」によって行われている、とはいえ、「通常ノ教授」については今なお「宗徒ニ関属スルノ多キハ何レノ国ニ在リテモ人間交際ノ道ニ於テ其尊崇セラルルコト宗門ニ如クモノハ無キヲ以テナリ」、以上である。

 第1に、人間には本来「良知良能」が備わっており、それらを「発達」させ、「天理ト人道」に則して整えることが「教育」であるとする教育観が述べられている。

 第2に、「教育」を広義の教育、あるいは生涯を通じる教育とは区別して、父兄ー子弟、もしくは教師ー生徒という特定の社会的関係に限定し、前者の後者にたいする「身心ノ発達ヲ導クノ訓誨」として教育をとらえている。また、そのような特定の社会的関係の中で、人間としてのまとまり、あるいは「来世ノ人ヲシテ整齋開花」が可能になるとされている。

 第3に、社会的したがって人格的環境の個別性ないしは特殊具体性に着目しつつ、学問の専門的分化の必然性、したがって学問的分業の必然性を洞察しながら、「通常ノ教授」における普遍性・共通性・一般性への理解が見られる。その場合、「通常ノ教授」については「尊崇」性、すなわち人間性、道徳性が不可欠であるとしている。

 小幡が紹介した「教育論」はさまざまな限定を伴いつつも客観的には一定の普通教育論を展開していると言えるのではないだろうか。このような教育論、普通教育論はそれ自体としては明治初期において欧米の教育書の翻訳紹介に促されつつしばしば展開されるのである。

 

第5節 福沢諭吉の「普通教育」観

 福沢諭吉は「普通教育」の内容等について積極的に論じたわけではないが、わが国における「普通教育」概念の導入・定着過程において重要な役割を果したことは知られているとおりである。ここでは明治初期に限定して普通教育に関する福沢の言説を述べておきたい。

 ① 1 8 6 9 ( 明 治 2 ) 年 2 月 2 日 、 松 山 棟 庵 宛 書 簡 に お い て 「 コ ン モ ン 、 エ ジ ュケーション」という語を用いている。(13) そこでは「学校教育」をどのように進めていくかについて、洋書一辺倒あるいは「漢学者流の悪風」を批判し、現実生活に根ざすことが重要であり、そのうえで「洋書を読むには先ず文を以て人を化す」こと、そのためには「事を易くし及ぶ所を広く」し、「天地万物世界諸国の事を自然に知る」ようにすることを説くなかで、「随てリードル其の外モラル、フェロソフェーの訳書も開版いたし、只管コンモン、エジュケーションに心を用い、次第に人を導く」べきであると述べている。しかもそれは「一身独立して一家独立、一家独立一国独立天下独立と。其の一身を独立せしむるは他なし、先ず智識を開くなり」という見地から述べられているのである。

 この「コンモン、エジュケーション」を、次に述べるように、福沢が「学教」に対応する「常教」と訳していたのか、または「普通学」と訳していたのか、あるいは「普通教育」と訳していたのかについては即断できない。ここで言う「学校教育」も広い意味で用いられていたであろうし、少なくとも教育令制定前後から公用語化する「普通教育」と直接結びつけることができるかどうかは不明である。

 ②1870(明治3)年に出版された『西洋事情二編巻之一』の「収税論」において福沢は「一国の財を費す可き公務」として6項目を挙げ、その第2番目を「人民を教育するの為め財を費す事」としている。その中で福沢は「人民の教育に二様の別あり。一を常教と云ひ、一を学教と云ふ」と述べ、学問であるところの「学教」と区別して主として「常教」について述べている。

 ここで「常教」とは「人の此世に生れ、通常の産を営求するが為め、欠く可らざる所の聞見知識を導くの教なり。語学、書画、数学、地理、歴史、物産学、窮理学、経済学、心学等の一班を云ふ。此等は皆是平人の常に心得あるべき学科にて、必ずしも学者先生にして始めて之を知るの教には非ざるなり」と述べるとともに「此教を設けんには、公(おほやけ)に一国の税を収め其費用に充つべし。蓋し其故は、国民各々学問の一班を知れば、相互に其裨益を被る可ければなり。殊に衆庶会議の政治に在ては、人を教育して其徳沢を被ること最も大なり」と述べている。また、公費支出にあたっては国庫支弁と地方財政支出の方法があるが、人民が学校のことに関心を抱き、教師の人選を誤らないためにも後者の方が「上策」であるとしている。この「常教」をただちに「普通教育」とむすびつけることはできないが、いづれにせよ教育権の所在、教育内容、教育財政、教員養成、さらには教育による受益者は国民全体である等に言及したものとして注目される。

 

(1)山本正秀『近代文体形成史料集成・発生篇』、桜楓社、1978年、所収。なお、 井ノ口有一『明治以後の漢字政策』、日本学術振興会、1982年、にも収録されてい る。

(2)早稲田大学図書館所蔵。なお、『教育の体系』、日本近代思想体系6、岩波書 店、1990年、にも収録されている。

(3)木戸公傳記編纂所『松菊木戸公傳』上、明治書院、1927年、木戸孝允公年譜  (其二)、28ページ。なお、『教育の体系』、前掲書、にも収録されている。

(4)妻木忠太「木戸松菊公の教育普及の建言に就て」、歴史教育研究会『歴史教育 』、第3巻第1号、1928年、30ページ。

(5)日本史籍協会編『木戸孝允文書・第八』、編纂者妻木忠太、1931年、79 ページ。

(6)宮内庁書陵部所蔵「木戸孝允家文書」、国立国会図書館憲政資料室所蔵マイク ロフィルム。

(7)国立教育研究所編『日本近代教育百年史3』、1974年、379ページ。

(8)倉澤剛『小学校の歴史1.』、ジャパンライブラリービューロー、1963年、 14ページ。

(9)『明治文化全集』第10巻教育篇、日本評論社、1929年、所収。

(10)倉澤剛『学制の研究』、講談社、1973年、41ページ。

(11)惣郷正明・飛田良文『明治のことば辞典』、東京堂、503ページ、進藤咲 子『明治時代語の研究』、明治書院、1981年、2ページ、西周「百学連環」、 筑摩書房 『明治文学全集三・明治啓蒙思想集』、1967年、61ページ、など 参照。

(12)小幡甚三郎『西洋学校軌範』、『明治文化全集』第10巻教育篇、前出、所 収。

(13)岩波書店『福沢諭吉全集』、第1巻、1958年、67ページ。

(14)岩波書店『福沢諭吉全集』、第1巻、1958年、515~517ページ。