第五章 普通教育は社会の変化にどのように   かかわるか 

 

 

 

 

 

  第一節 社会の変化と普通教育

 

 

 

 歴代の内閣総理大臣や文部(科学)大臣は、これまで一貫して、「社会の変化に対応する」ことを理由に掲げ、教育改革をすすめてきました。

 

 たとえば、一九六七年、劔木文部大臣は「今後における国家社会の進展に即応して」という言葉を用いて、中央教育審議会に諮問しています。中曽根内閣総理大臣は一九八四年、「社会の急激な変化」等を理由に、臨時教育審議会に教育改革の方向を諮問しています。二〇〇一年、遠山文部科学大臣は「社会の大きな変化に対応した教育が求められる」として、「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方」等について、中央教育審議会に諮問しています。教育のあり方は社会の変化に対応して改革されなければならないものなのでしょうか。

 

 アメリカの哲学者デューイ(一八五九~一九五二年)は『学校と社会』などを著し、教育のあり方が、社会進歩の原動力である、という見解を表明しています。教育は社会改造に寄与しなければならないものなのでしょうか。

 

 これらには、立場や思想上のちがいはあるにしても、子どもの教育を社会のあり方に従属させる見地が見られます。

 

 一九四七年に制定された教育基本法前文は、日本国憲法が掲げた「理想の実現は、根本において、教育の力にまつべきものである」と述べています。国民主権原理、基本的人権、平和的生存権などを実質化させていく、すなわち、社会を進歩させていくうえで、教育の重要性を強調しているのです。ここでは、社会の理想と教育との関係はどのように認識されているのでしょうか。

 

 日本国憲法の場合、社会の理想あるいは進歩と教育との関係は、二重の意味において捉えられています。

 

 そのことは、憲法の教育条項が、教育と普通教育の両面から、規定されていることと関係しています。

 

 主権にしても、基本的人権にしても、平和的生存権にしても、権利の主体は国民です。その国民が、これらの権利の実質的な担い手になるためには、国民自身が学習や教育に努めなければならない。そういう意味で、教育を受ける権利が、第二十六条第一項で規定されているのです。

 

 同時に、その第二項で、その国民が、子どもたちに対しては、普通教育を受けさせる義務を負っている、と定めているのです。

 

 ここでの普通教育とは、「人間を人間として育成する教育」のことです。つまり、すべての子どもたちが、人間として適切な判断力を発揮する自立した人間として育つように保障することを、憲法は国民に命じているのです。人間性を媒介する個人として自立することが憲法の理想を実現することになるのだ、ということです。それは、憲法的価値を教えるとか学習するという意味ではありません。あるいは基本的生存権とは何か、平和的生存権とは何か、などを学習する、などという意味でもありません。

 

 子どもたちが、成育環境の中で、人間的な感情に触れあいながら、自然や社会事象に関する知性を鍛えあい、人間的理性を獲得していく過程を通して、主権や基本的人権などに関する判断力をも育成することになる、という意味なのです。

 

 このような普通教育が、ほとんど「死に等しい状況になっていると言われているもとで、どうして教育(普通教育を含む)は社会の理想の実現に貢献できるのでしょうか。

 

 社会の支配勢力や政治的権力を有している人々は、自分たちに都合の良い社会を構想し、個人の思想信条や能力あるいは社会生活までも、それに適合するように作り替えようとします。「自分たちに都合の良い社会」はさまざまな要因でしばしば変化しますから、教育改革もそのつど必要になってきます。個々人は、一般に、それらの教育改革を押し付けられる受身の立場に置かれます。

 

 社会のありかたは主権者の総意、個々人の判断力に委ねられるという見解に立てば、主権者の意志や個々人の判断力の内容についての相互点検が不可欠となります。誰かにとって良い社会であっても、別の人にとっては良い社会と判断できない場合、お互いに共通して良いといえる社会のあり方について、学び、議論していくことが求められます。

 

 「人間を人間として育成する」普通教育は、人間としての理性的判断力を育成することを基本理念とする教育ですから、この普通教育の成熟の度合いによって、社会の進歩も規定されることになります。国民の大多数が、国内外の政治経済の現状と課題について、医療や社会保障について、科学技術や芸術文化について、健康やスポーツ等について、的確な判断力を発揮することができること自体が、社会進歩といえるのです。この的確な判断力は、それぞれの諸課題についての直接的な学習や教育のみで実現されるものではありません。子どもに内在する、可能性としての理性を育成する普通教育と結びついてこそ実現されるのです。

 

 

 

 すでに述べてきたように、わが国の場合、これまで普通教育についての排除と誤解の歴史があり、不幸にして、普通教育の理念は形骸化しています。

 

 国際社会に目を向ければ、「普通教育」という言葉を用いているかどうかは別として、「人間を人間として育成する教育」が社会進歩になるのだという見解は、国連機関が示す文書や欧米・北欧諸国における教育において、広がっていると言えます。

 

  

 

  第二節 生涯学習の理念も普通教育の実現を求めて     いる

 

 

 

 生涯学習という言葉もさまざまな意味で用いられています。一般には「いつでもどこでも」という言い方で、成人を対象とする学習機会の拡充と言う意味で用いられています。

 

 他方、一九六〇年代以降、国連教育科学文化機関(ユネスコ)やわが国の政府・文部科学省が推進しているのは「教育の改革原理」としての生涯学習と言えます。

 

 ユネスコの場合は、社会の変化に適応できなくなった伝統的、権威的、形式的な枠組み全般に挑戦し、人間性の自覚化や自己実現を基本とする学習機会を拡充することで、新たな社会的枠組みを創出していこうとするものです。

 

 わが国の「生涯学習体系への移行」政策はもっぱら政府・行政主導の生涯学習システムの構築を、教育組織全般に張り巡らせようとするものです。ここでも、わが国の生涯学習政策は世界の流れに逆行していると言えます。

 

 「教育の改革原理」として見た場合、普通教育も生涯学習と密接な関係にあります。

 

 今日、新自由主義とか市場原理主義の見地から「教育改革」が進められていますが、そのもとで、子どもたちや教職員の世界は深刻な困難に直面しています。このような時、「人間を人間として育成する」普通教育の理念を基本に、子どもから出発して学校教育のあり方を根本的に見直していくことは、ユネスコ等が推進している生涯学習の重要な課題とも合致するものです。

 

 これに対して、政府・文部科学省は、一九八五年に臨時教育審議会が提言した「生涯学習体系への移行」原理に沿って、さまざまな生涯学習政策を打ち出してきました。

 

 二〇〇六年に「改正」された教育基本法は「生涯学習の理念」(第三条)を掲げました。すなわち、「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことができる社会の実現が図られなければならない」と定めています。

 

 「改正」教育基本法自体が「人間の育成」から「国民の育成」へ基本理念を改変したものですから、そのうえで、政府主導で国民の学習活動を方向づけ、成果を挙げることができる社会を実現するとしています。ここには、基本的人権としての学習権保障の見地は見当たりません。

 

 また、愛国心や規範意識の涵養を強調する「改正」教育基本法を受けた学校教育法「改正」(二〇〇七年)では、「義務教育として行われる普通教育」に掲げられた諸目標を達成するにあたって、小学校の場合、「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう(中略)主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない」(傍点筆者)ことが特に強調されています。たとえば、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という目標を、「生涯にわたり学習する基盤」を培うことを、とくに小学校の教育は意を用いなければならないというのです。愛国心教育等を早いうちに基礎固めしておくという伝統的・国家主義的道徳教育の手法をそこに見ることができます。

 

 このようなことが「生涯学習体系への移行」政策の一環として具体化されているのです。

 

 二〇〇八年三月に出された中央教育審議会答申「新しい時代を切り拓く生涯学習の振興について」は「知識基盤社会」、「循環型社会」を前提に「知識を創造する人」への「投資」と「行政サービスの縮小」の中で、「自立した地域社会」の確立を提起しています。このような生涯学習論には、「人間を人間として育成する」普通教育の見地に連なる基本的人権としての学習権保障の見地、はまったく見られません。

 

 

 

  第三節 家庭・地域に支えられた普通教育 

 

 

 

 近年、「家庭の教育力」「地域の教育力」という言葉がよく用いられています。「学校の教育力」とも言われます。それぞれ明確な定義らしいものはありませんが、これらの言葉が多用されるのには、なにか理由があるのでしょうか。家庭や地域は普通教育とどのような関係にあるのでしょうか。

 

 臨時教育審議会が打ち出した「個性重視の原則」によれば、家庭や地域にも個性がある、と述べています。それぞれの個性を発揮することが「集団の活力」を形成する、と期待されているのです。

 

 家庭の個性、地域の個性といっても、それぞれの個性を個性たらしめる要因にはさまざまなものがあります。さまざまあるなかで、より主導的な要因を求めるとすれば、家庭や地域を主導するもの、と言うことになるのではないでしょうか。結局、家庭の場合には親、地域の場合には、地方公共団体の長、などにもとめられることになるのではないでしょうか。

 

 つまり、「家庭の教育力」にしても「地域の教育力」にしても、親の教育力であり、自治体の長の教育力、と言うことになるのです。

 

 では、親の教育力、あるいは自治体の長の、教育力の原動力は、親自身にあるのでしょうか、自治体の長にあるのでしょうか。

 

 臨時教育審議会や中央教育審議会などの文書を読んでも、親の教育力とか地域の教育力などというものがどのようなものかは、説明していません。したがって、「低下した」と言っても、どのような教育力が、なぜ、どの程度、低下したのか、はなんら説明されていないのです。

 

 にもかかわらず、「家庭の教育力の低下」、「地域の教育力の低下」を強調するのは、国が率先して、親や自治体の長に、「教育力」を付与することを意図しているからなのです。教育基本法を「改正」したのはそのためなのです。戦前の教育勅語に代わる国定の教育理念を確立して、それによって、家庭や地域、あるいはそれらにとどまらず、学校、企業、文化、時代に「教育力」を付与し、まさに「社会総がかり」で、国家主導の教育支配体制を構築しようとしているのです。

 

 明治国家体制の確立とともに、「家族国家」論というイデオロギーのもとで、国家倫理を説く基本単位としての家族の役割、が強調されていきました。家風や家訓が重視され、父親の権威が強調されました。父親の権威の淵源は教育勅語でした。子どもたちは両親に励まされて、天皇に忠誠を誓う臣民として、育成されていきました。地域も郷土として位置づけられ、家族国家論に組み込まれました。

 

 家庭は家族国家をささえる教育の原点でした。その家族国家に組み込まれた学校もまた、家族や郷土と密接に連携して、全体として、国家倫理を注入する役割を果たしました。現実にはそれぞれ異なった教育力を有しながら、臣民の育成という点では、学校も家庭も地域も、同質の教育力を発揮したと言えます。 

 

 戦後、日本国憲法や教育基本法は「個人の尊重」あるいは「個人の尊厳」を基本原理としました。社会の基本的最小単位は、家族ではなく個人、ということになりました。これは歴史的な転換といえます。そして、序文で詳しく述べたように、この転換が戦前社会の根本的反省に立っていたがゆえに、その個人を人間として出発させるための普通教育を、すべての子どもに受けさせることを、国民の義務と定めたのです。

 

 しかし、今日、政府・文部科学省は、教育荒廃の責任が、普通教育を排除してきた教育行政にあることを回避するために、「家庭の教育力の低下」、「地域の教育力の低下」をはじめ、道徳教育の頽廃、規範意識の低下などを持ち出しているのです。しかも、再び家族国家論の亡霊を呼び出そうとしているのです。普通教育と家庭や地域社会における教育を不当に同一視し、親や自治体の首長などの発言力や権限を利用し、全体として、国の教育統制を強化しようとしているのです。

 

 「改正」教育基本法には「家庭教育」条項(第十条)とともに、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」という条文(第十三条)も新設されました。

 

 今日、さまざまな「連携」が主張されています。しかし、そこでの問題は、国が主導する教育理念のもとに「連携」するのか、日本国憲法が要請する普通教育の理念を明確に理解し、子どもを人間として育てることを基軸として、それぞれが自主的な立場から協力・連帯するのか、です。

 

 学校と家庭・地域が「連携」するためには、「連携」できる共通の理念が求められることになります。現在のような学習指導要領に基づく教育を強要されている学校と、家庭・地域が「連携」するとすれば、家庭・地域は、主観的にはどうであれ、学習指導要領の見地に立つことになるのです。

 

 二〇〇八年一月の教育再生会議最終報告には「社会総がかりで」という言葉が躍っていました。資本主義制度自体の限界が話題となっている今日、なおその維持存続だけに固執した「生きる力」を、「社会総がかりで」再生産しようというのです。