第七章 普通教育制度を誰がどのようにす   すめていくべきか

 

 

 

 

 

  第一節 教育権は誰が行使するのか 

 

 

 

 ここで教育権とは、教育の理念・制度等の基本的枠組を決定する権利のことです。この場合の教育には、大学などの高等教育も含みます。ここでは、普通教育に限定して、検討することにします。

 

 教育の理念・制度等の基本的枠組を決定する権利としての教育権は、近代以前においては、概ね、国家社会の支配層が独占していました。一九世紀半ば以降、それは国民の権利だ、という思想がひろがってきました。

 

 わが国の場合、戦前、とくに帝国憲法制定以降、教育権は天皇にあるとされ、明治二十三年の教育勅語に示された理念のもとに、教育が支配統制されてきました。帝国憲法に教育条項がないのは、天皇の教育権を議会が拘束しないためであるとされました。

 

 戦後、日本国憲法の制定によって、国民主権原理へ転換されました。このことにより、教育権も国民に転換されました。まさに画期的なことと言えます。

 

 また、日本国憲法第二十六条第一項の「法律の定めるところにより」という文言に、勅令主義から法律主義への転換が、反映されています。

 

 その第一項では、すべて国民は、教育を受ける権利を有する、と定められています。戦前にあって、国民は、天皇制国家が定めた教育を、受ける義務、しか認められていませんでした。

 

 普通教育に関して決定的に重要なのは、憲法第二十六条第二項です。

 

 この規定によって、すべての国民は、直接保護すべき子どもの有無に関わらず、すべての子どもに普通教育を受けさせる義務を負うことになったのです。国民はすべて、普通教育とは何か、普通教育制度にはどのようなものがあるのか、普通教育制度はどうあるべきか、普通教育に関する法制とそれらについてどのような論点があるか、政府は法律の趣旨を正確に受けとめて普通教育制度に関する全国的な条件整備を行っているのか、地方教育行政は普通教育の充実に必要な行政を行っているのか、普通教育に関する国や地方の施策は、すべての子どもたちに、また、学校や教師や保護者たちに、どのように受けとめられているのか、等について、知り、判断し、その意思を明確に国会に反映する責務を負うことになったのです。

 

 戦前の教育行政的な体質を温存した政府や文部省は、憲法の普通教育条項に驚愕したのではないでしょうか。憲法および教育基本法制定の直後から、政府・文部省は、普通教育に関する国民の権利を、制限する方向に、全力を挙げることになります。

 

 まず、普通教育の義務年限を九年に制限し、高校を無償制原理から除外すること、憲法の普通教育条項にある「義務を負う」という文言を歪めて解釈し、普通教育を「義務教育」として描き出すこと、文部省の単なる著作物に過ぎない学習指導要領を学校教育法施行規則で早々と「教育課程の基準」として位置づけたこと、などによって、すべての子どもに普通教育を受けさせるのは国民の義務であるという自覚が著しく制限されることになりました。その上、政府・文部省は、占領期終了時の一九五〇年には「普通教育偏重是正」という口実で、普通教育制度への国家統制を強化し始めました。

 

 政府・文部省にとっては、「人間を人間として育成する」ことを基本理念とする普通教育では、戦後政治は成り立たないという判断のもとに、これを政府主導で「国民を育成する」国民教育制度に移行させることが当初からの戦略でした。

 

 この戦略は徐々に強化され、それは結局のところ半世紀を経て、二〇〇六年の教育基本法「改正」となって実現することになったのです。「改正」教育基本法において、教育理念は「人間の育成」から「国民の育成」に転換されたのです。

 

 「教育振興基本計画」を閣議で一方的に決めて、国民に押し付ける仕組みも「改正」教育基本法によって実現することになりました。普通教育に関する国民の権利は、かつてなく大幅に制約されることになりました。

 

 とは言え、日本国憲法全体、そして普通教育条項はそのまま保持されています。このこと自体、国民の総意の現れと言うことができます。国民の、普通教育に関する権利は、「改正」教育基本法にもかかわらず、しっかりと生きているのです。この権利を大いに発揮すること、普通教育制度を真に実質化していくことが、憲法上要請されているのです。

 

 

 

  第二節 議会制民主主義と普通教育

 

 

 

(一)普通教育を法制度として構築していくうえで、議会制民主主義は重要な責務を負っています。

 

 このことは、これまでも、しばしば確認されてきました。

 

 例えば、一九七六年の学力テスト旭川事件最高裁判決は、普通教育の内容等に対する議会制民主主義および国家的介入との関係について、つぎのように判断しています。すなわち、議会制民主主義はさまざまな政治的要因によって左右されるものであるから、普通教育の内容や方法に関する国会での意思決定に対する国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される、と。この判決は、大綱的基準にとどまる範囲で、普通教育の内容に関する議会制民主主義の関与を認めたうえで、国会の意思に対する国家的介入の制限について、判断しているのです。

 

 ところが、二〇〇六年に「改正」された教育基本法は、この最高裁の判断に挑戦し、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」であると規定したのです。最高裁判例は、普通教育という事業の特性から判断して、国家的介入が抑制すべきことを主張しているのに対し、「改正」教育基本法は、一般的法律によっても行うことができるとして、国家的介入を抑制する法的歯止めを解除しているのです。そして、教育行政に対する国民側からの意思表示やさまざまな運動を「不当な支配」として描いているのです。

 

 「改正」前の教育基本法に定められていた「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」(第一〇条)という条文が削除されたとは言え、「改正」教育基本法には依然として「普通教育」という語句が用いられており、しかも日本国憲法の普通教育条項も生きています。普通教育の特性から、普通教育に対する教育行政の「不当な支配」を制約する法的根拠は依然として確保されていると言うべきではないでしょうか。この可能性を、議会の場でも、その他の場でも、いっそう広げていくことが課題といえます。

 

 ところで、教育基本法「改正」法案を審議した議会議事録を通読して感じることは、ひどい議論だなと思う場合が多いのですが、同時に、教育学上の専門的知見を必ずしも有しない政治家が、国会という場において、ともかくも、教育基本法とは何であったのか、何であるべきか、教育や普通教育とは何かなどについて、さまざまに議論するシステムというのは重要だ、ということです。

 

 もちろん、これら基本的な教育法制の変更を議論するに当たっては、一般の法律とは異なる審議ルール、例えば強行採決は禁止する、国政調査権等を十分に活用する、公聴会・参考人質疑等を十分に活用する、など教育法制にふさわしい審議ルールを構築するなどは緊急の課題と言えます。「改正」教育基本法にも「法律に定める学校は、公の性質を有する」という規定(第六条)がありますが、いろいろ不十分な面がありますが、言論で「公の性質」を担保するのが議会制民主主義なのではないでしょうか。

 

(二)教育基本法「改正」法案の審議のなかで、小泉首相(当時)は次のように発言しています。

 

 「私は、まず、学校に初めて行く生徒にとって大事なことは、先生が子供たちをしっかりと受けとめて認めるということ、学校に来るのが楽しい、そういう雰囲気を先生がつくること、そして、学ぶことの楽しさを理解してもらうこと、生徒にとって。その前にもっと大事なことは、子供が、親から、周りから、自分は愛されているな、受けとめられているな、認められているなということを持つことが一番大事だと思っています。(中略)それを、本来、子供は愛されるべき存在でありながら、最近、親の一部の中には、虐待するという、もう人間にあるまじき行為をする大人、親が出てきたというのは憂うべき事態でありますけれども、まず大事なことは、この世に生まれてきて、ああ、自分は周りから愛されているんだな、そういう心持ちをしっかり持ってもらうような周りの大人たちの環境、学校に行ったら、学校は楽しい、学ぶことは楽しい、それが教育の大前提だと私は思っておりま

 

 あまりにも素朴といえば素朴ですが、このような教育観を否定する人はいないでしょう。しかし、このような教育観と小泉首相が推進した教育基本法「改正」論とはどのように結びついていたのでしょうか。このような教育観を、国会で表明すること自体は自由であり、かつ重要、と言えます。しかし、このような発言と教育基本法「改正」との関連を説明することなく、ただ世論受けすると言うだけの理由からこのような発言をすると言うのは、国民を愚弄するものと言わざるを得ません。

 

 大部分の教師は「子どもたちをしっかりと受けとめ認めてあげたい」、「学校に来るのが楽しい、という雰囲気をつくりたい」と日々の実践に取組んでいるのです。保護者たちにしても大部分は、子どもたちから「自分は周りから愛されているんだ」と思われるような子育てをしたい、と願っているのです。

 

 厳しい条件のもとで子育てに従事し、教育に従事している、多くの保護者、教員を向こうに回し、このような無責任な発言を繰り返す場になっているのも、我が国における議会制民主主義の現実と言わざるを得ません。

 

 しかし、それでも、一国の首相が、国会の場で、どのような意図であれ、このような発言をせざるを得ない現実に、普通教育が有する深い普遍性を感じざるを得ません。

 

 だれしもが共感もしくは共有しあえる教育要求というのは国民の総意と言うことができます。この国民の総意を基本とし、それに責任をもつと言うのが憲法・教育基本法の理念から導かれる立法・行政上の責務です。

 

 

 

  第三節 教育行政と普通教育

 

 

 

 倉澤剛氏は、明治初年段階における教育政策が、大学政策、小学校政策、藩の教育政策、私塾私学政策および海外留学政策から構成されており、「大学は一方では最高の教育機関であるとともに、他方では全国の学政を企画し統括する中央教育行政官庁の役割を担っと指摘しています。

 

 一八七一(明治四)年、この大学から教育行政機能が分化して文部省が設置されます。太政官政府のもとで、文部省は、一行政機関として位置づけられることになりますが、教育行政は本来大学という学術機関の機能の一つであって、政治上の行政機関とは相対的に独立していたことは、留意しておきたいと思います。

 

 戦前の文部省には、「普通教育ニ関スル事務ヲ掌理」する部局として「普通学務局」がありました。戦後は「初等中等教育局」とされました。憲法や教育法制から言えば「普通教育局」がより適切のように思われます。「初等教育」「中等教育」という語句は法律用語にはありません。

 

 戦後制定された教育基本法は、教育行政について、普通教育を含む教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである、という自覚のもとに、教育諸条件の整備確立を行うものと定めています(第十条)。これは画期的な規定であり、その後推進されていった普通教育に対する統制強化に対する防波堤の役割を果たしてきました。

 

 しかし、二〇〇六年の「改正」教育基本法で「教育は、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものである」(第十六条)と改変されてしまいました。一般行政との区別がなくなったのです。国会審議においては普通教育の理念にふさわしい特別の審議ルールを構築することが望まれます。

 

 地方行政組織としては、戦後、教育基本法第十条の理念のもとに教育委員会法が制定され教育委員会制度が発足します。一九五六年には教育委員を公選する教育委員会法は廃止され、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」のもとに地方教育行政が行われ、地方公共団体の長が任命する教育委員によって教育委員会が構成されています。

 

 今日、教育委員会制度の存廃をめぐる議論が出ていますが、二〇〇七年の地方教育行政法改正によって教育委員会に対する政府の関与が強化されることになりました。

 

 また、二〇〇六年の「改正」教育基本法によって、教育行政は「国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力」のもとに行われなければならないとされました。これはいわゆる地方分権の具体化というよりも、むしろ政府主導の教育行政を維持したままで、財政面等その一定部分を地方に押しつけるものと言えます。

 

 二〇〇八年七月一日、政府は「改正」教育基本法第十七条に基づいて「教育振興基本計画」を閣議決定し、国会に報告しました。これは今後十年間の教育方針、今後五年間の基本的施策を述べたものです。

 

 閣議決定できる「教育振興基本計画」を策定する法的根拠を教育基本法に盛り込むことが、教育基本法「改正」派の最大の意図だとされていました。

 

 「改正」される前の教育基本法のもとでは、①教育は国家権力などからの「不当な支配」に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものであること、としたうえで、②教育行政は、「この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」、と定められていました。このような規定からは、「教育振興基本計画」の冒頭に掲げられている「我が国の教育をめぐる現状と課題」を含む、教育の方針や内容にかかわる事項を、政府が、国会審議にかけることなく、閣議決定するということはあり得なかったわけです。

 

 このような状況の下で、国会が自ら、憲法の教育条項を深く受けとめて、教育の現状と課題を明らかにし、行政府主導の教育支配を許すことなく、不断に教育法制を見直し、教育行政をチェックし、国民の負託に応えていくことが、切実に求められています。

 

 

 

  第四節 教育財政と普通教育

 

 

 

(一)無償制の普通教育が根本  すでに述べたように、憲法第二十六条第二項は、国民が子どもたちに受けさせる義務を負っている普通教育は無償であると定めています。憲法上は①幼稚園から高等学校までのすべての校種を含み、②設置者の国公私立の別なく、③授業料に限定しない、を原則とするものです。この理念が教育財政制度の戦後理念と言えます。

 

 しかしながら、一九四七年制定の教育基本法は無償制について「授業料の不徴収」に限定した上でさらに、中学校までの九年間および国公立の学校に限定し、したがって高等学校、幼稚園あるいは私立学校には適用しないという二重の制約を設けています。

 

 義務制の普通教育に関しては、教育費国庫負担制度が構築されてきましたが、近年は教材費、児童手当等が国庫負担から外されるなど、その縮減と地方へのしわ寄せが進められています。

 

 二〇〇六年の「改正」教育基本法は「国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない」と定め、国庫負担の原則を改変しています。

 

(二)教育貧困国  教育基本法「改正」法案の国会審議では政府予算における教育費が占める割合について「五十年間でどんどんどんどん減らしてきた歴史というのが、大変大きな問題だ、(中略)ここできちっと方向を変えるべきだ」(傍点筆者)という議論がありましたが、政府側は、教育機会の均等原理、普通教育制度を支える財政基盤ともに、その根幹を掘り崩す答弁に終始していました。

 

 諸外国との関係で見ても、国内総生産(GDP)に対する教育公財政支出(国・地方公共団体・個人負担合計)の割合は、経済開発協力機構(OECD)平均を下回っており、教育貧困国になっています。

 

 教育基本法「改正」案を審議する国会審議でも、自民党の町村委員は「日本は教育大国、今まで私どもはそう思っておりましたけれども、OECDの資料を見ると、残念ながら日本は教育小国なんですね。伝統的には教育には熱心だ。しかし、現実の公財政(中略)は日本はぬきんでて低い」と発言しています。しかし、この発言は、国庫負担の拡充を求めるというよりも、地方への負担増を求める見地からのものと言えます。

 

(三)すでに述べた「教育振興基本計画」では、「教育に対する財政措置」に関する記述もありますが、これを拡充するという「計画」にはまったくなっていません。

 

 「教育振興基本計画」は、「改正」教育基本法が「国と地方公共団体は、(中略)必要な財政上の措置を講じなければならない」(第十六条第四項)と規定したことを拠り所にして、「歳出改革」を継続するとともに、地方公共団体へのさらなる努力を期待しているのみです。今後五年間の計画についても、具体的な財政規模はなんら示されていません。

 

 普通教育に関しては、無償制の問題をはじめ、その拡充のためには相当程度の財政措置が求められます。この分野でも、私たちは、すべての子どもたちに普通教育を受けさせる義務を負っているのです。