第4章 明治10年前後の「普通教育」論  

 「学制」の破綻に当面してさまざまな教育改革論が展開された。そこでは「普通教育」改革論と言っても過言でないほどに普通教育のあり方を中心に論議が展開された。それとほぼ併行して進められた政府・文部省の教育令制定過程における普通教育論の展開については次章で述べることにして、本章ではこの時期に主として文部省周辺において展開された普通教育論について検討しておきたい。 

 

 第1節  山田行元の「普通教育法」の提唱

   千葉師範学校長を経て汎愛社設立に参加した山田行元は1877(明治10)年6月に刊行された『教育新誌』第2号に「強迫就学法ノ論」を執筆し、「強迫就学法」という呼称を「普通教育法」と改めるべきであると主張し、その早急な施行を政府に要求している。(1) 山田行元はその後文部省に入り師範学校条例・小学校条例の取調委員となり、また地理教育の分野で活躍している。あまり知られていないと思われるので最初に紹介しておきたい。(2) 

 山田行元は1850(嘉永3)年12月10日、山形県・米沢馬場町に生まれた。1872(明治5)年、大学南校(法科)に入学したが、学資金欠乏で中退した。有志者の義捐金で学舎「開蒙社」(のちの御田小学校)を設立し、英語・漢学・洋算を教えるかたわら地史、教育学を研究している。久松学校、常磐学校、桜池学校を経て、1875(明治8)年、24歳のとき中督学野村素介の紹介で、千葉師範学校長となっている。『初学地理書5巻』を刊行している。明六社の客員にもなっている。(3)

 1877(明治10)年、任期満了で千葉師範学校長を辞した後、辻新次、内邨良蔵、鈴木唯一、佐沢太郎、近藤鎭三、小林儀秀、那珂通高、河村重固、埴原経徳らと汎愛社を設立し、『教育新誌』を発行し、第2号に「強制就学法」を執筆した。

 1879(明治12)年、文部省外国語学校の嘱託により地誌の教授、文部省教育雑誌資料の訳述、『新撰地理小志4巻』刊行等に従事した。

 石川県の召喚により、石川県学務御用掛、石川県中学師範学校長を勤めた後、文部省に転任し報告局に勤務するとともに、教則取調掛、教育令改正取調掛、さらに地方学務局を兼務した。この年、新聞条例の改正により汎愛社の組織改正があり、汎愛社の責務をやめる。1882(明治15)年、『新撰中地理書』7巻を公刊した。

 1885(明治18)年、師範学校条例取調委員、小学校条例取調委員となる。その後、文部書記官、報告課長、官報報告主任、統計主任、褒賞画取調委員、文部省視学官(第2地方部:北海道、東北6県担当)、専門学務局第2課長を勤めた。

 1892(明治25)年、『日本地理』1巻(小学尋常科用)、『新地誌』5巻(小学高等科用)を刊行し、1893(明治30)年、没した。       

 さて、「強迫就学法ノ論」について検討してみよう。

 文部省内部に「学制改正取調」が組織され、「学制」体制から「教育令」体制への転換が模索されはじめていた。太政官政府にとって当面する最重要な課題は、内乱が頻発している状況のもとで財政危機を克服し、権力基盤を確実にするための大規模な「行政改革」を断行することであった。文部省にたいしては全国に53、760の学校を設立し「貧富尊卑ノ差別ナク」すべての子どもに「教育ノ初級」を習得させるとする「学制」体制の転換を求めるものであった。それは結局は、人民を中等以上と中等以下に二分し、それぞれに応じた普通教育制度への転換を意味するものであった。

 このような情勢のもとで、とくに中等以下の人民の子弟にたいして、文部省主導の教則に基づいた小学校教育をどのようにして普及させていくかが文部省内外の教育関係者にとって焦眉の課題となっていた。山田の文章はこのような状況の中で執筆されたものである。

 「強迫就学法ノ論」の論旨は以下のとおりである。

 ヨーロッパにおいて教育が普及しているのは「強迫就学法」を採用しているからである、「強迫就学法」とは「幼年子女ヲシテ一斉ニ普通ノ教育ヲ受ケシメンカ為ニ学齢子女ノ数ニ応シテ其ノ学校ヲ設立シ父母ノ吾ガ子ヲ教育スルニ怠ル者アレハコレヲ督促懲戒スルノ制」のことである。この「強迫就学法」こそは「教育上ノ一大急務」であり「人智ヲ開発シ文化ヲ進歩セシムヘキ一善制」である。しかし、人々はこの「強迫」という文字にこだわって「強迫就学法」自体を否定する者もいるがそれは重大な誤りである。

 「強迫就学法」とは<compulsory school attendance>の訳語であり、本来「強迫ト名ツクヘキ意義」はなく、その本旨は「児女ヲ教育スルハ父母天然ノ義務ニシテ就学ヲ督責スルハ政府固有ノ職分ナリ」という意味である。父母は子どもを産んだ以上はその子が「自立」しうる年齢に達するまでは養育する義務を負うこと、子どもは父母にその義務を果たすことを求める力はまだないが、それを求める権利はあること、それは子どもが自ら「生ヲ保ツノ力」がない以上当然であること、したがって、この「重キ義務」を怠ったり、子どもの将来に顧慮しないような親がいる場合、「人民ノ保護ヲ以テ自任セル政府」はこれを「黙視」する道理はないのである、そのような子どものために政府は子どもの「天賦ノ能力ヲ鼓舞シ其ノ生涯ノ幸福ヲ保全セシムヘキノ一種ノ方法」を採用せざるをえないのである、これが「強迫就学法」とでもいうべきものにほかならないのである、だから禁獄・罰金も「強迫就学法」の本来の意味に由来するのであり、むしろ「慈仁ノ意」と理解するべきである、「政府決シテ其ノ権力ヲ恃ミ強ヒテ下民ニ迫リコレヲ抑制スル」ものなのではない、したがって「普通教育法」と称することも可能である。

 「強迫」という言葉の歴史的由来は、「欧州古代」もしくは「我カ邦明治以前」において父母は子どもを「奴婢」のように扱い、子どもに対して「生殺ノ権」等を行使し、教育するかしないかは父母の恣意にゆだねられていた、したがって、明治政府が本来「普通教育法」である「強迫就学法」を施行するにあたって、「父母ノ自由」を「束縛」するのはやむを得ないという意味から「強迫」という言葉を用いたのである。したがって状況が変わった今日にあって、もはや「強迫」という言葉を用いる必要はないのだから、「普通教育法」とするべきである。

 「強迫就学法」であれ「普通教育法」であれ、その本来の「主意」は「児女ヲシテ其ノ権利ヲ保全スルニ足ルヘキ教育ヲ受ケシムル」ことにある。「父母」はそのような教育を子どもたちに受けさせる義務を有しているのであって、それは「天ノ命」とも言うべきものである。

 ところが父母の中にはそのような義務を果たす「学力」、「時間」あるいは教育についての「学術」「方法」をもちあわせているのはむしろ希である。「下等ノ人民」にいたっては教育についての自覚がないばかりか、学問は「破産亡家ノ基」と心得ている者も多い。あるいは不幸にして貧困であるとか父母に死なれて自ら「成立」することができない子どももいる。ここに普通教育法の存在理由がある。このことを理解せずに「人民ノ意」のままに「自然ノ進歩」に委ねるというのでは教育はまったく進歩しないであろう。

 欧米各国も強迫就学法を採用してその効果を挙げているが、そのためには学校、教員、師範学校、教則編制、書籍器械、学区分割、管理法、私学家塾設立監督法等について整備していかなければならない、このことが強迫就学法を実施するに当たっての「急務」である。以上が「強迫就学法ノ論」の要旨である。

 山田が言う「強迫就学法」とは今日にいう義務制の普通教育を意味しているのだろう。その場合の「義務」も国家にたいする国民もしくは父母の義務ではなく、父母の子どもにたいする義務に由来するものであった。山田の場合、普通教育と義務教育は一体のものである、というよりも普通教育を義務教育化するべきであると言うところに主眼があったのであろう。

 山田の「普通教育法」論には整理すべきいくつかの論点が内在している。

 第1に、山田は「自立」するまで子どもを養育することは父母の「天然ノ義務」であること、その義務は「天ノ命」である、と述べている。「天ノ命」というような認識は当時しばしば表明されているが、どの程度自覚化されていたかはともかく、動物の子育てにも共通する人間にとって本能的・普遍的な営みという認識の表明と理解したい。それはそれで科学的に教育学的に明確にされるべき課題であって、否定されるべきものではない。

 第2に、子どもはそういう父母の義務を求める能力はないが権利を有している、と述べている。子どもは普通教育を受ける権利を有している、父母はその権利を保障する義務を有しているという認識は当時他にも見られるが、注目に値する見解といえよう。とはいえ、父母の義務は義務としてのみ理解され、権利としては理解されていなかった。

 第3に、父母の義務は基本的には養育についての義務であるにもかかわらず、そこには保護の義務、教育の義務も未分化なまま混在している。

 第4に、父母の義務についての言及は希薄で、その義務がさまざまな事情で履行できない「哀シ」むべき現状が歴史的に説かれている。しかし、「破産亡家ノ基」と見る学問観、「奴婢」のようにあつかう子ども観などは、父母の欠陥ではなく、これまでの社会意識の結果であるし、あるいは「学力」「時間」「学術」「方法」の欠如、貧困、欠損家庭等はその社会の中に原因を求めるべきであって、父母の義務にたいする制限の根拠にはならないものである。

 第5に、以上のような認識を前提として、そこから直接短絡して「就学ヲ督責スルハ政府固有ノ職分ナリ」という主張がなされている。その短絡のなかに保護や教育も流し込まれ、国家の普通教育権が「善制」として位置づけられることになる。

 「政府=人民の保護者」観はこの時期しばしば見られる。この場合の「人民」観が木戸流の天皇の前での平等なる人民であり、「中人以上」を実体とする人民観であったと思われる。

 山田の見解は、政府・文部省は人民の保護者であるという立場から、人民に向かって強迫就学法の本質を「普通教育法」として理解せよ、と迫るものであったが、西村・九鬼に比して普通教育の性格や内容に対する探究の希薄さ、政府・文部省に対する幻想に近い美化、民衆や父母に対する不信等を前提とした普通教育論の主張であるといえよう。

 なお、「普通教育法」を子どもの「天賦ノ能力ヲ鼓舞シ其ノ生涯ノ幸福ヲ保全セシムヘキノ一種ノ方法」として確信する山田の主張はそれ自体としては普通教育論の教育学的解明にとって重要な材料を提供するものであった。

 

 第2節 植木枝盛の「普通教育論」

 植木枝盛は1877(明治10)年夏頃、「普通教育論」を執筆している。(4) そこでは「一般普通ノ教育」あるいは「一般普通ノ学科」という言葉を用いながら「普通教育」論が展開されている。 

 植木は「文明開化」を進める立場から、「学制」とくに第21条を肯定的に言及し、そこで言われている「教育ノ初級」を「一般普通ノ科」ととらえ直したうえで、それが「強促就学法」となることを是認している。「強促シテ教育ヲ受ケシムルハ圧制ノ法ニシテ人ノ自由ヲ害スルモノニ似タリト雖モ亦決シテ然ラサルナリ」。なぜならば、①「一般普通ノ教育」は「人ノ目的タル自由幸福」を増大させるものであり、また「其災禍自(原文のままー筆者)自由ノ世界ヨリ之ヲ救ヒ出ス」ものであるから、「圧制」ではなくむしろ「保護」というべきである、②「一般普通ノ教育」を受けなければ「多ク屡々罪悪ヲ為シテ社会ノ害ヲ為スコト明カ」である、というものであった。ここから「社会ハ如何様強促シテナリトモ人民ヲシテ其一般普通ノ学科ヲ学ハシメサルヘカラサル也コレ其強促就学法ノ圧制暴虐ニ非ラズシテ保護ノ職分タルト云フ所以也」と明言する。

 ここには前述した山田行元の見解と共通するものが見られるが、山田が「政府」としているところを植木は「社会」としていることに注意したい。政府が強迫するのではなく、社会が強促するのである。

 なお、植木は翻訳教育書によりながらも、①人間は「薄弱」なる存在であるから、放任しておけば「知識、健康、道徳、富有皆善ク開発長進」することができない、②人間の性質は「研磨シ習錬セシムレハ其本質ヲ開発伸展」させることができる、③人間は「五官ニ由リ他力ヲ以テ外事外物ヲ其内心ニ伝通シ而シテ其心ノ能力ヲ誘導シ之ヲ活動セシメテ之ヲ開発進達」させることができる、という教育論をこの論稿の冒頭部分で紹介している。

 

 第3節 古渡資秀の「教育論」

 文部省の『文部省雑誌』はすでに1875(明治8)年ころから「普通教育」に焦点を当てた欧米の教育事情を紹介していたが、その後の『教育雑誌』においてもひきつづき「普通教育」に関する論稿を掲載している。(5) とくに「学制」取調委員の学区視察開始とほぼ平行して、教育改革を促す記事を掲載している。その第43号(1877年9月18日発行)で古渡資秀は「論教育法」を寄稿し、事実上普通教育論を論じている。要旨はつぎの通りである。

 明治維新、とくに学制頒布以来、「日本教育ノ状」は「風俗民情」を無視し、ひたすら「画一」の傾向を強めており、そのために文明は「退歩」しつつある。文部省自体必ずしも「必ス一定模型ニ帰スヘシトノ令」を出したわけではないが、地方の官吏は名誉や楽を求め、どうしても「画一」に流れやすい、ある県の学務官は教師が抗議したにもかかわらず強制的に私学を閉鎖したが、そのようなことは「人民ノ権利ヲ害ス」るものである。

 教育にあっては「各種ノ元素併存スヘ」きものであり、「自由教育ノ旨明ニスヘ」きものである、「人心ハ進動已マサル」ものであるから、「人心」に従えば良いのである。

 もともと学術は「精神心志」にかかわるものであるから、それに対する政府の権限は「輔導勧奨」および「保護」を原則とすべきであり、政府に「素ト学術ヲ制駆スルノ権限」はないのである、「自由教育」を実現するためには「教育ノ原理ヲ深ク考究」し、「教科書籍博ク探究」し、「地方民情審ニ査察」しなければならない、そのためには地方の教育会や雑誌や博物館等を重視していく必要がある、教育会議にしてもその都度「各嘗テ実験セシ所ノ者ヲ以テ彼此討論以テ恰好適宜ノ方法ヲ求」め、「真教育」を普及していかなければならない、と結んでいる。

 「画一」という言葉を用いて「学制」の具体化を進める文部省とくに地方行政の在り方を批判し、「教育ノ原理」に基づいて「風俗民情」に合致した「自由教育」への転換、私学の存続を要求している。教育は「人民ノ権利」であること、その権利を行使するための教育環境(教育会・教育雑誌・博物館等)を拡充すること、教育について人民の意志を反映させる「教育会議」を重視すること、など注目すべき論点が見られる。しかし、「私学」で行われる「自由教育」あるいは「真教育」がどのような教育なのか、またそれらは「普通教育」とどのような関係にあるのかについての見解は示されていない。

 

 第4節 下村松造の「普通教育」論

 下村松造は、1878(明治11)年1月31日付「東京日々新聞」に、「我邦普通教育ノ現状ハ慶スヘキ乎」を投稿した。これは早速文部省『教育雑誌』第57号に全文再録されたことからもわかるように当時の文部省と基本的には同じ立場から「普通教育」を論じている。(6)

 下村は、最初に「普通教育」を実施するのは「政府ノ義務」なのか、それとも「国民ノ職分」なのかと自問し、「教育」が「天賦ノ才性ヲ暢発シ智能ヲ研磨スルノ要具」である以上、それは「国民各自ノ職分タルコト明カ」であると述べている。

 ところが、「人智」「才能」がまだ開花していない現状では「国権」「国力」がまだ確立しえず、「人間ノ交際」「同類ノ平安」を実現することができない、ということを理由に、一転して「教育施行ノ権」を「政府」に帰し、政府が「一国ノ学制ヲ綜理」すべきであると主張している。下村によれば、文部省を設置し「学制」を制定したのはそのような理念にもとづくものであった。この結果、「普通教育」は面目を一新したが、現時点で下村は、①日本の学制はいかなる主義に基づいて編制されているのか、②文部省はいかなる目的をもって学政を施行するのか、③地方官はいかなる方法をもって教育を実行するのか、という観点から厳密な「審断」が必要であるというのである。

 「学制」の「第一ノ主義」は「国民タルモノハ其ノ子女ヲシテ一般ニ就学セシメ」ることであり、「学事施行ノ方法」は当初は地方官に担任させ、督学局を各大学区において監督させるというものであったが、文部省と地方官と人民との権限関係が不明確であったことから、明治7年以降は「督学ノ権」を文部省に集中し、「督学」はもっぱら学事視察のみをおこない地方官を督責する権限をもたなくなった、それ以来文部省は「主義ヲ確定」し、自らの任務を①「学事諸般ノ制度ヲ設ケ」、②「普通教育ノ学科ヲ定メ」、③「其他各種ノ手段ヲ以テ教育ヲ勧誘スル」ことに限定してしまった。その結果、学資支出の方法や教則校則などの制定については地方官に委ねることとなり、私学を閉鎖して「人民ヲシテ敢テ学事ニ関与」させないような事態も起こっている。このように地方官は「文部省ノ主義ヲ拡充」し、「教則校則ハ自己ノ一定シタルモノヲ以テ管内一般ニ之ヲ遵奉」させるなど地方人民の実情に即しない施策をおこないさまざまな弊害が生じている。また授業の方法は教員の自由に委せるべきであって教員は地方官のための単なる器械であってはならないという人もあれば、それとはまったく反対に学事は到底人民に委せるべきではないから人民と地方官との間の権限関係を明確にするべきであるという主張もある。このような混乱は結局は「文部省ガ地方官ニ学事ヲ委任シタル時機ノ早キ」に根本的な理由があるのである。本来「各地各人ノ状態」は「千差万別」なのであるから、「貧富ノ別」に応じた「普通教育」を実施すべきである、というものであった。

 下村の見解は西村茂樹や九鬼隆一らの見解とほとんど同様であるが、「普通教育」を実施する権限、あるいは「教育施行ノ権利」について理念上は「国民各自ノ職分」であることを明確に述べていることは注意しておきたい。古渡にしても下村にしても普通教育を少なくとも理念上は人民もしくは国民の権利として明確に理解していることは普通教育論史上確認しておくべきことであるだろう。とはいえ、現実にあってはその理念を発展させる政治的社会的条件は成熟しておらず、理念的な見解も理論的な確信に至ることなく、現実主義的な普通教育行政の実現を保護者たる政府にむしろ強く迫るという主張に容易に転化するという事例としてこれらの見解を位置づけておきたい。

 

 第5節 福沢諭吉の「教育論」

 福沢諭吉は明治初期に「コンモン・エジュケーション」という言葉を紹介しながら普通教育について発言していた(第1章第5節)が、「学制」転換期においても事実上普通教育論を展開している。『教育雑誌』第60号 (1878年3月9日発行)は「福沢諭吉中村栗園ニ答フル書」と題する一文を載せている。(7)

 福沢はその中で「文部省ニ於テモ学制ノ改革」に着手しようとしているが、そこでは「必ズ孝悌彝倫ノ旨ヲモ奨励スルコトナラン」と見通したうえで「学則ヲ以テ此旨ヲ勧ルモヨク実際ニ行ハル可キヤ」と疑問を投げかけ、その実効は信ずることができない、将来「教員ノ品行」が進歩して「学則」が活用される日がくることを期待するとして教育令制定の動きにほとんど期待を示さなかった。

 福沢はこの一文において「徳川時代教育ノ大勢」、「維新以来教育ノ大勢」および「今後教育ノ大勢」を概観しながら、小学校の数が増加している中で「孝悌ノ道」を重視する「小学教則」の刊行が必要ではないかとする中村栗園に応えて、「今ノ小学教育ノ不十分ナルハ特ニ教則ノ欠ニ非ズシテ其罪多クハ教員ノ不良ニ在ルコト以テ知ル可シ」として教員養成の量的質的改善の重要性を論じた。

 「貧富尊卑ノ差別ナク」を理念とする「学制」にたいして主として行財政上の理由から「人民」を中等以上と以下に区分して階級的な普通教育制度に転換する方向を政府・文部省が意図しているときに、復古主義的な方向への「学制」改革には敏感になっても、普通教育制度を二分しなければならない状況を具体的現実的に分析して「中等以下ノ人民」に不利益となるような教育改革の方向には反対するというような見地は福沢には見られない。

 翌年(1879年)1月、東京学士会院が設立され、福沢は初代会長に就任している。会員はすべて明六社の主要メンバーであった。6月には『東京学士会院雑誌』が創刊されたが、福沢はその創刊号(第1冊)に「教育論」と題して主として「教育ノ目的」を論じている。(8)

 福沢によれば、教育とは「人生ヲ発達シテ極度ニ導ク」ことであり、それは「人類ヲシテ至大ノ幸福」を得せしめるためである。福沢はこれを「平安ノ主義」と名付け、「教育ノ目的」は「平安ニ在リ」と断じ、それは「世界人類ノ社会ニ通用」するものであると力説している。

 福沢によれば「平安」とは「精神モ形体モ共ニ高尚ニ達シテ此高尚ナル心身ニ応シテ平安ナルモノヲ平安ト名ルナリ」というものであった。「教育ノ目的」は「足ラザルヲ知テ之ヲ足スノ道ヲ求ルニ在ル」のであって、そのために「人生ノ働」を全面的に発達させなければならないのである。現実社会は「殺伐戦闘」に満ちているように見えるがその場合でも「自己」もしくは「自国」の内部では「平安幸福」を求めているではないか。しかし、「人生発達ノ点」に着目するならば「形体ノ安楽ニ兼テ精神ノ愉快ヲ重ンズル日ニ至」って初めて「人類至大ノ幸福」を見ることができるのである。そのように見るならば「今ノ世界各国ノ人民ハ自カラ安楽ヲ知テ他ノ不幸ヲ知ラザル者ナリ一国内形体ノ安全ヲ求メテ国外ノ安全ニ愉快ヲ覚ルノ精神ニ乏シキ者」といえる。つまり「国ノ教育未ダ上達セザル者ト云テ可ナリ」と結んでいる。

 「形体」から「精神」への発達を促す教育によって世界全体の「平安」を得ることができるという壮大な教育論が展開されているが、そのような「平安」を実現させるためには政治や経済や法律や科学など社会のあらゆる領域における教育的機能を福沢の言う「教育ノ目的」にそって全開させなければならないだろう。「学制」改革に直面している政府・文部省にとって福沢の「教育論」はすでにあまりに「高尚」過ぎたのではなかろうか。というよりも福沢は広義の意味における教育目的を論じているのであって、「普通教育」における教育目的を論じているのではなかった。

 

 第6節  小幡篤次郎の「教育」論

 小幡篤次郎は1879(明治12)年12月、東京学士会院において「専門学校ノ切要ヲ論ス」と題する講演を行い、「専門ノ教育」を重視する立場からそれと「普通教育」との関係を論じている。(9) 普通教育と実業教育との関係を正面から論じた最初の文献とも言い得るであろう。

 小幡は、①「実用者ニ在リテハ各事業ニ就キ之ヲ進捗セシム理論ヲ知ル」必要がある、②それぞれの事業にはそれに対応する「専門ノ教育」が必要であり、また専門学校が必要である、③この場合の「専門ノ教育」は「目今ノ所謂専門教育」とは異なり、「実業教育」とも言うべきものである、④「専門ノ教育」は「普通ノ教育」を基礎とするものでなければならない、という。

 小幡は「教育ノ目的トスル所ハ人ヲ教テ完全無比ノ聖賢トナラシムルニ在ルガ如シ故ニ人ノ具備スル所ノ五官百能悉皆ク之ヲ発達セシメ知徳芸能一身ニ備テ且其至善至美ノ域ニ達センコトヲ希フハ人世ノ最大希望」であると述べているが、ここで重要なことは「人ノ具備スル所ノ五官百能悉皆ク之ヲ発達セシメ」るということである。それは人間の普遍的願望であるが、現実の教育は「民生」から遊離しており、実用の学問になっていない。本来、学問は「専門教育」と「普通教育」(「普通ノ学科」)からなるものであり、その基礎となる教育として「普通ノ教育」が存在しているのだが、この「普通ノ教育」を「一芸一能ノ人」を養成するための「専門ノ教育」の基礎となるものにも改変していく必要がある、というのである。「普通教育」と「普通ノ教育」、「専門教育」と「専門ノ教育」が使い分けられていることに注意されたい。 「普通ノ教育」は「普通教育」と「専門ノ教育」それぞれの土台となるのであるが後者の「普通教育」は今日で言えば大学教育における一般教育に対応するものであろう。

 「普通ノ教育」概念は、当時の現実的課題の中で「専門ノ教育」および「専門教育」との関連において自らの概念内容をより明確にせざるをえなくなったのである。

 

  注

(1)山田行元「強迫就学法ノ論」、『教育新誌』第2号、1877(明治10)年 6月刊、所収。

(2)御園生卯七「山田行元先生自叙傳」、『房総郷土研究』第1巻第6号、193 6年、所収。

(3)戸沢行夫『明六社の人びと』、築地書館、1991年、55ページ。

(4)植木枝盛「普通教育論」、国立国会図書館憲政資料室所蔵。他に岩波書店『植 木枝盛集』第3巻、1990年、外崎光広『植木枝盛著・維新後道徳の頽廃せしこ とを論ず』、法政大学出版局、1982年、にも収録されている。なお、山川和子 「 植 木 枝 盛 稿 『 普 通 教 育 論 』 に つ い て 」 、 東 京 学 芸 大 学 大 学 院 「 教 育 学 研 究 集 録」、1977年、参照。

(5)古渡資秀「論教育法」、文部省『教育雑誌』第43号、1877年。『明治前 期文部省刊行誌集成』第7巻、歴史文献、1981年、所収。

(6)下村松造「我邦普通教育ノ現状ハ慶スヘキ乎」、「東京日々新聞」、1878 年1月31日付。文部省『教育雑誌』第57号(2月15日付)に再録。『明治前 期文部省刊行誌集成』第8巻、歴史文献、1981年、所収。

(7)福沢諭吉「福沢諭吉中村栗園ニ答フル書」、『民間雑誌』第114号、187 8年2月6日付。文部省『教育雑誌』第60号 、1878年3月9日発行に再録。『明治 前期文部省刊行誌集成』第8巻、歴史文献、1981年、所収。

( 8 ) 福 沢 諭 吉 「 教 育 論 」 、 『 東 京 学 士 会 院 雑 誌 』 第 1 編 第 1 冊 、 1 8 7 7 年 、 所 収。『東京学士会院雑誌』第1巻、鳳出版刊、1977年、収録。

(9)小幡篤次郎「専門学校ノ切要ヲ論ス」、『東京学士会院雑誌』第1編第5冊、 1879年、所収。