第四章 普通教育の過程と方法

 

 

 

 

 

  第一節 普通教育は学習をどう考えるか

 

 

 

 教育方法学においては、これまで、子どもたちは、教育内容の学習主体、として見なされてきました。その場合、教育内容は「文化(科学・芸術・技術)を、教育目的にしたがって子どもたちの学習に即するように選択し、それを学習課題として設定したもと説明されています。教育内容の背後には、歴史的に蓄積された文化が控えています。子どもたちは、そのような文化もしくは教育内容を、ひたすら学習する存在、として位置づけられています。

 

 この場合、教育内容を提示される前の子どもは、どのような存在なのか、がまったく見えてきません。子どもたちは、文化や教育内容が提示される以前に、すでに、さまざまな学習が蓄積されており、同時に、旺盛な学習主体なのです。

 

 ルソーは乳児期の子どもを念頭に、「この泣き声を人々はそれほど注意にあたいするものとは思っていないのだが、ここから人間の、かれの周囲にあるすべてのものにたいする最初の関係が生じてくる。ここに社会の秩序を形づくる長い鎖の最初の輪がつくられと述べています。それぞれ独自な「輪」とも言える学習世界とその変化・成長は、まさに何人にも把握できない、複雑かつ多面的な世界を形成しています。ルソーはそのことを「あなたがたが生徒を知らないということは、まったく確実なの「わたしたちはだれひとりとして、子どもの状態に自分をおいて考えることができるほどすぐれた哲学者にはなれななどと表現しています。日頃身近に触れていても、その子どもが、人間として、どのような状態にあるか、を理解することは簡単なことではないのです。

 

 このような学習世界を内に秘めた子どもたちは、さまざまに遭遇する社会的関係の中で、他者の学習世界にも接し、ぶつかり合い、交じり合い、再びそれぞれ独自な自らの学習世界の構造に沿って、しばしば無意識かつ無原則的に、その世界を変質させていきます。時には過度の叱責、注意等に反発して、反社会的な方向に向かって変質させていく場合もあります。反対に、褒められ、励まされるなどして、学習世界をより充実した方向に発展させていく場合もあります。

 

 学習関係が広がり学習内容が一定程度成長していく中で、個々人において学習に対する欲求、意欲、要求等も必然的に自覚されていきます。

 

 普通教育は、学習主体としての子どもたちの、そのような学習世界を前提とし、その学習世界の具体的な観察とむすびついて行われるものです。子どもたちの学習世界に関係なく、子どもたちの外から、あるいは上から、何らかの学習内容が押し付けられる形で行われるものではありません。

 

 教育を含むさまざまな学習環境のもとで、子どもたちには、学習することは権利だという意識も徐々に芽生えてきます。そんな勉強はしたくない、という意識もまた生まれてきます。子どもたちがどんな学習を求めているのかを理解し、子どもたちが真に求めている学習を保障することも、普通教育の責務といえます。

 

 もちろん、子どもの学習要求もさまざまです。プロのサッカー選手になりたい、バレーリーナになりたい、そのような夢を実現するために、学習に打ち込むのも、子どもです。そのような学習要求のすべてに、普通教育が責任を負えるか、と言えば、そうは言えません。

 

 同時に、どんな夢であれ、夢を抱く、あるいはその夢を実現するにはどのような道筋、どのような努力が必要なのか、その夢を実現することにどのような意義があるのか、などについてしっかり判断できるような能力を習得することが求められます。そのような場合に、普通教育が果たすべき役割は当然出てきます。

 

 

 

  第二節 普通教育から導かれる授業のあり方

 

 

 

 これまでの日本の授業の形態については、一般的に、一斉授業方式と言われてきました。これは、基本的には、政治や経済の必要から制度化されてきた形態といえます。そこでは、学習指導要領などに見られる、いわばナショナル・カリキュラムにもとづいて、求められる学習課題に適応できる子どもたちを優先させる競争原理、能力主義の授業が行われがちです。一斉授業の今日見られる一般的な光景は、次のように描かれています。

 

「授業開始のあいさつの後、前時のふり返りをして、その日の学習内容に入っていきます。 

 

 教科書や資料を参照しながら教師が解説をし、時折子どもに質問し、手をあげた子どもに意見を発表させていきます。授業の展開は教師が決めてすすめていきます。このとき、筋道の通った話ができる教師はいい教師だと評価されるでしょう。ただ、その話を子どもたちはどれほど理解して受けとめているでしょう。学力の高い子どもは理解しながら聞いているのでしょうが、多くの子どもたちはわかったつもりで聞いているだけだという可能性も高いのです。

 

  授業中、数多くの発問をし、積極的に子どもに発言させる試みをしている教師もいます。その頻度が高いほどよい実践だと受けとめられているようです。しかし、多くの場合、発言する子どもは一部に偏っています。またそういった子どもは発言することによって教師に認められることに満足を覚えているように見えることがしばしばあります。手をあげることができない子どもたちはどんな気持ちを抱いてそれを眺めているのでしょう 

 

 これに対して、子どもとの対話や子ども同士の交流等を重視する見地から、グループ学習、協同学習、交流授業あるいは「学びあい」を基本とする授業等も実践されています。これらについては、かつて「時間の浪費と学力低下」を招くとの批判もあり、一部には一斉授業と抱き合わせるなどさまざまな授業のあり方が試みられています。「最近の国内各地の授業改善の試みでも、そのほとんどで『学び合い』が導入されておとも言われる所以です。いわゆる「学びあい」を基本とする授業形式も千差万別といえます。

 

 普通教育の見地から、注目できるいくつかの実践例を挙げておきたいと思います。

 

 犬山市では、教育委員会の主導のもとに、十年ほど前から「学びあい」を基本とする教育改革が進められ、市内の小・中学校で成果を挙げています。「勉強に対する自信」では、犬山市は全国水準を超え、国際平均値(IEA二〇〇三年)に迫っていま

 

 「授業での認め合い、学び合いをとおして、ともに成長するための協同的な活動が増えていきます。その経験の積み重ねは学級集団の成長、成熟につながります。自分の成長を認め支援してくれる仲間とともにいることで、学習への意欲が高まり、人間的な成長にも資する経験を重ねることができています。充実した学校生活が可能になっていきます」(傍点筆者)とは犬山市が目指している「学び合い」の授業の理念を表現したものです。

 

 中学校では、社会科の滝口正樹氏が「私は、子どもたちが意見(本音)を交流できる授業(「学び合う共有空間」)を意図的につくりだそうとしてきた。とくに最近は、こうした交流授業に対する子どもたちの真剣な反応を見ていると、中学生の成長・発達にとってこのような『場』を保障することが、社会科教師の(ひいては中学校教育の)不可欠な役割の一つではないかと思うようになった」という認識のもとに授業を行って、成果をあげています。滝口氏の近著では、「(このような実践の)根拠は、根本的には子どもの願い(子どもの存在のしかたそのもの)に求められるとしても、日本国憲法・四十七年教育基本法・子どもの権利条約に基づく教育を主張する立場からは、とくに憲法第二十六条(普通教育)の内実(内容的な意味)を探求することが不可欠だと思っていま(傍点筆者)と述べています。

 

 一四年間の小学校教諭を経て、一九八五年に中学校教諭となった加藤好一氏は、はげしい「荒れ」に直面し、教職をつづけるかどうかの帰路に立たされていました。加藤氏は、そのとき、担任しているクラスの校内体育大会での賞状に目がとまりました。その台紙には汚い言葉でぎっしりと落書きが書かれていたのですが、賞状そのものは汚れていないことに気づいたのです。加藤氏は、そこに中学生たちの感じ方の特質を見いだし、「その感性にあった方法を模索していけば、そのエネルギーを生かす道が開ける」と直感したというのです。加藤氏はこのように述べています。

 

 「私たちは生徒の否定的な言動にただ振り回されるのではなく、その現象上の否定面の中にそれを克服する可能性・能動性を発見したい。それが『視る』ということだ。教師は、生徒をそのような角度から再発見することで授業不成立の危機を乗りこえ、成長していくのではなかろうか」

 

 加藤氏は、「(生徒たちは)的確に働きかけていけば、授業でもたがいの学びあいを大事にしようとする」という信念のもとに、学びあいを基調とするその後の授業実践を、数冊の本にまとめて公表し続けていま

 

 定時制高校では、社会科担当の金子奨氏が、「覚える量が多すぎる、つまんない、やっても分からない、やる意味がみつからない、社会で役に立たない、鉛筆を持つのが重い、数字を見たくない」など勉強嫌いの理由を挙げる生徒たちと格闘しながら、「協働学習」を基本とする授業で成果を挙げています。金子氏の授業について、生徒の一人はつぎのような感想を述べています。

 

 「最初は机を向かい合わせにしたり、他の人の意見をノートに取ることに不満を抱いていました。めんどくさい上に意味がないと思っていたからです。今は、この授業スタイルが、当たり前になって普通になりました。

 

 実際の授業の中で思ったことは『難しい』の一言で、毎時間必死に考えて自分なりの答えが出ず、終わるという感じでした。でも、先生が一緒になって考えてくれたり、みんなで一緒に意見を出し合ったりと、楽しかったです。

 

 あとは先生の授業を通して、クラスみんなの意見の違い、考え方、視点が分かりました。私は、「いつも答えは一つ」という考え方だったのですが、答えの多さに気がつきました。

 

 成長したことといえば、自分なりの意見を、理由までちゃんと考えられるようになったことだと思います。自分の意見を聞いてほしいという気持ちになりました。最初の方つまんないと思っていたのが、楽しいと思えるようになりました。

 

 それから、私は他の人の意見をあまり共感とかしないで、流してたのが多かったので、他の人の意見を聞いて、そういう考え方もあるんだと、感心したり、参考にできるようになって、共感も、同じ意見の人に思えるようになりました。班でやることによって、あまり関わりのなかった人との交流が増えたりして、クラスのほとんどの人と話せるようになったと思います。

 

 一番自分でもびっくりしているのは、基本なんですが、先生や班の人たちの前で発言できるようになったことです。中学のときから成績は良くても、発言だけは実行できなくて、自分の意見を心の中でおさえていました。先生の授業スタイルのおかげで、自分の意見が言いやすくなったから初めて口に出すことができたんだと、心から思います

 

 金子氏は、このような協働学習で「学力はつくのか」という質問に答えて、受験校の場合であっても、「確実に『学力』が向上しています」と述べています。

 

 このような授業実践は、それぞれの自治体や教員個々人の強い教育的自覚にもとづいて行われていると言えますが、普通教育の理念と必ずしも結びつけられていないのが現状です。

 

 わが国の障害児教育(特別支援教育)の分野でも、普通教育との関連が問われてきました。一九二三年に公布された盲学校及聾唖学校では、「盲人聾唖者ニ普通教育ヲ施シ其ノ生活ニ必須得ナル特殊ノ知識技能ヲ授クルヲ目的トシ」(傍点筆者)とする目的が定められました。戦後、日本国憲法のもとで、学校教育法は障害児に対して「幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施」(傍点筆者)すると定められました。その間に、養護学校就学の義務化が拡大しました。二〇〇七年には学校教育法上、それまでの「特殊教育」から「特別支援教育」に改められています。一連の経過には論ずべきことがいろいろありますが、ここではその詳細にはふれません。ある自閉症の中学生(一九九二年生まれ)の文章を紹介し、障害児教育と普通教育との関連、具体的な授業との関連について、触れてみたいと思います。

 

 「普通の人になりたい」と願っていたかれは、つぎのように述べています。

 

 「今ならもし自閉症が治る薬が開発されたとしても、僕はこのままの自分を選ぶかも知れません。どうしてこんな風に思えるようになったのでしょう。ひと言でいうなら、障害のある無しにかかわらず人は努力しなければいけないし、努力の結果幸せになれることが分かったからです。僕たちは自閉症でいることが普通なので、普通がどんなものか本当は分かっていません。自分が好きになれるなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいので

 

 それまでの彼の生活、学習、教育環境がどのようなものであったかは、承知していませんが、かれは人間として努力すること、その努力の結果として幸福になれるのだということを、しっかり学び取ったのでしょう。このような自己認識は、個人的な努力だけでは形成されないものです。ここにも、かれの周辺に深い意味での学びあいの努力があったことが推察されます。

 

 障害がどんな種類のものであれ、障害を有するがゆえに、その子の教育には「人間を人間として育成する」普通教育の理念が貫徹されていかなければなりません。日本国憲法もそのことを要請しているのです。わが国の最高法規を力として、障害児教育制度の抜本的な拡充が求められます。

 

 「人間を人間として育成する」ことを理念とする普通教育は、本質的に、子どもたちの学びあいを不可欠な契機とするのです。 

 

 普通教育がめざす「人間らしい判断力」(=理性的判断力)というのは、教師の指導のもとで、子どもたちが、それぞれに習得してきた学習内容、あるいは、より単純な、より個別的な知識や判断力を、仲間相互に交流させるなかで、形成されるものです。そのような意味での「学びあい」の中でこそ、より合理的な、より人間的な判断力が育成されていくのです。日本国憲法が指し示す普通教育というのは、そのような教育、そのような授業を核として、実現するものなのです。個人主義、競争原理等を前提とした学習内容と一斉授業では、人間としての判断力を育成することはできないのです。

 

 全国で試み始められている学びあいを導入した授業実践が、日本国憲法に掲げられている普通教育の理念と結びついたとき、わが国の教育は、画期的な成果を挙げることができるのです。

 

 例えば、水の学習を考えてみましょう。

 

 二〇〇八年改訂小学校学習指導要領では、第三・四学年で「飲料水」が「電気、ガス」とともに選択として位置づけられています。また、「風水害」が「火災、地震」とともに選択として位置づけられています。つまり、飲料水や風水害は取り上げない場合もあり得るのです。第五学年では海洋、水産業、水質の汚濁、などの記述があります。理科では、第四学年で、水の性質、第六学年で水溶液についての記載があります。全体として、水についての学習が断片的で、中学校、高等学校段階での水にかかわる全般的かつ理性的な判断力の育成が目指されているわけではありません。しかも、これらが一斉授業、テスト主義の授業環境のもとにおかれるのです。

 

 では、普通教育は、水をどのように学習していくのでしょうか、また、水に関してどのような能力を育成していくことになるのでしょうか。

 

 子どもにとって、水は、自然現象である前に、生活現象、社会現象と言えます。遊びの対象であり、洗面・入浴・排泄に必要なものであり、食事や健康にとって大切なものであり、運動・スポーツに深く関係するものであり、生命の誕生や生死にかかわるものであり、食料生産・工業生産にとって不可欠なものであり、宗教・祭事や伝統行事に欠かせないものです。また、人々を幸福・不幸にするための材料・手段としても利用されてきました。

 

 これらのことを、子どもたちは、それぞれに生活の中でさまざまに学習しています。普通教育においては、自ら体験し経験した事柄をはじめ家族から聞いた話や本などで知りえたことなどを持ちより交流し、それらについての自分たちの理解をお互いに交換するだけでも、これまで知らなかった水の世界が多面的に広がり、興味・関心が広がります。新たな学習意欲も生まれてきます。項目・テーマ別にとりあげれば、それだけでも相当の時間を必要とするでしょう。

 

 そのような学びあいの学習が行われている間に、特別な指導がなくても、水が人間にとって、人間生活にとってどのような物質であり、どのような意義を有しているかについて、相当まとまった知識と認識を有することができるでしょう。

 

 さらに、教師の適切な指導が加われば、人々が水の文化をいかに守り発展させてきたか、現在、水をめぐってどのような問題が生じているか、などを問うことによって、さらに、あらたな学習世界を切り開いていくことになります。つまり、水と人間とのかかわりを、自分たちの問題として、とらえられるようになります。その過程の中で、自然科学が水をどのように扱ってきたのか、物理現象・化学現象としての水の性質などにも、当然、興味・関心を向けるようになります。

 

 このような学習で得られた知識は、もはや記憶されるだけの死んだ知識ではあり得ず、水を核にして自然・社会と人間社会との関係を、自らトータルに理解し判断する能力として発揮し続けていくことでしょう。このような学習・教育を通して、その分野に対応した観察・実験・分析能力や、さらには、言語能力や倫理・道徳的な判断力(水を大切にする)なども同時に育成されることになります。水についての、このような学びあいの授業こそ、人間を人間として育成する普通教育、といえるのです。

 

 

 

  第三節 指導は不可欠

 

 

 

 ルソーは「ほんとうの教育とは、教訓をあたえることではなく、訓練させることであ、あるいは「指導すること(中略)これこそ成功に導く唯一の技術なのと述べています。もちろん、ここでの訓練や指導とは、鍛練とか錬成あるいは機械的な訓練とは、無縁です。

 

 子どもたちが生活の中でさまざまに習得してきた能力の内実のなかに、学力として受けとめるべきものを特定し、それを学力として育成していくためには訓練・指導が根本的に重要と言えます。これは教師の専門性を考える根拠ともなるものです。

 

 この場合、子どもたちが相互に学習している際、教師はそこでなにが学習されているか、そこにどのような学習課題・教育課題があるかを的確に判断し、適切に指導できなければなりません。

 

 前節で、「人間を人間として育成する」普通教育の理念は、学びあいを基本とする授業を求める、と述べました。しかし、その学びあいのなかで、子どもたちがどのような問題についてどのように学びあっているのか、を的確に理解することは、けっして簡単なことではありません。むしろ、きわめて困難と言えます。

 

 どんな専門家でも、専門とする対象にかぎりなく密着するというある意味での困難性を克服することで、専門家になり得るのです。子どもたちの世界に密着して、そこで子どもたちがなにを学び取ろうとしているかを的確に把握することは、困難を伴う仕事です。しかし、その困難さが逆に教師の専門性の根拠となるのです。

 

 子どもたちは、学年がすすむに従って、さまざまな教育環境を経験しながら、学習しています。そこでは、ある意味で、学習や教育に対して、希望を失い意欲を喪失している子どもたちも少なくありません。そのような子どもたちを前にして、そこでの教育の困難性の原因を、それ以前の教育や学習の在り方に求めるだけではなく、その困難性を現実として受けとめ、そこからどのような教育課題を設定するかが、問われるのです。そういう場合こそ、子どもたちの学びあいという授業の在り方が重要になってくるのです。

 

 子どもたちの学びあいに密着することで、教師の専門性は深まり高まります。その高い専門性こそが教師の指導力を支えるのです。高まった指導力が、さらに子どもたちの学習意欲を引き上げることになるのです。子どもたちから離れて、教育政策等に関する最新の知識を習得することで指導力がつくというものではありません。

 

 窪島務氏は「子どもたちはいま(中略)教師の高い指導性を必要としている」と述べ、この「指導」概念を「支援」という言葉に置き換えようとする政府・文部省の教育政策を批判していま

 

 「支援」という言葉は臨教審が打ち出した「個性重視の原則」と結びついた「新学力観」から導かれてくるものです。

 

 支援については、「教師の一方的な指導を避け、子どもの思いや願い、ものの考え方や発想を肯定的にとらえ、その方向で実現できるように援助してやること」(教育出版『学校教育辞典』二〇〇三年)と説明されています。

 

 しかし、教育学上の指導概念を「教師の一方的な指導」と一面的に解釈し、指導という概念自体に代えて、「支援」という語句を、対置するのは適切ではありません。

 

 教育学上の概念としての「指導」も、教育実践の場面では、さまざまな要素を含むものであって、「思い」、「願い」、「考え方」あるいは「発想」を無視した指導は、あり得ません。

 

 「個性重視の原則」あるいは「新学力観」が「支援」を重視するのは、子どもたちの個性を細分化し、そこに国家社会が必要とする特定の能力を見つけ出し、活用しようとするからで、そこには指導は必要とされません。「自ら学べる」ように手助けするだけでいいのです。人間的な判断力を有する、より高い個性へ指導していく必要はないのです。もちろん、指導と支援は本来矛盾するものではありません。指導を基本に支援を位置づけるのか、支援を基本に指導を位置づけるのか、が問われているのです。

 

 今日、多くの子どもたちは勉強したい、もっといろいろなことを知りたい、と思っているのに、自分が頭が悪いからと学習する意欲を喪失しています。もう勉強はイヤだ、と思っている子どもたちにたいして、その「思い」を肯定的にとらえ、その方向を実現する「支援」に、どういう意味があるのでしょうか。意欲は子どもたちの内部に必ず存在しているという理論的・経験的確信のもとに、意欲を失ってはダメだ、きっとどこか分かるところがあるはずだ、そこから勉強し直していこう、わかってくれば勉強って面白いんだぞ、と力強く励ましていく指導こそが、求められているのではないでしょうか。

 

  

 

  第四節 体験主義では人間は育成できない

 

 

 

 近年、日本の学校において、教育政策等に誘導されて「体験」という語句が広く用いられています。「体験」の重視には、どのような意図があるのでしょうか。なぜ経験と言わないのでしょうか。体験と経験は、どういう関係にあるのでしょうか。

 

 結論から言えば、「体験」重視、あるいは体験主義は、子どもたちのなかに、自己中心的な思考方法や非合理主義的思考を広げること、を意図したものと言えます。

 

 今日の「体験」重視は、一九八九年の小学校学習指導要領改訂に際し、小学校低学年に「生活科」を導入したことに、端を発しています。これは、一九八五年の臨時教育審議会答申は打ち出した「個性重視の原則」の方向に、沿うものでした。

 

 「生活科」の目標は、「自立の基礎を養う」というものですが、「自立」のためには「具体的な活動や体験を通して」など、四つの制約がつけられていました。この目標規定は、二〇〇八年度改訂の小学校学習指導要領でも変わっていません。

 

 「具体的な活動や体験を通して」などの制約を付すのは、「生活科」における「自立」が、人間としての自立ではなく、国民もしくは日本人としての自立を前提としていたからに他なりません。本来、人間としての自立は、自然や社会を含む世界との対話や経験知などを基礎として、それらの総合として形成されるものです。ところが、子どもたちの学習内容を「体験」世界に狭めているのです。

 

 一九九八年の学習指導要領改訂で、小学校第三学年以上高等学校まで、「総合的な学習の時間」が導入されました。そこには「自然体験」「社会体験」のほか「体験的な学習」などが盛り込まれました。「経験」という語句はどこにも見当たりません。

 

 二〇〇一年の学校教育法改正で「体験活動」という見出しの条項が付加され、「体験活動」が法律用語に格上げされました。教育基本法「改正」を受けた二〇〇七年の学校教育法改正にも、「自然体験活動」という語句が導入されています。「経験」という語句はどこにも見当たりません。極端な「体験」偏重主義とでも言うべき政策が進展しています。

 

 二〇〇七年「改正」の学校教育法の「体験活動」条項(第三十一条)を掲げておきます。

 

 「小学校においては、前条第一項の規定による目標の達成に資するよう、教育指導を行うにあたり、児童の体験的な学習活動、特にボランティア活動など社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の充実に努めるものとする。この場合において、社会教育関係団体及び関係機関との連携に十分配慮しなければならない」(傍点筆者)

 

 一九八九年の「生活科」、一九九八年の「総合的な学習の時間」、そして二〇〇一年の学校教育法への条項化、さらに「改正」教育基本法のもとでの二〇〇七年の学校教育法での条文見直し、とまさに飛躍的に、体験重視の制度化が、強化されています。 

 

 しかも、重要なことは、これまでは「生活科」や「総合的な学習の時間」に位置づけられていたものが、学校教育法が掲げる「義務教育としての普通教育」の教育目標に関わる教育指導全般に押し広げられたことです。いかなる教育目標にあっても、社会教育関係団体等と連携しながら教育指導することが、法律として要請されているのです。

 

 体験自体は、一般に、個人的経験ともいえるものですから、本来、経験と矛盾するものではありません。どんな経験も個人的経験=体験という面をもっています。すでに理論化された、あるいは既知化された知識を押しつける教育現実に対する反省として、それ以前の個人的な具体的な生々しい体験の意義を重視するという発想自体は首肯されるべきですが、体験の重視はそのようなことを意図しているのでしょうか。

 

 昆虫採集を自然体験活動として位置づけるか、理科などでの自然観察という経験として位置づけるかで、その意味内容は大きく変わってきます。

 

 自然体験活動の場合、昆虫についての学習は、基本的には体験された事実の枠内にとどめられることになり、それ以上に知識が広がり深まるかは、個々の子どもたちの個性に委ねられることになります。

 

 教科における自然観察の場合は、採集された昆虫について、昆虫とは何か、その生態はどのようになっているのか、他の生物との関係、昆虫と人間との関係、などについて、子どもたち全員が共通の学習を深め、自然認識能力を深める教育の一環として位置づくことになります。

 

 普通教育も経験を重視しますが、経験主義教育論とは区別されます。

 

 経験主義教育論は、プラグマティズムの立場と結びついて、展開されました。そこでの経験は、行動にともなっておこなわれる思考や学習によって新たな行動をひきおこす能動的活動の過程として理解されます。

 

 昆虫採集を例にあげます。ある子どもはもっと種類を集めてみようという活動=経験が生まれてきます。しかし、その昆虫を多く捕獲することが禁止されているとします。そのような場合に、その子どもの経験を改造することが必要になってきます。このように、生起する諸問題が「解決」される方向で学習を組織することが経験主義教育でいうところの教育とされます。この場合、教材は子どもたちの日常生活経験の範囲内に、あるいは経験を改造する必要に応じて、求められます。

 

 この経験主義的教育論に対する批判として「科学的認識の形成という面での不徹底」という指摘もあります。と同時に、人間らしいトータルな理性的判断力を育成する普通教育の見地からも、批判されなければなりません。

 

 体験主義の場合も経験主義の場合も、結局は体験や経験が一定の枠内に位置づけられることになります。それらは、体験や経験が外在的な枠内に位置づけられることになります。それらを基調とする教育は、体験や経験を編み上げ、人間的合理的な判断力を育成する普通教育とは、根本的に異なる教育ということになります。

 

 戦後、日本において展開された経験主義教育は、深刻な学力低下問題を引き起こし、しばしば這い回る経験主義教育と批判されました。

 

 今日、経験主義教育以上に問題の多い体験主義教育が、「改正」教育基本法に後押しされて法律上の強制力を持って推進されている状況は、どう考えたらいいのでしょうか。

 

 

 

※「体験」とは

 

 哲学辞典等では個々の主観のなかに直接的に見いだされる意識内容、意識過程を意味し、経験とくらべて、個々の主観に属するものとして特殊的、人格的であり、また具体的、情意的であるとされています。

 

 体験は知性により経験的認識さらには科学的認識へと発展していくその土台ともなり得るものですが、わが国の教育政策のもとでは「体験」重視は経験に先だってそれを重視するというよりも、経験化を求めないという意味において重視されているように思われます。

 

 なお、この語Erlebnisはドイツ語特有のもので、他のヨーロッパ語では経験(experience)に特定の説明を加えて、体験という意味を示しています。日本語においても、生の哲学の用語法の影響から造語されたものとも説明されています。