普通教育について
 はじめに

 「はじめは数ページの覚え書きをかくつもりだったが、主題にひきずられて、それは知らないうちに、その内容から考えればたしかに大きすぎるが、とりあつかっている題目から考えれば小さすぎる、著作のようなものになってしまった。これを出版したものかどうか、わたしは、二、三の小冊子を書いただけでは、一冊の書物といえるようなものをなかなか書けるものではないことを、たびたび感じさせられた。もっとよいものにしようとむなしい努力をしたすえに、わたしはいま、これをこのまま発表すべきだと思っている。一般の関心をこの方面にむけることが必要だと考えるからであり、かりにわたしの考えがまちがっているとしても、ほかのひとのよい考えを生む機縁になるなら、わたしはまったく時間をむだにしたことにはなるまいと考えるからでもある。」
 この文章はいまからおよそ二四〇年前にジャン=ジャック・ルソーが五〇歳のときに出版した『エミール』の冒頭の部分です。わたしも、この本をどのような書き出しにしようかとさんざん迷いましたが、けっきょくルソーに助けを求めることになってしまいました。
 ルソーは「ひとりの、ものを考えることができる、よき母を喜ばせるために」と、いかにもルソーらしい書き方をしていますが、この本には、教育にともかくも関心をもっておられるすべての方々に、普通教育について関心をもってもらいたいという思いと、普通教育を研究テーマにしようと決めてから今日までの二十数年間の成果を世に問うてみたいという思いが、こめられています。
 普通教育については、個性が生かされないのではないか、画一教育のことではないか、知育偏重ではないか、徳育がおろそかにされているのではないか、国民とか日本人を育てることを忘れているのではないか、あるいは、学校教育とか義務教育と同じような意味ではないか、専門教育とか高等教育の対概念ではないか、さらには特殊教育とは異なる健常児を対象とする教育のことではないか、などさまざまにうけとめられていますが、どれも正しくありません。
 最初の、個性についていえば、普通教育は一人ひとりの個性をもっともたいせつににする教育のことなのです。個性をたいせつにするということは同時に人間をたいせつにすることです。どんな子どもも一人ひとりかけがえのない個人であり、個性の持ち主ですが、同時に人間なのです。どんな子どもたちも人間として生まれてきたのであって、人間として生まれもった基本的な能力を、もちろんそれらは個性的な質をもっていますが、十分に発揮できるように守り育てていくことが普通教育にほかならないのです。人間として生まれもっている能力をバラバラに分割して、あるいは能力の個人差に着目して、人間性と切り離した「個性」を重視するという教育論もありますが、普通教育というのはそのような教育とはまったく異なるものです。
 また、普通教育は、個性をたいせつにし人間性を大切にすることが同時に国民をそだて日本人をそだてることになるという教育のことです。したがって、普通教育は本質的には普遍的なものですが、現実的には国によってそれぞれ特有の内容や形態を有することになります。人間らしさとか理性なんかよりもとにかく国民や日本人を育てることが重要だという教育論もありますが、普通教育というのはそのような教育ともまったく異なるものです。
 それにしても、普通教育の本当の意味は不思議なほど知られていないように思います。それにはいろいろな理由があるように思いますが、その大部分については本書で検討されています。また、普通教育の「とらえなおし」や「復権」等が論じられてもいますが、普通教育を教育学研究の基軸に据えることは今日の日本の教育現実にとってひじょうに重要なことだと思っています。
 私は二十一世紀は、日本だけではなく世界においても、普通教育の時代になるのではないかと期待しています。もうすこしつっこんだ言い方をすれば、普通教育に基礎をおいた公教育制度を確立することが二十一世紀の日本にとって重要な課題となるのではないかと考えています。
 それにしても、普通教育についての研究はあまりにも少なすぎます。間接的にあるいは無意識的に普通教育に関係する研究はある意味であふれるほどあるのですが、それらが普通教育の問題しっかりととむすびつけられていないのです。
 この本が、普通教育にかんする本格的な理論研究のための導火線としての意味をもつことができれば私にとっては望外の幸せです。
 本書には随所に「私は・・・思います」という記述があります。そういうレベルの本であって、理論研究にはほど遠いというべきです。多くの研究が出てきて普通教育に関する理論研究が発展することを期待しています。
 また、この本は普通教育という言葉のいわば枠組みとその意味を今日の日本の教育現実をとおして提示することを意図したものですが、一口に普通教育といっても、それは目的や内容、方法、法制度、学校制度そして行財政とその範囲は多岐にわたっています。また、内容といっても、たとえば教育課程審議会の答申のレベルまでは検討の対象にしていますが、学習指導要領や教科書のレベル、さらには教育実践のレベルについてはあえて触れていません。それらについて普通教育の見地から検討することは私にとっては当初からの夢ではあるのですが、量的にも質的にもそれはたいへんな仕事になることを知ってもいます。別な機会に実現できればと思っています。
 この本は、そういうわけで、全体として、普通教育の目的に重点をおいた内容になっています。必要に応じて、全般にふれている場合もあります。しかし、普通教育について日本の現実にそくして全面的に検討することは、個人の仕事というよりも、普通教育について関心のある方々との共同の研究が不可欠であると思っています。
 本書の文体は〈ます体〉になっています。ある意味で読みづらいという感想をもたれるかも知れませんが、それは普通教育を論ずる場合のよき伝統にしたいと私なりに考えた結果でもあります。というのは、日本ではじめて本格的に普通教育論を論じた人として知られている庵地保は『民間教育論』とか『通俗教育論』という本を明治十年代に出版しているのですが、その雑誌広告には、この本は「普通教育ノ旨意ヲ俗談平易ノ文章ヲ以テ誰人ニテモ教育ノ旨意ヲナールホドト了解シ得ル」ように書かれている、とあります。わたしももっともっと「俗談平易」をこころがけるべきだと思っています。
 最後に、私の一九九九年度後期の授業(教育哲学)を受けた三年次の一学生(一九九七年度入学)が私が課したレポートの課題に応えて次のようなレポートを書いてくれました。全文を原文のままつぎに収録することにします。普通教育の今日的な意味について私が書く以上に説得力があるなと感心したものです。私自身の研究テーマあるいは講義の趣旨をこのように受けとめてくれたということは、一面では私自身にとって感慨深いものがありますが、他面では今日の学校教育の疲弊状況がかくも深刻なものかとあらためて思い知らされました。

 
   「普通教育」について授業を通して感じたこと(学生のレポート)

 私は今まで十五年間学校生活を送ってきた。この十五年もの長い間、私は常に窮屈な思いをしてきた。常に学校というものが、そして学校教育を通り越した教育というものが、居心地のよいものではなかった。何かが違う、私はこの中にいたくないし、いる所じゃない、 そう思わせるものの正体は全くわからなかったが、漠然とそんなことを感じていたし、想いに駆られていた。
 しかし、この授業を通じて「普通教育」のことを知ったとき、私は「これだ」と直感した。この「普通教育」がなされていなかったから、私はずっとどこかで違和感や、やりきれなさを感じていたのだろう。そんなことを感じたのである。
 本来、教育は「人間を育てる教育」でなくてはならない。子どもは、そして私もそうだが、自分を人間として認めて欲しい、人間として接して欲しい、と切望している。しかし、これがなされていないために、押しつぶされ、小さな胸を痛めている子どもたちがどれだけいるだろう。子どもたちは、自分を苦しめる正体を知らない。社会のシステムにうまく組み込まれ、その中で踊らされているということなど、全くもって知らないのである。それなのに、というべきか、それだからというべきか、国は「普通教育」とは正反対の政策をとり、意識的に「普通教育」を排除しているという。「人間の育成」の上に「国民の育成」が為されるべきであるにもかかわらず、今の教育は「国民の育成」だけであり、「人間の育成」はどこにもない。それで教育といえるのだろうか。教育本来の意味を全く無視したこの国の有りかた。これで日本に未来をつくれるのだろうか。そんな想いだけがこみ上げてくる。国に都合のよい「国民」だけをつくるために、反抗しない、自分で物事の善し悪しを判断したり考えたりできない国民をつくり出すそのことのために、国は労力を使っている。国民は何も気づいてはいないが、このままでは、あの無残な戦争がいつ起きてもおかしくないほど、国民を洗脳している。二度と繰り返さないと誓ったあの過ちを、また自らの手で起こそうとしているのだ。今ここで「普通教育」を取り戻さなければ、悲惨な未来が待っていることは逃がれられない事実だと感じる。
 しかし、授業を通して驚いたことは、日本国憲法、教育基本法、学校教育法では「普通教育」がきちんと位置づけられていた、ということであった。そして昔の人々も様々な人が「普通教育」を提唱している。そのすばらしさ、必要不可欠であることを本来皆分かっていたし、人間は恐らく本能で分かっているのではないだろうか。それにも関わらず、国は、目先だけの利益のみを求め、国の言うことだけを聞く国民をつくるために、その「普通教育」を形骸化し、都合のよい教育政策ばかりを行っているのだ。目先の利益だけの日本。今だけを見てそれで満足なのだろうか。私たちは次の社会を自分で考え自分の手で創り出す子どもたちを育てなければならないのに。時は流れている。自分たちの時代もやがて終わりを告げる。この壮大な歴史の一コマに自分が生かされていることの意味を一人一人が問い、感謝しなければならないと思う。人間が、私達一人一人が自分の人生に真正面から向き合っていないから、生きることを怠っているから、「普通教育」を形骸化できるのだと思う。本当に真剣に生きていれば絶対に「普通教育」を形骸化できないはずなのだ。子どもは昔の自分。そして子どもはやがて大人になり、社会の創造主となる。子どもは敏感である。だから、自分を人間として見てくれない人のことはすぐわかる。私がそうであった。自分を認めてもらえないと自信ももてないし、自分が実際より小さいもののように思えてくる。そのことがきっかけとなって、だんだん自分を肯定できない自分になっていき、本来の自分ではなく偽りの自分を演じるようになっていく。自分をごまかすようになっていくのだ。ただ一つ、自分が人間として認められなかった、そのことだけで。大人も子どもも同じ人間なのだ。かけがえのない存在なのだ。どうして子どもだけを軽く扱えるのだろう。大人は自分を過信しすぎていないか。違った方向に自分を捕らえていないか。本当は誰も皆偉くないし、誰も皆すばらしいのだ。生きている価値は同じである。そのことに気づいている人が少ないのか、気づいて実行してくれる人、他人の価値を認められる人が、私も含め増えればよいと思う。
 今は、いじめや不登校、学級崩壊など、学校教育をめぐる問題、又学校教育に限らず教育全般で問題が多発しているが、そういう問題が起こるのも今思えば何のことはない、「普通教育」が形骸化されたためだったのだ。本当に当たり前のことである。人間を大切にしなくなれば問題が起こるのは当然なのである。どうしてこんな大切なこと、見落としていたんだろう、いや薄々は感じてはいたけれど、どうして誰も教えてくれなかったのだろう、そして私は見つけられなかったのだろう  。ずっとやりきれずにいた想いの糸が一本つながったような気がする。これからは、本当の教育の意味を一人一人が問い直し、一人一人が教育される社会を創ってゆかねばならない。
 「普通教育」の大切さを皆に知ってほしい。そしてもっと多くの人がこの分野を研究してほしい。こんな大事な根本である部分を研究する人が少ないということも意外だったし、残念だった。これから、この世界がもっと輝けるために、一人一人が楽しく気持ちよく自分の人生を送るために、今、私は、「普通教育」の重要性を痛烈に感じている。以上