第9章    『文部省示諭』における「普通教育」論

 1882(明治15)年11月21日から12月15日までの25日間にわたって「学事諮問会」が開催され、その中でいわゆる『文部省示諭』 が提示された。

  「普通教育ノ衰頽ヲ挽回」することを理由として教育令を改正(1880年12月28日)した政府・文部省は、一方では「修身」の首位教科化に見られるような天皇制勢力によるいわば超法規的介入を許し、他方では河野文部卿や島田三郎ら自由民権派を放逐しながら教育令改正の具体化を推し進めていった。

 文部省は「政変」直後の1881(明治14)年11月、文部省は機構改革を行い、それまでの地方学務局・官立学務局を「普通教育ニ係ル事務ヲ掌理」する普通学務局と「高等教育及特殊教育ニ係ル一切ノ事務ヲ掌理」する専門学務局に改組した。 井上毅のいわゆる「進大臣」や伊藤博文の「変則中学校ヲ設立スヘキノ議」などにも促されながら専門学務局のもとで医学校・薬学校などの専門学校の通則化が進められたが、普通学校とりわけ中学校と専門学校との関連づけ、あるいは普通教育と専門教育および高等教育との関連づけも新たな問題として顕在化してきた。

 「学事諮問会」はそのような状況のもとで辻新次普通学務局長と浜尾新専門学務局長との連名で召集されたものである。「学事諮問会」はあらかじめ40項目にわたる諮問事項を示されていた全国の府県学務課長、府県立学校長等がそれらについて「答議」し、それが終わった段階で文部省の側からの方針を示すというものであったが、その際に方針として示されたのが『文部省示諭』(以下『示諭』と略す)である。

 『示諭』は「学校等設置廃止」、「教則」、「教科用図書及器械」、「学校長教員及学校設立者」、「生徒」、「就学督責」、「専門教育」等13大項目46小項目にわたっている。これを2年前に河野文部卿が提示した「新定教育令ヲ更ニ改正スヘキ以前ニ於テ現在施行スヘキ件」 に掲げられた42項目と比較するならば、「学事諮問会」が専門学務局長連名の召集であるにもかかわらず大学等高等教育については言及していないことが特徴である。諮問事項が「地方ノ学事」に限定されていたこと、辻新次普通学務局長が「会幹」を務めたこと、「専門教育」の項目の内容も高等教育としての専門教育ではなく『示諭』に言うところの「中等教育」としてのそれであったことなどから、「学事諮問会」ならびに『示諭』は事実上「普通教育ニ係ル事務ヲ掌理スル」普通学務局が主催したものといえよう。とはいえ、政策上重要課題であった職工学校等の「専門教育」の学校制度上の位置付けは当時の文部省にとって大問題であり、したがって『示諭』でもほぼ25%が「専門教育」にあてられており、その中で「専門ノ学校ト普通ノ学校トノ関係」が述べられている。

 筆者は、『示諭』が第1に、「抑々普通教育ハ小中学ヲ通シテ率ネ十二年トス」[222] と述べているように「普通教育12年」論とも言うべき普通教育論を基調としていること、第2に、「専門ノ学校ト普通ノ学校トノ関係ヲ察シテ彼此相連絡スルノ道ヲ疏通シ以テ斯教育ノ実効ヲ表スルハ実ニ当今ノ緊務」[225] であると述べて、「普通教育」と「専門教育」との「関係連絡」を模索していること等に注目し、それがわが国における普通教育論史上においても重要な史料であると考える。

 本章においては、『示諭』を分析対象とし、『示諭』における「普通教育」の目的・性格、「普通学校」制度の基本構造、「中等教育」概念の性格、専門教育と普通教育との関係、師範学校等その他の「普通教育」機関等について解明しようとするものである。

 なお、『示諭』については国立教育研究所・教育史資料1『学事諮問会と文部省示諭』、1979年所収、のものを用いた。本論中[ ]で示した数字はそこでの『示諭』に付されているページ数である。必要に応じて国立公文書館所蔵『文部卿代九鬼文部少輔口述扣』も参照した。

 福岡文部卿は「学事諮問会」の開催の意味について、教育令改正によって教育が「漸ク緒ニ就クカ如シ」としながら「邦家ノ安寧福祉」、「邦家ノ擾乱禍害」は教育のあり方に関わっている、したがって改正した教育令に示した「教育ノ目的」に沿って「地方ノ状況ト規則方法ノ適否」を検討し「将来ニ計画セントスル」ためであると述べた。(1)

 

 第1節 「普通教育」の目的・性格

(1)広義の「教育」と「普通教育」

 『示諭』は冒頭「教育ノ目的」に言及し「教育ノ利害得失ハ国家ノ隆替安危ニ関スルコト実ニ重大ナリ」[2]として、教育の目的において文部省と府県が「恰モ同一体ノ如ク一挙一動モ其旨趣ヲ異ニスヘカラス」[2]と強調している。

 また、本文において教育は「一国ヲ綱紀スヘキモノ」[1] であり、「公」においては「尊王愛国ノ道、開物成務ノ業」を、「私」にあっては「立身治家」の基礎となるとしている。1年前の10月の「政変」と国会開設という公約に対処する政府・文部省の政治的立場を明確にしたものといえよう。「教育ノ事業」は「固ヨリ永遠ヲ期ス」[5]、あるいは「恒久ニ保持スヘキモノ」[43]である、という言い方も教育の論理からというよりはむしろ「尊王愛国ノ道」の論理から規定されているといえよう。『示諭』はこのような立場から「教育ヲ選択セサルヘカラス」と述べ、いわば国家教育権論の立場を明確にしている。

  一方、「普通教育」は「世ノ子弟タルモノノ貴賎貧富賢愚ヲ問ハス将来所就ノ業務如何ニ拘ハラス概シテ受クヘキ」[156]  ものであり、その「目的」は「主トシテ此子弟ヲシテ良民タルニ任フヘカラシムルニアリト雖モ亦自ラ将来専門教育ヲ受クルノ階梯ヲナスモノニ係レリ」[156・157] とされている。身分的・階級的格差のほかに能力的視点を加味しうえで、第1に「良民」あるいは「純良ノ国民」の育成、第2に「将来専門教育ヲ受クルノ階梯ヲナスモノ」を「普通教育」に求めたのである。第2の「目的」は教育令改正自体の主眼であると同時に、井上毅の「進大臣」に象徴されるこの時期の重要な政策課題であり、かつ普通教育政策上新しい段階を画する論点でもあった。 

 問題は第1の目的と第2の目的をどのように関連させながら普通教育制度を構想するかであった。『示諭』のスケッチは、第1に、小学校・中学校合わせて12年間の「普通教育」の学校体系を基軸にして「国家ノ良民」[13、51、54、56]、「純良ナル国民」[107]の育成計画を確立する、第2に、基軸となる学校の周辺に現実的な諸条件に則して普通教育学校を種別化あるいはコース化する、第3に、普通学校に平行して専門教育(実業教育)を拡充し、両者の「疏通」をはかる、というものである。〈国民の育成〉という言い方が押し出されてきていることにも留意しておきたい。

 「教育」および「普通教育」の目的についての自覚は当然のことながらそれぞれの学校における目的を規定した。「学校ニ関スル諸事項ハ皆教育ノ目的ヲ達スルノ具ニ非サルモノハナシ」として「学校」に対する全般的統制を主張している。

 このことについての『示諭』の眼目は、補助金削減に見るような「学校」に対する国家財政の軽減=教育費の地方財政への負担強化にもかかわらず、いかにして「学校」を「教育ノ目的」達成の論理に従属させるかにあった。これが「普通教育ノ衰頽ノ挽回」の意図であった。「府県」「町村」「私立」など「経費ノ出ツル所各々異ナリト雖モ均シク教育ヲナスノ地ニ非サルハナシ則チ之カ施設ノ慎重セサルヘカラサルニ於テ又何ノ区別スル所アランヤ」[1] はその象徴的な表現といえよう。金は出さないが口は出す、という立場を明確にしたのである。

(2)「普通教育12年」論

  『示諭』は「普通教育ノ年限ハ小中学ヲ通シテ率ネ十二年トス」[222]と述べている。「普通教育」を「12年」と明示した政府文書は『示諭』が最初である。第7章で述べたように「中学校教則大綱」は小学校中等科を経て高等科中学校を卒業する修業年限12年制の学校系統を創設した。『示諭』はこの系統を普通教育学校体系の基軸であることあらためて確認したのであろう。このことを文部省自ら表明したものとしては普通教育論史上注目すべき言及である。

 そもそも文部省の教育政策の根底には18歳頃までの12年間の教育、すなわち普通教育を社会の共同事務とする教育観があった。しかしながら、学制以降、文部省は政治的・経済的ないしは社会的目的や必要性の論理を教育の論理に優先させ、「民力」「民心」「民情」や「土地ノ情況ニ随ヒテ」「已ムヲ得サル場合ニ於テハ」などさまざまな地域経済的・階級的特例を設けて、12年の普通教育をごく一部の子弟に限定し、それ以外の子弟には多様な学校系統をおしつけるという普通教育制度を構築していくのである。

 当時、普通教育の範囲について文部省は小学校・中学校を含むという認識を有してはいた。とはいえ、現実には中学校は大学の基礎教育機関であって、普通教育と言えば一般的には小学校教育を指す言葉として理解されていた。中学校の必要性が自覚されるとともに中学校教育を専門教育(専門学科)の基礎として位置付けるか、小学校教育(=普通教育)の延長と捉えるかが政策主体にとって重要な課題となってきた。1881年の「中学校教則大綱」は中学校の教育目的を「高等ナル普通学科」としながらも、その中に①「中人以上ノ業務ニ就クカ為」と②「高等ノ学校ニ入ルカ為」という二重の目的を含ませることによって中学校の普通教育学校化を図った。第1の目的に対応して普通文科・普通理科、あるいは農業・工業・商業の各専修科などが配置されることになった。とはいえ、文部省は「国家ノ品位」を保つため依然として中学校の本体を大学・専門学校の基礎教育としての「高等ナル普通学科」を行う教育機関として確保しなければならなかった。

  他方、「政変」以後とくに1882(明治15)年の伊藤博文による「変則中学校ヲ設立スヘキノ議」に見られるように思想・言論統制という必要から中学校対策が政府・文部省の重要課題となった。その中で中学校をも「良民」・「国民」育成機関としての普通教育機関として位置付ける必要性が出てきた。「普通教育12年」論はこのような背景の中で意識されていったのではないだろうか。

 「普通教育12年」論はまた、すでに文部省の機構改革で専門・普通学務局の基本的掌理事項が「高等教育」と「普通教育」に二分されていたこと、『示諭』においても「中等教育」という新たなジャンルの創出が自覚され普通教育との関連性を明確にする必要性があったこと、専門教育や実業教育と普通教育との関係についての方針提示が『示諭』においてもっとも重要なテーマのひとつとされたこと、などのなかで意識されたものであろう。

 このことに関連して、山内太郎氏は「このような考え方(便宜上「普通教育12年」論としておく:筆者)が提示されたことはいったい何を意味するのであろうか」と自問している。(2)

  山内氏によれば、当時の「普通教育」の通念は「学齢8ヵ年」であり、中学校は「選良のための高等の学校」と言う性格を強めていた時期であったから、そのような政策方向と普通教育12年論とは矛盾する、それは文部省内部に普通教育についての見解が「統一されていなかった」からである、また「普通教育12年」論のような考え方が「この時期中学校の高水準化を一途に推進しようとする文部省主流の独走をやはり相当に制肘したであろう」(3)と述べている。果たしてそうだろうか。

 第1に、当時の「普通教育」の通念は現実的には小学校教育に対応するものであったとしても、教育行政上の「普通教育」概念は中学校教育を含んでいた。

 第2に、中学校は「選良のための高等の学校」と言う性格を強めていただけではなく、全体としては「良民」育成のための普通教育機関としたこと、高等科・初等科に二分したこと、普通文科・普通理科という「普通教育」コース、専修科などの「実業教育」コースなどを配置したこと、などむしろ「中等教育」機関としての性格を強めていたことが特徴的である。 

 第3に、にもかかわらず、12年制の進学コースである中学校高等科を確実に確保するというのは政策主体にとっては引き続き至上命題であった。

 したがって「普通教育12年」論と「選良のための高等の学校」化というのは文部省内部の「矛盾」というよりは、新たな政策方向とも言うべきものであった。

 当時、文部省は「普通教育」概念を山内氏が言うように「すべてのものではないにしても、概してこれを経歴すべきである」と言う意味を主要な側面として認識していたわけではない。事実「就学督責」は3年コースの小学校初等科にターゲットが絞られていたのである。むしろ「普通教育12年」論は「普通教育」が「国民ノ品位ヲ上下スルノ力」(4)を有するもの、あるいは「良民」的教養であるという認識を前提に、中学校を含めた12年間を統制の対象とする見地から発想されたものといえよう。

(3)「完全ナル普通教育」

    1881年(明治14) 年1月29日、文部省は第1号通達「小学校設置ノ区域並校数指示方心得」を出したが、『示諭』はこれを「普通教育施設ノ第一着」であるとし、また第9号通達および1882年の第8号通達によって、すなわち①「学区」、②「学校ノ広狭」、③「学校ノ多寡」、④「資金ノ給否」、⑤教則、⑥教員、⑦器械、等の諸準備をもって、「完全ナル普通教育」が実現し得るとしている。とくに「小学校」については、その「目的」が「全国一般ノ児童ヲ養成シテ以テ国家ノ良民」とすることであることを根拠に中学校等の「他ノ学校」よりも「諸般ノ準備」「諸般ノ規模」について「一層厳密」であることを求めている。

 この場合の「完全」はこれら「諸般ノ準備」を国家基準としたうえでそれらの充足を求めるものであるが、従来小学校・中学校の「教科」構成上、「正格」を基準として国家基準化を図ってきた普通教育政策をさらに全面的に拡大したものといえよう。 なお、『示諭』は「人口平均」「貧富平均」というように「平均」概念を用いて「諸般ノ準備」の「標準」化を求めていることに留意したい。(5)

 次に「完全ノ小学校」等という表現について言及しておきたい。

 小学校が3段階、中学校が2段階に区分されたことにともない、地域においてはそれらの配置関係が指示された。その結果、それぞれに「完全ナル小学校」「完全ナル中学校」という呼称が生じた。小学校高等科までを備える小学校は「完全ナル小学校」とされ、土地ノ状況等が「斟酌」されて、その他の小学校は中等科まで、あるいは初等科までの不完全な小学校とされ、町村における小学校配置のピラミッド型が形成された。

 中学校においても、府県単位で「高等科」までを具備する「完全ナル中学校」1校がピラミッドの頂点をなし、初等科のみの中学校は不完全な中学校とされた。

  「完全・不完全」体制は同時に「連絡」概念をもたらした。中等科しか持たない小学校を修了した児童で高等科へ進もうとするもののために「連絡」通路が考案された。児童はそのためには遠い高等科のある学校まで通学することを余儀なくされた。 なお、留意しておきたいことは「普通教育12年」論と「完全」概念との関係についてである。『示諭』は一方では「普通教育」を「高等ノ学校ニ入ルモノ」あるいは「中人以上ノ業務ニ就クモノ」の養成のために「12年」を要するとしつつ、他方では中学校・小学校それぞれに「階級」「等差」を設け、その規模ならびに地域的配置等の国家的標準化を推進し、その観点から「完全」性を求めた。従来文部省が用いていた「正格」概念は「階級」「等差」を予定しない概念であり、「普通教育」自体の国家モデルを「正格」として示しそれをクリアしない学校の淘汰を促進しようとするものであった。しかし、そのことによって「普通教育」とくに「小学校」の教育目的である「国家ノ良民」形成を「全国一般ノ児童」において実現できないことが政府あるいは天皇勢力にとって危機と判断されたのである。「普通教育ノ衰頽ノ挽回」と「階級」「等差」化は一体のものであり、また「完全」概念は学校制度にたいする統制上の見地から導かれた概念であった。

 

 第2節 「普通学校」制度の基本構造

 『示諭』は「普通教育12年」論にたって、小学校・中学校の学校制度を構想した。本節では小学校・中学校に関わる制度を「普通学校」制度としてとらえたうえで、『示諭』がこの制度をどのような構造のもとに位置づけようとしていたのかを検討する。

 「普通学校」制度は基本的には、①A(12年)コース、②B(10年)コース、③C(8年)コース、④D(6年)コース、⑤E(3年)コース、の5コースに種別化された(図参照)。それぞれについて検討してみる。なお、ここでたとえば「12年コース」というのは中学校高等科を卒業するまでに12年の修学を必要とするという意味である。コース名は筆者が便宜的に付けた。

○Aコース:12年コース

 卒業後、「高等ノ学校」すなわち大学校・高等専門学校へ進学するか、「中人以上ノ業務」すなわち高級官僚に就くか、まさに<末は博士か大臣か>が期待されているコースである。「中学校教則大綱」によって中学校の教育目的が拡大(二重化)したが、それに伴ってAコースもA1とA2~A6に大きく二分される。

 中学校教則大綱は「高等科」(A1)のほかに「土地ノ情況ニ因リ」という口実のもとに、いづれも修業年限2年の、「普通文科」(A2)、「普通理科」(A3)(修業年限2年)を設置すること、あるいは農業専修科(A4)、工業専修科(A5)、商業専修科(A6)科などの「専修科」(修業年限2年)を置くことができるとした。これらの実態は明確ではないがこの時期における中学校の性格と課題を知るうえできわめて重要な政策転換である。

 「普通文科・普通理科」とは『示諭』によれば、「普通教育ノ範囲内ニ於テ授クヘキモノ」[67]  とされ、「(普通教育よりも)稍高尚ナル学科」あるいは「高等ナル普通学科」とは異質な性格を有するものとされた。この場合、「普通教育ノ範囲内」とは高等教育進学のための基礎課程としての「普通学科」ではなく、すべての子どもが就学すべき初等教育(小学校の教育に限定されない)という意味である。

  また、「専修科」は「実業教育」であるから、これも「高等ナル普通学科」とは異質なものであった。

 結局、「中学教則大綱」は中学校初等科のうえに「普通学科」「普通教育」「実業教育」の3領域をそれぞれ並列的に配置したことになる。これらの領域はその後高等中学校、高等学校、実業学校へと分離独立していくのである。

 別な言い方をすれば、中学校高等科自体は「普通教育」でもない「実業教育」でもない従来通りの「高等ナル普通学科」としての性格を保持したのであり、そこでは中学校の性格変更は問題にならなかった。「普通教育12年」論はこのような高等科中学校進学を前提とした表現であった。

【A1コース】(小学校中等科・中学校初等科を経て中学校高等科まで)

    純然たる「高等ナル普通学科」を教育目的とするコースである。

 教科は修身、和漢文、英語、物理、化学、記簿、図画、唱歌、体操、三角法、金石、本邦法令とされた。

   1882(明治15)年について言えば、中学校高等科は府県立33(含官立1)校、町村立14校設置され、うち卒業生を出しているのは新潟、群馬、三重、岐阜、高知の5県、卒業生は府県立(含官立)40名、町村立5名となっている。(6)

【A2コース】(中学校初等科を経て普通文科へ)

    「高等科」との教科上の違いは、イ.三角法、金石、物理、化学、図画等の某科を除く、あるいはそれらの程度を下げる、ロ.修身、和漢文、英語、本邦法令等の某科の程度を高める、とされた。

 鳥取県は1882(明治15)年9月、公立鳥取中学校規則を伺出、9月16日に認可されている。それによれば、高等科のほかに2年制の普通文科を設置したが、その学科は「高等中学科ノ本邦法令唱歌体操ニ修身和漢文英語ノ程度ヲ増シ又更ニ歴史ヲ授ケ三角法金石物理化学図画ノ各科ヲ除クモノトス」とされた。(7)

【A3コース】(中学校初等科を経て普通理科へ)

 「高等科」との教科上の違いは「普通文科」とは反対に、イ.和漢文、英語、本邦法令等の某科を除く、あるいはそれらの程度を下げる、ロ.金石、物理、化学、図画等の某科の程度を高める、ハ.代数、幾何、測量、地質、重学、天文学等の某科を加える、とされた。

【A4コース】(中学校初等科を経て農業専修科へ)

 宮城県は1882(明治15)年5月、宮城中学校学則を伺出、6月5日に文部省の許可を受けているが、それによれば高等科の他に2年制の農業科を設置している。その「教授要旨」には「農業科ハ修身課ノ外全ク教科ノ體ヲ異ニスルヲ以テ其要旨ハ別ニ之ヲ掲記ス」とし、その学科目を「修身、農業、物理、化学、動物生理、三角法、測地法、地質、物産、図画、体操」としている。(8)    

【A5コース】(中学校初等科を経て工業専修科へ)

【A6コース】(中学校初等科を経て商業専修科へ)

○Bコース:小学校6年(中等科)を経て中学校初等科までの10年コース。

 修了後、(a)就職、(b)高等科進学、(c)普通文科進学、(d)普通理科進学、(e)専修科(農業、工業、商業等)進学、(f)各種(実業)学校進学、(g)師範 学校進学、等の道が開かれている。

 Aコースについて述べたように、中学校教育の目的は「高等ナル普通学科」であったがそれは「普通学科」と「普通教育」との両側面を「併置」するものであった。初等科は制度的には「高等ナル普通学科」としての性格を保持していたが、年齢的には15歳で修了することになっており、教科としてもし高等科に比して三角法、金石、本邦法令を欠いていたことから、事実上「普通教育ノ範囲」の属する学校であった。事実、やがて府県立中学校のいくつかは初等科のみの町村立中学校、もしくは高等小学校へと改組されていくのである。

○Cコース:小学校8年コース(高等科2年まで)。

 卒業後は就職のみ。「普通教育12年」論は高等科を経ず中等科から中学校初等科へ進学する構想であり、それが文部省の普通教育政策の根幹であった。したがって「若シ夫レ中等科卒業ノモノヲシテ悉ク中等教育ノ学校ニ入ラシムルヲ得ハ小学校ノ教育ハ中等科ニ止ムルモ不可ナカルヘシ」[53]という認識であった。しかし、経済的理由などの「諸種ノ情由」によってそれは「到底望ムヘカラサルノ事」であるから「高等科」を設置してそこに吸収するというのである。したがって「高等科」は普通教育の本流からははずれた支流としての性格を負わされた。「高等科」の学科は「中等科」でのそれのほかに「化学生理幾何経済等」とされたが、名称のうえではそれらは中学校初等科上級学年(第3・4学年)に対応するものであった。

 「高等科」の教育目的は「国家ノ良民トナリテ農工商等ノ業ヲ営ムノ資」を獲得させるものとされ、「農工商等ノ学校ニ入ルノ準備」を目的とする「中等科」とは区別された。つまり、高等科は中学校教育的性格を加味した閉鎖的・袋小路的課程であった。

○Dコース:小学校6年コース(中等科まで)

 修了後、(a)就職、(b)高等科進学、(c)中学校初等科進学、(d)第1種農学校・商業学校進学、(e)師範学校進学等、への道が開かれている。

 『示諭』によれば、「中等科」の教育目的は(1)「普通教育ノ稍ヤ完全ナルモノヲ受ケシムル」こと、(2)「中学校師範学校其他農工商等ノ学校ニ入ルノ得セシメ」[52~53]ることであった。

  第1の目的に言う「普通教育ノ稍ヤ完全ナルモノ」とは「普通学科中須要」なもの、具体的には「地理本邦歴史図画博物物理等」とされた。これらは中学校初等科前半2年にほぼ対応する諸学科であるが「児童ノ学ヒ易キモノ」という限定がされている。高等科が後半2年に対応していることと比較して興味深い。

 第2の目的に関して、『示諭』は「中学校師範学校其他農工商等ノ学校」を「中等教育ノ学校」[53] と包括している(「中等教育」という言葉は政府文書としては初めて用いられたのではなかろうかー筆者)。「中等教育ノ学校」といってもそれぞれ基本的に性格を異にする学校である。これらの学校に入学しえる学力・能力を獲得させるということは、教育課程上それを可能にさせる具体的な方策が必要とされたのであろうか、それとも「中等科」を卒業すること自体、どんなに性格を異にする学校であっても入学しえる学力が獲得できるという考え方にたっていたのであろうか。すでに見たように、実際に配置された諸学科から判断するかぎりでは意図は別として事実上は後者であろうと推測される。

 「中等科」卒業がなぜ「中等教育ノ学校ニ連絡」しえるのかについて、『示諭』は卒業自体が「中等教育ノ学校ニ入ルノ準備」が整ったことを意味するし、「且児童ノ年歯稍ヤ長シテ恰モ中等教育ノ学校ニ入ルニ適スル」[53] と述べている。

 ところで、「中等科」はいずれにしても「中等教育ノ学校ニ入ルノ準備」のための教育機関という性格を有していたことは、「普通教育」という概念自体を、また小学校教育あるいは初等教育を子ども自身の成長・発達過程に則して組織するのではなく、社会的必要性や上級の学校の性格から規定するというとくに近代日本教育の特質がここにも現れていると見ることができよう。

○Eコース:小学校3年コース(初等科のみ)。卒業後は「中等科」への進学する以外は就職する。

 教育令改正直後の通達「就学督責規則起草心得ノ事」(1881年1月29日)はこのコース(初等科)のコースの「就学」化をめざしたものであった。当時60%が初等科に就学していたから残りの40%の「就学」化が政策課題であった。

 『示諭』はこのコースの学科としてこれまでの「6科正格」主義を変更し「修身読書習字算術体操等」[52]を挙げ、基本的には「四科ノ訓練周到」[56]を求めている。それは「人生缺クヘカラサルノ学科ノミ」あるいは「一般児童必修ノモノ」とされた。元老院での教育令改正論議で論点となった「地理歴史」が「人生缺クヘカラサルノ学科」という観点か少なくとも初等科から除外されたことは普通教育史上注意されるべきであろう。

 『示諭』はこれら「4科」が「国家ノ良民タルニ須臾モ缺クヘカラサル」ものであるとして中等科・高等科においても「主要ノ部分」[56]を占めるべきであることを強調している。

 『示諭』は、これら「4科」を履修すること自体「容易ノ業」ではなく、また「西洋諸国ノ教科ヨリモ重キノ実」があることを理由に、「初等科」ではこれ以外の学科を加えることを禁じている。

 一方、上記学科以外の学科を履修した場合は「初等科」を卒業しても「不就学」扱いとなるがその場合「職業上等ニ必需ナル学習ヲナスモノ」に限るとし、「謂ハレナキ学科」は除外された。また、「未就学」であっても「目下年齢稍ヤ長シテ既ニ適応ノ業務ニ就」いている場合は「寛恕」するとしている。

 また、就学督責を初等科だけに限定することについての疑義に対して、『示諭』は従来の「下等小学校」とは異なり、初等科の「教授」を「日用ニ適切」なものにすること、また「他日之ヲ応用スルノ方ヲ知ラシ」むること、一般の識字力が高まり初等科で学習したものを「応用スル」機会が増大していることなどをあげて、これに応えている[153]。 

 以上に見るように、「普通学科」あるいは「実業教育」的性格を持たないという意味において純然たる「普通教育」機関である「初等科」の学科の性格は、イ.「人生缺クヘカラサルノ学科」を基調としながらも、ロ.「日用ニ適切」であり、かつ「他日之ヲ応用」でき、ハ.「職業等ニ必需ナル学習」、という要素をも含むものであった。

 ところで、「人生缺クヘカラサルノ学科」が「4科」であり、それらは「中等科」以上にあっても「特ニ主要ナ部分ヲ占メ」るものであるならば、当然のことながらそれらの内容はそれぞれの段階にふさわしく編成されるべきものである。『示諭』もこれら「4科」の習得自体、児童にとって相当「負荷」であると認識していた。だとするならば、「初等科」のみの履修を余儀なくされる児童にとってはかりに「4科」に限定されたとしてもきわめて不十分なレベルの学習しかできないことになる。

 ところですでに述べたように、『示諭』は小学校の教育は「学理」よりも「実用」というのであるが、この場合の「学理」とは何か、また、「実用」あるいは「日用」とは何かは説明されていない。

 『示諭』は、小学校の教員に「(児童ノ)心意諸力ノ作用及発達ノ順序之ヲ衝動スヘキ方法等」[83] について習熟することを求めているが、「4科」の内容を「教育学」「授業法」等を踏まえて「児童ニ伝フル」ためには「学理」上はもちろんのこと、「日用」・「実用」を重視することによって可能になるわけではない。「4科」の内容を「心意諸力ノ作用及発達ノ順序」に則して再構成しなければならない。『示諭』の直後の1883年4月に刊行された『改正教授術巻一』は当時におけるこのような再構成の到達水準を示すものであるが、『示諭』がただ「日用」「実用」を強調しているのは小学校初等科に対する政策主体の立場を反映したものと推測される。

 『示諭』はさらに「小学ノ教育ハ固ヨリ初等科ノミヲ以テ満足スヘキニアラサレハ」、あるいは「之ヲ以テ完全具備ノモノトナスニ非サレハ」ということを理由に「中等科」「高等科」に「普通学科」「実業学科」等を付加していくことになる。

 第3節 「中等教育」概念の創出

 『示諭』は「中等教育ノ学校」[53]という新たな分類概念を設定し、中学校、師範学校および「農工商等ノ学校」を包括している。

 すでに述べたように文部省は1881( 明治14) 年の機構改革によってその掌理事項を「高等教育(専門教育)」と「普通教育」とに大別したが、前者には大学校・専門学校のほか農学校・商業学校・工学校、「高等ノ師範学校」「各種学校」等を、後者には幼稚園・小学校・中学校の他に「普通ノ師範学校」「普通ノ各種学校」等を位置づけた。

 ところで、(1)「農学校・商業学校・工学校」等が後に見るように第1種・第2種、あるいは甲種・乙種と二重化されるようになったこと、したがって従来の高等教育機関としての「専門学校」との区別が顕著になってきたこと、(2)中学校高等科が多様化し専修科設置に見るように専門教育的性格を帯びるようになってきたこと、(3)師範学校も初等・中等・高等科を通じて「心理学・教育学・学校管理法」を必修科目としたり、東京師範学校では「農業・工業・商業」が導入されるなど専門教育的性格が強化されたこと、などから、「農学校・商業学校・工学校」、中学校および師範学校を「高等教育」でもない、さりとて「普通教育」でもない、従来とは異質な名称でグルーピングする必要が生じてきたのであろう。

  当時、小学校は「初等教育」と称されてもいた。他方、大学校・専門学校等は「高等教育」であった。この場合、「初等」「高等」という言葉の意味については注意を要する。「高等」は「初等」を基礎としているが「初等」はかならずしも「高等」を予定していない。初等教育の年限がどんなに延長してもその先に「高等」があるわけではなくいつまでいっても「初等教育」であった。つまり、「初等」「高等」とはその意味では段階的な概念ではなく階級的な概念であり、一方は「中人未満ノ社会」に対応する教育であり、他方は「高等社会」に対応する教育であった。したがって「中等」とは「中等社会」に対応する教育ということであって、現に「中学校教則大綱」は「中人以上ノ業務ニ就クカ為」の教育機関として中学校を位置づけたのである。修学年齢上から言えば13歳から21、2歳までが含まれた。

 とはいえ、『示諭』は「中等教育」あるいは「中等教育ノ学校」という用語にそれ以上の言及はしていない。文部省の認識としては高等教育と普通教育があるだけで、それ以外に原理的に存在可能な「中等教育」という枠組は存在しえなかったのではないだろうか。

 教育史研究において「中等教育」というジャンルが通用しているように思われるが、その定義は必ずしも明確ではない。谷口啄男氏は「中等教育」について「旧制の中学校、高等女学校、実業学校を主体として、それに旧制の高等学校および中等諸学校に類する各種学校をもその範囲として含む」(9)としているが定義づけはなされていない。(10)

 

第4節 「専門教育ト普通教育トノ関係」

(1)「専門教育」の必要性とその概要

 『示諭』中、「専門教育」の項目は14項目の一つに過ぎないが、ページ数で言えばほぼ全体の26%が充てられている。7節のうち5節が医学校、薬学校、農学校、商業学校、職工学校についてであり、それらの両端に「専門教育ノ要緊及其設施」と「専門ノ学校ト普通ノ学校ノ関係」が配置され、それぞれにおいて専門教育と普通教育との関係が論じられている。

 『示諭』はまず「万般ノ事業ヲ包括」し得るように「分業ノ法ヲ整治」することが「文明富強ノ根基」であることを論じて、専門教育と普通教育との関係を次のように要約的に記述している、「普通教育旺盛ナラサレハ則チ専門教育モ亦完全ナル能ハス而シテ専門教育振興セサレハ則チ普通教育モ亦齋整ナル能ハサルハ論ヲ待タス故ニ普通専門ノ両教育相竢テ後其効績モ亦言ヲ竢タサルナリ」[155~156]と。

 周知のとおり、教育令改正に際しての文部省原案によれば、第2条の「学校」中に「職工学校」を追加した理由として、「学術」の「生産力」に対する関係が論じられ、「学術」の中でもとりわけ直接的な要因としての「職工学校」の重要性が強調されていた。(11)

 「分業」なり「生産力」なりへの国家的関心が教育令改正を動機づけた重要な要因のひとつであり、そのことがストレートに職工学校等「専門ノ学校」での専門教育重視政策として具体化された。と同時にそのことが「普通教育ノ衰頽ノ挽回」を標榜する教育令改正と結びついて展開されたことが『示諭』での記述に見られるような我が国における専門教育と普通教育との独特な関係を規定することになったのではないだろうか。『示諭』は「専門ノ学校」の「規定」として満たすべき要件(設置の目的、学科目、修業年限、入学生徒資格、教員資格)のうち「入学生徒資格」を論じる中で、普通教育と専門教育の関係について述べている。すなわち、普通教育は専門教育の「階梯基礎」であり、「専門ノ学ヲ修メント欲スルモノハ必ス先ツ之ヲ修ムルニ相当スル所ノ普通教育ナカルヘカラス」[160] と。

 「専門ノ学」と「之ヲ修ムルニ相当スル所ノ普通教育」とはどういうことか。前節で述べたように、普通学校にはいくつかのコースがあり、たとえば農学校での「専門ノ学」を履修するためには小学校中等科もしくは中学校初等科の修了を要件とするということであろう。

  「専門ノ学校」における「専門ノ学」について検討してみよう。

  医学校、薬学校通則および東京職工学校規則がすでに1882年の5月に制定され、農学校、商業学校通則制定が準備されていた。

 医学校は甲種(尋常、具成、4年コース)・乙種(簡易・速成・3年コース)とも18歳以上の中学校初等科卒業もしくはそれに準じるものを入学資格としたが、薬学校については甲種(尋常、具成、3年コース)は18歳以上・中学校初等科修了、乙種(簡易・速成・2年コース)は16歳以上・小学校中等科卒業もしくはそれに準じる者が入学資格とされた。医学校・薬学校とも物理・化学・動物学・植物学などが共通に履修されるべき科目とされた。(12)

 農学校には第1種(実業・2年コース)と第2種(学理と実業・3年コース)が置かれ、第1種は15歳以上・小学校中等科卒業もしくはそれに準じる者、第2種は16歳以上・中学校初等科修了もしくはそれに準じる者が入学資格とされた。また、修身・算術・幾何・物理・化学・動物学・植物学等が共通に履修されるべき科目とされた。なお、農学校は将来甲種・乙種に移行することが予定されていた。(13)

  商業学校も第1種(実業・2年コース)と第2種(学理と実業・3年コース)が設置されたが、第1種は13歳以上・小学校中等科修了もしくはそれに準じる者、第2種は16歳以上・中学校初等科修了もしくはそれに準じる者が入学資格とされた。また、修身・読書・和漢文・習字・算術・代数・簿記等のいわば普通科目が配された。(14)

 1882( 明治15) 年6月に制定された東京職工学校規則によれば、この学校の目的は「将来職工学校ノ師範」や「職工長製造所長」等を養成することであり、修業年限は4年(予科1年・本科3年)であり、入学資格としては学歴は問われず、16歳以上で入学試験が課せられた。予科の教科は数学・物理学・化学・用器画・自在画・修身とされ、本科には化学工芸科、器械工芸科が置かれ、各学年に修身など予科でのいくつかの科目がひきつづき配置された。(15)  以上が『示諭』当時の「専門ノ学校」の概要である。

(2)「専門ノ学校ト普通ノ学校トノ関係」

 『示諭』によれば、「普通教育」もしくは「普通ノ学校」の目的は「貴賎貧富賢愚」および「将来就ク所ノ業務」にかかわりなく、①「良民」の育成、②「専門教育ノ階梯基礎」の教授、である。「普通教育」のこのような二重目的化はすでに「中学校教育大綱」で規定された「中学校」の二重目的化を含む、より包括的なものといえよう。

 ここで留意しておきたいことは、すでに述べてきたように「普通教育12年論」は、原理的には18歳までは「普通教育」の期間であり、理念的・原理的には「概シテ此教育ヲ受ケ」るものとして構想されていたことである。その期間中には「普通教育」とは異質の「専門ノ学校」との共存、あるいは「普通教育」と併存する「専門教育」は存在しえないものであった。にもかかわらず『示諭』においてなぜ普通教育期間に並行して「専門ノ学校」が配置されていったのであろうか。

 その理由の第1は、「普通教育12年」といってもその最初の3年間の義務化が当面の重要課題であった時期に、普通教育とは別に「業務ニ就ク」人材確保のために「専門教育(実業教育)」を拡充せざるをえなかったこと、第2に、求められる「専門教育(実業教育」の内容が普通教育の内容として内在化し得る状況にはなく、普通学校とは別の学校制度=「専門ノ学校」制度として拡充せざるをえなかったこと、などが指摘できよう。とはいえ、これらの理由は基本的には今日においても通用し得るものである。

 『示諭』のみならず、「学制」以降しばしば「土地ノ情況」あるいは「斟酌折衷」「民力」「民心」などという言い方のもとに教育の論理というよりも現実の社会経済的諸条件から、あるいは社会的要請の論理から普通学校制度が改変されたり、普通学校とは異質の学校制度が導入されることがあった。それは我が国における資本主義の発展の度合いと普通教育政策との関係に基本的には規定されていたのである。

 『示諭』は「父兄ノ貧富」によって「業務ニ就クノ時期」に「遅速」が生じる、したがって「普通教育ヲ受クルノ期」に「長短」が生じる、さらにその場合には「将来ニ修ムヘキ業務上ノ教育モ亦軽重ノ別」が生じるという。

  経済的貧困によって「業務ニ就クノ時期」が早まれば「普通教育」の就学期間が短くなり、したがってそれだけ「普通教育」のうちの「専門教育ノ階梯基礎」の部分も短くなる、だからその部分をどこかで「専門教育」として補充する必要があるというのである。この「専門教育」はしたがってその「軽重」に対応した「高低ノ等差」をつけることが必要とされた。この「等差」は就学者があらかじめ修学してきた「普通教育ノ深浅」に関係があるというのである。「学理」と「実業」の比重のかけ方で「専門ノ学校」を甲種・乙種あるいは第1種・第2種に分けたのはその具体化であろう。

 「普通ノ学校」の長短、「専門ノ学校」の「等差」等の導入によって学校制度はそれらの組み合わせによって一挙に複雑化することになり、それぞれとの「連絡相通スルコト示スハ最モ須要ノ事」[224] とされた。そこで一定の基準を設定して制度化を図ることが必要になる。小学校を「3階級」、中学校を「2階級」としたのも、そうすることによって「専門ノ学校」における「学科ノ程度ヲ定ムルノ標準」とすることができると考えたからであろう。

 

第5節 その他の「普通教育」機会あるいは機関

(1)「家庭教育」

 『示諭』は「学齢児童ヲ学校ニ入レス又巡回授業ニ依ラスシテ別ニ普通教育ヲ授クルモノヲ総称シテ家庭教育ト云フ」[29] として「一家団欒ノ間ニ行フ所ノ教育」と区別している。また『示諭』は「家庭教育」は「学校教育ニ対スルノ称」であるとして「学校教育」と「家庭教育」との「利害得失」を論じている。

 ここでも『示諭』は「家庭教育」が「普通教育ノ目的」に反することなく、また「普通教育ノ大旨」に基づくべきものであることを強調している。

 ところで、「普通教育ノ目的」についてはすでに述べてきたが、「学校教育」と「家庭教育」との関係を論じた箇所において記述されている「学校」論とこれまで述べてきた「普通教育ノ目的」とは若干その性格を異にするように思われる。

 すなわち、「学校」は「児童ノ一小世界」であると同時に「前途ノ尚大ナル学校即チ世界ニ立ツノ準備ヲナス処」[29・30] である。ここには「学校」自体が「世界」として認識され、いわば<子どもの世界>と<大人の世界>という区分がなされているのである。

しかも、子どもたちはこの「小世界」の中で「自己ノ脳力十分ニ発達スルノ機会ヲ得」、「自他関係ノ種々ナルヲ悟リ」「相互ニ競争心ヲ惹起シ」「共ニ心身ノ発達ヲ誘進」することが述べられている。「学校教育」についてのこのような認識との関係で「家庭教育」の問題点が指摘され、「普通教育ノ目的」に反しないことが求められている。ここには「尊重愛国ノ道」と結びついた「国家ノ良民」育成の観点は少なくとも文面上は見られない。

 ついでに、普通学務局が「掌理」することになっている「普通教育」に属している「幼稚園」について、『示諭』が論じている限りにおいて触れてみたい。

 「幼稚園」が「普通教育」とどのような関係にあるかについての直接的な記述はないが「学校ト同シカラス」とされている。そのうえで「幼稚園」は「資性ノ自然ニ発達シ得ヘキノ地ニ置キ務メテ妨害ヲ除クヘキ方法ヲ備」え、「遊嬉ヲ以テ自然ニ身体ノ発育ヲ誘導シ又自然ニ一己人ニ係ル性質ト交際ニ繋ル性質トヲ培養スル所」[101]とされる。前述の「学校」観との連続性を見ることができよう。「仁義忠孝ノ心」を「幼少ノ始ニ、其脳髄ニ感覚セシメテ培養」することを求めた『教学聖旨(小学条目二件)』(1879年)やその後の修身首位化、『幼学綱要』(明治14年)等道徳教育強化の動きからしてここに見る「学校」・「幼稚園」観は一定の合理性を保持しているといえよう。

(2)「師範学校」はなぜ「普通教育施設」か

 文部省機構上、「高等ノ師範学校」は専門学務局、「普通ノ師範学校」は普通学務局が「掌理」することとされていた。しかし、「師範学校」を「高等教育」「普通教育」に区分し、普通教育機関としての師範学校を構想することは可能なのだろうか。当時の文部省の師範学校政策を見てもその困難性をうかがうことができる。

 「高等ノ師範学校」は当時にあっては東京師範学校(官立)など中学師範学科を有する師範学校が想定されていたはずである。中学校教員の養成が「高等ノ師範学校」だとするならば、東京師範学校は小学校教員をも養成しており、東京師範学校は高等教育と普通教育の両者を兼有していたといえよう。あるいは、学科目の構成・程度等が基準となって区分されていたのであろうか。

 「学事諮問会」時点、すなわち師範学校教則大綱と1881(明治12)年改正の東京師範学校教育課程を比較するならば、後者の学科目が明らかに「専門学」の見地から編成されているといえよう。東京師範学校の教則は「学事諮問会」直後の1885(明治16)年に改正された。依然として「専門学」からの発想が残っているとはいえ、全体として師範学校教則大綱の方向に接近している。すなわち「高等ノ師範学校」は「普通ノ師範学校」化しているのである。

 他方、「普通ノ師範学校」は「小学校」の学科目に対応するもののほか、記簿、代数、本邦法令、さらに心理、教育学・学校管理法、実地授業から構成されていること、入学資格年令が17才以上であること、などを考慮すれば、「普通教育施設」ではあっても、少なくとも当時の用法に従えば「中等教育ノ学校」に分類されるものであった。なお、東京師範学校が本科下級に配置していた12学科目のそれぞれに対応する「教授術研習」等が「専門学」的性格を有しかつ「師範学校」に組み込まれるならば、「普通ノ師範学校」は「高等教育機関」となり得るだろう。だが、そのためには半世紀という時間を要したのである。

 ところで、『示諭』が論じている「師範学校」は「普通ノ師範学校」である。「師範学校」はなぜ普通教育機関なのだろうか。

 「学事諮問会」当時文部省権大書記官であった久保田譲は「普通教育ノ施設」と題する論説(16)において「普通教育」の「範囲」について言及し、その「正系」として小学校、師範学校、中学校をあげている。しかもその「演題ノ順序」は「小学校ニ始メ師範学校ニ移リ終ニ中学校ニ及テ止ムヲ至当ナリ」としている。この順序は、学科目編成という見地から「高等教育」への接近の度合いを基準にしているのだろうか。当時、中学校高等科は明確に「高等ノ学校」へ連結する準備教育機関であった。「高等ノ学校」からの距離を唯一の尺度とする当時の学校制度観からするならば、専門教育という見地からは中等もしくは高等に近い師範学校であっても、「普通ノ学校」である中学校よりもさらに低度の普通教育機関として位置づけられることになるのである。(17)

 

(1)国立教育研究所・教育史資料1『学事諮問会と文部省示諭』、1979年、4 5ページ。

(2)『日本近代教育百年史』、国立教育研究所編、1974年、第3巻第3編第2 章、1139~1140ページ。

(3)同上書、1140ページ。

(4)「教育令改正案ヲ上奏スルノ議」、国立公文書館公文録文部省之部、明治13 年自9月至12月全、参照。

(5)なお、関連して『示諭』における「一斉」「尋常」という言葉の用法について 触れておきたい。

    「小学校ハ四民ノ児童ヲシテ一斉ニ就学セシムル所ニシテ」[77] という記述に見 られるように、そこでの「一斉」は「平等」(「広辞苑」)という意味において用 いられているように思われる。それは木戸孝允が「四民平等」を唱えたときそれは 天皇の前での平等であったのと同様、何らかの基準を設定してその前での「一斉」 を児童に求めたものである。その基準とはさしあたり「良民」が考えられよう。  「 良 民 」 す な わ ち 、 国 家 に 対 す る 善 良 性 と い う 点 に お い て す べ て の 児 童 の 就 学 が 「督責」されたのである。

      また、「尋常ノ中学校ヲ以テ女子ヲ教育スルノ不可ナルハ勿論・・」[37] 、「経 費モ又尋常学校ノニアラス」[41]等の記述に見られる「尋常」という言葉は「教 育令に規定された」という意味であろう。教育令をもって「尋常」とする規範性を 示したものといえよう。

(6)『文部省第10年報』

(7)『文部省日誌』明治15年38号、『明治前期文部省刊行誌集成』第4巻、歴 史文献、1981年、所 収。なお、『鳥取西高百年史』(1973年)、『鳥取県 教育史(原稿)』(1966年)をも参照した。

(8)『文部省日誌』明治15 年59号、『明治前期文部省刊行誌集成』第5巻、所 収。なお、倉沢剛『教育令の研究』、前出、433ペ ージに『文部省日誌』明治1 5年58号とあるのは59号の誤り。                          

( 9 ) 谷 口 啄 男 『 日 本 中 等 教 育 改 革 史 研 究 序 説 』 、 第 一 法 規 、 1 9 8 8 年 、 6 ペ ー ジ。

(10)筆者は「中等教育」もしくは「中等普通教育」という言葉は歴史的事実に即 してより正確に用いるべきであると考えている。

  なお、「中等普通教育」という言葉自体は1893(明治26)年にも登場して いる(「大日本教育新聞」、大日本教育新聞社、208号、1893年3月29日 付、503号、1894年3月24日付)が、沢柳政太郎が「中産階級」の台頭と むすびつけてそれなりの定義を試みたのは1927(昭和2)年のことである。  (沢柳政太郎『新日本 史 ・ 教 育 篇 』 ) 。 戦 前 に お い て は 「 中 等 普 通 教 育 」 と い う  法 令 用 語 は 成 立 し な か った。段階的概念として、また法律用語として「中等普通教 育」という言葉が用いられるのは戦後の学校教育法が初めてである。

  「 高 等 普 通 教 育 」 と い う 言 葉 は 1 8 8 0(明 治 1 3 )年 発 行 の 『 文 部 省 第 8 年 報  』 に お い て 用 い ら れ る 。 そ れ は 「 高 等 ナ ル 普 通 学 科 」 の 別 称 と し て 用 い ら れ た と 思 わ れ る が 、 『 示 諭 』 段 階 で は な お 中 学 校 高 等 科 ・ 初 等 科 全 体 に 対 応 す る 呼 称 で  あった。これが「高等普通教育」と「更ニ精深ナル程度ニ於テ高等普通教育」など に分化するのは高等中学校と尋常中学校に分化した以後である。

  「 初 等 普 通 教 育 」 と い う 言 葉 は 1 8 8 4 ( 明 治 1 7 ) 年 に 登 場 し て い る ( 本 島 松  蔵「普通教育普及改良ノ一方案」、『大日本教育会雑誌』第14号、1884年、 所収ー本論文第11章第3節参照)が、法令用語化するのは1941(昭和16) 年の国民学校令が初めてである。

(11)国立公文書館所蔵、公文録文部省之部、明治13年自9月至12月、所収。

(12)『日本近代教育百年史』、前掲書、第3巻第3編第3章、1236ページ。

(13)倉沢剛、前掲書、491~496ページ。

(14)倉沢剛、同上書、501~502ページ。

(15)倉沢剛、同上書、505~509ページ

(16)『大日本教育会雑誌』第5号、1884(明治17)年3月31日発行、所 収。

(17)なお、沢柳政太郎は『実際的教育学』(1909年)において「教育学の対 象 と す る 教 育 の 事 実 は 、 学 校 教 育 中 の 普 通 教 育 で あ る 」 と 述 べ 、 具 体 的 に は 小 学 校、中学校、高等女学校等を上げている。そのうえで 沢柳は「少しく疑の存するの は高等学校と、師範学校である」と述べ、師範学校について「一種の専門教育とも 見やうに依っては見られぬこともないけれど、これ亦普通教育と見做すことも出来 るのである」と説明している。57ページ。