終 章    (1)   明治前期と対比する意味で1886(明治19)年以降数年間の普通教育政策および普通教育論の展開経過を素描しておきたい。 (イ)森有礼御用掛のもとで小学校条例取調委員・中学校条例取調委員が任命されたのは第3次教育令公布の1ヵ月前の1886(明治18)年7月であり、翌年4月9日に小学校令・中学校令がそれぞれ公布され、教育令体制から学校令体制へ転換した。  条文上で見る限りの重要な転換は、第1に「普通教育」という用語が小学校令にのみ用いられることになった。第2に、小学校(授業料支弁)は高等小学校(4年制)と尋常小学校(4年制)とし、中学校は高等中学校(官立・5校)と尋常中学校(府県立・各1校)とした。この場合、「初等」を「尋常」としたのは、尋常が高等にたいして段階的な関係ではなく併立する別系統の学校であるという関係を明確にしたものと推量される。第3に、従来中学校の目的は「高等ナル普通学科」としたうえでさらに2分されていたが、「高等ナル普通学科」という言葉が削除されて、「実業ニ就カント欲」する者と「高等ノ学校ニ入ラント欲」する者に「須要ナル教育ヲ為ス所」とされた。尋常中学校は「高等ナル普通学科」という性格をはずされ、実業教育機関という性格を付与されることになったのである。のちに森文相は高等中学校について「上流の人にして、官吏なれば高等官、商業者なれば理事者、学者なれば学術専攻者」を、尋常中学校は「社会ノ上流ニ至ラストモ、下流ニ立ツモノニ非サレハ最モ実用ヲ為ス人」を養成する所と説明している。(1) 第4に、尋常小学校に代用するものとして小学簡易科(3年以内、区町村費支弁)を設置したことである。 (ロ)1887(明治20)年7月の『教育時論』は社説「国民教育とは如何」を掲げた。(2) 社説は、この1〜2年、「国民教育」という言葉が用いられるようになってきたが、それは「従来の普通教育に反する」ものでも「新奇の事」でもなく、明治5年の「学制」以来我が国の教育は「国民教育」の方向をとっていると前置きしたうえで、「国民教育」の目的は「国家の為に教育を為すもの」であり、「一個人民の為にする者にはあらず」と明言している。この場合「普通教育」は「一個人民の為にする教育」「学校教室内の教育」に置き換えられ、「国家教育の政を奨励するにあらざれば学校の教育普及せず、学校の教育普及するにあらざれば国家が教育に望む所の目的を達すべからざる、此両者は互に相提携し相離るべからざるものなり」と両者の一体性を強調している。明治5年の「学制」以来日本の教育は「国民教育」の方向をとっているとする認識は政府・文部省の立場に立っても必ずしも正確とはいえない。  大日本教育会は規約改正を繰返しながら政府・文部省にたいする補翼機関としての機能を強化していくが、1888(明治21)年5月の総集会にて会の事業を7つの部門とする条項を新設する規則改正問題が討議された。  この改正によって規約上初めて「普通教育」という文言が用いられたが、論議のなかでは、大日本教育会の目的は普通教育の普及改良であって専門教育には及ばないこと、学術工芸・文芸美術等を「普通教育ニ適用スル」事業が組み込まれたこと、専門教育との関係については「例ヘバ普通教育上理化学ノ教授ハ如何致スベキヤトノ研究」という限りにおいて密接な関係があるが教育会の基本的な事業として学科自体を専門的に研究するわけではない、ことなどが確認された。なお、この論議の中で「ペダゴジイ即チ普通教育」という興味ある発言もあった。(3) (ハ)『教育報知』の普通教育に関する論調が数年のうちに急速に変化した。それは大日本国憲法・教育勅語体制の確立過程と併行するものであった。  1887(明治20)年、『教育報知』は3回にわたり社説「普通教育・国民教育・実業教育」を掲げた。(4)  社説はまず、最近「教育」にさまざまな「特殊ノ名目」が冠せられてきた状況を取り上げ、それらの中でとくに「普通教育」「国民教育」「実業教育」についてそれぞれの性格と相互関係を明らかにすることが国民にとって関心事になっているとしている。  社説は 普通教育は専門教育に対する概念であるといわれているが、専門教育がなくても普通教育は存在しなければならないものであるとして、次のように説明している、「凡ソ人トシテハ縦ヒ一学一芸ニ長セザルモ自然ニ賦与セラレタル心身ノ各能力ヲバ満足ニ発達調和セシメザル可ラズ・・・故ニ普通教育ハ苟モ人トシテハ国ノ異同ヲ論ゼズ生業ノ何タルヲ問ハズ必ズ経過セザル可ラザルノ正路タリ駅次タルモノナレバ取リモ直サズ人タルノ必須ヨリシテ生ジ来タルモノナリ是レ其ノ特性ナリ」と。 また次のようにも説明している、「人タルノ特性ハ理性ヲ有スルニ在リテ皮膚骨格ハ如何ナルニモセヨ苟モ理性ヲ有スル動物ヲバ總テ之ヲ人類ノ中ニ列スルガ如ク假令執ル所ノ方法ハ異同アリトモ苟モ其能力ヲ発達調和セシメ社会ノ一個人タルニ欠ク可ラザル要状ヲ具備セシメントノ目的ヲ以テスルモノハ即チ是レ普通教育ナリ」と。  「社説」はしたがって「普通教育ハ教育ノ基本タリ根底タリ之ナケレバ他ノ教育ハ一モ成立ス可ラザルノ位地ニ立ツモノナリ」として、いわば〈普通教育=基本・根底〉論を展開していた。普通教育自体についてのこのような認識は今日に至るまでもけっして見劣りするものではない。  一方、「社説」は「国民教育」を説明し、その目的は「各人ヲシテ特殊ノ一国民タルニ適当ナル勢力ヲ得セシムルニ在レバ則取リモ直サズ各国民各異ノ特性ヲ教練シ堅固ナラシムルノ方便」であるとし、その「国民教育」と「普通教育」とは相反するのではないか、との疑問にこたえて、両者の関係について次のように述べている、 国民教育は普通教育の範囲内に属するものであって対立するものではない、国民教育は普通教育の性質を十分に具有したうえでさらに国民教育としての性質を有するものである、「飽クマテく普通教育ノ真理ヲ発揮スルト同時ニ他方ニ於テハ終始我ガ日本国民ヲ造成セントスル熱心ヲ失ハサランコトヲ切望スルモノナリ」。「各国民各異ノ特性」への着目は後に述べる江木千之の「国民教育」論につながるものである。  『教育報知』第120号は戸城主幹名の「社説」を掲げ、「地方教育」の必要性を地方教育を国家教育の「属種」であるという見地から強調するとともにし、独自の「特性」論に立って普通教育と国民教育の関係を論じている。(5)「凡ソ物ニハ皆各特性アリ・・而シテ是等ノ特性ハ実ニ是レ分類ノ基趾タリ標準タルモノナリ而シテ人ニアリテハ之ヲ分業ト云フ。今ヤ教育ニ於ケルモ然リ。或ハ普通教育ト云ヒ或ハ国家教育ト云ヒ或ハ専門教育ト云フモ皆是レ各其ノ特性ヲ標準トシテ名ヲ分チ業ヲ異ニセルモノナリ」と。「特性」論が次第に強調されてきている。  「国民教育」と「国家教育」とは一体化され、いわば<普通教育−国家教育特性・分業論>が主張されている。これまでの主張に対する「自家撞着」ではないかという指摘に対する回答として執筆されたものである。  さらに1890(明治23)年の『教育報知』社説「日本教育ノ基礎」では「国家ノ普通教育」という言葉が用いられ(6)、また247号社説「国家教育の原理」では「故に国家教育は普通教育にしてまた強迫の教育なり」と書き、普通教育は国家教育もしくは日本教育と同一視されるまでに変質した。(7) (ニ)大日本帝国憲法制定に当たって「普通教育」はどのような位置づけがなされたのだろうか。  井上毅は1882(明治15)年に「凡教学ハ各人民ノ自由ニ任スト雖モ、政府ハ公立私立ヲ問ハズ学校ヲ監督スルコトノ権ヲ有ス」という条項をふくむ憲法草案を書いたが、その認識は1887(明治20)年に井上が起草した憲法試草乙案にも受け継がれていた。すなわち、その第13条において「教育ハ人民ノ自由ニ任ス。但、政府ハ公立私立ヲ問ハズ学校教課ヲ監督スルノ権ヲ有ス」と規定されていた。(8) 憲法試草甲案には教育条項はふくまれていなかった。ところが伊藤博文首相は第1次憲法草案において試草乙案にあった教育条項をとりいれなかった。普通教育と教育との区別がなされているわけではないが、政府中枢において教育問題が憲法問題として認識されていたことは留意されておくべきことであろう。  1889(明治22)年2月に公布された大日本帝国憲法は天皇の独立命令権をもたせることによって教育権もまた天皇に帰属させることになった。  枢密院における憲法草案審議において森はしばしば発言したが、その立場は「臣民ノ権利」を認めないというものであった。教育条項が盛られていないことについては当然のことであったから森は何も発言していない。教育に関連した発言としては、軍人に政談演説を禁止することが論議された際、森は軍人だけではなく学校教員にも適用すべきであると主張している。 (ホ)1890(明治23)年2月、地方長官会議が開催され、山県有朋首相兼内務大臣の意向をも受けて高橋五六会長(東京府知事)は「普通教育ノ件」について建議するよう提案した。この建議は「徳育涵養ノ義ニ付建議」という形でまとめられ、2月26日、榎本文相に提出された。(9)  この建議は「普通教育ノ要ハ、主トシテ国民タルノ徳性ヲ涵養シ、普通ノ智識芸術ヲ修メシムルニ在リ。然ルニ現行ノ学制ニ依レバ、智育ヲ主トシテ専ラ芸術智識ノミヲ進ムルコトヲ勉メ、徳育ノ一点ニ於テハ全ク欠クル所アルガ如シ」という書き出しで始まっている。周知のようにこの建議が契機となって「教育勅語」が策定されることになった。小学校令改正作業は教育勅語作成過程と並行して進められた。 (ヘ)1888(明治21)年6月には小学校令改正が企図され、大日本国憲法公布、市町村制制定、森遭難を経て、1890(明治23)年1月には江木千之案がまとめられた。(10) 3月には文部省原案が出来上り閣議に提出された。(11) 法制局を経て法律案(5月)として枢密院に送付されたが、枢密院において法律案とすることに疑義が出され、結局10月7日、小学校令は勅令として公布された。ついで教育勅語も10月30日制定された。  この経過においても普通教育の位置づけが重要な論点となった。文部省原案に付された改正理由に「市町村ノ義務負担ヲ明カニスルニアラサレハ、帝国臣民ニ欠ク可ラサル普通教育ノ目的ヲ達スルコト能ハス」と述べられているように市町村制との関係が改正の重要な契機とされている。後者の「帝国臣民ニ欠ク可ラサル普通教育」という文言は文部省原案第1条小学校の目的に用いられているが、この点をめぐって江木千之との間に論議が起こった。江木千之案によれば小学校の目的は「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並ニ其生活ニ必須ナル知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」とされていた。「普通教育」という用語はあっさりと削除され、「道徳教育・国民教育ノ基礎」という枠内での「知識技能」が教育目的とされていた。周知のとおり、公布された小学校令は教育目的に関する限り江木案が採用されたが、一箇所だけ即ち「知識技能」が「普通ノ知識技能」と修正されただけであった。この場合の「普通」とはもはや common ではなく usual の方であった。  なお、「国民教育ノ基礎」についていえば、「国民教育」とは「国家ノ良民」育成の教育であり、それは国家社会全体と通じてさまざまな教育機会を通じて実現されるものであった。小学校はその「基礎」を分担するものであり、文部省がこれまで基本方針として来た修学年限十二年の「人間普通欠ク可カラサルノ学科」という普通教育の理念とは性格を異にするものであった。  改正された小学校令は、小学校を尋常小学校(修業年限3年・4年)、高等小学校(同、2年・3年・4年)、私立小学校のほか徒弟学校、実業補習学校とし、「町村学校組合又ハ其区」の経費によって設立するものとされた。小学簡易科は廃止された。尋常小学校での基本教科目は修身、読書、作文、習字、算術、体操であった。  森文相が指示したようにこの改正は国家主義の見地からすれば「完全ナル改正」といえるものであり、大日本帝国憲法・教育勅語体制のもとで1941(昭和16)年の国民学校令にいたる半世紀におよぶ学校制度の基盤をなすものとなった。 (ト)江木千之は1891(明治24)年、「帝国小学教育ノ本旨」と題して「国民教育」と「普通教育」との関係について説明している。(12) 江木は「国々ハ皆ンナ固有ノ特性ト云フモノヲ持ッテ居」るのであって、したがって「国ト云フモノ其国ヲ組織スル所ノ分子ヲ、其国ノ特性ニ適当サセル様ニ務メナクテハナラヌ」、そのためには「必ズ其国ノ特性ニ関スル所ノ教育ヲ全国ニ普及サセナクテハナラヌ」と述べ、「国ノ特性ニ関スル所ノ教育」すなわち「国民教育」を「全国ニ普及サセ」る教育が「普通教育」であるというのである。  ここには子どもを育て教育するのは「天ノ命」であり、社会的共同事務であり、父母の義務であり、その父母の義務を代行する政府・国家の義務であるという論理は完全に放棄されており、はじめに「国家」、しかも「国家ノ特性」があり、その「特性」を確保するという大命題のために「国民教育」があり「普通教育」があるという転倒した論理に転化しているのである。 (チ)1890(明治23年)の小学校令改正により法律用語としての普通教育は消滅したが、普通教育についての論議はけっして終わったわけではない。大日本帝国憲法・教育勅語体制という条件のもとにあってさまざまな普通教育論議が展開されていった。  第1に、政府・文部省内外において中学校・高等学校の教育目的としての「精深ナル高等普通教育」の性格や義務教育年限延長問題をめぐって、また時々の教育政策をめぐってひきつづき「普通教育」という言葉を用いながら論議されている。  第2に、普通教育という言葉を冠した出版物等が急増している。明治20年代に限っていえば、東京普通教育社『普通教育新聞』創刊(1888年)、生駒恭人『普通教育提要』(1889年、尚友社)、三宅米吉、雑誌『普通教育』創刊(同年、金港堂)、国府寺新作『普通教育学』(1891年、酒井清蔵・河出静一郎刊)、渋江保『普通教育学』(1892年、博文館)、松平円次郎『普通教育学』(1895年、鈴木安雄刊)、勝浦鞆雄『普通教育ニ対スル希望』(1896年、冨山房)、などである。   第3に、学問的にも政策的にも普通教育論が深められて行く。すこし後になるが沢柳政太郎『実際的教育学』(1909年)では「教育学がその研究対象とする教育の範囲は学校教育中の普通教育に限定したい」と述べている。同じ年に帝国教育会は『普通教育制度年表』を刊行している。  このように、明治中期以降における普通教育論は前期とは異なる様相を呈することになる。     (2)   いつの時代でも言えることであろうが、本論文が対象とした明治前期についても、そこで展開された普通教育政策や普通教育論もこの時期固有のさまざまな歴史的階級的特質を帯びていた。と同時に自覚や成熟の程度はともあれ、普通教育が普通教育であるがゆえに有する固有の普遍的契機もそこに見出すことができる。それらを列挙すれば以下の通りである。 (1)普通教育の目的は独立、民主主義、平和、平安、幸福、文明、文化、真理、自由、個人、人間性、国民、国会開設、主権、参政権、生産力、社会の進歩、品位、理性、政治的判断力、自治自立、基本的人権、人間としての義務、等の問題と密接にむすびついていた。 (2)普通教育制度は社会の基礎的な部分を構成する。同時に社会の維持・存続にとって普通教育のあり方はつねに政治上の基本問題となる。 (3)普通教育制度は理念・目的・内容・制度等におよぶ包括的な制度である。 (4)普通教育は本質的には人間の育成を第一義的に求めるものであり、その中に国民の育成を包含するものである。 (5)子どもの養育は基本的には父母の責任・義務のもとで行われなければならないが、普通教育は社会的な共同事務であり、社会的な共同事務としての実質化を求めるものである。その成熟の度合がその時々の普通教育制度のあり方を規定する。 (6)人間的諸能力全体の成長・発達の過程には一定の法則があり、普通教育はそれに即したものでなければならない。 (7)普通教育を受けることは子どもの権利であり、それを保障することは父母の義務である。 (8)義務制、男女共学制、無償制の問題は普通教育と不可分である。 (9)理念としては普通教育の修業年限は12年である。 (10)普通教育は高等教育や専門教育のためにあるのではなく普通教育自体の存在理由がある。  これら普通教育に内在する諸契機は我が国においては封建体制の没落と資本主義社会への転換、さらに西欧化という独特の歴史的条件のもとで、必然的に生成してくるものであって、脆弱ながらわが国の社会発展のなかで自主的に発展していく社会的条件も存在していた。  しかしながら、これら事実群もそれぞれに上述した(1)〜(10)の要因を内在させており、現実にはきわめて複雑な展開を見せる。と同時に、全体としては人間の育成か国民の育成かという基本的論点は結局は顕在化せざるをえず、明治前期にあっては、封建的性格の強かった初期から、自由民権思想を主導とする時期、国家主義的な性格を強めていく時期を経過していく中で、当時にあっては文明開化か富国強兵かという争点のなかで、後発資本主義社会に特徴的とされる急速な国家主導の資本主義化のもとで普通教育から国民の育成を基調とする「国民教育」へ転換されていくことになるのである。     (3)  最後に、明治前期における普通教育論の展開過程をあえて私なりの表現で要約しておきたい。  西欧において普通教育の思想が近代民主主義思想とともに生成・発展してきたとされているが、それは教会や国家の支配から人間を解放するという歴史的な転換期に対応していた。明治維新はわが国特有の出発をしたが、それゆえにまたわが国特有のあり方で多様な普通教育論が集中的に展開された。西欧の思想が急激に流入してくる中で長い間の鎖国体制と幕藩体制の中で培われたさまざまな価値観が絡み合い、国家理念とその体制の確立は複雑な過程を余儀なくされた。このような事情が普通教育論の展開過程の深部を規定していた。  前島密はすでに慶応年間に学問の独立と国家の独立を探る中で「普通教育」の重要性を強調したし、福沢諭吉も大筋では同様であった。明治新政府は教育制度の確立を国家体制の確立の重要課題として位置づけた。問題はその位置づけ方であった。  文部省幹部はしばしば子どもの育成と教育は父母の「天」にたいする義務であり、かつ「社会」にたいする義務であるという思想から自由になることができなかった。このような考え方はわが国の歴史のなかで育まれてきたものであろう。そこには子どもは社会の中でしっかりと育てられるものだという民衆的楽天性が存在していたとも言えよう。しかし、そのような楽天性は教会権力からあるいは国家権力から人民の権利としてたたかいとったという自覚とむすびついたものではなかった。きわめて自然の感情であり、素朴な感情であった。  明治新政府もそのような感情を共有していた。子育てや教育は父母の義務であると再三再四表明せざるを得なかった。しかし、後発資本主義として出発した明治政権は自ら志向する権力構造に合わせてその補完体制としての教育制度を確立していかなければならなくなった。そこで持ち出された論理が〈父母が子育てに怠慢である〉というイデオロギーであった。どこが怠慢であるか、怠慢であるかどうかをなぜ政府が認定しなければならないのか、怠慢でなくするためには政府は民衆に何を求めたのか、このあたりのことはまったく説明不足であった。一方的断定である。ここにこの時期における普通教育政策の限界と悲劇があった。  新政府は民衆が怠慢であると決めつけておいて、だからお前たちにかわって俺が教育を引き受けるのだ、政府はお前たちの保護者なのだから、と説明した。ここに見られる論理の飛躍は当時の政治的・社会的・経済的諸条件から説明できる。民衆の素朴な感情は明治維新に対して無力であった。自分たちの子育て感情は時代の進展に適合できなかった。とんでもないことになりそうだという不安を抱きながらもどうすることもできなかった。  この間に新政府は着実に普通教育政策を具体化していった。最初の頃は「貧富尊卑ノ差別ナク」すべての子どもに普通教育をと意気込んでいたが、権力基盤を強固にしていく過程での行財政改革を強行していくなかで、普通教育政策は、人民を中人以上と以下とに区分して、あるいは上流・中流・下流に区分して、それぞれにみあった普通教育を、というように変わっていった。そこに見られる教育観が社会に幸福をもたらすものではない、民衆のためにはならない、と感じた人々もいた。文部省のすすめる普通教育政策を批判し、独自な普通教育論を主張するものもあらわれた。  政府と一体となった資本主義の進展のなかでいよいよ憲法制定・国会開設を展望し得る権力基盤が複雑な抗争を経て確立していった。その過程を通して政府・文部省はそれまでの教育の第一義的な責任は父母にあるという論拠から、〈国家の安寧福祉〉〈社会不安の除去〉という理由から普通教育を行う権限は政府にある、という論拠に転換していった。  今の社会もしくは国家はこのような状況だからこのような教育が必要なのだ、という教育思想、すなわち「国民教育」の思想がとって代わられることになった。今度は父母は子どもにたいしてではなく国家にたいして「義務」を負わなければならなくなった。そして小学校・中学校の教育はその「国民教育」の「基礎」を確立するものとして位置づけられることになった。「普通教育」とはそのような「国民教育ノ基礎」を「全国ニ普及」するものとしての役割しかあたえられなくなった。  このような考え方は大日本帝国憲法・教育勅語体制のなかに組み込まれ、その後の日本に長い間支配することになった。「国民教育」体制のもとで普通教育制度は学校体系の変遷をともないつつ拡充発展を遂げていくがそれは結局人民的基盤をもたないことから根本的矛盾を蓄積せざるを得なかった。国民学校令が公布され、国民学校体制がいっそう確立したかにみえた瞬間に「国民教育」体制は崩壊するという事態を迎えることになった。  普通教育制度は日本国憲法・教育基本法体制のもとで、明治前期に展開された豊かな普通教育論やその後の歴史のなかで人民の間に蓄積されてきた教育論等をエネルギーとしつつ、あらたに発展していく法制上の条件があたえられたわけである。 本論文に直接関連する拙論は以下の通りである。 ・「 庵 地 保 の 生 涯 と 年 譜 」 、 岩 手 大 学 教 育 学 部 附 属 教 育 工 学 セ ン タ ー 『 教 育 工 学 研 究』、第12号、1990年 ・「明治初期における『普通教育』概念」、『岩手大学教育学部研究年報』、第50 巻第1号、1990年 ・「明治10年代における『普通教育』概念の展開」、岩手大学教育学部附属教育実 践研究指導センター『研究紀要』第1号、1991年 ・「明治初期における『普通学』・『普通教育』概念の連関構造」、『日本の教育史 学』、第34号、1991年 ・ 「 島 田 三 郎 の 『 普 通 教 育 』 論 」 、 『 岩 手 大 学 教 育 学 部 研 究 年 報 』 、 第 5 1 巻 第 1 号、1991年 ・「『文部省示諭』における「普通教育」概念」、『岩手大学教育学部研究年報』、 第52巻第1号、1992年 ・「普通教育論研究ノート」、『日本の科学者』、1994年10月号  最後に、本論文執筆にあたっては多くの関係機関・個人から貴重な史料の閲覧・複写の機会を得ることができた。主な機関・個人を以下に記して謝意としたい。  国会図書館、国立公文書館、国立教育研究所図書室、東京大学法学部明治文庫、東京大学教育学部図書室、東京都公文書館、国学院大学図書館、早稲田大学図書館、北海道大学附属図書館、茨城県立図書館、三原市立図書館、東書文庫、岩手大学附属図書館、渡部宗助氏、庵地淑氏、庵地正彦氏。 注 (1)大久保利謙編『森有礼全集』、第1巻、1972年、546ページ。 (2)『教育時論』、第80号、1887年7月5日発行。 (3)『大日本教育会雑誌』号外、総集会記事第1、1888年、80ページ。 (4)『教育報知』、第66、67、68号、1887年。 (5)『教育報知』、第120号、1888年。 (6)『教育報知』、第236号、1890年。 (7)『教育報知』、247号、1890年12月20日発行。 (8)金子照基『明治前期教育行政史研究』、1967年、風間書房、320〜32 1ページ参照。 (9)国立公文書館所蔵、明治23年、公文雑纂、建白、文書第1。 (10)国立教育研究所所蔵、江木千之「小学校令案」、1890年1月。 (11)国立公文書館所蔵、公文類聚、第一四編、明治二三年、巻之五五、学政門  一、学政総、文書第三八。 (12)江木千之「帝国小学教育ノ本旨」、『大日本教育会雑誌』、第105号、1 891年4月15日発行、所収。