第5章 「普通教育」の法令用語化  当時、「学制」に対しては文部省内に次のような力が作用し合っていたと思われる。  第1は、「学制」擁護・推進論である。それはさらに2つの力に別れる。そのひとつは「学制」を前提としたうえで中学校の教育を普及・充実させることこそが重要であるとする力であり、佐野常民らが教育令案を審議する元老院で主張した立場である。他のひとつは「学制」のもとで「貧富尊卑ノ差別ナク」、人民に「説諭」を尽くしてでも小学校の教育を普及充実させなければならないとする力であり、督学局内の西潟訥や畠山義成らが主張した立場である。  第2は、「学制」改正論である。これもまた2つに分かれる。そのひとつは「貧富尊卑ノ差別ナク」という「学制」理念を「緩和」し、一定の階層以上の人民の子弟を対象により現実生活に結びついた初等教育を重視し、それ以下の階層の子弟の教育は「放任」する、同時に文部省の教育政策全般にたいする権限強化を図るという力であり、文部省幹部の主流を規定していた力である。他のひとつは天皇勢力と結びついたより国家主義的な方向での「学制」改正論もしくは「学制」廃止論である。  倉澤剛氏は「地租軽減と経費削減のなかへ帰朝した田中(文部大輔ー引用者)は、やむなく督学局を廃止し、官立英語学校・師範学校等9校を廃し、小学補助金を75万円から42万5千円に減ずるなど、当面の経費節減策を断行するとともに、小学校政策もまた政府の転換政策に呼応して、人民自治の自由教育へ転換すべきだと判断し、そのため干渉督励主義の学制を廃して、自由主義の教育令を立案する決意を固めた」(1)と説明している。  倉澤氏がいう「人民自治の自由教育」とか「自由主義」というものがどのようなものであるかにもよるが、そのような特徴づけによって教育令への移行が国家主導のもとでの教育制度の階級分化あるいは差別化を促進し、そのうえで普通教育全体にたいする国家支配の確立を意図したことを曖昧にしたり過小評価したりするのであれば、そのような特徴づけは説得性に欠けるといわざるをえない。  廃止された督学局の局長であり、学監事務所長に就任した野村素介大書記官はまさに政府の行政改革の立場にたって「貧富尊卑ノ差別ナク」就学を奨励する「学制」路線を放棄し、政府・文部省の教育目的を明確にすることを求め、教育財政の地方負担化および文部省の権限強化を主張していたのである。「学制」廃止はそのような意図と結びついていたのであって、「人民自治の自由教育」への転換を意図したものではなかった。その点で田中と文部省幹部との間に認識の違いがあったとしても、「学制」廃止の基本的意図は文部省幹部によって確実に自覚されていたと考えるべきであろう。  倉澤氏は文部省案「日本教育令」上奏に際して田中文部大輔の上奏文「教育令草按ヲ上奏スルノ議」が「抽象的で迫力に乏しい」のは「学制を廃して教育令を公布せねばならない切迫した理由が必ずしもなかった」(2)からとしているが、田中文部大輔個人がそうであったとしても文部省幹部は全体としてはそうではなかった。  1877(明治10)年1月に任命された学制改正取調委員(文部少輔神田孝平、大書記官野村素介、同九鬼隆一、同西村茂樹、権大書記官中島永元、同辻新次ら奏任官により構成)の最初の大きな事業は全国の大規模な学事視察であった。文部省案である「日本教育令」が上申(1878年5月)されるまでに西村、九鬼、中島、神田、野村の各委員が視察報告を提出しているが、西村、九鬼の両大書記官の報告は「普通教育」の現状とその政策課題ともいうべき内容となっており、しかも「普通教育」制度をきわめて多面的に認識している点で大いに注目に値する。  「学制」を改正するのか、あるいはそれを廃止してそれに代わる教育法令を制定するのかは政府・文部省のみならず、支配層全体にとってもまた社会的にも重要な問題であったが、実はこの問題は「普通教育」をどうするのかという、いわば〈普通教育論争〉とも言えるほど「普通教育」をめぐってさまざまな論議が展開された。相互にからみあいながらも大きくは以下の4つの方向に整理できるのではないだろうか。  第1は、人民を中等以上とそれ以下に区分して「普通教育」を事実上「中等以上ノ人民」のためのものとして「中等以下ノ人民」の普通教育は切捨てる、もしくは私学に委ねるという方向である。  第2は、人民を二分したうえでそれぞれに対応する普通教育制度(学校制度、教育内容)をつくりあげていくという方向である。  第3は、第2の方向を前提としながらもさらに政治的な観点から人間性への着目とむすびつく普通教育に内在する危険性を回避して普通教育の国家主義的な改変をせまるという方向である。  第4は、第3までの立場とは異なり、普通教育に内在する人類性・普遍性さらには人間的諸能力の発達等に着目して、文明開花にふさわしい「普通教育」を実現する、という方向である。  これらの方向は政府・文部省の周辺で複雑に交錯していたのであり、教育令の制定・改正過程を規定することになるのである。  第1節 西村茂樹大書記官の「普通教育」観  西村茂樹大書記官はその報告(「第二大学区巡視功程附録」)の中で、地方学事とくに教則・教授法の状況を「普通教育ノ病」と認識し、その「症状」を次の4項目にまとめている(3)。  ①「専ラ外面ノ修飾ヲ務メテ教育ノ本旨ヲ後ニスルニ在リ」  ②「教育ノ為ニ人民ノ金ト時ヲ費スコト多キニ過クルニ在リ」  ③「小学ノ教則中迂遠ニシテ実用ニ切ナラサル者アリ」  ④「一定ノ教則ヲ以テ之ヲ全国ニ施サントスルニ在リ」  ここで「外面ノ修飾」とは単に西欧風の学校建築等を指すものではなく、全国に53、760の小学校を設置し、「貧富ノ別ナク」すべての人民に就学を保障するという「学制」の公約であった。そのための費用は莫大なものであり、またそれは第2番目に指摘しているように「人民ノ金ト時」に依存するものであった。「豪農ノ貧弱ヲ助クルハ交際上欠クヘカラサルノ義務ナリ苟モ人トシテ人タルノ義務ヲ欠クトキハ亦朝旨ニ背クモノト謂フヘシ」(4)というのが地方学事担当官の意識であったから、豪農層をはじめとする有力「人民」の教育費負担感は相当なものとなっていた。西村も寺小屋時代に比べて「人民ノ費用」は10倍になっていること、だからと言って教育水準が寺子屋に比べて向上しているわけではないこと、したがって「人民貧富ノ度」から見ればその費用は人民にとっては「頗ル難儀至極」であること、教育費といっても小学だけではなく中学・専門学などがあるのだから小学のために「民費」を愛惜しないわけにはいかないこと、修業時間も長くなりまた休日以外は出席せざる得なくなったから生徒たちが「家事ノ助」をすることができなくそれが「尤モ父母ノ苦ム所」となっている、などと報告している。  以上のことから西村は、都会はともかく「貧村僻邑」の学校は費用はできるだけかけないようにし、「自由ニ私学校ヲ開ク」ようにすべきである、当分は習字だけでもよいではないか、徐々に読書習字算術の3科を充足していけばよいではないか、修業時間については「民業繁閑ノ度」を考慮していくこと、年間12週の修業ということにすれば「民心悦服」して就業するものが多くなるのではないか、以上は「民情」「民力」を考慮したものであって、「民智」が向上していった時はその限りではない、と提案している。  第3に、教則および授業法について、「五十音」「単語問答」「書取」「ローマ数字」「習字」「色図」「形體線度図」「暗算」「暗射図」「算術」「作文」「修身学」それぞれについての現状の問題点を指摘し、改善案を提案している。  「読本」については、そこで用いる言語も、職業上必要な言語、文学技芸上の言語、日用書翰用の言語、官府にたいして必要な言語などがあるのだから、1冊にまとめないでそれぞれに応じたものを編集するべきであるとしている。  改善案の中でもっとも重視しているのは「修身学」についてである。西村によれば、現状では「修身学ノ根基」とするものがなく、ただ「教師ノ口授」のみに頼っているだけである、したがって「少年ニシテ自己ノ品行モ修マラス道徳ノ理ニモ通達セサル」ものがいるとし、では「修身学ノ根基」を何に求め「日本全国人民ノ位格ヲ造リ出ス」ことができるかと自問し、キリスト教、仏教、孔孟の説等に言及しながら、結局「漢籍ノ四書」、すなわち孔孟の説に求めるべきであるとしている。同時に、孔孟の説には今日では不可欠な「権理」「義務」「自由」「愛国」などの教えが弱いから、欧米の道徳で補強する必要があると述べている。  第4の項目「一定ノ教則ヲ以テ全国ノ学校ニ行ハントスルノ弊」については論ずるまでもないとしている。  西村にとって「教育ノ本旨」とは「文明富強」に対応する国民づくりであるが、そのような教育はすべての人民に共通に享受されるべきものではなく、就学は「民力」「民心」「民情」「民智」に応じて「斟酌」されるべきであるとされた。教育内容も一律に「迂遠」なものである必要はなく、「民智」に応じて「文明富強」を実質化させる見地から、「人民」それぞれの貧富に応じて「実用ニ切」なるものであるべきとされた。  西村大書記官がめざす「普通教育」は、「文明富強」に応じる国民づくりという立場から、教育目的、教育制度、教育内容等を「民力」におうじていわば多様化していくべきものとされた。西村にとって「普通教育ノ病」に対する処方箋とは「学制」実施の過程で生じた諸問題を「学制」の基本理念にたちかえって是正するというものではなく、その基本理念自体のブルジョワ的・国家主義的な転換という立場からの「普通教育」制度の確立であった。  第2節 九鬼隆一大書記官の「普通教育」論  九鬼隆一大書記官もまた詳細な報告書を提出し、「今ノ普通教育」の問題点と改革方向を以下のように報告している。(5) 九鬼はしばしば「普通教育」について語っているが、ここでは「報告書」に限定して検討することとし、明治17年段階の九鬼の「普通教育」論については第11章でとりあげることとしたい。 ①「教育者」は「規則(ルール)」ばかりを教えていて「道理(プリンシプル)」を教えていない。 ②「教授養成」の現状は「利用ヨリ装飾ヲ重ンシ実益ヨリ外観ヲ先」にし、教師も生徒も「高尚華麗ナル学問」を優先して「身体ノ摂生産業ノ経営衣食住ニ関係セル有用ノ学問」を後にしている。 ③オブジェクト・レッスンも普及しておらず「観察力」が重要であることを理解していない。 ④以上のことは「教則」「校則」から「授業ノ方法」にいたるまでの制度を決定する権限は教師ではなく官吏が握っていることと関係している。 ⑤「教育」とは「心性発達ノ自然ニ一致シ其発達ノ順序ヲ察シテ知識ヲ給スルコト」であるということは一般的に理解されているが「実際ノ方法」については知られていない。そのために「子女ノ能力ヲ消耗」させ、「学問ヲ嫌フ心」を生じさせている。⑥地方ではさまざまに工夫して教育の実効を挙げている例も見られるが、とくに「文部省直轄師範学校卒業教員ハ学力浅劣」という指摘もある。 ⑦「今ノ普通教育」は「附属小学」の「模倣」であって、地域、産業、家業それぞれの実態に即した教育が行われていない。 ⑧「中等以下ノ人民」の生活は貧しく、その子どもは家計上「有価有用」であって、都会の子どもとはまったく別の生活をしている。ここにこそ教育者は留意しなければならない。 ⑨現在行われている教則は「中等以上ノ産」があり、「中等以上ノ地」にすんでいる子弟を念頭においている。現在行われている諸教科の多くは「中等以下ノ人民」には無益である。 ⑩文部省は「文部省制定ノ教則」を「一斉ニ」準拠させようとしているのではないのだが、現実には「附属小学」は「普通小学」の基準となっている。しかし学制当初はともかく現在では「斟酌折衷」して実施すべきである。 ⑪このように「普通教育」にあっては「一般一様ノ教則」をもってするのではなく「斟酌折衷」が必要である。そのことは「教則」だけではなく「学則」「就学」制度についても同様である。 ⑫現実に「定期全国一般ニ普行」しているその原因は文部省の「学制」以来の法令が「一令」にとどまったことにある。 ⑬もともと「普通小学」における教育は「人間普通ノ嗜」という程度のものであって、「社会万般ノ事理ニ通シ自主独立ノ一大丈夫トナラルヘキ程ノ学問」ではない。⑭したがって8年間の就学は不要であって、8年間に480日就学できればよいのである。また、「上等人民ノ子弟」の場合も8年間ではなく6年間とし、それぞれに応じた教則を制定する。 ⑮「貧民ノ子弟」には次のような「学問」を選ぶ。「摂生法」「人身生理初歩」「珠算初歩」「利財倹約初歩」「法度違式条例概略」「修身道徳階梯」「日本至近ノ地理」「職業階梯」「農業初歩」「商業階梯」「習字及作文初歩」「博物初歩」「物理階梯」「図画初歩」「記簿初歩」 ⑯教員が「道理教」を基礎とし得るようにするには、「一時ノ窮迫ヲ免レ」るために教員となる状況を改善しなければならない、そのために「永ク一身ヲ其職ニ安ンセ」しむるよう「退養料」制度を設定する。 ⑰今後は、「教則」「授業ノ法」を「斟酌折衷」する権限を一般の吏員ではなく教員に委せることにしたい。 ⑱教科書の編集とその順序については子女の「身体才智性行ノ素性」等を「審ニシ」、「生理学心理学ニヨリ心身発達ノ理」に即したものでなければならない。 ⑲学資徴収法については将来にわたって学校を維持する観点から行政上の強制によるのではなく「各地従来ノ習慣」を尊重して行うべきである。  九鬼はこの報告の中で、「今ノ普通教育」の困難を打開するためには普通教育に関する権限を官吏から教員に移管すべきであること、退職金制度など教員の待遇改善をおこなって教員がしっかりとした教育理念のもとに教育を行なえるようにすること、子どもの心身の発達に関する学問的基礎に基づいて教科書編集にあたること、など大いに注目されるべき見解を表明しているが、同時に「今ノ普通教育」が地域、産業、家業において著しい格差があるにもかかわらずが一元的な制度のもとに実施されている現状から、「中等以下ノ人民」と「中等以上ノ人民」に応じた普通教育制度の分化を要求している。この場合、留意しなければならないことは、「中等以下ノ人民」の子弟の普通教育について、単純に私学への放任あるいは自由化を求めているのではなく、それに応じた教則、就学時間等の制定を具体的に提案していることである。その際、普通教育とは「人間普通ノ嗜」であるとし、最低限それを習得するのは貧富を越えた人民すべてにとって不可欠であり、かつその習得を要求するのは政府の責務であると認識していたことである。  九鬼は「教育」とは「心性発達ノ自然ニ一致シ其発達ノ順序ヲ察シテ知識ヲ給スルコト」と言いながら、一方では「中等以上ノ人民」のための普通教育制度、基本的には中学校・大学につながる普通教育機関を、他方では「人間普通ノ嗜」を習得するための「中等以下ノ人民」のための普通教育機関を構想していた。九鬼が「人間普通ノ嗜」という場合の「普通」というのは、例えば「習字及作文初歩」という教科について九鬼はあえて注を付し「行草ノ字体ヲ以テ自己ノ住所姓名ヲ記スヨリ親族等ト往復シ日常普通ノ用ニ供スルニ足ルヘキ手簡ノ類ヲ云」と説明していることからもわかるように「日常普通」という程度の意味であった。  第3節 「学監考案日本教育法」とその「説明書」をめぐって  文部省は1877(明治10)年1月12日、督学局を廃止し、学監事務所を設置した。事務所長になった野村素介は熱心な「学制」改正論者であり、督学局廃止論者であったことはすでに触れたとおりである。所員は江木千之、高橋是清、折田彦市、平山太郎、服部一三らであった。ここでも学制改正取調委員とは独自に学監マレー(D.Murray)を中心に新たな教育法令作成に着手しており、「十年末から十一年の始めに」はマレーによる「日本教育法」とそれについての「説明書」が提出されている。(6)    ところで、マレーも学制改正取調委員らが行った大規模な学事視察の一環と思われる視察を第一大学区において行っている。1878(明治11)年3月に出発し7月に報告書を提出している。文部省の「日本教育令案」(7) はその間にまとまり、上申されている。  この文部省案はマレー案を少なからず参考にしているといわれているが、すでに述べたように学監事務所の江木千之は文部省案が提出された際に「是は洵に困ったものだ」と「嘆息」した、と回想している。(8) 「まるで放任主義」というのである。当時から50数年経ったこの回想・評価がその間に軽減あるいは増幅された可能性もあるが、いずれにしても水戸学を修めた弱冠25歳の江木は鋭い問題意識を感じたのであろうか。「まるで放任主義」とは何を意味するのであろうか。  その前に、マレーが執筆したとされている「説明書」について若干述べておきたい。筆者はこの「説明書」もまた翻訳者(江木と特定できるわけではないが)によって相当「意訳」されているのではないかと推測される。たとえばマレーの「日本教育法」第119章「日本文学館」の会員について「説明書」では「天皇陛下ノ勅任スヘキモノトス」とされている。条文にはそのような文言はないし、マレーによる補足説明とは考えずらい。  江木の回想によっても、江木はたとえば文部省案は困るというのでマレーをつついて文部省案にたいする批判的意見を書かせようとしたが、「西洋紙一頁」程度のものしか出なかったので、江木が「意訳」して十数枚の「意見書」を書きマレーの名前で提出するということができる人物であった。当然のことながら「次官から大に叱責を蒙って懲戒にもなるべき模様」(9)となったのである。  ところで、実はこの「説明書」に「普通教育」という言葉が5回用いられている。 ①「何国ヲ論セス普通教育ノ進捗ヲ致セシモノハ皆中央政府監督ノ功ニ由ラサルハナシ」 ②「普通教育ノ事ニ就キ人民ノ競励心大ニ活動セル府県ノ如キハ益其人民ヲ鼓舞シ学校ノ管理ヲ各自ノ身上ニ担任セシムヘシ」 ③「中学ヲ分テ二種トシ一ハ大学ニ入テ高尚ナル専門学科ヲ修メント志スモノノ為メニシ、一ハ高尚ナル専門学科ヲ志スト雖モ或ハ高尚ナル普通教育ヲ得ントシ、或ハ教員トナラントシ、或ハ該博ノ学識ヲ要求スル職業ニ従事セント志ス者ノ為ニスヘシ」 ④「民智ノ開否ハ国家隆替ノ繋ル所重ンセサル可ラス是ヲ以テ政府タル者ハ宜シク一般人民ヲシテ特ニ普通教育ニ注意セシムルヲ以テ其本分トスヘシ」 ⑤「政府ハ人民ノ貧窶ニシテ其子女ノ受業料ヲ収ムルコトヲ能ハサルモノアル如キハ之ヲ免シテ必ス普通教育ヲ受ケシムルヲ要ス」  「国家隆替」の見地からの「普通教育」政策の推進、「普通教育」政策における中央政府の監督権限の強化、その方向での府県の責任の明確化、貧民子弟にたいする受業料免除と「普通教育」就学強制、中学校の目的規定の多様化と「高尚ナル普通教育」という表現等について語られている。120章からなるマレー案「日本教育法」には「普通教育」という言葉は一度も用いられていないこととどのように整合するのであろうか。  「説明書」に「普通教育」という言葉が多用されていることが、マレーの意志によるものか、あるいは学監事務所とくに江木の意向が強く反映しているのかについては不明である。ただ言えることは「普通教育」の強調を新しい教育法令の基本方針として押し出していくという意図が文部省幹部=学制改正取調委員を規定していたし、「説明書」の中にも現れていることである。それは普通教育政策の国家主義的強化と結びついている点では共通しているものの、さらに天皇制と結びつけるかどうかでは政府部内では異なった立場が顕在化していたと思われるのである。そのギャップは教育令制定直前に「教学聖旨」「教育議」「教育附議」となって表面化するのである。「普通教育」強調の方向もそのような政治的文脈の中に位置づけられていたのである。  第4節 「普通ノ教育」と「普通教育」  教育令は1878(明治11)年5月14日の文部省案「日本教育令」(19項目78章)、翌年2月21日の法制局案「教育令」(全49条)を経て、同年9月29日に太政官案「教育令」(最終案、全47条)が公布された。(10) それぞれの案について「普通教育」という用語に直接関連する部分を抜き出しておこう。 【文部省案】  第19章 小学ハ人間普通欠ク可ラサルノ学科ヲ児童ニ教フル所ナリ  第20章 小学ノ学科ハ読書習字算術地理歴史修身等ノ初歩ナリ(後略)  第22章 中学ハ高等ナル普通学科ヲ教フル所ナリ  第30章 凡児童学齢間少ナクトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘキ者トス  第32章 学校ニ入学セスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アル者ハ就学トナスヘ      シ 【法制局案】  第 3 条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所ニシテ其学科ヲ読書習字算術地理      歴史修身等ノ初歩トス(後略)  第 4 条 中学校ハ高等ナル普通学科ヲ授クル所ナリ  第14条 凡児童学齢間少ナクトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ  第16条 学校ニ入学セスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アル者ハ就学トナスヘ      シ 【元老院案】  第 3 条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所ニシテ其学科ヲ読書習字算術地理      歴史修身等ノ初歩トス(後略)  第 4 条 中学校ハ高等ナル普通学科ヲ授クル所トス  第14条 凡児童学齢間少ナクトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ  第17条 学校ニ入ラスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アル者ハ就学ト做スヘシ  法令用語としての「普通ノ教育」および「普通教育」の性格を中心に検討してみよう。  第1に指摘しておくべきことは、文部省案で小学校の目的規定を「人間普通欠ク可ラサルノ学科ヲ児童ニ教フル所ナリ」としながら、他の条項において「普通教育」という用語を用いていることである。「人間普通欠ク可ラサルノ学科」と「普通教育」とは区別されていたのである。このことはなにを意味するのだろうか。  当時、政府・文部省周辺の認識では「普通教育」という用語は中学校および小学校の教育を意味していた。と同時に小学校と中学校とは明確に区別されるべき学校であった。両者をどのように関連させるかはあらたな法令作成上重要な課題であったと思われる。前節で述べた「学監考案日本教育法」では、小学校全体の目的規定はなく、「下等小学校」の目的を「一般人民日常缺クヘカラサル所ノモノ」、「中等小学校」および「上等小学校」のそれを「一般人民必需ノモノ」とし中学校は「高尚ナル普通学科」として、中学校と小学校とは明確に区別していたのであるが、その「説明書」によれば小学校・中学校は「普通教育」機関として認識されていた。文部省案はこのような認識を継承しながら、小学校・中学校全体としては「普通教育」としながらも小学校・中学校の目的をそれぞれ規定したのであろう。  第2に、小学校の教育目的を「人間普通欠ク可ラサルノ学科」としたことである。この場合の「普通」が「人間」にかかるのか、「欠ク可ラサル」にかかるのか、あるいは「学科」にかかるのかは、いろいろ解釈の余地があるだろう。「欠ク可ラサル」については義務制を意図したとも思われる。  では「人間」あるいは「人間普通」についてはどうであろうか。常識的に「人間普通」とは〈人間であればだれにとっても〉という意味と〈人間の日常的な生活にとって一般的に〉という意味が考えられる。別な言い方をすれば、〈人間性において普遍的に〉という意味と〈人間として一般的・日常的あるいは共通に〉という意味が考えられる。「人間」についてもさまざまに解釈され得るだろう。ここで想起しておきたいことは「学監考案日本教育法」では、小学校の目的について「一般人民日常缺クヘカラサル所ノモノ」、あるいは「一般人民必需ノモノ」と規定されていたこと、また九鬼大書記官が「人間普通ノ嗜」という言葉を用いていたことである。文部省案の「人間普通」もほぼそのような意味で解釈するのが妥当であろう。そう解釈することによってそれにつづく諸学科が無理なく位置づくのである。  しかしながら、もう一方の〈人間であればだれにとっても〉という意味で理解する余地も当時にあってはありえないことではなかった。「学制」に深く関わった西潟訥は「説諭十一則」の第一則において小学校の教育目的について「声音ヲ標シ事物ヲ記シ以テ他日ニ証スルモノハ文字ナリ言語ヲ綴リ意想ヲ写シ以テ之ヲ四方ニ達スル者ハ文章ナリ此二ツヲ学ハサレハ彼我意ヲ致スコト難ク・・・」と述べ、人間にとって言語・文字が不可欠なものであることを根拠に「教科」を位置づけたし、福沢諭吉や後に述べる庵地保らも人間性に着目して教育論を展開した。文部省が当時発行していた雑誌にもそのような見地からの教育論が数多く訳出されて掲載されていた。(11) とはいえ政府・文部省はそのような解釈をおしひろげようとする見地には立っていなかった。  第3に、法制局段階で「人間普通欠ク可ラサルノ学科」が「普通ノ教育」に修正されたことである。法政局案の他の条項では「普通教育」とあるにもかかわらず、小学校の教育目的のみが「普通ノ教育」とされたのも、依然として小学校と中学校とを全体としては「普通教育」と規定しながらも、両者をなんらかの表現で区別する必要があるという認識をなお継承していると考えられる。  あるいは「普通教育」とは小学校・中学校を含む学校制度上もしくは就学年限上の概念であって、教育目的・教育内容上の概念としては「普通ノ教育」「高等ナル普通学科」とするという意図があったかもしれない。「普通ノ教育」と「普通教育」との使い分けは日本語では難しいが、英語で表現すれば ordinary もしくは common という相違が出てくる。「普通ノ教育」ということで〈一般日常的に行われる通常の教育〉という意味をこめたのであろうか。1890(明治23)年の小学校令改正で「普通教育」という言葉は消えて「普通ノ知識技能」となったが、その場合の「普通ノ」という表記がすでに第1次教育令制定過程で自覚的に選択されていたのである。 ところで、「人間普通欠ク可ラサルノ学科」を「普通ノ教育」とするということはなにを意味するのだろうか。文部省内部に小学校の教育目的を明確に規定するべきであるという認識があったのではないか。1890(明治23)年の小学校令改正に際しての文部省案によれば小学校の教育目的は「帝国臣民ニ欠ク可ラサル普通教育」という文章になっている。「人間」から「帝国臣民」への転換自体は人間の育成と国民の育成とをどのように関連づけるかを本質的な論点とする普通教育の理念にとってもっとも本質的な問題であるが、明治前期において普通教育をめぐる本質的な論点がきわめて明瞭に表明されたこと自体きわめて興味深い。  元老院は1879年5月20日から6月25日まで8回にわたり教育令法案を審議した。(12) 佐野常民がもっと中学を重視すべきだという見地から提案されている教育令は「小学普通教育令」というべきものではないかと発言したり、柳原前光が法案に賛成する立場から第14条を解釈して「大学ハ上等、中学ハ中等、小学ハ普通ノ教育」ということだと述べているほか、「普通教育」自体をめぐって直接論議はなされていない。「小学」が「普通(ノ)教育」だという認識は現時点としては当然であるとしても、「中学」の教育目的とされる「高等ナル普通学科」が「普通教育」といかなる関係にあるのか、「中等」なのか「高等」なのか、を明確にすることは当時文部省指導部にとって重要な課題であった。  第4節 「普通教育」権論  文部省案が上奏されたのは、1878(明治11)年5月であったが、その直後から天皇側近は新しい教育法令作成の成り行きに注目していた。それはとくに8月から11月にかけての教育視察を中心とする北陸・東海道巡幸以後、天皇の岩倉具視にたいする内諭という形で顕在化してきた。「我邦ノ徳義ヲ教育ニ施」すことを緊急に求めるものであった。それは文部省案の審査を行っていた法制局への圧力だったのではないだろうか。  なお、1878(明治11)年11月に太政官の小泉信吉・中上川彦次郎が大隈参議に提出した「御巡幸沿道諸縣学事報告書」は高等教育・専門教育と普通教育との制度的な関係について重要な提案を行っている。「報告書」によれば、従来の「大学ー中学ー小学」という体系は「大失誤」である、小学校を卒業して「各自ノ産業ニ就ク者」が多いのにそこでの教育内容は中学校へ進む者のために編成されている、そのため「小学生徒ノタメニハニ其便実ニ堪エ難キモノ」となっている、したがって「大中小学ヲ区別シテ各自独立ノモノ」とし、「大中小学トモ各別ニ固有ノ性質ヲ具エ」それぞれで「全備ノ教育ヲ授ル」ことができるようにすべきである、その場合小学校は「下等ノ農工商等カ日常缺ク可ラサル通俗ノ識芸」を、中学校は「中等社会ノ人民ニ必要ナ識芸」を、大学は「学士又ハ重職ノ官吏等最上ノ知識ヲ要スル者ノミヲ教授スルノ場所」にすべきである、と提言している。また、徴兵制度にも言及し、「体操」の重要性を強調している。ここには「普通教育」あるいは小学校と中学校との接続性についての直接的言及はないが、経済的かつ政治・軍事的見地から国家の教育課題が率直に表明されている。(13)   法制局(伊藤博文長官)は1879(明治12)年2月20日、文部省案を「当今ノ時勢ニ適当致難」いという理由で排除し、あらためて法制局案を起草し政府へ上申した。法制局が何をもって「当今ノ時勢」としたかについて、倉澤剛氏は文部省案上申後のいわゆる3新法との整合性を指摘している(14)。  とはいえ、法制局案が提出された直後の3月、侍補元田永孚は侍補佐々木高行へ書簡を送り(15)、法制局案にたいして①「本を捨て末に馳せ」ている、②「外飾の開化」に流れて「皇國の本色」を忘れている、と批判した上で、③小学校について「今一つ別に御確論」を望んでいる、として天皇の了承のもとに「教学大旨」、「小学條目二件」を作成していることを伝えている。  法制局案は5月20日から元老院で審議に入ったが、審議を通じて天皇側が注目していたのは第3条の性格であった。修身を首位にせよという佐野常民らの要求を否決したこと、修身を位置づけたとはいっても田中によれば修身は本来家庭で行うべきものであると説明していること、その内容は忠孝を基礎に据えていない、などは重要な問題であった。  6月25日、元老院での審議が終わり、天皇の裁可を求めるのみとなった。しかし、それは9月24日までひきのばされることになった。  この間、文部大輔の上に寺島文部卿を据える構想が浮上するとともに、天皇は聖旨「教学大旨」、「小学條目二件」を提示し、9月11日就任したばかりの文部卿に渡した。その際、元老院での審議が終了したとはいえ「見込」があれば「尚又改ムヘシ」との意向が示されたと言う。  一方、天皇から「教学大旨」、「小学條目二件」を示され意見を求められた伊藤内務卿はこれを不満として「教育議」なる意見書を提出したが、元田永孚が「教育議附議」を書いて反論した。この論争と法令用語化された「普通教育」重視の方向とはどのような関係にあるのだろうか。  文部省案が棚上げされて法制局が別案を作成したとはいえ、すでに見たように「普通教育」を正面に据えその徹底をめざす「行政改革」の見地から「普通教育」行財政を一定程度地方にゆだねるとともに、文部省の権限強化を図る、という点では法制局案も文部省案以上に国家主義的方向を強めるものであった。その点では「学制」廃止を明確に自覚したものであった。天皇側はその動向を認識しつつも、だからこそもう一押しして教育令の皇国主義化を強めようとしていたのであった。  しかし、伊藤の議論は必ずしも教育令をめぐる論点とかみ合ったものではなく、むしろ「学制」理念を肯定的に評価し、その見地から天皇側の主張を批判するというものだった。このズレの存在は文部省幹部においても認識していたと思われる。修身等をより明確な方向を示す方向に進まざるをえないことは文部省幹部自身も自覚していた問題であった。だがそれ以前に教則、教科書、教員のあり方等、教育目的・教育内容等を国家統制できる法制上の仕組みを確立しておく必要があった。  また、その方向が直線的に天皇側が求める方向でないことも文部省は理解していたと思われる。いずれにしてもに教育令が制定されてもただちに改定せざるをえない状況にあることは文部省幹部は理解していたのではあるまいか。 注 (1)倉澤剛『教育令の研究』、講談社、1975年、13ページ。 (2)倉澤剛『教育令の研究』、同上書、25ページ。 (3)『文部省第4年報』、1877年、44ページ。 (4)『文部省第3年報』、1876年、180ページ。 (5)『文部省第4年報』、前掲書、55〜56ページ。  なお、西村・九鬼の報告書は『教育の体系』日本近代思想体系6、岩波書店、19 90年、にも収録されている。 (6)「学監考案日本教育法」は土屋忠雄『明治十年代の教育政策』、野間教育研究 所紀要、講談社、1956年、に収録されている。また、「学監考案日本教育法説 明書」は東書文庫所蔵。また、『明治文化資料叢書9』(第8巻教育篇)、風間書 房、1975年には両方とも収録されている。 (7)土屋忠雄『明治十年代の教育政策』、同上、に収録されている。 ( 8 ) 『 江 木 千 之 翁 経 歴 談 』 上 、 江 木 千 之 翁 経 歴 談 刊 行 会 、 1 9 3 3 年 、 3 8 ペ ー ジ。 (9)同上書、39ページ。 (10)国立公文書館、公文録文部省之部、明治12年自7月至9月、所収。なお、 倉澤剛『教育令の研究』、前掲書、第1章参照。 ( 1 1 ) 例 え ば 、 『 文 部 省 雑 誌 』 明 治 8 年 第 1 3 号 8 ペ ー ジ 以 下 に 掲 載 さ れ て い る 「教育学原理」などを参照。 (12)明治法制経済史研究所編『元老院会議筆記』前期第6巻、元老院会議筆記刊 行会、1963年、120ページ他参照。 (13)早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』第5巻所収。221〜224ペー ジ。早稲田大学所蔵大隈文書A4215。 (14)倉澤 剛『教育令の研究』、前掲書、31ページ。 (15)東京大学史料編纂所編纂『保古飛呂比・佐々木高行日記8』、東京大学出版 会 、 1 9 7 6 年 、 2 7 1 〜 2 ペ ー ジ 。 倉 澤 剛 『 教 育 令 の 研 究 』 、 前 掲 書 、 4 7 ページ参照。