要旨

 

 1.対象と方法および課題

(1)本論文の研究課題は明治前期における普通教育論の展開過程の分析を通してその時期における普通教育論の性格と構造を解明することである。それは私の研究テーマである現代日本における普通教育論研究の基礎的部分に位置づくものである。

(2)現代日本における教育問題は教育学研究が解明すべき深刻なさまざまな問題を提起している。なぜこのような状況を呈しているのかについては種々の見解も有り得ようが、基本的には戦後教育基本法制にあらためて位置づけられた普通教育のあり方が戦後50年の経過の中で、とりわけ臨時教育審議会答申が掲げた教育改革路線との関係でさまざまな変質を迫られてきたことに求められるのではないか。とはいえ、そのような認識は必ずしも一般的ではない。なぜなら戦後における普通教育とは何かが明確であったわけでもなく、「個性重視の原則」など臨教審答申の改革理念が普通教育の現実とどのような関係になっているのかという問題のとらえ方自体が一般的ではないからである。逆に言えばそうであるからこそ、戦後における普通教育とは何か、現代日本における普通教育の主たる課題は何か、という問題をより積極的に提起していく必要があるのではないか。換言すれば普通教育についての理論的・現状分析的な研究が大きく立ち遅れていることが今日における教育問題のもっとも根本的な問題である。

(3)以上のような課題意識のもとに、私はこれまで普通教育概念の解明に従事してきたが、その課題に接近する仕方はさまざまでありえる。本論文では明治前期に展開された普通教育論の展開過程がきわめてユニークであることに着目し、その過程の分析を主たる研究対象とした。

(4)本論文においては明治維新前後から1885(明治18)年までを前期とし、その時期における普通教育に関する個人や機関等の主張、見解、論説、政策文書等を主たる対象とした。したがって明治前期における普通教育自体の研究ではない。

2.本論文の概要

 本論文ではこの時期における普通教育論の展開過程をおおよその時間的な順序にもとづいて論じた。以下にその内容を簡潔に概観しておきたい。

①明治前期(明治19年まで)の普通教育論の展開過程は基本的には〈「普通教育」から「国民教育」へ〉と特徴づけることができる。

②明治維新前後から、一方では前島密や福沢諭吉らによって、「普通教育」の問題が国家の独立や学問のあり方などの問題とむすびつけられて論じられていたが、他方では大学 に お け る 「 普 通 学 」 の 「 大 意  」 を に な う 中 学 ・ 小 学 に お け る 教 育 内容、あるいは大学の系統とは別に組織されはじめた小学校の教育内容を意味する言葉として「普通学」ないしは「普通教育」という言葉が未分化なまま明治初期から用いられていた。

③明治5年公布の「学制」の具体化の中で「貧富尊卑ノ差別ナク」「普通学」をすべての人民の子弟にという政策が権力基盤を強固にするための行財政改革のもとで破綻し、「中人」以上と以下のそれぞれに応じた政府・文部省主導の「普通教育」政策へ転換されていくことになる。(「普通教育」という行政用語の初出は明治8年)

④明治10年前後にはさまざまな政治的立場から普通教育論が表明された。また「学制」から教育令への転換過程で文部省幹部は当時の教育問題を「普通教育」問題として認識していた。公布された教育令の文部省原案では小学校の目的は「人間普通欠ク可ラサルノ学科ヲ児童ニ教フル所ナリ」とされ、さらに別の条項で「普通教育」という言葉も用いられた。前者は最終的に「普通ノ教育」とされた。「普通ノ教育」は小学校の目的概念であり、「普通教育」は小学校・中学校を包括する学校制度上あるいは修学年限上の概念と推量される。「普通ノ教育」は中学校の目的概念である「高等ナル普通学科」に対応させたとも思われるが、その場合の「普通」の意味をcommon からusual もしくはordinary へ変質させたとも解される。この区別は明治23年の小学校令改正による小学校の目的規定「普通ノ知識技能」につながるものと言えよう。

⑤当時、政府・文部省主導の普通教育政策をめぐって政府・文部省の内外において干渉教育論が展開されたが、その議論自体本質的な矛盾を内在させていた。すなわち、文部省は、普通教育を受けさせるのは父母の義務であるという明治以前からのいわば社会的通念を根拠としていた。このような通念と政府の干渉をどのように両立・整合させるか。そのために活用されたのが「父母は怠慢である」という口実である。「怠慢」であるかどうかの認定は政府が行うものであるが、そのことが問題なのではなく、「怠慢」であるということが所与の前提とされたのである。こうして父母の保護者としての政府が父母に代わって普通教育を子どもたちに受けさせる、という論理が成立した。

 このような論理は、後発資本主義に対応した明治維新という独特な政治革命とむすびつけて理解される必要がある。革命後も依然として国家は人民の保護者であるという論理が通用し得たのである。

 子どもを育て教育するのは父母の義務であるという社会通念はそれ自体としては子どもを育てるという原点から教育のあり方を考えるという思想を論理的前提としている。したがって子どもとは何か、子どもにはどのような能力があるのか、子どもが大人に成長していくすべての過程における父母の責任とはどのようなものか、などについて父母もしくは社会が自ら学習する社会関係を前提とする。このような社会関係の民主主義的成熟こそが本来の普通教育の実現にとって不可欠の条件であるが、そのような条件が少なくとも法制上充足されるためには我が国においてその後半世紀以上経過しなければならなかった。

⑥この時期、普通教育に関するすぐれた見解が相次いで表明された。庵地保は1880年に『民間教育論』を著し「専ハラ普通教育ノ要領」を論じた。そこでは「人智恵諸般ノ能力」には「自然ノ法則」とも言うべき「発達ノ順序」があり、普通教育はその順序に「相応」するものでなければならないというものであった。また、赤松常次郎は『教育新誌』に論説を連載し、「凡ソ人ノ子女タルモノ普通ノ教育ヲ受ケン事ヲ要求スルハ其固有ノ権理ニシテ父母ト雖モ之ヲ妨グベカラズ」、その「義務ヲ負担スベキモノハ父母ニ非ズシテ誰ゾヤ」と訴えた。

⑦1880(明治13)年12月、文部省は「普通教育ハ、国民ノ品位ヲ上下スルノ力」があるのだから「普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ務」としないわけにはいかない、それゆえ「普通教育ノ衰頽ヲ挽回スルコト、焦眉ノ急ニ属ス」という理由から教育令を改正した。 また、憲法制定・国会開設など政治情勢の緊迫化、社会経済の進展等のなかで普通教育への道徳教育や実業教育の強化がめざされることになった。それは文部省内部からの自由民権派の放逐や明治14年の政変と一体となって進められた。

⑧小学校教則綱領、中学校教則大綱(1881年)等により普通教育制度は整備されていくが、1882年の学事諮問会において文部省は「普通教育ハ小中学ヲ通シテ率ネ12年トス」と説明し、「国家ノ品位」を保持する上から普通教育12年修学を可能とする小学校から中学校への進学体系を中核としてその周辺にさまざまな教育課程と修業年限の学校体系を配置するという政策を説明している。

⑨天皇制国家体制をめざす政府・文部省は従来の「父母の怠慢」ではなく、「国家ノ安寧福祉」「社会不安ノ除去」等を論拠として普通教育にたいする国家の関与を正当化する論理へ転換するようになっていった。1884(明治17)年頃からそれまでの「普通教育」論にたいして「国民教育」という言葉が用いられるようになっていく。

 例えば、大窪実小学校条例取調委員は「普通教育」とは「人ヲシテ天稟ノ性能ヲ完全ニスルコトヲ得セシメテ其身ノ幸福ヲ厚フセンコトヲ期スルニ在リ」と正当にも述べたうえで、そのような「普通教育」観に疑問を投げかけ、「普通教育」は「各人自己ノ為メニ教育スルコト」と「国民タルニ適当ナラシムル為メニ教育スル事」の二つの「要点」を有しているとし、そのような「普通教育」を「国民教育」と呼んだ。

⑩大窪に見られるような普通教育=国民教育論はその後急速に広がっていく。そのなかで「普通教育」は「国民教育」を「全国ニ普及」させる手段として位置づける見解もあらわれた。

⑪明治19年以降、森文部大臣のもとで学校令体制に移行するが、さらに大日本帝国憲法・教育勅語体制のもとで明治前期に一般的に見られた「普通教育」論はほぼ解体し、明治23年の小学校令改正に見られるように小学校は「国民教育ノ基礎」としての位置のみを与えらることになるのである。中学校・高等学校もその枠内で拡充・再編されていった。

⑫「国民教育ノ基礎」としての小学校はやがて「国民学校」に改変されることになるが、その直後に戦前体制は崩壊し、日本国憲法・教育基本法体制のもとで「普通教育」は新たな位置づけがなされることになる。

3.先行研究 

 普通教育もしくは普通教育論に関する先行研究は断片的なものであったり、論者独自の「普通教育」観で叙述されたものが多く、普通教育論自体の歴史的分析を通したまとまった研究は見あたらない。