第8章 第2次教育令公布前後にあらわれた「普通教育」論  第2次教育令以後、政府・文部省による普通教育政策とその制度化は急速にかつ全面的にその輪郭を明確にしていったが、そこに見られる支配的な普通教育論とは別にさまざまな普通教育論も同時に展開された。本章では文部省幹部でありながら文部省主流の普通教論とは異質な「普通教育」論を主張した島田三郎、東京府学務課に属しながら独自な「普通教育」論を展開した庵地保、赤松常次郎の「普通教育」論、杉享二の「他力教育」論、教育会に見られる「普通教育」観、教育学文献に見られる「普通教育」論等について検討する。  第1節  島田三郎の「普通教育」論  島田三郎権大書記官と文部省との関係については前章で述べたので、ここでは1881(明治14年)年4月、島田が茨城師範学校でおこなった演説(以下、「茨城演説」と略す。この全文を本論文末尾に掲載した)について検討してみよう。この演説で島田三郎はまさに「普通教育」について全面的に論じているが、すでに文部省では河野文部卿が転出させられるなど嚶鳴社員に対する風当たりが強くなっている状況であったから、島田はかなり自覚的に自らの教育観をこの演説を通して積極的に展開しようとしたのではないか。この演説についてもすでに福井淳らの研究がある(1)が、ここではその普通教育論史の意義を明確にするという見地から検討してみよう。  「茨城演説」にいたる経過等については福井論文を参照していただきたい。ここでは演説の内容を以下の7項目(アンダーラインで示した)に整理し、それぞれについて検討してみよう。 (1)「教育ノ事タル其区域至大至広」であるが、「普通教育」は「専門学」を教授したり、「高尚ノ学士」を養成するものでもない。  広義の「教育」と「普通教育」とをどのように本質的に区別しかつ相互に関連づけるか、大学・中学・小学の体系をどのように構成するか、また「普通教育」の「区域程度」等をめぐって中学校、実業学校等をどのように位置づけるか、それらにおける教則・教育内容をどうするか、等は当時の政府・文部省周辺にとってきわめて現実的な政策課題でもあった。それぞれの関連性について島田は積極的に論じているわけではないが、「普通教育」を「専門学」あるいは「高尚ノ学士」養成と区別していること自体は確認しておきたい。 (2)「普通教育ノ性質」は「普ク生活道徳智識ノ三者ヲシテ全国ニ普及セシメル」ことである。  島田三郎はまず、「教育」を「エジュケーション」=「展拓」ととらえ直したうえで、「教育ノ力」とは「二ツノ天性」すなわち「道徳」・「智識」を「発達セシムル」ものであるとしている。(2) この場合の「教育」は「普通教育」のことであろう。  島田は「普通教育」を「人類天與ノ性質ヲ展拓シテ固有ノ精義ヲ発達セシムルノ謂」とも言い換えている。「二ツノ天性」が「人類天與」のものであるという認識は当時の文部省周辺では一般的な認識であったと思われるが、これら「二ツノ天性」の「固有ノ精義」をどのような内容において理解するか、それを「発達セシムル」にはどうしたらいいのかについて、島田はこれ以上立ち入った言及はしていない。  なお、「普通教育ノ性質」は「全国ニ普及セシメル」ことにすでに力点が置かれている。「天性」の「天與」性と「普通教育」が「全国ニ普及」されるべきものであるということとの関係づけについて島田がどの程度自覚していたかは明確ではない。(3) (3)「普通教育」は「人生日常欠ク可サルノ智識ヲ養育」し、「人民ヲシテ通常ノ智識ヲ有セシメ社会ノ程度ニ相応スル人タラシムル」ものである。  島田にとって「智識」の内容は「人生日常欠ク可サル」ものであり、「通常ノ智識」であり、「人民ヲシテ・・社会ノ程度ニ相応スル人」たらしめるものでなければならなかった。  第1に、「人生日常欠ク可サル」という表現は学監マレーの「日本教育法」案(1877年)に見られる「一般人民日常欠クヘカラサル」(第25章)あるいは文部省案「日本教育令」(1878年)の「人間普通闕ク可ラサルノ学科」(第19章)等を想起させるものであるが、制定された教育令はこのような表現を否定して「普通ノ教育」もしくは「普通教育」という言葉を選択した。この時点で島田がなおも「人生日常欠ク可サル」という表現にこだわろうとしたのは、法令化された「普通教育」の国家基準的性格にたいする抵抗、あるいは「普通教育」にたいする島田固有の解釈を明確にするという意図、とも受け取れるがいずれも推測の域を出ない。  第2に、「社会ノ程度ニ相応スル人」について言うならば、教育令改正案を審議する元老院において河野文部卿が「我邦ノ政道ハ参政権ヲ以テ将ニ人民ニ許サントスルノ方針ニ向」っており、それは社会を「多数人ニ帰スル」ことを意味するのであるから「学務上ノ大目的」は「社会ノ程度ヲ高」めるものでなければならない、と発言している(4) ことと関連しているように思われる。島田は内閣委員としてこの会議に出席し、河野の発言を聞いているのである。 (5)「父兄」「父母」の子弟の「養育」「教育」に対する関係は第一義的であり、義務的である。またその「義務」は「天下国家」に対する義務でもある。  「天賦ノ能力」を「養育」「発達」させることは「天」に対する義務であり、社会に対する義務であるとする認識は当時の文部省幹部の普通教育観の基調にうかがわれる。その場合、その「義務」を誰が担うべきなのかについては必ずしも父母に特定されていない。これに対して島田は父母の義務を第一義的としてしている点において特徴的である。ここには父母の義務を第一義的としながらもそこからあっさりと父母にたいする保護者としての政府の責任に転化する政府・文部省の普通教育論に対して、家族を国家社会の基礎単位とみなしあくまでも父母の責任を求め、そのうえで「保護者」としての国家・政府の教育権を限定的に認めるようとする立場の相違がうかがえる。  次に、島田は「今日社会ノ常情タル大抵教育ノ義務タルヲ知ラス」、「父母ニシテ此義務ヲ実行セハ政府豈好テ干渉ヲナサンヤ」として、父母の「義務」不履行を論理的媒介として政府の「干渉」を正当化した。しかし、それは山田行元らの発言に見られるように当時の文部省周辺の一般的認識でもあった。  なお、島田は「世人動モスレハ政府ノ干渉ヲ非難シ以テ蛇蝎ト同一視」することを「奇怪」なことと感じているように、父母の「天下国家」にたいする教育義務が「政府・文部省」にたいする義務であることを島田は当然のこととして理解しているように思われる。  ここまでの島田の「干渉教育」論は当時の政府・文部省の支配的「干渉教育」論と大差ない。というよりも典型的な「干渉教育」論とも言えるものである。しかし、この後の島田の「普通教育」論は島田独自の展開を示す。 (5)「普通教育ハ自治自立ノ人タルニ欠クヘカラサルモノナリ」。ここに政府が「普通教育」に干渉する積極的根拠がある。  「自治自立ノ人」は島田が先に述べた「社会ノ程度ニ相応スル人」とは異なるし、「自治自立ノ人タルニ欠クヘカラサルモノ」という言い方も前述した「人生日常欠ク可サルノ智識」とは異なる。島田はそれぞれをどのように区別しかつ統一しているのだろうか。  島田は子どもをいまだ「自治自立ノ人」とはみなしていない。「児子ハ相当ノ智識ナク十分ノ経験ニ乏クシテ過誤失策ノ恐」あるものであり、したがって子どもは「父母」「他人」の「保護」のもとで「経験」と「智識」を獲得することによって「自由」で「自治自立ノ人」となることができるのである、と島田は述べる。  島田のこの見解は教育令改正時を回顧する41年後の彼の発言にも現れている。すなわち、「私は児童は其自由意志によりて学に就く者ではなく、親の責任として其監督の下に学に就かしむるものである。教育其の者は固より人に自由を得させる準備に相違ないが、教育するといふ事は、既に干渉の性質を含んで居るものであって、普通教育の如きは自由に放任すべきではないといふ確信を持って居た」と。(5)  島田はこのような立場から、彼の「政治上の友人」の反対にもかかわらず、「断固として之(教育令改正ー引用者)を実行することに努力した」(5)のである。しかし、島田は普通教育に内在するとされる「干渉」を政府の教育に対する干渉にまで押し広げ、両者を明確に区別しなかった。  島田のこの部分の見解に注目し、そこに「教育に内在する干渉性」を見いだす見解もあるが(6)、島田の議論と、将来の自由のために子ども時代は一定の束縛が必要だ、今我慢すれば大人になれば何でもできるという類の議論との本質的区別が可能であるかどうかはさらに検討が必要ではないだろうか。  問題は「道徳智識」の成長・発達過程と普通教育との関係を島田がどのように認識しているかであろう。島田はここで突如として「殊ニ知ラス無智ノ人民干渉ヲ用テ教育ヲ施スニ非ラスンハ異日自治独立ノ人民トナルコトヲ」と述べて「児子」についてのこれまでの議論を「無智ノ人民」に飛躍させている。「児子」に対する「干渉」の正当性が「(無智ノ)人民」に対する「干渉」の正当性に転化される。無知である点において子どもも「人民」も同質であり、犯罪予防よりも無知対策としての(普通)教育の有効性が説かれる。「無智ノ人民」の「過誤失策」によって「流毒社会ニ感染シテ終ニ天下大害ヲ被ル」ことがないよう、政府が「法律ノ力ヲ藉」て「人民」を「自治自立ノ人」にしていかなければならない、これが島田の教育論であり、普通教育論であった。(7) (6)「政府ノ職掌」は単に「人民ノ害ヲ防グ」だけではなく「公利公益ニ関スルコト」にも積極的に関与していくべきである。  「教育」は「利益ニ関スル至大ナル」ものであるから当然のことながら「政府ノ職掌」であり、またそうすることが「邦国危険」を「遮断」し、間接的に「社会ノ幸福」をもたらすことができる、「故ニ政府教育ニ干渉シ人民ヲシテ大概普通ノ学科ヲ講究シ普通ノ道理ニ通暁セシ」めれば、「社会ノ改進ヲ鼓舞シ一国ノ文化ヲ助成ス」、と島田は確信する。だがそれは「公利」であることにおいて「コレラ予防法」と同次元で語られる。 (8)普通教育=干渉教育の「施行ノ方法処置ノ計画ハ十分研究」し、いたずらに学校を設置し「民費」を重くすることのないようにしなければならない。また、ともすれば専門的でアンバランスになりがちな教則・教育方法について「人生日用不可欠ノ学科ヲ教授」するという普通教育の「本主」を貫徹しなければならない。  島田はこのことから普通教育=干渉教育は「公立学校ニ依頼セサルヘカラス」という方針を導き出す。これは私立学校廃止論である。また教員養成、教則、教科書等への「政府ノ干渉」もここから導かれる。  政府・文部省にとっては過重な「民費」はもはや学校の過剰設置にあるのではなく、「民費」の一部が統制の行き届かない私立学校にも分散支出されているところが問題であったのである。普通教育の国家基準を設定し、教育費の「民費」負担を公立学校に限定して学校教育の全国的統制を確立するという意図から「公立小学校」主義が選択されたのである。ここにこそ民衆が「公立学校ヲ嫌厭スル」根拠があるのである。  「公立学校」が「十分ナル家屋ヲ建テ完全ナル教師ヲ聘シ普通ノ器械ヲ備ヘ」るためにはそれにふさわしい費用が必要となる、「教育」の成果を挙げるためには何よりも「人民政府ニ聴従シテ費用ヲ公給スル」必要があるとする島田の認識は、民衆的な自主的な学校設立要求を否定し、普通教育を事実上公立学校に限定しそれに対する国家統制を強行する文部省の基本方針を前提としているならば極めて狡猾的な発言であるし、文部省の方針と無関係な島田独自の発言であるならば主観的願望の表明に過ぎないといわざるをえない。  なお、この「茨城演説」を「茨城日々新聞」で読んだ添野正三は「教育変遷論」と題する投書を寄せ、島田を激しく批判している。(8)  添野は「父母ノ(児子にたいするー引用者)干渉束縛ハ将来自由ノ基礎ナリ政府ノ教育ニ干渉スル毫之ト異ナルコトナシ」とする島田の見解にたいして、それは「人智」が「幼稚」であるという認識を前提にするものである、「人智」は進歩しているにもかかわらずそのことを理解できないのは「専制ノ治制」であるがためである、「人民ヲ以テ無智ニシテ感覚ナキモノト為シ敢テ干渉ス可カラサルコトニ干渉スルカ如キハ国政ノ変遷ヲ悟ラス民智ノ進歩ヲ察セサルモノト謂フ可シ」とし、改正教育令を改めなければ「他日或ハ意外ノ弊害」が生じるであろうと警告を発すると同時に、そのためには「先ツ国会ヲ興起シテ広ク全国ノ人材ヲ召集シテ之ト協議」するべきであると結んでいる。  島田が有力な嚶鳴社員であることを添野が知っていたのかどうか不明であるが、国会開設を要求することにおいては両者は完全に一致しているにもかかわらず、教育令改正に当面して政府・文部省の「干渉主義」を島田独自の論理で正当化しようとした矛盾を添野は鋭くついた。  以上、「茨城演説」に見るように「干渉」の根拠を教育論に求め、国会開設という課題を担う主体形成を意図しながら、そこでの「干渉」の論理を現実には国家主義的干渉主義を推進する教育令改正の論拠に直接的・主観的に結びつけ、自らその実現のための旗振り役を自ら引き受けるという矛盾した島田の姿勢は結局は政府・文部省の立場からする普通教育政策およびその具体化とかみ合うことはなかった。  「茨城演説」に「教育に内在する干渉性」を見ることは可能であるとしても、その内実自体特別に積極的意義を有するものでもなく、したがって「教育に内在する干渉性」を理由に改正教育令の性格や河野文政の性格を規定することはやはり無理があるように思われる。  もちろん、「教育に内在する干渉性」を子どもの諸能力の成長・発達過程に関するいっそう合理的な解明と結びつけ、その見地から当時の普通教育政策にたいし一定の立場を保持することは不可能ではなかった。しかし、それは「茨城演説」に見られるような普通教育観や島田のような立場からは期待しえないことであった。  島田三郎の「茨城演説」をめぐって研究上若干の論議がなされている。  福井淳氏(9)はこの「茨城演説」について、①教育を「公利公益」という人民の権利に関わるものとみなしている、②政府の干渉はその人民の権利を護る義務からのもので、窮極的には人民の「自治」、「自治自立」を助けるものであるという認識に基づいていたとし、それが自由民権運動の立場における「干渉教育論」であり、それが「改正教育令」制定の意図として唱えられていたことに何よりの重要性がある、と述べている。  この見解に対して、掛本勲夫氏(10)は「茨城演説」(主に4月23日付という限定がされているがー筆者)を分析しつつ、①国家安寧のための教育という主張が見られること、②島田が小学校教則綱領に何ら発言していないこと、③島田らの民権派の見解の展開を許容した政府内の事情を考慮する必要があること、を挙げて福井見解について「必ずしもこれに同意できない」と述べている。  福井氏の見解は教育令改正にたいする氏の評価と結びついている。すなわち、教育令改正を「自由民権運動に対抗しての教育の干渉主義、中央集権的官僚統制の強化を目指したもの」とする一般的理解にたいして、「普通教育について『自由意志』のない児童の教育権の擁護のため、教育に内在する干渉性に立脚し、国家が干渉するという思想の存在が窺われる」とし、「この評価の対立は、島田三郎自体の位置付けを1つの焦点としている」と述べている。その場合、島田の教育論を示すものが「茨城演説」とされている。  第2節 庵地保の「普通教育」論  第2次教育令が公布されたのと同時に、すなわち1880(明治13)年12月23日、庵地保(いおじ・たもつ)の『民間教育論』が出版された。(11) 庵地保の生涯と仕事については補章として本論文末尾に掲げたので、ここではもっぱら彼の普通教育論について論ずることにしたい。   『民間教育論』は「専ハラ普通教育ノ要領」を述べたものである。この時期に展開された「普通教育」論の中でもっとも注目すべき文献であるので、いささか詳しく紹介したい。 (1)教育は「格段ナル教育」と「一般ナル教育」に区別される。前者は医師なり法律家なりになろうとする「一部ノ人」が「特ニ受クヘキ」「一科専門ノ教育」であり、いわば高等教育であり専門教育であった。高等教育の専門分化との関連で「普通学」が対応している。後者は職業・渡世にかかわりなく、「一般ノ人」が「普ネク受クヘキモノ」であり、これは「尋常普通教育」である。  庵地が「格段ナル教育」について言及しながら「尋常普通教育」との関係をそれ以上に解明しないのは特権的な「格段ナル教育」の存在そのものについては疑問とすることなく、それとは別系統の「尋常普通教育」確立の政治的経済的重要性に着目したからにほかならない。  「一般ナル教育」すなわち「尋常普通教育」は「一般ノ人」あるいは「一般人民」が受ける教育である。庵地によればそれは「一人ニ対スルモノ」と「公衆ニ対スルモノ」ニ分けられ、「一個人ニ対スルノ教育」と「一国公社ニ対スルノ教育」がそれぞれに対応する。  庵地によれば「一個人ニ対スルノ教育」は「父母若シクハ父母ニ代ハルヘキ者ガ其子弟ヲ家庭若シクハ学校ニ於イテ教フルモノ」とされる。公衆の個人的側面は庵地によれば家庭的側面であり、人間的・社会的側面は「個人」という概念によってはとらえられていない。依然として封建的な個人観念にとらわれているといえよう。  一方、「一般ノ人」を個人と公衆、「家庭」と「一国公社」とに分けることによって家族と国家をイデオロギーにおいて直結させる思想構造からは免れていることも注意されるべきであろう。庵地において特権的「一部ノ人」も封建的家族的個人も温存されている。すなわち封建的人間観をなおも色濃く有しているのであるが、同時にそれを支える社会的経済的基盤に対する不安も自覚しており、全体として封建的人間観をじっくりと越えようとする姿勢に貫かれており、庵地の「普通教育」論を興味あるものにしている。  「一個人ニ対スルノ教育」とはどのようなものであるか。庵地によれば、子どもの「養育ト教育」とは父母の「免レ難キ」義務である。子どもの「心身ヲ発達セシメ」、「家産ヲ相続スルニ差支ナキ用心ヲ為」すことによって「其子ノ富貴栄誉ヲ求テ生涯ノ安全ヲ得」ること、さらには「我(父母のことー引用者)ヨリモ一層産ヲ起シ業ヲ盛ニ」することが父母にとっての教育の目的であり、またそれは愛情に基く営みであるから「決シテ他人思想ノ及フコト能ハサル所」であるが、だからこそそのような教育を実現する「方按」が講じられるべきである。それは教育を勧めることにほかならないが、その教育とは子どもが将来どのような職業に従事するにしても「切実ニ其活用ヲ得ヘカラシムルモノ」であり、内容的には「一ト通リノ読ミ書キ十呂盤地理歴史修身等ノ初歩ヲ教フル」ことであって、これが「尋常普通ノ教育」である。変化する家業あるいは職業に対する容易かつ迅速な習得を可能にする客観的条件が「文明」であり、主体的条件が普通教育である。  父母において子どもに対する教育がしっかりしていればそれに見あった職業が期待できるという信頼感が根底にある。すなわちそのような信頼を基礎としうる階層・階級の利益を反映した普通教育論といえるだろう。父母は愛情をもってあるいは多くを犠牲にしてまで教育に当たるという倫理的前提がそこにはある。実はこの倫理的前提の歴史的現実的不安定性に対する自覚が「一国公社ニ対スルノ教育」を誘発することになる。  何らかの「辞柄」を設けるなどして父母が教育の責任を免れることによって無知無学にされた公衆が「違非ヲ他人ニ加フルアルニ至」ることになれば「国家ノ不幸」をまねく。  父母が教育の責任を免れようとしているという認識は客観的には封建的家族制度の崩壊と国家主導の資本主義化による貧困な人民層の創出過程の進行を背景としている。そのようななかでの「一個人ニ対スル教育」の再確立はどのようにして可能か。 庵地にとって「一個人ニ対スル教育」は「国政若シクハ民政ノ法則ニ従ヒ一般人民ノ就学ヲ督励スルモノ」であった。「国政ノ法則」あるいは「民政ノ法則」とは何か、がかならずしも明らかにはされないまま、政府が法令をもって「人民普通ノ教育ニ干渉スル」ことが導き出される。こうして「一個人ニ対スル教育」は「一国公社ニ対スル教育」に転化される。「普通教育ノ干渉奨励セサル可カラサルコトハ既ニ此ノ如キナリ」。  「学制」以後の文部省の設置を含む行政府主導の教育制度の進展は形式的には基本的に肯定される。立法府の要求は庵地にはない。あるのはあくまで「一個人ニ対スル教育」の実現という立場からの行政府への要求という姿勢の堅持である。そのうえで人民の側に見られる「一国公社ニ対スルノ教育」の現実に対する意識の遅れをいかに改善するか、に関心は移っていく。庵地が人民の教育に対する意識の遅れをどのように認識したのか。まさに<遅れ>として理解したのであって、人民の教育に対する意識の<分裂>を問題にしたわけではなかった。「教則ノ新規ヲ嫌ヒ或ハ教授ノ活発ナルニ驚キ其他学校ノ体裁旧時ト異ナルヲ以テ入門ハサテオキ外面ノ構造ニ驚キ因テ出校ヲ悦ハサルノ弊」の改善が地方教育家の課題であることを論じたのがそもそも本書の執筆動機であったが、客観的にもはや中央ー地方に問題があったわけではなかった。 (2)庵地において「千状万態」たる何らかの職業に従事することが人間、とりわけ「一般ノ人」の目的であった。職業の「千状万態」化はまさに当時の共通した時代認識であり、そこに「普通教育」論が繰り広げられた現実的根拠があった。しかし同時に「一般ノ人」にとって社会は職業社会であっても、政治社会ではなかった。いかなる職業に従事しようとも「知恵ヲ開キ見聞ヲ増シ世間事物ノ順序慣習ヲ知」ることが普通教育にとって「第一必要ナル箇条」であった。このような認識はそれまでの我が国の「学問」が「道徳ノ一方ニ傾向」し「知恵教育」が軽視されてきたという歴史認識に基づくものであり、したがって「文明開花」は「知恵教育」の必要性・重要性を自覚させた事において「国ノ為メニ幸福」であったとされる。 「普通教育」はなによりもまず「人間ノ智能」あるいは「人智」の「発育ノ順序」ニ「相応」するものでなければならないとされる。庵地は「人智発達ノ順序」について「西洋ノ学者」の説を紹介しているが、この紹介の仕方自体、庵地の「普通教育」についての理解の高水準を示しているといえよう。  「人智諸般ノ能力」の成長には「一定ノ順序」があって「同一ニ発達スヘキモノニ非ス」。「必ス一能力ノ先ス発達シテ自由ノ働キヲ為スニ及ヒテ然ル後他ノ能力ノ発動ヲ完備スルニ至ル」とされる。また、それら諸能力は相互に関連しているが、特にある能力が「敏捷ナル時」を基準にして、第一期・視覚力、第二期・分解力、第三期・推理力に区分することができる。  「視覚力」とは「外物ヲ認知スルノ能力」であり、「常ニ五官ヲ使用シテ体外ノ物象ヲ心裡ニ伝ヘ思想ヲ発起セシムル」能力であり、子どもはこの能力によって「認知スル所ノ物体ヲ明ニ弁知」することができる。またこの能力に「属シテ発達スル所ノ能力」に「弁知力」がある。この能力は「視覚ノ働キニ依テ心裡ニ伝へタル物象ヲ確知シテ之ヲ貯ヘ他日復タ自由ニ之ヲ使用シ之ヲ発言スル」力である。この「弁知力」が発達すると、「視覚力」によってはとらえることのできない「事物」を「推知」することができるようになる。このようにして子どもは「知識ヲ得ント欲シテ止マス又其既ニ認知セル知識ヲ人ニ伝ヘンカ為ニハ言語又ハ他ニ其思想ヲ伝フルノ道」を習得するというのである。  「分解力」とは「視覚力」によって獲得した「知識ヲ一々分析解剖シテ其秩序ヲ整頓スル」能力であると同時に「視覚力ニ依ラスシテ開陳スヘキ新様ノ思想ヲ発スル」能力でもある。子どもはこの能力によって「其知識ヲ増進」していくのである。  「推理力」とは「事物ノ道理法則ヲ知ル能力」であり、この能力は「万物ノ系統ヲ分」け、「既ニ認知シタル物象ノ原因ヲ求メ及ヒ其結果ヲ推測スル」とされる。また、この能力が現われるのは「人智」発達の最後の段階であるとされる。  ここには素朴ながら子どもの知的能力の発達に関する唯物論的理解が示されているといえよう。庵地はこのような「発達ノ順序」が「自然ノ法則」であるとして、教育法・教授法はこの「自然ノ法則」に立脚するべきであると力説している。   庵地はこのような見地に立って、「民間教育ノ大勢」がそのような方向に向かっていないことを指摘し、特に「学校用書」の改善を訴えている。つまり地理書や究理書・歴史書などは「人智発達ノ順序」にしたがって編集されておらず、また「西洋ノ事情ニ明カニシテ或ハ日本ノ事態ニハ暗キモノアリ」と述べている。  道徳教育について、庵地は「孔孟教外ニ出テサルモノナリ」という時代的枠組を共有しつつも「中庸」に言う天命、道、教のそれぞれについて「人智発達ノ順次」「自然ノ法則」の見地から解明しようとしている。   天命とは「良心」のことであり、それは「身ヲ愛シ人ヲ敬シ」、「国ヲ愛シ天ヲ敬スル等ノ如キ本善ノ性」であり、道とは「良心ノ法則」のことであり、「人間ノ行為ヲシテ此良心ノ法則ニ卒ハシムルモノ」が教であり、この教こそが行状教育にほかならないとされる。  「良心ノ働キ」は「人智発達ノ第二期」すなわち「分解力」が発達する時期に発生する「無形ノ思想ニ属シ始メテ発動スルモノ」であるから、それがまだ十分発達していない小児の段階にあっては、たとえ「残酷ノ所業ヲ為スコト」が往々あったとしても「自ラ悔悟」することが出来ないのだから、父母教師は「手製ノ法」をもって「呵責」し、子どもをいたずらに「良心ノ法則」に従わせようとしても無意味である。「自然ニ良心ノ発達ヲ賛助スル」ことによって、子どもが「自ラ悔悟」するように仕向けなければならない。いたずらをして衣服を汚したときは子どもに洗濯をさせるべきである。洗濯の「困苦」を通じて「反省悔悟」の気持が生じるのだから、「此時ニ際シテ丁寧ニ自然ノ法則ニテ斯々アルヘキコトヲ教訓スヘシ」。  庵地はさらに言う、「善行ヲ為セハ愉快ヲ覚ヘ悪行ヲ為セハ不愉快ヲ感スル」。これも「良心ノ法則」であるとする。  最後に、庵地は「行状教育」において、特に「大切ナル注意ヲ要スルコト」は「父母教師ノ行為」であって、どんなに「巧ミニ教訓ヲ施」したとしても、「自然ノ法則」に留意しなければ「効ヲ見ルコト能ハサルナリ」と結んでいる。  良心というものが客観的に存在するものであること、しかしそれは人間成長のなかで発達するものであること、快を求め不快を避ける行為自体人間にあっては道徳的行為であり、その行為を通じて善悪の判断基準が獲得されていくということ、子どもは道徳的判断力を自主的主体的に獲得しようとするものであること、道徳律を主観的・強制的かつ言語主義的に注入しても無意味であること、道徳的判断の発達のためには子どもと「父母教師」という社会的関係が不可欠であり、したがって人格形成を通じて道徳的判断力が発達するものであること、などの理解が素朴ではあれ表明されているといえよう。  さらに、明治維新という変革期にあって「一人ノ幸福ト一国ノ安寧」を願う庵地の立場から、「退取」ではなく「進取」の養生教育の必要が説かれる。しかし、精神と身体との関係はあくまでも通俗的理解にとどまっており、知恵、行状教育論に比して精彩を欠いている。「小児ノ頃ヨリシテ身体諸般ノ能力能ク外物ノ力ニ抗敵スルノ習慣ヲ為セハ」「支体五官」ノ「功用」を「逞ウスルモノ」であるから、「文明」に依存する生活が多くなればなるほど日頃から身体健康の習慣を獲得しておくことが重要であると述べるにとどまっている。  庵地は5年後に『通俗教育論』を刊行し、新たな状況のもとでさらに自らの普通教育論を発展させている。そのことについては第11章で言及したい。  第3節 赤松常次郎の「普通教育」論  赤松常次郎は1880年から81年にかけて『教育新誌』に「読東京曙新聞教育上ノ巷説」と題する論説を「真正ノ自由主義ヲ主張セントスル」立場から4回にわたって連載している。(12)  赤松は「教育ノ事」は「一般ノ自由主義ヲ以テ論説スベキ範囲外」であり、「最モ政府ノ干渉ヲ要トスル」と述べ、「政府ガ教育ニ干渉スベキ理由」を6点にわたって説明するとともに、「普通教育」についても積極的に論じている。  赤松は、第1に、「不良ノ教育」を放置したために「不良ノ子弟」を養成することになれば、「国家ノ衰頽」を招くという前提のうえで、「人ノ子女タルモノ普通ノ教育ヲ受ケンコトヲ要求スルハ其固有ノ権理」であり、「普通ノ教育」を与える「義務ヲ負担スベキモノハ父母ニ非ズシテ誰ゾヤ」と原則論を述べる。一般に父母は子弟を自分の財産・奴隷とみるか、放任・過保護のままにして「子女ノ権理ヲ犯シ」ている。「良民ヲ保護スル所ノモノハ独リ政府ノ職務」であるならば、「子女ヲ保護スルモ亦政府ノ職務」であるというのである。  第2に、「社会ノ景況」が先行して後から「人智ノ進度」が追いつくというのはその逆の場合よりも困難な課題である、「最良ノ教育法」を準備する上で政府は教育に干渉するべきである。  第3に、「罪悪ト犯罪ノ関係親密」であり、罪悪の原因は無学文盲であるから、「罪悪ヲ防ギ社会ノ安寧ヲ保護スル」のは「政府ノ職務」である、政府は罪悪に先んじて教育を普及すべきである。  第4に、「国会ノ設立」にあたっては「財産ノ制限」は平等であるべき参政権、すなわち「普通選挙法」にとって障害である、しかし「無学無識」のままでは「無数ノ弊害」が生ずるから政府の職務によって「教育ヲ普ク」しなければならない。  第5に、国会開設に当たって「公衆ノ真意」に則した「真正ナル公議輿論」が形成されなければならない、そのための「良法」は「政府ヲシテ普通教育ニ干渉セシメ」ることである。  第6に、「国モ亦分子即人民ノ集合」であるから「善良ノ民ヲ養成スルコトハ政府ヲシテ良教育ヲ普及セシムルニ非ザルヨリハ決シテソモ其目的ヲ達スルコト能ハザルベシ」。さらに「国ヲ強クスルモ亦教育ヲ普クスルニ如クモノハ無シト断言スルコトヲ得ベシ」とさえ述べている。  赤松の「普通教育」論はすでに述べた山田や植木のそれと本質において同様である。父母が子女を財産や奴隷のように見るのは身分社会・階級社会のもとで家族が私的所有の基礎単位とされていることに由来するものであり、父母の児童観はそのような支配的社会意識の反映である。政府・文部省が父母に代わって子女を保護するとする認識は客観的には政府・文部省に対する幻想であり、明治初期の産物であろう。罪悪と普通教育との関係についても貧困、社会不安の経済的政治的原因とその解決の道が探究されず、教育による社会不安の除去が問題視されている。  また、赤松の場合は普通教育を国会開設請願問題と結びつけて論じている。  なお、赤松はこの論説の中で、「教育」を分類して「普通教育」、「中等教育」、「高等教育」すなわち「専門教育」に分けている。「学制」に言う「教育ノ初級」がこの時期の識者に「普通教育」と理解されていた証左といえよう。とはいえ、赤松の場合、「普通教育」はその本質的な意義が追求されず、「教育ヲ普クスル」という意味で用いられていることは注意されるべきである。  第4節 杉享二の「他力教育」論  明六社定員でその後東京学士会院会員、統計院大書記官となった杉享二は1881(明治14)年1月15日、東京学士会院において「教育論」と題する講演を行っている。(13) 杉は普通教育という言葉を直接用いているわけではないが、普通教育論にとって留意すべき論を展開しているので、そのかぎりにおいて検討しておきたい。  杉はまず、「教育」という言葉を「人間総体」についておし広げてみたとき「二期ノ教育」に区別することができるとしている。「第一期」の教育とは人間が誕生してから「世間仲間ノ門ニ入ル」20歳位までの教育であり、杉はこの教育を「外ヨリ授カル者」であるから「他力教育」と呼んでいる。「第2期」は「躬親(みず)カラ教育シ銘々才能ニ随テ千種万類ノ事業ヲ為スニ至ル」期間で杉はこの時期の教育を「自力教育」と名づけている。  杉はさらに広義の教育を「三様ノ関係」、すなわち①「親ト子ノ関係」、②「国人互ノ関係」、③「国ト国トノ関係」からとらえている。  「親ト子ノ関係」について言えば、そこに「道ヲ得ル」かどうかによって「世間」の利害に関わる。親がどのような「道」をとるかは「自力教育」の問題であるが、それ「人間ノ自由」をおし殺すものであってはならない。文明社会において「他力教育」は幼児の精神的・身体的能力の働きを「解剖学」や「生理学」「精神学」に求めて明かにし、それらの「天然自発ノ力」に依拠して「三能(徳・智・体)ノ簡単ナル道理」に基づいて「適当ノ教育ヲ授ケ」るならば子どもたちが将来「自力教育」を行う時の「助」となる、そのようなことが行われるならば「誠ニ教育ノ道ヲ得タリト謂フベシ」と述べ、とはいえ、そのような「他力教育」は未だ行われていないところに「他力教育」について「講究」しなければならない理由があるのだ、と述べている。 「国人互ノ関係」についていえば、そこにも「悪キハ棄タリ善キハ興ル是亦教育ノ世間仲間ニ関係」がある、したがって、そこにも「道ヲ得ル」必要がある。例えば犯罪と国家の損害との関係についての正確な統計的事実が示されればおのずから損害を減ずることができる、そのために統計が必要になるのと同様「教育ノ道開クルニ至ラバ幾分カ損害ヲ償フ所アリテ人間ノ事業随テ盛ンナル」という。つまり、「自力教育」の世界では学問を盛んにしていくことが社会の繁栄になるというのである。  最後に、「国ト国トノ関係」についてであるが、鎖国から開国への転換を可能にしたのも「自力教育ノ力」によるものである。  杉はこのようにして、「他力教育」、「自力教育」がそれぞれ「宜シキヲ得」ることができれば「内外権利ノ水平」を得ることができると主張する。  杉はさらに教育についての「各人ノ責任」と「社会ノ責任」および「国ノ責任」について言及し、「人ノ年齢ニ分量ト性質」があることを統計的事実に基いて①誕生から15歳までの約30%の「幼童」は「無職業ノ人数ニシテ父母ト社会ノ教育ヲ受クルモノ」、②15歳から20歳までの約10%の少年は「半職業ノ人数」、③21歳から60歳までの約48%は「職業ノ人」、④61歳から70歳までの約4%および70歳以上の2%は「職業ヲ仕遂ゲテ再ビ無職業ニ返リ世ヲ楽ム隠居」である、したがって48%を占める「職業ノ人」が33%の「幼童」を教育し、④以上の人々を支える「責任」があるというのである。  杉は、このように統計的事実に基づいて「人生自然ノ道」「経済ノ理」「立法行政其他人間社会ノ事」を解明していくことの重要さを強調すると共に、「教育ハ道理ノ如ク学問ハ此ヲ求ムル機械ノ如シ」という認識にたって、学士会院が中心になって「教育ノ道ヲ求ムル」とし、結論として政府に向い「政府ハ内外万機ノ当務ニ多忙ナリ何ゾ学問上ノ道理ヲ究ムルニ逞アランヤ」として「学問ノ道理」を尊重した社会の実現を要求している。  以上をさらに要約するならば、広義の「教育」における「他力教育」の存在理由を主張し、「他力教育」「自力教育」それぞれがそれぞれの「道」に即して発展することによって相互が発展すること、その「道」は統計的事実に基づいて解明されなければならないが、それゆえに政府は「学問」を尊重しなければならない、として安易な国家的社会的利害から教育や学問を抑えるべきではないことを主張したものと言える。  杉の「他力教育」論と「普通教育」とはどのような関係にあるのだろうか。杉にとって「他力教育」とは①子どもの精神的・身体的な諸能力に関する科学的解明のうえに子ども自身に内在する「天然自発ノ力」に依拠して「三能(徳・智・体)ノ簡単ナル道理」に基づいておこなう教育であり、②「世間仲間ノ門ニ入ル」20歳位までの教育であり、③社会の中で48%を占める「職業ノ人」が33%の「幼童」に対して責任を果たすべき教育であり、④親の子にたいする教育、であった。それは文部省がめざしている「普通教育」とはかなり異質な独自な「普通教育」論というべきである。杉がそのような教育をなぜ「普通教育」と言わなかったのかは不明であるが、「他力教育」ということで文部省の「普通教育」政策における普通教育論を教育の原点に戻って問題提起したとも言えるのではないだろうか。他方で、杉が現実に展開している普通教育政策についてどのような認識をもっていたのか、「他力教育」の具体化をめぐる民主主義の問題をどのように認識していたのか、については語っていない。  第5節 教育会と「普通教育」 (1)地方教育会と「普通教育」  1877(明治10)年以降、各地に教育会等が設立されているが、東京では東京教育会(1878年)、東京教育協会(1879年)、東京教育学会(1882年)、東京府教育談会、大日本教育会(1883年)などが設置されている。(14) 文部省は自由民権運動の高まりへの対策として早くも1881(明治14)年6月20日、府県にたいして、区町村にあって「学事ニ就キ諮詢講究等ノ為教育会ヲ開設」しようとする場合はその規則等を提出させて調査するよう指示している。(15)  また、1882(明治15)年11月に開催された学事諮問会において九鬼隆一文部少輔は「教育会」が府知事県令郡区長等の「諮詢講究」という目的を離れて「演説会場」化しているなどと激しく批判し「本旨ヲ誤ラシムヘカラス」と指示している。(16)  翌年、文部省の意向をうけて「大日本教育会」が発足している。  当時の教育会の規則には教育や学事一般ではなく「普通教育」に関する学科等の研究、その地域における普通教育の改良・普及等についての検討などが目的・任務として掲げられた。1882(明治15)年に設置された本所・深川教育会はその目的に「普通教育の改良普及」を掲げ(17)、また1885(明治18年)に結成された東京府教育談会四ツ谷牛込支会は事業の第1項目に「普通教育上須要ノ学科ヲ研究スルコト」を掲げた(18)。同年5月に結成された南足立支会の規則は第2条に「当会ハ東京府教育談会ノ主趣ニ随ヒ普通教育ノ改良進歩ヲ謀ルヲ以テ目的トス」、第3条に「当会ハ本郡普通教育ニ関係アル職員其他当会ノ主意目的ヲ賛成スルモノハ会員タルヲ得」としている。(19)  1886年2月に開かれた前記四ツ谷牛込支会第3回例会で、小谷茂実は「近来教育会ナルモノ諸方ニ勃興シ該会ノ支会モ亦各所ニ起リ何レモ普通教育ノ改良上進ヲ謀ルノ目的ヲ以テ最初ハ演説ニ談話ニ講究ニ刻苦奮励スルモノアレトモ漸次二会三会ト経過スルニ従テ其景況ヲ異ニスル(中略)ガ如キハ余ノ尤モ遺憾トスル所ナリ」と述べている。(20)  なお、『東京府教育談会報告書』は、同年(明治15)年の芝麻布共立幼稚園開園式における芳川東京府知事の祝辞を載せているが、それは「諸君、普通教育ハ人生ニ欠ク可ラサル固ヨリ論ヲ俟タスト雖モ幼児保育ノ基礎宜シキヲ得ルニアラズンバ其成効ヲ期シ難カラン」からはじまっている。(21)「幼児保育」の問題が「普通教育」との関連において認識されていた。 (2)大日本教育会と普通教育  1883(明治16)年9月9日、東京教育学会が改組されて大日本教育会が発足した。第1回開会の祝辞で辻新次普通学務局長は大日本教育会の目的が「我カ政府ノ学政ヲ翼賛シテ全国教育ノ普及改良及ヒ上進ヲ図ル」ためであるとし、ドイツ・アメリカの例をあげながら「政府ヨリ普通教育ニ干渉スルノ周到ナル国ニ於テ教育ノ普及改良及ヒ上進スルノ速ナルモ亦教育会ノ助力多キニ居レリ」と述べている。(22) また伊沢修二音楽取調掛長が「今日我輩カ所謂教育トハ何ソヤ」と題して講演し、そのなかで「余カ今日此席ニ於テ演述スル所ノ教育ナル語ノ区域ハ中学校以下ニ施ス所ノ普通教育ニ限ルモノニシテ彼大学及各種学校専門学校等ノ教育ニハ論究セサルモノナリト知ルヘシ」と述べている。(23)   このように大日本教育会は明確に「普通教育」事業について文部省に協賛する組織として発足した。その後、1888(明治21)年には規則を全面改定しているが、その第8条では「本会ノ主要ナル事業ヲ分テ初等教育、中等教育、女子教育、通俗教育、学術、文芸、学務ノ七部門トス」とし、その「学術部門」は「学術工芸ヲ普通教育ニ適用スル事ヲ査ス」、また「文芸部門」は「文学美術等ヲ普通教育ニ適用スル事ヲ査ス」とするなど、学術・文芸一般をそれ自体としてではなく普通教育の観点からそれらをとりあげることを目的としている。(24)  第6節  教育学文献と「普通教育」  1882(明治15)年に伊沢修二が『教育学』(25)を、1883(明治16)年に若林虎三郎・白井毅が『改正教授術』(26)を、また同年浅野桂次郎が『教育学』 (27) をそれぞれ出版している。文部省が国家主義的な普通教育政策をいっそう強めようとしている時に、基本的には人間的諸能力の育成という見地から「教育学」もしくは事実上「普通教育」論を展開している点でこれらの学術的文献は普通教育論史上、重要な意義を有すると言えよう。 (1)伊沢修二は前節でも触れたように「教育」という言葉を中学校までの「普通教育」の意味において理解したいという見解を表明しているが、『教育学』の基調にもそのような認識があったと思われる。(28)   『教育学』は「教育ノ理」を「心理及教育ノ学」に基づいて説いたものであると述べている。目次を通覧すると第1編・総論、第2編・智育、第3編・徳育、第4編・体育、から構成されている。総論では、「教育」とは「完全ナル人物ヲ養成スルノ術」と言い、あるいは「人ノ心力ト体力トヲ育成シ其諸力ヲ正道ニ応用スルノ才能ヲ得セシムル」ことであると述べている。第2編・智育では、直覚力、表現力、再現力、省察力、が論じられ、第1章「直覚力」では「必須普有ノ観念」として、「存在ノ観念」、「空間ノ観念」、「時間ノ観念」、「人体同一ノ観念」が論じられている。また、第2章「表現力」の第2節「5官教養ノ法及其要ヲ論ス」では「視官」「聴官」「触官」「嗅味官」が検討されている。このように人間的諸能力の育成を通じて「完全ナル人物ヲ養成スルノ術」を「教育」とする見解はアメリカ・マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校でのノートを下敷にしたものとはいえ、わが国の普通教育論史上において貴重な文献であると言えよう。  なお、伊沢の「完全ナル人物」にせよ、後に述べる森有礼の「正確ノ人物」にせよ、その場合の「完全」「正確」という言葉の意味が当人においてはすでに所与のものと理解されており、かつその内容にはその社会のある種の支配的な観念が自覚の程度はともかく投影されているように思われるが、そのことを解明することは本論の課題ではない。 (2)東京師範学校の教員、若林虎三郎・白井毅による『改正教授術』の自序において若林虎三郎は「諸君、若シ能ク生徒ノ性質、動作、心性発達ノ順序、及其諸力ノ作用ト関係トヲ観察シテ其理ヲ講究シ、之ニ加フルニ慈愛ト熱心トヲ以テ而シテ教授ノ事業ニ任ゼバ」必ず教授術を得るであろうと、師範学校生徒に呼びかけている。欧米の著作に学びながらも「端緒 第1・教授ノ主義」において「自然ノ順序ニ従ヒテ諸心力ヲ開発スベシ」「五官ヨリ始メヨ」「授業ノ目的ハ教師ノ教ヘ能フ所ノ者ニ非ズ。生徒ノ学ビ能フ所ノ者ナリ」など事実上普通教育論の教育方法上の原理を説いたものとして先駆的である。(29) (3)浅野桂次郎は『教育学』の中で「教育学」を「幼童教育一種一団ノ理法」に限定し、教育の目的とは「心、体ノ発達ヲ扶助シ社会ノ幸福ヲ享受セシメントスル」ことであると述べている。またそのような「教育」を「一般普通ノ教育」、「尋常普通ノ教育」と同義であるとしている。目次を掲げておこう。第1章・緒論、第2章・教育ノ目的、第3章・教育ノ種類、第4章・教育ノ方法、第5章・受教者ノ能力及教育者ノ資格、第6章・教育者ノ知ルヘキ要件、第7章・政府ガ教育ニ干渉スルノ可否、第8章・結論。 注 (1)福井淳「嚶鳴社員官吏と『教育令改正』ー島田三郎を中心にしてー」、『歴史 学 研 究 』 、 第 5 3 5 号 、 1 9 8 4 年 、 掛 本 勲 夫 「 教 育 令 改 正 過 程 に 関 す る 一 考 察」、皇学館 大学紀要第24号、1986年 (2)この「道徳・智識」について言えば、島田が文部省に着任する直前(1月29  日 ) に 改 定 さ れ た 「 文 部 省 職 制 及 事 務 章 程 」 に お い て 文 部 卿 の 職 務 と し て 新 た に 「道徳 智識ノ上進ヲ賛導ス」が加えられたことを指摘しておきたい。国立公文書 館、公文録文 部省之部明治13年自1月至4月、所収。 (3)なお、「全国ニ普及セシメル」ということに「普通教育」の「普通」たる所以 を求める議論も次第に顕在化していく。例えば、江木千之は1891(明治24) 年、「帝国小学教育ノ本旨」において「ソーシテ此ノ国民教育ト云フモノヲ全国ニ 普及サセマスルニハ、主トシテ普通教育ニ依ラナクテハナラヌコトデアリマス」と 述べている。『大日本教育会雑誌』、第105号、1891年。 (4)明治法制経済史研究所編『元老院会議筆記』、前期第9巻、元老院会議筆記、 776ページ。 (5)国民教育奨励会編『教育五十年史』、民友社、1922年、32ページ。 (6)福井淳「嚶鳴社官吏と『改正教育令』」、前掲、52ページ。 (7)なお、島田は1907(明治40)年の教育集会で「国民教育の意義」なる演 説を行っている。その中で島田は天皇制の枠を自覚しつつ、「専政的政治家」「急 激な改革政治家」ともに真の教育を無視したがゆえに智徳共に衰えたことが今日の 政治の腐敗の原因である、したがって今は立憲的国民の教育が必要である、すなわ ち「普く国民を教育して純然たる独立自治の精神を養ふ」ことが急務であり、教育 家 は 教 育 は 政 治 と 無 縁 で あ る と い う 旧 来 の 観 念 を 克 服 し て 「 立 憲 的 国 民 を 養 成 す る と い う 抱 負 を 持 つ べ きで ある」ことを「普通教育」ではなく「国民教育」の課題 とし て 強 調 し て い る 。 全 国 教 育 者 大 集 会 編 『 帝 国 六 大 教 育 家 』 、 博 文 館 、 1 9 0  7年、 所収、221ページ。「独立自治の精神」の養成を教育に期待するという島 田の信念自体は「茨城演説」を含め一貫しているといえよう。 (8)「茨城日日新聞」、1881年5月31日付。 (9)福井淳「嚶鳴社員官吏と『教育令改正』ー島田三郎を中心にしてー」、前掲。 (10)掛本勲夫「教育令改正過程に関する一考察」、前掲。 (11)庵地保『民間教育論』、庵地氏蔵版、1880年。 (12)赤松常次郎「読東京曙新聞教育上ノ巷説(一)〜(四)」、『教育新誌』第 85、88、91、93号、1880〜81年所収。 (13)杉享二「教育談」、『東京学士会院雑誌』第2編第3冊、1880年。 (14)庵地保「第三期ノ教育会」、『大日本教育会誌』、1883年、参照。 (15)内閣文庫所蔵、文部省布達全書、明治13、14年、雄松堂マイクロフィル ム。 ( 1 6 ) 『 文 部 省 示 諭 』 、 国 立 教 育 研 究 所 ・ 教 育 史 資 料 1 『 学 事 諮 問 会 と 文 部 省 示 諭』、1979年、所収。 265ページ。 (17)『東京府教育談会報告書』第1冊、1884年8月5日刊、31ページ。 (18)同上、第3冊、1885年3月20日刊、8ページ。 (19)同上、第5冊、1885年9月25日刊、6〜7ページ。 (20)同上、第7冊、1886年3月27日刊、8〜9ページ。 (21)同上、第4冊、1885年5月23日刊、65ページ。 (22)『大日本教育会雑誌』第1号、1883年、15ページ。 (23) 同 上、第1号、25ページ。 (24) 同 上、号外、総集会記事第1、1ページ。 (25)伊沢修二『教育学』、上巻1882年10月刊、下巻1883年4月刊、白 梅書屋蔵版。 (26)若林虎三郎・白井毅『改正教授術』、1883年4月刊、普及舎。 (27)浅野桂次郎『教育学』、1883年10月刊、競英堂。 (28)なお、伊沢は1884(明治17)年2月の「教育ノ説」と題する演説で、 教育についての区域について言及し、一般的には教育とは「智育、徳育、体育ノ三 者ニ分チ以テ完全ナル人物ヲ養成スルノ術」すなわち「人材ヲ陶冶鋳造スルノ法ヲ 施スモノ」とし、さらに「人物ヲ唯精神ノミヨリ成立シタルモノト仮定」して「区 域」をさらに限定し、「体育ノ事ハ他日ニ譲」るとしている。(『大日本教育会雑 誌』、第10号)。