第二章 普通教育の原理

 

 第一節 人間を人間として育成するとは?

 

  重要なことは、普通教育において「人間の育成」とは何か、を明らかにすることです。

 

 「人間の育成」という場合、「期待される人間像」に見られるように、国家社会等が自らに都合の良いさまざまな人間像・人間観を掲げ、そのスケッチをもとに、子どもたちをあたかも粘土のようにこねあげていく、というイメージで言われることがあります。

 

 また、「現代化」とか「知識基盤社会」など特定の意図のもとに未来社会を描き、そこにマッチする人材を養成する、という意味で、言われる場合があります。それらと普通教育における「人間の育成」とは、根本的に異なるものです。

 

 ルソーが「人間は教育によってつくられと述べ、十八世紀ドイツの哲学者カントが「人間は、教育によってだけ人間になることができと言う場合、かれらは普通教育という言葉こそ用いていませんが、事実上、普通教育を問題にしているのです。

 

 その場合、ルソーは「共通感覚」の育成を重視しました。カントの場合も、ソクラテスなどを想起しながら、子ども同士の「対話」の重要性を強調しています。彼らは、どのように「人間の育成」を論じたのでしょうか。

 

 ルソーの場合は、「神の理性」や「大人の理性」を根底から疑い、「人間の理性」に着目しました。まだ社会的刻印の押されていない段階の子どもにも、子どもにふさわしい理性の芽生えがある、と考えました。この理性の芽生えに依拠しながら、どういう過程を通して、子どもは人間にふさわしい理性を獲得するかを、解明しました。ルソーの場合、子どもは感覚の集合として把握され、さまざまな感覚の訓練を通じて、感覚間に見いだされる共通感覚を探求させ、それらをさらに教師の力を借りながら育成していくことによって、「人間の理性」を獲得することができる、と考えました。感覚論的・個人主義的人間育成論、とでも言うことができるでしょう。

 

 一方、カントは、理性の根拠は、子ども自身に内在している、という点では、ルソーに学んでいます。子どもは、最初の段階では、自己そのものに過ぎない存在である。しかし、その後の成長の中で、仲間関係、人間関係あるいは社会的関係の中で、他者の存在を理解し、同時に自己と他者とに共通に内在する人間性を認識するようになる。この人間性の認識に照らして、自己がどのような存在であるかを意識していくことが「人間の育成」なのだと、カントは考えました。

 

 ルソーもカントも、「人間の育成」という場合、子どもたちの外に描かれた何らかの人間像に合うように人間をつくるというのではなく、子どもたち自身の内部に「人間」を見出し、それをより人間らしく育成することに、教育の根拠を見いだしたのです。

 

 私たちの時代は、ルソーやカントの時代に比べて、比較できないほど、教育に関する社会的基盤が整備されています。資本主義のもとで、普通教育についての自覚を欠落させたまま、教育制度は、いわば最高度に発展してきました。このことを原資として、普通教育が飛躍的に拡充する可能性が広がっていると言えます。

 

 

 

  第二節 「人間の育成」と「国民の育成」などとの      関係

 

 

 

 「人間の育成」と「国民の育成」あるいは「市民の育成」とは矛盾するのでしょうか、それぞれはどのような関係にあるのでしょうか。

 

 結論から言えば、それらは矛盾する場合と、矛盾しない場合とがあります。

 

 子どもたちは兄弟、家族、仲間、学級、サークルなどに囲まれながら、それらが自分にとってどのような意味をもつのか、それらの中で自分はどのような存在であり、それらに対して自分はどのような役割を果たすべきなのか、などについて、判断する能力を徐々に習得していきます。

 

 やがて、家族の一員、仲間の一員、学級の一員、サークルの一員としての意識が生まれてきます。この場合、自分自身が、家族の一員であることと、一人の人間であるということとは、どのような関係にあるのでしょうか。女性である前に、妻である前に、一人の人間でありたい、というのと同じです。一人の人間として成長し、かつ人間として育成される過程で、自分が家族の一員であることを意識し、かつ家族の一員であるとはどういうことなのかについて、判断できるようになるのです。

 

 しかし、現実の社会では、一人の人間であることがしばしば忘れられ、特定の社会、団体、組織、仲間の一員としてのみ見なしたり、自らそれらの一員としてのみ振る舞うということが、一般に、要請されます。

 

 「市民の育成」や「国民の育成」を考える場合にも、同じことが言えます。

 

 市民という言葉も多義的ですが、「市民社会」の一員と考えたとき、その市民が、自ら市民である前に、人間としての判断力を優先させるか、それとも、人間的な価値よりも市民的な価値を優先させるかは、その人の人格を規定します。

 

 「市民の育成」という教育理念が、時には、人間としての判断力と対立し、市民的な価値を優先させるとすれば、「市民の育成」は「人間の育成」、つまり普通教育と矛盾することになります。その意味で、新自由主義の立場に立つ教育理念は、普通教育とは相容れないことになります。

 

 「国民の育成」の問題については、すでに紹介したように、文部省側の文献において、「過去においては国民ということが人間より先にいわれた」ことが、戦前における国家主義教育の誤りであった、と反省していること自体が、雄弁に語っていると言えます。「人間の育成」と「国民の育成」とは、戦前日本においては、根本的に対立していたのです。

 

 もちろん、この場合でも、両者は、それ自体としては、対立するものではありません。文部省の文献が述べているように、人間としての判断力が習得されていくなかで、自分が国民として、あるいは日本人として、どのように判断し、どのように振る舞うべきか、などについての判断力も、相伴って習得されていくのです。「人間の育成」を基本にしつつ、主権者としての国民を育成することこそが目指されるべきことです。

 

 

 

  第三節 個人は個性(個別性)と人間性(普遍性)     の統一体

 

 

 

 普通教育において、個性(個別性)と人間性(普遍性)の関係をどう見るか、は根本的な問題です。戦後六十年の間に、教育政策の上で、個性をめぐって重大な転換がありました。

 

 戦後まもなく、文部省が配布した冊子『新教育指針』(一九四六年)の「第一部後編・新日本教育の重点」は「個性尊重の教育」で始まっています。

 

 そこでは、「教育は人間を人間らしく育てあげることを目的とする」としたうえで、人間性と個性との不可分性を前提に、おたがいに個性(長短・優劣・得手不得手など)を理解することで、お互いが補強しあい、全体として人間性=個性を高めあうことが述べられています。この関係に、教育が働きかけることで、社会の連帯性を強め、共同生活をうながし、社会の進歩をうながすことができる、述べています。

 

 ところが、一九八五年に、臨時教育審議会が打ち出した「個性重視の原則」は、個性と人間性の不可分性に楔を打ち込み、人間性よりも個性を「重視」するというものでした。

 

 この考え方は、個人のみならず、「家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代」(臨時教育審議会第一次答申)に及ぶもの、とされました。企業や学校のように、その個性がさまざまな要素から構成されている場合、どの要素をそこでの個性とするかは、事実上、トップ・ダウンによって決定されることになります。その結果、経営トップがきめた「個性」に基づいて、組織の隅々まで管理主義が徹底されることになりました。また、個々人は個人責任を強要され、孤立を余儀なくされ、人間性を喪失させられていきました。戦後の「個性尊重」とは、まさに、対極にある「原則」でした。この「個性重視の原則」は新自由主義とか市場原理主義的「構造改革」によって助長され、今なお、政府・文部科学省の政策を規定しています。

 

 二〇〇六年の教育基本法「改正」は、この「個性重視の原則」の具体化の延長上に位置づくものでした。

 

 一九四七年に制定された教育基本法の前文に、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」という文言がありました。文化における普遍性と個別性の統一を強調しているのです。

 

 この「普遍的にして」という文言を削除することが、「改正」論者の永年にわたる主張でした。個性的な文化、伝統的な日本固有な文化を創造する営みの中に、そこを貫く普遍的な価値、すなわち「不易」な価値を有する文化が創造されるのだ、と主張するのです。結果として、「改正」された教育基本法には、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」という文章自体が削除され、「新しい文化の創造」に置き換えられることになりました。「新しい文化」とは、「不易」に見られるように、特定された普遍としての文化、愛国心や規範意識で磨き上げられた文化、ということになるのです。 

 

 これらのことからも分かるように、「個性重視の原則」は、個人の二面性をなしている個性と人間性とを引き裂き、個性のみをとりだし、個人を「個」として、人材として、したがって商品とみなし、国際競争力に貢献させることを意図しているのです。つまり、個性も人間性も個人に統一されて備わるものなのですから、人間性と分離された「個性」は、もはや、本人のものではなく、商品としての個性にならざるを得ないのです。

 

 このような「個性重視の原則」は、今日の学習指導要領や学校経営等に貫かれています。

 

 今日の学習指導要領(一九九八年改訂)のもとで、「ゆとり」政策の具体化として、教科領域とは別に、「総合的な学習の時間」が導入されることになりました。

 

 教科領域では、教育内容の三割削減と言われるように、ある意味で「学習負担の軽減」が図られますが、教育水準や詰め込み主義自体は、維持されます。つまり、教科領域では、授業についていける子どもと、ついていけない子どもの分化が、いっそう拡大することになりました。

 

 一方、「総合的学習の時間」では、さまざまな学習の取組みがあるものの、基本的には、個性に応じて、つまり「自分で」学習することが求められています。

 

 教科領域においても「総合学習の時間」においても、子どもたちは個々に分断され、「自分で」学習することが求められます。その結果、個性に応じて、学力面にバラつきが生じますが、そのこと自体が意図されたのです。この意図は「習熟度別学級編成」の導入によって、さらに制度化されることになりました。

 

 このような学習・教育環境のなかで、子ども同士の仲間関係にも、ゆがみが生じ、いじめなど陰湿な人間関係が広がることになりました。子どもたちが、自分たちで、仲間で助け合い、学びあうことは求められていません。自分たちでそのことを望もうとしても、それは余計なこととして、斥けられることになるのです。

 

 ここにも、個性と人間性を分断させる「個性重視の原則」が貫かれているのです。個々人の競争を原理とする学習活動で「学力向上」を重視すればするほど、子どもたちの学習意欲は減退し、せっかくの「学力」も次の瞬間から剥落していくことになるのです。

 

 

 

  第四節 「人間」は段階を経て育成される

 

 

 

 どの子どもたちも生命の誕生とともに人間としての能力をもっています。

 

 人間としての能力は、一定の環境のもとで発育し、それぞれ異なる生育環境の中で発達していきます。この能力は、身体的、知的、社会的、情動的、精神的など相対的に異なるいくつかの能力の総体です。最初は、未分化なものとして、また、萌芽的なものとして、個人に内在しています。

 

 人間としての能力は、段階的に発達することが認められています。このことを最初に提起したのは、『エミール』の著者ルソーでした。ルソーは、子どもを「小さな大人」に見立てて、大きな大人を育成しようとする、当時の支配的な教育観を、根底から否定しました。

 

 ルソーは、子どもにも、子ども特有の理性といえる能力が内在している、とし、それらの能力について、「人生のそれぞれの時期、それぞれの状態にはそれ相応の完成というものがあり、それに固有の成熟というものがあと述べています。さらに、ルソーは、大人の理性=人間的理性を獲得するまでに、五つの段階を経るとして、その全過程を詳しく説明し、それぞれの時期における成熟をまって、次の段階へ進む教育論を展開しました。

 

 発達段階を基軸にする普通教育の理念は、日本において制度化されていません。しかしながら、一九四七年に制定された学校教育法には、一見すると、普通教育という一元的な理念のもとに、それを三つの発達段階に区分したような規定があります。

 

 すなわち、小学校、中学校、高等学校の教育目的を、「初等普通教育」、「中等普通教育」、「高等普通教育および専門教育」としたのです。

 

 小学校から高等学校までを「普通教育」で貫き、初等、中等、高等の三段階に区分したのです。全体を「普通教育」で括っているのは、日本国憲法の規定を踏まえたものと考えられます。ここには、発達段階を基軸にする普通教育制度を構築する可能性が孕まれていました。しかし、そのことは必ずしも自覚されず、それ以上には発展しませんでした。戦前の学校区分観がそこには反映されていたと見るべきでしょう。

 

 すなわち、国民学校の教育目的は「初等普通教育」でした。中学校および高等女学校の教育目的は「高等普通教育」でした。中等普通教育という言葉は制度化されませんでしたが、一九二七年に沢柳政太郎は、自著『新日本史・教育篇』において、第四章を「中等普通教育」としています。初等普通教育、中等普通教育、高等普通教育という語句は、それぞれ意味を異にしながら、戦前において出そろっていたのです。

 

 なお、戦後の学校教育法において、高等学校が「高等普通教育及び専門教育」とされたのは、戦後の新制高等学校が、戦前の中学校と実業学校を取り込んだことと関連していま憲法第二十六条第二項に、「憲法の指導精神」と結びついた「普通教育」という語句が、導入されましたが、その理念の制度化にさまざまな不徹底があったと言えます。この不徹底がその後の高等学校再編に大いに利用されたのです。

 

 二〇〇七年に「改正」された学校教育法は、中学校の教育目的を「義務教育として行われる普通教育」とし、小学校は「義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なもの」としました。高等学校は「高度の普通教育」としています。これは重大な問題といえます。

 

 第一に、小学校から高等学校までを、全体として「普通教育」としたうえで、それぞれを三段階に区分する、というそれ以前の学校教育法の見地が放棄されていることです。ともかくも可能性として期待された段階規定が、なんの説明もなく、法律から消滅したのです。

 

 第二に、義務教育の中に普通教育が組みこまれたことで

 

 第三に、「普通教育」という言葉を用いながらも、高等学校の教育目的を「高度な普通教育」として、中学校以下の教育目的と区別していることです。それは、戦前にあって、「初等普通教育」と「高等普通教育」とが、複線型学校制度のもとで、異質な学校体系であったことを想起させるものです。

 

 教育基本法「改正」案の国会審議において、「改正」をリードしていた保利耕輔議員が、旧制中学校を長時間にわたって賛美していました。今日の政府・財界が、いかに戦前(旧制)の学校制度の復活を望んでいるか、の表れと見ることができます。

 

 

 

  第五節 学力=普通教育において求められる能力

 

 

 

 学力は、一般的には、「学校における学習で獲得した能力」と理解されていますが、他にも、学校での成績や、テストで測ることの出来た能力など、多様に受けとめられています。このような状況のもとで、「学力論争」とか「新しい学力」、「学力低下」、「学力向上」などの議論や政策が展開されているのが現状です。「学力」概念の混乱状況を再整理する議論も出ています。

 

 佐藤学氏は、「学力」とは、①achievementの翻訳語であり、achievementは「到達する」という機能を表す語であり、実体を示す語句ではない、②日本語の「学力」という場合の「力」とは「能力」であり「権力」を意味するが、achievementにはそのような意味は含まれていない、③したがって、achievementの本来の意味を確認したうえで、そこから「学力」とは「学校で教える内容」についての「学びによる到達」である、と定義していま到達とか達成という意味に着目すること自体は重要ですが、日本国憲法の見地から言えば、普通教育の目標の到達、すなわち、人間としての基本的能力が達成されたかどうか、が学力として求められることになるのではないでしょうか。「学校で教える内容」や「学び」からは学力の理念的な意味があいまいになるのではないでしょうか。

 

 筆者は、以上のことをふまえた上で、「学力」を「普通教育において求められる能力」と定義することにします。

 

 「人間を人間として育成する教育」とする普通教育観に立つとすれば、すべての子どもたちが、社会の成員にふさわしく、人間として、育成されているかどうか、人間として必要な能力が、それぞれの発達段階にふさわしく育成され、人間としての理性的判断力が形成されているかどうかが、学力の基本的な内容になります。

 

 あの子は字を書くのが上手だ、という場合、その子どもに対する評価や期待は、保護者や教師やそれぞれの専門家などによって、異なります。やっぱりお父さんの子ね、と受けとめることもできますし、書くだけではなく読むほうもがんばってほしい、ととらえる場合もあります。また、書道家としてスジがあると受けとめる場合もあるでしょう。それぞれにおいて出来・不出来とか成績が、問題となります。

 

 教師の場合はどうでしょうか。あの子は字を書くのが上手だ、というのはその子のその時点での特質に過ぎません。その特質にも考慮しながら、その子ども(児童・生徒)について、将来、社会の一員として、自ら判断できる人間として育っていく上で、どのような能力が育っているか、どのような能力が不足しているか、どのような学習が足りないか、どういう仲間関係が必要か、などを総合的に判断し評価するものです。そのような総合的な判断が求められる専門家は、教師以外にはありません。

 

 冒頭に掲げた「学校における学習で獲得した能力」という定義では、なぜ学力として不十分なのでしょうか。

 

 学校といっても、現在の日本の場合、学校での学習・教育の大半は学習指導要領において特定され、しかも、幾重にも管理された学校のもとにおかれています。したがって、「学校における学習で獲得した能力」の実質は、学習指導要領が指示する学力ということにならざるを得ません。

 

 普通教育は、子どもたちが、社会の成員として自立したときに、現実の社会をどのように判断するかは、子どもたちが獲得してきた理性的判断に委ねる、という見地に立ちます。ですから、「普通教育として求められる能力」としての学力と、あらかじめ特定の社会に適応するような、あるいは適応することを余儀なくされる能力、としての学力とは、本質的に性格を異にするのです。

 

 なお、学力=「普通教育として求められる能力」は、学校内でのみ習得されるものではありません。家庭や地域社会であっても、学力についての基本的な理解をもとに、相互に協力し、全体として普通教育が求める学力の習得を保障することは、むしろ憲法上の要請として必要なことです。

 

 学習指導要領が要請する「学力」を前提に、学校、家庭、地域社会が「連携」するのか、普通教育がもとめる能力についての共通理解のもとに、学校をはじめ地域・家庭等が連帯・協力するのか、が問われているのです。

 

 

 

  第六節 普通教育の目標

 

 

 

 普通教育は「人間を人間として育成する教育」と述べてきましたが、その目的・目標とはどういうものでしょうか。

 

 ここで参考になるのは、一九四七年制定の学校教育法において、「初等普通教育」の目標として左記のように八項目が掲げられていることです。

 

 

 

一 学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。

 

 二 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。

 

三 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

 

四 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。

 

五 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。 

 

六 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。

 

七 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。

 

八 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

 

 

 

  もちろん、これらの「目標」について、このような目標を法定化すること自体どうなのかとか、過不足を指摘する、など学術的に検討することは可能ですが、普通教育の理念に則して理解する限り、よく整理された目標と言えると思います。

 

 当時の学校教育法(この目標規定に関しては二〇〇七年改正前までの学校教育法)は、この八項目の上に、「中等普通教育」として三項目、「高等普通教育」として三項目の目標を掲げています。「中等普通教育」の三項目、「高等普通教育」の三項目には「初等普通教育」の八項目が組み込まれていると理解されます。普通教育自体の目標についての規定はありませんが、内容から見て「初等普通教育」の八項目の目標で、普通教育の目標は、概ね網羅している、と言えます。

 

 これらの目標が、同時に制定された日本国憲法や教育基本法と一体となって、具体化されたならば、戦後の普通教育はすばらしい成果をあげたことは間違いありません。しかし、第三章第四節で述べるように、学校教育法が当初掲げた各学校の普通教育の目標は、教育基本法の理念に反する教育課程政策のもとでその生命力を喪失させられていきました。二〇〇七年の学校教育法「改正」はその方向をかつてなく大幅に推し進めるものです。

 

 「改正」学校教育法は、これまでの「普通教育」に対応する語句を、「改正」教育基本法にならって、「義務教育として行われる普通教育」とあらためています。そのうえで、「改正」教育基本法が掲げる教育目標を受けて、「義務教育として行われる普通教育」の目標を十項目掲げています(第二十一条)。

 

 ところで、中学校の教育目標が「義務教育として行われる普通教育」となり、小学校の教育目標が「義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なもの」と改められたことによって、指導方法を変えなければならないのでしょうか。そのようなことはありません。「改正」教育基本法や「改正」学校教育法が「義務教育として行われる普通教育」とあらためたところで、憲法は普通教育をすべての子どもたちに受けさせることを国民に求めているのです。「普通教育」と「義務教育として行われる普通教育」とは同じものとは言えませんが、指導方法のうえで、どのように異なるかは、法律上、必ずしも明確ではありません。

 

 ここでは「義務教育として行われる普通教育」として掲げられている第三項目のみを取り上げて、このことについて検討することにします。第三項目は次の通りです。

 

 

 

 「我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 

 

 

 最初の「我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き」についてのみ検討することにします。

 

 この教育目標を「改正」教育基本法や「改正」学校教育法の理念に即して指導しようとした場合、どのような指導が考えられるでしょうか。

 

 一般的に考えられることは、「我が国と郷土の現状と歴史」について、学習指導要領やその解説書等に即して、どのような内容が、日本人として、国民として、正しい理解に導くことになるのかをしっかり教材研究し、豊富な資料等を用意し、これこそが正しい理解を導くことになる、という確信をもって指導にあたる、ということが考えられます。全体を貫くのは子ども不在の授業方法ということになります。

 

 他方、「普通教育」の理念に立った場合は、「我が国と郷土の現状と歴史」について、どのように理解することが、人間として正しいといえるのかについて子どもたちが判断できる能力を習得できるように指導する、ということが考えられます。

 

 「我が国と郷土の現状と歴史」について、子どもたちが、家族や参考書あるいはさまざまなメディアなどから見聞してきたことを持ち寄り、それらについて各自の理解を交流しあうことで、さまざまな理解があることを知ること、また、もっと知らなければならない知識があることを学びあうこと、そのような学習を通して、これまで支配者は何を求め、庶民は何を求めてきたのか、そのような歴史を通じて人々は何を根本的に求めてきたのか、そこを貫く人間の努力というものはどのようなものか、などを、教師の指導を交えながら、学習を深める授業が求められるのです。

 

 このような授業の積み重ねを通して、「国や郷土」などについてより深く理解することによって、それらについてのなんらかの価値的判断ができるようになるのです。このような教育を通して、まさに主権者として求められる判断力、基本的人権の自覚、平和のうちに生存する権利についての意識などが、形成されることになるのです。

 

 このような指導を促す目標設定は、すでに一九五八年改訂の中学校学習指導要領・社会科の「目標」において示されています。そこには次のように記述されています。

 

「人間生活と自然との関係、地域相互の関係を考えさせ、その底には共通な人間性が流れていることを理解させ、広い視野に立って、郷土や国土に対する愛情を育てる」(傍点筆者)

 

 普通教育の目標は、このように、具体的な授業のあり方とも密接に関連するものです。教育目標が「義務教育として行われる普通教育」になったからといって、指導方法まで変える必要はないのです。

 

 

 

 第七節 普通教育によってこそ人格は完成される

 

 

 

 「人間を人間として育成する」普通教育は、人格形成と、どのように関係するのでしょうか。結論から言えば、普通教育は、子どもの人格形成と相互規定的な関係にあります。普通教育の程度が子どもの人格形成を規定すると同時に、子どもの人格形成は普通教育をも規定するといえます。 

 

 人格を「完成」させるためには、この相互の関係をそれぞれ充実したものにするとともに、より緊密な関係にすることが求められます。子どもたちは充実した普通教育を通して、人間としての、そしてまた個人としての、能動性を発揮することになります。子どもたちのこの能動性に促されて、子ども社会や社会全体もまた能動性が与えられ、子どもたちの人格形成に影響を及ぼします。そのことが、再び、普通教育の世界に作用して、その充実を促すことになります。普通教育と子どもの人格形成との相互関係は、人格の完成に向かって、相乗的に発展していくのです。

 

 個人はすべて現実には人格として存在しています。子どもの人格は、基本的には、その子どもが生活している社会制度全体(現実の大人社会とそのもとにおかれる子ども社会)によって規定されていますが、より具体的には、親子・兄弟関係、友人関係、クラスや団体等での仲間関係など、その時期その状況の、さまざまな組み合わせによって、主観的にも客観的にも、規定されます。子どもの人格も、子ども社会特有の社会的諸関係の総体、として現われるのです。

 

 この社会的諸関係の総体には、当然、教育関係も含まれます。教育や普通教育がどのようなものであるかによって、その個人の人格は大きな影響を受けます。国家主義的な教育や競争原理主導の教育を基軸とする社会においては、特定の価値とむすびついた、あるいは分裂傾向を帯びた人格が形成されます。

 

 二〇〇六年に「改正」された教育基本法は、第一条(教育の目的)の冒頭に「教育は人格の完成を目指す」としています。この場合の「人格」は、「改正」教育基本法第一章「教育の目的及び理念」の趣旨と合わせ考えると、「国民」にふさわしい人格の完成が目指されることになります。つまり、「国民」であることが絶えず意識されるような社会的関係の中で、そこで求められる生活規律や生活規範を体得し、それを価値基準として行動できる人格が、教育をはじめ社会全体で目指されることになるのです。しかし、それは憲法理念とは相容れないものです。 

 

 一九八五年の臨時教育審議会第一次答申では、「人格の完成」について、「個々の自然的人間をこえて普遍的、理想的、超越的な究極の価値を永遠に求め続ける人間の営みの中にこそある」と説明していますが、「改正」教育基本法に言う「人格の完成」も、このような恣意的な人格観につながるものです。ここから、国定の「人格像」が導かれ、それを「社会総がかりで」国民全体に強要する道が開かれるのです。

 

 一九四七年に制定された教育基本法にも、「教育は人格の完成をめざし」(第一条)とされていました。言うまでもなく、この場合の「人格の完成」とは、「憲法の指導精神」を実現するために、「人間を人間として育成する」普通教育を含む広義の教育のもとで、めざされるものです。

 

 この「人格の完成」については、教育基本法の制定過程において、当初、「人間性の開発」とする見解が表明されていました。しかし、「人間性の開発」という言葉には、自然の野生をもそのまま伸ばすというように誤解される可能性があること、一方、「人格」については「人の人たるゆえんの特性」を表現することができる、などの議論の結果、「人格の完成」という語句が採用されたので

 

 したがって、子どもの「人格」は、普通教育によって、たんに受動的に形成されるのではなく、能動的に「完成」させることができるのです。子どもたちは、普通教育のなかで、「人間性」を意識し、そのなかで、自己や仲間や社会にとって共通に大切にすべきものを探求し習得していきます。その探求や習得は、教師の指導のもとで、子どもたちが学びあう学習・教育環境のなかで、より自覚的に行われるのです。

 

 この過程は、同時に、個々の子どもにとっては、それぞれのさまざまな社会的関係そのものなのです。つまり、普通教育の過程と人格形成とは一体のものといえます。ですから、「人格の完成」は子どもから出発する普通教育の充実の程度に規定されるのです。