第六章 普通教育の制度

 

 

 

 

 

  第一節 誰が普通教育の制度化を要求してきたか

 

 

 

 普通教育の思想は十八世紀後半に生成され、教育者を中心にさまざまな教育実験が試みられていきました。また、十八世紀フランスの思想家コンドルセ(一七四三~一七九四年)は、フランス革命議会公教育委員会の場で、普通教育制度の構想を提案しています。また、産業革命を経たイギリスでは、オウエン(一七七一~一八五八年)らが綿紡績工場を中核とする共同社会を建設し、そこに性格形成学校を設立し、世界的な注目を集めました。また、オウエンは、一八一五年に、工場法を議会に提出し、工場に働く子どもたちの労働時間の制限と、かれらに対する教育を要求しました。また、イギリスの労働運動は憲章制定を求め、そこで「普通教育」の制度化を要求しました。資本家階級の側からも初等教育の必要が自覚され、初等教育の制度化が推進されていきました。

 

 十九世紀半ばになると、欧米諸国で、政府が主導して初等教育の義務化が進み、教育法制も徐々に整備されていきます。他方、国際労働者協会は、普通教育の法制度化を要求しました。そこでは、マルクス(一八一八~一八八一年)やエンゲルス(一八二〇~一八九五年)も積極的に発言しています。かれらの普通教育に関する要求としては、次のようなものが掲げられまし

 

 ・普通教育は国家の費用で行われること。

 

 ・普通教育は、すべての子どもに対して平等であること。

 

・普通教育は子どもたちが社会の自主的な成員として行動する能力をもつようになるまでつづけられること。

 

・労働に従事している子どもに対しては、法律によって労働時間を制限すること。

 

 ・初等教育は九歳以前から始めることが望ましい。

 

 ・子どもたちの権利を守ることは社会の義務であること。

 

・労働者階級は、一般的な法律によって、子どもたちを現制度の破壊的な影響から 救済することを要求すること。

 

 ・子どもたちを労働させる場合には教育を受けられるようにすること。

 

・普通教育には、知育、体育、技術教育が含まれること。技術教育は分業に伴う欠陥を補うと言う見地から位置づけること。

 

 ・小学校で経済学に関する知識を取り上げるのは適当ではないこと。

 

・子どもたちを夜間労働や健康上有害な職業に雇用することは法律によって禁止すること。

 

 ・普通教育は政府による教育であることを要しないこと。

 

 ・政府の責務は視学官を任命して法律の遵守を監督させることである。

 

 ・政府は教育課程そのものに干渉する権限はいっさいもたないこと。

 

 ・普通教育は義務教育であること。

 

 ・普通教育は、党派的または階級的解釈の余地のあるような課目を含まないこと。

 

 ・さまざまな結論のありえる課目は除外すること。

 

・政府が一般的な法律によって、教育に関する財源や教員の資格、教授課目を規定すること。そのことは国家を国民教育者に任命することを意味しないこと。

 

 なお、この時期の、欧米における学校の法制度化の状況は、文明開化期にあたるわが国にも、強い影響を及ぼしています。

 

 

 

  第二節 普通教育の対象年齢をどう考えるか

 

 

 

 私たち国民が、普通教育を受けさせる義務を負っている子どもたちは、何歳から何歳まで、なのでしょうか。

 

 日本国憲法第二十六条第二項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」と定めています。「国民」と「その保護する子女」とに区分されていることに留意していただきたいと思います。

 

 普通教育の対象年齢について、憲法はそれ以上のことに言及していません。文言通り読めば、「国民」として自立するまでのすべての子どもたちですから、生まれてから十八歳までの十八年間、と解釈することも可能です。

 

 普通教育の理念から導かれる対象年齢はそういうものなのです。ルソーは「人間の教育は誕生とともにはじまと述べています。また、現代フランスの教育学者モーリス・ドベス(一九〇三〜一九九八年)は「われわれの対象は、誕生あるいはその少し前から、二十歳前後に至るまでの人間としたと述べています。

 

 教育基本法の制定過程を振り返ると、六歳から十八歳までの十二年間が対象年齢として想定されていたと言えます。一九四七年に制定された教育基本法では「九年の普通教育」とされていますが、「十二年の普通教育」という案も出されていました。憲法の理念から要請されていたのです。ところが制定直前になって、大蔵省からの要求に屈し、「九年」とされたのです。

 

 「六歳から」ということも、憲法や教育基本法には定めはありません。しかし、学校教育法の定めなどから、「六歳から」とされています。

 

 ここでは、高校段階での普通教育と、六歳未満の普通教育について、検討しておきたいと思います。

 

 (一)憲法理念がそのまま実現して、十二年間の普通教育を受けさせることが義務となると、第一に、高等学校が、本来の意味で、義務教育(戦前的な意味ではなく)となります。そうなると、高校入試制度は基本的に解消されます。高校教育の多様化とか、特色ある高校づくりなどのような、歪んだ高校再編も、根本的に是正されることになります。第二に、後に述べるように、高等教育は公立・私立ともに無償(授業料不徴収に限定されない)になります。

 

 ところが、戦後、政府・文部省は、憲法上の「義務を負う」および教育基本法の「九年」という文言を恣意的に結びつけ、普通教育は義務教育である、義務教育の修業年限は九年である、したがって、高校教育は義務教育ではない、という解釈に固執してきました。

 

 ところで、高等学校の教育は、憲法上は「普通教育」とされていますが、一九四七年制定の学校教育法上は「高等普通教育及び専門教育を施す」とされました。この規定も不明確で、さまざまな解釈が行われてきました。この規定は、戦前における中等学校令の規定(高等普通教育及び実業教育)を引き継いだものであり、戦後的な転換が不徹底な規定と言えます。一九四七年制定の学校教育法の小中学校の教育目標に合わせて、明確に「高等普通教育」とすべきだったのです。

 

 高校教育で「人間を人間として育成する」普通教育が充実したものになれば、人間としての豊かな感情をたたえ、理性的判断力を有し、労働をはじめ社会的義務を自らの仕事と見なす、社会の一員として自立した個人が育成されることになるでしょう。そして、勤労者として、主権者たる国民として的確な判断力を有する個人が育成されるでしょう。

 

 ところが、現実の高校教育は、受験競争に追い込まれ、あるいは目先の職業上の進路選択を余儀なくされています。

 

 政府・文部省は、この「高等普通教育及び専門教育」という規定を根拠に、戦後一貫して高校教育を、現実の経済状況や労働力配置政策に合わせて、「再編」していったのです。

 

(二)六歳未満の普通教育をどのように考えるべきなのでしょうか。

 

 子どもは生命として誕生した瞬間から、家庭をはじめ、さまざまな環境のもとで、成長したいという欲求や要求をたぎらせながら成育していきます。当然のことながら、そこでは、すでに人間として成長し始めています。将来、人間としての理性的判断力を習得するために、乳幼児段階の教育はどうあるべきかが、これまでも、論じられてきました。一方、乳幼児段階における教育可能性を根拠に、「国民の育成」を目指す教育も行われてきました。

 

 「改正」教育基本法は「幼児期の教育」という条項を新設し、「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」と定めています。将来、理性として結実していくであろう諸能力を、早い段階から、国家社会に都合の良いように方向づける国家主義的な教育政策、あるいはいわゆる「生涯学習社会」政策が、ここにも反映されています。子どもを人間として育成するという観点には立っていないのです。

 

 二〇〇七年に学校教育法が「改正」され、幼稚園保育要領が改訂されました。また厚生労働省も「保育指針」を改訂し、全体として、政府が求める「生きる力」の育成が幼稚園・保育園の教育目標となっています。

 

 今日、政府主導の「幼保一元化」政策のもとで、「認定子ども園」が制度化されています。また、保育園の市場化も促進されています。六歳未満の保育・教育についても、そこでの制度化がどうであれ、実質的に、普通教育の理念を貫いて行くことが、今日強く求められています。  

 

  第三節 普通教育は無償である

 

 

 

 日本国憲法第二十六条第二項は「義務教育は、これを無償とする」と定めています。これまでも述べてきたように、この場合の「義務教育」とは「普通教育」のことです。

 

 「無償」という概念は授業料の不徴収にとどまるものではありません。教科書や学用品、交通費、給食代、修学旅行がある場合はその費用などを含む概念です。国によっては、就学のために親元を離れなければならない場合は、宿舎費等もまた公費で賄われている国もあります。

 

 人間として自立することは基本的人権です。また、私たちは、お互いが人間として自立することを求めています。お互いが人間として自立することで、自分もまた人間として自立することができるのです。

 

 戦前のように、「臣民」として育成されることが、義務として求められた時代にあっては、「皇国民」として生きることを求めない人にとっては、人間として生きる前提が拒否されることになります。

 

 人間を人間として育成する普通教育を、すべての子どもたちに受けさせることが国民の義務である以上、国民はその義務を果たさなければなりません。その義務の一つが普通教育制度を確立するための費用を負担する義務です。

 

 国民は納税の義務を負っています(憲法第三十条)。この納税の義務も日本国憲法の基本理念を前提としての義務であることは言うまでもありません。この義務を果たすことが、同時に普通教育制度を支える経費を負担することになるのです。政府は、この国民の義務の上に、普通教育制度の確立を保障する条件整備上の責務を負っているのです。義務のみを求め、使途は勝手次第、という関係を逆転しなければならないことはいうまでもありません。

 

 一九四七年制定の教育基本法は、憲法上の「無償」の意味を「授業料を徴収しない」に限定しています。その上で、教育基本法は、「授業料を徴収しない」を「九年の普通教育」に限定しています。これによって、高等学校は「授業料を徴収する」とされたのです。第二に、「授業料を徴収しない」は「国又は地方公共団体の設置する学校」に限定しています。これによって、私立学校は小学校段階から授業料を徴収できることになっているのです。

 

 幼児期における教育もまた普通教育です。幼稚園だけではなく、社会福祉施設である保育園についても、実質的には普通教育を行っているわけですから、その見地から、授業料・保育料のあり方を根本的に検討することが求められています。

 

 なお、今日、大学における授業料のあり方が大きな社会的問題になっています。大学の場合は、理念のうえでは普通教育機関ではありません。しかし、国民は、その能力に応じて、教育を受ける権利をもっているわけですから、その権利を行使する条件整備の責務は、政府・文部科学省にあります。憲法上、無償制は、普通教育に限定するというものではありません。乳幼児、障害者、高齢者等の医療費無償化と同様、高等教育における学費も無償化を求めるなど、抜本的に見直されるべきです。

 

 

 

  第四節 歴史に逆行する学校区分論

 

 

 

 戦後の日本では、小学校、中学校、高等学校の学校区分は、六・三・三制と言われてきました。戦前の日本でも、学校区分の変遷がありました。敗戦直前では、国民学校令と中等学校令でこの区分が定められていました。国民学校は当初は八年制が構想されていましたが、六年制として具体化されました。中等学校とは、中学校と高等女学校と実業学校の総称ですが、いずれも基本的には四年制とされていました。

 

 六・三・三制は、戦後、アメリカ教育使節団からの勧告に基づくとされています。その後、この制度は、高等専門学校(一九六〇年法制化)、中高一貫校(連携型・併設型・中等教育学校の三形態、一九九八年法制化)など一定の変遷がありますが、今日、あらためて学校区分の「弾力化」が政策課題となっています。

 

 このように学校を区分するのはなぜなのか、区分は必要なのか、この問題は、普通教育の理念から検討される必要があります。

 

 日本国憲法は、「人間を人間として育成する」普通教育をすべての子どもに受けさせることを国民の義務とすることを求めました。

 

 これを受けて、一九四七年に制定された学校教育法は、小学校から高等学校までの教育目標を、それぞれ初等普通教育、中等普通教育、高等普通教育(高校だけ「及び専門教育」という語句が付加されましたが)としました。普通教育という単一の教育理念によって、小学校から高等学校までを一貫させるというのは、普通教育史上、きわめて画期的なことでした。ここからは、本来、学校区分という問題は起こりえないのです。

 

 しかし、戦後の学校制度は、それ以上には理念を徹底させませんでした。もちろん、そこには、国民の理解の問題もありますが、より決定的には、経済財政上の要請が根本にあるのです。

 

 中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」(一九六六年)や「個性重視の原則」を標榜する臨時教育審議会答申(一九八五ー六年)、中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育接続について」(一九九九年)などが、学校区分の多様化を推進してきました。近年は「幼少連携」の名のもとに、学習指導要領が支配する小学校の論理に幼稚園教育を組み入れる政策が進められています。

 

 二〇〇三年の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」では「学校区分について、小学校六年間の課程の分割や幼少、小中、中高など各学校種間の多様な連結が可能となるような仕組み」を検討していくとしています。

 

 二〇〇七年の学校教育法「改正」で、これまでの初等普通教育、中等普通教育、高等普通教育、という単一の理念にもとづく学校制度観が消滅しました。

 

 中学校の教育目標を「義務教育として行われる普通教育」として位置づけ、小学校は「義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なもの」とされました。また、高等学校の教育目標は「高度な普通教育及び専門教育」とされたのです。

 

 ここには、義務教育というを普通教育よりも上位に位置づけ、中学校の教育目標を前提に、小学校を位置づけています。普通教育の理念から、発達段階にもとづいて、学校制度を構想するという見地は、見当たりません。

 

 高等学校の目的を、中学校以下の学校目的と切り離し、「高度の普通教育及び専門教育」としています。これは戦前の中等学校の教育目的である「高等普通教育」を想起させるものです。

 

 全体として学校制度を確立していく過程で複線型の学校制度を構築していった戦前と、戦後、日本国憲法のもとで一元的な普通教育制度を志向し、その法制度がともかくも構築され、進学率が事実上義務制に近い状況になっているもとで複線型の学校制度を再構築するのとでは、同じ複線型でも、その意味は本質的に異なります。まさに歴史に逆行する学校区分構想と言えます。

 

 二〇〇七年六月に公表された教育再生会議第二次報告は、学校区分、いわゆる六・三・三制を抜本的に見直す、としています。新自由主義的構造改革路線に沿った見直しになることは確実と思われます。

 

 学校区分は、資本主義の論理、新自由主義的構造改革路線によって徹底的に多様化され、ランキング化され、ピラミッド型に再編されてきています。ここには普通教育の論理は通用しないかのようです。

 

 普通教育の理念を基本に学校制度を構築するのか、新自由主義的衝動に包摂された国家主導の義務教育観あるいは学習指導要領を基本に学校制度を構築するのか、今日、厳しく問われています。

 

 このような学校区分再編の最大の犠牲者は、子どもたちであり、教職員であり、直接の保護者たちです。多くの国民、保護者は、それぞれの学校が普通教育の理念のもとに落ち着きを取り戻し、相互に学びあえる充実した学校になって欲しい、と願っているのです。

 

 

 

  第五節 普通教育の理念に基づいた教科書制度を

 

 

 

(一)教育課程、教科書、教育内容等に関わる制度にも、普通教育の理念が貫かれなければなりません。教育課程については、第三章でも述べましたので、ここでは教科書制度を中心に述べることにします。

 

 近代学校の制度化にともなって、教科書制度が各国において発展してきました。

 

 日本の教科書制度は、戦前においては、全体として天皇制国家体制のもとで、開申制、認可制、検定制、国定化など一連の変遷がありました。

 

 戦後は、憲法・教育基本法がめざす教育理念を生かした教科書制度を構築することが期待されました。

 

 しかし、学習指導要領政策のもとで、教科書制度は、早くから、文部省主導のもとにおかれ、その結果、教科書裁判等に見られるようなさまざまな問題が引き起されてきました。

 

 現在、教科書(教科用図書)は、教育課程の基準=学習指導要領に基づいて、民間企業によって編集・作成されています。それらが実際に教科書として採択されるためには、文部省の検定を受けなければなりません。検定を受けた教科書は、法律に基づく採択制度に基づいて、都道府県もしくは市町村の教育委員会が採択しています。

 

(二)教科書で、とくに問題が生ずるのは、歴史教育分野です。自ら執筆した教科書『新日本史』が検定不合格になったことで、家永三郎東京教育大学教授が訴訟を起こし、三〇年近くにわたり教科書裁判が展開されました。

 

 今日では、「新しい歴史教科書をつくる会」がこれまでの歴史教科書は「自虐史観」に立っているとして、いわば「自存自衛史観」の立場にたった歴史教科書を発行し、一部の学校で使用されるという現実があります。また、教科書検定で、従軍慰安婦の問題、沖縄における「集団自決」と日本軍との関係をめぐる問題、など政治的問題に発展する場合が少なくありません。

 

 教科用図書検定調査審議会が文部科学省にたいして自主性を発揮できず、機能していないという現状も指摘されています。学問的な見地、さらには普通教育の見地に立って、民主的な運営が求められています。

 

(三)「教科用図書検定基準」は「教育基本法に定める教育の目的、方針など並びに学校教育法に定めるその学校の目的及び教育の目標に基づき」と定めています。教育基本法・学校教育法とも「改正」された今日、これまでの検定基準は根本的に変質することになります。

 

 「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことなどが、「改正」学校教育法第二十一条の「義務教育として行われる普通教育」の目標に掲げられた今日、普通教育の見地に立った、歴史認識教育、社会認識教育の可能性はいっそう困難になります。

 

 ここでも、マルクスが「党派的または階級的解釈の余地のあるような課目を含まないこと」、「さまざまな結論のありえる課目は除外する」ことなどを要求したことを想起する必要があります。

 

 大人から見て、どんなに根拠のあるものであっても、それぞれの発達段階にある子どもたちにとって、そこに人間としてどのような営みがあるかを、具体的に把握し、理解しあえ、判断可能なものを基本に、記述されることが求められるのではないでしょうか。

 

 例えば、文部科学省は、二〇〇八年六月、竹島をめぐり「韓国との間に主張に相違がある」ことなどを記述した中学校学習指導要領解説書(社会科地理)を公表しました。このような姿勢は、普通教育の見地からは到底認められません。きわめて乱暴な政治的行為と言わなければなりません。

 

 本書の第一部序文で、私は「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なもの」である、とする憲法前文を紹介しました。そして、政治道徳における普遍的な法則とはどんなものか、なぜそれは普遍的といえるのか、などについての判断力を育成すること自体、「憲法の指導精神」とむすびついた普通教育の課題である、と述べました。

 

 このような複雑な外交上の問題を、普通教育の課題として受けとめた場合、そのまま教育課題とする必要はありません。教師が必死になって教材研究をし、具体的な解決方法についての一定の結論をもって授業に臨む必要もありません。

 

 その問題が内在する、より原理的な問題に置き換えて、そこで学習すべき論点を子どもたち自らが学びあうこと、また、その学びあいを教師が積極的に指導して、さらに学習しなければならない課題としてどういうものがあるのか、それらはどうすれば学習できるのか、などについて適切なアドバイスをすることなどが、教師には求められるのです。

 

 

 

  第六節 教員養成と普通教育

 

 

 

 教員養成制度の問題も、普通教育の見地から検討されなければなりません。一言で言えば、教師をめざす学生は、人間を人間として育成するとはどういうことか、人間を人間として育成する教育課程とはどういうものであるのか、を基本に、教師として必要な専門的知見を、理論的にも実践的にも、習熟していることが求められます。

 

 このような教員養成が、今日の日本において、行われているのでしょうか。

 

 戦後、日本国憲法・教育基本法制のもとで、「師範型」という言葉に象徴されるような戦前の天皇制国家体制のもとでの教員養成制度が、「大学における教員養成」と「開放制」を原則とする教員養成制度に転換されました。また、それに沿った教育職員免許法が制定されました。

 

 しかし、教育全般がそうであるように、教員養成制度も次第に国家統制が強化されていきました。

 

 教員養成は今日、教員養成系大学・学部を中心に行われています。そこでの教員スタッフは、それぞれの学問分野を保持したまま、教員養成系大学・学部で教員養成上必要とされる授業科目を担当しています。すべての教員が、教員養成系大学・学部の教員スタッフとして専門的に養成されているわけではありません。この点、医学部の教員(一般教育科目担当は別ですが)とは様相を異にします。医学の教員は、医学に関する研究者養成を行っている大学において養成されています。かれらが医師を養成しているのです。

 

 教員養成系大学・学部の場合、教員養成とはいかないまでも、教育学や教育心理学に関する研究者養成機関出身の教員は一割程度にすぎません。多くの教員は、広い意味で教員養成の基礎的教養を支える(ことになっている)さまざまな学問分野を専攻しているのです。

 

 教員養成系大学・学部は、主として教育職員免許法に基づいて、教育課程を構成しています。この教育職員免許法自体、政府・文部(科学)省の政策を反映して、学問的見地とは異なる理由から、しばしば改変されます。そのつど、教員養成系大学・学部の教育課程は見直されます。教育課程や授業科目がこれほどストレートに政策対応を求められているのは、他の大学・学部にはないと思われます。

 

 教員養成系大学・学部は、教育職員免許法が要請する教員免許資格取得に必要な授業科目を担当すると同時に、自ら専攻する学問分野の授業科目も担当します。

 

 はじめから教員志望が明確とは言えない学生が多く入学してきますから、入学後、学生が望む研究関心、研究テーマに対応した教育コース等が配置されています。そこでは、教員養成に関する研究指導が直接的なテーマになっているわけではありません。学生は、教員免許資格取得上必要とされる授業の単位を取得することで、教員免許取得の資格を得ることになるのです。そのこと自体を自己目的とする学生もいますし、それを義務として自覚しつつも、教員養成に直接関係ない何らかの学問分野に沿った研究に専念する学生もいます。

 

 教員免許資格取得に必要な授業科目は、教科専門教育科目、教科教育科目、教職教育科目から構成されます。

 

 一般には、教科専門教育科目を担当する教員は「専門」、教科教育科目および教職教育科目を担当する教員は「教職」と、大別され、全体として教員養成に携わっています。それぞれが協力しあって、教員養成の一点で相互交流を深め教職経験を積みながら教員養成系大学・学部のスタッフとしての自覚を深めているというのが現状ですが、現実はきわめて複雑です。

 

 「専門」の立場からすれば、できれば自らの専攻分野の研究に専念したい、教員養成にはできるだけ関わりたくないという意識傾向が、強くなります。大きな大学改革・学部改組に当面すると、そのような意識が噴出することになります。教員養成系学部を脱出する絶好のチャンスとして受けとめられるのです。

 

 「専門」担当の教員が、教員養成に関心がないというわけではありません。しかし、一般的には、自らの学問分野をベースに、教員養成に参加しているのが現状です。教育職員免許法が「改正」されて、より学校教育現場にそくした教員養成が求められると、主として「専門」の立場からは矛盾が広がることになります。その場合、教員養成に対する期待が、行政主導であればあるほど矛盾は拡大することになります。

 

 教員免許取得上必修科目が多い教職科目は大規模授業になります。ここにも転倒現象が見られます。小学校等における教科の授業に対応する授業科目ほど、小規模で、理論的にも実践的にも、深い高度な講義・演習が充実していなければなりません。

 

 理論的というよりも、教育政策上の必要から小学校低学年に導入された「生活科」を考えると、免許法上、教科教育科目と教職科目の二種類の科目を用意することになります。いずれについても、それを担当できる教員は配置されていませんから、だれかが担当せざるを得なくなります。対応の仕方は大学・学部でそれぞれですが、専門外の教員が担当することにおいては、共通していると言えます。

 

 このような状況で、教員・学生も、教員養成に関わる教育・学習に、情熱をもって専念できない状況におかれている、のも現実と言わざるを得ません。

 

 そういう中でも、教員養成系大学・学部に所属する教員が全体となって、教科専門・教職専門の溝を超えて、教員養成の内実を高め成果を挙げている大学・学部も少なくありません。「専門と教職という水と油ともいえる関係を乗り越えない限り、教育学部は教員養成学部にはなれない」と考え、この問題に取り組んでいる学部もあります。

 

 ある学部では、教員全体の了解のもとに、教育実習等に充てる時間を免許法上必要な単位の五倍も設定し、学校教育の現実をふまえた教員養成の在り方を探求しています。また、ある学部では、個々の教員の専門分野のすそ野に広がる周辺関心領域に目をつけ、その部分を全体として再構成し、教員養成に真に必要な授業科目を開発しています。あるいはモデル・コア・カリキュラムの開発という方向でも、研究が進んでいます。

 

 このような努力が、「人間を人間として育成する」普通教育の問題として意識したとき、今日の学校教育の現場が真に必要としている教員養成のあり方が、見えてくるのではないでしょうか。

 

 第二章第六節でも、教員の仕事について述べています。教員養成だけではなく、現実の学校現場における教員の問題にも解決が求められる問題が山積しています。この現状を、政府主導の教員政策の方向で打開するのか、子どもから出発する普通教育の見地に立って打開するかは、ますます緊急の課題になっています。

 

 戦後における教員養成の原則の一つとされる「開放制の原則」について言えば、それ自体は必要であるとしても、教員養成の実質、条件整備を欠いたままでは、むしろ弊害をもたらす可能性があります。この場合でも、「人間を人間として育成する」普通教育とは何か、それに見あった教員養成とは何か、についての深い理解が関係者には求められます。

 

 教員養成について、ユネスコは一九六六年に、「教員の地位に関する勧告」を採択しています。ここには、事実上、普通教育の見地に立った、教員養成制度が提起されています。

 

 なお、戦前日本において、とくに一八八一(明治十四)年に、文部省は「小学校教員心得」を通達していまそこでは「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育ノ弛張ハ国家隆替ニ係ル」という見地から教員論、教員養成論を指示しています。ここでも「普通教育」という語句が用いられています。この時期の教育政策は直前の政府部内における自由民権派の放逐と結びついています。この場合の「普通教育」には、すでに国家主義的な性格が、強く表れています。

 

 「小学校教員心得」の見地は、その後、帝国憲法・教育勅語体制のもとでエスカレートして、いわゆる「師範型」とも言われる教員像が確立していくことになります。

 

 一方、一八八二年、つまり、「小学校教員心得」の翌々年、東京大学文学部長の外山正一(一八四八~一九〇〇年)は「小学及び中学教員心得」と題して演説を行い、教員養成にあっては、子どもの立場に立って、教科内容や教育・心理に関する学問的教養を習得することが重要である、と主張しています。このような見解は、結局は国家主義教育体制と衝突せざるをえず、戦前にあっては否定されましたが、戦後の今日においても、なお、確認すべき重要な教員養成論と言えます。