第三章 普通教育の構造

 

 

 

 

 

  第一節 教育課程を編成するとは

 

 

 

 「人間を人間として育成する」普通教育、別言すれば、子どもの人間的諸能力を発達させ、人間社会の一員として育成していく社会的営みとしての普通教育は、いくつかの段階からなる一定の期間を要する構造(フレームワーク)を必要とします。期間とは子どもの誕生から成人までの約十八年間ということですが、そのことについてはあらためて第六章第二節で述べることにします。

 

 普通教育の構造については、英語圏では主として、字義を競馬の走路に由来するカリキュラムという言葉が充てられていますが、戦後の日本では、教育課程もしくは教科課程などという言葉が用いられています。その場合でも、教育学的な概念としての教育課程と、学校教育法や学習指導要領あるいは教育政策などで用いられている教育課程、とは区別されます。また、カリキュラムにしても教育課程にしても、大学や一般社会で、教育学でいう概念とは別に、それぞれの意味で用いられています。

 

 普通教育の理念・目標からどのような教育課程が導かれるのでしょうか。この場合の教育課程については、一般に、「学校で何を、いつ、どのような順序で教え、学ぶのについての基本的枠組と捉えられています。普通教育の見地からは、普通教育についての基本的枠組、ということができます。

 

 教育政策の上で、教育課程は、近年、大きな基調転換があったとされています。

 

 一九九八年の教育課程審議会答申は「これまでの知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育から、自ら学び自ら考える教育へと、その基調の転換を図り、子どもたちの個性を生かしながら、学び方や問題解決などの力の育成を重視するとともに、実生活との関連を図った体験的な学習や問題解決的な学習にじっくりとゆとりをもって取り組むことが重要である」と述べています。これは「個性重視」を改革原理とする一九八五年の臨時教育審議会答申の、教育課程政策分野での具体化、ということができます。

 

 「知識を一方的に教え込む」ことを基調としてきたこれまでの教育課程編成原理をまじめに転換するというのであれば、明治以降における教育課程制度・政策・行政等についての根本的な再検討や民主的転換が不可欠です。しかし、そのような認識を欠落させたままの教育課程政策の転換は、どういう方向にむかうのでしょうか。「子どもたちの個性を生かしながら」というキャッチフレーズに幻惑されて、このような教育課程政策の転換を「子ども中心主義」への転換、と見る捉え方も見られますが、果たしてそのように言えるのでしょうか。

 

 子どもの個性を生かすことと、子どもの立場に立つこととは、必ずしも同義ではありません。国家主義の立場からでも、子どもの個性に注目して、個性を細分化し、それらを、国家社会や資本主義的競争原理に都合の良いように再配置するということは、戦前日本でも行われたことです。

 

 一九九八年の教育課程審議会が打ち出した教育課程政策の転換は、政府・財界主導という意味では、決して転換ではなく、政策内部における力点の移動とでも言うべきものです。

 

 一方、普通教育についての基本的枠組としての教育課程、あるいは、子どもの立場に立つ教育課程、とはどういうものでしょうか。

 

 普通教育の教育課程についての理念は、ルソーによってつぎのように表明されていました。

 

 

 

「人は、理性によって子どもを教育しようとしている。それは終わりにあるものからはじめることだ。つくらなければならないものを道具につかおうとすることだ。子どもが道理を聞きわけるものなら、かれらを教育する必要はない」(上、一二四)

 

「人間のあらゆる能力のなかで、いわばほかのあらゆる能力を複合したものにほかならない理性は、もっとも困難な道を通って、そしてもっともおそく発達するものだ。」(上、一二四)

 

「人間にふさわしい研究は自分のいろいろな関連を知ることだ。肉体的な存在としての自分だけしかみとめられないあいだは、事物との関連において自分を研究しなければならない。

 

 道徳的な存在としての自分が感じられるようになったら、人間との関連において自分を研究しなければならない」(中、一一)

 

「かれの感受性が自分のことだけに限られているあいだは、かれの行動には道徳的なものはなにもない。感受性が自分の外へひろがっていくようになるとはじめて、かれはまず善悪の感情を、ついでその観念をもつことになり、それによってほんとうの人間になり、人類を構成する一員になる。だから、この最初の点にまずわたしたちの観察を向けなければならない。(中、二三)

 

「ほかの存在との物理的な関連において、ほかの人間との道徳的な関連において、自分を考察したのちに、かれに残されていることは、同じ市民たちとの社会的な関連において自分を考察することだ」(下、二二一―二二二)

 

「そのためにはかれはまず統治体〔政府〕一般の本質、さまざまな統治形態を研究し、さらにかれが生まれた国の統治体を研究して、この統治体のもとに生活することが自分にとって適当かどうかを知らなければならない」(下、二二二)

 

※(上、一二四)とは岩波文庫版『エミール』上巻の一二四ページ、を意味します。

 

 

 

 ここから導かれる教育課程の理念とは、①国家社会が要請する国家理性あるいは「公共の理性」から教育課程を構想するべきではない、②人間にとって必要な理性が育成されるには一定の複雑な順序・段階を経なければならない、③子どもたちは自然や社会全般と自分との関連を全面的に理解しなければならない、④子どもたちの感受性とその変化を観察し、そこに教育活動を合わせなければならない、⑤このような教育課程を通じて、人間としての理性、そして主権者たる国民としての理性を獲得することができる、と要約することができます。

 

 このような見解は、わが国の明治前期における教育課程政策にも、ある程度、反映されました。

 

 一八七七年、九鬼隆一文部省大書記官は、「普通教育」は「心性発達ノ自然ニ一致シ其発達ノ順序ヲ察シテ知識ヲ給スルコであると述べています。このような理念のもとで、小学校については、「小学教則」(学制期)、「小学校教則綱領」(教育令期)、「小学校ノ学科及程度」(小学校令)あるいは「小学校教則大綱」(一八九〇年)などが制度化されました。その後は、小学校令施行規則等に移行しています。九鬼のような見解は、明治二〇年代以降の、普通教育から国民教育への転換とともに、排除されていきました。

 

 戦後は、憲法・教育基本法あるいは学校教育法において、普通教育の理念・目標が法定されたにも関わらず、その理念・目標は教育課程政策には具体化されていきませんでした。

 

 一方では、経験主義に基づく教育課程論が展開され、多様なコア・カリキュラムが実践されますが、他方では、文部行政のもとで、「今日の社会状態」から導かれる「国民一般の教育目標」を基調とする「学習指導要領一般編(試案)」が作成され、それが最大限に利用されて、再び、教育課程制度の、国家主義的再編が推進されていくことになりました。

 

 

 

  第二節 教科は能力の多面性に規定される

 

 

 

 人間としての基本的な能力の全体を、身体的能力、知的能力など相対的に異なるいくつかの能力に区分することができます。どのように区分できるかについては、さまざまな見解があり、また、国や時代によっても異なります。区分されたそれぞれの能力に対応して、そこで育成すべき内容と順序などを括ったものが教科です。

 

 すでに述べたように、一九四七年に制定された学校教育法において、初等普通教育の目標として、八項目が挙げられていました。その目標の末尾の多くが、「能力を養う」という語句で結ばれています。能力別に教育目標が設定され、それらの能力が相互に影響しあって、結果として、総合的な判断力なり、人間的理性が育成できると、考えられたのです。

 

 戦後当初、文部省は、この八項目の目標は、教科に対応すると説明していました。戦後最初の学習指導要領にも、「教科過程」という語句が用いられていました。教科課程は、文字通り、教科によって構成されていたのです。

 

 しかし、教科ではない「道徳の時間」や、他の教育活動についても、教育統制が及ぶようにする必要から、教科課程ではなく、教育課程という語句が、法令用語として選択されていくことになります。教育課程に、教科ではない領域等が入り込んできました。

 

 戦前・戦後を通じて、わが国の場合、教科の種類、教育課程の構成等は大きく変遷しています。

 

 辞典の上では、教科は「学校教育で、児童・生徒が学習する知識や技術を系統立てて組織した一定の分野。国語・社会・算数・理科など」(傍点筆者)と説明されています。

 

 学習指導要領では、教科の定義に関して変遷があります。一九五一年改訂の学習指導要領では、概ね、教育の一般目標の到達を分担するもので、各方面にわたる学習経験を組織し、計画的、組織的に学習せしめるための組織、と説明されています。

 

 これらの説明によれば、教科は能力に基づく区分ではなく、知識や技術あるいは学習経験等にもとづく区分になっています。知識や学習経験等によって教科を構想することになれば、教科の構成や内容に政策動向や恣意性が入ることになります。

 

 普通教育の見地からは、教科は、人間の能力の相対的分化可能性に基づいて構成するのが合理的と言えます。

 

 一九七七年改訂の小学校学習指導要領では、戦後はじめて、低学年に限定された「生活科」という教科が新設されました。学年によっても、学校種によっても、あるいは時代によっても、教科構成が変わるというのは合理的とは言えません。「生活科」という教科の設置に合理的根拠があるならば、小学校全体、あるいは中学校以降にも設置すべきです。

 

 能力を基本に教科を編成するならば、このような目まぐるしい増減、変遷等は基本的には解消することになります。

 

 

 

  第三節 教育課程の基準をめぐって

 

 

 

 教育課程の編成、授業時数、教育課程の基準やその効力等は、だれがどのように、決定するのでしょうか。

 

 学校教育法施行規則(省令)は、教育課程の基準は「学習指導要領によるものとする」と定めています。現在の日本では、文部科学大臣の諮問を受けて、中央教育審議会(教育課程分科会)が教育課程の「改善」方向を審議し、答申します。その答申を受けて、文部科学省が学習指導要領を作成し、大臣が官報に告示します。このことを根拠に、学習指導要領は「法的拘束力を有する」文書である、とされています。

 

 二〇〇八年三月に改訂された学習指導要領は、「改正」教育基本法、「改正」学校教育法を受けて、これまでになく国家主義的な性格を強め、かつ拘束性を強めています。

 

 「改正」以前の教育基本法のもとでも、永年にわたって、教育行政機関が学習指導要領を、教育課程の基準として、学校や教職員に強要することの問題性が指摘されてきました。

 

 二〇〇六年九月、東京地裁は「東京都君が代予防訴訟事件」について判決を出しました。そこでは、「学習指導要領は、原則として法規としての性質を有するものと解するのが相当である」としつつも、その限界について、つぎのような判断を示しています。

 

 「国の教育行政機関が、法律の授権に基づいて普通教育の内容及び方法について遵守すべき基準を設定する場合には、教育の自主性尊重の見地のほか、教育に関する地方自治の原則をも考慮すると、教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的な基準に止めるべきものと理解するのが相当である」(傍点筆者)

 

 この判決は、「教育の自主性尊重の見地」、「教育に関する地方自治の原則」を根拠にしていますから、教育基本法が「改正」された今日でも、妥当性を有するものです。

 

 と同時に、この判決は、「普通教育」という語句を用いてはいるものの、憲法第二十六条第二項について、踏み込んだ解釈をしているわけではありません。

 

 憲法の基本原理および「人間を人間として育成する」普通教育の理念にたって、教育課程に関する「大綱的な基準」を決定する第一義的権利主体は、主権者たる国民であり、その権利は、普通教育を受ける子どもの立場に立って行使されなければなりません。教育課程の基準としての「大綱的な基準」について、国民合意が形成されていない状況のもとで、教育行政機関が一方的に作成した文書である学習指導要領を、官報に告示しただけで「法規としての性質を有する」と言えるのかどうか、さらに検討されるべきではないでしょうか。

 

 戦後、学習指導要領はどのような意図、どのような性格のもとに、作成されたのでしょうか。

 

 敗戦にともなう占領期に、連合国司令部(GHQ)のもとで戦後改革が行われますが、カリキュラム改革は重要課題の一つとして位置づけられていました。ところが、日本政府や帝国議会をはじめ教育刷新委員会等でも、日本国憲法や教育基本法、学校教育法の制定に奔走しますが、そこでの議論はカリキュラムをどうするかにまでは及びませんでした。戦前と同様、結果として文部省に託されることになりました。ここに重大な弱点があったと言えま

 

 文部省は、省内に、教科過程改正委員会を設置します。そこでの審議の過程で、民間情報教育局等からの示唆を受け、アメリカで用いられているcourse of studyに準じた冊子を、作成することになります。それが、「学習指導要領一般編(試案)」という形で、一九四七年三月に、文部省著作物として、発行されることになったのです。

 

 「学習指導要領一般編(試案)」は、教師の学習・教育指導のための手引書という性格のものでした。「教育の一般目標」、「児童の生活」、「教科過程」、「学習指導法の一般」および「学習結果の考査」という、広範囲な内容で、構成されていました。

 

 この「学習指導要領一般編(試案)」には、憲法や教育基本法が掲げる教育理念・原則、さらには普通教育の理念や目標は基本的には反映されていませんでした。

 

 すでに述べましたが、この時期に文部省が発行した『新教育指針』には、「教育の目的は、人間を人間として育成すること」と書かれていますが、このような教育目的観も、最初の学習指導要領には反映されていません。

 

 文部省は、一九四七年五月に出した学校教育法施行規則において、早くも「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱いについては、学習指導要領の基準による」(傍点筆者)と定めたのです。このことによって、文部省は、より広範な内容にわたる学習指導要領をテコに、戦前と同様、あるいはそれ以上に、教育課程・教科内容等に関する支配・統制権を、事実上確保することになったのです。

 

 教育課程制度の根本的な改革は、今日、普通教育の理念を実現するうえで最重要かつ焦眉の課題と言えます。

 

 

 

  第四節 学習指導要領の変遷が意味するもの

 

 

 

 学習指導要領はこれまで八回改訂され、その度に重要な変質が行われてきました。小学校を中心に、その変質過程を見てみましょう。つぎのページに掲げた、「小学校学習指導要領における教育課程等の枠組みの変遷(概念図)」を、ご覧ください。

 

 最初の「学習指導要領一般編(試案)」では、「教科課程」は、文字通り、教科のみによって構成されていました。

 

 一九五一年の改訂で、週三時間程度の「教科以外の活動の時間」(教科外の時間)が加わり、二領域構成の「教育課程」になりました。内容としては、「児童全体の集会、児童の種々な委員会・遠足・学芸会・展覧会・音楽会・自由な読書・いろいろなクラブ活動」などが事例として挙げられ、「どのようなものを選び、どのくらいの時間をそれにあてるかは、学校長や教師や児童がその必要に応じて定めるべきことである」とされていました。また、その方法として、「なすことによって学ぶ」というプラグマティズムに立った原則が強調されました。事例を挙げること、いわば「学校裁量」に委ねていること、教育方法にも言及していること、教科と同様、「教育課程のうちに正当な位置を持つべきである」と位置づけられたこと、など、その後の教科外教育活動にたいする、文部省の支配・統制強化の手法が、すでにあらわれています。

 

 一九五八年の改訂では、教科や「教科以外の活動の時間」とは別に、「道徳の時間」が新設されました。また、「教科以外の活動の時間」は「学校行事等」と「特別教育活動」に分割され、あわせて四領域となりました。

 

 「道徳の時間」の目標に関する記述には、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」という教育基本法前文の文言が、「普遍的にしてしかも」という箇所を削除して用いられています。早くも、教育基本法の解釈改悪が始まっています。

 

 一九六八年の改訂では、全体として、「現代化」という方向のもとに位置づけられました。領域としては、「教科」、「道徳の時間」および「特別活動」の三領域

 

(ここに図表「小学校学習指導要領における教育課程等の枠組みの変遷(概念図)」が入ります。省略)

 

なりました。教育荒廃が顕在化していきました。

 

 一九七七年の改訂では、「ゆとりの時間」が新設されることになりました。詰め込み学習に対する社会的批判を受けて、「学習負担の軽減」の名のもとに、教育水準を落とすことなく授業時間を圧縮し、そこから捻出した時間を「ゆとりの時間」に充てることになったのです。教科の時間が圧縮されたことで、勉強についていける子どもと、ついていけない子どもとの差がいっそう広がることになりました。性格が不明確な「ゆとりの時間」の導入で、その授業計画の企画など、教職員の多忙化が増すことになりました。

 

 一九八九年の改訂では、低学年の理科と社会が廃止されて、「生活科」という教科が新設されました。

 

 低学年における自然認識、社会認識がどのようなものであり、どのように育成するかは、きわめて重要な教育課題です。将来の科学的批判的認識力やすべての人間に求められる判断力の基礎となるものです。理科・社会の内容や指導方法に問題があるとしても、それはそれで改善していけばいいわけで、広範な議論もないまま、廃止するというのはあまりにも性急と言えます。

 

 「生活科」は、子どもの身近な体験を基本に、「自立の基礎を養う」ことを目標としています。そこでは、「自ら学ぶ」という言い方のもとに、体験された内容を子どもたち同士でお互いに交流し合い、さらに高い認識にまで引き上げていくことは目標とされていないのです。本来、人間としての「自立」は、学習活動、教育活動の総合によって、結果として、もたらされるものです。子どもたちの個々の認識世界を日常体験に狭め、固定化することによって、人間として自立することは可能なのでしょうか。 

 

 一九九八年の改訂では、これまでの三領域構成とは別に、あらたに第三学年以上に「総合的な学習の時間」が導入されることになりました。学習指導要領では「横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行う」とされています。低学年の「生活科」を受けるような位置づけになっています。ここでも、自然体験、社会体験などさまざまな体験が強調されています。

 

 名称が似ていることから、「総合学習」と同類のものとして理解されがちですが、総合学習と「総合的な学習の時間」は本質的に異なるものです。

 

 「総合学習」は、教科領域でも実施可能なものですし、教科学習を充実させるうえで有効な教育活動であり、実際にすでにさまざまに取り組まれてきた歴史と現実があります。そこでは「体験」がとくに重視されているわけではありません。

 

 他方、「総合的な学習の時間」は、教科領域とはべつに置かれるもので、教育方法も異なるものです。そこでは、体験重視など特定の学習活動が重視されるのです。「総合的な学習の時間」は、指導計画が明確ではないうえに多岐にわたることから、教師の多忙化の原因にもなり、現実には学校外の人々に授業を「丸投げ」したり、高等学校では大学受験の補講などに使う、などの状況も生まれています。

 

 一方では、競争原理を基調とする詰め込み学習を強要し、他方では体験重視のもとで、個々人バラバラな学習活動に任せる、このような教育活動全体を通して、どのような人間形成が目指されているのでしょうか。

 

 もちろん、教職員によっては、教科と「総合的な学習の時間」とを関連づけて、子どもの立場に立った実践も行われています。そのことと「総合的な学習の時間」を導入する意図とは、区別して議論する必要があります。

 

 

 

第五節 二〇〇八年改訂の小学校学習指導要領

 

 

 

 二〇〇八年三月、八度目の学習指導要領の改訂が行われました。「改正」教育基本法、「改正」学校教育法を受けた改訂ということで、これまでの改訂とは区別して検討することにします。

 

 教育課程の領域構成としては、改訂前の三領域から、「外国語活動」を新設し、「総合的な学習の時間」を一領域として組み直すなど、計五領域構成になっています。

 

 今回の改訂では、「教育課程編成の一般方針」として、第一に、「生きる力をはぐくむこと」を掲げています。

 

 「生きる力」については、この改訂のもとになっている中央教育審議会の答申((二〇〇八年一月)では、「将来の職業や生活を見通して、社会において自立的に生きるために必要とされる力」と説明されています。また、その後、文部省が保護者向けに発行した小冊子『生きる力』(二〇〇八年四月)では、「生きる力」とは「知・徳・体のバランスのとれた力」と説明されています。普通教育がめざす、人間として生きる力、ではなさそうです。

 

 一般的に言って、将来の職業や生活を見通すことは簡単なことではありません。だからこそ、どんな社会になっても、人間として生きていけるように、各自のもって生まれた能力をそれらの発達の筋道に即して育成する、普通教育が求められるのです。

 

 今日、「将来の職業や生活」はどのように見通されているでしょうか。だれしもが将来に対する不安を抱えているのではないでしょうか。この「不安」を生み出している現実が大人社会に起因しているとしても、そのことを含め「将来の職業や生活」について、しっかりとした判断力や見通しを持つことも、人間が人間として自立する上で求められることです。そのうえで、大人社会で承認されている諸権利を生かし、お互いに主権者として、連帯して社会を変えていく方向に自らも参加していくこともまた、大人社会で自立するうえで大事なことです。

 

 ところが、学習指導要領は、そのようなことにはまったく目を向けることなく、見通すことが困難な将来に向かって、自己責任で自らの職業や生活を見いだすことが自立的に生きることなのだ、そこを見誤ったり逸脱すると、社会からはじきとばされてしまうよ、そうならないように自分の個性を見きわめるんだよ、学習や教育はそのためにあるんだよ、と諭すかのようです。

 

 「知・徳・体のバランスのとれた力」についても、同様のことが言えます。知・徳・体とは、明治二〇年代に、社会進化論を唱えたイギリスの思想家、H・スペンサー(一八二〇ー一九〇三年)の著作などに依拠して、わが国で普及した言葉です。

 

 スペンサーの社会観は、社会を人間の身体のような有機体とみなし、たとえば頭の働きをする一部の人々と身体諸器官の働きをする多くの人々などから構成されている、と主張します。「知・徳・体」の基本的内容は、頭脳をつかさどる特定の人々が制度設計し、一般国民は、その方針(学習指導要領)に沿って、教育を受け、それに沿ってひたすら努力することが求められます。結局、与えられた社会制度に順応して、それぞれ分に応じて、「生きる力」を発揮して生きよ、と言うことになるのです。

 

 今、格差社会の広がりの中で、ワーキングプア的な生活に脅かされながら、これ以上耐えられないとして、社会の在り方そのものを問いつつ、お互いに連帯して、より人間的な生き方を求めよう、という若者たちが増えている、と伝えられています。このような生き方は、学習指導要領の見地からは、けっして歓迎されないのです。

 

 改訂された学習指導要領は、愛国心教育などがこれまで以上に重視されています。小学校の社会科第六学年の部分でも、「神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方に関心をもつこと」と記述されています。これらが「改正」教育基本法が掲げる教育目標の具体化であることは言うまでもありません。社会の生成・発展の歴史を、ある種の文化によって理解するという「考え方」は、将来の政治・経済社会をも、国などが構想する特定の「文化」から説明し、それに国民を適合させる、という支配者の論理に合致することになります。

 

 教育政策上の用語としての「生きる力」とは、一九九六年の中央教育審議会の答申が「ゆとりの中で生きる力を」というスローガンを掲げたことに由来します。今回の学習指導要領では「ゆとり」という言葉が姿を消しています。「ゆとり政策」は撤回されたのでしょうか。

 

 先に紹介した文部科学省の冊子『生きる力』には、「〈ゆとり〉か〈詰め込み〉かではなく、知識や思考力育成等の両方が大切です」(一部略)と書かれています。文科省は「ゆとり」政策を改めたのではありません。文科省はもともと「詰め込み」教育の反省から「ゆとり」教育を構想したのではありません。

 

 「ゆとり」政策は、教科領域に関しては、もっぱら教育内容の三割削減として受けとめられ、それがために学力が低下したという批判が高まり、文部科学省としても一定の見直しを余儀なくされました。

 

 今度の改訂では、小・中学校で授業時数を増やすとしています。小学校で年間二八七時数(五%)、中学校で一〇五時間数(三・五%)がそれぞれ増やされています。競争原理、能力主義自体は変わりませんから、このままでは、これまでにない詰め込み教育が予想されます。しかも、あらたに「外国語活動」が第五・六学年に導入されます。「総合的な学習の時間」も短縮されたとはいえ、存続します。完全学校週五日制も変更はありません。したがって、不可避的に、長期休業期間が短縮されることになります。

 

 今度の改訂で、道徳教育の強化が目指されています。各学校では道徳教育推進教師を中心に、学校における全教育活動との関連で、道徳教育を進めていくとされています。また、「特別活動」の末尾にはひきつづき「国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」という一文が置かれています。道徳教育にしろ、特別活動にしろ、「改正」教育基本法、「改正」学校教育法のもとにおかれているわけですから、表記上は大きな変更はないとしても、法律を根拠にそれらの性格は大きく変わることになるでしょう。

 

 中教審の答申では、「教育課程外の学校教育活動」という枠組みを新設し、そこで長期休業期間中の任意参加の補充教室、水泳スクール、中学校の部活動等を行うとしています。それぞれが「学校教育活動」ですから、教師の仕事はかつてなく増加することになります。また、「任意参加の補充教室」が、保護者や子どもたちの要望(ニーズ)に応える、という一面をもつことになりますが、結局は、教育の不平等化を導き、教育格差、学力格差を増幅することは明らかといえます。教育上、きわめて重要な長期休暇期間のなかに「教育課程外の学校教育活動」が入してきて、子どもたちは、どこで、どのように、豊かな情操、感性、人間性を養うことになるのでしょうか。

 

 「ゆとり政策」として打ち出されてきた諸要因が基本的には存続していますから、「ゆとり政策」は「ゆとり」という言葉がカットされただけで、ひきつづき保持されているのです。

 

 

 

  第六節 あらためて「ゆとり」政策を問う

 

 

 

 そもそも、「ゆとり」政策は「教育水準の維持」を前提に、それについていけない子どもたちの学習負担を「軽減」する意図から、一九七八年以降、教育政策に導入されてきたものです。その当時は、ネーミングに惹かれて、教育関係者からも「ゆとり政策」が歓迎されました。しかし、歓迎されたのは「ゆとり」という言葉であって、その政策ではありません。なお、筆者は「ゆとり教育」ではなく「ゆとり政策」という言葉を使うべきだと思っています。

 

 「ゆとり政策」は、すでに述べた通り、政府・文部省の側から構想された「学習負担の軽減」策と言えます。それは、競争原理や能力主義自体を前提としつつ、そのもとで教育水準を維持しようとすれば、勉強についていけない子どもや学力低下を引き起こしかねない。だから、競争原理や能力主義のもとでも、一定の学習水準に到達できる一部の子どもたちを確保し、それが難しい大多数の子どもたちには、「一人ひとりの個性を生かし、自ら学ぶ」というキャッチフレーズのもとに、多様な学習機会を用意し、細分化された個性(得意分野、特技、資格など)を、国家社会のために活用しよう、という構想にほかならないのです。

 

 「ゆとり政策」は「ゆとりの時間」にはじまり、「総合的な学習の時間」や「習熟度別学級編成」の導入など、次第にエスカレートしていきました。「学校五日制」の導入と完全五日制への強化も「ゆとり政策」の一環でした。

 

 労働分野での週休二日制を地方公務員である教職員にも適用せざるを得なくなった状況の下で、教職員の賛同をテコに、「個性重視の原則」を具体化する教育政策として、学校五日制を導入したのです。

 

 学校五日制は、子どもたちを家庭に戻す、という美名のもとに、土曜日に学校で学習する機会を子どもたちから奪う政策でした。多くの子どもたちは土曜・日曜の適切な過ごし方ができずに、一部には、むしろ生活が乱れ、非行に向かうなどの結果を引き起こしています。

 

 金銭的に恵まれた子ども、あるいは教育熱心な家庭の子どもたちの一部は、学校以外の学習機関で、勉強をつづけることができます。

 

 しかし、文部科学省が学校五日制を導入した意図は、それに終わるものではありませんでした。結論から言えば、学校五日制を、学校の序列化を拡大するテコにしようと考えていたのです。

 

 文部省は学校五日制を導入した当時、『学校週五日制の解説と事例』(一九九二年)という冊子を発行しています。学校五日制を導入しても、教育水準を維持すると言うことですから、土曜日の授業時間は金曜日までに積み上げなければなりません。そのままでは、平日の授業時間が多くなり、学習負担が増加することになります。そこで、学校を序列化して、学習負担をおもいきり「軽減」できる学校などを創出することが構想されていました。

 

 この冊子によれば、小学校から高等学校、養護学校を含むすべての学校種を、教育水準を維持することを第一義的目標とする学校から、地域社会での奉仕活動等を主たる学習内容にする学校まで、六段階程度に事例を挙げて、それぞれ解説しています。第三事例以下に位置づけられる学校では、もはやまともな学習・教育は行われないような内容になっています。 

 

 今日、学校選択制の導入が国の政策として画策されています。保護者が学校選択できる状況を用意する。そのためには、学校が幾段階にも序列化していること、明確な数字で判断できる状況をつくること、などが必要です。完全学校五日制や二〇〇七年度から始まった全国学力調査などは、そのためにおおいに活用されるでしょう。

 

 学校選択制は普通教育の理念とは相容れません。人間を人間として育成する社会的営みである普通教育は、地域社会の理解と協力のもとで、教師と子どもたちとの愛情と信頼に満ちた一定の期間持続する教育過程を基軸にしてこそ、実現するものです。

 

 

 

  第七節 普通教育が求める教育内容

 

 

 

 普通教育はどのような教育内容を求めるのでしょうか。二〇〇八年改訂の小学校学習指導要領における教育内容を、国語を例に、検討することにします。

 

 学習指導要領では低学年、中学年、高学年ごとに「目標」と「内容」が記述されています。

 

 「内容」については、各学年とも、「話すこと・聞くこと」、「書くこと」および「読むこと」という三つの分野から構成されています。

 

 今度の改訂で、それぞれの分野に、数項目の指導事項が新設されています。また、「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」が加えられました。この事項は一九九八年改訂では「言語事項」となっていた部分です。

 

 「伝統と文化を尊重する」という「改正」教育基本法の教育目標に基づいて、指導内容をも統制する、という文部科学省の姿勢が強く表れています。

 

 「話すこと・聞くこと」、「書くこと」および「読むこと」のそれぞれに「話すこと・聞くことの能力を育てる」、「書くことの能力を育てる」、「読むことの能力を育てる(傍点筆者)という記述があります。その限りでは、能力を育成する、という見地が見られます。

 

 文字を前提とする「書く」「読む」以前に、聞く・話す能力の育成をそれぞれの学年に位置づけることは重要なことです。これまでの学習指導要領では「話す・聞く」が位置づけられていなかった時期があるのです。

 

 低学年(第一・第二学年)の「話すこと・聞くこと」では、「身近な事や経験した事などから話題を決め、必要な事項を思い出す」、「相手に応じて、話す事柄を順序立て、丁寧な言葉と普通の言葉との違いに気をつけて話すこと」が最初に挙げられ、「互いの話を集中して聞き、話題に沿って話し合うこと」で結ばれています。九八年の学習指導要領では「知らせたい事を選び、事柄の順序を考えながら、相手に分かるように話すこと」が最初に挙げられていました。

 

 子どもたちの「話す・聞く」世界には、仲間同士や家族での会話だけではなく、自分自身やテレビ・絵本等に出てくるもの、人形・玩具、自然さらには動植物等との対話をも含みます。「話す・聞く」などの能力を育成することは、外界を経験し、それらを分別し、世界および世界と自分との関係を、正確に認識し判断していくうえで、決定的とも言える基本的な教育内容と言えます。

 

 しかし、学習指導要領では、世界を「身近な事や経験した事」などに狭めています。狭められた世界でも「話す・聞く」能力は育成されますが、そこから「話題」を設定するということは、「話す・聞く」活動とは異なる活動です。何が話題になり得るかを考える、話題を構成する、話題を表現する、表現した結果あらわれた反応に対応する、などの能力が求められます。さらに、「必要な事項を思い出させ」ようとしています。

 

 「必要な事項を思い出す」と言っても、その解釈はさまざまです。だれが、どうして、なんのために、それを必要としたのか、を考えること、それらを思い出すこと自体、「話す・聞く」能力とは異なる独自の能力を必要とします。

 

 「話す・聞く」能力だけでも、広く深い能力を必要とします。自分が話したいことを明確に相手に話せる能力、相手の話をしっかり聞ける能力だけでも、無限の可能性が広がります。

 

 このような基本的な能力を育成していく過程で、子どもたちは、相手が何を話そうとしているのか、自分は相手の話を正確に聞くことができるか、なんのために話したり聞いたりする必要があるのか、人々を幸福にするためなのか、相手を傷つけるためなのか、話したり聞いたりすることは人間生活にとってどのような意味があるのか、話したり聞くことが不十分であればどういうことになるのか、なども理解されていきます。そのような過程を通じて、子どもたちは、人間というものを理解していくことができます。また「人間として」育成されていくことになるのです。

 

 学習指導要領が示すように、「話す・聞く」能力だけではなく、それにさまざまな能力を付加することで、かえって「話す・聞く」能力の育成を妨げることになるのではないでしょうか。

 

 低学年の「話すこと・聞くこと」における「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」の最初には、「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」とあります。「話すこと・聞くこと」のはじめにせっかく「身近な事や経験した事」(この狭さは別として)と特定しながら、突然「昔話や伝説」が出てくるというのも奇妙です。

 

 国語教育の内容が、言語教育の基本から導かれずに、教育外的な要請から導かれている、と言わざるを得ません。

 

 国語全体における教材についての留意事項として、「我が国の伝統と文化に対する理解と愛情を育てるのに役立つ」、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家、社会の発展を願う態度を育てるのに役立つ」ことなどが示されています。このような記述自体は、これまでの学習指導要領(とくに「道徳」の分野)にもありました。しかし、これらが「改正」教育基本法、「改正」学校教育法のもとに置かれることで、これまでとは基本的に異なる意味をもつことに、留意する必要があります。

 

 

 

  第八節 教師の仕事と普通教育

 

 

 

 普通教育において、教師の仕事は決定的に重要です。

 

 日本国憲法がめざす「普通教育」の内実を生み出すのは教職員に他なりません。

 

 一九四七年制定の教育基本法は、第六条において、「教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責を遂行しなければならない。このためには、教員の身分は尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」と規定しています。このような規定は、普通教育の理念を学校現場において生かしていく上で、きわめて重要なことです。

 

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)は一九六六年、「教員の地位に関する勧告」を採択しています(日本も批准)。その前文には「不断の道徳的・文化的進歩および経済的社会的発展に本質的な寄与をなすものとして、役立てうるすべての能力と知性を十分に活用するために、普通教育(general education)、技術教育および職業教育をより広範に普及させる必要を認め、教育の進歩における教員の不可欠な役割、ならびに人間の開発および現代社会の発展への彼らの貢献の重要性を認識」して「教員がこの役割にふさわしい地位を享受することを保障」しなければならない、と述べるとともに、「教育の進歩が教育職員一般の資格及び能力並びに個々の教員の人間的、教育的及び技術的資質に負うところが大きい」)とも述べています。教職としての専門性を①資格、②能力、③人間的、教育的及び技術的資質、の三点を挙げています。

 

 ところが、政府や文部科学省は、この間、教職員に対する統制強化を一貫してすすめてきました。そこで持ち出されてきた政策用語のひとつが「教員の資質向上」でした。ユネスコの勧告と比べて、「資質」に特化しているのが特徴と言えます。

 

 一九八一年、自民党は「教員の資質向上に関する答申」を提言しています。一九八六年の臨時教育審議会第一次答申も「教員の資質向上」を重要施策に掲げました。

 

 教育職員養成審議会は一九八七年、「教員の資質能力の向上方策等について」(答申)を提出しています。

 

 この答申では、教員に対して、「教育者としての使命感、人間の成長・発達についての深い理解、幼児・児童・生徒に対する教育的愛情、教科等に関する専門的知識、広く豊かな教養、そしてこれらを基盤とした実践的指導力」が必要である、としています。

 

 これらが、日本国憲法や教育基本法が示す普通教育の理念、「学問の自由」等によって、保障されているのであればともかく、法的拘束性を有すると宣告された「学習指導要領」や教育職員免許法制あるいはさまざまな政府主導の研修制度等の枠内に押しとどめられていることが、根本的問題と言えます。

 

 一九八五年の臨時教育審議会答申でも、教員の資質として「実践的な指導技術」を重視するとしています。実践的指導力の重視は、その後の教員政策の基本となります。また、「養成、採用、研修、評価などを一体的に検討する」としています。

 

 実践的指導力自体は、どんな場合でも必要ですが、それはしっかりとした教育理論に支えられていることが前提です。言うまでもなく、理論と実践は、一個の人間にあって不可分な二面性を有しており、相互に作用し合うことによってそれぞれ向上していくものです。 

 

 しかし、教員政策の場合、その指導力の前提となる教職の専門性はどこでどのように与えられているのでしょうか。これまでの度重なる教育職員免許法の改悪のもとで、免許基準は方法・技術に関する部分の比重が増大し、理論的な科目が占める比重は低下しています。理論はすでに「学習指導要領」等によって与えられている、と言わんばかりです。

 

 理論とその方向性を欠いた実践性が「資質」として期待されています。それは真の資質とは言えません。

 

 「資質」という言葉は、一般には、「うまれつきの性質や才能」(『広辞苑』)という意味合いで用いられるものです。教員には、生まれつきとも言えるほどの、子どもへの愛情や深い専門性や熟練性などが求められるのです。だからこそ、充実した教員養成機関が求められるのです。

 

 二〇〇六年に制定された「改正」教育基本法は、教員について「自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に務めなければならない」などと定めています。「全体の奉仕者」や「身分の尊重」の語句を削除して、本当に教師の使命は果たされるのでしょうか。

 

 一方、政府、文部科学省は、二〇〇七年、教育職員免許法を改悪し、教員免許更新制を導入しました。それは、教員の免許の有効期間を一〇年に限定し、教員免許更新講習を受講し合格しなければ、免許を没収し、教壇に立てなくするというものです。

 

 免許更新制に関する国会審議で、その目的を、伊吹文部科学大臣(当時)は「その時代その時代に必要とされる新たな知識をもう一度確認するため」と答弁しています。「新たな知識」とは、事実上、ほぼ一〇年ごとに改訂される学習指導要領等を意味することになるのではないでしょうか。学習指導要領が現場に徹底していないという危機意識が教育行政機関にあるように思われます。だから更新講習、と言うのでは、本末転倒と言うべきです。

 

 今日、教職員は極端な多忙を強いられています。きびしい縦型の経営原理のもとに置かれています。さまざまな精神的疾患が増加しています。ベテランの教師が自信を喪失して早期退職に追い込まれています。このような状況を一掃することの方がはるかに資質向上に有効なのです。

 

 ルソーは「同一の人間は一度だけしか教育にたずさわることができない」と述べています。それは、最初に教職についた段階で、教師としての基本的な資格を習得しておかなければならない、それさえあればその後のさまざまな苦労や変化があっても、教師同士の間で、切磋琢磨しながら、自己成長していける、ということを述べたものと解することができます。学校にそのような職場環境を取り戻すことが、今、切実に求められています。

 

 教員養成のあり方については、第六章第六節であらためて論じることにしています。