第一章 普通教育の理念・性格

 

  

 

 

 

  第一節 教育一般に解消できない普通教育

 

 

 

 「教育とは何か」が論じられても、「普通教育とは何か」について論じられることはほとんどありません。

 

 教育を文字通り「教え育てる」と理解しようが、「能力を引き出す」と理解しようが、広義の教育は、大人の世界でも、行われています。同時に 子どもの世界でも、家庭や地域やメディアなどの世界で、さまざまな教育が行われています。

 

 しかし、子どもの世界には、広い意味での教育と区別して、人間である子どもを人間として育成する、あるいは共同社会の成員として育成する、という意味での、独自の教育の世界があります。子どもの世界に独自な教育は、民衆の中で無意識に素朴な形でも存在していますが、ヨーロッパでは市民社会の生成を背景に「普通教育」として自覚化され、制度化されてもきました。

 

 広い意味での教育も、子ども世界に独自な教育も、それぞれ子どもの人格に影響を及ぼし、人格形成にかかわるという意味で、重なり合っています。両者はしばしば混在し、しかも、それぞれにさまざまな捉え方があります。百人いれば百の教育観があるとしばしば言われますが、そこにはそれなりの根拠があります。私たちは、そのようななかにあって、広い意味での教育と普通教育とを区別し、人間を人間として育成する普通教育とは何か、を明らかにしていく必要があります。

 

 子どもの世界に独自な教育については、これまで、必要以上に無関心だった、と言えます。

 

 ルソーは、「このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えなと述べています。

 

 大人社会はなぜ、子ども世界に独自な教育について、無関心になってしまうのでしょうか。直接の、差し迫った課題ではない、ということもあります。大人の都合、大人の思惑、大人社会の利益などに、子どもたちを適合させなければならない、子どもたちは何も考えていないのだから、自由自在に育てることができるのだ、ということもあるでしょう。子どもの世界独自の教育、と言っても理解できない、ということもあるでしょう。

 

 子どもの世界に独自な教育、ということについては、心のやさしいりっぱな人になるんですよ、とか、他人から頼られる人間になりなさい、世のため人のために役に立つ人間になってほしい、というように、大人たちは、だれでもが、感覚的には期待しているのです。そのような願いをこめて、七五三などに見られるような子育てにかかわる文化が、どこの国にも存在します。

 

 しかし、どこをどうすれば、そのような人間を育成することができるのかについて、意識することはないのです。それは、ときおり、大人と子どもの関係、子どもが人間として育成される過程、などについて特別な思索ができる人々によって、意識される程度なのです。こうした人々によって、人間を人間として育成する普通教育の理念が、表明されてきました。

 

 これまでに、普通教育の理念が、全面的に実現したことは一度もありません。階級社会のもとで、それはきわめて困難なことです。しかし、資本主義社会は、階級社会としては最後の社会である、とも言われています。それは、お金に象徴される、人間が生み出した「富」自身が、価値を有する最後の時代だからです。そのような「富」を生み出す人間自身が価値を有する時代へ、転換せざるを得なくなっているのです。資本主義社会は、そのような社会転換を可能にする、物質的条件を用意する最後の時代である、とも言われています。

 

 現代日本は、高度に発達した資本主義国です。このような社会で、普通教育を全面的に実現することは、一面では困難であるとともに、他面では、普通教育制度に転換する客観的な諸条件が用意されている、とも言えるのです。

 

 何しろ、すべての子どもに、普通教育を受けさせることは、国民すべての義務である、ということが、六十年前に制定された日本国憲法に規定されているのです。同時に制定された教育基本法や学校教育法にも、憲法のこの規定を、具体化する規定が盛り込まれました。これらの規定に沿って、永年、教育政策が展開されてきました。学校教育の場においても、少なからぬ教職員によって、普通教育の見地に立った教育が、実践されてきました。と同時に、これらの過程で、普通教育の理念ではなく、「国民教育」の理念に転換するさまざまな動きもありました。その集大成として、教育基本法、学校教育法の「改正」が行われました。

 

 問題は、普通教育制度を構築することが重要である、という認識が、国民共通のものになっているかどうか、です。普通教育を実現できる客観的な条件が成熟していても、国民の多数がそのことに無関心であったり、普通教育の実現を望まない、と言うことであれば、部分的にすら実現できないことになります。

 

 

 

  第二節 普通教育の定義

 

 

 

 最初に、『広辞苑』での記述を取り上げて見ましょう。改版のたびに変化しています。

 

初版(一九五五年):「人種・信条・社会的地位・性別・能力などによって差別をつけることなく、すべての青少年に対して、人間として、また一市民として、一般に必要な教養を与える教育」

 

第二および第三版(一九六五・一九八三年):「国民あるいは社会人として、また人間として、一般共通に必要な知識・教養を与える教育」

 

・第四〜六版(一九九一・一九九九、二〇〇八年)は「職業にかかわりなく一般共通に必要な知識を与え教養を育てる教育」

 

 初版では、青少年を対象とすること、人間として必要な教養が基本となっていること、など注目できる面もあります。しかし、改版とともに「国民、社会人」が主たる対象となったり、教育対象が不明確になったりしています。これでは普通教育についての正確な認識は得られません。改版とともに、記述内容が後退しているように思われます。執筆者は、政府主導の教育政策の動向を、記述内容に反映させているのでしょうか。

 

 専門の教育学者の間でも、普通教育の定義はさまざまであり、一定していないというのが現状といえます。

 

 教育学者の堀尾輝久氏は、普通教育とは、「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」であり、それにふさわしい「教養」を中心として構成されなければならない、と述べていま「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」というものを果たして想定できるのか、どこでどのように特定するのか、それにふさわしい「教養」とはどのようなものか、など論点を含んだ説明になっているように思います。

 

 なお、普通教育の定義に関して、「教育学の難問のひととも言われています。しかし、「国民のすべてが共通に必要」とか、「公共の理性」とは何か自体が難しい問題ですから、そこから普通教育を定義しようとすること自体、無理があるのです。

 

 「序文」でも述べましたが、戦後、憲法や教育基本法などが制定される過程で、普通教育についての議論が活発に行われました。そのなかで、文部省が提示した定義には、一定の学術的な、教育学的な知見が反映されていました。そこでの定義が、普通教育に関する行政解釈とされていま 

 

 二〇〇六年に「改正」された教育基本法には、普通教育という語句とともに「義務教育として行われる普通教育」という語句が用いられ、その目的が定められています。すなわち、「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的とする」というものです。二〇〇七年に「改正」された学校教育法は、この「義務教育として行われる普通教育」の目標として、愛国心、規範意識の涵養などを盛り込んだ一〇項目を掲げています。

 

 「改正」教育基本法自体、そこでの教育理念を、それまでの「人間の育成」から「国民の育成」に転換しています。その上で、「義務教育としての普通教育」としているのです。ここでの普通教育は、「国民の育成」あるいは「国家及び社会の形成者」という目的のもとに、制約されているのです。

 

 しかし、普通教育という語句がそのような制約のもとにおかれること自体は、普通教育本来の意味と、矛盾することになります。そのことは、戦後の文部省が提起した普通教育の定義を、文部科学省自らが、事実上、否定することになるのです。

 

 筆者は、戦後、文部省が提起した普通教育の定義に、学術的・教育学的な根拠が反映されていることを重視する立場から、今日の時点で、あらためて、普通教育を、「人間を人間として育成する教育」と定義することにします。

 

 「人間を人間として育成する」ということには、これから述べていくように、実はたいへん深い内容と意味があるのです。