第11章 「普通教育」から「国民教育」へ

 1884(明治17)年頃から「国民教育」もしくは「国民普通教育」という言葉が用いられはじめた。それ以前にあっても「国民」や「皇国ノ臣民」の育成を教育目的とする見解はしばしば見られたが、それはやや図式的に言えば基本的には「普通教育」を基調とし、国家的・階級的な性格を有しながらも「人間」の育成という文脈の中に位置づけられていたものであった。しかしながら明治14年の政変を経て絶対主義的天皇制を志向する政治状況の高まりの中で、めざされるべき国家社会にとって必要な人材育成という見地からの教育論が主張されるようになってきた。「国民」もしくは「皇国ノ臣民」の育成は新たな枠組の中に位置づけられることになった。そのことを法令的に確立したのが、1890(明治23)年の小学校令改正であり、そこには小学校の教育目的として「国民教育ノ基礎」という文言が盛り込まれた。この枠組のもとで「国民学校」という呼称が選択され、やがて法令化されることになる。

 1884(明治17)年頃から用いられはじめた「国民教育」という言葉は「普通教育」との関係を模索している段階での言葉であり、その意味では過渡的な性格を有する概念であった。「国民普通教育」という言葉はまさにその過渡的な性格を示す象徴的な表現である。

 本章においては第3次教育令をはさんで教育令体制が終焉するまでの1~2年に限定してその期間に見られるいくつかの「普通教育」論を検討し、その中で「国民教育」論が「普通教育」論とのどのような緊張関係の中で論じられるようになったのかについて明かにしようとするものである。

 

第1節 西村貞の「普通教育ノ要」

 文部省御用掛・体操伝習所主幹の西村貞は1884(明治17)年2月10日、埼玉県の桜沢小学校で「普通教育ノ要」と題する演説を行っている。(1) 西村は文部省が進めている普通教育政策はスペンサーの教育論と合致していること、普通教育を隆盛にすることによって欧米を追い越す、という問題を提起している。ここにはのちに見るように森有礼の教育論の基調が示されている。その論旨を要約しておこう。

(1)鉄道・蒸気機関は「快事」であり歴史的な幸福をもたらした。それらは「人智ノ啓発」によるが、それはまた「教育」の成果である。

(2)「理学」は「千状ノ福祉万態ノ快事ノ源」であり、「一身一家一国一世界ヲ利シテ快楽ノ源ヲ開ク者」である。

(3)「教育ノ真価」は「吾人ノ心意ニ供スルニ至当ノ栄養物ヲ以テシ以テ其ノ消化ヲ遂ケシムル」ことから生じるものであり、そのためには「理学」をこそ重視しなけれならない。

(4)「今日人間ノ交際ヲ主宰スル者ハ徳ニアラスシテ専智ニ在ル」。「欧州列国富強ノ源」の背景には「福利ノ秘訣ハ智識ニ在リ」という思想がある。

(5)日本の「人智」の現状は「舶載ノ智」といわざるを得ず「遺憾千万」である。(6)日本の教育は西欧に比べて「貧劣」である、したがって「従来ノ教育法」を改良することこそが必要である。

(7)「従来ノ教育法」は「心意ヲ修練スルニ完全」ではなかった。「今日ノ幼童」すなわち「将来ノ人民」から始めて「徐々ニ我ガ邦人ノ智ノ啓発ヲ促ス」ところの「普通教育」こそが重視されなければならない。

(8)教育当局者はもっぱら「彝倫道徳」を基本としている。これは「智ノ教育」を主張している自分の考えと矛盾しているようにも見えるが「道徳地ヲ払フガ如キ今日ニ在リテハ」「道徳ハ交際ヲ律スルニ切要」である。

(9)スペンサーの教育目的論は「充全ニ生活スルノ予備ヲ為ス」というものであるが「今日普通教育ノ施設」がこの「旨趣」に合致しているかどうかを、小学科および中学科における個々の学科について言えば、それらはすべて「充全ノ生活ヲ遂クルニ」重要なものと言える。

 とくに「修身」は「皇国ノ臣民タルニ足ルヘキ諸般ノ義務ヲ執行スルノ方針」を指示している。

(10)「今ノ此ノ世界ハ恰智力ノ競争場」である、したがって「我カ文化ヲ進メ我カ理学ヲ高メ我カ智力ヲ研キ我カ邦人ノ発明研究ヲシテ彼ノ欧米ニ舶載セシムルノ日」を期待する。

 以上である。「理学」および「智ノ教育」重視論を「今日」を媒介にして道徳重視の普通教育政策と一体化させ、「充全ノ生活」の一点においてスペンサーの教育論と文部省の普通教育政策とを結びつけるなど、かなり強引な論理で列強との競争に打ち勝つための教育論が主張されている。とくに「皇国ノ臣民」の育成を基調とする「普通教育ノ要」が論じられていることに留意しておきたい。

 

第2節    九鬼隆一文部少輔の「普通教育」観

 森有礼が文部省御用掛となった1884(明治17)年5月7日の直後の6月8日、九鬼隆一文部少輔は大日本教育会において「教育ノ全体」について今日有力かつ弊害のある「一箇ノ論題」があるとして「教育ノ需用」(2)と題する演説を行っている。「一箇ノ論題」とは「教育ノ事業ハ之ヲ人々各自ノ自由ニ放下シ政府モ深ク関渉スルニ及ハズ」という議論をさしている。なお、九鬼の普通教育論については第5章第2節でも言及した。

 さて、この議論を仮に「教育自由化」論と呼称することにして、九鬼によれば「教育自由化」論は、①教育をもって「罪悪ヲ滅スル単純ナル大本原」とすることはできない、②「罪悪ヲ減シ邦家ノ安寧ヲ保持スル等ノ手段方法」は教育以外に求めるべきである、③政府が教育の事業に干渉する場合でも、その「効能」は人々が各自自分の子どもを教育するのに比して大きいとはいえない、むしろその費用は大いに増加する、④干渉と言っても「目的効能」が「成果効能」に比して「超過」した場合、目的自体に問題があるかのような議論は正しくない、というものである。九鬼は主として社会の罪悪は教育の有無に依存するのだから教育にたいする政府の干渉は不可避であるという立場にたって「教育自由化」論を論難している。

  九鬼は「不具者」が「五官全備ノ人」に対比して「人事ニ感通スベキ機関」に欠けていること、したがって「相感ノ情」が薄いこと、あるいは「教育アルモノ」は「教育ナキモノ」に比して「感性及智性」が「発達」していること、「無学罪囚者ノ数ヲ以テ普通教育ヲ受ケタル罪囚者ノ数ニ比スレバ無学ノ徒遥ニ」多い、などと述べて「教育ノ効能」を説き「企望ノ目的ヲ充分セサルモ其国家ニ必需ナル要具ヲ用ヒズシテイカンセンヤ」、「之ヲ適当ニ用フルハ之ヲ放擲スルニ勝サル」としている。九鬼は結局は「感性及智性」を「発達」させ、「社会人事ノ交通」を円滑ならしめるためには国が関与する普通教育が必要であることを論じているのである。しかし、そのことから九鬼がのちに結論づけるような「強迫教育」にむすびつく論拠は見あたらないのである。社会的共同事務としての普通教育制度をどのように国民共通の意志に基づいて構築していくのか、そのために地方自治体、国会あるいは政府はどのような関係にあるべきなのか、という問題について九鬼はなにも言及していない。

 九鬼は以上のことから「普通教育」は「人生無上ノ必要(ネセシテー)」あるいは「至大最急ノ必要(ネセシテー)」であるという。また、「教育ノ趣向」によっては「直接ニ幸福ノ基本」、すなわち「鉄道」「製作所」「電信」など「驚クベキ幸福ヲ生スルノ基本」であると述べている。

 九鬼によれば、①人間の知能は身体と同様、「天ノ吾人ニ賦与スル貴重ナル性質」もこれを良く「培養」すれば「性善ノ結果」をもたらす、②「天与ノ性善ヲ拡ムルハ吾人洵ニ免ルヘカラサルノ義務」である、③「人ノ子女タル年少ニシテ未タ自ラ其身ヲ善ク支配シ得サルノ間」は父母がこの「義務」を果たすのは「天ニ対シ社会ニ対シテ洵二免ルヘカラサルノ義務」である。

 「人ノ子女タル年少ニシテ未タ自ラ其身ヲ善ク支配シ得サルノ間」の子どもに対する社会的義務としての「普通教育」が教育一般と区別されて論じられている。しかし、その義務はただちに「父母ノ義務」にすり替えられ、さらに④「人或ハコレヲ務メザレハ政府タルモノ百方強制シテコレヲ教育スルハ又洵ニ免ルヘカラサルノ義務ト云ハサルヲ得ス」と云う結論に2段階飛躍する。このように飛躍した「教育」論はもはや当初の理念的出発点から遊離して、犯罪予防・国家安寧のための手段として「需用」されるべきものであると主張され、その見地から、普通教育は戦争を絶滅することはできないが戦争時間を減少させることはできるなど、普通教育の政治的経済的社会的効用が強調される。後者の教育論が積極的に主張され、それを論拠づける道具立てとして前者の普通教育論が持ち出されているといえるだろう。

 最後に九鬼は、欧州においては「人民ノ自治ヲ尊ヒ或ハコレカ権理ヲ保重スル」方向で進んでいるが、「教育ノ道」は「世上百般ノ事業ト背馳」して「強迫教育」の方向に進んでいるとして、「目的」ではなく「方法」としての「強迫教育」の必要性を強調し、そのような見地から大日本教育会の「隆盛」を期待している。

 九鬼は結局、人民の自治や権利の延長上に、さらに言えば民主主義の問題として普通教育を位置づけることはできなかった。人民の自治や権利に対立し、人民にたいして「強迫」することによって普通教育は存在し得たのである。

 第2次教育令は「国民ノ品位」の確保という見地から福岡文部卿・九鬼文部少輔らの主導のもとに「普通教育ノ衰頽ノ挽回」を企図し、国家主義的な普通教育政策を構築していった。その過程で彼らは河野敏鎌文部卿や島田三郎権大書記官らを省外に放逐してきたのである。しかしながら、この九鬼の演説を見る限り、「国民ノ品位」という発想も「人民ノ自治独立」という発想もなく、一方では天賦の能力を「培養」することによって人間性が発揮されるという認識を示しながらも、「普通教育」自体の目的からではなく、「犯罪予防・国家安寧」の手段というきわめて通俗化した論理で、しかも「干渉教育」ではなく「強迫教育」を論じているのである。九鬼のもとで第3次教育令が制定されていくが、しかし、そこには伊藤博文や井上毅らが構想する国家体制を支える明確な教育理念を見出すことができなかった。この課題を自覚し教育理念の新たな構築を担うために森有礼が期待されたのである。森の志向する方向は九鬼が保持していたような普通教育論ではもはやなく、国家理念から導かれた「臣民」育成、すなわち普通教育論から国民教育もしくは皇国民教育への転換という方向での構築にほかならなかった。その意味では九鬼の普通教育論は明治前期における主導的な普通教育論の典型ということができよう。

 森御用掛も九鬼のこの演説の半年後の1884(明治17)年12月、大日本教育会において演説しているが、きたるべき政治体制に対応し得ない当時の文部省の普通教育政策の行き詰まりを指摘している。(3) すなわち、森は大日本教育会が「普通ノ教育ヲ充実ニシ以テ国ノ昌栄ヲ増シ国ノ品位ヲ進メ」るという「高遠」「広大」なる目的・事業を遂行しなければならないとしたうえで、その遂行にとって「前途ニ横ハル所ノ障害物」を解明しそれらを除去する手段を講究することが任務であると述べた。その場合、その「障害物」はあまりにその種類が多くそれがために「当初ノ予期ニ背キ中道ニシテ失敗ニ遭フ」ことが少なくないとして、具体的に4点の「障碍物」、すなわち①「他人ヲ偏信シテ其所為如何ニ注思セサルコト」、②「成規ヲ墨守シテ活発ノ事勢ニ適合セサルコト」、③「理ト情トヲ以テ相反ノ者ト為シ事物ノ本真ヲ観ルヲ誤ルコト」、④「漫ニ人ヲ目シテ己レカ事業ノ障碍ナリト臆断シ而此臆断ハ反テ自家ヲ害スル者タルコトヲ知ラサル」、を挙げている。

 ここには国家の立場から「国民ノ品位」維持・向上のために普通教育を構想するのか、人間的諸能力の育成こそが普通教育であり普通教育の改良普及によって国家社会の進歩に貢献するという立場をとるのか、という鋭い選択が今日求められているにもかかわらず、その方向をあいまいにし「中道」を採るこれまでの文部省や大日本教育会の姿勢を論難する森の構えがうかがえる。

 

第3節 本島初蔵の「普通教育普及改良ノ一方案」

 本島初蔵は1884(明治17)年12月31日および翌年1月31日に発行された『大日本教育会雑誌』第14~15号に「普通教育普及改良ノ一方案」を書いている。(4) 本島初蔵については文章中に「教育ニ従事」とあるだけでそれ以上は不明であるが、教育家の立場からの普通教育論として、わが国の普通教育論史上留意すべき発言である。要約したうえでその特徴を検討しておきたい。

(1)「学制」は「国民教育ニ従フノ標準」をしめし、「教化ノ普及」を図った。

(2)教育令の公布及びその改正を通じて「益々教化ノ普及上進」が図られた。

(3)しかし「実際ヲ察スレハ未タ全国ニ教化充分普及シタリト謂フ」ことはできない。

(4)「教育ノ本源」は「小学」にあるが、明治14年について言えば、学齢人口のうち57%が依然として不就学者にとどまっている。

(5)「普通教育ノ改良普及」を「政府ノミニ依頼」するわけにはいかない。

(6)自分は教育家として「普通教育ノ普及改良」に専心しているが、その経験から普通教育の普及改良策を提案したい。

 本島はこのように述べて、具体的な改善策の説明に移っているが、「学制」以降の文部省の教育政策を「国民教育」あるいは「教化ノ普及」という言葉で特徴づけていることは興味深い。一般的には「普通教育」という言葉でうけとめられていたし、「国民教育」という言葉自体はそれ以前はほとんど用いられていなかった。明治17年の時点で「普通教育」とは異なる意味において「国民教育」という言葉が徐々に用いられはじめていたことの反映とも理解されるが、本島は同時に「普通教育」という言葉も多用しており、両者の意味はほぼ同義にもちいている。また、本島は「小学」を「教育ノ本源」ととらえているが、一方で当時師範学校を教育の本源とする森有礼のような見解も見られる。そこには人間や子どもを基本に普通教育を構想するか、普通教育についての国家理念を基本に普通教育を構想するか、の違いがあらわれているように筆者には思われる。

 さて、本島は具体的な改善策を「初等普通教育」についての「普及改良」策として以下の6項目にわたって述べている。なお、「初等普通教育」という言葉は、筆者が知る限り、この文献が最初である。

 ①〈教則、とくに「教科書」について〉教科書は「道徳」と「智識」に関係して「一身一家ノ興廃ヨリ尊皇愛国ノ志念ヲ勃興スルノ如何ニモ及フ」ものである以上は「実ニ適スルヤ否ヤ」を点検する必要がある、「小学校教則綱領」自体は「善美」を尽くしたものであるとはいえ「欠点」がないとは言えない、そのことについて「当局者ノ注意ヲ喚起」したい。

 ②〈教員養成について〉学術面のみならず、「授業法」の面からも考えるべきである。すなわち、生徒の気質を知り、土地の状況を知り、近易から日用実際の庶物へ、簡より精へ、疎から密へ、あるいは「理想ノ力」を起し、「沈着堪忍ノ習」を養成し、後日社会に出てそれぞれの職業を営むの根本を「培殖」することができるならば、「初等普通教育」の課程を修了した段階で「種々雑多ノ職業ニ向フモ日用ノ事ニハ差支ナク」あるいは「中等普通学科」に支障なく進学することができる。

 ③〈学務委員について〉学務委員はきわめて重要であるとはいえ、実態は有名無実化している、この状態を改善するためには「給料ヲ増加」させ、薦挙法を改善するべきである。

④〈父母後見人の就学上の責任について〉「普通教育ノ義務責任ヲ負担スル父母後見人」の多くが未だ自分たちの子どもを就学させていないのは、「姑息ノ愛」に溺れて、学校が遠い、体力がまだついていない、商家には学問芸術は不要である、家事に使役しなければならない、「手習算盤手紙ノ文」さえ知れば「普通ノ用」に足りるのだから3箇年以上の就学は不要である、などを口実に就学させようとしていないためである。「学齢児童就学ノ多寡」は「一国教育上ノ隆盛」「国家ノ盛衰」「国権ノ振起弛廃」に関係するのだから、父母後見人の責任は大きい。

 「開化」に向かって「人々皆普通教育ノ日用ニ欠ク可カラズ他日身ヲ立テ家ヲ興スノ基礎タルヲ知リ競テ学ニ就カシメサルヘカラス」という時代に当面しているにもかかわらず、また「今ヤ一時一刻モ開進ノ途ニ向フノ早キヲ期スル時」であるにもかかわらず、「父母後見人」がこのような状態であるのは過去の「迷謬」のために「政府ノ普通教育ヲ国民ニ授クル本来ノ主旨」や「普通教育ノ実益」を理解せず、「自由ノ説」を唱え「普通教育ヲ妨ケ」ようとしている、従って、「説諭」だけではなく「懲罰ヲ設ケテ普通教育ノ義務責任ヲ践行セシメザル可カラス」。とはいえ、人民に「教育ノ厭倦」を生じさせるようなことがあってはならない、「人民ノ信スル校ニ入学」させる以外にはない、したがって「普通教育ヲ国中ニ普及センカ為メニ適当ノ奨励督責」を期待したい。

⑤〈貧民教育について〉57%の不就学者の大部分は「下等社会ノ人民」である。彼らは「普通教育ノ今日ニ切実要用ナルコト」を知っていても資力のために就学させることができないのである、したがって、「有為仁徳者ノ協同厚恤」に依存せざるを得ない。具体的に言えば、公私立小学校内の「教場ノ空在セル一部内ヲ借受ケ」「書籍並ビニ器械ヲ給」することとし、その費用は「有志慈善者ノ捐金」とし、さらに必要な場合は協議費・地方税を充てることとする。

⑥〈奨励賞与について〉この制度の目的・運用を厳密にしなければならない。そのためには「平素実際ノ勉励ト効績トヲ考察」する必要がある。

 本島は、自説にたいして予想される反対論にも答えながら、普通教育の具体的な改善方策を以上のように論じている。それは政府・文部省の普通教育政策をそれ自体としてはうけとめつつも、それとは相対的に独自な見地から普通教育の実質的な普及のあり方を探究している。とはいえ「今ヤ一時一刻モ開進ノ途ニ向フノ早キヲ期スル時」という情勢認識がどこに由来するのか、そのことと「普通教育ノ改良上進」とはどのように関係するのかなどについては積極的な説明がない。それは当時の政治的社会的条件からくる時代的制約とも言えるが、同時に、政治社会あるいはその時々の政治的社会的な課題と普通教育との関係についての教育学的知見の水準とも深く関わっているようにも思われる。

 

第4節 庵地保の普通教育論(その2)

 1880(明治13)年に『民間教育論』を著し普通教育論を展開した庵地保はその後も東京府学務課に所属しながら東京府教育談会副会長や大日本教育会幹事等をつとめ、一貫して普通教育論を論じていた。その庵地が「殊に目下の有様においては普通教育の要用益々切迫の事情ありと信ずる」という認識のもとに1885(明治18)年2月に『通俗教育論』を出版した。(5) 第2次教育令が小学教場の設置、道徳教育・実業教育の重視という方向で改正されそうな情勢のもとで執筆されたものである。

 前著『民間教育論』の続編であるが、それとの章構成上の変更については「人間発育の順序に従」って体育が知育の前に置かれることになっただけで、「三育並び行なはれて普通教育の全体を成すもの」であることが強調されている。(6)

 庵地は、『民間教育論』における「個人」観念を現実的具体的に深化させ、「文明」「開国」によって顕著になってきた「富強者」と「貧弱者」との格差拡大の中で「貧弱者」たる「個人」を救済することによって「安泰」を実現することが今日における「人間最大の願望」であり、教育の目的であるとした。もちろん「貧弱者」はあくまで個人的貧弱者に留まり階級的民族的貧弱者としては認識されていなかった。だから、庵地にとって「一国の安泰」は「その国民個々の安泰に基づくこと固より論を待たざる」ことであり、それは直ちに普通教育の課題と結びつけられ、そこから干渉教育・強迫教育が導かれるのも『民間教育論』の論理を継承している。

 徳育については、『民間教育論』で述べた彼の見解、すなわち「維新以来道徳に関する世の現象」は「退歩」するばかりで早急に救済策を取るべきであるとした悲観論、についてそれが「謬見」であったとして自己批判している。

 庵地によれば、それは第1に、道徳の「世態」に「変相」と「常相」とがあり、戦争・混乱があいついだ維新前後は「変相」の時期だったのであり、自分が考えたように「心中に存在せる道徳の分量が・・変遷した」結果ではなかった、第2に「四民同一」により風俗が「軽易簡便」となったことを「一時殺風景の感覚を与え不徳の兆し」と非難したり、また「公事訴訟」が頻繁となったことが「人心の不徳」の増大の証と理解したが、それは政治法律の仕組みや民事裁判制度の簡素化の結果「暗処の不徳が明処に発表した」までのことであった、第3に、「悪業の数が増大した」と見えたのは「交通の便開けたる際と同時に人の悪徳をも披露」することになったまでのことであって、不徳の増大の結果ではなかった、というのである。

 庵地が敢えてこのような自己批判を試みたのは「近来世上に喧ましき道徳衰退の論は甚だ確実なるものと謂ふを得ず」という認識に基づくものであり、根拠なき修身強化論を牽制するためであった。

 同時に「道徳教」の主観性を指摘し、その教育法はさまざまであるから、「徳育の基本」は「造化の法則を軌範にして以て人間の本分を尽さしむる学問」たる「道徳哲学」に求めるべきである。「善行は善結果を生じて自然に愉快に感ずれども悪行は悪結果を生じて自然に不愉快を感じる」、このように徳義品行の基礎を「自然の法則」「自然の賞罰」に求めることが「最も道理に適ひたるものと謂ふべし」と庵地は強調する。

 

 第5節 大窪実の普通教育論

 文部省は1885(明治18)年7月に小学校条例取調委員を任命したが、その委員の中に文部一等属大窪実の名前がある。それ以前の文部省職員録にはその名が見られないことからあるいは森あたりの抜擢かもしれない。大窪実は1885(明治18)年11月22日に開催された東京府教育談会第4回常集会において「国民教育」と題して演説を行っている。(7)

 大窪は、「普通教育」の目的を「人ヲシテ天禀ノ性能ヲ完全ニスルコトヲ得セシメ以テ其身ノ幸福ヲ厚フセンコトヲ期スルニ在リ」と自ら定義したうえで、このような「普通教育」に不満足であるとしている。

 大窪は、「国ヲ護ル重大ノ義務ヲ尽ス」ためにも教育が必要であるという見地から、「普通教育」の目的を「人ヲシテ其生命ヲ保ツノ道ヲ知ラシムルノミナラス又国ヲ愛護スルノ精神ヲ養成シ以テ重大ノ義務ヲ尽スコトヲ得ルノ人タラシメンコトヲ期図スベキモノト信スルナリ」とし、「普通教育」が、①「各人自己ノ為メニ教育スルコト」、②「国民タルニ適当ナラシムル為メニ教育スル事」、という二つの「要点」を有していると主張し、そのような「普通教育」を「国民教育」としている。大窪にとって「国民教育」はあくまでも「普通教育」の一種であった。

 大窪は1881(明治14)年、文部省が「小学校教則綱領」を達したとき、歴史の科目に西洋の歴史を含めなかったことについて、「世情ニ議論ノ沸騰」したのを見聞したが、いかなる知識・道具といえども、それらについて「歴史」や「来歴」を知らなければそれらを「尊重」したり「愛護」することはできない、国を「愛護」するためには、したがってその国の歴史を知らなければならないのである、と主張する。 さらに大窪は、「凡人タル者ハ各其業ヲ営ミ以テ身ヲ養ヒ其幸福ヲ得ヘキモノ」であるから、その場合でも同様に「各人自己ノ為」と、「一国ノ盛衰ト栄枯ハ国民一般ノ生産力ノ如何ニ職由スルモノ」だから、「国ノ為メニモ又国民ヲ教育シテ実業ニ励マシムルコト教育ノ一大要務ナリ」として「実業教育」の重要性を強調している。

 最後に、大窪は学校教育において、「諸事其発達ニ応セサルベカラサルコトハ論ヲ俟タサル所」であって、「国民教育」といってもこの「法則」を守ることは当然のことであると結んでいる。

 「法則」が単なる教える「順序」を意味する程度にしか理解されておらず、そのうえでいかなる知識といえども歴史・来歴を知ればそれについての尊重・愛護の精神が獲得されるという理屈で、「普通教育」が「国民教育」にすり替えられている。

 このようなすり替えは、大窪の個人的見解であると同時に、「普通教育」自体に内在する危険性を無毒化し国家主義的な立場から「普通教育」概念の確立を教育政策上の最重要課題としていた政府・文部省にとっても基本的には共通した手法であった。それは結局のところ「普通教育」という言葉を教育法令用語から削除せざるをえないところまで突き進まざるをえないのである。それは5年後の小学校令改正(明治23年10月)という形で現実化した。

 

 第6節 教育雑誌等に見る普通教育論

(1)無署名論稿「普通教育ハ民生ト相伴ハサル可ラス」

 『東京教育学会雑誌』第13号(1883年)は無署名の論稿「普通教育ハ民生ト相伴ハサル可ラス」を載せている。(8)

 論稿はまず、「教育」と区別して「普通教育」が「人世ニ緊要ナルハ今更言ヲ費スニ及ハス」としている。

 問題はその「普通教育」概念の内実であるが、論稿は「普通教育ハ其名ヲ以テスルモ所謂人間社会多数ノ部分ニ通課スヘキ学問」と規定したうえで、その範囲は「頗ル広遠」であり、「大別シテ小学科中学科トス」としている。

  次に論稿は、普通教育は「各国学科ノ種類程度等ヲ異ニスル」ものであり、それは「風俗習慣ヲ異ニ」していることによるものであり、「固有ノ風俗習慣ト学問ト能ク調和協進スル」ようにしなければならない、としている。

  ところで、「普通教育」が「就学督責」など「幾種ノ方法」を用いながら普及しようとしているにもかかわらず、「上司ノ方策」もありながらなかなか進捗しないのは「社会変化」のせいでもある、「今日普通教育ノ教員」は「社会ヲ改良スルノ原子」であるわけで、「民生」に即応した「普通教育」の普及に「親切忍耐温柔優美ノ徳」をもって重大なる責任を果さなければならない、と強調している。

(2)『東京教育新志』第66・67・68号(1885年)は「普通教育ハ何ヲ目的トスルカ」と題する論説を3回にわたって連載している。( 9) この年、『教育時論』と『教育報知』が相次いで創刊され、教育雑誌が普通教育論を積極的に展開するようになった。

  論説は「普通教育ハ何ヲ目的トスルヤ」という問いに誰もただちに答えることはできないであろう、「欧米ノ如キハ数百年来普通教育」が行われており、その議論は相当「淘汰」されているが、我が国の場合は多年を経ていない、したがって普通教育論についての議論も少なく、「霊知ヲ開発スルコト」という程度の議論はあっても、封建時代の残夢に由来する「学者若シクハ他ニ立身スルノ下拵」であるとか、あるいは「一世ノ英傑」・「人物」を作るものというような議論にとどまっている、という認識が示される。

 そのうえで、「普通教育」には2つの目的、すなわち「国民ノ利益ヲ謀ル」ことと「一己人(私人)ノ利益ヲ謀ル」という目的がある、両者は「二シテ不二ナリ」、すなわち、「私人ノ利益トナルヘキ目的ヲ貫通スルトキハ矢張国民トシテノ利益ヲ保タントスル目的ヲモ併進スヘケレハナリ」と述べている。

  論説はさらに論を進め、「国民トシテノ利益ヲ保タントスル目的」にも政治上の目的と経済上の目的とがある、政治上の目的について言えば、今や数人の「才智力量」に依存するのではなく、「国民平均ノ知識」が求められているとする。そこでは政治は「国民ノ不同意」があってはならないのだ、という認識が前提となっている。経済上の目的とは、「今ノ世界ニ於テ必用ナルモノハ富」である、その富を増殖する方法は「教育ノ外ニ出デザルベシ」、したがって政治的にも経済的にも「平均智量ヲ高メンニハ普通教育ニ過グルモノナシ」と論じ、「局部ノ智量ヲ高メル」ところの「専門教育」と対比して「普通教育」の重要性を強調している。

 さらに、論説は「快楽幸福」を「人生ノ目的」かつ「教育ノ目的」であるとするスペンサーの教育論に対置し、「自立自行」こそが「人ノ人タル所以」であり、「自立自行」がしばしば困難であるのは「普通ノ知識」が欠如しているからである、また「自立自行」を基礎にして人間は初めて「自己ノ快楽ヲ進メ幸福ヲ享クル」ことができる、と主張している。

 論説は、最後に、「国民普通教育」「国民タルノ目的」という言葉を突如として持ち出しているが、それが「自立自行」こそが「人ノ人タル所以」としての「普通教育」とほとんど未分化なまま同義に用いられていること自体、当時の「普通教育」概念の歴史的性格が現れているといえよう。

 論説が、「平均」概念をもちだしてきたこと、私人としての利益の追求が結果として国民としての利益の追求であると述べていること、「快楽幸福」は政治的・経済的「自立自行」を土台として可能であるとしていること、「専門教育」に対して「普通教育」の重要性を強調していること、などは特筆されるべきであるが、「国民」と「私人」との関係、「国民普通教育」と「普通教育」との関係等について論説はなお不明確なままにとどまっている。

(3)『東京教育新志』第105号(1886年)に掲載された「普通教育ノ焼点ハ何レニ在ルヤ」は、旧来の教育・学問のあり方を「専門家ノ望ムベキ所」として厳しく批判したうえで、「普通教育ニ在テハ最モ卑近ニシテ着々実地ニ応用スルコソ普通教育ノ価値アル所ト云ハサルヲ得ザルナリ」、「元来普通教育ハ(中略)卑近ニシテ実業ニ応用スルノ知識ヲ培養スルコト普通教育ニ於テ第一ニ着眼スベキ所ナラズヤ」と論じている。(10) さらに、「実業科ヲ小学校ニ置クノ果シテ利ナルヤ害ナルヤニ関ハラズ兎ニ角ニ之ヲ学校中ニ置設センコトヲ望ムハ人民至当ノ願望ナリ」として、そのための当面重視されるべき課題として「実業科」を教授できる教育者のために必要な知識を蒐集することであるとしている。

(4)『東京教育新志』第154号(1886年)に載った「我国ノ普通教育ハ強迫教育ヲ取ルベシ」(11)はドイツ、ベルギーの例を出して「干渉主義」「強迫主義」が政治家の世論となっていることを肯定的に論じつつ、我が国の開化が短期間に実現したのは「欧米諸国ノ開化ヲ輸入シテ所謂社会進化ノ秩序ヲ飛ビ超ヘ」たためである、そのため「内部ノ改良ニ至テハ未タ十分ニ行届カザル所」がある、したがって「我国ヲシテ内貌外観共ニ進歩シ欧米諸国ト相拮抗シテ一歩ヲ譲ルコトナカラシメンコトノ希望ハ我国人民ノ普ク有スル所」であるというのである。この主張の根底には「教育ヲ以テ富国強兵ノ基礎」という確固とした信念がうかがわれるのである。

 『東京教育新志』に掲載された以上の「普通教育」論を見るかぎり、政治経済上の支配層の普通教育論を表明したものといえるであろう。

 

 第7節 森有礼の普通教育論

(1)「埼玉演説」の概要

  内閣制度への移行にともなって初代文部大臣に就任した森有礼は「普通教育」にたいしてどのような姿勢で臨んだのだろうか。大臣就任直前の1885(明治18)年12月19日、埼玉県尋常師範学校において行った演説(以下「埼玉演説」とする)(12)では「普通教育」という言葉が8回も使われていることで注目される。しかし、数多く残されているそれ以後の演説等では「普通教育」という言葉はほとんど用いていない。「埼玉演説」はむしろ例外であった。文部省の普通教育政策が人間の育成ではなく国民の育成を基調とする「普通教育」へ、あるいは「国民教育」へと転換しつつあったが、森もまたこの動きを独自の立場から明確にとらえていた。森のその後の三年間は「国民教育」もしくは「国家教育」の確立に捧げられたと言っても過言ではないだろう。

 森にとっては教育とは「丁年未満ノ者ヲ正確ノ人物為用ノ器物ニ養成スル」こと、あるいは「丁年未満ニシテ未タ独裁ノ資格ナキ者専ラ他人ノ指導ニ由テ智育徳育体育ヲ発達セラルル」ことであった。「正確ノ人物」像が特定され、子どもの智育徳育体育はそれに従属させられることになった。そこから気力・気質が強調され、薫陶・感化が重要な教育法となった。広義の教育も普通教育も未分化なまま「国民教育」として同質化された。

 また、「埼玉演説」において森は「普通教育ノ本源タル師範学校」という言い方をしている。それは薫陶・感化を基本とする森の教育論から必然的に導かれるが、上から下へ、中央から地方へ薫陶・感化の体系を確立するというのが森構想であった。同時にそこに見られる精神主義・鍛錬主義はその後のわが国の教育政策にも受け継がれて行くものであった。

 この演説の冒頭、森は「平生思フ所ノ事柄ノ一端ヲ談話」するものであると前置きし、演説は「起立」せずに「平座」で行われたようである。すでに外務省幹部・参事院議官を歴任し、内閣委員、文部省御用掛、東京師範学校、東京商業学校各監督を兼任していることを考えると、いかにも森の性格が表れているように感じられる。この演説の要旨は次のとおりである。

①政府・文部省は「普通教育」を重視している。

②「普通教育」を「善良」にするうえで「最モ注意ヲ要」するものは府県立および文部省直轄の師範学校である。

③この師範学校で「生徒ヲ教養」して「完全ナル結果」を得るならば「普通教育ノ事業」は完了したと言うことができる。

④なぜならば、学校において「資金」や「器具」が充実していても、「教員」を得ることが出来ないならば、「普通教育」はその効果をあげることができない。

⑤「教員」は「普通教育」をその「一身」に「負担」すると言うこともできる。

⑥したがって「教員」の「陶冶養成」に責任をもつ「師範学校ノ教員」の責任は「更ニ一層」重大である。

⑦「普通教育ヲ負担スル教員」すなわち「師範生徒」を「陶冶養成」するためには「如何ナル人物ヲ作リ出サントスルカ」という「目的」がなければならない。

⑧師範学校で学んだ学科をただ「児童ニ伝授」するだけでは「学科ノ効能」を生かすことはできない。

⑨教員の「人トナリ」が「善良」であれば「能ク事物ヲ整理スル」ことができる。「世ノ中ノ事柄ハ総テ人物ニ因テ結果ノ如何ヲ現スモノ」だからである。

⑩では教員の「善良」はどうしたら得ることができるか。それは「随分難題」である。「百般ノ注意」がそのために集中されなければならない。

⑪「百般ノ注意」については「三箇条」あるいは「三個ノ順序」というものがある。それは「従順」「友情」「威儀」の「気質」を養成することである。

⑫「三箇条」の目的を達成するためには「道具責メノ方法」が必要である。東京師範学校に「兵式体操」を導入したのはそのためである。実験の結果がよければ広く実施したい。しかしそれはあくまでも「百般ノ注意」のなかの一つにすぎない。

⑬「人間日々ノ事柄」はすべて「戦争」でないものはない。国家間の戦争のためには「専管ノ職務」があるが、「戦争」には「外国ニ関シタル工商業上ノ戦争」や「智識上ノ戦争」もあるし、「今日我々カ身ヲ立テ志ヲ定メ我日本ヲシテ善良ノ国タラシメントスル」ことも「戦争」である。

⑭「日本男子タランモノ」は「万国ノ冠」となるよう勉めなければならない。

⑮「万国ノ冠」となることは「容易ノ事」ではない。「唯恃ム所ハ普通教育ノ本源タル師範学校ニ於テ能ク其職ヲ尽ス」のみである。

⑯したがって師範学校の「教育」・「管理」・「経済」等に注意してその基礎を確立すること「第一着」である。

⑰そのために「進取不屈ノ精神」をもって「間断ナク」師範学校の「改良」のために努力すべきである。

(2)「埼玉演説」の意味

 第1に、森は政府・文部省は「普通教育」を重視しているというが、その重視の方向をめぐって当時の支配層におおよそ3つの路線が見られた。第1の路線は天皇勢力がめざす方向であり、小学校における徳育重視の路線である。第2は文部省が推進してきた普通教育の「改良拡張」路線であり、内務・大蔵両省からの地方経済節減要求にもかかわらず徳育・職業教育を重視した小学校教育を普及させる路線である。この路線は第3次教育令によって具体化された。第3の路線は伊藤・森などの教育令体制改変路線である。「埼玉演説」は第3の路線に沿って「普通教育」重視を表明したものである。

 第2に、森は「普通教育」の「善良」化を強調し、師範学校の役割を重視しているが、それは一面では1881(明治14)年の「小学校教員心得」の精神を継承するものであるが、師範学校を重視する方向は異なるものである。これまでの文部省の普通教育政策の教育内容上の特徴は徳育と職業教育重視であった。また、教員政策においては第3次教育令に見られるように教員免許取得にあたっては卒業証書に加えて検定制度を義務付けるものであった。

 「埼玉演説」はこれまでの文部省の教育政策の方向を転換し、師範学校の教育・管理・経済の全面的な国家統制強化を意図するものであった。それは東京師範学校教員・府県立師範学校教員・小学校長・教員という縦の関係強化を通じての教員統制を図るものであるが、師範学校での統制強化がどのような意味において小学校の教員統制に資するのかについては説明不十分なものであった。この点はその後大きな政治問題となった。このことをもって森文政に対する反動が「教育勅語」を引き出す理由となったという解釈もある。

 第3に、森は教員の「人トナリ」の「善良」性を「能ク事物ヲ整理スル」ことができることに求めている。

 第4に、森は師範学校生徒の「陶冶養成」の方法を「学科」主義ではなく「人物」主義に求めている。その「人物」が具備すべきものが「三気質」であるが、それらは何らかのイデオロギーを注入することによってではなく、生徒たちが「交互」に兵卒・伍長・司令官となって体操を行うなかで形成されるものであると述べている。ある種の「戦争」状態を想定しそれに勝利するという明確な目的のもとに師範学校生徒という同質社会のなかにタテ型の集団を組織しそこでの訓練を通じて「三気質」を形成するというのである。「兵式体操」の発想は主としてイギリスでの紳士教育もしくはパブリックスクールでの教育や日本でのに文武両道の精神などからヒントを得たのではなかろうか。

 

 第5に、森は「人間日々ノ事柄」はすべて「戦争」であるという。この場合、「戦争」とは第一義的には国家間の戦争であった。国家間の戦争は政治的軍事的レベルだけではなく経済的、文化的、教育的レベルでも把握されていた。とくに「工商業上ノ戦争」についてのリアルな認識は森の10数年にわたる留学・外交官生活のなかで培われたものであるとともに列強に包囲されたなかでの開国という事態に対して青年期森が自らの信念とした強烈な愛国主義の現れとも言うことができる。問題はこの「戦争」にたいして森がどのような立場から臨んでいるかである。どのような戦争なのか、それを防止するためには何をしなければならないかという立場からではなく、戦争状態が発生すれば直ちに応戦すべきである、「万国ノ冠」となるまで戦うべきである、さらに日頃から戦争状態に備えるべきである、という立場から戦争をみていたのである。

 戦争不可避論は森の思想と行動を規定していた。「埼玉演説」に先立って森は4月、文部省としては教育令改正案策定に取り組んでいた時期、大阪商工会議所で商業教育の振興を訴えている。(13) この演説で森は「将来更に支那人と欧米人と何れか勝つか負くるか、商工業の大戦争あることを免れさるへきなり」、「商業上の権利を掌握する者は総ての権威を指揮」することができる、「日本帝国」はとくに「支那商人」に勝利して「東洋諸国」において「商業の権を掌握する」ことを「自任」しなければならない、という立場から、大阪においても商業学校を設立することが急務であることを説いている。

 なお、この演説で森は「支那商人」は商業戦争上「畏怖すへき」存在であること、彼らにたいする日本人の偏見に根拠がないこと、彼らの眼中には「君主」も「政治」もなく「全身を挙けて」商業に打ち込んでいることなどを挙げたうえで、しかしながら日本は「天然」の条件に恵まれていること、したがって商業教育の振興という主体的な条件さえ満たされば世界商業戦争すなわち帝国主義戦争に勝利できるという確信を抱いていたことは留意されるべきであろう。世界商業戦争に勝利するために「全身を挙け」ることが第一義的課題であり、「君主」や「政治」の性格もその見地から把握されていたのである。

 普通教育のありかたはそのような事態に有効でなければならない、師範学校はそのための「本源」であるべきだ、と言うのである。「兵式体操」は「決シテ軍人ヲ養成シテ万一国家事アルノ日ニ当リ武官トナシ兵隊トナシテ国ヲ護ラシメントスルカ如キ目的ヲ以テ之ヲ学科ノ中ニ加ヘタルモノニアラス」という森の言い方は「兵式体操」の純教育的もしくは平和的性格を述べたものではない。それは軍事目的のためには「専管ノ職務」があると言う認識とむすびついているものであって、教育の分野においても独自の方法で戦争状態に日常的に備えるべきであるという見解を表明したものであった。

 こうして森の普通教育論は明確に戦争政策と一体のものとして構想されたのである。その意味で森の普通教育論は「尊皇愛国」「富国強兵」「殖産興業」を国家目的としてきた政府・文部省の教育政策を「富国強兵」を主軸としていっそう押し上げる役割を果たすことを意図したものである。

 

 注

(1)『大日本教育会雑誌』第10号、1884年8月31日発行、所収。

(2)『大日本教育会雑誌』第8号、1884年7月5日発行、所収。

(3)『大日本教育会雑誌』第15号、1885年1月31日発行、所収。

(4)『大日本教育会雑誌』第14~15号、所収。

(5)庵地保『民間教育論』、金港堂、1880年。

(6)この年(1885年)4月、『教育報知』が創刊されたが、その創刊号および 第4号に庵地保の『通俗教育論』の広告が掲載されている。それぞれ別の内容で本 書の紹介を的確に行っているので、ここに再録しておきたい。

 「右ハ普通教育ノ次第ヲ俗談平話ニ認メ最初ニ人間ノ安泰ハ教育ノ普及如何ニ基ク 事父母ハ情ト理トニ於テ其ノ子ノ教育ニ心配スヘキ事又一国ノ教育ハ国法ニ依リテ 督促スヘキ事等ヲ述ベ続テ体育智育徳育ノ事ニ論及セリ就中徳育説ノ如キハ従来ノ 迷妄ヲ覚悟シテ更ニ新案ヲ立テラレタレハ世ノ教育ニ従事スルノ士ハ勿論苟モ学務 担当ノ職ニアル者ハ必ス一読スヘキ書ナリ」(創刊号)

 「該書ハ表書ニ掲ケタル如ク普通教育ノ旨意ヲ俗談平易ノ文章ヲ以テ誰人ニテモ教 育ノ旨意ヲナールホドト了解シ得ル如ク民間不学ノ徒ヲモ子弟ヲ教育セネバナラヌ トノ主意ヲ解得セシムル如ク的実ナル引証ヲ挙テ得意ノ論ヲ述ベラレタル書ニシテ 其編成ノ趣向ハ第一章ヲ総論ニ起シ二章之ニ続キ教育ノ目的ヨリシテ父母ノ子ヲ教 育スル責任ノ事第三章体育ノ事第四章知育ノ事第五章徳育ノ事ヲ説キテ以テ完備ト ス殊ニ徳育ノ如キ玩昧スヘキモノナリ我儕ハ斯ノ如キ書ノ続々世ニ行ハレンコトヲ 希フテ止マザルナリ」(第4号)

(7)『東京府教育談会報告書』第7冊、12~13ページ、1886年3月27日 刊。

(8)『東京教育学会雑誌』第13号、1883年、所収。

(9)『東京教育新志』第66~68号、1885年。

(10)『東京教育新志』第105号、1886年1月13日付。

(11)『東京教育新志』第154号、1886年12月22日付。

(12)『大日本教育会雑誌』第27号、1886年1月31日発行、所収。なお大 久 保 利 謙 編 『 森 有 礼 全 集 』 第 1 巻 お よ び 日 本 近 代 思想 体 系6 『 教 育 の体系』、  1990年、岩 波 書 店、にも収録されている。

(13)大久保利謙編『森有礼全集』第1巻、1972年、宣文堂書店、459~4 67ページ。