第3章  「学制」の具体化と「普通教育」

 第1節  「普通教育」をめぐる文部省内部の矛盾の顕在化

 政府・文部省において「普通教育」という言葉は1875(明治8年)頃から用いられている。「普通学」という用語を「普通教育」という言葉に代えようという意図を示す直接的史料は今のところ見当たらない。しかし、「学制」改正や督学局の位置づけ問題を中心とする文部省周辺のこの時期の動向は、「普通学」や「普通教育」という用語についてのこの時期の特徴を知るうえで重要と思われる。

 「普通学」の名のもとに「貧富尊卑ノ差別ナク」就学を実現しようとするいわば西潟路線にたいして、督学局財政の裏付けが不十分なことや学務局と督学局という二元的機構の不明確さなどにたいする不満から、督学局の存在理由や学制理念をも問う動きが進行していた。それは西潟流の「普通学」を否定し、「普通教育」に転換する路線に位置づくものであった。

  野村素介大督学は1875(明治8)年1月4日付で田中文部大輔にあてて、「学制」の成否は全国の教育事務が進展するかどうかにかかっているにもかかわらず、見るべき成果を上げていないのは督学局の位置づけが不明確なためである、本当に「学制」理念を実現しようとする気があるのならば督学局予算を大幅に引き上げるべきである、との申報を行っている。(1)

 見るべき成果とは、「学制」第6章における小学校53、760校設置計画の進展状況を指して言っているのであろう。督学局はその主務機関であり、その非現実的な目標設定と「御趣旨」との板ばさみにあって、その打開の方向を深刻な課題として意識していたのである。事実、督学局予算は過去2年間に比較すれば増額されているものの、明治8年前半の予算では文部省全体の予算の1%強にとどまっている。野村の意図は、もし要求が受け入れられないならば、「学制」自体の改正を行うべきである、というものであった。

 野村はつづいて、5月31日付の「督学局年報」において、東京府下の学校と第2大学区の巡視状況を報告した後、「将来学事督励ノ方法」に言及し、「各府県教育ノ着手」に相違があるのはそれぞれ地域の「民情・風俗」が異なるからである、したがって「学事奨励ノ方法」は「一軌トナス」ことはできない、今、文部省にとって必要なことは「速ニ学制ヲ改定シ教育ノ本源ヲ明ニ」することであり、地方官にあっては文部省の「意旨」を受けてそれぞれに「学務課」を置き、扶助金の使途については「地方官ノ見込」に任せることであると述べ(2)、先の見解をいっそう具体的に展開している。「学制」改正を文部省幹部が公言した最初のものであろう。

 

 第2節 田中「上申書」

 1875(明治8)年4月の詔書に基づいて元老院とともに設置された地方官会議は、6月20日に開院式が開催された。それに先立ち、政府は地方官会議での御下問条件を布達したが、文部省はその中に「小学校設立及び保護方法」を追加するよう要求している。(3) 53、760の小学校を設立するとした学制目標の見直しを求めるものであった。政府はこれを受け入れ5月19日、議題の第5番目にこれを追加した。田中不二麿文部大輔はこの件について6月19日、概要次のように上申(以下、「上申書」とする)した。(4)

 「上申書」は、①明治7年末までの公私立小学校総数は21、727校であり、残り32、033校の設置(経費にして4、805、000円)が当面の目標であり、本来「此金額ハ一時徴求セサルヲ得サルモノ」ではあるが、それを強行すれば「圧迫ノ制」を不可避とするから、「姑ク之ヲ後議ニ付ス」こととしたい、②当面明治9年6月までの1年間の間に、2、088校を設置し、その設立経費と合計23、815校分当保護経費4、763、000円の確保を目標とする、そのために77万円の新たな支出を地方に求めたい、このことは「今日ニ於テ最重要ナル者」である、③学校保護のためには年々費用が増えることを考慮してさらに82万円余が必要となる、そのために政府予算の1%を回してほしい、④寄付献金は預金して「永遠ノ資本」とし、その利子をもって学資金に当てる、⑤贖罪金を小学校保護に充てる、⑥公私小学校の地租その他各種の賦税を免除する、⑦私立小学校を積極的に保護する、というものであった。

 この「上申書」は一方では「学制」の中核部分である小学校設置計画の非現実性を文部省自身が認めつつ、他方では、その計画を文字通り「貧富尊卑ノ差別ナク」推進しようとする基本路線の根本的な転換を迫るものであった。

  転換の主要な論拠は「民力」限界論であった。「目下民力ノ如何ヲ顧レハ実ニ言フニ及ヒサル者ア」る現状だから、「学制」目標の計画通りの実施は人民を一層「圧迫」することにならざるをえない、前年度実績の半分程度であれば、「果シテ過度ニシテ堪ユヘカラサルト云フカ」、また学校保護にかかる費用をさらに人民に押し付けるのは「民力ハ既ニ其ノ度ニ達シ之ヲ限量ノ外ニ強ユヘカラサル」から政府支出が必要である、というものである。

 この場合、「民力」の主体は明治7年度の府県公学費入費総額の25%を占める寄付金を賄っている地方有力者等であったから、彼らの不満を解消し、政府・文部省が教育政策を抜本的に見直さざるを得なくなったというのが「上申書」のねらいであったということができよう。

 なお、この「上申書」には田中文部大輔の個人的見解が強く反映されていた。すなわちこれまで地方官や学務委員の苦労は「貧困ナル人民ノ子弟」をいかに就学させるかにあったが、ここでは「土地ニ貧富ノ別アリト雖モ彼ノ民力嘗テ此民力ト霄壌相隔タルヲ聞カサレハ」という言い方に見られるように「土地ノ貧富」にすり替えられている。これは後に見るように、普通教育制度を人民の貧富に応じて二分するその後の文部省の路線とは異なるものである。この時点では田中は「貧富ノ別ナク」路線を基本的に踏襲していたのだろうか。

 また、「抑国家治安ノ術素ヨリ数端アリト雖モ其ノ施設ノ際軽重本末ノ順序ヲ審カニセサルヘカラス」として国家治安の観点から小学校の設立・保護の重要性を訴え、かつ贖罪金を教育財政に組入れたり、財政上の観点からではなく「一定ノ教則ヲ以テ尽ク之ニ従ハシメンヨリ寧ロ各自ノ異見ニ任セ其特絶ノ良法ヲ発生セシムルノ愈レルニ如カス」という観点から私学の保護を強調していることなどに、田中特有の見解を見ることができよう。

 なお、この「上申書」は地方官会議において審議されるには至らなかったが(5)、政府歳入の一分を文部省に回せという要求はほぼ実現した。だが、文部省経費総額としては65%増額したにもかかわらず、督学局分はわずか14%増にとどまっている。(6) 

 「学制」理念をあくまで実現しようとする路線は現実的には挫折し、「学制」理念それ自体は温存しつつ、現実政策的には「民力」が許容しうる範囲内にいわば〈規制緩和〉するという方向と、もはや「学制」理念自体の「改定」しかなく、貧困子弟の教育を犠牲にして、一定の教育費を負担しうる階層以上の子弟にたいする普通教育制度を文部省ー学務課体制主導で確立すべきだとする方向をめぐって政府・文部省は選択を迫られることになっていくのである。

 なお、海後宗臣によれば、この時期もうひとつの潮流、つまり元田永孚を中心とする天皇側近グループは「これでは国民教育の本道を踏み誤っているとは知りつつも、沈黙を続けて唯見守って居り、何時かは立ち上がって発言し、国民教育の主本を確立せんものとひそかに期」(7)していた。

 

 第3節  「普通教育」概念の公用語化

 この年11月25日、太政官は文部省に対して「文部省職制及事務章程」を通達している。(8) その「事務章程」上款第5条は「普通教育須要ノ学科ヲ改正スル事」というものであった。現在までのところ、「普通教育」という言葉が初めて登場した太政官文書といえよう。「上款」は「卿ノ意見ヲ具シ上奏裁可ヲ経テ然ル後施行ス」るものとされていた。木戸の後文部卿欠員のまま、田中は事実上文部卿を任じており、この通達の直後の明治9年1月からは太政官出勤を命じられているから、この通達に田中が相当関与していたことが推察される。

 「普通教育須要ノ学科ヲ改正スル事」という場合の「普通教育」がどのような性格と範囲の概念であるかは明確でないが、「須要ノ学科」のレベルで言えば、それはすでに学制第27、第29章に規定されている。にもかかわらずあらためて「上奏裁可」を必要とするとしたのは、「学制」改正によることなく政府が「普通教育須要ノ学科」を改正することができるようにしたものと推察される。

 ただ、「普通教育」という用語を用いることになった理由としては、大学と小中学校との関係を見直し、小中学校を自立した教育機関、つまり普通教育機関として位置づけようとする認識が広がっていたこと、「学制」における中学の目的である「普通ノ学科」や西潟の「普通学」あるいは山田の「普通学」などを念頭に置きつつも、文部省主導の「普通教育」政策を推進しようとする太政官や文部省の姿勢、などが考えられる。

 

 第4節 督学局内部の対立と督学局廃止  

  野村は1876(明治9)1月4日付で田中に対して「具申」を行っている。それは3月5日付の『文部省雑誌』第5号に掲載されるが、その間に『文部省雑誌』は4号発行されている。2ヵ月という間が空いたのには何らかの事情が働いていたためだろうか。

 野村はその中で、前年1月の督学局経費増額要求が受け入れられ(年2、000円から半年12、000円へと10倍に伸びた)、視察は一定程度前進したが、全国3府60県の巡視が必要である、当面、文部省内においては「学制ヲ改正シ」、教科書籍の編纂および中学教則の調整が課題であり、外に向かっては、第4・第5大学区について学事の状況をさらに視察し、「将来ノ目途」を定めたい、3つの課題が実現されなかったら「地方教育ノ進歩ヲ障害シ少年学途ノ方向ニ迷惑セシムルモノ亦尠シトセス」と述べ、「中学」充実の観点から、「貧民ノ子弟」の小学就学向上を重視する「学制」の改正を再度強調している。

 これに対して、中督学畠山義成は1876(明治9)年3月31日付の「督学局年報、一」において、おおむね次のような「意見」を表明している。

 明治7年と8年とを比較すればその進歩は著しいものがあるが、その進歩の情状には「各地同一ナラサルモノ」があるのは「民産貧富」「地勢都鄙」がそれぞれ異なるからでもあるが、「現今ノ教育」についてみるかぎり、「此二ノ者ニ関渉セサルモノ」があるといわざるをえない、確かに「寒村僻邑」にあっては「生産」は「貧薄」には違いないが、「風俗自ラ淳朴」であり、「懇諭」さえすれば疑問は「氷解」するのである、他方「殷実富庶」の地であっても必ずしも学事が進歩しているわけではない、現在「教育ノ進否」を問題にする場合、「民産貧富」「地勢都鄙」を口実としてその責任を免れようとする者が多い、むしろ「教育ノ進否」は「官吏措置ノ適度ヲ得ス」ことと「懇諭ノ至ラサル」ことに起因するといわざるをえないのである、たとえば第三大学区の府県教育議会は「能ク今日適宜ノ方法ヲ得」ており、議会が発展していけば、府県の常費・民費に限度があるとはいえ、「多少ノ資ヲ以テ」しても教育は著しく進歩するであろう、と。

 この畠山見解は先の野村「具申」を念頭に置いていることは明らかである。「学制」の理念は実現させるべきであり、その「改正」は問題ではない、民衆は教育を求めているのであって、教育が進歩しないのは「民産貧富」「地勢都鄙」によるのではなく実施する行政側の責任にある、学務課を強化するのではなく、教育議会を重視するべきである、教育の進歩は経費の多少に比例するのではなく、どれだけ地域の実情を把握しているかにかかっているのである、等々。

 野村は、同年10月に「督学局年報、二」を執筆し、同じ『文部省第3年報』に掲載している。その年2月から4月にかけて第4、第5大学区を巡視した報告書である。

 この中で野村は、前年に展開した「学則改正」等については直接触れていないが、「興学」の地域毎の等位品別を試みつつ、特に秀逸な2~3ヵ所について「人民教育自任ノ趣向粲然トシテ見ル可キ者アリ」とし、また全体として「普通小学」が隆盛しているのは「奨励」の結果であると同時に、「人民進取ノ成果」である。他方、「学歩ノ混滞」が見られるのは「地方方今ノ通患」であり、その改善のためには「良師ノ陶成セザル可カラス」とも述べている。

 西潟や畠山に見られるいわば「貧富尊卑ノ差別ナク」路線は、督学局と地方教育機関の関係を通じて「学制」理念を実現しようと構想していたのに対し、野村の見解は大学区制を前提とした「督学局」の役割に疑念を抱き、府県単位の学務課を中心に「人民進取」の方向を推進するという構想にたっていたといえよう。この場合の「人民」が「富者」であったことは言うまでもない。

 督学局内部の矛盾は田中の帰国(明治10年1月10日)と同時に一挙に顕在化し、その2日後の1月12日に督学局は廃止された。田中の不在中に野村の立場が決定的になっていたのであろう。

 

 第5節  「普通教育」概念の普及

 『文部省雑誌』は、とくに明治8年前半期に、欧米の教育事情等を紹介する中で「普通教育」という用語を多用しており、しかもそれを当時の我が国の文部省、とくに督学局の当面の課題と対応させながら紹介している。

 たとえば、第3号(2月14日付)に掲載された「獨乙教育書摘譯」によれば、「教育」には「学術ノ教育」と「普通(ノ)教育」があり、「普通ノ教育」というのは「普通学ト修身ノ基本ヲ修学セシムル」ものであり、「各人終身ノ幸福ヲ預定スルモノ」である、それは父母が注意するものでなければならないが、貧困等により困難な事情もある、そのためにドイツやフランスでは幼稚園、児童看護舎、幼稚学舎、改良学舎が設置されているが、それらは「普通教育ヲ補フモノ」である、と紹介している。

 この解説部分が文部省官吏によって書かれたものだとすれば、文部省文書に「普通教育」という言葉が初めて用いられたものといえよう。なお、ここで「普通ノ教育」と「普通教育」とが後に見るように区別されて用いられていたかどうかはわからない。

 なお、西潟「説諭」の場合、「修身学」は「普通学」に含まれていたが、この「普通教育」は普通学に修身を加えたものとなっている。それが文部省の意図であったかどうかは不明であるが、当時文部省内にあって重要な論点となっていた。

 第4号(3月8日付)は、引き続き「獨乙教育論摘譯」を掲載し(第3号のものと同一原典であるかどうか不明)、「君民一致シ競テ大小ノ学校ヲ設立セシハ実ニ国家ノ大幸ト云フヘシ・・政府ト教会ト相合シテ新教ヲ教ヘ人民ニ普通教育ヲ授クルコトトハナレリ」などと紹介している。

 第8号(4月19日付)は「獨乙教育新聞摘譯」として、「学制ハ政府ノ定立スル所ト雖之ヲ全国ニ施行シテ普ク人民ヲ教育スルニ至リテハ全ク地方官ト教員トノ尽力勉励ニ由ル」、なぜならば各州それぞれ貧富・産業・面積・人口等の「情状」を異にするからであり、したがって「普通ノ教育ヲシテ同軌ナラシメントスルハ最容易ナラザルナリ」と述べ、「教員集会」において議すべき条件の第1に「就学年齢ノ児童ヲ勧誘シテ普通ノ教育ヲ受ケシムベキコト」を挙げている。

 

 第6節  府県指導部の「教育ノ初級」認識

 府県の指導部が当時「教育ノ初級」の具体的性格をどのようなものとして理解していたのかについて見ておきたい。

 『文部省第二年報』は1874(明治7)年の各府県の学事状況を報告している。それは各府県の知事・県令ないしはその代理たる参事等が執筆したものとされているが、その中で彼らは「学制」に言う「教育ノ初級」の内容をさまざまな言葉で表現していた。次に列挙しておこう。

 「日用普通ノ学業」、「普通学」、「普通学科」、「一般学文」、「普通教育」「普通日用切実簡易ナル学」、「日用切近ノ教育」、「学事ノ日用ニ便」、「一般学」「三科=読書習字算術」、「日用有益ノ実学」、「日用普通ノ書算」、「学事ハ則日用有益ノ事業」、「読書習字算術ノ三科鼎立偏廃ス可ラサルハ学制ノ定則」、「日用有益ノ実学」は「洋学ノ端緒」であり「皇国人ノ学フヘキモノニ非ス」、「日用普通ノ書算」、「武技ヲ以テ知ラル故ニ文事ハ第二流ニアリ」、「功験ノ我身ニ的切」、「民情的切ナル教則ニ改正スルトキハ人民ノコレ之ヲ喜フ」、「都市ニ商学ヲ主トシ鄙村ニ農学ヲ主トス」、「日用常行言語ヨリ百工技芸ニ至ルマテ」「人々学事ノ真味ヲ知ルニ至ラハ相競フテ学ニ就カシムルニ至ル」、「普通正則」「父兄亦学校ノ人間ニ切ナルヲ知リ」などである。

 第1に、「普通教育」や「普通学」という言葉を用いている府県もあるが、むしろ例外的であり、その具体的な内容は明確ではない。

 第2に、「日用有益ノ実学」という表現に見られるように、実学一般ではなく、日用有益性から期待されている。

 第3に、全体として、日用性、実益性、切実性、簡易性など、素朴な民衆の教育要求を反映している。学制改正論の論拠のひとつが教育内容が「高尚」すぎることを挙げていることとどのように関連しているのであろうか。

 第4に、すでに「民情的切」性の観点から貧富・都鄙に応じて教則を改正する必要性を求めている県もある。この見地は「学制」改正論の重要な論拠でもあった。

 第5に、依然として、地方官自身、旧態然とした小学観を保持している県も見られる。

 なお、『文部省第3年報』所収の「府県学事年報」では「教育ノ初級」の内容を表現する用語は『文部省第2年報』に比して著しく減少している。「普通学科」、「一般学」、「普通学校」という言葉が散見される程度である。日用性、実益性、切実性、簡易性など総じて民衆の側からの教育要求の実現を目指そうとする方向性は急速に後退しているのである。このことをどう考えるべきなのか。督学局による何らかの指導があったのではないだろうか。この点も今後の解明に期待せざるをえない。

 「普通教育」という政策用語は、「普通学」という言葉が一部とはいえ内包していた民衆的側面を切り捨てる過程と結びついて登場してくるのである。

 

 第7節  「普通教育」概念の明確化

 西潟の退官を受けて中督学となった畠山義成は田中に随行して1876(明治9)年3月渡米したが帰途10月20日病死した。(9) 西潟・畠山を欠き、文部省内部の主体的状況は大きく変化した。中督学野村を中心とする学制改革派は行政改革を機会に一挙に攻勢に出る体制ができ上がった。

 1876(明治9)年12月17日、中視学加納久宜、少書記石川浩は連名で野村を通じて「第一・第二大学区内部甲豆相武巡視功程」を田中に提出している。(10) それは視察した小学135校について次のように報告している。

(イ)不就学の比率がなお過半であるが、それは「督励」の仕方や「皆貧窶無告ノ徒」だからというわけではない。それは仮設の校舎が狭くて就学を強制することができないことによるのである。時には満員のため入校を許可しない場合もある。新築計画が実現しなければこの問題は解消しない。

(ロ)小学校の開設がおびただしく、もはやその「極点」に達している。学校統合・学区統合による開設が増加しているためである。学校数が減ること自体は「教育上甚タ憂フ可キ」ことだが、これも「学事ノ着実」の兆候といわざるをえない。

(ハ)「学歩」が進むにつれて「良師ヲ要シ書器ヲ備ル」ためには、小学区内の力をもって学資を出すことはできないし、また「児童ノ教育ヲシテ完了ナラシメンニハ戮力ノ勝レルニ如カサル」ことを民衆が理解し、「各村合議シ遂ニ其廃合ヲナス」に至ったのである。これは「学事ノ着実ニ赴クノ徴候」であって喜ぶべきことである。

(ニ)しかしながら「当職ノ官吏自ラ画策履行セシモノハ僅カ十ヵ三四ニ過キ」ず、計画ができていても実行できないでいるのは「学事進歩ノ線路ニ当テ一大障碍」が生じているがためである。それは「地租改正ノ件」にほかならない。

 「地租改正」は「莫大ノ民費ヲ要スル」のみならず、「区戸長等事務ノ繁多」のため「県治百般ノ事」全体に影響が出ており、「民費ニ係ルモノハ暫ク之ヲ黙々ノ間ニ付セ」ざるを得ない。このことは「地方学務官吏」にはどうすることもできない。とはいえ「地租ノ改正ヲ終ヘ民間事ナキノ時」が来れば、教育は一層進歩するであろう。

(ホ)「学業ノ試験」について言えば、「全国一般官立師範学校ノ試験法」に擬したものが行われており、それは「教育本来ノ旨趣」からして改められるべきである。 試験というものは「既往半期ノ総復習ニシテ更ニ復タ勉強ノ士気ヲ一新シ前途半期ノ業ニ就カシムルニ存ル」のである。「平素授業ノ方法ヲ精密ニシ教導其宜シキヲ得」ることが重要なのであって、その点から「温習体ノ試験」などを採用するなど改善すべき事項がある。以上である。

 この「報告」はすでに全体として「行政改革」の方向にそったものとなっている。

 第1に、「不就学」問題はすでに督学局、督学体制の問題ではないこと、つまり督学局の有無にかかわらず「学事ノ着実ニ赴クノ徴候」が今後も続くのであり、「不就学」問題はその中で解決されると見ていること、

 第2に、「不就学」問題はまた貧困等の結果ではないこと、したがって、貧困家庭の子弟にたいする救済措置は不要である、と見ていること、

 第3に、校舎が「仮設」を余儀なくされていることの解決が当面の基本的課題であり、現状のままで「不就学」状態を解決するのはすでに限界にきている、「学事ノ着実」を促進するためには、小学区内での学校設立方針を改め、学校統合・学区統合を推進し、能率・効率を高めるべきであるという見地にたっていること、

 第4に、「地租改正」については、年内に完了することが政府方針であったことから、「事務ノ繁多」が一方では問題ではあったが、他方ではその減額を求める一揆等が全国的に頻発している時期でもあったにもかかわらず、この「巡視功程」が「地租改正」を実務的過渡的「障碍」としてとらえ、そのうえで「民間」の意向に沿った教育の進歩を期待していること、

 第5に、試験制度に言及しつつ、教師のあり方、授業方法の精密さにたいする文部省の干渉強化に対して無自覚的であること、などを指摘しうるであろう。

 1876(明治9)年12月22日、内閣顧問木戸孝允は天皇にたいし人民困苦の実情を説明するとともに、三条、岩倉に対して「急務の大綱」を建言している。その中で、木戸は「国家の富強なるものも必ず中等以上人民の力に存す」(11)とし「中等以上人民」にたいしてあからさまに期待している。

 つづいて内務卿兼地租改正事務局総裁大久保利通も12月27日、三条に対し、「地租ヲ減スルノ建議」とともに、14項目にわたる「行政改革」大綱を提出している。(12)

 地租再改正による800万円の政府歳入減を全般的行政改革の断行によって切り抜けようとする方針は直ちに実行に移されていく。それはとくに文部行政にとっても抜本的な見直しを強いるものであった。かくて、「学制」改革路線は一挙に「学制」廃止・教育令制定に急展開することになり、その過程の中で、「普通教育」概念もまた新たな展開を見せるのである。

 以上、見てきたように「学制」初期の文部省内にあってはすべての人民の子弟に「人ノ人タル知識ヲ具ヘ人ノ人タル義務ヲ成ニ至ル迄ノ業」を保障するという意味での「普通学」あるいは「普通教育」を「貧富尊卑ノ差別ナク」という考え方が基調となっていたと思われるが、当時の政治経済的状況はこのような理解の定着を許さなかった。一瞬のうちに「貧富ノ別」による「人民」育成のための「普通教育」政策に転換され、さらに国家主義的方向へと急展開していくのである。

 とはいえ、明治初期にあっては「普通教育」概念は、高等教育や専門教育との対をなす概念としてではなく、「人」もしくは「人民」を育成すること自体を目的とする概念であった。また、基本的には「普通教育」は分割もしくは段階区分を予定しない概念であった。その意味においてこの時期における「普通教育」概念はより素朴であり、したがってより原初的であったとも言えるが、いづれにしてもその後のわが国における「普通教育」概念の展開にとって黎明期というにふさわしい内容を保持していたと言えよう。

 

(1)『文部省雑誌』、明治8年第5号。  

(2)『文部省第2年報』、32~55ページ。  

(3)国立公文書館所蔵公文録文部省之部、明治8年5月全、文書第8。この経過に ついて倉澤書は触れていない。政府が教育問題を地方官会議での当面の議題として とらえていなかったこと、文部省が「小学校設立及保護方法」の問題を地方教育行 政のあり方と結びつけて、新たな方針を打ち出そうとしていたこと、を知ることが できよう。

(4)国立公文書館所蔵公文録文部省之部、明治8年6月全、文書第11、および倉 澤『教育令の研究』、前掲書、6ページ以下参照 。 

(5)倉澤剛『教育令の研究』、同上書、10ページ。

(6)『日本史総覧』6、1984年、新人物往来社、593~594ページ、「明  治前期財政表」による。

(7)海後宗臣『元田永孚』日本教育先哲叢書、第19巻、文教書院、1942年、 44ページ。

(8)教育史編纂会『明治以降教育制度発達史』第2巻、教育資料調査会、1964 年重版、43ページ。

(9)『東京大学百年史・通史(一)』、東京大学、1985年、302ページ。

(10)『文部省第4年報』、11~13ページ。

(11)倉澤剛『学制の研究』、前掲書、808ページ。

(12)倉澤剛、同上書、811ページ。