第2章  「学制」初期

    第1節 「 学制」制定をめぐる文部省内の矛盾

 1871(明治4)年9月2日、大学の行政部門を土台として文部省が設置され、38歳の大木喬任文部卿のもとで全国的な教育制度策定の検討が開始された。翌年1月、12名の学制取調掛が任命されたが、早くも2月12日には太政官へ草案が提出されている。

 倉澤剛氏は、「学制」草案作成は文部省設置の直後からすでに開始されており、その輪郭がまとまった段階で学制取調掛を置きここに諮問したと考えるのが合理的であり、学制取調掛自身は学制草案作成にタッチしていなかったのではないかと推察している。(1)   普通教育問題に焦点をあてながら「学制」制定過程を検討してみよう。

 倉澤氏によれば、文部省設置直後は東京府官吏でのちに文部省に抜擢された西潟訥が「学制改革議」(倉澤氏の表記にしたがう)なる文書を大隈参議に建言している。また、倉澤氏が「学制改革実施順序」と名づける文書も西潟が執筆したと推測されている。(2)  西潟は長 とともに「学制」起草者の一人であり、「学制」制定後は中督学として「学制」実施の陣頭指揮に当たっている。

 さて、「学制改革議」において、西潟は①「天下ノ富強ヲ欲セハ天下ノ人々皆富強ナラシムルニシカス」、②そのためには「人ヲシテ皆其才ニ応シ其学ニ就キ、其道ニ通シ其能ヲ達シ、皆以テ独立ノ力ヲ得、富国開明ノ実ニ至ラシムヘシ」、③廃藩置県の後、「毎県必ス速カニ一ツノ広大ナル学校」を創設し、その意志があるものは「男女貧富ヲ論セス」入学すること、④その学校の創設は3年後とし、その間に各省は教師を養成すること、⑤そのための費用は「巨萬」になるが朝廷にそのために支給する財政があるわけではない、⑥学問は「人民自立ノ為メナレハ、人民自ラ其費ヲ給スルコト当然ナルヘシ」、⑦しかし、国民はこのことを理解できないでいるのが現状であるから、そのような状況を打開するうえでも「早ク郷紳ノ議会ヲ興ス」べきである、⑧そのためにはまず太政官左院がこの趣旨を明確にした文書を作成し各県に通達し、「管内富有ノ民」を集め議し、左院に提出する、左院はその中で適切なものを抄録したものを作成し、再び県の議会に提示する、そうした手続きを経て布告すれば人民は納得し、自ら進んで「開明ノ域ニ進ム」であろう、と述べている。

 また、倉澤氏が「学制改革実施順序」と名づける文書で西潟は、①学問は「官費ヲ以建ツベキニ非ス」、②8大学32中学210小学、すなわち計53、760の小学校を設置し、さらに学科、小学の種別、教員養成についての基本計画を立案すること、③各県は以上のことについて議事を興し、必要な対策を講じること、等を提案している。

 文部省のもとで作成された学制案のうち、まず<学制の大綱>(「大綱A」とするー筆者)が1872(明治5)年2月12日正院に提出され承認されている。ついで4月19日か20日、さらに書き改められた<学制の大綱>(「大綱B」とする)がいわゆる「被仰出書案」、「学制草案」(121章)など計8つの文書とともに「学制発行ノ儀伺」として正院を通して左院に諮問された。左院はこれに積極的に応え、なんら注文をつけずに正院に答議したが、この段階で文部定額案について大蔵省の強硬な反対に遭遇し、結局決定経費は未決定のまま、9月4日、太政官はいわゆる「被仰出書」(以下、「学制序文」とする)を布告し、翌5日文部省は109章に変更された「学制」を布達した。

 「学制」はその後10月までに2度にわたり修正されたが、文部省独自予算の確保と府県教育費に対する国庫負担の方針が定まらないため、その具体化はさらに延ばされることになった。

 ところで、上記「大綱A」と「大綱B」との間に大きな相違点が見られる。全体として、前者が学制の制度的手続き的大綱を主としているのに対し、後者は国家建設上の立場から学制改革を論じている。両者の違いは文部省の普通教育を含む基本的な教育政策の方向をめぐる文部省内の矛盾を反映したものと言えよう。相違点とは以下の通りである。

(イ)「国家ノ富強安康」の「源」は「世ノ文明」にあり、それは「人ノ才芸大ニ進長スルモノアルニヨ」るとすることでは共通しているが、「大綱B」はさらに「文明」とは「一般人民文明」にほかならないと補足している。

(ロ)「大綱A」は大中小学ノ制、7~8の大学区制、検査ノ法、「人民ノ貧富ヲ区分シ其入学ノ途ヲ濫ナラシメス」こと、「一旦悉ク天下在来ノ諸学則ヲ廃」すること、などを規定しているが、「大綱B」はこれらのことについてまったく触れていない。

(ハ)「大綱B」はプロシャの学制を押し出し、とくに「不学ノ律」(「大綱B」の原案は「不学ノ刑」となっていた)、すなわちいわゆる「強迫就学」制を明確にしている。

(ニ)「大綱B」では「皇国」という言葉を用いている。

(ホ)「大綱B」は、従来の「学弊ヲ洗浄」することを強調している。

 「大綱A」と「大綱B」、いづれも大木文部卿が執筆したとされているが両者は明らかに性格を異にしている。倉澤氏は「大綱B」について、「国家主義の立場」あるいは木戸孝允の影響を指摘しているが(3)、論点を明確にするために敢えて言うならば、「大綱A」はすでに述べたように西潟構想を強く反映したものであり、「大綱B」は木戸構想が前面に押し出されたものと言える。両者は互いに両立しうるものではなく、前者は教育固有の論理に立った学制をめざす路線であり、後者は教育を国家の論理に従属させようとする路線である。「大綱A」は「大綱B」にとって代えられたと見るべきではないだろうか。

 しかし、この転換は「学制発行ノ儀伺」のその他の文書には基本的には及んでいない。政府の立場からすれば、これ以上立ち入ることはできなかったし、あるいは基本方針で政府の立場(「大綱B」)が宣言されていれば、ほかの文書をその後拘束することができると考えたのであろうか。

 大木は以前から木戸と交流があったし、倉澤氏によれば西潟を抜擢したのは大木であった。いずれにしても、大木の矛盾は政府と文部省の矛盾であり、また文部省内部の矛盾でもあった。学制体制はしばらくは「大綱A」の路線、あるいは西潟路線で進むことになるが、内包していた矛盾は数年後に顕在化し、「大綱B」路線に転換していくのである。

 

 第2節  「人」と「人民」

 「学制序文」において、「人」もしくは「人たるもの」と「一般の人民」という言葉が区別されて用いられていることに留意したい。「一般の人民」についてはさらに細書で「華士族農工商及婦女子」と補足されている。ちなみに、この原案では「一般ノ臣庶人民ヲシテ華族士族農工商及婦女子」(傍線の部分は細書)となっている。(4)  木戸の場合、「人民」とは天皇に対する対概念であり、「人民」はさらに身分的にも階級的にもそれぞれ異質な階層を総称するものであった。したがって、そこでの学問・教育はそれぞれの身分・階級にふさわしく、かつすべての人民が学ぶべきものとされたのである。

  一方、「人たるもの」とは一般的抽象的な概念であり、「人民」の具体的現実的質を越えて経済的社会的あるいは文明的に自立した個人を前提にしている。しかし、政治的自立については弱く、結局は木戸流の「人民」に包摂される概念であったかもしれない。同時に、いかなる「人民」であれそれぞれ特殊具体的な「人民」であるとともに「人」でもあり、したがって「人たるもの」という言葉には「人たるもの」として共通の能力を「貧富ノ別ナク」学ぶべきであるという認識が投影していると思われる。それは西潟の見解でもあった。

 「学制序文」は、いかなる「人民」といえども「父兄」としてはその「子弟」に「人」たるにふさわしい能力を習得させる義務を負っている、としている。そのことが将来「人民」としてそれぞれ自立したときに、政治的自立をも許容するものとして明確に意図されていたかどうかはともかく、「学制序文」において「人民」と「人」という言葉が、自覚の程度はともかく、以上の意味において区別されて併用されていたと考えられるのである。

 このことは「学制」第21章が「小学」の教育目的を「教育ノ初級」とし、さらに「人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノ」としたこととも関係している。

 ついでに言えば、この表現自体は『仏国学制』の「衆人ノ必ス学フヘキ普通ノ学科ヲ教フル者ヲ指シテ小学ト謂フ」あるいは「小学校ハ教育ノ初級ニシテ、諸人ノ必ス学ハサルヘカラサル普通ノ科ヲ教フル処ナリ」(5) から借用したものであることはよく知られている。論旨との関係から言えば、借用の過程で「普通ノ学科」あるいは「普通ノ科」を省略したことは興味深い。「学制」において中学の教育目的を「普通ノ学科」としたことと調整したのであろうか。

 さて、「人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノ」という場合、それは「学制序文」に言うところの「人たるものは学はすんはあるへからす」とはどのような関係にあるのだろうか。

 小学校での「教育ノ初級」にたいして「必ス」という言葉を付すことによって就学の強迫制と同時に「貧富ノ別ナク」という意味が込められていた。後に見るように、「学制」実施後の推移から言えることは、むしろ「貧富ノ別ナク」というファクターのほうが強く、その立場から就学が強迫されたといえるのである。その場合の「強迫」は直接子弟やその父兄にたいしてだけではなく、就学環境の創設・維持にあたって期待された地方の富裕層にたいする「義務」という性格をも含んでいた。

 千葉県参事は明治9年6月の時点で「夫レ豪富ノ貧弱ヲ助クルハ固ヨリ交際上缺クヘカラサルノ義務ナリ苟モ人トシテ人タルノ義務ヲ缺クトキハ亦以テ朝旨ニ負クモノト謂フヘシ」(6) と報告している。さらに直接就学する児童をかかえる家族の貧度によっては無償制もあり得るという意味も込められていた。

 これに対して「学制序文」のほうは、従来の学問観を「沿襲の習弊」として否定し、その費用をも含めて「自ら奮て」学に従事するべきことを求めているのである。その場合、「自ら奮て」従事することを求められていたのは主として士族であり、彼らが求める学問であった。なお、後に見るように、「中学」以上は「自ら奮て」、「小学」は「貧富ノ別ナク」が文部省の当初の方針であった。

 

 第3節  西潟訥の「普通学」観

 「学制」第21章の「教育ノ初級」の内容の基本的性格がいかなるものであったのだろうか。

 「学制」布達の1ヵ月後に文部省は「小学教則」と「中学教則略」を布達したが、「教育ノ初級」をどのような理念のもとに推進していくかについて文部省内部においてこの段階では明確にはなっていない。

 「学制」の具体化は、文部省予算の決定、小学校扶助金支出の遅れ等により、文部省としても「海外留学生ト直轄諸学校」の問題に専念するばかりで、地方学事の問題は一向に進展しなかった。地方教育行政機関としての督学局の位置づけも紆余曲折した。しかも、小学校扶助金については文部省要求の人口1人3銭が結局1872(明治5)年12月、九厘に、つまり70%削減されたうえ決定された。それは直接的には「国家財政の危機的な情勢」(倉澤)を理由とするものであったにせよ、「力ヲ小学ニ用ユル事当今着手第一ノ務」と自覚する文部省にとっては当初の理念・構想を基本的に縮減変更せざるをえない事態となった。

 さて、地方学事が具体化し始めた1873(明治6)年秋、「学制」制定に参画した文部少丞・中督学西潟訥が担当の第6(中部・北陸)・第7大学区(東北)の巡視に当たって開申した「説諭十一則」は、「学制」に言う「教育ノ初級」をあらためて「普通学」と称するなど、「教育ノ初級」の性格・内容についてもより立ち入った見解を示している。

 この「説諭」は『文部省雑誌』に2回にわたって掲載された(明治6年11月27日付第7号、明治7年1月10日付第1号)ことから推量すれば、当時の文部省の主導的な見解と見てさしつかえない。(7)

 まず、「説諭十一則」自体について若干言及しておきたい。

 「説諭十一則」は、学制実施後一年が経過した時点での各府県で当面している問題点を取り上げ、文部省側の方針を説明したものである。

 たとえば、小学区の機械的な区割りをやめ、「一人モ不学ノモノ無カラシムル趣意」から地域の実情に見合った区分けをすべきである、小学教則に挙げた教科書は例示に過ぎないから、他に適するものがあれば必要に応じて使用せよ、難解な書籍は「徒ラニ脳力ヲ労シ其ノ時間ヲ費ス」ことになるから、「読ミ易ク解シ易キ」ものを選ぶべきだ、学校設立が進まないのは人民が「頑愚蒙昧」だからなのではなく、教育が必要であることを「了解」していないからだ、充分に「懇諭」さえすれば打開できる、むしろ「頑愚蒙昧」だからこそ教育が必要なのだ、洋学や中学を先行するのは「学問ノ順序階級」を乱すものである、「小学ノ教科」は「国民一般普通ノ学問」であるから、そのために必要な限りで必要な漢学洋学を修得すれば良いのである、また中学に入学しようとするものは「各自ニ其志ヲ立テ其力ヲ量リ」学費は自力で支弁するものであって「官ノ力ヲ仰クヘキモノ」ではない、などというものである。

 さて、「説諭十一則」は第一則を「人皆小学ノ教育ヲ受ヘキ事」と題して、「小学ノ教育」全体の性格を「普通学ト称スル」としている。これはかつて「中小学規則」における「小学」の教科が「普通学ヲ修メ兼ネテ大学専門五科ノ大意」とされていたことを想起するならば、「普通学」に限定したことの普通教育論史上の意義は大きい。

 「小学ノ教育」を「普通学」とする理由は、第1に、「小学ノ教育」が「人ノ人タル知識ヲ具ヘ人ノ人タル務ヲ成ニ至ル迄ノ業」であること、第2に、それゆえに「貧富尊卑ノ差別ナク必ス此教育ヲ受ヘキコト当然」であるから、としている。

 西潟は各教科の存在理由を説明した後、それらは「中学以上ノ業」であるが、小学においてそれらの「大意」を知らなければ「特ニ功ヲ畢リ身ヲ立ルコト能ハサルノミナラス人間ノ交際上ニ於テモ欠ク所少シトセス」としている。「中学以上ノ業」から小学の教育内容を規定するという発想は「中小学規則」のそれを引きづっているといえよう。しかし、中学もまた大学とのみ結びつけられておらず、「人」として自立するうえで必要な教育機関として把握されていたこと、「小学ノ教育」はさらにその基礎的階梯であること、という理解は新たな提起であった。

 また、「人」といい、「人間」あるいは「国民」といい、西潟は「人民」という表現を慎重に排除しているように思われる。その理由はすでに述べたとうりである。もちろん、そこでの「人」「人間」が「自ラ其姓名ヲ記ス」ことから「国民一般普通ノ学問」すなわち「日用ノ事務ヲ辨スル」に足る能力を修得すること、全体として「学制序文」に見られる立身出世的認識と結びついていたことも留意しておきたい。

 なお、「学制」は中学の目的を「普通ノ学科」としていることから、小学のそれを「普通学」とすることには紛らわしさが意識されていたであろう。

 第2に、「人ノ人タル知識ヲ具ヘ人ノ人タル務ヲ成ニ至ル迄」とは何才までをさしているのだろうか。「学制」は上等中学は19歳までに卒業することを「法則」とすると規定していた。西潟は「人ノ人タル知識」を獲得するには最高19歳まで要すると考えていたのであろうか。

 次に、「貧富尊卑ノ差別ナク必ス此教育ヲ受ヘキコト当然」であるから「普通学」と称する、ということについて検討してみよう。これは「貧富尊卑ノ差別」が厳然と存在しているという認識のうえに、すでに述べた最低限の教育を「普通学」として「貧人ノ子弟」にも修得させようという主旨である。

 すでに述べたように、文部省自身、中学以上は「自ら奮て」、小学校は「貧富ノ別ナク」という方針であったが、西潟の言う「普通学」概念も彼の言う「貧富尊卑ノ差別ナク」という理解と一体のものであった。

 文部省もまた「貧民ノ子女ヲ学ニ就カシムル」ために各府県はどのような努力を行っているかを報告させているが、府県地方官にとってそれは「難事中ノ難事」であったことが当時の「府県学事年報」にしばしば記載されている。そのことは、後に検討するように「貧富ノ別ナク」とする基本方針自体の転換を余儀なくさせることになるのである。

 

 第4節  山田顕義の「普通学」

 西潟の「普通学」とは逆の方向でも「普通学」が重視されていた。

 1872(明治5)年12月28日、徴兵の詔書が出され、翌年1月徴兵令が公布され、4月には最初の徴兵が入隊している。「経済的にも思想的にも徴兵制を受け入れる条件は育っていなかった」こと、その実態は「封建的な賦役に等しいものであった」(藤原彰)から、その実施には最初から困難が自覚されていた。

 文部理事官田中不二磨らとともに欧州視察の途にあった陸軍理事官山田顕義はその6月に帰国し、間もなく「建白書」を太政官正院に提出している。(8)

 この「建白書」において、山田は軍制確立のうえでの「普通学」の意義について言及している。「建白書」自体は、菅沢論文によれば、天皇統帥権独立の立場から軍政機関と軍令機関の分離を求めたものであったが、徴兵実施にとっての不可欠な条件として学校教育をとくに重視した。

 そのうえで山田は、「学制」や「文部ノ教則」がまだ進展していないこと、20歳でも「算筆読書」ができる者は6分の1程度に過ぎないこと、徴兵を実施するためには十分な下士官の養成が先行しなければならないこと、そのためには8~10年程度の期間が必要であること、などの理由から徴兵の実施を延期すべきである、と主張したのである。

 さらに山田は、この8~10年の間に、小学校の学則に「陸軍所要ノ技術體術演陣」などを加え、年齢10歳から16歳までの児童に毎日1時間または30分の教練を行わせ、日曜日毎に児童を集め、陸軍下士官から陣法を学ばせることが必要であるとした。

 「普通学」に直接言及した部分を引用しておこう。「人民一般ノ知識敵兵ニ超越スルヲ以テ最要トス於是国民中貴賎貧富ノ別ナク幼稚ノ時ヨリ郷校ニ於テ普通学ヲ教ヘ採器調練ヲ演ハシム(中略)故ニ強兵ノ基ハ採銃運動スルニアラス国民一般都鄙ノ別ナク郷校ノ教育ヲ充分ニシ普ク人民ノ知識ヲシテ甲乙ナカラシムルニ在リ教育ノ道如此兵以テ徴スヘシ兵ヲ徴シ営ニ入ル人已ニ普通ノ学問アリ而テ又普通武事ヲ知ル」

 このように、「普通学」は徴兵制を支える不可分の要件として認識されていたのである。

 山田においては「人民一般ノ知識」という場合の「人民」は「皇國人民」と同義であり、教育を含む諸制度の改革も「国體」「帝室」の確立に従属するものであった。その思想において木戸孝允との緊密性も解明されている。(9)

 山田が「学制」や「文部ノ教則」に言及する場合でも「郷校」「普通学」という言葉と結びつけているように、「学制」等をそれ自体として十分に認識しているとも思えないし、軍医や下士官養成という視点、つまり、国家的人材養成の観点からしか「学制」を認識しておらず、教育独自の論理についての理解は見あたらない。

 「普通学」についても「算筆読書」とほぼ同義であり、かつ「技術體術演陣」をも含めるべきであるという認識は、すでに「大学」体制段階での「普通学」を克服しているとはいえ、西潟のような「普通学」理解とも区別されなければならないだろう。

 とはいえ、この「建白書」に見られる山田の見解は、明確な姿をとり始めていた明治政府の権力構造の中にしっかりと抱きかかえられていくことになるのである。

 

 注

(1)倉澤剛『学制の研究』、講談社、1973年、408ページ。

(2)倉澤剛、同上書、384~390ページ。

(3)倉澤剛、同上書、430ページ。

(4)倉澤剛、同上書、432ページ。

(5)佐沢太郎訳『仏国学制』、1873年。

(6)『文部省第3年報』、180ページ。

(7)倉澤剛は「説諭十一則」について「何れも適切妥当な指導であった」(『学制 の研究』、前出、581ページ)とし、またそれが『文部省雑誌』に2回連載され たことについて、「当時きわめて適切な説諭と見られたことはたしか」(倉澤『小 学 校 の 歴 史 1 』 、 ジ ャ パ ン ラ イ ブ ラ リ ー ビ ュ ー ロ ー 、 1 9 7 1 年 再 版 、 3 9 3 ペ ー ジ)としているが、文部省全体の見解を代表するものと見ることはできないであろ う。なお、倉澤は「説諭十二則」としているが、最後の「小学設立ニ弊害アルヲ論 ス」は補足的性格を有するものであり、筆者は「説諭十一則」としておきたい。

(8)菅沢均「山田顕義と軍制に関する『建白書』(一)」、日本大学精神文化研究 所紀要。

  なお、この「建白書」提出の日付について三省堂『資料日本現代教育史』第4巻 は明治15年1月4日(32ページ)、明治5年1月8日(412ページ)などと なっている。菅沢論文によっても「明治6年7月以降11月まで」の間とされてい る。

  「建白書」全文は、三宅守常「山田顕義『建白書』(版本)並解題」、日本大学 精神文化研究所・教育制度研究所『紀要』第16集、1985年、に収録されてい る。

(9)山本哲生「明治維新期における山田顕義と木戸孝允(一)(二)」、日本大学 精神文化研究所・教育制度研究所『紀要』第15・16集、1985・86年、参 照。