第10章 第3次教育令とその普通教育史上の位置

 1885(明治18)年8月12日に改正された教育令(以下、第3次教育令という)は研究史上しばしば町村教育費節減を目的とするものとして把握され、普通教育政策史上の位置づけが十分明確にされてこなかった。もちろん第2次教育令改正は内務・大蔵両省の文部省にたいする町村教育費節減要求を直接の契機とするものであったが、そのことと第3次教育令の意図とは同義ではない。文部省は一方では内務・大蔵両省の要求を「経済」面において受けいれつつも、他方では「教育」面においてこれまでの教育政策、とりわけ普通教育政策実現の好機とするという「一挙両全」の方策を打ち出した。第3次教育令は森御用掛が主導する諸学校への転換準備という状況のもとで事実上実効を見るに至らなかったが、普通教育(政策)史という文脈のなかで見たとき、第3次教育令の制定はその後の普通教育政策上においても重要な方向を提示するものであった。

 

 第1節  第2次教育命令改正の契機と目的

 (1)「普通教育ノ改良拡張」政策

 教育令再改正の理由については、これまで通説的には地方教育費節減や不況のもとでの人民救済など教育外的理由に求められてきた。しかし、改正の理由と再改正の意図、別言すれば、改正の契機と目的とは区別されるべきであろう。

 例えば、井上久雄氏は「教育令再改正の直接的な由因が不況対策にあることはすでに明白だろう」( 1 )  と述べ、倉沢剛氏は「(教育令の再改正は)文部省が独自に企画したものではなく、土地に賦課する区町村費を地租の七分の一以内に制限し、農民の負担を軽減しようとする政府の政策に発し、そのため町村教育費の大幅削減を 要 求 さ れ た の で 、 や む な く 文 部 省 は こ れ に 応 じ て 小 学 校 の 組 織 を 改 め た も の で あ る 」

 ( 2)と説明している。

 また、堀松武一氏は「深刻な経済不況と連年の災害による農民の窮乏を救うため」

( 3 ) としている。その他、岩波『近代日本総合年表』も教育令改正を「経済不況の深刻化に対処し、地方教育費の節減を目的とする」としている。これらは改正の契機を目的で説明している。しかしながら、第2次教育令改正の目的を経済不況の深刻化・農民救済等と直結するのはあまりに皮相的すぎる。

 1884(明治17)年3月には宮中に制度取調局が設置され国会開設に向けて憲法・皇室典範の検討が始まっていた。加波山・秩父・飯田事件がひきおこされ、また不景気と凶作による農民騒擾が頻発するなかで山県内務卿のもとで区町村会法の改正、地方経済改良策の推進など地方自治・地方財政制度の国家主義的再編が進められていた。一方、商業学校通則・中学校通則の制定、中学校教則大綱・小学校教則綱領の改正のほか東京・大阪に商業学校が設置されるなど全体として「中等教育」の分化、実業教育重視の方向がめざされていた。また、元田永孚は「国教論」を伊藤博文に提示するなど儒教主義強化の方策が意図されていた。このような状況のもとで、文部省にあっては儒教主義および実業教育の重視を基本とする教育の「改良拡張」が当面する重要な政策課題として認識されていた。

(2)教育令第10条改正構想

 内務・大蔵両卿主導の地方経済改良政策は教育行政を含む地方行政制度の国家主義化を促進するとともに、文部省にたいし教育令改正の契機を与えることになった。とはいえ、教育令改正にいたるまでには第10条但書改正論、第10条改正論という段階が介在していた。さらに留意すべきことは第10条改正問題と教育令改正問題とは本質的に区別されるべき性格を有していた。

 1885(明治18)年2月、山県内務卿は民力凋弊にともなう社会不安の増大に対処する見地から「地方経済改良ノ儀」を上申した。(4)  それは結局のところ「地方ノ公費中、前後緩急ヲ酌量シテ経費ノ節減ヲ図」るという選択肢に絞り、主として区町村費のうち教育費節減、具体的には学務委員の給料の削減を提起するものであった。さらに4月6日、内務・大蔵両卿は連署して「区町村費節減ノ議」を上申した。(5) 

  それは第1に区町村費を節減すること、第2に「従来無制限タリシ区町村費ノ土地割ニ制限ヲ立ツル」ことを提起したもので、しかもより立ち入った具体的な教育費節減を要求している。教育費は区町村費総額の3分の1を占めていること、地方税からの補助があること、積金・利子・授業料の収入があること、したがって「所謂差繰ノ方便ヲ行フモ易カルヘク」などとして学務委員給料等の削減をあらためて要求している。

 これを受けた大木文部卿は4日後の4月10日、「町村教育費ノ儀ニ付上申」を太政大臣に建議した。( 6 )  大木文部卿は「教育ノ事業ハ今専ラ改良拡張ヲ要スルノ際」であることを強調しつつも内務・大蔵両省からの要求を基本的には受け入れ「経済上ニモ宜キヲ得教育上ニモ順序ヲ失ハス一挙両全ノ処分ニ出ツルノ方案」を遠からず用意していると述べ、当面は「費用節約ニ属スル件」3件、すなわち①「学務委員ノ給料旅費職務取扱費ヲ廃スル事」、②「町村費ヲ以テ設置維持スル中学校及各種ノ学校等ノ費用ヲ節約スル事」、③「小学高等科ニ要スル費用ヲ節約スル事」、について具体化するとともに、さしあたり学務委員制度については教育令第10条但書改正の意向を表明した。この時点では学務委員制度の廃止は考えられていなかった。

 ところが、内務省公文録によれば4月28日、文部省は再上申を行い教育令第10条改正の意向を表明している。これを受けて5月5日、福岡参事院議長は2件の布告案を上申した。ひとつは「土地ニ課スル区町村費ハ地租七分ノ一ヲ超過スルヲ得ス」とするもので、他は「教育令第10条中『戸長ヲ以テ其員ニ加フヘシ』ヲ『戸長ヲ以テ兼勤セシムヘシ』ニ改正シ但書中『給料』ノ二字ヲ削除ス」というものであった。(7)  前者は但書が付加されただけで元老院審議(7月29日)に委ねられた(8)が、後者はさらに曲折を経ることになった。

 (3)「一挙両全ノ処分」

 文部省は前述の「町村教育費ノ儀ニ付上申」のなかで「経済上ニモ宜キヲ得教育上ニモ順序ヲ失ハス一挙両全ノ処分ニ出ツルノ方案」を遠からず用意していると述べていたが、教育令改正文部省原案が上申されたのは6月11日である。ここで「教育上ニモ順序ヲ失ハス」とは、文部卿が明確に述べているように教育令改正が「教育ノ改良拡張」策を実現するためであることを示唆したものといえるが、後に見るようにこの間文部省内部では「経済上」の制約を受けざるを得なかったとはいえかなり全般的な教育改革構想が明確になっていたと思われる。教育令改正はその構想を実現する法的措置というべきであろう。

 この時期の「教育ノ改良拡張」策が儒教主義の強化と実業教育の重視を基軸とした普通教育の拡張であることはすでに述べた。そのことは後に見るように文部省が教育令改正に抱き合わせて作成していた「小学校及小学教場教則綱領」(全8章65条)にも明確に表れているが、それ自体は元老院審議において審議の対象とされず、もっぱら「小学教場」の是非等がクローズアップされた。いづれにせよ教育令改正問題は当時の文部省の教育政策全体の中で把握されなければならない。

 教育令改正は文部省にとって懸案の政策課題を推進できる「一挙両全ノ処分」として意味づけられたのである。文部省案は第10条にとどまらず、ほぼ全体にわたる改正案となり、参事院での修正を経て元老院審議に付されることになった。福岡参事院議長の上申書には、イ)教育令改正は1880年制定後4年間実施の結果必要とされたものでやむを得ない、ロ)地方町村教育費節減の目的を達成する必要がある、ハ)学務委員を廃止して学事取締を置くとする文部省案は必要と認めない、などと記されていた。(9)

 先行研究においてはこの「一挙両全ノ処分」をめぐって若干の議論がある。井上氏は「はたして教育令の再改正は『一挙両全』の方策だったか」と疑問を投げかけ、結論として「教育令再改正の主眼は教育費節減の一点にあり、そのために教育の簡易化を企図するもの」だったのであり、したがって「一挙両全ノ処分」ではなかったとしている。( 10) その際、井上氏が挙げた論拠は、①元老院議官の多くは経費節減の一点で「已ムヲ得ス」支持した、②参事院では文部省原案にあった学事取締設置を棄却した、などであるが、これは「一挙両全ノ処分」のうち「経済上」の方策にのみ着目した議論である。井上氏が挙げた槙村議官の発言は「近来各地方ニ大抵小学校ヲ建設シタルモ文部省ノ調査ニ因テ現今小学校ヲ建設スルヲ得サル土地ノ幾許ナルヲ知得セシヤ」と言う認識を前提に、小学校教育はすでに普及しているのであるから「費用省減」の折、「教場」まで設置してあえてこれ以上普及することはない、と言う趣旨のものであった。依然として学齢児童の50%程度の就学率に留まっている現状に対する普通教育の正格主義の立場からの発言であったといえよう。

 倉澤氏も「一挙両全ノ処分」の箇所に自ら傍点を付しながら「教育令改正の意図と方策」について考察しているが、基本的には井上氏の議論と大差ない。小学教場については「教育費節減の要求に応ずるため、やむなく文部省は普通教育の水準をミニマムまで下げたのである。理由書は教育を一層普及させるためだと強弁しているが、なにか顧みて他をいっている感がある。なぜ、経費節減のためと正直にいわないのであろうか」、また学科目削除について「立案者の頭はこのときよほど混乱しているように思われる。ここから言いようのない奇妙な小学教則が導かれるのである」などと述べている。( 11 ) 倉沢氏の場合も「一挙両全ノ処分」のうち「教育上」の方策、すなわち教育令改正の基本的な目的自体にたいする過小評価が見られるのである。

 

 第2節 第3次教育令と普通教育の「改良拡張」

(1)新教育令制定の「第一主眼」

 第3次教育令案は町村教育費節減方針と言う外圧のもとであくまでも教育の普及を貫徹しようとする文部省としての主体的な政策選択の帰結であるとともに普通教育政策の新たな枠組みを用意するものであった。

 教育令改正案は7月14日、元老院第1読会に付された。ここでは「費用節約ニ属スル件」3件等についての議論は主要な論点ではなく、改正案に現れる限りでの普通教育「改良拡張」方策の是非が論じられた。

 参事院の立場から教育令改正にあたっての「内閣の本旨」の説明に立った水野遵参事院議官補は教育令改正は「教育普及ヲ以テ第一主眼ト為ス」とした上で、学齢児童の就学率50%弱という状況を打開し「学齢児童ヲ悉ク就学」させることがねらいであり、そのためには29、000校の小学校を増設し、1、100万円の経費負担増が必要であると述べている。

 審議において、村田保議官は「今回ノ改正ハ準則ヲ独逸ノ教育法ニ取ルニ似タリ顧フニ独逸ノ教育法ハ所謂強要主義ニ出」るものであると言う見地から、また箕作鱗祥議官は「教育ヲ普及セシメントスルハ実ニ此改正ノ眼目ナリ」と言う見地から、それぞれ改正案に積極的に賛成している。( 12 ) 

 このように普通教育とりわけ小学校教育の普及・拡張は教育令改正の基本的な目的であった。

 (2)「8年間ノ普通教育」は「人民ノ義務」である

 元老院審議で改正案の提案理由の説明にたった辻新次二局長は「教育ハ必ス国力ト並行セシムルヲ要ス」ると前置きして次のように述べている。(イ)「8年間ノ普通教育」は「人民ノ義務」である、(ロ)「普通教育ノ外」は人民の負担には属しない、(ハ)「普通教育」といえども「簡易ノ方法」を用いて、多費を要することなく「人民ニ便スヘキ」である、(ニ)そこで学校以外に「教場」を設置し、「正課」を履修しなくても「普通教育」を修了できるようにし、(ホ)「費用ノ節減」上、学務委員を廃止した、と。さらに「要スルニ今回ノ改正ハ教科ヲ簡易ニシテ経費ヲ軽減スル」に他ならない、また「教育ノ骨子」は「教員ノ資格」と「教則ノ適否」によることからこれを「文部卿地方長官ノ権内」に属せしめた、と述べ改正の理由と趣旨を適格に要約している。 

 文部省は「8年間ノ普通教育」は「人民ノ義務」であるという見解を明確に押し出している。これは普通教育自体の修業年限は12年とするいわゆる『文部省示諭』(1882年)以来の方針を踏襲しつつも、小学校(高等科をふくめ8年)の就学義務化の方向を明確にした。その経費負担については「人民ノ義務」としつつも、一方では町村教育費節減という状況の中で内務・大蔵両省から授業料徴収を迫られ、他方では貧民層拡大のもとでの就学率引き上げに直面していた。そこから構想されたのが小学教場である。その場合、確認しておくべきことは小学教場が町村教育費節減要求から直接的に導かれたのではなく、町村教育費節減という事態のもとでも小学校普及政策を貫くという文部省の明確な普通教育政策の緊急避難的な選択と見るべきであろう。

(3)「小学教場」の設置

 元老院審議で辻局長は町村費節減が求められている折、「人民ノ義務」である「普通教育」といえども「簡易ノ方法ヲ用ヒ多費ヲ要セシメスシテ人民ニ便スヘキ」であるとして「小学教場」設置の理由について述べた。また、水野遵参事院議官補も教育令改正は小学校教育の普及を主眼とするものとしつつも「学校費ニ対スル人民ノ苦情」、「民力ノ疲弊」も考慮せざるを得ず、従って「簡易ナル教則ト簡易ナル学科」の「教場」を創設することにした、と述べた。(13)

 「教場」設置に関連して元老院審議では、箕作麟祥議官は「普通教育ニハ素ヨリ高尚ナル課程ヲ要セス」むしろ「普通ノ読書算術ヲ教ヘ多数人ヲシテ容易ニ日用ノ学問ヲ会得セシメ以テ其普及ヲ図ルコソ真ニ教育ノ進歩ト称ス可キナリ」として賛成意見を述べている。渡辺清議官も教育の現状について、「人民ノ智識」と「生計ノ程度」とがバランスを欠いている、また、「都鄙人民ノ貧富ノ度」を考慮せず「教育ノ方法ヲ画一」にしているのは問題であるとして「教場」設置に賛成し、さらに「普通学科」が児童にとって「過度」であるから「教場」での学科についても「日常ノ実用」とすれば「教育ノ全国ニ普及スルハ疑フ可ラス」と力説している。

 だが、これらの賛成論と文部省の意図とはかならずしも同じものではない。文部省はあくまでも徳育重視と職業教育重視のための教育政策の実現を意図していたのであり、貧富の差を前提とした教育の単なる量的普及だけを課題としているのではないのである。

 また、「普通教育」は「高尚ナル課程」である必要はないとしてもそれを「普通ノ読書算術」「日用ノ学問」「国民日用ノ心得」「日常ノ実用」というように短絡するのは問題であろう。細川潤次郎議官もまた「普通教育トハ然ク高尚ノ学科ヲ授クルヲ謂フニ非ス」としながらも「教育ハ高尚ナルヨリモ寧ロ普及スルヲ進歩ト信スル」、「教場」を設置するかどうかは「民力ノ盛衰ニ伴随スル変動」の問題であって、これを制約すれば教育の普及を望むことはできない、「民力ノ貧富ニ拘ラス永世ニ此教場ナル者ヲ以テ教育ノ普及ヲ謀ルニ足ルト信ス」と述べて「教場」設置に賛成している。なお、細川は「普通教育即チ小学教育」という言い方をしている。

 柴原和議官は「府県官ハ上意ヲ奉承スルニ過キテ却テ民度ニ適合セサル教育法ヲ施シ」ている、数村連合して小学校を設置する場合大村に有利なように設置され、弱小村は結局設置費用を強制徴収されるだけで児童は遠距離通学を強いられている、この弊害を解消するためにも弱小村にも資力に見合う「教場」を設置することができれば「人民ハ必ス感喜スルナラン」として改正案に賛成している。この意見に対して、槙村正直議官は小学校を分割していくつかの「教場」を設置するというのは改正の趣旨に反すると反論した。なお、大学進学とむすびつけた府県中学校制度の拡充を要求する見地から、今回の改正を「学事ノ適度」を図るものであり、「後来ニ大改革ヲ行フ階梯」とみなして改正に賛成する意見(渡辺清議官)も出された。

 他方、槙村正直議官は「普通教育ハ教育ノ基礎」であるから「経費ヲ省減シテ学事ヲ勧奨スルハ良法ナリト雖モ我邦ノ人民ニ必要ナル普通教育ヲ衰退セシムルハ不可ナリ」、今回の改正は「費用省減」上の「変則法」である限りにおいてやむを得ず賛成するが、「教場」設置についてはそれを法制化すれば町村は小学校設置よりも「教場」設置に流れ、教育は退歩することになるから「徹頭徹尾同意スル能ハス」と述べて強行に反対している。また、分校・支校という名称ですら人民は悪感情を抱いているのに「教場」では「人種ノ等位ヲ異ニスル」という感情を持つことにならないか、小学校の名称のまま学科を取捨すればよいのであってあえて「教場」とする必要はない、すでに小学校は普及している、現在の私塾や私立小学校と大差ないのだからあえて設置を法制化する必要ない(村田保議官)、「教場」設置の「功益」はなく「費用ハ却テ増加スル」、などの慎重論・反対論も出された。

 町村費節減のもとで「教場」設置によって普通教育の「改良拡張」および教育行政の中央主権化を意図する政府・文部省の真意を見抜けない議論もあった。元老院議官の内部ではあるが総じて普通教育正格主義の維持を主張する保守的な立場からは「教場」設置反対論が、国会開設という新しい事態に対応した教育制度の確立を求める立場からは賛成論が展開された。

 「教場」設置の意義について、先行研究の一部には「普通教育の最低線を防衛しようとする施策以外のなにものでもない」、「普通教育の水準をミニマムまで下げた」として消極的に評価する見解もある( 14 )。

 当時の小学校教育の水準については元老院議官のなかにも「高尚」「過度」と指摘する見解があったが、水準を「簡易」にすることはたとえそれが国家主義的性格と結びついていたにせよ客観的には民衆や児童の生活現実や教育・学習要求に接近する可能性を有していた点にも留意するべきであろう。

 小学教場はその後(1885年11月)の文部省通達(倉沢氏の言う「小学教場設置要項」)で、「小学校ヨリ簡易ナル教則ヲ以テ普通科ヲ教授スル所」とされ、①半日または夜間でなければ就学できない児童が多数である場合、②授業料を納めることができない児童が多数の場合、③小学校を設置する資力が不足していると認められた場合、に設置できるものとされた。

(4)学科目の削除

 改正案第3条は小学校の目的を「普通(ノ)教育ヲ施ス所トス」と規定しただけで学科目の特定を削除した。1880(明治13)年の第2次教育令制定にあたっては「普通教育ノ正格」に含まれる学科目の種類が厳しく問われ、かつその最終局面で天皇の意思としていわば超法規的に修身が首位科目として導入されたことを考えると教育令からの学科目の削除はかなり思い切った措置といえる。

 原案第3条に付記された理由によれば、「普通ノ教育」の目的は、第1に「児童ノ徳性ヲ涵養シ心身ヲ発育」させ、第2に「農商工其他諸職業ニ必須ナル知識技術ノ端緒ヲ授ケ」て、「国家ノ良民」を育成することである、とされた。小学校教育において徳育と職業教育を重視するという課題は例えば第2次教育令制定に先行して出されたいわゆる「新定教育令ヲ更ニ改正スヘキ以前ニ於テ現在施行スヘキ件」以来教育政策の基本方針であったが、この方針が公式見解として前面に出たのは今回が最初である。普通教育の目的の多様化は「教場」を含む小学校全体の学科目の多様化を意味したから、今後学科目を法定化するのは「実施上頗ル支障アル」とされたのである。そのことは同時に「科目等ノ如キハ文部卿ノ権ヲ以テ適宜之ヲ取捨増減セシムルヲ便トス」とされ、学科目の法定化から行政意思の恣意的運用への転換が図られたのである。

 元老院審議で辻局長は第3条但書を削除したことについて説明をしている。「普通教育」とは「日本国民ノ子弟ヲ教育スル一般普通ノ学問」であり、「中等以上ノ教育ト其趣旨ヲ異質ニ」するものであり、「務メテ簡易ニシテ」、「普及セシムル」ものである、従って「普通教育ノ学科ヲ卑近ニ止メ以簡易ニシテ普及スルノ方法」を実施するために学科目を法定すれば普及上支障が生ずる、と。「簡易」「卑近」という言葉は「高尚」を前提として発想したものと思われるが、人間的諸能力の成長・発達を保障する普通教育にとって何が「簡易」であり「卑近」であるかはまさに教育学をはじめとする諸科学の成果に依拠すべきものであるのだが、辻局長はそれを文部卿の「随意」に委ねるとしたのである。

 辻局長はさらにその上で(1)普通学科を「数科」に分けようと「1科」にまとめようと「普通教育ニ背反」しない、(2)普通教育の学科目は特に「準拠スル所」を明示しなくても「一般ニ慣行スル所ノ者」があるから必要がない、「普通学科」を構成する修身・習字・読書・算術などは「何等ノ邦国ト雖モ同ク然ル所ナリ」と説明している。しかしながらこの説明は今回の改正の趣旨を明確に説明するものとはなっていない。学科目の区分一般が問題ではなく、従来の普通学科のほかに「男女」「都鄙」「諸職業」に応じた学科編成を導入することが提起されていたのである。

 改正案に対して、「普通小学トハ何事タルヤハ衆人ノ知ル所」というがそれは現行法に明記されているからであって、それを削除してただ「普通ノ教育」というだけではその意味や「界域」を知ることはできない(柴原議官)、普通教育の学科は全体として「卑近」といっても小学校に上等、下等の区別があり、さらに「教場」があるとすればいつまでも「卑近」のままでいいと言うことにはならないではないか(槙原議官)、学科目の取捨選択を文部卿に委任するのは好まない(伊丹議官)、などの慎重・反対論も出された。

 ところで、世界各国共通の性格を有するとされる普通学科から構成される「普通教育」(あるいは「一般普通ノ学問」)と「日本国民ノ子弟ヲ教育スル」ところの「普通教育」とはどのような関係にあるのだろうか。

 この時期、相次いで創刊された教育関係雑誌でも普通教育の目的・性格が論じられており、そこでは普通教育は「一己人(私人)ノ利益ヲ謀ル」のか、それともと「国民ノ利益ヲ謀ル」のか、あるいは「国ヲ護ル」ことを基本とすべきなのか、「人ヲシテ其生命ヲ保ツ」ことを基本にすべきなのか、が基本的な論点とされていた。

 例えば、次章で述べるように小学校条例取調委員であった大窪実は1885(明治18)年、「国民教育」と題する演説を行い、「各人自己ノ為メニ教育スルコト」と「国民タルニ適当ナラシム為ニ教育スルコト」の二つの「要点」を有する「普通教育」を「国民教育」としている。( 15) 

  これら二つの「要点」のどちらを基本に据えるか、両者はどのように関係しているのか、をめぐる論議は始まったばかりであり、「国民教育」という用語がそれなりの意味付けを与えられて登場したのはこの時期であるように思われる。

 一方、「普通教育」を「日本国民ノ子弟ヲ教育スル」ものとし、他方で「普通学科」の世界各国共通性を言う辻局長の説明は、現実においては天皇制に基づく徳育と職業教育を促進するものであり、人間の育成を基本とする普通教育論の主張とはなっていない。この時期、東京府学務課職員庵地保(東京府教育談会副会長)は「普通教育」は「人間ノ智能」の「発育ノ順序」に「相応」するものでなければならないと述べていたし、赤松常次郎はすでに「人ノ子女タルモノ 普 通 ノ 教 育 ヲ 受 ケ ン コ ト ヲ 要 求 ス ル ハ 其 固 有 ノ 権 利 」 と い う 見 解 を 明 ら か に し ていた。(16) これらの普通教育観は第2次教育令改正過程に影響を及ぼすことはなかった。

 原案第3条の理由はさらに現状の小学校の学科編成について「尋常ノ小学科」と「特殊ノ小学科」に区分し、前者は「一般ニ必施スヘキ」学科であり、後者は「男女」「都鄙」「諸職業」に応じた学科である、としている。

  倉澤氏は教育令から学科目が削除されたことについて、「これは教科を簡素にして教員の給料等を節減するためだった」、文部省案に示された理由のなかで学科目を掲げるのは「実施上頗ル支障アルヲ免レス」は「何を意味するのか、どうもはっきりしない」と述べているが、「男女」「都鄙」「諸職業」に応じた学科編成を「教育ノ改良拡張」の主題にしようとする政府・文部省の意図を理解しない議論と言わざるを得ない。( 17) 

(5)「普通科」について

 政府案第11条は文部省案にあった「小学科三箇年ノ課程」を「普通科」という名称にあらためた。その理由をただした細川議官にたいして辻新次二局長は、「小学科三箇年ノ課程」を修了するために「三年以上」要する場合があり、「三箇年」と限定することは妥当ではない、と答弁している。それは半日もしくは夜間の授業を行う「小学教場」を考慮したものであろう。1年の就学時間を最低1日3時間16週日としてきたこれまでの原則を踏襲しつつ「小学教場」にも適用しようとしたのである。 また、辻局長は、「普通教育ニハ初等高等」等の区別があり授業料を納める児童には「高等ノ(普通)教育」を授けることにしている、文部省は「普通小学校教則」を制定することにしている、これにもとずく「普通科」を修了することによって普通教育を修了できるようにした、と述べた。これまでの「小学科三箇年ノ課程」について文部省案では「尋常ノ小学科」という言い方もしているが、なぜ「普通科」という呼称を用いたのだろうか。

 前述の「普通小学校教則」はのち「小学校及小学教場教則綱領」として作成されることになった。そこでは「小学科三箇年ノ課程」とその後の課程は「尋常ノ小学科」と「特殊ノ小学科」に大別する意向であったと思われる。前者を「普通科」、後者を「実業科」もしくは「専門科」と呼称することは当時の用語法からは十分推測できる。「小学科三箇年ノ課程」すなわち「普通科」のみの修了を可能とする「第1種普通小学科」が用意されていたのである。

 

 第3節 「小学校及小学教場教則綱領」

 元老院審議において辻学務二局長が準備中であるとした「普通小学校教則」は全8章65条(第1章・教育ノ目的、第2章・学科ノ区別、第3章・修業ノ年限、第4章・教授ノ制限、第5章・教授ノ科目、第6章・試業ノ手続、第7章・児童ノ取扱、第8章・雑則)からなる「小学校及小学教場教則綱領」( 18)として8月12日の第3次教育令制定前後にはおそらく作成されていたと思われるが、それは具体化されなかった。これまでの「小学校教則綱領」(1881年)が3章27条、また小学校令制定後の「小学校ノ学科及其程度」がわずか10条であるからその規模は知れよう。この規模から見ても第2次教育令改正=第3次教育令制定の文部省にとっての意図がうかがえるであろう。

 その特徴は、第1に、教育の目的について徳育・知育・体育の順を明確にし「国家ノ良民」を育成することとし、徳育では「皇室ヲ尊ヒ国ヲ愛シ人倫ヲ重ンスルノ精神ヲ養フ」としていることである。「皇室ヲ尊ヒ」が入ったことは注目に値するが、翌年の森が起草したとされる「小学校ノ学科及其程度」ではこのようなイデオロギー的な表現が除かれている。この時期における文部省内部の改革方向をめぐる論議にかなりな幅があったことを窺わせる。

 第2に、小学校(科)を第1種普通小学校、第2種普通小学校、農業小学校、工業小学校、商業小学校および男児高等小学校・女児高等小学校の7種に再編していることである。普通教育系、職業教育系それに高等小学校系の3系列にまとめることもできる。これまでの初等科・中等科・高等科という階梯別編成という考え方(事実上は並列になっていたが)が放棄されていること、「都鄙」「諸職業」に応じた学科編成という文部省の方針の具体化が職業別小学校の創設を意味していたこと、高等小学校について男女別学制が導入されたこと、などは注目すべきである。

 第3の特徴は、それぞれの小学校に対応した学科や「授業時間表」が用意されていたことである。それによれば、第1種普通小学校(3年制)では「修身」「読書・習字」「算術」「唱歌・体操」(これを基本6教科と呼ぶことにするー筆者)を配置し、半日・夜間の授業を行うこともできる。第2種普通小学校(4年制)ではさらに「地理・日本歴史」が加わる。農・工・商の各小学校(5~6年制)では3年次から週3~5時間の「農業」、「工業」、「商業」を履修するほか、「地理・日本歴史」を履修する。高等小学校(6~8年制)は男女別学とされ、基本6教科のほか「地理」「日本歴史」「物理」「図画」が課せられる。なお、今回の教育令改正で導入された「普通科」はこの「小学校及小学教場教則綱領」には登場していないこと、「学務委員」という用語が用いられていること、いわば系列別小学校編成という新教育令が予期していない考え方に立っていること、などが新教育令との不整合性として挙げられる。「小学校及小学教場教則綱領」が教育令改正文部省原案の段階ですでに作成されていたことを推測させるものである。( 19 )

 特徴の第4は、従来の「歴史」を「日本歴史」としたほか、各教科の性格規定(第24条~第41条)では総じて「児童ノ理会シ易キ」とか「近易」「日常適切」「生業上緊切」「民間適切」「普通ノ現象」「普通ノ文章」「通常ノ植物」などの言葉が多用されていることである。( 20 ) これらの言葉はこれまでも『文部省年報』等に掲載される府県学事状況報告にもしばしば用いられていたが、1880(明治13)年に出版された『改正教授術』からの影響をみることもできる。( 21 ) なお、ついでに言うならば、やがて「普通教育」という言葉が忌避され「普通」という言葉が教育法令の国家主義的な再編に組み込まれて行く過程に留意するべきであろう。( 22 )

 第5に、1年進級制や学級定員・教員定員の基準等(第4章「教授ノ制限」第14条~第23条)を本「教則綱領」に導入するとともに、その内容にこの時期政府に提出されたとされるヘルマン・テッヒョウの『小学校ノ組織』での勧告内容をとりいれていることである。

 第6に、第6章「試業ノ手続」、第7章「児童ノ取扱」、第8章「雑則」に見られるようにこれまで個別に出されていた諸施策のいくつかが本「教則綱領」に一本化されたことである。

 このような大規模な教則綱領が準備されていたことからも教育令改正にかける政府・文部省の意気込みが知られるであろう。それは町村教育費節減への対応という消極的なものではなく、むしろそういう条件下のもとでの抜本的な「改良拡張」策を意図したものであった。そしてそれが実現されなかったのは財政的な困難によるものではなく、教育改革をめぐる文部省内部の政策転換(=学校令制定)によるものであった。

 

 第4節 森御用掛の教育構想

 先行研究において教育令改正問題で森が果たした役割について消極論・積極論が見られる( 23 )が、7月の日付のある森の「教育令ニ付意見」を見ても森が教育令改正に立ち入った見解を持っていたといえよう。この「意見」は、前段では現行教育令条文について「無効ニ属シタルアリ」「存廃共ニ障ハラサル」「文意精確ナラサル」「文法ノ正ヲ得サル」「条例ノ体裁ニ適ハサル」「要ナルモノヲ脱シテ不要ナルモノヲ掲クルコト極テ多ク」などを指摘し「条目文句等ヲ改正」すること、また後段では、学務委員を「名誉ノ職」とし地方教育事務を一般行政事務に吸収することを「急ニ改正ヲ要スル」課題としている。教育令改正文部省原案に付記された改正理由には「尋常ノ小学科」「特殊ノ小学科」の呼称や「疑似ノ文」「贅文」などの言葉、あるいは「国家全体ノ経済」と言う文言が用いられていることなどから、森の意見がかなり盛り込まれていることがうかがわれる。その上で中段で「各別ノ条例」制定の必要を主張しているのである。

 つづいて「教育経済要項」において森は小学校教員の俸給を府県教育税と授業料の二本立てとすること、学区を郡にまで拡張しそこに1校の高等小学校を設置し他は初等小学校とすること、授業料を納入できない児童のために公費による義務制の簡易・低度の教育を行うこと、などを提案している。

 7月11日には師範学校取調委員が、7月25日には小学校、中学校の取調委員がそれぞれ発令されている。元老院での教育令改正案審議が始まったばかりの時期に学校種別の新しい教育法令制定の検討が着手されている。これは異常な事態とも言えるが、内閣制度移行・憲法制定・国会開設をめざす政府・文部省にとって「教育ノ改良拡張」はそれほど緊急重大な政策課題であったのである。10月に開催された地方官会議で大木文部卿は前記「教育経済要項」の趣旨を実現することの意義を強調している。

 ところで、教育令改正に表れた「教育ノ改良拡張」路線と森の学校令路線とはどのような関係にあったのだろうか。森の普通教育観については次章第7節で論じることとするがここでは論旨に関わる限りで整理しておきたい。

 「教育ノ改良拡張」路線が基調のひとつとしていた儒教主義教育重視についていえば、森は「四恩三義」論に見られる国体(天皇制)への忠誠を最高規範として、そのイデオロギー的倫理的体現者としての教師の役割・責任を重視し、学校教育の場面では生徒はひたすら教師から薫陶をうける存在として見なされた。儒教重視の「教育ノ改良拡張」路線の場合は儒教イデオロギーを低年齢のうちから直接注入することが目的とされた。

 森の場合、国家制度・自治制度および教育制度等をつらぬく指導原理は「経済効率主義」・「学校経済」と「自理和働」原理であった。それは徹底した国家合理主義ともいえるものであり、それが成功するかどうかは強力な指導者の存在にかかっていた。「教育ノ改良拡張」路線の場合は支配階級の要求を具体的・現実的に実現していくという立場に立っていたが一元的な理念・思想を欠いていたともいえよう。

 また、森の場合、列強との帝国主義的な競争に勝利することを至上命題とし、その見地から高等教育・中等教育・実業教育制度の拡充が重視された。これに対して「教育ノ改良拡張」路線の場合は初等教育の普及・拡張が重視され、森に比して教育主義的な政策を基調としていた。

 全体として見るならば、森の場合、彼の路線は彼独自の資質や経歴から導かれた内外情勢についての識見に基づいていたとはいえ観念性・不安定性を免れず、一方、「教育ノ改良拡張」路線の場合は現実的である半面、相対的に内外情勢についての広い見通しを欠いていた。森遭難後の文部省の教育政策についていえば、大日本帝国憲法・教育勅語体制を基盤としてむしろ「教育ノ改良拡張」路線をさらに体系的に発展させていったといえよう。その意味では第3次教育令は短命であったとはいえ、普通教育政策上の意味は小さくはなかったといえよう。

 内閣制度に移行した直後の12月25日、文部省はとりあえず「尋常小学校課程表」「高等小学校課程表」を通知している。それらは「小学校及小学教場教則綱領」の内容とは著しく性格を異にするものであり、森の見解や小学校条例取調での審議結果を強く反映したものであるが、これも通知はされたものの実施には移されなかった。( 24 )

 「課程表」を通知した文書に記されている「近日」通達予定の「小学校等教則綱領」の作成・実施は結局翌年小学校令制定(4月9日)後の5月25日に制定された「小学校ノ学科及程度」まで待たなければならなかった。

 第3次教育令はそれに対応する教則綱領を欠いたまま小学校令制定以後も生き続けた。『伺指令挿輯教育法令彙纂』は「明治十九年四月三十日ニ於テ現行ニ係ル教育一切ノ法律及官省ノ達令ヲ類聚載録」したものである( 25 )が、小学校令とともに教育令も収録されているという奇妙な編集になっているのは、新教育令に対応した教則綱領等がまだ確定されていなかったからである。同書に「小学校教則綱領」「小学教場ノ性質及設置ノ場合」が収録されているのも同じ理由からである。

 

(1)井上久雄『近代日本教育法の成立』、1969年、風間書房、449ページ。

(2)倉澤剛『教育令の研究』、1975年、講談社、772ページ。

(3)『日本近代教育百年史3』、1974年、国立教育研究所、976ページ。

 なお、杉谷昭氏は地方自治制度研究の立場からではあるが教育令再改正の理由を地 方教育費節減に求める見解を「皮相的にみればそのように評価できるが」とし教育 令再改正を教育行政集権化の文脈で捉えるべきであると述べている。杉谷「大木喬 任文書『学制更新革議』について」(『西日本史学』第21号)。

(4)「地方経済改良ノ儀」、梧陰文庫B1749、国学院大学所蔵。

(5)「区町村費節減ノ儀」、明治18年公文録、内務省8月第1、国立公文書館所 蔵。

(6)「町村教育費ノ儀ニ付上申」、明治18年公文録、内務省8月第1、国立公文 書館所蔵。 

(7)ふたつの布告案とも明治18年公文録、内務省8月第1に収録されている。

( 8 ) 「 区 町 村 費 節 減 ノ 儀 」 は 7 月 2 9 日 の 元 老 院 で 全 員 一 致 で ス ピ ー ド 可 決 さ れ た 。 と く に 三 浦 安 議 官 は 「 本 案 ハ 原 来 土 地 所 有 者 ヲ 愛 憐 ス ル 旨 趣 ニ 出 ル ヤ 明 瞭 」 と賛成意見を述べ、津田真道議官は「真ニ涙ヲ流シテ賛成スル」と述べた。区町村 費節減策が農民救済のためではなく「土地所有者」救済のものであったことは明白 で あ る 。 『 元 老 院 会 議 筆 記 ・ 後 期 第 2 4 巻 』 、 元 老 院 会 議 筆 記 刊 行 会 、 1 9 8 0 年、1583、1586ページ。

(9)明治18年公文録、文部省「教育令改正ノ件」所収。

(10)井上久雄『近代日本教育法の成立』、前掲書、450~467ページ。

(11)倉澤剛『教育令の研究』、前掲書、765~773ページ。

(12)『元老院会議筆記・後期第24巻』、元老院会議筆記刊行会、1980年、 1525ページ。以下、元老院での発言はすべて『元老院会議筆記・後期第24巻 』からのものであり、その都度引用ページ数を記さない。

(13)佐藤秀夫氏は「小学教場」を「特殊ノ小学科」の唯一法制化されたものとし て い る が 、 そ れ は 間 違 い で あ る 。 「 特 殊 ノ 小 学 科 」 は 「 諸 職 業 ノ 状 況 ニ 応 」 じ る ものであり、具体的には農業・工業・商業小学校を指すものであり、「小学教場」 は 「 尋 常 ノ 小 学 科 」 の よ り 簡 易 な 形 態 で あ る 。 『 日 本 近 代 教 育 百 年 史 3 』 、 前 掲 書、988ページ。

(14)例えば井上久雄『近代日本教育法の成立』、前掲書、468ページ、および 倉澤剛『教育令の研究』、773ページ。

(15)本論文第11章第5節参照。

(16)『東京府教育談会報告書』第7冊、12~13ページ、1886年3月27 日刊。

(17)倉澤剛『教育令の研究』、前掲書、773ページ。

(18)国会図書館憲政資料室所蔵、大木喬任文書。

(19)佐藤秀夫氏は「小学校及小学教場教則綱領」を小学校条例取調委員が起草し たものと推測している(『日本近代教育百年史3』、前掲書、986ページ)が、 本文でも述べてようにその内容からみて小学校条例取調設置以前には作成されてい たと思われる。また、佐藤氏は「小学校及小学教場教則綱領」に掲げられた小学校 は「6種」としているが7種とすべきであろう。授業時間表が7種類作成されてい るだけではなく、「小学校及小学教場教則綱領」において「高等小学校」が男女別 学と構想されたことは注意されていいことであるからである。 

(20)例えば「日用普通ノ学業」「日用普通ノ書算」「日用切実簡易ナル学」など 言葉が『文部省第二年報』(明治7年)に収録されている府県の学事状況報告にも おいてもしばしば用いられていた。

(21)若林虎三郎・白井毅編纂『改正教授術』、1883年、普及舎蔵版、「序」 お よ び 「 自 序 」 参 照 。 な お 同 書 本 論 冒 頭 に は 「 近 ヨ リ 遠 ニ 及 ベ 」 「 易 ヨ リ 難 ニ 及 ベ」などが述べられている。同書は、教授法についてこれまでの「記誦注入ノ法」 から「開発抽出」の法に「改正」する必要があるとして、「生徒ノ性質動作、心性 発達ノ順序及其諸力ノ作用ト関係ヲ観察シテ其理ヲ講究」したものである。「心性 発達ノ順序」あるいは「自然ノ順序ニ従ヒテ諸心力ヲ開発スベシ」などの考え方と むすびつけて普通教育論を展開する見解もこの頃すでに現れていた。

(22)1890(明治23)年の小学校令改正ではそれまでの「普通教育」という 用語が削除されて「普通ノ知識技能」という言葉が導入された。それは普通教育史 上きわめて重要な転換であった。

(23)井上久雄『近代日本教育法の成立』、前掲書、482ページ。同書において 井 上 氏 は 消 極 論 を 主 張 し て い る 。 倉 澤 剛 氏 は 『 教 育 令 の 研 究 』 、 前 掲 書 、 7 6 7 ページで積極論を展開している。

(24)倉澤剛『教育令の研究』、前掲書、808~810ページ。

(25)『伺指令挿輯教育法令彙纂』、1886年、国立公文書館蔵。