第7章 第2次教育令の具体化と普通教育政策

 第2次教育令は元老院での審議終了直後、天皇側からの圧力で「修身」を首位教科にするという修正がなされて12月28日公布された。文部省は辻新次地方学務局長名で12月30日、新教育令に基づく15項目の「御着手ノ次第」を全国に通達した。(1)  これに基づいて翌年1月から順次具体化されていった。この具体化の全体を評して倉澤  剛氏は「実に大規模な、そして意欲的な学制改革だった」と述べている(2)が、事実それは学区制度、中央・地方教育行政制度、義務教育制度、教育課程政策、教員養成・免許制度、教員政策あるいは教育財政制度等におよぶ教育改革であった。しかも、留意しておきたいことはそれらが全体として「普通教育ノ衰頽ヲ挽回」する諸方策として、つまり普通教育問題として認識されていたことである。したがって別な言い方をするならば、第2次教育令の具体化の過程は普通教育制度全般にたいする国家支配の原型が確立していく過程でもあった。

 第2次教育令の具体化は1881(明治14)年全体を通じておおよその輪郭をあらわすことになるが、この1年は普通教育政策もしくは普通教育論の展開としてもきわめてドラスティックな過程であった。本章では主として1881年の1年間を河野文部卿転任問題(4月)、嚶鳴社員追放問題(10月)を境に3期に分け、さらに農商務省職制第2項問題を取り上げ、全体として6節構成で1881年の普通教育政策の展開過程を検討しようとするものである。

 

 第1節 1881年第1期の普通教育政策

 第2次教育令は1881(明治14)年1月以後、急速に具体化されていった。まず1月29日には「小学校設置ノ区域並校数指示方ノ心得」、「学務委員薦挙規則起草ノ心得」、「就学督責規則起草ノ心得」、ついで1月31日には「府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則起草ノ心得」、「町村立私立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則起草ノ心得」、「小学校教員免許状授与方心得」「学務担任ノ者事務要項」など計8号におよぶ通達が出された。(3) ところが、第9号通達は4月23日であり、その間に約3ヵ月の空白がある。文部卿の交代など文部省内部の再編が進展していたためであろう。

(1)第1号通達は教育令第9条を受けた「小学校設置ノ区域並校数指示方心得」であった。それは「学区」概念をあらたに導入し、府知事県令がこれを定めることとした。その場合、「学区」の要件は①1町村もしくは数町村の境界と符号すること、②「児童ノ学校ニ往来スルニ不便ナキ」こと、③「小学校ヲ設立支持スルヲ足ル」こととされた。「児童ノ往来」を第一義的要件とする、つまり、児童に即して普通教育制度を設定するという当時の文部省の政策原理を伺うことができる。しかしながら、町村における「学事ノ経済」と「他般ノ経済」とが必ずしも合致しないことにともなう矛盾に逢着し、文部省は同年5月、「戸口ノ疎密」「民産ノ貧富」「通学ノ便否」「既往ノ習慣」「将来ノ得失」等を酌量して「町村ノ制ニ拘ハラス学区ヲ設ケ」ることができるよう提起し、その方向に修正された。

(2)教育令第11条を受けた「学務委員薦挙規則起草ノ心得」が第2号(1月20日)として通達された。それは①学務委員の被薦挙人および薦挙人の資格を「年齢満二十年以上ノ男子」であって「学区内ニ於テ土地若クハ建物ヲ有」すること、②被薦挙人には学区内在職の教員はなれないこと、③任期は4年で府知事県令が意見を述べることができること、④薦挙人には町村会員をあてることができる、などを規定している。しかし、学務委員の手当についての規定がないことから、文部卿は4月、「普通教育ノ実効ヲ責ムル」ためとして学務委員および教員の「職務取扱費」および「旅費」について「町村人民ノ評決ノミニ放任」するのではなく「区町村会」で審議し府知事県令あるいは文部卿の認可のうえ措置して欲しい旨上申し、それは教育令上の措置として実現された。

(3)教育令第15条を受けて「就学督責規則起草ノ心得」が第3号通達として1月29日付で出された。

 全10条からなる「就学督責規則起草ノ心得」は(イ)学務委員が「就学調査簿」を作成し郡区長に提出すること、「就学調査簿」には①「小学科3箇年ノ課程」未修児童について就学することができない事故ある者と翌年就学できる者、②「小学科3箇年ノ課程」既修児童について就学することができない者の理由、就学できる者、を記載すること、その場合の事故・理由については父母後見人の申し出により、学務委員がその当否を判断し、郡区長の認可を受けること、(ロ)そのうえで学務委員は「普通教育ヲ受クヘキ者ノ名簿」を作成し当該小学校教員に回付すること、(ハ)小学校教員はこれに基づいて「出席簿」を作成し、毎月これを学務委員に提出すること、(ニ)学務委員は欠席児童についてその事故・理由をただし、必要な場合は「戒諭」し、あるいはその筋に「説諭」を求めること、(ホ)年間16週の就学ができなかった者についてはその事故・理由の内容を確認し、相当と認められない事故・理由については府知事県令にその処分を求めること、(ヘ)「小学科3箇年ノ課程」未修児童について就学することができない「事故」とは概ね、①疾病に罹る者、②親族疾病に罹り他に看護する者がいない者、③廃疾の者、④一家貧窶の者、である、但しこれらの者を入学させる「学校等ノ設備ナキ場合ニ限ル」、(ト)「小学科3箇年ノ課程」を修了した児童でその後就学することができない場合の「理由」とは「他ノ学科ヲ修ムル」か「職業ニ就ク者」とする、(チ)「巡回授業」および「家庭教育」等についての就学督責についてもこの規則に準ずるものとすること、などを規定している。

 なお、ここで「家庭教育」という言葉が初めて用いられているが、これは教育令第17条に規定している「別ニ普通教育ヲ授ケントスル」に対応するものであろう。

(4)教育令第22条を受けて「府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則」および「町村立私立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則起草ノ心得」が第4号、第5号通達として1月31日付で出された。教育令第9条に規定された「児童ヲ教育スルニ足ルヘキ」の具体的な「諸般ノ施設」について規定したものである。町村立学校についてみると設置目的、位置、名称、学科学期課程試験法、教科用書、入学退学規則、授業料、生徒心得、生徒罰則、寄宿舎規則、生徒員数、教員等職務心得および人員俸額、教員の学力品行、敷地建物、経費収入支出、について府知事県令の認可を受けることと規定している。

(5)第2次教育令第38条を受けた「小学校教員免許状授与方ノ心得」は「官立公立師範学校ノ卒業証書」を有しない者を対象に、(イ)小学科(初等・中等・高等)を教授できる学力の有無について検定したうえで初等・中等・高等別の免許状を授与する、(ロ)免許状の有効期限を5年とする、(ハ)小学校教則の変更により教員免許状が変更された場合は有効期限内であってもあらためて学力を検定して免許状を補正すること、(ニ)1科もしくは数科を教授できるものにはそれに対応した教授免許状を授与できるがこれをもって小学校教員免許状に代えることはできない、などを規定している。

 なお、同年7月、この「心得」を一部改正している。すなわち、①唱歌・体操・裁縫・家事経済あるいは農業・工業・商業等の1科もしくは数科については検定を要しないこと、②検定により教員免許状を授与された者を「訓導」、学科教授免許状を授与されたものを「準訓導」とすること、③「硯学老儒等ノ徳望」があって「修身科ノ教授ヲ善クスル者」および「農業工業商業等ノ学術ニ長スル者」は検定を必要としないこと、などである。道徳教育や職業教育・実業教育を重視する「普通教育ノ衰頽ヲ挽回」策が全体として応急的な対策になっているが、それは今後次第に整備されていくということなのか、本来的に応急的な性格を帯びざるを得ないものであるのか、については普通教育論史的には重要なポイントと言えよう。

 

 第2節 河野文部卿の転出問題

 1881(明治14)年1月は通達ラッシュであったが、その後4月23日までは皆無であった。なぜかは定かではないが、この間に文部省において自由民権派を放逐する動きが顕在化してきたことと関連があるのだろうか。第2次教育令の具体化は文部省内部の自由民権派の放逐なしには進展しなかった。普通教育の進展もすぐれて政治のあり方に規定されているのである。1881(明治14)年は普通教育と政治との関係がするどく顕在化した年でもあった。本節では普通教育論史と関わる範囲内で河野文部卿の農商務卿転出問題を中心に2~4月の動きを追っておきたい。

 前年4月の大規模な組織拡充の際に文部少輔となり、11月には元老院議官を兼任することになった九鬼隆一は「三田の文部省」(福沢諭吉)に対して「九鬼の文部省」と評されるほどの実権を握っていた。この1月にも機構改革をおこない、第2次教育令の具体化の陣頭指揮をとっていたのは九鬼であった。九鬼は岩倉右大臣にも親近していたと言われる。(4) 

 一方、この1月は大隈重信、伊藤博文、井上馨、黒田清隆の4参議が熱海にて憲法・国会開設問題について会談したが、そこでは伊藤博文と大隈重信との間に「異論」があったことを『保古飛呂比・佐佐木高行日記十』は伝えている。(5) 3月には大隈重信は2年後に国会開設をもとめる意見書を提出するなど政治情勢は緊迫していた。

 このような状況の中で、河野文部卿と九鬼文部少輔とのあいだの確執が表面化していた。それは教育令改正をめぐる河野・島田らの自由民権派と主流派との認識の相違が教育令の具体化の過程で顕在化してきた結果とも推測される。

 河野文部卿転任にいたる経過を『保古飛呂比・佐々木高行日記十』は次のように伝えている。

[2月22日]伊藤博文が佐々木高行にたいして「河野敏鎌頗ル不折合ニテ困ル」と述べた。河野文部卿が「頗ル才智」があって「何事急進改革スル」ので「省中及生徒等ハ不平ヲ唱ヘ」ているというのであった。

[3月22日]佐々木は宮中で天皇から河野文部卿についての話を聞いている。それによれば九鬼文部少輔と加藤弘之三等出仕が最近の河野文部卿の演説に不審を感じ岩倉など3大臣に文部卿転任の要請を強く迫った、その理由は河野文部卿が演説のなかで「孔孟ノ道ハ迂遠ナリ、今日ハ、欧米州ノ豪傑ノ事蹟ヲ教授スベシ」と述べた、それは修身学についての天皇の趣旨と矛盾する、というものであった。これに対して岩倉らは河野にたいして河野を文部卿にした際にも教育令改正にあたっても注意したにもかかわらずこのような演説をするのは不審である、と言っている、河野の主義はどうなのか確かめてほしいと頼まれた、というのである。

[3月24日]佐々木は河野文部卿と面会した。ここで河野は、意外である、そのような演説をしたことはない、そのような事は新聞紙上でも文部省紛義ありと書いていることから知っている、省内でももし異説があるなら遠慮なくいってほしいと話したが、そんな事はありませんと言っている、とはいえ、最近、修身学則について儒道にすべしとか「孔孟ノ道」にすべしなど種々異見があるが、修身道徳の根本は「君ニ忠、親ニ孝、信義ヲ行フベシ」というものである、儒道も「孔孟ノ道」もその中に包含されるべきものである、また児童を教育するには「変則」ではなく「常道」を教えるべきである、最近の学習院学則についても「孝経ヲ最初ニ教授スル」のが規則であると述べている、そのことは岩倉公も承知している、「御安心アレ」などと述べたという。

[その日の夕刻]元田永孚が天皇の命を受けて佐々木を訪ねている。佐々木がしばしば宮中へ赴くことへの警戒からである。佐々木の説明にたいして元田は了承しながらも、「文部省ノ事ハ余程次第ノ有ル事」らしいとして他人から聞いた話を伝えている。その話とは「河野ハ無学ニテ、教育ニハ何モ見込ナキ」にもかかわらず「自分ノ功名ヲ貪ルノ弊」がある、また「文部省ノ学則モ何モ蚊モ嚶鳴社員ニ依レリ、因ッテ、同社員ヲ追々文部省ヘ採用セリ、如此ニテハ、向来教育ノ目途不相立、速ニ転任歟免官歟ニ不相成テハ不都合ト云ヘリ、右ノ事情ニテ、此度孔孟ノ道ハ迂遠云々等ハ、口実ノ一部分ナリ」というものであった。

[3月25日]土方久元が佐々木宛に書簡を送り、九鬼の最初の苦情も理解できるが、情勢を考えれば「万事ニ政府組織改良ノ外無之」と述べている。

[4月1日]元田が再び訪ねてきた。天皇から河野がとくに嚶鳴社員を採用したことについて河野の考えを聞いてくるように頼まれたという。元田の話のなかにも九鬼文部少輔と加藤弘之の両人が河野文部卿の処分をしきりと3大臣に迫っているらしいことが伺われる。

[4月2日]河野文部卿が訪ねてくる。そこで嚶鳴社員を採用したこと、嚶鳴社の主義は何か、などを確かめる。河野は①嚶鳴社員をとくに採用したことに特別の考えがあったわけではない、嚶鳴社の主義を取り入れようとしたわけでもない、②嚶鳴社の主義といっても特別あるわけではない、③自分の主義にしても天皇の御趣旨を遵法しているのである、④嚶鳴社員を採用したといっても島田以外は「肝要ノ地位」についているわけでもない、したがって嚶鳴社員採用問題は「虚説」であろう、と述べたという。そこで「河野ノ精神」を聞いたが「全ク御趣意ニ違ヒタル事ナシ」と佐々木は記している。

[4月3日]元田永孚を訪ねて河野の主義を伝えた。元田は「海軍省モ真ニ六ツカシキ景況ナリ」と言った。

[4月4日]宮中に出向く。天皇は「文部卿ノ事ハ、都テ不相分」である、しかし、九鬼・加藤から3大臣に処分方を迫ってきているので、このまま放置したのではかえって難しい事になるので、農商務省が新設されたので河野をそこへ転出させることにして、その後任に寺島か福岡を充てることにしたい、いずれにしても「実ニ分ラヌ事ナリト思フ」と述べたという。この日の日記はさらに佐々木の感想として「文部省ノ事ハ(中略)其後、追々事情モ分リ掛ケタレ共、最初ノ同意ノ為メニ大臣引受ケトナリ、遂ニ不得止転任ト運ビタルナルベシ」と記している。(6)4月7日、河野農商務卿、福岡文部卿が誕生した。

 以上を整理すると、『保古飛呂比・佐々木高行日記十』に見る限り、①早くも2月に伊藤内務卿・参議が河野文部卿との「不折合」を申し立てていること、②文部省の九鬼と加藤が最初は河野が天皇の方針と矛盾した教育目的を論じていることを理由に3大臣に河野の転任あるいは免官を迫ったこと、③3大臣はこの申し入れを受け入れたこと、④しかし、河野の教育論に特別問題がないことが判明した段階で九鬼・加藤は嚶鳴社員採用問題を理由にあらためて3大臣に迫ったこと、⑤問題は河野の主義や人事にあるのではなく文部省内のいわば路線問題にあることが判明してきたこと、⑥結局、根拠薄弱なまま3大臣の意向をうけて河野を転任せざるを得なかったこと、などを読みとることができよう。

 次に、島田権大書記官にたいしてはどうか。文部省は1881年に入って学事巡視を行っている。既に前年12月には中島永元権大書記官らが長崎・福岡県に、1月には九鬼隆一文部少輔らが中国地方に、4月には島田三郎権大書記官らが関東3県に、また同月久保田譲少書記官らが神奈川方面に、7月には浜尾新権大書記官らがそれぞれ巡視を行っている。

 島田らは4月6日に栃木、茨城、千葉3県に向けて出発し5月2日に帰京した。この間、4月16日、茨城師範学校で演説をおこない、島田の普通教育観を全面的に展開している。この演説内容については次章で論じることにしたい。島田の学事巡視中に、島田を文部省に抜擢した河野文部卿が更迭されているのである。

 なお、『文部省第9年報』には他の幹部の巡視報告はかなりのスペースで掲載されているにもかかわらず、島田の学事巡視については「故アリテ其申報ヲ欠ク」と記されている。(7) 「故」とはなにをさすかは定かでない。河野放逐に成功した九鬼・加藤らによって島田の文部省内の位置に何らかの異変が生じたことを伺わせる。文部省職員録は5月7日付で改定されているが島田三郎の権大書記官・編輯局長・調査課長という役職に変化はない。

 後に述べるように、この年10月の政変によって嚶鳴社員一掃というかたちで島田三郎も在野の人となり、編輯局長には西村茂樹、調査課長には江木千之がそれぞれ就任し、「皇道主義」的性格が強化されることになった。

 文部省主流と自由民権派との力関係が決定的になった段階で福岡文部卿はあらためて第2次教育令の具体化に着手していった。なお、土佐藩士である福岡文部卿はすでに明治2年に学校取調掛、明治5年文部大輔を経歴し、宮中と太政官の信任があつく、佐々木高行や元田永孚と親しかったとされる。(8)  

 なお、伊藤博文と文部省との関係についてはどうであったかと言えば、伊藤博文は第1次教育令改正に際し元田と論争を行っており、今回は河野文部卿を批判しているように、教育問題に対してはいわば左右の急進派には与せず現実主義をとっていたが、九鬼や加藤らと同じ立場でもなく、やがて九鬼を文部省から退けて森有礼を起用し、さらに憲法制定をめぐって森とも決別するという経過をたどるのである。

 

 第3節 1881年第2期の普通教育政策

 しばらく出されていなかった文部省の通達が福岡文部卿就任とともに再び頻繁に出されるようになった。10月の政変までに計21の通達が出されている。1月の通達が主として学区制度、学務委員制度、就学制度、教員資格制度等に属するものであったのにたいして、この時期の通達は小学校教員心得、小学校教則綱領、中学校教則大綱、師範学校教則大綱など普通教育政策のいわば内容的な領域にかかわるものを主体とするものであった。

(1)文部省は5月4日、教育令第23条を受けて「小学校教則綱領」を通達した。第1章・小学科ノ区分、第2章・学期、授業ノ日及時、第3章・小学各等科程度、計27条から構成され、さらに各等科の教育課程の一例が付されている。各等科の教科構成は次の通りである。「  」は便宜上筆者が加えた。

 初等科(3年):「修身・読書・習字・算術」の初歩および唱歌・体操

 中等科(3年):「初等科6科」+「地理・歴史・図画・博物・物理」の初歩およ         び裁縫(女子)

    高等科(2年):「中等科(歴史、物理ノ初歩を除く)」に加え、「化学・生理・         幾何・経済」の初歩、家事経済の大意(女子)

 第2次教育令は小学校の目的を「普通ノ教育ヲ児童ニ授クル」とし、その学科を「修身・読書・習字・算術・地理・歴史等ノ初歩」とし「土地ノ情況ニ随ヒ」罫画、唱歌、体操等を加えることがきるとし、さらに「已ムヲ得ザル場合ニ於テハ」地理、歴史を欠くことができると規定していた。その時の文部省の説明では6科のうち1科が欠けても「普通教育」とは言えない、「已ムヲ得ザル場合」地理・歴史を欠いた4学科(文部省はこれを「簡易ノ科」と表現している)で構成せざるを得ない場合でも3カ年就学後もひきつづき就学して地理・歴史を修得するようにと父母後見人に求めていた。

 この趣旨からするならば、「小学校教則綱領」は初等科、中等科、高等科それぞれについて留意すべき変更が見られる。

 初等小学科について言えば、教育令が規定している「已ムヲ得ザル場合」ではなく一般的に4科すなわち「簡易ノ科」を必須科目とし、さらに「土地ノ情況」にかかわらず一般的に唱歌・体操を加えているのである(唱歌は当分行わないこととしているが)。小学初等科については教育令が規定する「普通教育ノ正格」はすでに崩れているのである。このこと自体当時の普通教育最初の3か年の実態であったとも言えるが、同時に小学校の教則を大学・中学への基礎として位置づけるという当時の教育課程政策の矛盾のあらわれとも言えよう。

 小学中等科について言えば、小学初等科の6教科(正格ではない)に「地理、歴史、図画、博物、物理ノ初歩」を加え、さらに女子のために「裁縫等」を設けることができるとしている。すなわち、「普通教育ノ正格」であるところの基本6科(修身・読書・習字・算術・地理・歴史」ではなく、「簡易ノ科」4科に唱歌・体操を加えた必須6科に地理・歴史だけではなく「図画、博物、物理」も何の留保も付けずに追加しているのである。

 小学高等科について言えば、簡易ノ科4科の外に「地理、図画、博物ノ初歩」および「唱歌・体操・裁縫」さらに「化学・生理、幾何、経済ノ初歩」を加え、かつ女子のために経済ノ初歩に代えて「家事経済ノ大意」を加えるとしている。ここでも「歴史」はなぜか削除され、教育令の規定にこだわることなく中学校の学科に近い教育課程が設定されているのである。

 以上のように、「小学校教則綱領」がしめす教育課程は教育令が規定した小学校の目的規定・学科構成と基本的性格において異質であると言わなければならない。

 倉澤  剛氏は「小学校教則綱領」の意義について「土地の情況や男女の別によって斟酌の余地は認めたものの、基本の要件は厳密におさえたことが注目される。教則の自主編制以来の乱れがここで一挙に収拾された。そして教則がここで一定不動に規定された」(9) と評しているが、「厳密」自体はそうであるとしても、教育令との関係では決して「厳密」とはいえず、むしろ文部省の事実上の教則編制権の恣意的運用に道を開いたとも言えるのではなかろうか。

(2)文部省は7月29日、「中学校教則大綱」を通達した。第2次教育令では中学校の目的は「高等ナル普通学科ヲ授クル」と規定したが、「中学校教則大綱」はこれを受けてさらに「中人以上ノ業務ニ就クカ為」(10)と「高等ノ学校ニ入ルカ為」とに区分され、そのうえで「初等中学科」と「高等中学科」に区分された。それぞれの①学科、②入学資格、③卒業後修得可能な学科、④修業年限、はつぎの通りである。

 【初等中学科】

  ①学科:[修身、和漢文、英語、記簿、図画及び唱歌、体操]、算術、代数、幾   何、地理、歴史、生理、動物、植物、物理、化学、経済、習字。但し唱歌は当   分置かない。

  ②入学資格:小学中等科卒業以上の学力のあるもの。

  ③卒業後修得可能な学科:イ.高等中学科 ロ.普通文科 ハ.普通理科 ニ.   師範学科 ホ.諸専門の学科

  ④修業年限:4年 

 【高等中学科】

  ①学科:初等中学科の[   ]内の教科のほかに、三角法、金石、本邦法令さ   らに物理、化学。

  ②「土地ノ状況ニ因リ」

   ⑴高等中学科のほかに、普通文科、普通理科を置くことができる

   ⑵高等中学科を置かず、

    a.普通文科、普通理科を置くことができる。

    b.農業、工業、商業等の専修科を置くことができる。

  ③卒業後修得可能な学科:イ.大学科、ロ.高等専門学科

  ④修業年限:2年

 ここでは「中学校教則大綱」と「小学校教則綱領」とをあわせて、その普通教育論史的意味について検討しておきたい。

 第1に、普通教育学校制度が中学校の目的の二重性に対応して二分されたことである。すなわち、一方では「高等ノ学校ニ入ルカ為」に小学校初等科(3年)⇨小学校中等科(3年)⇨初等中学科(4年)⇨高等中学科(2年)、計12年の普通教育学校体制が構想され、他方ではそれぞれの修学年限を限度とする多様な普通教育学校が構想されたことである。前者では「高等社会」に必要な人材を養成し、後者では「中人以下ノ業務ニ就ク為」の人材を養成することが意図された。

 第2に、多様な普通学校制度が基本的には2つの系統に区分されたことである。第1の系統は小学校の系統であり、「中人」未満の業務に就く為の学校系統である。具体的には小学校初等科から社会へ、小学校初等科から小学校中等科へ、小学校中等科から社会へ、小学校中等科から小学校高等科へ、小学校高等科から社会へという系統である。第2の系列は、中学校の系統であり、「中人」以上高等未満の業務に就く為の学校系統である。具体的には、初等中学校から社会へ、初等中学校から普通文科あるいは普通理科へ、初等中学校から農業・工業・商業等の専修科へ、高等中学校から社会へ初等中学校から高等中学校へ、という系統である。

 第3に、小学校の系統と中学校の系統はそれぞれ自立した閉鎖的な学校系統とされたことである。小学校の系統というのは、あくまでも「中人」未満の業務に就く為の学校系統として自立した学校系統であるから、就学義務年限が延長して仮に9年になったとしても論理的にはそれは中学校ではなく、あくまでも「中人」未満の業務に就く為の学校系統としての初等教育のための学校系統であった。

 一方、中学校への入学資格は小学校中等科卒業であったが、それはそれまでの6年修学が条件とされたのであって、小学校制度が変化しても6年間の修学をもって「中人」以上高等未満の業務に就く為の学校系統へ入学資格があたえられたのである。

 第4に、普通文科・普通理科という課程が新設されたことである。これは中学校目的の二重化によって必然的に構想されたものであって、初等中学科を卒業したものが大学科や高等専門学科には進学せずに、さらに「中人」以上高等未満の業務に就く為の学校系統にとどまって普通教育に属する諸学科の勉学をつづけるものに道を開いたものであろう。

 第5に、初等中学科修了後に農業・工業・商業等の専修科という課程を新設したことであるが、それは中学校の目的が「高等ナル普通学科」である限りその位置づけが問題となるが、専修科自体があくまでも「高等ナル普通学科」という性格の範囲内のものであるという判断がなされたのであろう。

 しかし、普通文科・普通理科であれ、農業・工業・商業等の専修科であれ、それらは「土地ノ状況ニ因リ」設置されたものであり、現実にそれらの科が量的に増え、あるいは社会的に必要とされたとして、文部省の普通教育政策上の理念においては中学校は初等中学科と高等中学科によって構成されていたのである。

(3)文部省は6月18日、第19号通達で「小学校教員心得」を出している。これは文部卿による前文と16項目の心得から構成されている。その前文は「小学教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル」と述べ、普通教育と国家と小学校教員との密接な関係が強調されている。さらに「今夫小学教員其人ヲ得テ普通教育ノ目的ヲ達シ人々ヲシテ身ヲ修メ業ニ就カシムルニアラスンハ、何ニ由テカ尊王愛国ノ志気ヲ振起シ風俗ヲシテ淳美ナラシメ民生ヲシテ富厚ナラシメ、以テ国家ノ安寧福祉ヲ増進スルヲ得ンヤ」と強調している。「尊王愛国ノ志気ヲ振起」すること、「風俗ヲシテ淳美」なものにすること、「民生ヲシテ富厚」にすること、つまり政治、経済、社会等諸分野の課題を実現することの強調は理解できるとしても、そのことと「普通教育ノ目的」を達成すること、そしてそのためにすぐれた小学校教員を養成することとはどのような関係にあるのだろうか。全体として「普通教育ノ目的」あるいは教員対策が国家目的と短絡させられているが、そこには後発資本主義社会において国家体制を急速に確立するという特殊日本における基本的な課題意識を前提としつつも「明治14年の政変」前夜における為政者の緊迫した政治意識のあらわれを見ることもできよう。

 さて、16項目におよぶ「小学校教員心得」について概観すると、①教員は「皇室ニ忠ニシテ国家ヲ愛」するという見地から「道徳ノ教育」を重視し、自ら生徒の模範となること、②「智心教育ノ目的」は「人々ヲシテ・・・其本分ヲ尽スニ適当ナラシムルコト」、③「身体教育」は「生徒ノ健康ヲ害スヘキ癖習ニ汚染スル等ヲ予防スル」という見地からも重視すること、④教員はとくに「世ノ福祉ヲ増進」させるためにも「鄙吝ノ心志陋劣ノ思想」を抱いてはならないこと、⑤学校管理上、教員の「快活ノ気象」「身心ノ健康」が必要であること、⑥教員は小学校教則中の学科だけでは「博ク教則外ノ学科」にも通暁すること、そうでなければ「教授上ノ破綻」をきたし「生徒ノ信憑」を失ってしまうこと、⑦教師は「他人ノ心志ヲ錬磨」ためにも常に「整然タル秩序ニ由リ学識ヲ広メ、以テ其心ヲ錬磨」すること、⑧師範学校において学習する教育法はその一例にすぎないものであるから教員は「自ラ其得失利病ヲ考究取捨シ以テ之ヲ活用」するよう務めること、⑨「人ノ心神身体ノ組織作用」の原理実際等に精通すること、⑩学校管理法については「人情世態」「通義公道」をふまえて「法務ヲ理スルノ順序等ヲ暗練」できるようにすること、⑪「校則」は「校内ノ秩序」という観点からだけではなく「生徒ノ徳誼ヲ勧誘スルノ要具」という観点にたって執行すること、⑫「熟練」「懇切」「黽勉」の3者を具備すること、⑬学校を統率するためには「剛毅」「忍耐」「威重」「懇誠」「勉励」などの徳が必要であること、⑭生徒のなかに「党派」、「争論」が生じた場合は「穏当詳密ニシテ偏頗ノ弊ナク苛酷ノ失」がないように処置しなけれなばらないこと、⑮教員にはとくに「幼童ノ徳性ヲ涵養シ善行ヲ誘掖」するために「最モ善美ノ性行」が必要である、⑯「学識ヲ広メ経験ヲ積ム」ことは教員としての責務であること、である。

 全体としては「尊皇愛国」の立場から教員としての資質が求められているが、同時に教育の論理、幼童・生徒の立場からの教師の責務も挙げられていることに留意しておきたい。

 筆者は明治前期の普通教育論が「尊皇愛国」などを掲げながらも全体としては教育の論理や教育にたいする父母の第一義的義務の立場から展開されていると考えている。この原案とも言うべき「小学校教員ノ資格竝心得ニ就テ」なる文書の第1項に「児童良心ノ発育ヲ助」けるという文言はある(11) ものの、「発育」するところの「良心」の科学的解明に向かわずに、「教員ノ教示ト言語行状」によって「発育」のあり方を方向づけようとする見地からの教員政策が「普通教育」の名のもとに急速に強化されていくのである。本来、「尊皇愛国」と教育の論理や教育にたいする父母の第一義的義務とは本質的には両立できるものではなく、だからこそ、明治20年以降、教育の論理を政治や社会経済の論理にすり替え、普通教育論にたいして国民教育論を優先させるというかたちで矛盾の解決が図られることになったのである。(12)

(4)文部省は7月、第2次教育令第37条を受けて4条からなる「学校教員品行検定規則」を通達した。「品行不正」の4項目を掲げ、その1項でも抵触した場合は教員となることができず、あるいはその職を「停罷」することができるとした。とくに「品行不正」の第4項目は「荒 暴激等総テ教員タルノ面目ニ関スル汚行アル者」というものであって、恣意的な教員統制に道を開いた。

(5)教科書についてはすでに1880(明治13)年編輯局(西村茂樹局長)のもとで修身等の教科書の編輯に乗り出すと共に、地方学務局内に取調掛をおいて教科書の調査に着手し、明治13年10月以降「調査済教科書表」を作成し「小学校教科書ニ採用シテ苦シカラサル分」「小学校教科書ニ採用スヘカラサル分」を記載して全国に通知している。(13) なお、河野文部卿は1880年12月18日、「国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱スルカ如キ事項ヲ記載セル書籍ハ勿論、教育上弊害アル書籍ハ採用セサル様予テ注意」するよう示達している。(14)

(6)文部省は1881(明治14)年6月、小学校および公立師範学校の補助金が削除されたことを受けて、そのうえで「普通教育上ハ一層其普及ヲ期セラルル」(15)として「命令督責」によってではなく「奨誘鼓舞」の方法によってその目的を達成する必要があるとして、「賞与ノ特典」を設けることを政府に上奏し、その結果翌年4月に省内に「褒賞課」(江木千之課長)を設置している。

(7)文部省は8月に第2次教育令第33~38条を受けて「師範学校教則大綱」を通達した。教員養成制度自体は本研究の対象には含まれないが、当時の教育行政上、師範学校もまた普通教育機関と位置づけられていたことから、その限りで検討しておきたい。師範学校の入学資格は17歳以上(地域によっては15歳以上)で、小学中等科卒業以上の学力がある者とされた。小学初等科教員を養成する1年課程の初等師範学科が置かれたから18歳以上のものが小学校教員になることができた。さらに小学中等科の教員を養成する中等師範学科、小学校高等科以下すべての学科の教員を養成する4年課程の高等師範学科が置かれた。初等師範学科の履修科目は修身、読書、習字、算術、地理、歴史のいわゆる「普通教育ノ正格」たる基本6科および教育学学校管理法、実地授業、唱歌、体操の計10教科(唱歌は教授法等が整うのをまって設ける)とし、中等・高等師範学科はその上に小学中等科および小学高等科に対応した科目が加えられた。また、それぞれの等科に応じた卒業証書が授与され、また卒業しなくても一定の試験等に合格したものにも卒業証書が授与された。

 小学中等科卒業以上の学力としながらも、しかも初等中学科を卒業した17歳以上が入学資格を得る師範学校は制度的には普通教育機関ではなく、専門教育機関でなければならなかった。しかし、学力上は小学中等科卒業以上とされたこと、さらには小学校教員養成を固有の目的とする教育機関であったことから学校種別上普通教育機関として位置づけられていたのであろう。10月の文部省機構改革では「高等ノ師範学校」は専門学務局、「普通ノ師範学校」は普通学務局が掌理するものとされた。(16)   師範学校が普通教育に属するかどうかについては、例えば後に沢柳政太郎が「一種の専門教育とも見ように依っては見られぬこともないけれど、これ亦普通教育と見做すことも出来るのである」と苦しい認識を示している。(17)

 

 第4節 嚶鳴社社員追放問題

 本章第2節で述べたように、九鬼隆一文部少輔らは河野文部卿が自由民権派の団体嚶鳴社の社員を多く採用したことを問題として文部卿の転任を迫った。その際、島田三郎権大書記官の地位も問題視されていたと思われるが、4月の段階では特別な異動はなかった。しかしながら10月に入って、いわゆる明治14年の政変に当面して、文部省内の嚶鳴社社員は島田をはじめことごとく追放されることになった。島田三郎の「普通教育」論については次章で述べることとするが、島田のような普通教育論がもはや文部省内にとどまる余地がないことを示す意味においてこの追放の経過について触れておきたい。

 島田三郎(1852~1923)(18)の文部省在籍は1880(明治13)年3月2日から大隈派として下野した1881(明治14)年10月まで、29歳から30歳にかけての約1年半であった。島田は文部省内あってどのような存在であったのであろうか。

 福井氏らが解明したように(19)、島田が文部省入りしたのは河野敏鎌文部卿によるものであった。そこには嚶鳴社の立場を拡大しようとする意識が強く作用していたことも事実であったろう。だが河野文部卿就任とあわせて進められた文部省拡充強化、機構改革との関係もまた考慮に入れておく必要がある。

 文部省職員録によれば、1877(明治10)年以降しばらく平均45名程度であった文部省職員は河野文部卿就任とともに137名にふくれ上がっている。それは1880(明治13)年4月28日の大規模な機構改革の結果であるが、改革の主要点を5月25日改定の職員録(20)で見ると、第1に、九鬼大書記官が文部少輔に昇格し、河野文部卿在任中だけであるが加藤弘之東京大学法学部理学部文学部綜理が3等出仕という文部少輔に次ぐ地位にあった。第2に、御用掛という役職がはじめて導入され、元老院議官であり宮内省御用掛である福羽美静をはじめ陸軍軍医7名が奏任官として配置された。第3に、1等から7等までの官吏はそれまでの45名から一挙に72名に増員され、4等からなる等外官吏も新しく導入され、24名が採用された。第4に、雇員も初めて導入され、25名が配置された。このような人事配置はその後も引き続き進められ、島田が下野した直後の1881年11月の職員録によれば137名が203名にまで拡充されている。この2年間で実に4倍弱までに増えているのである(21) 。

 このような大規模な文部省拡充強化策は、天皇勅命によって「修身」が首位教化に変更されるという事態に直面した伊藤政府が明治14年に入って河野文部卿に責任を取らせるべく九鬼隆一と加藤弘之にその役割を担わせるという意図や、河野・島田他嚶鳴社員が一挙に増えたことに対する対応という理由のみでは説明しづらい。より基本的には島田着任とほぼ同じころすでに構想ができ上がっていた「新定教育令ヲ更ニ改正スヘキ以前ニ於テ現在施行スヘキ件」に見られるような大規模な教育改革を文部省主導で推進していくための体制強化であったと見るべきであろう。

 福井氏が強調するように、河野文部卿就任以後、島田三郎を権大書記官として抜擢したほか全体として嚶鳴社員が従来の4名から9名(水野遵1等属、大石監二4等属、河村重固3等属、田中耕造権少書記官、鈴木良輔御用掛准判任、波多野伝三郎6等属、門馬尚経10等属、細川瀏御用掛准判任)に倍増する(22)など、それだけを取り出せば河野・島田を中心とする自由民権派が主導権を握ったようにも見えるが、増加した職員全体の中での嚶鳴社員の占める割合は6%程度でありその側面を過大に強調することはできないように思われる。文部省全体としては同時に教育令改正や河野文部卿転出後の一連の教育政策を推進する国家主義的中央集権的あるいは官僚的体制が確実に強化されていたのである。

(23)

 だからといって、河野・島田の果した役割を過小評価することもできない。文部卿、権大書記官という要職を嚶鳴社員が占めていたのであり、嚶鳴社員らはそれぞれ活躍した。したがって文部省内における嚶鳴社員の存在は省内において一時期とはいえ一定の緊張関係をつくっていたことも事実であろう。

 第2・3節で述べたように、4月7日に河野文部卿転任・福岡文部卿就任に成功した九鬼・加藤派は、その後の一連の教育政策を推進させていったが、その間憲法問題で伊藤と大隈の対立が深まり、中正党が組織され、官有物払い下げ事件が社会問題化し、植木枝盛が「日本国憲法草案」を起草するなど政局はきわめて緊迫し、結局10月11日の御前会議における政変という形で決着が図られることになった。一説によれば九鬼隆一文部少輔がこの政変に深く関わったとされている。「大隈重信が突如として政府部内から放逐された背景には、急進派の大隈が民間の福沢諭吉と結託して薩長派打倒の陰謀を企てたというような風説が流されたことがある。そして、大隈と福沢の陰謀を薩長派に『注進』したとされているのが九鬼隆一なのである」と(24)。

 政変によって河野敏鎌農商務卿は罷免され、さらに政界に地位を得ていた福沢門下生の多くもまたその地位を失った。文部省主流はただちに機構改革を断行し、島田三郎をはじめとする嚶鳴社員の一掃に成功したのである。

 官制改正は10月24日であるから、政変から2週間もたたないスピードぶりである。それが全国に通達されたのは11月15日である。それによれば官立学務局・地方学務は廃止され、専門学務局・普通学務局が置かれた。(25)  それぞれの掌理事項は次の通りである。

 専門学務局(局長:浜尾新)

  大学校・専門学校・農学校・商業学校・職工学校・「高等ノ師範学校」その他各  種学校および図書館・博物館・学士会院・海外留学生等「都テ高等教育及特殊教  育ニ係ル一切ノ事務ヲ掌理ス」

 普通学務局(局長:辻新次)

  中学校・小学校・幼稚園・普通ノ師範学校、その他普通の各種学校・図書館・博  物館など「都テ普通教育ニ係ル事務ヲ掌理ス」

 この官制改正について指摘するならば、①専門学務局と普通学務局という戦前における基本的な体制(若干の変動はあるが)が確立したこと、②専門学務局という名称のもとに「高等教育」と「特殊教育(この場合、農学校・商業学校・職工学校を意味していたのだろう)」を掌理していたこと、③師範学校が「高等ノ師範学校」「普通ノ師範学校」としてそれぞれに属していたこと、④「その他普通の各種学校・図書館・博物館」もまた両局に分かれていたこと、⑤小学校・中学校のみならず幼稚園・「普通ノ師範学校」その他普通の各種学校・図書館・博物館が「普通教育ニ係ル事務」として包含されたこと、である。

 なお、島田三郎が局長だった編輯局長には西村茂樹が就任し、調査課はひきつづき江木千之であった。こうして島田三郎ら嚶鳴社員は一掃され(26)、文部省は国家主義的な普通教育政策をいっそう推進していくのである。

 

 第5節 1881年第3期の普通教育政策

 政変後いよいよ憲法制定・国会開設に当面することになった政府において重要な政治課題となったのが言論、学術、教育問題であった。政変に深く関わり政変後伊藤博文参事院議長のもとで参事院議官法制部勤務となった井上毅は11月、3大臣にたいして政変後の政策課題を提示した。福岡文部卿は12月に国体観念の教化策とも言うべき文書を岩倉右大臣に提出した。つづいて翌年2月、伊藤博文参事院議長も「変則中学校ヲ設立スヘキノ議」を3大臣に提出した。これを受けた文部省は具体的な中学校政策の検討に入った。

(1)井上毅の文書は①「都鄙ノ新聞ヲ誘導ス」として政府直系の「官報新聞」の発行を提案し、②「士族ノ方向ヲ結フ」として地方士族の団結を図るとしたうえで、さらに③「中学並ニ職工農業学校ヲ興ス」、④「漢学ヲ勧ム」、⑤「独逸学ヲ奨励ス」の3点をあげている。(27)  

 「中学並ニ職工農業学校ヲ興ス」では、「維新以来、文部ノ唱勵ハ、主トシテ小学ノ普通教育ニ在テ、中学以上ニ在ラズ」と論じ、官公立の中学校が不十分だから「士族ノ子弟」を「福澤ノ門」に集中させる原因となっている、また全国の士族の子弟が東京に集まって「政談ノ淵叢」となり、「私学私塾」において「一家ノ私言」を広めるという弊害をもたらしている、などと述べ、①国庫から毎年50万円の補助金を出す、②士族が多い地方に中学校を設置する、③中学校の学則は国文と漢学とする、④「洋務」を知るには直接「英学」によるのではなく「翻訳書」に基づくようにする、⑤地方に「職工農業学校」を設置する、⑥そこでは「理論ヲ略シ、学則ヲ簡ニシ、専ラ実業ヲ主トスベシ」、と進言している。

 「漢学ヲ勧ム」では「英仏ノ学」を通して「革命ノ精神」がもたらされることになる、「忠愛恭順ノ道」を教えるうえで「漢学」以上のものはない、と論じている。

 「独逸学ヲ奨励ス」では、英仏語は「英風」「仏政」を志向させることになる、我が国は「王室ノ政府」をとっているプロシャ国に近く、また現在「保守ノ気風」も出てきていることだからこの際「プロシャノ学」を勧奨すべきである、というのである。

 ここでは、地方における中学校育成策がきわめて政治的な動機から主張されていることに留意しておきたい。

(2)福岡文部卿の文書は「我国体ヲシテ之ヲ感染セシムルニハ」という書き出しではじまり、①小学修身教科よりは「音楽ニ載セテ国歌ヲ作リ」、「小学師範学校生徒」を通じて「伝播」させること、②小学修身科はもっぱら(作法ではなく)「道徳」を主として「儒教」に帰すこと、③学校教育では、「洋学ノ弊習」を改めようとしても難しいので「洋学ハ洋学ヲ以テ之ヲ制御セザルベカラズ」として「洋学中ノ独逸政治書」等の翻訳・伝播を提言している。「独逸政治書」について井上はルソーやモンテスキューの政治思想に代えてブルンチュリーやシェルセーの政治思想を普及させるために参事院に専門部局を新設するべきであるとも述べている。(28)

(3)1882(明治15)年2月、参議伊藤博文は「変則中学校ヲ設立スヘキノ議」(以下「伊藤建議」と略す)を3大臣に提出した。(29)

 これを要約すると、①「知識ノ初歩」を教える「小学」に比して、「中等以上ノ人智ヲ開導シ才器ヲ成就スル」ところの「中学」の果たすべき役割は大きい、②「教育ノ政治ニ於ケル密接ノ関係」があるのであって、「現今ノ勢人智ノ叢ル所専ラ中等以上ノ種族」であるから「中学ノ緊要」なること小学の比ではない、③現在公私中学校は200校ほどあるが、「私塾私社の勢力」に比較して効果を挙げていない、④その理由は「中学ノ規則」が主として「欧州」に依拠して「繁密細砕」であるから「拘束」を嫌う「士族ノ子弟」には不人気である、⑤「私塾私社」は「常則」よりも「変則」を主としている、⑥公私中学校における現状を是正するには「学科ノ改良」なども重要であるが「急ニ応シ変ニ処スルノ方法」もまた必要である、⑦したがって、「官立変則中学校」を創設する必要がある、というものであった。

 伊藤の言う「官立変則中学校」とは、⒜全国数所に設置する、⒝士族の子弟でやや才学がある者を県令の保証で官費で入学させ、⒞廉費就学の制度を設け、⒟校長校師は「主義純正」「学行優等」であるものとし、⒠教科書は「平正着実」なものを選び、⒡独逸学の教師を各学校に配置する、⒢「官立変則中学校」の経費はおよそ20万円とする、というものであった。

 普通教育を普及させる場合、小学校を重視するか、中学校を重視するかをめぐって、政府と文部省との間で理念上の食い違いが見られる。政変直後とはいえ、伊藤参議は「教育ノ政治ニ於ケル密接ノ関係」とか「急ニ応シ変ニ処スルノ方法」という認識のもとに、「中学」重視の立場から「士族ノ子弟」という特定の階層の入学・就学上の特権を認め、政治的・思想的教育を基礎とし、例外的な官立の中学校創設を要求したのである。後に見るようにこれは文部省としてはそのまま受け入れられるような構想ではなかった。

 ところで、伊藤のいう「中学ノ規則」とは第一義的には「中学校教則大綱」のことであり、「常則」とは4年の初等中学科と2年の高等中学科の6年就学をもって中学校を卒業し、大学校および専門学校への進学に直結する12年制の普通教育機関としての中学校をさしていたと思われる。それは府県立の中学校であり、そのほかに多様な変則の府県立・町村立の中学校も設置できることになっていた。この府県立もしくは町村立の変則中学校のほかに官立の変則中学校を設置せよという「中学校教則大綱」枠外の中学校を構想したところに「伊藤建議」の意図があったのではなかろうか。

 変則中学校といえどもその学科構成、教科構成についての文部省の指導は徹底していたから、文部省の立場からするならば、「中学校教則大綱」の正則にも変則にも拘束されない「官立変則中学校」創設構想というのは「中学校教則大綱」からは導かれないものだったのである。

(4)倉澤  剛氏によれば上記「伊藤建議」は閣議にかけられ、「政治学を教授する学校をおこすという方向」でまとまり、その実施案について文部省が立案することになったとされている。(30)。その立案状況と結論を示すのが倉澤  剛『教育令の研究』575ページ以下に収録されている史料である。倉澤氏はこの史料が「国立国会図書館憲政資料室所蔵、三条文書、書類之部、55ー4」に「伊藤建議」とともに同綴されていると記しているが(31)、筆者が調べた限りではそこに同綴されているのはこの史料の一部である。倉澤氏が『教育令の研究』に転載している史料とほぼ同一の(筆跡が異なる)史料が国学院大学図書館所蔵・梧陰文庫に「政治学科ヲ教授スル中学校設置方法」(以下、「設置方法」と略す)(32)というタイトルで整理されている。筆者はこの「設置方法」を用いながら論をすすめたい。

 「伊藤建議」は変則中学校の設立というかなり特定した提案を行っているのであるが「設置方法」の冒頭では「政治学科ヲ教授スル学校ヲ各地方ニ設置シ専ラ士族ノ子弟ヲ教養シ之ニ善良ノ政治思想ヲ抱持セシメント欲スルノ議ニ就テ」と記されている。設置方策としては政治学校(第1案)、民間の学校(第3案)、政治学科を教授する府県立の中学校(第4案)、専門学校(第5案)なども検討されているが、「伊藤建議」に近い第2案の「官費ヲ以テ変則中学校ヲ設置シ其校ニ政治学科ヲ設ケ士族ノ子弟ニ限リ教養スル事」については文部省はかなりあっさりと退けているのである。「伊藤建議」とは別に文部省において「政治学科ヲ教授スル学校ヲ各地方ニ設置シ専ラ士族ノ子弟ヲ教養シ之ニ善良ノ政治思想ヲ抱持セシメント欲スルノ議」について検討を迫られる状況があったのではないか。検討の結果6案が「発議者未発議者ノ大旨」としてまとめられ、さらに審議した結果、文部省は結論として第6案、すなわち「文部省ニ於テ成規ノ如キ中学校ヲ便宜ノ各地ニ設置シ初等科並ニ普通文科普通理科ヲ置キ、其普通文科中ニ政治ニ関スル学科ヲ設ケ主トシテ士族ノ子弟ヲ教養シ、兼テ士族ナラサルモ試験ノ格ニ適フ者ハ之ヲ教養スル事」を最善策と考えたのである。「伊藤建議」はこのような文部省での審議状況をふまえて、あるいはその後に独自の判断からあえて提出したとも考えられる。これ以上は今後の研究に待ちたい。

 以下に第6案に基づく中学校設置(大阪を含む5ヵ所)の方法について紹介し、なぜこの案としたのかについての文部省側の説明を検討しておきたい。

 ⑴中学校の制規は文部省所定の「中学校教則大綱」に準拠する。

 ⑵3年制の初等中学科と2年制の普通文科と普通理科を設置する。

 ⑶普通文科のなかで大学文学部水準の「政治学」を教授する。

 ⑷普通文科の学科目を⒜和漢文、⒝独逸語、⒞歴史、⒟経済、⒠論理、⒡心理、⒢  本邦法令、⒣政治学、とする。

 ⑸普通文科または普通理科の入学資格は原則として初等中学科卒業の者とするが、  相当の学力がある者については試験をおこなって直ちに入学させる。

 ⑹生徒の定員は200名とする。

 ⑺生徒は各府県から入学できるようにする。

 ⑻普通文科又は普通理科の生徒には1名につき1ヵ月3~4円を給与する。

 ⑼普通文科のドイツ語および政治学はドイツ人教師を充て、その他の学科の教師に  は大学卒業の法学士・文学士等をあてる。普通理科の教師には大学卒業の理学士  等を充てる。

 ⑽外国教師は1校1名とし、その給料は300~400円とする。

 文部省はこの案件を審議すること自体を「機密ノ政略」に属することを自覚し、最終案についてはその政策意図が「露布」しないような工夫が必要であると強調している。政府・文部省内から二度にわたり大隈派や自由民権派等追放を強行してきた政府・文部省幹部が、他方で士族対策として特別な学校を設置するということが公になれば再び政治問題化するであろうことを自覚していたのである。文部省は特定の階層を対象とした教育を「種族教育」という表現を用いて、それは公正ではないとして退けている。

 この設置法について文部省は①〈政治学ヲ布ク〉ではなく「政治学ヲ教授シ」とする、②入学資格について〈士族ニ限ル〉ではなく「初等中学科卒業ノ者」とする、③普通文科に政治科を置いて併せて普通理科をおく、などの工夫を凝らしたと述べている。逆に言えば、士族のみを対象に普通文科において〈政治学ヲ布ク〉ことが本来の意図だったのである。また、文部省があえて普通理科をおいたのは、「政治学」ばかり修得してもいわゆる出口において需要がないだけではなく、「就産ニ適要ナル科目ヲ教授シ其思想ヲ実着堅固」にするためであること、給費制を「士族ノ子弟」だけではなく「一般子弟」にも適用させたのは形式上「公平ノ処置」であるという印象を与えるためであって、実際「貧屡」にして「相当ノ学力」があるのは事実上「士族ノ子弟」に限られるのだから給費の恩恵を受けるのは士族に限られることになる、にもかかわらず「相当ノ学力」を検査するための「試験」を設けたのは「士族ノ子弟」の数に対して資金に限度があるからであり「已ムヲ得」ない措置であると説明している。 こうして文部省はカムフラージュを費やして政治的な判断のもとに「中学校教則大綱」には位置づかない変則の中学校を具体化しようとしたのである。それを強引に誘導したのは伊藤参議と井上参事院議官である。この構想は伊藤の直後の外遊もあって具体化には至らなかったが、このとき伊藤参議は教育令や小学校教則綱領や中学校教則大綱の線に沿って小学校中等科を基礎として12年の普通教育学校を中軸に学校体系を構想する文部省の路線に重大な決意を自覚したのではなかったか。それが外遊中の森有礼との接触として具体化したと推測できるのである。森の登場は九鬼文部少輔の転任を意味していたし、また教育令体制から学校令体制への転換であった。そしてそれはまた普通教育制度から国民教育制度への転換にほかならなかったのである。

 

 第6節 農商務省の職制第2項と普通教育問題

 1881(明治14)年4月の農商務省創設にともなって通達された農商務省職制の第2項「官設ノ農商工諸学校(工部省所管ノ工学校ヲ除ク)ヲ管理シ民立ノ農商工諸学校ヲ監督ス」は大学校・専門学校をはじめ農学校・商業学校・職工学校等を統摂するのは文部卿であるとする教育令の第1・2条と抵触するという問題が発生した。この問題は普通教育論には直接関係はないが、普通教育と専門教育との関係についての当時の政府内部の認識を知るうえで参考になると思われるので簡単に言及しておきたい。

 福岡文部卿は同年6月、次のように主張して、職制第2項の改正を要求した。(33)

①「幼稚」から「成年」に至るまで、「高低ノ普通科」より「各種の専門科」に至るまで、「理論」から「応用」まで、「最後モ密接相離ルヘカラサル関係」にあるのであって、それらは全体として文部省が管轄すべきものである。

 ②「農工商ニ係レル学校」もまた「小中学校ノ教育」を基礎としてそれを「利用スルノ法ヲ施ス」ことを目的とするものであるから、そこでの教育は当然「小中学校ノ教育ト精神相符号シ脈絡相貫通」するものでなければならない。

 ③「文部ノ教育ハ動モスレハ理論ニ偏シ実業ニ疎ナル弊」があるということで、「実業ニ属スル教育」は所管を分離すべきとの議論もあるが、「元来教育ハ何学ヲ問ハス理論ニ因テ学術ノ原則ヲ授ケ実業ニ就テ其応用ヲ教ヘ」るものであり、「若シ夫レ理論ヲ棄テ実業ノミヲ取リ実業ヲ措テ理論ノミヲ事トスルトキハ完全ノ教育ト謂フヘカラス又完全ノ学問ト謂フヘカラス」

 実業教育、専門教育を問わず、それらは「普通教育学術理論」(福岡)に包摂されるものであるから文部省が管轄するべきである、というものであった。実業学校振興を基本政策として重視する政府は苦慮し、数回にわたる応酬の後、参事院の決定により、基本的には文部省の要求が受け入れられることになった。とはいえ、実業教育、専門教育が「普通教育学術理論」の内部にあっていかなる関係にあるべきかについてはむしろこの直後から普通教育政策上の重要問題に位置づくことになる。

 

(1)倉澤  剛『教育令の研究』、講談社、1975年、322~324ページ。

(2)倉澤  剛『教育令の研究』、同上、324ページ。

(3)これらはすべて国立公文書館内閣文庫所蔵:文部省布達全書、明治14年、雄 松堂マイクロフィルム『明治前期教育史料集成』に所収されているものを用いた。 したがって、これらについては以下いちいち出典を示さない。

(4)九鬼の全体像については高橋眞司「九鬼隆一(上中下)」、『福沢諭吉年鑑8 ・9・10』、1981年、福沢諭吉協会、参照。

(5)『保古飛呂比・佐佐木高行日記十』、東京大学出版会、1978年、93ペー ジ。

(6)『保古飛呂比・佐佐木高行日記十』、同上、123~157ページ。倉澤  剛  『教育令の研究』、前掲書、326ページ、参照。

(7)『文部省第9年報』、50ページ。なお、福井淳「嚶鳴社員官吏と『改正教育 令』ー島田三郎を中心にしてー」、『歴史学研究』、第535号、1984年、参 照。

(8)倉澤  剛『教育令の研究』、前掲書、328ページ。

(9)倉澤  剛『教育令の研究』、同上、357ページ。

(10)『文部省第9年報』(1883)によれば「中人」とは「国家ノ支柱タルヘ キ人士」であり、したがって中学校は基本的には依然としてより限られた少数者の 教育機関であったが、「高等ノ学校ニ入ルカ為」だけではなく「中人以上ノ業務ニ 就クカ為」だけの学校体系が開かれたこと自体画期的なことであった。

(11)早稲田大学所蔵「大隈文書」、A4254。

(29)「小学校教員心得」の2年後であるが、東京大学文学部長外山正一は188 3(明治16)年、東京府教育談会にて「小学及び中学教員心得」と題して演説を 行っている。「小学校教員心得」に比して著しく対照的であり、「普通教育」とい う言葉自体は用いられていないが、『改正教授術』以上に平易かつ明確な普通教育 論が述べられている。長くなるが今日においても意味あるものと思われるので以下 にその主要部分を示す。

  「凡そ物を取扱わんとする者は必ず先づ其性質をよく探り知らずんばあるべから ざるなり(中略)

  学校教員となりて幼き者の教育を担当する者に至ては其取扱ふ所の品物の性質を 一向に弁えずともよき訳なるか固より然らず学校教員は其取扱ふ子供達の人々の性 質を知らねばならぬ

  而已ならず先つ第1には都て人類の心に固有なる性質を知らざるへからず

  又子供の心に固有なる性質を知らざるべからず

  教員たる者殊に小学中学の教員たる者は教授する所の学科をよく心得たればとて それで教員なる者の資格を充分備へたりと思ふべからず斯く思ふ者は大に誤てり

  小学中学の教員たる者は子供の心は如何なる者にてあるか子供の考は如何なる者 にてあるかをよく察知することは何より大切なることなり

  左もなき時は子供の心を思ひやることは出来ざるなり

  子供を取扱ふに大人を取扱ふ様のこと為すことあるべし

  訳も分らぬ子供に向ひて大人に云ふ様なる理屈を云ふて大先生ぶることあるべし

   小学生徒及び中学生徒は其能力の発達する最中にして其発達するや自然の順序 あることなれば教育の法たる其順序に随はずんばあるべからず能力の発達を助くる ものたらざるべからず

  若し此順序に逆ふ時は却って能力の発達を妨害することあるべし

  小学中学の教育の主意たる特に某々の学科を生徒に教え込まん為にあらず

  其能力の発達を助けん為のものなり

  良しや能力の発達を助くることは出来ざるにもせよ之を妨害なさんことの如きは 固より為すべからざるなり

  未熟なる能力にあまり高尚なる学科を授けんとして徒に子供の精神を悩ましむる 如きことは決て為すべからざるなり

  左れば小学中学の教育を担当するものの探知せずんばあるべからざること夥多あ り其一二をあげんに

   第一 能力発達の順序は如何なるか子供は観察力に富むか将た思想力に富むか

   第二 何歳位より物の理屈がよく分る様になるか

   第三 物の理は教師が委しく解き聞すが善きか又は生徒をして自ら悟る様に仕 掛けて発明さするが善きか

   第四 男子と女子と何歳位まで其精神は大概同じ様なるか

   第五 男子と女子の精神は重に如何なる点に於て異なるか等の箇条をよく調べ たる上にて設けたる教育にあらざれば必ず無理なることあるべし

  則ち中年に至りて教授すべきことを幼少なる時に教えんとする如きことあるべし

  また単純なる理屈も分り兼ぬる如き者に錯雑なる理屈を説き聞かする如きあるべ し一例を載げんに

  子供の心に固有なる性質の一つは克く真似をすること之なり

  子供は一から十まで眼で見耳で聞くことを真似る傾向あるものなり

  子供が色々の働を覚ゆるは真似をする能力に拠ること尠なからず言語なり礼儀な り品行なり一生人の性の如くなる大切なる部分は大概真似にて学び得る所なり蓋し 幼年の時に脳にしみ込みたることは一生忘れがたきものなり

  されば幼年の時の経験は実に大切なるものなり

  子供に近く接する所の人達の言語挙動の善悪は子供の将来に大に関係あるものな り父母と教師との如く子供の最も尊敬する所の者は常にその言語挙動を慎まずんば あるべからず

  子供が父母と師を見ることは恰も日蓮宗の者が日蓮を見る如く私学党の者が西郷 隆盛を見る如くなり

  我邦の父母及び教師の最も注意すべきことの一は身体と精神とは密着したる関係 を有すると云ふこと則ち之なり

  我邦人には兎角二者を独立の者と思ふ僻あり

  さるからに精神の善悪は身体の善悪には拠らざる如く思へり

  身体を害しても精神を害することはなき如く思へり

  徹夜して勉強する如き者を只管に称賛する如き風あり

  ねむがる子を無理に起こし置きて勉強せしめんとする如き親は尠なからず慎まざ るべからず

  又子供をむやみにしかるは悪きことなり世間にはしからずによいことをしかる如 き親往々あり

  しかるが親の職掌なりと思ふ如き者尠なからず

  今日の親が子供をしかるを見るに子供の為を図る為にあらずして親が安を愉まん 為にすること往々あり

  例へば静にしろ静にしろと云って子供をしかる親の如きは静にするのが子供の為 によきことなりと思ふてしかるにあらず

  蓋し子供は身体発達する最中にて気力のさかんなるものなれば十が八九までは静 にして居れぬ者なり

  子供が静にして居ることの出来る子供ならば病気なる者なり

  子供が静にして居ることの出来ぬは親に於て歓ぶべきことなるに親が却て之をし かるは全く親が一時の安を愉まん為なり之又慎まざるべからず

  学校教員にも子供はなるべく静にすべき者の如く思ふ者往々あり

  子供は静にすべき者なりと云ひ聞す如き者尠なからず誤れりと云ふべし

  右等の事を能く心得ん為には宜しく心理学を学ばざるべからず

  去りとて心理学を講じたる書物を買込みて書物に就て研窮し給へと云ふにはあら ず学問をすると云へば書物を読むことなりと思ふ者あり誤てりと云ふべし

  西洋にては書物を読みて計り居る者のことを書物の蟲と云へり

  書物は本如何して出来きへき者ぞ学問は如何して起こる者ぞ

  実地の研究と思想とに基ひせずんばあるべからざるなり

  小学中学の教員は生徒の精神の働を能く研究せずんばあるべからざるなり

  多くの教員が研究したる所と東京府教育談会並びに大日本教育会に於て衆人の考 にて篤と調ぶる時は必ず教育上に大に裨益ある結果を得んこと疑なし

  小学教員及び中学教員は今より生徒の心の働に能く注意せられんことを余は深く 冀望するなり

  (『大日本教育会雑誌』第10号、1884年8月31日発行、所収)

(13)倉澤  剛『教育令の研究』、同上、376ページ。

(14)国立公文書館内閣文庫所蔵:文部省布達全書、明治13年、雄松堂マイクロ フィルム『明治前期教育史料集成』所収。

(15)国立公文書館内閣文庫所蔵、文部卿福岡孝弟演述扣、明治14年12月17 日、倉澤  剛『教育令の研究』、前掲書、378ページ、参照。

(16)国立公文書館内閣文庫所蔵:文部省布達全書、明治14年11月15日、雄 松堂マイクロフィルム『明治前期教育史料集成』所収。

(17)沢柳政太郎『実際的教育学』、1909年、57ページ。

(18)島田三郎の思想と行動は「キリスト教的社会改良主義」(住谷悦治「明治キ リスト教徒の社会主義思想ー島田三郎の社会主義論についてー」、同志社大学『経 済学論叢』第12巻3・4合併号)と特徴づけられている。主な経歴は、文部省以 前は「横浜毎日新聞」編集長を経て、元老院法律調査局吏員、文部省以後は東京横 浜毎日新聞社社員、立憲改進党結成参加、神奈川県会議員ならびに議長、第1回総 選挙以来衆議院議員 に連続14回当選、廃娼運動・足尾鉱毒問題等で活躍、衆議 院議長など。『島田三郎全 集』5巻、1938年、島田三郎全集刊行会、高橋昌 郎『島田三郎伝』、1988年、 まほろば書房、等参照。

(19)福井淳「嚶鳴社員官吏と『教育令改正』ー島田三郎を中心にしてー」、『歴 史学研究』、第535号、1984年。なお、出原政雄「自由民権思想における国 家・ 教育・人権」、伊藤彌彦編『近代史叢書1・日本近代教育史再考』、1986 年、 昭和堂、も「茨城演説」について言及している。

(20)明治13年5月25日改正文部省職員録、国立公文書館所蔵。

(21)1877(明治10)年から1881(明治14)年までの文部省人事異動 については、1877年5月7日、1878年1月16日、同年6月1日、187 9年2月1日、1880年1月28日、1881年1月12日、同年5月7日、同 年11月19日改正の文部省職員録、いづれも国立公文書館所蔵、を参照した。職 員数については直轄学校等職員は除外した。

  なお、国立国会図書館憲政資料室所蔵の大木喬任文書にはこの期間における「文 部省 職員及雇員調」があるが、それによれば明治10~12年については職員録 の数よりも 約40名多い。等外出仕および雇員をカウントした場合としなかった 場合との違いなの であろうか。明治13年以後はほぼ合致している。

(22)福井淳「嚶鳴社の構造的研究」、『歴史評論』405号、1984年、校倉 書房。

(23)河野文部卿時代の文部省の教育政策の評価をめぐって論議がなされている。 たとえば、教育令改正が河野文部卿や島田三郎権大書記官ら嚶鳴社員を中心とする 都 市 自 由 民 権 派 に よ っ て 主 導 さ れ た こ と を 強 調 す る 立 場 か ら 「 河 野 文 政 の 再 検 討」が求められているという福井淳氏らの主張(福井淳「嚶鳴社員官吏と『教育令 改正』ー島田三郎を中心にしてー」、『歴史学研究』、第535号、1984年) や、河野文部卿就任後とされてきた文部省教科書出版計画がすでに田中文部大輔時 代に構想され、河野文部卿はその構想を具体化しようとしたにすぎないという事実 に基づいて「教育令を中心とする田中文部大輔の教育政策と河野文部卿の政策さら には教育令改正との関連について改めて問い直し」が求められているという掛本勲 夫氏の主張(掛本勲夫「教育令改正過程に関する一考察」、皇学館大学紀要第24 号、1986年)がなされている。

(24)高橋眞司「九鬼隆一(上)」、『福沢諭吉年鑑8』、1981、福沢諭吉協 会、126ページ参照。

(25)国立公文書館内閣文庫所蔵:文部省布達全書、明治14年、前出。

(26)この下野が「諭旨免官」によるものであり、島田自身には辞意はなかったと されている。高橋昌郎『島田三郎伝』、前掲書、20ページ。

(27)国学院大学図書館所蔵・梧陰文庫Aー386

(28)国立国会図書館憲政資料室所蔵、三条家文書55ー18

(29)この文書は4種存在している。第1は、国立国会図書館憲政資料室所蔵、三 条家文書55ー4に整理されている「変則中学ヲ設立スベキノ議」というタイトル のものである。なお、この文書末尾には文部省が政治学科を教授する学校を設立す る方策を述べた別の文書の一部が付随している。この付随文書は国学院大学図書館 所蔵・梧陰文庫Bー2563に整理されている「政治学科ヲ教授スル中学校設置方 法」というタイトルの文書の「記」の部分と基本的に同一文である。

  第2は、国学院大学所蔵、井上家文書、重要代草書類第14伊藤参議学制15  年、とされているもので筆者は未見である。なお、これは井上毅伝記編纂委員会編 『井上毅伝・史料篇』第6巻、1996年、国学院大学図書館発行、に収録されて いる。官立中学校表と公立中学校表とが付されている。また、倉澤剛『教育令の研 究』、前掲書、575ページ参照。

  第3は、国学院大学図書館所蔵・梧陰文庫Aー501に整理されている「公私立 中学校ニ対スル国庫補助ニ関スル意見書」というタイトルの文書で、それ自体筆跡 の異なる2種類がある。一方には参議伊藤博文という署名の上部に「明治十五年二 月」という日付が記されているが、他方のにはその日付が記されていない。2種と も内容的にはほとんど同一である。前者は『井上毅伝・史料篇』第6巻、同上、に 収録されている。

(30)倉澤  剛『教育令の研究』、前掲書、575ページ。

(31)倉澤  剛『教育令の研究』、前掲書、581ページ。

(32)国学院大学図書館所蔵・梧陰文庫、Bー2563「政治学科ヲ教授スル中学 校設置方法」。

(33)国立公文書館所蔵、公文録文部省之部、明治15年自1月至6月全、文書第 6、農商務省職制第二項改正ノ件。倉澤  剛『教育令の研究』、講談社、1975、 477~488ページ、参照。