第二章 すべての子どもたちに普通教育を受けさ    せるのは国民の義務
      ー日本国憲法と普通教育ー
 
  第一節 前文と普通教育
 
  広義の教育であれ普通教育であれ、それらは政治のあり方と密接不可分な関係にあります。憲法がどのような教育理念を内在させているかはその憲法の質を規定しているといっても過言ではないと思います。その意味では日本国憲法はたいへんすぐれた憲法といえると思います。日本国憲法の前文にはとくに教育については触れていませんが、そこには第二十六条の教育条項を規定する重要な理念がうたわれているとおもいます。
 第一に、前文には「主権は国民に存する」としていますが、重要なことはそのことが「人類普遍の原理」とむすびついていることです。つまり、国民主権の原則は過去の戦前の日本においても「人類普遍の原理」だったのであり、将来の社会にあってもそのような原則でいくのだということを述べているのです。たしかに、戦前の日本は憲法原理においては天皇主権ではありました。しかし、そのもとでも国民主権を主張する人々も実際に存在していたのであり、そのような人々の主張には「人類普遍の原理」から見るならば正当性があったのだ、国民主権、あるい民主主義を要求する声は、時代をこえていつの時代にも、また国を問わず存在するのであって、その意味で国民主権原理は人類普遍の原理なのだと憲法は主張しているのです。
 このことに関連して、たとえば、一九九四年に読売新聞社が発表した憲法改正試案にはたいへん重要な問題があると思います。試案によれば(第十一章でも詳しく検討していますが)、国民主権はいうもののそれが人類普遍の原理とは言っていないのです。つまり、試案によれば憲法が改正されたときから国民主権原理は「人類普遍の原理」ではなくなってしまうこともありえるわけです。
 さて、主権を「国政のあり方を最終的に決定する権力」(日本評論社『法学辞典』)とした場合、国民主権原理とはそのような権力を有しているのは国民であるという原理にほかなりません。したがって、国民が国民あるいは主権者であるためには「国政のあり方を最終的に決定する権力」を行使する能力を有していることが前提となります。議会制民主主義はそのような原理の現代的な制度ですが、たとえ直接であろうと間接であろうと国民主権とは国民一人一人が「国政のあり方を最終的に決定する権力」を行使しえる能力を有していることを前提としているのです。
  このことは普通教育にとってもきわめて重要な問題と言えます。人類は人類であるがゆえに何人といえども「国政のあり方を最終的に決定する権力」を行使しえる能力を有しているとするならば、そのような能力を能力として発揮し得る実力をすべての国民は国民として社会に登場するころまでには獲得していなければならないのです。本来、国民主権原理とはそのことまで含むものなのではないでしょうか。そうでなければ国民主権原理は砂上の原理になってしまうのではないでしょうか。ここに国民主権原理と普通教育との不可分な関係が生じるのです。別の言い方をすれば、国民主権原理と普通教育との関係を不当に切り離し、普通教育のありかたを政治支配に有利なように統制しようという衝動がしばしば権力側に見られます。教育は国家百年の大計ともいわれますがそれは為政者の本能的な発想でもあったのです。
  すべての国民が国民として主権者として社会に登場し得る能力を獲得できる年齢はおおよそ十八歳以上と考えられています。実際には国によつて異なりますが、日本のように二十歳でよいかどうかについてはこれまでも論議があるところです。十八歳以上になれば主権者となるというのはその年にいたるまでの人格形成がどうであれ憲法は国民の基本的権利としてすべての人を主権者として保障するということです。実質的にそのような能力の獲得を前提とするものではありませんが、だからといって形式的なものでいいということにはならないでしょう。日本国憲法が戦前の歴史を総括し、諸外国の制度を検討して制定されたものであるということ自体、実質的な能力の獲得をめざしたものと考えるべきでしょう。そのことを可能にする制度こそ普通教育制度なのです。くりかえしますが民主主義と普通教育とはその意味で車の両輪といえるのです。そして両者とも「人類普遍の原理」と結びつくことによつて本来の力を発揮するのです。
  このことは普通教育とは国民や主権者を育成する教育のことだと言うことを意味するものではありません。普通教育は本来人間を人間として育成することを目的とするものです。充実した普通教育によってこそ真に主体性のあるしっかりとした国民あるいは主権者が形成されるのです。
 すべての人がそれぞれの個性的な特徴を持ちながら自らの能力を全面的に発揮すること、そのことを社会的に保障する制度が普通教育制度なのであって、国民や主権者を育成するということはそのような普通教育制度の重要な構成部分であってもけっしてすべてということにはならないのです。
  日本国憲法の前文には国民主権原理の他にも「平和のうちに生存する権利」などについても規定しています。平和の問題も普通教育にとつて重要な問題です。しかし、どのように重要であるかが問題だと思います。いささか脱線しますが「平和のうちに生存する権利」と普通教育との関係について日頃考えていることを述べてみたいと思います。
 平和という言葉は、国家間の戦争との関係で論じられるだけではなく、平和な家庭とか、私は平和な生活が好きだとかという言い方や、あいつは平和なヤツだという多少皮肉を込めた意味で用いられることもあります。人々の生活の中には誤解、偏見、競争、ケンカ、葛藤、対立、嫉妬、ねたみなどいわばトラブルの原因となるものがしばしば発生します。むしろそれこそが常態といえます。これらが存在することはよいとか悪いとかの問題ではなく、どんな社会にも起こり得るものです。また、子どもの世界にも当然起こり得ることです。その場合、ほんとうはいろいろ解決しなければならない問題があるのにそれに気がつかない場合、あいつは平和なヤツだということになりますし、また問題の原因を正確に把握しないで感情的あるいは一方的に解決しようとするとこじれたり、場合によつては暴力によつて解決をはかろうという衝動が生じてきます。私は平和教育という場合、そのような問題に当面したときその問題がどのような問題であるのか、どのようにすればお互いがほんとうに納得できるような解決がはかられるのかを正確に認識し、どんなばあいでも話合いによつて解決することができるような能力を育てることだと考えています。
 このように考えると、平和教育の課題は子どもの周囲にはいくらでもころがっているのであって、素晴らしい平和教育が可能だと思うのです。そのような平和教育が積み上げられていれば、日米安保条約の問題や過去の戦争についても、当事者間にどういう問題があるのか、その問題とはどういう問題なのか、それはどのように解決されるべきなのか、話合いで解決するためにはどのような努力が必要なのか、についても具体的に考えることができるようになると思うのです。普通教育の見地から考えた平和教育というのは私はこのように考えるのですがいかがでしょうか。
                   
 第二節 広義の教育と普通教育ー第二十六条第一項について
                   
 第二十六条は教育条項とも呼ばれています。つぎの三つの項目からなりたっています。一般的には二項構成として理解されていますが、憲法制定過程では三項とされており(第四項も提案されていましたが)、また本書でも叙述の都合からも三項構成としておきます。
 
  第一項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を   受ける権利を有する」
  第二項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受け   させる義務を負ふ」
  第三項「義務教育は、これを無償とする」

 第一項には「教育」とあるだけで「普通教育」という言葉は用いられていません。
 まず、「法律の定めるところにより」というのは戦前のように勅令主義によるのではなく法律主義によるということを意味しています。また、「その能力に応じて」というのは個々人の能力に応じてということであって、経済的など社会的な能力のことを意味するのではありません。すべて国民は能力と必要に応じてどのような教育も受けることができる、逆に能力や意思がない場合にはけっして教育を強制されるものではない、ということです。
 第一項の核心は「すべて国民は教育を受ける権利を有する」ということです。戦前のように国民は国家から与えられた教育のみをひたすら受けなければならない、ということではなく、「国民は教育を受ける権利を有する」ということです。「教育を受ける権利」については国民主権原理とむすびつけて考える必要があります。その国の教育の基本的なあり方は国政の重要事項です。したがって、国民主権原理の立場からするならば、その国の教育のあり方を最終的に決定する権力を有するのはもちろん主権者としての国民です。その意味で教育権は国家にあるのではなく、国民にあるのです。「教育を受ける権利」も国民の教育権を前提として理解される必要があります。
 さて、国民が有する教育権とはどういうものでしょうか。この場合の「教育」はたいへん広い概念であろうと思われます。今日でいう生涯学習とか市民教育や社会教育、高等教育や専門教育・職業教育なども含まれるでしょう。もちろん普通教育も含まれます。このように普通教育をも含めた広い教育の基本的なあり方について決定する権利を有しているのは国民なんだというのが、この第一項の前提となっている基本的な考え方です。
 このことは、国民はどのような教育が自分たちにとってふさわしいものであるのかについて判断する能力を有していなければならないし、その能力を発揮できるかどうかについて社会的責任を問われているということも意味しています。その場合、国民とは基本的には十八歳以上のすべての国民ということであって、親とか教師とか政治家におまかせということではありません。
 これまで、内閣総理大臣や文部大臣の諮問機関として臨時教育審議会や中央教育審議会が設置されてきました。それらが答申を出しそれにそって教育政策を進めるというシステムがあたりまえのようになっていますが、これは第二十六条第一項の趣旨からいっておおいに問題があるところです。立法府よりも行政府の方が実質的な教育権を行使するシステムになっているからです。「教育基本法の精神に則って」といいながらそれとは矛盾する教育改革をすすめるシステムになっているからです。広義の教育にたいするすべての国民の意思を結集し、その総意が実際に生かされる制度の確立が求められています。
 第一項の趣旨をさらに法律で規定したものが教育基本法ということになります。教育基本法については第三章で述べることにします。
 
  第三節 すべての子どもに普通教育を受けさせることは国民すべての義務ー第二十六第二項     の意義ー

 第二項は日本国憲法に「普通教育」という言葉が用いられている唯一の条項であり、おそらく世界の憲法でも例をみない画期的な条項であろうと思います。このことはたいへん重要なことだと思います。
  第二項にも「法律の定めるところにより」とありますが、その意味については第一項の場合と異なって、普通教育の修業年限等については法律に委ねるという意味とされています。
 「国民はその保護する子女」という場合の「保護」の意味については憲法制定当時いろいろ論議もありましたが、直接的な狭い意味での「保護者」という意味での「保護」という意味ではなく、したがって基本的には国民自身がすべて子女(子ども)にたいして保護する立場にあるという意味です。戦前は政府が国民の保護者を任じていたわけですから、国民主権原理にたてば国民自身が子どもの保護者となるというのは当然のことと言えます。
 国民と子女との年齢的境界についてですが、十八歳が前提とされていたと思います。それは明治以降の政府・文部省の今日に至る一貫した考え方であったと思います。
 明治期に文部省は普通教育の修業年限は十二年間とするという方針を出しています。義務制であるかどうかが当時の問題ではなく、普通教育制度を基本的にどのようなものとして確立していくのかという見地から十二年という方針を出しているわけです。ということは十八歳までを普通教育を受ける対象として考えていたことを意味しています。とはいえ、当時十二年間の普通教育を修了できた人は末は博士か大臣になれるようなほんの一握りの人であったのです。一握りであれ何であれ「国の品位」を代表する「国民」を「普通教育」においてどのように養成するか、そしてまた大多数の庶民の子どもたちにどのような「普通教育」を施すか、これが当時の政府・文部省の普通教育政策の基本でした。
 さて、本論に戻りますが、この第二項はすべて国民はすべての子どもに普通教育を受けさせる義務を負っているというのですが、別な言い方をすれば、すべての子どもは普通教育を受ける権利を有しているという認識がそこに内在していると解釈されます。制定当時、「普通教育を受ける権利」という明確な意識が表明されていたわけではありませんでした。しかしながら前章でも紹介しましたが明治十年代に「凡ソ人ノ子女タルモノ普通ノ教育ヲ受ケン事ヲ要求スルハ其固有ノ権理」という見解が表明されていたことを想起するならば、第二項に「普通教育を受ける権利」という観念が内在していたと見ることもできるのではないでしょうか。「子どもの権利条約」を契機にあらためて子どもの権利が強調されていますが、「普通教育を受けること」が「子どもの権利」として観念されていたことは意義深いことではないでしょうか。
 さて、子どもには普通教育を受ける権利があるということはどういうことでしょうか。いうまでもないことですが、子どもはだれでも人間として生まれてきます。人間には生まれながらにして人間として有している独自な能力を可能性としてもつています。その可能性の実体については近年はDNA研究などによっていろいろ解明されています。そしてこの能力についてこれまでは知的能力、身体的能力、道徳的判断力と大別し、それぞれに対応する教育を知育、体育、徳育などと言われてきましたが、最近ではたとえば『教育の段階』の著者であるモーリス・ドベスと言う人は身体的能力、情動的能力、社会的能力、知的能力、精神的能力などをあげ、それぞれに応じた教育を論じています。第四章で詳しく述べますが、学校教育法は「初等普通教育」の目標として例えば「日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養う」など八項目をあげていますが、それらもまた普通教育において育てる能力についての考え方であり、しかも学校教育法という基本的な法律に定められているということの意味は大きいと思います。それを教育課程、教育内容等においてどのように具体的に生かすかがその後求められていたはずですが、残念ながらその方向での前進はありませんでした。
 人間は目、耳などの感覚器官をとおして外界をうけとめながら自らがもっているそれぞれの能力を自己にふさわしく成長させていく存在と考えられています。また、それぞれの能力が成長していく過程にはいくつかの発達段階があり、その過程には一定の法則性があると考えられています。この法則性は現実には直接目に見えるように認識し得るわけではなく、個々人においてさまざまな個性的かつ特殊な性格を有する成長・発達過程の内部に貫いているのです。子どもというものはおおよそ十八年間のこのような過程を経て成長・発達し、それぞれの人格を形成していくのです。
 一方、子どもの成長の過程はさまざまな社会的関係の中におかれており、それらの中で子どもたちはいわばもみくちゃにされながら生きているわけですが、その過程にはある種の方向性が観察されています。たとえば、空腹になったら食べたいと感じるし、知らないものがあったら知ろうと思うし、嫌いなものがあったら避けようとするし、何かおもしろいもの、楽しいものを見いだしたいと思うし、自分が生きていることを実感したい、人間として生きたい、目標をもった生活をしたい、などという方向性です。一般に欲求とか要求ともいわれていますが、人間性とか良心とか性向という言葉でもいわれていることです。この場合、子どもが成長していくにつれて、社会全体の中での自分の存在について自覚し始めるようになります。そして自己の存在のあり方についてより納得したもの、より合理的なものを求めようとします。子どもたちはどのような環境に生まれても、かれらが人間であるかぎりそのような人間が人間としてもっている方向性をつらぬこうとするのです。
 社会は子どもをそのような存在として認めて、大人になるまでの間、子どもたちが各自もつている人間としての能力を十分に発揮できるように、そしてみずからの判断で社会人として自立できるように、独特な環境を形成してきたのです。その意味ですべての子どもたちは大人社会とは異なった独特な社会のなかにおかれ、それぞれの仕方において生活しているのです。その中で、より合法則的な成長・発達をうながす社会的営みが生まれてくるのもいわば必然のことといえます。そのような社会的な営みこそが普通教育にほかならないのです。
 第二十六条第二項にこれまで述べてきたような考え方があるというわけではありません。しかし、子どもには普通教育を受ける権利があるということを、憲法的理念を前提として考えた場合、これまで述べてきたような意味でも理解していくことが必要なのではないでしょうか。
(二)子どもたちに普通教育を受けさせるのは国民の義務であるとはどういうことなのでしょうか。
 国民はすべて教育を受ける権利を有しているが、同時にすべての国民は子どもたちにたいして普通教育を受けさせる義務を負っているということです。このことは戦前の普通教育のありかたの根本的な転換といえます。しかしながら、この転換は戦後五〇年たった今日でもあまり理解されていないように思われます。今日の子どもたちや学校の現状を見たとき、憲法や教育法令のレベルの問題としてだけではなく、目的、内容、方法、教育課程、制度など普通教育観の全般的な実質化があらためて強く求められていると言えるのではないでしょうか。
 ところで、国民はなぜすべての子どもたちに普通教育を受けさせる義務を負わなければならないのでしょうか。
 子育てや子どもの教育にたいする国民の義務なり責任を規定したものとしては教育基本法・学校教育法のほかに児童福祉法や児童憲章があります。
 児童福祉法(一九四七年二一月制定)は第一条に「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるように努めなければならない」と規定しています。この場合の児童とは「満一八歳に満たない者」とされています。
 児童憲章(一九五一年制定)の第四項には「すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる」、また、第六項には「すべての児童は、就学のみちを確保され、また十分に整った教育の施設を用意される」などと定められています。児童憲章については「社会のすべての成員が児童の福祉を図るための国民的約束であって、国民一般の意思によつて作成され、すべての国民を道徳的に拘束するものである」(永井憲一)とされています。
 児童福祉法にしても児童憲章にしても普通教育という言葉こそ用いていませんが、すべての国民はすべての子どもたちの子育てや教育に法的・道徳的義務ないしは責任があることを明確にしています。
 このようにみた場合、すべての子どもたちにたいして普通教育を受けさせる義務を負っているのは、親とか保護者とか教師という直接の保護者のことではなく、ましてや戦前のように国家や政府ということではなく、すべての国民であるということを憲法で規定したことは歴史的意義を有するものだと思います。もちろん、親にも保護者にも教師にも、また国家や政府・文部省にも普通教育にたいしてそれぞれ独自の責任や義務があることはいうまでもありません。しかし、憲法では、子どもたちに普通教育を受けさせる第一義的義務を負っているのはなによりもまずすべての国民であることを規定しているのです。

 第四節 「義務教育」についてー制定過程に触れてー
 
 憲法第二十六条はさらに第三項として「義務教育はこれを無償とする」と定めています。
 新聞にこんな記事がのっておりました。高校を辞めようとおもっている高校生に「せっかく、親に高い金を出してもらつて入った高校なのに、もつたいないじやないか」、「そんなこというけど、先生、高校は義務教育ではないんだから、いつやめようと、自分の勝手じゃないですか」、「君は義務教育を、自分たちの義務だと思っていたのか」、「もちろん、そうですよ。だから、どんなにつまらない授業でも、じっと我慢して受けてきたし、どんなに先生からばかにされても、殴られても、悪いのは自分の方だと思って、我慢してきたんです」、「では聞くけど、義務教育の義務は、だれにたいする義務だったの」「・・・・」(「赤旗」、一九九六年九月四日付)
 最近は高校だけではなく、小学校・中学校にたいしてもなぜ義務教育なのかという疑問が投げかけられています。諸悪の根源は義務教育にあるかのような論調も飛び交っています。そして勢いあまってだから学校教育が悪いんだ、普通教育が悪いんだというような論調もみられます。そのような疑問や論調の背景としては学習指導要領によるしめつけとか、入試制度とか、学級規模の問題とか、先生の多忙化とか、家族や子どもたちの生活の変化とか、いろいろ考えられますが、そもそも「義務教育」とは何なのでしょうか。日本国憲法で用いられている「義務教育」という言葉はどのような意味なのでしょうか。
 憲法第二十六条の第二項と第三項をみて誰しもが感じる疑問は第二項「・・・普通教育を受けさせる義務を負ふ」という場合の「義務」と第三項の「義務教育」という場合の「義務」とは同じ意味なのかどうかということです。じつはここがきわめて重要な論点なのです。言葉通り解釈するならば、同じという結論にならざるをえないでしょう。したがって、「義務教育」というのは国民が子ども達に義務として負っている普通教育のことを意味すると解するのが自然でしょう。しかし、実際には「義務教育」という場合の「義務」とはそのような意味には理解されていないのです。結論からいえば、戦前的な意味での「義務教育」の意味で理解されているのです。なぜ、そんなことになったのでしょうか。この第三項の成立過程をしらべてみるとこうなのです。ちょつと複雑ですが直接関係ある部分について触れておきたいとおもいます。
 一九四六年三月二日に政府は憲法改正案をまとめますが、のちの第二十六条第二項第三項にあたる箇所は「凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ保護スル児童ヲシテ普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ。其ノ教育ハ無償トス」とされていました。私としてはたいへんすっきりとした明確な規定だと思っています。「・・・義務ヲ負フ。其ノ教育」となっていますから、その場合の「其ノ教育」とは「普通教育」であることは誰が読んでも明確ではないでしょうか。普通教育は無償であるとしているわけで、そこには義務教育という言葉は用いられていませんでした。「普通教育」は義務制であるべきであり、かつ無償であることも明確に表明されていると思います。
 このいわゆる「三月二日案」はその直後の三月六日の憲法改正草案要綱では「国民ハ凡テ其ノ保護ニ係ル児童ヲシテ初等教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フモノトシ、其ノ教育ハ無償トス」と修正されることになりました。あっというまに「普通教育」は「初等教育」にかえられ、無償となるのは「普通教育」ではなく、「初等教育」ということになりました。この要綱をベースに四月十七日政府原案が発表されましたが、そこでは「・・・初等教育を受けさせる義務を負ふ。初等教育は、これを無償とする」とされました。基本的には憲法改正案要綱と同じですが、「其ノ教育」という表現ではなく、あくまでも第二項の「初等教育」を受けてより明確な表現にしたと言えます。残念ながら「普通教育」は「初等教育」とされ、無償であるのは「初等教育」であるということですが、重要なことは「義務教育」という言葉はもちいられていないことです。国民はすべての子どもに「初等教育」を受けさせる義務を負っているということで、「初等教育」は義務制であるということが政府原案となったのです。
 この原案が議会に提出されたわけですが、義務制を「初等教育」に限定せずに青年学校や中等教育にもひろげるべきではないかという問題が提起され、たとえば新政会は「すべて国民は、その保護する青少年に法律の定める年齢まで義務教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする」という修正案を提案しています。こで初めて「義務教育」という言葉が用いられていますが、「義務教育を受けさせる義務を負う」では「語呂ガ悪イ」などの理由からしりぞけられ、ではどのような教育にすべきかということについて小委員会で検討することになりました。
 「義務教育を受けさせる義務を負う」では「語呂ガ悪イ」どころか戦前の義務教育にもどつてしまうわけでとんでもない修正案だつたのです。「三月二日案」の段階で「凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所二依リ其ノ保護スル児童ヲシテ普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ」という文言になったのは、憲法問題調査委員会において「日本国民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ教育ヲ受クルノ権利及義務ヲ有ス」という案にたいして、国民が教育を受ける権利を有するということであれば、教育を受ける義務は保護者が子女に教育を受けしめる義務というように表現すべきではないか、という議論をふまえたものでした。ここには重要な戦後的転換があったのです。この原点からはなれて戦前の義務観を前提にあらためて「義務教育」という言葉をもちだしてきて「義務教育を受けさせる義務を負う」としたのでは、たんなる戦前の義務教育の拡充に過ぎなくなってしまい、憲法改正の意味がなくなってしまうのです。
 しかし、このことは当時の帝国憲法改正案委員会内部にはあまり明確に自覚されていませんでした。小委員会での議論は「初等教育」の是非をめぐつて「教育」だけでいいのではないか、「国民教育」ではどうかなどが出されましたが、結局八月一日の会議で芦田委員長が「普通教育」といってはどうかと提案し、これが結局最終案となって承認されることになったのです。その際、佐藤達夫政府委員は「憲法ノ指導精神」を出すために単なる教育ではなく、「普通教育」としたのだと説明したのは注意してよいことと思います。(衆議院事務局編『第九十回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』、一九九五年、参照)
 なお、「普通教育」の範囲についても論議されました。当時、国民学校の目的が初等普通教育、中等学校や高等学校が高等普通教育とされていましたから、高等学校までをも含むのかが論点となりましたが、結局「法律の定めるところにより」という語句を挿入することによつて教育基本法での処理に委ねられることになりました。
 こうして、「・・・普通教育を受けさせる義務を負ふ」となったものの、新政会提案にあった「義務教育は、これを無償とする」という文言までは論議されずそのまま残ってしまいました。
 このような経過から判断すると「義務教育は、これを無償とする」という場合の 義務教育というのは戦前の義務教育をひきづっていると考えられます。つまり、「・・・普通教育を受けさせる義務を負ふ」と「義務教育は、これを無償とする」との間に断絶があるのです。もちろん、だからといって憲法上の「義務教育」を戦前のそれであるということにはなりません。あくまでも憲法全体や第二十六条全体の精神に照らして「義務教育」の意味を理解すればいいわけです。ですからそのように理解した場合は、義務教育とは義務制の普通教育であるということになるのです。しかしながら、義務教育という用語が普通教育の戦後的な意味とむすびつくことなく、しかも普通教育という言葉のうえにおおいかぶさって普通教育の本当の意味がかげに隠されてしまったところに問題があるのです。政府・文部省はその後も普通教育という言葉を使わずにもっぱら義務教育という言葉を意図的に用いています。
 下位法では義務教育の問題は「就学義務」の問題としてうけとめられ詳細に規定されています。学校教育法第二十二条・第三十九条はそれぞれ小学校・中学校の「就学義務」を定めていますが、そこでの内容は戦前の国民学校令第八条の就学義務規定の事実上のひきうつしになっています。また、学校教育法施行令も第一章で「就学義務」について規定し「義務教育」体制を強固に支えています。普通教育を受けることは子どもの権利である、国民はすべての子どもに普通教育を受けさせる義務を負っている、という見地から、子どもと就学との関係について根本的な再検討を加える必要があるのではないでしょうか。第三章、第四章でも義務教育の問題について触れることにします。
 
  第五節 普通教育の行政解釈
  
 普通教育についてこれまでの文部省側の解釈はつぎのようなものです。 「人たる者にはだれにでも共通に且つ先天的に備えており、又これある故に人が人たることを得る精神的、肉体的諸機能を十分に、且つ調和的に発達させる目的の教育をいうのである。かかる教育は、いかなる身分の者、またいかなる職業につく者にも共通であるから、名づけて普通教育と称するのである。それであるから、普通教育は、特定の技術、学芸を習得させて特定の業務の遂行に役立たせることを目標とする特殊教育、専門教育ないしは職業教育とは区別される。このように普通教育は、人たるものすべてに共通に必要な教育であり、人たるだれもが一様に享受しうるはずの教育であるから、国家はその必要なる最小限を国民に確保しなければならない。ここに普通教育の観念が義務教育のそれと結びつくわけが存するのである」(教育法令研究会『教育基本法の解説』、教育基本法文献選集一、学陽書房、所収、一七一ページ)
  「人が人たることを得る精神的、肉体的諸機能を十分に、且つ調和的に発達させる目的の教育」を「普通教育」と定義する限りにおいてこの定義は大筋において適切と言えましょう。しかしながら「いかなる身分の者、またいかなる職業につく者にも共通であるから、名づけて普通教育と称す」ということになると「いかなる身分の者、またいかなる職業につく者にも共通」な教育は必ずしも普通教育に限られるものではありません。それこそ「共通教育」でもよいでしょうし、「国民教育」でも「義務教育」でも含まれることになるでしょう。後段において「国家はその必要なる最小限を国民に確保しなければならない」、あるいは「ここに普通教育の観念が義務教育のそれと結びつくわけが存する」ということになると、もう「普通教育」と「国民教育」と「義務教育」とは紙一重の違いしかありません。なぜ、こうなるのかと言えば最初の「人が人たることを得る精神的、肉体的諸機能を十分に、且つ調和的に発達させる目的の教育」という定義がきわめて観念的な定義に留まっているからなのです。
 また、「普通教育」と「特殊教育、専門教育ないしは職業教育」とを対置させ、「特定の技術、学芸を習得させて特定の業務」を遂行する上での共通教育と認識していることも問題です。すべての人間が「特定の技術、学芸を習得」するわけではありません。普通教育というのは人々はみずからの個性を実現していくうえで人間性が育成されていなければならないという自覚と結びついたものであり、個性を実現することと「特定の技術、学芸を習得」することとは別の問題です。子どもたちはそれぞれの個性を徐々に自覚しながらやがて「特定の技術、学芸を習得」しようとしていきますが、その「特定の技術、学芸を習得」するためにもそれぞれの技術や学芸に応じた共通教育や基礎教育などが必要になってくるでしょう。その場合、あらゆる技術や学芸に共通な教育というものが必要であるとも思えませんが、もし必要であるとすれば、それこそそれが普通教育ということになるのではないでしょうか。しかし、その場合、その普通教育とは「特定の技術、学芸を習得」との関係に対応するものではなく、いかなる「特定の技術、学芸を習得」しようとも、あるいは社会人としていかなる人生をあゆもうとも、すべての人を理性ある人間としてしつかり自立できるように育成する社会制度のことなのです。
 この行政解釈のもう一つの問題点は、普通教育と義務教育との関連づけについてです。普通教育を「特定の技術、学芸を習得」するための共通の教育と考える立場にたつと、その「共通」とはなにかを設定することが必要になります。しかし、普通教育を人間が人間として成長し人間として自立していくプロセスにそくして組織していくとすれば、普通教育の内容はそのプロセスの科学的解明のうえに組織していけばいいと言うことになります。じつはそのことが普通教育にとつてもつとも根本的な課題であり、もっとも重要な課題でもあるのです。教育学や教育心理学などは主としてこの課題を解明してきたといっても過言ではないのです。このような学問的な成果の上に国民の総意として国民の子どもたちに対する義務として普通教育の目的・内容を確立していくことが求められているのです。そのようにして確立した普通教育の目的・内容にもとづいて、すべての子どもたちがみずからの権利として普通教育を享受できる環境を確立することが重要なのであり、教育基本法第一〇条はそのための条件整備を国の責任としておこなうようことを求めているのです。
 ですから、「特定の技術、学芸を習得」するための共通の教育だからということで、そこからいきなり「人たるだれもが一様に享受しうるはずの教育」を設定し、「国家はその必要なる最小限を国民に確保しなければならない」として、そのことを根拠に普通教育は義務教育であるという議論を展開するのはたいへん乱暴といわざるをえません。教育権についての戦後転換をまったく理解していない解釈といわざるをえません。
 さて、教育基本法では学校についてそれは「公の性質をもつもの」で「国又は地方公共団体の外、法律に定める法人」が設置することができるもの、というものでした。学校教育法もこれを受けているのですが、そのなかには大学などもふくまれています。その意味でも学校と普通教育とは直接的な関係はないのですが、もともと学校と普通教育とは分けて考えねばならないものです。子どもたちには普通教育を受ける権利があるのであって、学校に通う義務、あるいは「就学義務」だけがあるのではないのです。明治時代の教育令でも「学校ニ入ラスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アル者ハ就学卜見做スヘシ」という規定を含んでいたのです。家庭にあって教師をやとい教則綱領にそった教育が行われていれば普通教育を履修したものとみなすというものでした。当時、「家庭教育」と言う言葉は家庭で親がおこなう教育というということではなく、家庭において一定の教則のもとで教師がついておこなわれる普通教育を意味していたのです。
 いま、学校が非難されているからといって、だから家庭でやるとか、〇〇シユーレや塾がいいとか、学校を選択するなどという議論がとびかっています。それぞれにはそれぞれの存在理由があるとは思いますが、だからといってそれらが存立するためにもその前提として普通教育の充実が急務であると思います。

 第六節 第八十九条についてー私立の普通教育機関への公費支出の論拠をこの条文に求める     のは間違いー
 
 日本国憲法の第八十九条もまた広い意味で教育について規定しています。。この条項があるがゆえに私学にたいする公金支出が制限されている、だから憲法改正が必要なのだという議論があります。この条項は普通教育について直接触れたものではなく、普通教育を含めた広義の教育について規定したものですが、普通教育との関わりを中心に若干述べておきたいと思います。
 第八十九条はこのように述べています、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。
 たしかに、この条文にも教育という言葉が用いられていますが、教育という言葉はじつに広いのです。ここでは「公の支配に属しない慈善、教育」を問題にしているのですが、では逆に「公の支配に属する教育」とはどういうことなのでしょうか。教育基本法第六条は次のように規定しています。「法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」。私立の学校はすべて学枚法人が設置しているのですから、当然「公の性質」を有しているのであって、憲法第八九条にいう「公の支配に属しない慈善、教育」には該当しないのです。ですから私学にたいする公金支出(国庫補助)は日本国憲法の理念や教育基本法第六条を根拠にもとづいておこなわれているのであって、しかもその大幅な増額要求運動が行なわれているのが現状です。もし、第八十九条を根拠に憲法を改正することになると、「公の支配に属しない」学校にたいしても公金をだすこととなります。私学に公金を支出しているのだからということで学校法人ではない宗教団体・民間組織などが設置する学校等にも公金を支出することになってしまうのです。