第6章 教育令の具体化と「普通教育」問題                                                    『文部省第7年報』によれば、①明治維新前にも「学校家塾等」において教育を受ける子どもは少なくはなかったが、そこでの「教授科目」は「普通教育法」といえるものではなかった、②「学制」は「普通教育ノ道」に端を啓き、師範学校において「普通小学教授ノ法」を提起し「諸学ノ教則ヲ制定」したことにより、その数も2万校となり、1874(明治7)年には「其(普通教育のー引用者)基礎略ボ定」まった、③しかし「社会ノ情勢人文ノ進展」に応じて「諸般ノ制規ヲ改更スルハ則チ施政上最モ缺ク可カラザル要務」となり、したがって教育令を制定したのだ、と述べている。(1)                          これは明治14年11月の時点で文部卿福岡孝弟が述べたものだが、「学制」を「普通教育ノ道」に端を開いたものとして認識していることにも興味を覚えるが、ここで重要なことは、教育法制の改更を「社会ノ情勢人文ノ進展」に求めていることである。                                                                                           「社会ノ情勢人文ノ進展」と思われるものを挙げれば、①「国憲」起草など国会開設への支配層の対応、②自由民権運動にたいする対抗策と西南戦争等政治権力基盤確立のための財政支出の結果としての「行政改革」、③天皇側の学制改革にたいする強固な意思表明と政府・文部省にたいする圧力、④いわゆる3新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)に見られる地方制度改革、などである。これらが結局は「学制」そのものを挫折させ、人民を中等以上と中等以下に区分してそれぞれに対応する普通教育制度への転換を必然化させたのである。                        第1次教育令の具体化は学務委員、小学校設置維持、小学校教則、私立小学校、小学校教員、教科書問題等多岐におよぶが、ここでは教育令第3条を中心にその具体化の進展状況を通して、そこに見られる普通教育問題について考察することにする。教育令第3条の具体化はまず私立小学校に向けられた。                              「貧富尊卑ノ差別ナク」という「学制」理念は公私立の別なく小学校の普及をめざすものであったが、府県費負担を強いられる地方官にとって公立小学校の維持拡大は困難な課題であった。政府・文部省は「行政改革」を契機に府県の負担軽減の見地から公立小学校の私学化を容認してきたが、それは一方では民衆の子弟の普通教育就学化という「学制」理念の否定を意味すると同時に、他方では私学化による国家統制の弱化とそれにともなう社会不安の増大という支配層の危機感をも惹起させた。私学化はあくまでも文部省の統制化のもとでの私学化でなければならなかった。                                                                                                            第1節 第1次教育令、とくに第3条の具体化                                              1880(明治13)年1月6日、文部省は「普通教育ノ正格」に合致しない小学校を「変則小学校」とする第2号通達を出すとともに、翌日第3号をもって6科兼学を基準として「普通教育就学」と「変則就学」とに区分する通達を出した。これら通達は第1次教育令が制定されて3ヵ月後に出されたものであるが、半年後の6月にはいずれも廃止されている。「普通教育ノ正格」への合致ということで文部省は何を意図し、またそれら通達はなぜ廃止されることになったのであろうか。そこでまず、教育令が公布されてからこれら通達が出されるまでの間に普通教育をめぐってどのような動きがあったかを見ることとしたい。(1)          私立小学校と私立各種学校の分離   教育令公布直後、教育令第3条をめぐる地方官の関心はこの条文の私学に対する関係に集中した。                                私立小学校は1879(明治12)年に前年度より125校増加し1、315校であったものが翌年には332校減少して983校、となっている。増加していた私立中学校は1879年には677校であったものが翌年50校に急減している。(2)減少した1、000校近い小学校・中学校はことごとく消滅したのであろうか。                                                                                                         『文部省年報』の「各種学校」に関する統計は1880(明治13)年からであるが、明治13年の「各種学校」のうち私立1、583校のなかには減少した私立小学校・中学校の相当数がおしこまれてしまったのではないだろうか。『文部省第7年報』例言によればこれらの数には私立小学校の場合、「普通学ノ二三科ヲ授ケテ未タ小学ノ體ヲ為サザルモノ」、私立中学校の場合、「中学校ノ品格ヲ具ヘザルモノ」も含まれていた。                                                                              なお、『文部省第8年報』「各種学校」の項によれば、統計上、学校の「等位」、「種差」あるいは「分類」「種別」は「学科目若クハ其課程」の「程度」「高低」を基準とするのではなく、「教育令ノ本旨」に従って学科の「完備」「不完備」を基準とすると説明している。(3)                   そのうえで「各種学校」として、①「洋籍ヲ用ヒテ青年ノ子弟ニ文学若クハ高等普通学ノ二・三科ヲ教授」する学校、②「学齢外ノ童子ヲ集メテ経史等ヲ講読」する学校、③「単ニ習字算術ノミヲ教授スル学校及ヒ家塾」を挙げている。したがって、この③の「各種学校」には「学齢児童」も「入学」できるが、「学科不完備」であることにより、小学校「就学」とはみなされなかった。                     文部省の第2・3号通達に至るまでの府県と文部省の私学をめぐる動きを『文部省日誌』において見てみよう。                                                                        山口県は8月29日、本県では従来「中学ハ其性質悉ク私立ニ属」していたが、府県立にすることを県会で決定したとして「高等普通ノ学科ヲ教授スル」とする中学校規則を文部省に報告し了承されている。(4)               8月下旬といえば教育令案の元老院審議が終わり天皇側が政府・文部省に文部省首脳の人事等について圧力をかけていたころであるが、すでに教育令の主旨を察して対応した事例というべきであろうか。                                                    山梨県は10月7日、学齢外の者を教育することを目的として、しかも習字または読書のみを教授するような私立学校は設置することができるのか、その場合の学校の種類はどうなるのかと問い合わせたのに対し、文部省は設置することができるがその場合は「各種」の名称となると返答している。(5)           また、「普通小学々科ヲ備ヘサル私立学校ニ入ル児童ハ就学ト見做サゝルカ又ハ就学トスルカ」に対しては「普通教育ニ就ク者トハ做サ」ないと指示している。10月25日、同様の問い合わせをした愛知県に対して、文部省は「六学科ノ初歩ヲ具ヘサル私立学校ニ入学スルノ生徒ハ普通教育ニ就ク者トハ做スヘカラサル儀」と心得よ、と答えている。 (6)                       和歌山県は10月22日、教育令第9条但書の「町村人民ノ公益タルヘキ私立小学校・・・」という文言について、その場合の「公益」とは「普通教科ヲ授クルモノ」という意味なのか、と質したのにたいし、文部省は「町村人民ノ公益タルヘキ私立小学校」というのは、①「児童ノ就学ニ便」であること、②「学期等公立小学校ト同様」であること、③「学期学科等都テ其町村人民ニ於テ公益トナシ府知事県令ニ於テ公益ト認メタルモノト心得ヘシ」と指示している。(7)         和歌山県はまた11月10日、私立学校教則について「教育ノ旨ニ悖リ世教ニ害アルト認ムルモノハ改正」したいので「至急何分ノ御指揮」をと文部省に伺ったのに対し、文部省は12月1日、「私立学校教則教育ノ旨ニ悖リ世教ニ害アリト認ムル節ハ詳細其事由ヲ具」すよう指示している。(8)               熊本県は11月22日、「第一条 私学ハ教育令ノ旨ヲ遵守シテ開設スルモノトス」という規定を含む「私学条例」を作成し、文部省の許可を得ている。(9)   東京府は10月29日、①これまで「六科ノ初歩」を具備しない私学を「変則小学」としてきたが、6科のうち1〜2科のみを教授する場合は「専門ノ部」に分類されるのか、②中学の目的規定である「高等ナル普通学科」は「小学ヨリ稍高等ナルモノ」とされるがその場合、「国語国文ヲ以テ実地ニ授クルモノ」も「英仏等ノ書ヲ用ヰ其字義ヲ解スルニ止マルモノ」も「中学」といえるのか、また従来「変則中学ノ部」に編入していた場合であっても「学科ノ中学ニ適セサルモノ」は「専門ノ部」に編入することになるのか、③自宅に教師を呼んで「漢籍ノ読方」を学ぶとか、「習字算術等専門ノ私学ニ通学スルモノ」などの場合は、「就学」には違いないとしても「普通教育」とはいえない以上「不就学」ということになるのか、などを伺っている。これに対して文部省は「小学ノ正格」を満たしていなくても「小学ノ部類」に入ること、また「中学ノ正格」に合致していないからといってすべて「専門学校ノ部」に分類する必要はなく、「中学ノ部類」に編入できること、また「六科ノ初歩ヲ備ヘ学ハサルモノハ普通教育ニ就クモノトハ做ス可カラサル儀」と回答している。(10)                            12月25日の愛媛県からの電報による同種の問い合わせに対しても、文部省は「小学校ノ正格」という用語を用いて同様の回答をしている。(11)       岩手県は10月15日、私立学校の教則は「開申」だけで府知事県令の「可否」は必要はないのか、と質したのにたいし、文部省は「私立学校教則中著シキ弊害有之ト認ムル節ハ詳細其事由ヲ具シ処分方文部省ヘ」伺い出るよう求めている。(12)                                   秋田県は11月24日、①6科中「一科ヲ減シ又ハ科目ヲ変換」した場合は「普通教育」とみなすことはできないのか、②「寺子屋」「手習師匠」など「専門ニモ普通ニモアラサル学校」はどうしたらいいのか、そこに「学齢児童」を入学させることはできないとしても、「十六ヶ月以上普通教育ヲ受ケタル上ハ」入学させてもいいのか、と伺っている。文部省はそのような学校を「開業」することは構わない、また「学齢児童」の場合であって「事故」あるものは「普通教育」を受けなくても、そのような学校に「入学」することはさしつかえない、と指示している。   (13)                                  また別の指示においても「制止」(和歌山県に対する指示)したり「拒否」(千葉県に対する指示)することはできないと述べている。              以上を通して、文部省の見解を論旨に則して整理するならば、①教育令第3条に掲げた「普通学科」たる6科及びその「初歩」が「中学校ノ正格」「小学校ノ正格」である、②「正格」の2・3科しか具備しない私立学校でも「小学校ノ部」に分類することはできる、③私立学校教則は府知事県令に「開申」するだけでよいこととされているが「世教ニ害アリト認ムル」あるいは「著シキ弊害有之ト認ムル」場合はその限りではなく詳細を文部省に報告しなければならない、④「普通教育ニ就クモノ」とそうは見なされないものを明確に区別しなければならない、⑤「一科」だからといってただちに「専門学校」ということではなく、学科等によって「各種学校」に区分される場合もある、⑥学齢児童であっても「事故」ある場合は「各種学校」に「入学」させることはできるし、それを「制止」したり「拒否」する権限は地方官にはない、などである。                     第2節 「普通教育ノ正格」をめぐって                     「小学校ノ正格」「中学校ノ正格」という用語は1880(明治13)年1月6日の第2号通達によって「普通教育ノ正格」という表現となって現れた。さらに翌日には「普通教育ノ正格」6科を兼学するものを「普通教育就学」とし、6科をすべて兼学しない場合は「変則就学」とする通知を出している。  「小学校種別之儀読書習字算術地理歴史修身ノ六科ヲ具備セサルモノハ、普通教育ノ正格ニ合セスト雖モ亦小学校ノ部類ニ属スルヲ以テ変則小学校トナスヘシ此旨相達候事」(第2号通達)(14)                                「学齢就学調査之儀読書習字算術地理歴史修身ノ六科ヲ兼学スルモノハ之ヲ普通教育就学トナスヘク該六科ヲ兼学セサルモノハ之ヲ変則就学トナスヘシ此旨相達  候事」(第3号通達)(15)                         正規の小学校と「変則小学校」という2種別化は何を意味するのであろうか。この2種別化と学科「完備」政策はどのような関係にあるのだろうか。  文部省は一方で「普通教育ノ正格」に合致した公立小学校の育成=統制政策を明確にした。もちろん「普通教育ノ正格」をクリアーした私立小学校があればそれはそれで結構なことであった。他方、大多数の公立小学校がこの要件をクリアーできないでいた。文部省はこれを「変則小学校」としてくくったうえで、教則編成上ある程度の自由度を許した。統制強化と「自由化」は矛盾するものではなかった。こうして文部省は公立小学校のいわば分化、二重化を意図したのではないだろうか。(16)    このことに関して倉澤 剛氏は岩手県の事例をとりあげている。(17)     要約するならば、①岩手県は1879(明治12)年10月、公立小学校の教則を正則(8年制)・変則(1年半制)にしたいと文部省に伺った、②文部省は11月、「伺之通」と回答した、③ところが文部省は12月16日、公立小学校の教則は基本的には各学校において編成するというのが「教育令ノ主義」であるとして、岩手県の教則編成のあり方を「照会」してきた、④県は12月28日、小学校教則は教育令第3条の主旨および師範学校での教員養成上の理由から「公立小学校一般」に施行できるものであるべきだが、「科目中ニ於テ自然増減取捨セント欲スル」場合は申し出よと管内に通知した、⑤翌年2月、島県令は文部省に対し「人民ニ於テ便トスヘキトキハ」県が編成した教則で実施したい、「地方ノ情況ヲ篤ト御考案」いただきたい旨を回答した、⑥がしかし結局、岩手県は翌年3月、文部省の指示に従って、教則は各学校において編成するが、県が編成する模本に準拠せよと管内に通知した、というのである。                                                         文部省にとっては府県内における教則編成権が学校か県かという二者択一ではなく、一部の正則学校と多くの変則学校という構造を構想していたのであり、岩手県はその意図を正確に理解していなかったのであろう。                                        倉澤氏が紹介するところによれば、明治13年秋の段階で、岩手3郡102校中教則模本に依拠している学校が32校であったという。約3割の学校がいわば「正則」公立小学校であったことになる。長野県でもほぼ同様の経過があり、『文部省第8年報(明治13年分)』によれば、803校中273校、すなわち34%が「模範教則」に依拠した小学校であったという。                                             この事実はしかし、倉澤氏が述べるように「それほど現場の学校や町村には自由放任の空気が強く、郡役所も県庁も自由教育令のもと施すに術がなかったようである」と何の注釈もなく解釈することができるのであろうか。現場に自由放任の空気が強かったことは事実であったとしても、それを「自由」教育令と結びつけて理解するのは早計ではないだろうか。岩手県にしても長野県にしても3割近くの小学校が「模範教則」に依拠していたことは倉沢氏によれば本来文部省の方針に反することであり、にもかかわらず文部省はこれを許容したことになるのである。事実は3割近くの小学校の「正格」化とその他の学校の「変則」化を意図した文部省の意図が貫徹されたと見ることができるのではないだろうか。               だがしかし、この事実こそが教育令改正の理由とされたのである。天皇側は7割の「変則小学校」等の存在に危機感をもったのではあるまいか。この7割の学校とそれに対応する学齢児童をこそ「教化」の対象としなければならないのである。しかし、「変則小学校」その他の学校あるい学齢児童に対する「教化」政策の方向をめぐって政府・文部省と天皇勢力との間に基本的な矛盾があった。それは国会開設が必至という状況でそれを天皇制支配の確立の方向で進めるか、ブルジョア国家主義的方向で進めるかをめぐる矛盾であった。この矛盾はやがて顕在化することになる。                                                       第3節 「新定教育令ヲ更ニ改正スヘキ以前ニ於テ現在施行スヘキ件」            第1次教育令は初めから「改正」を運命づけられた法令であった。7割の「変則小学校」を放置したままでは普通教育全体にたいする教育支配が貫徹できない、と同時に尊皇愛国という見地を教育政策の基本にすえなければならないという、という二重の政策方向が、後者の方向が勢いを増す中で、1880(明治13)年に入って教育令手直し作業から「改正」まで一挙に突き進まさせることになった。     1月29日、「文部省職制・事務章程」が改正され、文部卿の権限に「道徳智識ノ上進ヲ賛導ス」が追加された。                                                                     2月28日、政府は文部卿を寺島宗則から河野敏鎌に代え、つづいて田中文部大輔を司法卿に移した。                                                                                   3月8日、文部省は府県にたいして公立学校教則および私立学校教則について「教育上ニ弊害」ある場合は文部省へ申し出るよう通達を出した。倉澤 剛氏は「教則の自主編成は事実上これで終わりを告げた」(18)としている。                       3月9日、西村茂樹大書記官を掛長とする教則取調掛が設置された。                 3月23日、公立学校の設置費用について地方税か町村費かを区別するよう府県に通達した。                                                                                               3月25日、河野文部卿は文部省の大規模な機構改革を行い、学務課報告課を廃止し、官立学務局と地方学務局および編輯局・報告局を設置した。  4月、集会条例が出された。また、文部省編輯局長西村茂樹が編輯した『小学修身訓』が刊行された。  このころ、就任間もない河野文部卿は大隈重信参議に42項目におよぶ「新定教育令ヲ更ニ改正スヘキ以前ニ於テ現在施行スヘキ件」(19)を提出している。この文書は小学から大学にいたる当面する教育改革全般の基本構想とも言うべきものである。  倉澤剛氏は「教育ノ衰微は十三年に入っていよいよ甚だしく、もはやこれを放置するわけにはいかない。そこで教育令の改正案はただちに着手するが、その改正公布をまたず、いまなしうることはただちに実施すべきだと考え」(20)たと、この文書の作成意図を説明しているが、「衰微」に対応するという消極的な理由からというよりも、むしろ文書全体としては国家主義イデオロギーの確立、職業教育の拡充、教員・教科書統制政策、大学政策を強化するという当面する新たな政策課題を列挙したものであって、天皇側の圧力や国家主義的な統治機構確立を急ぐ政府・文部省主流の意向に沿った焦眉の改革課題と教育令改正を断行するという文部省の方針を政府内外に明確にしたものと言えよう。次章に見るように教育令改正をテコに文部省内部の自由民権派は文部省を追われることになり、その後の教育政策はより純化した形で国家主義的な教育政策の強化へと向かうことになるのである。                                                                                              さて、この文書の「普通教育」、すなわち「小学」「中学」に関係する部分を要約しておきたい。 (1)大学から小学にいたるあらゆる教師について「繋維制約」し、「試験法」を厳密にし、また教師の「訓条」を定めること。「訓条」については「本国ノ重望トナルヘキノ美徳」は「孝悌忠信礼儀廉恥報国正直仁恵誠実節倹勉励慈愛節欲守分等」であり、これらを「生徒ノ身心ニ涵養」し、また「天皇陛下ヲ尊崇シ国体ヲ信奉シ、政治法令ヲ謹守シ長上ヲ恭敬シ専ラ愛国ノ主義」を「銘記」させること。 (2)「道徳学」の書籍・教科書を小学3種(上中下)だけではなく中学・大学についても編纂すること。小学から大学にいたるまで「教科用書」を一通り編纂すること。またそれぞれの「程度範囲」を定めること。 (3)「変則小学」の処分法を厳格にして設立の範囲を規定すること。 (4)兵隊訓練をもって各学校の体操に代用させること。 (5)「本邦固有ノ楽」を含めた「学校所用音楽」について検討すること。 (6)「中学校設立ヲ厳格ニ奨励スルコト」をやめること。 (7)「中学師範学」「小学師範学」という呼称をやめて「高等師範学」「初等師範 学」とすること。 (8)官立師範学校の生徒数を減らして、模範教師を養成すること。また道徳教育強 化のために「巡回教師」を養成すること。 (9)「小学補助金」を徐々に減額し、その分で教師の「退養料」や職業学校・職業 師範学校等を設立する費用に充てること。 (10)「待遇法」や「教育勲章法」を制定し教員に「栄誉」をあたえること。 (11)文部省直轄学校の職員を官吏と教員に区別し、また予算等については官庁と 同様とすること。   以上であるが、とくに尊皇愛国の立場を明確にすること、変則小学校を廃止して「普通教育ノ正格」に合致しない学校を「各種学校」に編入していったこと、そのうえで小学校を上等中等下等の3種に区分したことなどは普通教育制度上留意されるべきであろう。  第4節 「普通教育ノ衰頽ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属ス」  文部省は「新定教育令ヲ更ニ改正スヘキ以前ニ於テ現在施行スヘキ件」の具体化を精力的に進めた。  4月28日、大規模な組織拡充を行い、職員は従来の倍以上の137名にふくれ上がった。                                                                                                5月には文部省は小学校教科書の調査に着手し、6月、地方学務局に教科書取調掛が設置された。                                                                                       参議大隈重信(会計担当)はこの5月、工場払い下げなど「経済政策ノ変更」を求める4項目の建議を行っている(21)が、その第2項目は「諸学校ヲ文部ニ統轄シ普通小学ノ補助金ヲ廃スル議」であった。これは3件から成っている。第1は「財学分業ノ主義」によって司法省・工部省等管轄の大学を文部省に統轄すべきであること、第2は、「普通小学ノ制」は元来「民立」を基礎として「官ハ之ニ若干ノ補助金ヲ給与シテ奨励スルニ過キ」ないのであるから、小学校総数がほぼ目的を達成した今日、文部省の任務は「就学ノ児童ヲ増ス」だけである、したがって小学校補助金(明治12年度20万円ー大隈による)の支給を廃止して、工芸学校新設の経費に充てるべきである、第3に、「普通小学校」ノ設立はもはや急を要しないから、工芸学校・農学校など「須急ノ施設」に充てるべきである、というものであった。この建議を契機に小学校補助金廃止転用論が展開された。  6月14日、1月に出された文部省第2・第3号通達が廃止され、「変則小学校」という名称が廃止された。  7月下旬、天皇巡幸に先発して天皇の命を受けて学事視察に出ていた河野文部卿が帰京し、その結果を天皇に報告している。(22)                  長野・東海地方を視察した河野は「報告書」において、公布した教育令について地方ではその主旨を「政府ハ学事ヲ挙テ人民ニ放任シ又督促干渉ヲ事トセズ」と「誤解」し、いまだ教則を変えず、学務委員をおかず、認可していない校則を実施している、また師範学校の費用を減額しているなどの事態が生じていること、これに対して教育令の立場が「干渉主義」にあることを力説してきたと報告している。さらに、河野文部卿は「小学教育ノ用タル人間普通ノ智徳ヲ修メ一国良民ノ員ニ入ラシムベキ必須学科ヲ教フル」とし、したがって「普通教育ニシテ政府ノ干渉スルコト」は当然であって、普通教育のあり方は「国運ニ影響スルモノ甚ダ大」であると述べている。なお、河野文部卿が普通教育とくに小学校の目的・内容に関連して「一国良民」の育成、「人間普通ノ智徳」と認識していることに留意しておきたい。  しかし、問題は干渉主義か自由主義かではなかった。天皇側と政府・文部省との間ではどのような干渉主義かが問われていたのである。その意味ではすでに尊皇愛国の方針を明確にしていたとはいえ、ひたすら干渉主義の必要性を説く河野の立場も天皇側からは受け入れられるものではなかった。自由民権派にたつ河野にたいする不安の表明でもあった。  7月7日、文部省は公立小学校教則の書式を定め、府県に通達している。書式は①学校名称及地名、②学校資金、③生徒教養ノ目的(尋常小学科・高等小学科等)、④学科課程及教科書(表が提示された)、⑤学期、⑥授業時限、⑦休業、⑧入学生徒ノ年齢、⑨入学生徒ノ学力、⑩試業、となっている。                                                                                                   8月、河野文部卿は臨時学務取調掛を設置し、島田三郎権大書記官、久保田譲少書記官、江木千之1等属らを任命し、教育令改正に着手している。民権派の島田三郎を起用したのは河野の意思によるものと推測される。同時に倉澤 剛氏が改正案の立案は江木千之であると推測している(23)ように、島田と江木は「普通教育」観をめぐって対照的な存在であり、その関係は教育令改正直後に顕在化することになる。                                                                                                      9月7日、文部省は文部省が配付した小学校補助金・師範学校受払補助金について受払報告書を定め、府県に通達している。                                                    9月16日、文部省は地方税だけではなく、「他ノ金種ヲ以テ府県ニ於テ設置」している公立学校の廃置についても「開申」するよう指示している。                   10月6日、文部省は「学事年報」の詳細な記載事項を定め、12月、さらに9種類におよぶ記入表を定め、府県に通達している。                                           このような経過を経て、文部省は1880(明治13)年12月9日、教育令改正案とともにその改正理由を「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」(以下「議」と略す)として太政官へ提出した。(24)                                                           この「議」は教育令を改正するのは「普通教育」の目的・内容に対する国家の「干渉主義」を確立するためであることを明確に述べたものとして興味深い。  「議」は、①公布した教育令は「学制」が有していた「過度ノ制限」を除去することに傾き、「放任ス可ラザルモノヲ併セテ放任」した結果、さまざな「弊」が生じるに至った、②しかし、その「弊」の原因は「学制ノ主義」にあるのではなく、その「施行」にあった、すなわち「干渉ノ過度」に問題があったのではなく、「干渉ノ途轍」に誤りがあった、③すなわち、「干渉」は「学校ノ設立費用ノ募集等専ラ外部ノ事」に限定され、「授業ノ得失ヲ考ヘ、費途ノ緩急ヲ察スルガ如キ内部ノ事」を「放任」してしまったことによるのである、④「普通教育ハ、国民ノ品位ヲ上下スル力」を有するものであり、「国運ニ関スル最大ナル」ものであるのだから、「普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務トセザル」をえないのである、⑤ただし「普通教育ノ衰退ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属スルヲ以テ、今回ノ改正ハ、専ラ小学ニ係ルノ事ヲ主トシテ、其他ニ及バズ」というものであった。                              以上のとおり、教育令改正の理由はもっぱら「普通教育ノ衰頽」問題が中心問題であった。                                                                                                   しかし、「学制ノ主義」に原因があるのではないとはどういうことであろうか。前章で見てきたように九鬼・西村大書記官は学事視察報告書においてそれぞれ「普通教育ノ病」あるいは「今ノ普通教育」と言う言葉を用いながら、すべての児童に「貧富尊卑ノ差別ナク」小学教育をという学制理念が「民力」「民情」「民心」に合致しないから人民を中等以上と中等以下とに区分して普通教育制度を分化させる方向に学制を改革すべきであるという見解を表明していたのであった。この見解は「学制ノ主義」は非現実的であるという認識に立つものである。にもかかわらず文部省が改めて「学制ノ主義」に原因があるのではないというのは、人民を二分すること自体はいいとしても、そのことによって文部省の普通教育全体にたいする干渉主義に変更があってはならないということを明確にしようとしたものであろう。     だからこそ、この「議」は「学制ノ主義」や「干渉ノ過度」が問題なのではなく、「干渉ノ途轍」すなわち、何のための干渉かが問題なのであると主張しているのである。そこで「議」は学校における「外部ノ事」と「内部ノ事」という区分をもちだし、「内部ノ事」にたいする「干渉」の必要を「普通教育ハ、国民ノ品位ヲ上下スルノ力」があるという理由で正当化し、その立場を明確にするために教育令を改正するのだと説明しているのである。「内部ノ事」にたいする「干渉」をどのように受け止めたらよいのであろうか。  倉澤 剛氏は「内部ノ事」を「授業の得失、教則の適否、教科書の利害など学校の内部条件」と説明している(25)が、それだけであれば九鬼にしても西村にしても改善方向はきわめて詳細かつ具体的に提示していたし、学制を廃止して教育令を制定する必要はまったくなかったのではないか。次節に見るように、文部省の教育令改正原案を見る限り、教則綱領の頒布・認可、府県立学校の設置廃止については文部卿に権限を移すこと、学務委員の任命、教員の任免は府県知事権令の権限に属させるなど、全体として文部省の権限を大幅に強化することが意図されている。さらに天皇側や政府からは道徳教育や職業教育の重視が求められていた。したがって問題は「外部ノ事」か「内部ノ事」かにあるのではなく、「内部ノ事」全般にたいしてどういう方向において干渉主義を貫いて行くのかが、教育令改正のもっともさしせまった理由であったのである。  「普通教育ノ衰退ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属スル」とは、自由主義の結果「学校衰微の勢いはもはや一日も放置できな」くなった、というのではなく、憲法制定・国会開設に当面し、いかに統治機構を確立するかという緊迫した情勢のもとで、「内部ノ事」に対する国家の支配権を天皇側に委ねるのか、漸進主義的国家主義に委ねるのか、あるいは自由民権派に委ねるのかという鋭い政治的問題としてまさに「焦眉ノ急ニ属」していたのである。  第5節 文部省原案にみる「普通教育」問題  第1次教育令は47条であるが、文部省原案は(1)全体の4割弱にあたる18条項を改正し、(2)第28〜32および36条を削除し、(3)第48〜51条を追加し、全51条となっている。                                               文部省原案の改正、追加、削除条項についてはそれぞれにその理由が示されている。改正理由には当時の文部省の「普通教育」観が示されている。そこには普通教育についての理念がすでに積極性を失いつつも示されていると同時にそのような理念をともかくも根拠にしながらそれらの理念とは基本的に反するような政府・文部省主導の普通教育政策がストレートに導かれているのが特徴である。                  文部省の教育令改正案の要旨とそれに示された理由を概略し、そこに見られる普通教育観を検討しておこう。                       (1)学校の種類に「職工学校」が追加された。 その理由として「学術」が「生産力」に大きく関係するとはいえ、直接に関係する学校として専門学校の他に「職工学校」が必要である、と記されている。                   (2)小学校の目的や「必須ノ学科」および追加できる学科の種類等については改正されなかったが、但し書が追加された。すなわち「已ムヲ得ザル場合」「必須ノ学科」6科のうち地理・歴史の2科を減らすことができるとした。  その理由は、現行教育令では6科のうち1科でも欠ければ「小学校ニアラザル」したがって「普通教育ニアラザル」ものと定められていた。しかしながら、都鄙・貧富の別、「人民ノ生活」・「社会ノ程度」を考えれば6科を具備した普通教育8年就学制の全国的実現はおろか、6年就学制ですら難しい。読書・習字・算術・修身の4科と地理・歴史の2科には「緩急固ヨリ逕庭」あるのだから最低限4科を習熟させて「実用ニ適スル」ようにした方がいい、というものであった。  「必須ノ学科」を6科と4科(これを「簡易ノ科」とも言い換えている)の2種類とし、さらに「土地ノ情況」および男女によってさまざまな教科編制を可能とする方向がめざされたのである。                                   (3)数町村連合による小学校設立を認め、その区域を単位として学務委員を置き、あらたに戸長を学務委員に加えることとし、また、学務委員は町村人民の選挙によって選出されていた制度を廃止して、町村人民の推薦に基づいて府知事県令が任命することとした。                                                                                 その理由としては、現行では学務委員についてその選出区域、選出方法、待遇等の規定がないことが挙げられている。これらは全体として普通教育制度にたいする行政支配体制の強化を意図したものである。                  (4)「小学科3箇年ノ課程」以上の就学義務を明確にし、「就学督責ノ規則」を文部卿の認可とした。また、学期を3年以上(現行4年)8年以下とし、年間授業日数を現行の2倍の32週以上とし、あらたに授業時間を1日3時間以上6時間以下と規定した。                                その理由としては、第1に、現行教育令では「事故」あって就学できない場合その事由を学務委員に陳述するだけでよいとしていたが、「事故」の解釈も不明確であり、父母後見人の責任が曖昧である。 第2に、現行教育令で「十六箇月ヲ以テ児童就学ノ最短期」としてそれ以後は「就学ノ責ナシ」としていることにたいし「児童六歳ニシテ小学ニ入リ纔ニ一年四箇月ヲ経テ修ムル所ノ普通学ハ成丁ノ後ニ至リ果シテ其身ヲ益スルニ足ルベキ乎」と厳しく指摘し、「少年自衛ノ力無ク父母又之ヲ賊フモノニシテ政府ヲ除クノ外能ク之ヲ防ク者アルナシ是レ泰西文明ノ国ニ於テ幼者労役ノ時間ヲ制限スルヲ以テ社会ノ幸福ヲ保スル必要ノ法律トスル所以ナリ而シテ普通教育ノ責ヲ父母ニ課スルモ亦主義ヲ此理ニ均クスルトキハ則チ決シテ之ヲ緩慢ニ付ス可カラザルナリ」と説明している。 第3に、一日の授業時間を新たに規定したのは「児童ノ心性体質」を考慮したためであるとしている。       (5)現行17・18条は学校に入学しなくても「普通教育」を受けることができる場合は「就学」とみなす、また財政的に学校を設置できない地方にあっては「教員巡回ノ方法」によることもできる、と規定しているが、文部省原案第17条は「巡回授業」をも含めて次のように改正され、その理由が示されている。全文を掲げておきたい。                                                [第17条]学齢児童ヲ学校ニ入レス又巡回授業ニ依ラスシテ別ニ普通教育ヲ授ケントスルモノハ郡区長ノ認可ヲ経ヘシ 但郡区長ハ児童ノ学業ヲ其町村ノ小学    校ニ於テ試験セシムヘシ                                                                       [理由]児童ヲシテ学校ニ入ラシメ若クハ巡回授業ニ就カシムル所以ノモノハ他  ニアラス其主眼唯普通教育ヲ受シムルニアルノミ故ニ此等ノ手段ヲ除クノ外別ニ  普通教育ヲ受シムルノ途アル例ヘバ家庭ニ於テ児童ヲ教育スル者ノ如キハ亦之ヲ 許サザルヲ得ズ然リト雖モ之ヲ以テ口ニ籍キ以テ就学ノ責ヲ塞カントスルモノノ如キ或ハ其無キヲ保ス可ラズ是ノ如キハ則チ豈至当ノ監制ヲ為サザルヲ得ンヤ而  シテ現行ノ令ニハ此事ヲ欠ケリ是レ今回ノ改正ニ於テ初ニハ郡区長ノ認可ヲ経セ  シメ又時々試験ヲ為シテ以テ其効ヲ監スル所以ナリ           (6)現行教育令では公立学校の設置廃止は府知事県令の認可を必要としていたのにたいし、改正案では公立学校を府県立と町村立に区別して前者は文部卿が認可し、後者は府知事県令が認可することとし、幼稚園・図書館についても同様の扱いとした。                                 (7)現行教育令では小学校の教則について公立小学校については文部卿の認可を、私立については府知事県令への開申を求めていたが、改正案では、①この区別を廃止し、②文部卿が「頒布」する「綱領」に基づいて、③府知事県令が「編制」し、④さらに文部卿の「認可」を経て、⑤施行する、⑥但し、施行に当たってさらに「斟酌増減」する必要がある時は文部卿の認可を得ること、とした。       この理由として、小学校の場合、専門各種学校と異なり、そこで学ぶ対象は学齢児童であり「其学ヤ普通教育ナリ其性質既ニ定マレリ其目的固ヨリ一ナリ其教則モ亦此性質ト此目的トニ合セザル可カラズ」、現行のような公私の区別は「干渉スベキニ干渉セズ而シテ干渉スベカラザルニ干渉スルモノ」といわざるを得ない。小学校の設立認可にあたっては学校設置の目的、講学の要領、教員の履歴、学校維持の方法等について「一定ノ限界」が必要であるがその場合でも「学問ノ自由ヲ掣肘ス可カラザルノミ」と説明している。                      (8)現行教育令が各府県に師範学校を設置することを「便宜ニ随テ」としていたのを改め義務づけた。また、教員となる資格はその「卒業証書」を有すること、また府知事県令が出す「教員免許状」を有することとした。             その理由として、「我国普通学ヲ督励シテ今ニ及」ぶが、師範学科を卒業したものはまだ僅かであるから「今ヨリ師範生徒ノ教養ニハ最モ力ヲ致サザル可カラズ」としている。                                (9)「普通教育ヲ奨励センガ為ニ」公立・私立小学校(巡回教授を含む)、公立師範学校にたいして配付して来た補助金をすべて削除したこと。          その理由は、「普通教育ヲ必課スルノ制度」には「補助金」は不可欠であるが、その額も年々減額されてきて、学校単位で見れば微々たるものになっている、しかしながらだからと言って無意味というわけではない、現行教育令の公布によって政府が教育を督促しなくなったことから人民は「人民ノ自為ニ放任」したのだと誤解した、そこで今回の改正はこの「頽勢ヲ挽回センガ為メ」に督促を一層厳格にしたのである、とすれば補助金は増額するのが当然とも言えるが、これまでの補助金の効果は少ないといわざるを得ない、そこで補助金を別な分野に「転用シ奨励ノ方法ヲ変更」せざるを得ない。ところが改正案は補助金を削除するとしており、その意味では「実ニ遺憾」と言わざるを得ない、と苦しい説明を行っている。    (10)町村立小学校の教員は府知事県令が任免する、教員の俸額は府知事県令が規定する、「品行不正ナルモノ」は教員になることはできない、とする規定を追加した。                                    その理由は、教員の給与が低く教員に「材能」が集まらない、「教員ノ位地」・「学校ノ信用」が低いなどの現状は放置できない、したがって教員についての規定を厳しくすることによって教員の身分を安定したものにするというのである。 (11)各府県に中学校や専門学校・職工学校等を設置するとした。        この理由は、各府県に中学校が設立されてきたが、府県会が設置されて以来中学校を無用視する動きがある。中学校を廃止するのはきわめて「損害」が大きいのでそれを未然に防止するため、と説明している。                                                       以上の改正理由にしめされている普通教育観について整理しておこう。              第1に、小学校の目的を示す用語として「普通ノ教育」のほかに改正理由において「普通教育」「普通学科」「普通学」というような言葉がほぼ同義に用いられているが、いずれにしても「必須6科」が「普通教育」であり、1科でも欠ければ「普通教育ニアラザル」と認識されている。                                                    第2に、「普通学」は「人生ニ必需」であるとか「就学ハ社会ノ公務」とされている(なお、小学校への就学と普通教育への就学が区別されていたことも留意しておきたい)。                                                                                             第3に、子どもには「自衛ノ力」がなく「己レノ利害ヲ判別スルノ能力」がない、したがって子どもたちにたいする「普通教育ノ責」は父母にあるとされている(その場合、子どもは普通教育を受けるべきである存在という認識がかすかながら前提としてされていた)。                                                                            第4に、普通教育制度は「町村公共ノ事務」であり「町村公共ノ義務」である、町村には「自治ノ精神」があり、学務委員(戸長を含む)は戸長はその立場に立って普通教育を監督しなければならない。                                                          第5に、現実には父母は教育責任を果たすことができない以上、「社会ノ集力」である「政府」が子どもを保護し教育する責任がある、などである。  このような普通教育制度論に立って学校設立・廃止、教則綱領の頒布・認可、学務委員の任命等普通教育全般にたいする「衰頽ノ挽回」を図ろうとしたのである。                  第6節 改正案審議における「普通教育」論  教育令改正の文部省原案は太政官内務部および法制部で整理されて、12月18日、元老院に付託された。法案はただちに元老院(大木喬任議長)で審査され、島田三郎権大書記官と久保田譲が内閣委員として説明にたったが、河野文部卿も出席し積極的に発言している。九鬼隆一も議官として出席し立案側にたって発言している。 (27)                               元老院では第3条但し書き「已ムヲ得サル場合ニ於テハ地理歴史ヲ減スルコトヲ得」の是非が論点のひとつになった。換言すれば「普通教育」の教科の中に「地理歴史」を含めることについての是非が論点となったのである。                            渡邊昇議官は「地理歴史ヲ修ムルニハ中大学ノアルナリ豈之ヲ小学校ニ教フルヲ必センヤ」とし、都会以外では地理歴史を教科からはずすよう要求した。楠本正隆議官も「小学科ハ習字算術ニテ事既ニ足レリ」とこれに賛成したのに対し、箕作麟祥、福羽美静、安場玉乃、九鬼隆一、津田真道の各議官、内閣委員の島田三郎、そして河野文部卿らが渡邊の意見に反対し、賛成多数で但し書きが承認された(28)。                                                                                                この論議を通じて政府・文部省側から説明されたことは次の通りである、①小学校は「中大学ノ基礎即チ予備校」ではなく固有の目的があるから小学校にふさわしい「地理歴史」が必要である、②「普通教育」の目的は「人ヲシテ良民タラシムル」ものであり、それゆえ西洋にあっては「普通教育」に干渉しているがその点で大学は普通教育とは異なる、③参政権を人民に保障しようとしている今日、社会の程度を高めるうえからも「多数人」が地理、歴史、修身を習得することが必要である、④学科の種類・程度は教員が左右しうるものではなく文部卿が頒布する綱領に基づくべきものである、⑤読書とは別に地理・歴史が必要である、⑥したがって6科を「正則」とすべきである、というものであった。なお、小学校教則綱領では小学校初等科について地理・歴史を除外するなど現実には4科重点主義がとられていた。  元老院で一部修正された法案は内務部と法制部での審査を経て、12月25日、天皇へ上奏され裁可を受けた。ところが28日、天皇は河野文部卿にたいし修身を最下位教科から首位教科とするよう命じた。これを受け入れた政府は28日付けで改正教育令を「便宜布告」するとともに、太政大臣名で勅命通り改定した第3条の「検視」を元老院議長に求めた。翌年1月24日、元老院議長は「検視」結果を上申し、太政大臣はあらためて天皇に上奏し裁可された。(29)                       「普通教育」の基本的性格が勅命によって変更されたのである。この変更についての当時の論議を示す史料は見当たらない。修身首位教科論は第1次教育令制定過程の元老院審議における佐野常民や天皇侍補侍講グループによっても主張されていたが、今回の元老院審議においては論議に上っていなかった。このことは普通教育制度確立の基本方向をめぐって天皇勢力と元老院、政府文部省等の支配層に重要な矛盾が存在していたことを示すものであろうが、それは文部卿の責任という方向で処理されることになる。                                                                            

 

注                                                                                                           ( 1 )『文部省第7年報』、1881年、1ページ。                                       ( 2 ) 同上、1ページ。                                                                         ( 3 )『文部省第8年報』、1882年、24ページ。                                  ( 4 )『文部省日誌』第22号、1879年、18ページ。『明治前期文部省刊行 集成』第2巻、歴史文献刊、1981年、所収。以下、第6章で用いた『文部省日 誌』はすべて『明治前期文部省刊行集成』第2巻、所収のものを典拠とした。 ( 5 )同上、46ページ。                                                                         ( 6 )『文部省日誌』第23号、1879年、33ページ。                            ( 7 )『文部省日誌』第21号、1879年、4ページ。                               ( 8 )『文部省日誌』第22号、1879年、15ページ。                                                                                                         ( 9 )『文部省日誌』第24号、1879年、57ページ。                      (10)『文部省日誌』第24号、1879年、44ページ。                       (11)『文部省日誌』第27号、1879年、28ページ。                     (12)『文部省日誌』第25号、1879年、11ページ。                      (13)『文部省日誌』第25号、1879年、18ページ。                      (14)国立公文書館内閣文庫所蔵:文部省布達全書、明治13年、雄松堂マイクロ フィルム『明治前期教育史料集成』所収、2ページ。                                 ( 1 5 ) 国 立 公 文 書 館 内 閣 文 庫 所 蔵 : 文 部 省 布 達 全 書 、 明 治 1 3 年 、 同 上 、 3 ペ ー ジ。                                                                 (16)「普通教育ノ正格」が当時の「就学」基準を規定したことについては、三原 芳一「1880年代における就学観の転換」、花園学園大学研究紀要第17号、1 986年、参照。                                                                        (17)倉澤 剛『教育令の研究』、講談社、1975年、80〜87ページ。 (18) 倉澤 剛『教育令の研究』、286ページ。                                    (19)早稲田大学所蔵大隈文書A4424。 倉澤 剛氏はこれが提出された時期を 4月頃と推定している。『教育令の研究』、291ページ。                   (20) 倉澤 剛『教育令の研究』、同上書、287ページ。                       (21)『大隈重信関係文書』第4巻、日本史籍協会編、112〜118ページ。 (22) 河野敏鎌「地方教育視察報告書」、早稲田大学、大隈文書A4226。倉澤  剛『教育令の研究』、同上書、297〜302ページ、参照。なお、『教育の体系 ・日本近代思想体系6』、岩波書店、1990年、にも収録されている。 (23)倉澤 剛『教育令の研究』、同上書、303ページ。                        (24)国立公文書館、公文録文部省之部、明治13年自9月至12月全、文書第2 6 、 教 育 令 改 正 ノ 件 、 所 収 。 な お 、 倉 澤 剛 『 教 育 令 の 研 究 』 、 同 上 書 、 3 0 4 ページ、『明治文化全集・第10巻教育篇』、日本評論社、1929年、にも収録 されている。                                                (25)倉澤 剛『教育令の研究』、同上書、307ページ。                        (26)国立公文書館、公文録文部省之部、明治13年自9月至12月全、文書第2 6、教育令改正ノ件、所収。                                                            (27)元老院での九鬼の発言は「普通教育ハ社会ノ害ヲ妨クノ一点ニアリ中大学ノ 基 礎 即 チ 予 備 校 ニ ハ ア ラ サ ル ナ リ 」 と 述 べ て い る 。 こ れ に よ れ ば 九 鬼 は 「 普 通 教 育」を小学校のみに対応させ、小学校を中・大学の予備校ではないとしながらも、 普通教育そのものは社会不安を防ぎ国家安寧を図るという見地から認識しているよ う で あ る 。 明 治 法 制 経 済 史 研 究 所 編 『 元 老 院 会 議 筆 記 』 前 期 第 9 巻 、 元 老 院 会 議 筆記刊行会、778〜779ページ。                                                                                      (28)『元老院会議筆記』、同上、774〜780ページ。                       (29)倉澤 剛『教育令の研究』、前掲書、318〜319ページ。