第三章 「個性重視の原則」に立つ教育改革 

              ー普通教育があぶないー

 

   

   第一節 「個性重視の原則」とは   

 一九八四(昭和五九)年に設置された臨時教育審議会が打ち出した教育改革は「個性重視の原則」を基本原則とするものでした。

 臨時教育審議会が出した四次にわたる答申(以下総称して「臨教審答申」とします)は教育改革の「目標」として「個人の尊厳を重んじ、個性豊かな文化の創造を目指す教育を現実の教育の営みのなかで実現することを願い、また、伝統文化を継承し、日本人としての自覚に立って国際社会に貢献し得る国民の育成を図ること」と述べています。

 この「目標」は教育基本法の理念・目的とは正反対のものです。教育基本法は「普遍的にしてしかも個性豊かな」とのべ、普遍と個性の関係を適切に表現しているのに対し、「臨教審答申」は「個性豊かな」だけをとりあげ、そのことによって普遍よりも個性を重視するという考え方に立っているのです。また、教育基本法が「人間の育成」のうえに「国民の育成」を位置づけているのに対して、「臨教審答申」は「人間の育成」には言及せず「日本人としての自覚」にたった「国民の育成」を基本原則としているのです。

 「臨教審答申」はこのような「目標」のもとに「基本的考え方」として「基礎・基本の重視」、「創造性・考える力・表現力の育成」、「選択の機会の拡大」、「教育環境の人間化」、「生涯学習体系への移行」、「国際化への対応」および「情報化への対応」をあげ、その中で「個性重視の原則」を「今次教育改革で最も重視されなければならないものとして、他のすべてを通ずる基本的な原則とした」と述べています。

 「個性重視の原則」とは「個人の尊厳、個性の尊重、自由・自律、自己責任の原則」であるとし、おおむねつぎのように説明しています。

 ①人間の生命は過去・現在・未来とも結ばれており、また、各個人は家庭、学校、地域など  の各レベルにおいて複雑な相互依存関係のなかに生きている。個人の尊厳、個性の尊重の  考え方の根本にあるものは、この時間・空間という縦・横双方の広がりのなかで、各個人  はそれぞれ独自の個性的な存在であるということであり、また、個性的な個人が集まって  集団の活力を形成している。

 ②個性とは、個人の個性のみならず、家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代の個性を  も意味している。

 ③個人の尊厳、個性の尊重、自由・自律、自己責任は、相互に不可分の一体をなすものであ  る。 

 ④自他の個性を知り、自他の個性を尊重し、自他の個性を生かすことは、個人、社会、国家  間のすべてに通ずる不易の理想である。

 

 個人の尊厳、個性の尊重の根本にあるものは本来個性であるとともに人間性です。第四章で述べたように、敗戦直後文部省が自ら掲げた理念は「個性尊重の教育」でしたが、それは人間性を育成するという意味でした。「臨教審答申」はなぜ「人間の育成」にそれほど背を向けるのでしょうか。

 「個性」を家庭、学校、地域、企業、国家にまで拡大するという考え方は、教育勅語が出された直後(一八九一年)の文部省幹部の発言にも見ることができます。そこでは国民は日本という「特性」をもった国家の一「分子」なのであって、そのような「分子」として育成することが小学校の使命なのだと言うものでした。個性と言う言葉は当時用いられていませんでしたが、「臨教審答申」が用いている「個性」とほぼ同じといえます。

 家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代などを個人の個性と同様に個性があるといえるのでしょうか。個人は有機的組織といえますが、それ以外は有機的組織として同列に論じることができるのでしょうか。かりに「有機的組織」であるとして、それぞれがどのような「個性」を発揮するかは、有機的組織を構成している各要素のさまざまな組み合わせや諸関係に規定されますが、結局は「有機的組織」を代表する頭脳であるとか経営者というトップの考え方によるのではないでしょうか。「有機的組織」の構成要素がそのトップの考え方に従うことによってはじめてその「有機的組織」は個性を発揮することができるのだ、というのが「臨教審答申」が強調する「個性」と言うことの意味ではないでしょうか。ですから構成要素はそれぞれ自立した人間であっては困るのです。

 「臨教審答申」がいう「基礎・基本の重視」というのも「個性的な個人」を「個性的な個人」たらしめるうえで必要な「基礎・基本」を重視するということなのです。

 

「生涯学習体系への移行」

 

 「臨教審答申」の第二の原則と言うべきものが「生涯学習体系への移行」です。

 それは第一に「学校中心の考え方を改め、生涯学習体系への移行を主軸とする教育体系への総合的再編成を図」るとしています。

 生涯教育などいわゆる学校外の教育への関心が高まるなかで、そこでの教育とこれまでの学校との関係をあらためて明確にする必要が出てきたことは否めません。国際的に確認されてきている学習権や発達権などの考え方をもふまえ、学校外や学校修了後においてもさまざまな教育機会を拡充していくことは多くの国民の要求として次第に広がってきました。

 ところが政府・文部省は教育機会の飛躍的な広がりを「生涯学習体系」という閉じられた「体系」に再編しようとしているのです。これが「生涯学習体系への移行」に他なりません。第四章でも述べましたが「体系」という言葉をあえて用いているところにも生涯学習社会を「有機的組織」として位置づけるという考え方が表れています。第六節で述べますが、一九九〇年に設置された生涯学習審議会は生涯学習社会の構築に向けた答申を精力的に提出しています。

「今次教育改革の出発点」

 

 「臨教審答申」は「教育改革の必要性」の第一に、「成熟化の進展」、「科学技術の進展」、「国際化の進展」をあげて「これらがもたらす可能性と問題点を見定めるとともに、日本文化・社会の特質と変動を十分に認識することが、今次教育改革の出発点でなければならない」と述べています。子どもたちがおかれている生活、学習、教育の現状から教育改革の課題をひきだすのではなく、「日本文化・社会の特質と変動」から「教育改革の必要性」を論じるという見地は七一年中央教育審議会の場合とまったく同じです。

 「臨教審答申」は今後の教育の目標を①ひろい心、すこやかな体、ゆたかな創造力、②自由・自律と公共の精神、③世界の中の日本人、をあげていますが、教育基本法の理念・目的や学校教育法にかかげた教育目標はどこへいってしまったのでしょうか 。

 「世界の中の日本人」について考えて見ましょう。臨教審答申は次のように述べています。「我が国がいまだかつて経験したことのない国際的相互依存関係の深まりのなかで、国際社会の一員として生き続けていくためには、全人類的視野に立って様々な分野で貢献するとともに、国際社会において真に信頼される日本人を育成すること、すなわち、『世界の中の日本人』の育成を図ることが重要となる」と。

 「国際社会において真に信頼される日本人を育成する」こと自体は普通教育の課題とすることができます。そのためにはたとえば次のような条件が満たされていることが必要となるでしょう。①普通教育の初期の段階からそれぞれの発達段階にふさわしく子どもたちが子どもたち仲間の相互交流を含めて基本的な諸能力が十分に育成されていること、②さらに進んだ段階ではわが国全般の現在と過去について具体的に見聞する機会を十分にもつこと、③それらについて人間としても国民としても必要とされる基本的な判断力を有すること、④少なくとも一つの外国語について十分活用できる能力を習得していること、⑤諸外国について十分に理解できる機会を有すること、⑥日本の立場や利益が同時に諸外国の立場や利益と一致するためには相互にどのような課題があり、またどのような努力をする必要があるのかについて十分に判断できる能力を習得していること、などです。

 以上のような普通教育をすべての子どもたちが享受できれば、日本は国際社会から真に信頼されるようになるでしょう。

 これにたいして「臨教審答申」は、第一に、「日本文化の個性」、「多様な異なる文化の優れた個性」について理解できる能力、第二に、「日本人として国を愛する心をもつこと」、「狭い自国の利害のみで物事を判断するのではなく、広い国際的、人類的視野の中で人格形成を目指すという基本に立つ」こと、「国旗・国歌のもつ意味を理解し尊重する心情と態度を養うこと」、第三に、「国際的コミュニケーション能力」を育成すること、などをあげています。「狭い自国の利害のみで物事を判断するのではなく、広い国際的、人類的視野の中で人格形成を目指す」ことが可能であるためには子どもたちが豊かな人間として育てられ、そして国民として主権者としてすぐれた判断力が形成されていくなかで培われていくものではないでしょうか。初めから「日本文化」や「国旗・国歌」等への態度を求められるような「国際的、人類的視野」とはどのようなものなのでしょうか。

 

「徳育の充実」

 

 「臨教審答申」は「初等中等教育の充実と改革」の改革課題のうち「教育内容の改善」として(1)徳育の充実、(2)基礎・基本の徹底と個性の伸長、をあげています。

 「教育内容の改革」の冒頭に「徳育の充実」を掲げたのは大きな特徴と言えます。「徳育の充実」では「基本的な生活習慣のしつけ、自己抑制力、日常の社会規範を守る態度の育成、人間としての『生き方』の教育」を重視する、「自然体験学習の促進、「特設『道徳』の内容の見直し・重点化」などを提起しています。

 「徳育」という言葉は「知育」および「体育」と一体をなす概念としてわが国の教育史のなかでは明治二十年前後から社会有機体論の主張者H・スペンサーの教育論を受けて広く用いられるようになった言葉です。また、それが「教育内容の改善」の冒頭に位置づけられたことにかんしていえば、明治十三年の教育令改正の際に「修身」が突如として首位教科に格上げされた「事件」をも想起させます。

 つぎに、「基礎・基本の徹底と個性の伸長」は①「教育内容の改善の基本方向」、②「教科等の内容、構成」、③「教育内容にかかわる制度の運用上の改善」について論じています。

 ①「教育内容の改善の基本方向」では「生涯にわたる人間形成の基礎を培うために必要な基礎的・基本的な内容の修得の徹底、自己教育力の育成を図る」としています。「このため学校段階ごとに、その教育内容の重点化と精選を図り、その際、創造力・思考力・判断力・表現力の育成、我が国の伝統・文化の理解と日本人としての自覚の涵養、体力の増進と健康教育の充実などを重視する」としています。

 小学校についてはとくに「読・書・算の基礎の修得と社会性や情操などの涵養を重視」すること、中学校や高等学校では「個性の伸長を目指して教育内容の多様化を図る」、「社会参加等の導入、成人学習の機会等の拡大を図る」などを提起しています。

 ②「教科等の内容、構成」では、小学校低学年においては「教科の総合化」を進め、中学校・高等学校では「社会科の構成の在り方、家庭科の内容と取扱いを検討する」、また、「健康教育を充実するため、道徳・特別活動、保健体育など関連する教科の内容、在り方を検討する」などとしています。

 ③「教育内容にかかわる制度の運用上の改善」では学習指導要領について「多様な創意工夫ができるよう、より大綱化を図る」とともに「基礎・基本の明確化・充実化、選択の拡大、例外の許容についても配慮する」としています。

 以上が「教育内容の改善」についてですが、このほか「教科書制度の改革」「教員の資質向上」「教育条件の改善」「後期中等教育の構造の柔軟化」「就学前の教育の振興および障害者教育の振興」「開かれた学校と管理・運営の確立」などが「個性重視の原則」および「生涯学習体系への移行」という見地から提起されています。

 

  第二節 新学力観

      ー一九八七年の教育課程審議会答申ー

 

 一九八七年十二月の教育課程審議会答申(以下「八七年答申」とします)は臨時教育審議会答申が打ち出した改革方向を教育課程の分野で全面的に具体化したものとなっています。

 「八七年答申」は①豊かな心をもち、たくましく生きる人間の育成を図ること、②自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を重視すること、③国民として必要とされる基礎的・基本的な内容を重視し、個性を生かす教育の充実を図ること、④国際理解を深め、我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視すること、を挙げています。

 ①は「臨教審答申」が打ち出した「徳育の充実」の具体化であり、「道徳の時間」だけではなく、「各教科及び特別活動においてもそれぞれの特質に即して道徳教育に資する内容の充実を図り、それらの相互の関連的な指導によって一層充実するよう配慮する」ことが強調されています。

 ②は学校教育を「生涯学習の基礎を培う」場所として位置づけることと結びついて述べられています。 学習主体としては大人も子どももない、あるのは「自ら学ぼうとする人間」だけなのだ、という考え方・生き方を早いうちから修得させるというのが「生涯学習の基礎を培う」ということなのです。自ら学ぼうとするかどうかは自由と自己責任の問題であり、そのことによって不利益を受けるのは学習者の問題なのだ、したがって学校教育の役割は学習主体が「社会の変化に対応できる」ように、とくに「新たな発想を生み出すもとになる論理的な思考力と想像力、直観力」を育成することを基本にするべきであるというのです。

 ③は「各教科の内容の一層の精選」として具体化されています。

 まず、幼稚園について検討してみましょう。「八七年答申」は主として「幼児期に育てるべき能力と態度」という観点から、これまで「健康」・「社会」・「自然」・「言語」・「音楽リズム」および「絵画製作」の六領域であったものを「健康」・「人間関係」・「環境」・「言葉」および「表現」の五領域に再編しています。その理由は「幼児の発達の諸側面」と「幼児期に育てるべき能力と態度」という観点を考慮したというものですが、それまでは「幼児の発達の諸側面」を基準に編成していたといえます。この基準の転換も「国民として必要とされる基礎的・基本的な内容を重視」した結果といえましょう。「幼児期に育てるべき」能力というものがどういうものであるべきかが「国民の育成」という視点から設定され、その「基礎・基本」を幼稚園段階から習得させるとしているのです。

 小学校低学年では理科および社会科が廃止され「生活科」が導入されました。「生活科」は「体験的な学習を通して総合的な指導を一層推進する」という特定の指導方法とむすびついて、そのねらいを「具体的な活動や体験を通して、自分と身近な社会や自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせるとともに、その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養う」としています。経験よりも「体験」を重視し、「自分」とのかかわりから自然や社会や生活に関心をもたせること、などを強調することは、結局は人間としての自立につながると言うよりは国民もしくは日本人としての自立の基礎を養うことを意図したものといえます。

 なお、昭和初期にも特設「生活科」が実験的に行われていました。それは「教科の中に加設せらるべき使命と本質とを有する一個独立の教科」として構想され、「郷土文化を全文化への関連において統一的な体験構造として理解せしめ」、「国民文化的の生活を主観と客観、生活と発表と了解との関連において把握せしめ」ようとするものでした。この「生活科」を中核とする教育は当時「体験教育」とも称されていましたが、この「体験教育」を主導していた当時の校長は「体験は実在としては、生そのものの、内面的直接経験の事実で、これが認識方法としては、知情意合一の全生命の活動で、生命進展の過程として行われる」(小原国芳編、玉川大学出版部、『日本新教育百年史(四)関東』より重引、いずれも現代表記にあらためた)と述べています。多くの点で「八七年答申」が導入した「生活科」と類似していることを指摘しておきたいと思います。

 中学校の教科編成については、中学校段階の生徒の「能力・適性、興味・関心等の多様化が一層進む時期にあること」、「中学校教育を中等教育の前期としてとらえ直す視点をこれまで以上に重視すること」、「生徒の個性を生かす教育の一層の充実を図る」などを論拠にあげながら選択履修の幅を拡大するとして、具体的には音楽、美術、保健体育及び技術・家庭の四教科を第二学年の選択教科に加えるとともに、国語、社会、数学および理科の四教科を第三学年の選択教科に加えるとしています。

 高等学校の各教科・科目の編成については、①「中学校における選択履修の幅の拡大に考慮すること」、②「生徒の能力・適性、進路等の多様化の実態等に考慮すること」、③「情報化や国際化などの社会の変化に適切に対応し特に重視すべき内容の充実を図ること」および④「各学校が学校や地域の実情及び生徒の実態に応じて創意を生かして編成することが一層可能になるように留意すること」など、全般的な改編を求めています。

 「高等学校における各教科・科目の編成等」については「普通教育に関する各教科・科目」と「職業に関する各教科・科目」に区分して展開していますが両者がどのように関連しているかについての説明はまったくありません。ただし、これまでのいわゆる普通教科群を「普通教育に関する各教科・科目」という表現で括ったことははじめてのことであり普通教育史の見地から留意しておきたいと思います。

 「普通教育に関する各教科・科目」については(ア)社会科を再編成して地歴科と公民科を新設すること、(イ)必修科目を置く教科は、国語、地歴、公民、数学、理科、保健体育、芸術および家庭とし、家庭は男子も必修とすること、(ウ)「普通教育に関する各教科」についてはできるだけ多様な科目を用意すること、また職業、技術、情報などの「学習指導要領に示す教科以外の教科」や「各教科において学習指導要領に示す科目以外の科目」を、設置者の判断により設けることができるようにすること、という方針が示されました。

 このような方針のもとに「各教科・科目及びその標準単位数」と「すべての生徒に履修させる必修の教科・科目及びその単位数」が提示されています。

 「国際社会における主体性のある日本人の育成」を主要な観点として「社会科」が廃止され「地歴科」と「公民科」が設けられましたが、「すべての生徒に履修させる必修の教科・科目」に関して言えば、これまでの「社会」四単位が「地歴」二科目四単位以上、「公民」四単位以上と倍増しました。必修単位は倍増しましたが、日本史あるい地理をまったく履修しないケース、「現代社会」「倫理」「政治・経済」のどれか一科目をまったく履修しないケースなどが生まれることになりました。

 理科についても同様に、それまでの理科Ⅰ(四単位)必修というのではなく、物理、化学、生物、地学のうち二科目は履修しなくてもいいようになりました。

 日本史も政治・経済も物理も高校生時代にまったく勉強したことがないというような事態をあえて創出することを「生徒の実態や社会の変化に対応するため」という理由で受け入れることができるのでしょうか。

 

「学校五日制」

 

 「八七年答申」の「三 授業時数等」の部分で学校五日制導入についての基本的な考え方が示されています。学校五日制については「臨教審答申」において次のように説明されています。「週休二日制に向かう社会のすう勢を考慮しつつ、子どもの立場を中心に家庭、学校、地域の役割を整理し見直す視点から、学校の負担の軽減や学校の週五日制への移行について検討する」と。週休二日制への移行が不可避となった状況のもとで、「個性重視の原則」や「生涯学習体系への移行」の見地から学校五日制を検討するということです。

 「八七年答申」はこれをうけて「学校五日制」について、第一に、現行程度の教育水準を維持すること、第二に、児童生徒の学習負担が過重にならないように教育活動をいっそう充実させること、第三に、学校外における幼児児童生徒の生活の充実と活性化を図るため、地域社会の受け入れ体制の整備充実と学校開放に努めること、第四に、年間授業日数と年間授業時数の取り扱いを弾力的にすること、を求めています。

 「現行程度の教育水準を維持する」ということは、学校五日制の導入がこれまでの教育課程政策の反省の上に発想されたものではないこと、これまでの学習指導要領政策をなんら変えるものではないことを明言したことを意味します。「児童生徒の学習負担が過重にならないように」ということも、「基礎・基本」政策や「ゆとり」政策をいっそう推し進めていくということを意味しています。つまり、週休二日制は社会情勢の変化として受け入れるが、教育課程審議会としてはこの教育外的要因をテコとしてこれまでの教育課程政策をさらに発展的に展開するという姿勢を示したものと思われます。

 

「六年制中等学校」

 

 「八七年答申」は「六年制中等学校及び単位制高等学校」および「定時制・通信制教育」について提言していますが、ここでは「六年制中等学校」を主に検討しておきます。

 「八七年答申」は六年制中等学校について、「中学校及び高等学校に相当する教育を一貫して行う学校として構想したもの」であると述べています。

 六年制中等学校の意義として①重複や切れ目がなく効率的、一貫的な教育を行うことができる、②生徒の個性や適性に応じた教育課程の編成等が可能となる、③比較的早期から行うことが有効と考えられる分野の教育を早くから実施することができる、④中学校と高等学校との接続が円滑になり、安定的な学校生活を過ごすことができる」、の四点を挙げています。

 学校教育法が定めている中学校三年制、高等学校三年制に絶対的な根拠があるわけではありません。普通教育の性格を明確にしたうえで小学校六年制、中等学校六年制という構想もあり得ますし、他にもいろいろ考えられるでしょう。しかし、現実においては、義務制は中学校までで、高等学校は一般に底辺校から受験校まできびしく序列化されています。このような中学校と高校制度との関係を普通教育の見地から根本的に改革することがまさに焦眉の課題となっているのです。

 しかしながら、「八七年答申」はこのような深刻な問題にはいっさいふれることなく、効率化、個性化などの視点から「六年制中等学校」を構想しているのです。いわゆる複線型の学校体系の一方、すなわちいわゆる一流大学をゴールとするピラミッド型の学校体系の中核として「六年制中等学校」を確保するという日本的な政治・経済構造を強く意識した構想といえます。六年制中等学校構想については、その後の第十五期中央教育審議会答申を経て一九九八年の教育課程審議会答申によってさらに具体化されていきます。

 

新学力観

 

 最後に「八七年答申」は「教育課程の基準の改善の関連事項」として六項目を挙げていますが、ここではその中の「学習の評価」についてのみ検討することにします。

 「八七年答申」は「学校における評価については、教育課程の基準の改善のねらいを達成するため、児童生徒の自ら学ぶ意欲や思考力、判断力、表現力などの能力の育成に資するよう一層の工夫改善が必要である」として「知識理解面の評価に偏ることなく、児童生徒の興味・関心等の側面を一層重視する」ことを強調しています。また、指導要録における各教科の評価については各教科共通の考え方ではなく、教科の特性に応じた評価方法等を取り入れるよう提言しています。

 「八七年答申」をうけて幼稚園の教育要領や小・中学校の学習指導要領が改訂されましたがその直後の一九九一(平成三)年三月、文部省に設置された「指導要録の改善に関する調査研究協力者会議」は「新学習指導要領が目指す学力観に立った教育の実践に役立つようにする」という基本方針を掲げています。この「新学習指導要領が目指す学力観」は一般に「新学力観」といわれていますが、その源流は前章第四節で検討した二十五年前の一九七六年教育課程審議会答申にさかのぼることができます。そこでは「教育課程の基準の改善のねらい」として「自ら考え正しく判断できる力をもつ児童生徒の育成」が掲げられています。「ゆとり」と「教育内容の精選」路線の出発でもありました。

 一九九一年の指導要録改訂で目標とされたのも「自ら学ぶ意欲の育成や思考力、判断力、表現力などの能力の育成を重視する」というものです。

 「指導要録」とは学校教育法施行令上は学校が廃止された場合にそなえて在学生・卒業生の学習および健康の状況を記録した書類ですが、前回の改訂(一九七一年)も学習指導要領の改訂と密接に連動していたように、今回の指導要録も学習指導要領の改訂、しかも「学習指導要領が目指す学力観」の歴史的な転換と密接にむすびついたものと言えます。「学習指導要領が目指す学力観」あるいは「新学力観」はその後の教育政策の全般を通して威力を発揮していくことになります。

 

  第三節 いわゆる「問題行動」対策

 

 「個性重視の原則」を教育改革の基本原則とする臨時教育審議会答申が出された時、私はこれからの子ども達は大変なことになるなと直感しました。「人間の育成」はなんら考慮されていない、人間性はどうなってしまうのか。すべての子どもたちから人間的活力を奪い去り、人間的感性を枯渇させ、仲間を仲間と感じることのできない、ちょっとした差異にも敏感になり、動物的・衝動的にしか対応できない青少年をまさに社会的に大量的に生み出すことになりはしないか、と。不幸にして予感は的中しました。

 全国教育研究所が「半数の子どもが授業についていけない」と報告したのは一九七一年のことですが、それ以来総理府、警察庁、労働省などの政府関係機関や民間教育団体等が子ども達の生活や学習状況の異変について報告しはじめています。ジャーナリズムやマスコミ等もこの問題をおおきく報道するようになりました。臨時教育審議会答申はこのような現実に直面し一定の改革を余儀なくされたのですが、それはこれまでの政府・文部省が進めてきた教育政策の反省からではなく、戦後教育の在り方にこそ原因がある、だからそれを「総決算」するのだという見地からの「改革」に大胆に踏み出したのです。子ども達の世界にあらわれた荒廃状況を解消することに眼目があったわけではないのです。臨時教育審議会答申以後、荒廃状況はそれ以前に比べてはるかに大規模にはるかに深刻に広がっていくことになりました。

 と同時にこのような現実をもたらした原因を教育政策とくに教育課程政策や教員政策の結果ではなくそれ以外のさまざまな要因に求めようとする意図は、政府・文部省のその後の政策に貫いていきました。

 その突破口といえるものが「登校拒否はどの子にもおこり得る」という見解をまとめた一九九〇(平成二)年十二月の文部省・学校不適応調査協力者会議の「中間まとめ」でした。この見解はその最終報告(一九九二年)においていわば定式化され、この見解を基調とした対応策が一九九二(平成四)年の文部省初等中等教育局長通知「登校拒否問題への対応について」や一九九七(平成九)年の文部省・生徒指導資料『登校拒否問題への取組について』として具体化されていきました。

 「登校拒否はどの子にもおこり得る」という言い方は直接子どもに関わっている先生方からは一面では自分達の責任だけではないのだという励ましのメッセージとも聞こえるかも知れませんが、文部省の真意はそこにあったわけではありません。政策上の責任を回避し「登校拒否」はある状況のもとでの子どもに特有な心理現象なのだ、そのためにはカウンセリングなどの対症療法が必要なのだという対策方向を導き出す口実としてもちだされてきたスローガンなのです。

 異常な社会的諸条件のもとであればだれにでもおこり得るような異常心理や異常行動というものがあります。であれば異常な社会的条件を正常にもどせば異常行動は解決されるのです。「登校拒否」がほんとうに「どの子にもおこり得る」のだとしたら、子どもたちが毎日、一日のかなりな時間を生活している学校のありかたを根本的に改善していくことこそが求められるのではないでしょうか。

 いじめ問題も九〇年代に入りいっそう深刻な状況となり、一九九四年の大河内清輝君の自殺事件を契機に政府・文部省サイドからの対策が迫られることになりました。

 一九九五年三月、文部省・いじめ対策緊急会議が報告をまとめています。そこでは「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない」という認識を基本に、学校、教育委員会、家庭、国および社会において取り組むべき課題を提起しています。とくに学校においては「道徳教育、こころの教育」等を推進することや「いじめる側に対し出席停止の措置を講じたり、警察等適切な関係機関の協力を求め、厳しい対応を取ること」などを提起しています。

 一九九六年七月、文部省の児童・生徒の問題行動等に関する調査研究協力者会議は「いじめ問題に関する総合的な取組についてー今こそ、子どもたちのために我々一人一人が行動するときー」をまとめています。そこでは「いじめの問題は、家庭、学校、地域社会がそれぞれの教育機能を十分に発揮し、一体となった取組を行ってい」くべきことを「全国民へ訴える」と述べています。この文書は家庭、地域社会、学校、教育委員会、国の順で叙述されているのが特徴と言えます。これは前述した前年のいじめ対策緊急会議報告が学校、教育委員会、家庭、国、社会の順に叙述されていたのと対照的といえます。いじめ問題の原因の所在や取組むべき主体について、学校や教育委員会にあるという認識から家庭、地域社会にあるという認識へといわば移していることに留意したいと思います。

 

 

  第四節 「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくむ

 

 一九九六年に出された第十五期中央教育審議会の答申(以下「九六年答申」とします)は「これからの学校教育の目指す方向」として、「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくむことを基調に、教育内容の厳選、基礎・基本の徹底、個性を生かすための教育の改善、豊かな人間性とたくましい体をはぐくむための教育の改善、横断的・総合的な学習の推進、教科の再編・統合を含めた将来の教科等の構成の在り方、などを提起しました。

 

「生きる力」

 

 「生きる力」についてはまず「学校・家庭・地域社会が相互に連携しつつ、社会全体ではぐくんでいくもの」として、「生涯学習体系社会」の成員として求められる「生きる力」であるとされています。学校・家庭・地域社会が相互に連携することは一面ではごくあたりまえのようにも思えますが、「生涯学習体系」というような特定の国家社会理念への統合のために相互の連携が求められるのであれば話は違ってきます。学校・家庭・地域社会と言ってもそれぞれを構成している人々はそれぞれにおいてそれぞれの生き方をしているのであって、彼らが相互に連携する場合には連携することの意味や必要性が相互に理解されていることが条件となるでしょう。そのことが理解されないままひたすら「相互の連携」を求めるとすれば結局は思想統制国家にならざるを得ないのではないでしょうか。

 

「全人」

 

 つぎに、「生きる力」は「全人的な力であり、幅広く様々な観点から敷衍することができる」とされています。

 「全人」というのは聞き慣れない言葉です。「全人教育」という言葉は例えば昭和初期、小原国芳の教育論が想起されますが、そこでは真・善・美・聖・健・富の価値を具現する理想的人間像を「全人」とされていました。今回の答申では四つの価値、すなわち①「これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力」、②「初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力」、③「理性的な判断力や合理的な精神だけでなく、美しいものや自然に感動する心といった柔らかな感性を含むもの」、④「よい行いに感銘し、間違った行為を憎むといった正義感や公正さを重んじる心、生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観や、他人を思いやる心の優しさ、相手の立場になって考えたり、共感することのできる温かい心、ボランティアなど社会貢献の精神」が揚げられていますが、これらを全体として具有する理想的な人間像が「全人」ということになるのでしょうか。

 社会の急激な変化が予想されればされるほどしっかりとした理性的判断力の育成を確保するということがルソー以来の教育の条理と言うものです。しかし、「理性」ではなく「他人との協調」を重視するのは、自分でも他人でもない第三者が要求する価値への協調を求めているからなのではないでしょうか。「自律的に社会生活を送」ることについても第三者の価値を自らの価値として「自律」的に生活することが求めれているのであって、理性的人間としての自立もしくは自律が求められているわけではないのです。

 子どもにとってはすべてが「初めて遭遇する場面」と言えます。そのなかで子どもはさまざまなことを学習していきますが、同時に普通教育をとおして人間として育成されていくのです。「自分で課題を見つける」ことが可能であるためには人間として育成されていることが前提でなければなりません。

 理性と感性は相互に関連しあっているものですが、ここには感性を理性と対置させる独特な認識が見られます。

 感性を大切にすることはそれ自体としても重要なことですが、同時に人々はそれぞれの環境のもとで、あるいは人間として成長・発達していくなかで、より理性的な認識を求めます。普通教育は人間を育成することですがそれは感性的な認識を理性的な認識に深めていくことを中核とするものです。「生涯学習体系」で必要とされる「生きる力」はなぜかそのような人々の認識や思考を感性的情念的レベル、非合理主義的レベルにおしとどめようとしているように思われます。

 また、強調されているように「こころ」や「精神」を理性的判断力としてではなく感性的情念的レベル、非合理主義的レベルで受けとめることが「生きる力」を育成することだというのであれば、そこでの教育は人間を育成するという普通教育の理念とはまったく相容れないものになってしまうのではないでしょうか。

 「生きる力」というのは結局のところ「生涯学習体系」に積極的に貢献でき、理性的であることが必ずしも求められない「全人」に期待される力を意味するようですが、「九六年答申」はこの「生きる力」は「ゆとり」の中で育まれるとしています。

 「ゆとり」というのは「余裕のあること」(広辞苑)と言うような一般的な意味ではなく、一九七六年の教育課程審議会答申が打ち出した教育課程政策を特徴づける用語ですが、基本的には教科内容や教科指導のあり方を充実させるのではなく、それらの比重を縮小し、教科外の「道徳」や「特別活動」あるいは学校裁量の時間の比重を高める教育課程政策上の用語です。

 「九六年答申」はこの「ゆとり」政策をさらに徹底強化し、そのことによって「生きる力」を育成しようとしているのです。具体的には教育内容の厳選、基礎・基本の徹底、個性を生かすための教育の改善、豊かな人間性とたくましい体をはぐくむための教育の改善、横断的・総合的な学習の推進、などがあげられていますが、それらは次節で扱う一九九八(平成一〇)年の教育課程審議会答申においてさらに具体化されていきます。

 「生きる力」を育成するという見地は二年後(一九九八年)の中央教育審議会答申「幼児期からの心の教育の在り方について」において全面的に引きつがれていきます。この答申は臨時教育審議会や政府・文部省が今めざしている「生涯学習社会」構築のためのイデオロギー版ともいえるものです。しかし、「生涯学習社会」という構想自体が戦後理念と矛盾した虚構の社会構想ですから、「~しよう」というかけ声ばかりが目につくこの答申も説得力のない矛盾に満ちた文書になっています。

 

 

 第五節 「基礎・基本の厳選」と「総合的な学習の時間」

           ー一九九八年の教育課程審議会答申ー

 

 一九九八年の教育課程審議会答申(以下「九八年答申」と略します)は幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校および養護学校の各学校を網羅しているという点が大きな特徴ですが、普通教育における教育課程のありかたから言えばそれはそれとして一歩前進したと言えます。

 この「九八年答申」は「教育基本法及び学校教育法に定める学校教育の目的と目標に沿」ってと言いながら「二十一世紀を主体的に生きることができる国民の育成を期する」とし、臨時教育審議会答申と同様「人間の育成」には言及せず、もっぱら「国民の育成」をめざすとしています。なお、臨時教育審議会の答申では「教育基本法の精神」とされていたものがこの答申では「教育基本法の目的」と言い換えていることにも注意したいと思います。「精神」ということであれば教育基本法の前文の理念、したがって「人間の育成」も当然含まれることになりますが、「目的」となれば教育基本法第一条の「目的」を意味することになり、その場合は「国民の育成」だけになってしまうのです。

 

 「九八年答申」は基準の改善の「基本的な考え方」、「ねらい」および「各学校段階・各教科等を通じる主な課題に関する基本的な考え方」から構成されています。

 「九八年答申」は「基本的な考え方」のなかで特定の子ども観、教育観、学校観をのべています。まず、「子どもたちは、幼児期から思春期を経て、自我を形成し、自らの個性を伸長・開花させながら発達を遂げていく」と述べていますが、形成するのは自我だけではありません。人間としての諸能力や人格も形成されます。また、「個性」だけではなく理性も「開花」します。「発達を遂げる」といっても自然に「遂げる」わけではないでしょう。

 「九八年答申」はこのような子ども観のうえで「教育」について論じ、「教育は子どもたちの発達を扶(たす)ける営みである」と述べています。これも特定の「教育」観です。あえて「扶(たす)ける」という言葉を用いたのは、本来人間としての諸能力を育成するのであればときにはきびしく指導することが必要であるにもかかわらず、「個性の伸長・開花」にはそのような指導は不要だ、という理由によるのです。

 「九八年答申」はこのような「教育」のために学校・家庭・社会が連携を図る必要があるとしていますが、特定の子ども観、教育観を前提とした「連携」はおのずから特定の「連携」とならざるをえないでしょう。

 「九八年答申」は「学校教育の特質」として「組織的・計画的・継続的な教育を行って、子どもたちの発達を促す」としていますが、理念・目的を曖昧にしたままで組織性・計画性・継続性にのみ学校の特質を求めるのは問題です。戦前の学校教育も「組織的・計画的・継続的」であるという点では高度に発展したものと言えますが、その理念・目的のゆえに破綻したのです。

 「九八年答申」は「学校は子どもたちにとって伸び伸びと過ごせる楽しい場でなければならない。子どもたちが自分の興味・関心のあることにじっくり取り組めるゆとりがなければならない。また、分かりやすい授業が展開され、分からないことが自然に分からないと言え、学習につまずいたり、試行錯誤したりすることが当然のこととして受け入れられる学校でなければならない」と述べています。一見美しい文章ですが、きわめて無責任な文章ともいえます。学校が「子どもたちにとって伸び伸びと過ごせる楽しい場」であるべきかどうかは一概に言えません。子ども同士や先生とのさまざまな人間関係の中で子どもたちが人間としてまた国民としてしっかりと自立できる能力を習得させることが学校ですから、そこには楽しさとともにきびしさもあります。興味・関心ばかりを追い求めることもできないはずです。学習・教育を通じて子どもたちは知らなければならないこと、理解しなければならないこと、習得しなければならないことなどをつぎからつぎへと発見し、確実に自分のものとしていかなければなりません。そこにこそ子どもたちは知的興奮や喜びを自ら見いだすのです。「試行錯誤」が当然ということではなく、あらゆるものをじっくり観察し、事物の性質を正確に理解し、それが人間にとってどのような意味をもっているのかなどを的確に認識し表現できることが重要であって、「試行錯誤」はその過程のある意味で不可避的な要素に過ぎないのです。

 「九八年答申」は学校を「楽しい場」であるとしながら、「教科の授業だけではなく、学校でのすべての生活」を通して「存在感と自己実現の喜びを味わうことができる」と述べていますが、重要なことは「教科の授業」自体を「楽しい場」に根本的に転換することではないでしょうか。

 「九八年答申」はつぎに「各学校段階の役割の基本」についてのべています。

 まず、幼稚園については「小学校以降の生活や学習の基礎を養う」と述べ、小学校との「接続」を強調していますが、上級学校との連続を直線的に考えるのではなく、幼児段階の教育の特質を明確にしその充実こそが小学校への基礎となるという視点にたつべきではないでしょうか。

 小学校および中学校については、「個人として、また国家・社会の一員として」、「社会生活を営む上で必要とされる知識・技能・態度」について、その「基礎を身に付け」あるいは「確実に身に付け」るとともに「豊かな人間性を育成する」としています。さらに小学校では「自然や社会、人、文化など様々な対象とのかかわりを通じて自分のよさ・個性を発見する素地を養い、自立心を培う」こと、中学校では「自分の個性の発見・伸長を図り、自立心を更に育成していく」こととされています。

 「個人として、また国家・社会の一員」あるいは「個性の発見・伸長」、「自立心」が強調されていますが、「人間の育成」という視点からとらえられていません。

 なお、中学校を「義務教育の最終段階」としていますが、ここにも義務教育についての不当な強調がみられます。最終段階という言葉を用いるのであれば高等学校こそが普通教育の最終段階であって、第三章でも述べましたように九年間の義務制は戦後の財政的現実的な措置で中学校までとなっているに過ぎないのです。

 高等学校については、いよいよ普通教育の最終段階として、人間としてかつ主権者たる国民としての自立を確立する段階であるはずなのですが、「将来の進路を選択する能力」や「将来の学問や職業の専門分野の基礎・基本の学習によって、個性の一層の伸長と自立を図る」という進路選択能力や専門分野にたいする基本的な能力という、より制約された役割を期待するにとどまっています。

 「九八年答申」は「子どもの現状、教育課程実施の現状と教育課題」について述べていますが、「現状」からどのような教育課程上の課題を導き出しているのでしょうか。

 「九八年答申」では、たとえば、子どもたちはゆとりのない忙しい生活を送っていること、社会性が不足し、規範意識が低下していること、いじめ、不登校、凶悪化する青少年非行などの憂慮すべき状況があること、学校生活や学業に適応できずに退学する者の数も相当数に上っていることが指摘されています。また、国際教育到達度評価学会(IEA)の調査結果等を紹介しながら、日本の子どもたちの学習状況について「おおむね良好」としながらも「過度の受験競争の影響もあり多くの知識を詰め込む授業になっている」、「時間的にゆとりをもって学習できずに教育内容を十分に理解できない子どもが少なくない」、「学習が受け身で覚えることは得意だが、自ら調べ判断し、自分なりの考えをもちそれを表現する力が十分育っていない」、「一つの正答を求めることはできても多角的なものの見方や考え方が十分ではない」、「算数・数学や理科の学習について国際比較すると、得点は高いものの、積極的に学習しようとする意欲等が諸外国に比べて高くはない」などの「現状」を紹介しています。

 これらの「現状」から、〈詰め込まない〉、〈ゆとり〉、〈自ら調べる〉、〈多角的なものの考え方〉、〈意欲〉などという言葉を恣意的にピックアップし、新学力観にたった教育課程論を正当化するのは一面的と言わざるを得ません。すべての子どもが十分理解できるような教育内容を提示し、それらについて詰め込みではなく自ら主体的に学習に参加でき、人間としてしっかりとした思考力・判断力を身につけさせることをめざす教育課程、普通教育の理念に立脚した教育課程への転換こそが求められているのではないでしょうか。

 

「完全学校週五日制」

 

 「九八年答申」は「完全学校週五日制下の教育内容の在り方」について提起しています。

 二〇〇二年から実施される完全学校週五日制が、教師の週休二日制や子どもたちの現状から構想されたものではなく、「生涯学習体系への移行」の具体化として構想されたものであることはすでに述べてきましたが、ここでもそのことがより明確に述べられています。

 「完全学校週五日制」は「生涯学習社会」の観点からすれば〈生涯学習の時間の増大〉にほかなりません。学習・教育の機会を学校だけではなく「家庭や地域社会における生活」の「比重を高める」ことによって、子どもたちを「生涯学習社会」の成員にふさわしく育成しようというのです。「生涯学習社会」というのは次節で詳しく述べますが、「学校教育をも含めた社会のさまざまな教育・学習システム」ということであり、システムという有機体にふさわしい一元的な強力な意思によって統括される社会のことです。すべての子どもたちをそのような「社会」の一員として育成していくためには教育基本法などに拘束されるような学校の比重は限りなく縮小し、かつ「生涯学習の基礎となる力を育成する」教育機関に転換する必要があるのです。「完全学校週五日制」の実施はそのために必要なのです。子どもたちは従来のような教育内容からは解放されるという意味においては「ゆとり」を得ることになりますが、「生涯学習の基礎となるような力の育成」のために子どもたちは学校や地域社会においてまた家庭においても、いつでもどこでもこれまでと同じかあるいはこれまで以上の学習負担を強いられることになるのではないでしょうか。

 「九八年答申」は「生涯を通じ、いつでも自由に学習機会を選択し、楽しく学び続けることが重要である」と説明しています。「自由に楽しく」とは結構なことですが、人間が本当に自由かつ楽しい人生を享受するためには充実した普通教育を受けていることが前提となるはずですが、そのような前提がないままに自由で楽しい学習ばかりを生涯を通じて選択しつづけていくことが子どもや大人にとって本当に幸福なことなのでしょうか。

 

「教育内容の厳選と基礎・基本の徹底」

 

 「九八年答申」は以上のことをふまえた上で「教育内容の厳選と基礎・基本の徹底」について述べています。

 「九八年答申」はまず「教える内容をその後の学習や生活に必要な最小限の基礎的・基本的内容に厳選する」と述べていますが、「教育内容」が「教える内容」にすり替えられ、しかもそれが「その後の学習や生活に必要な最小限の基礎的・基本的内容」という観点から「厳選」するというのです。

 「その後の学習や生活に必要な最小限の基礎的・基本的内容」とは何を意味するのでしょうか。「厳選」というのはすでに存在している二つ以上のものからこれというものを抜き取ることを前提として〈これというものを厳しく抜き取る〉ことですから、〈厳しく抜き取る〉ためにはどこから誰がどのような基準で抜き取るかが問題となります。しかも「その後の学習や生活に必要な内容」というものが具体的にはどのようなものかはまったく不明です。結局、「生涯学習社会」にあって国民として生活し学習していくうえで必要となる教養というものが想定され、そこから学校教育における教育内容が導かれることになるでしょう。子どもが人間として成長し発達していく上で必要な教育内容という観点はすでに忘れられています。

 「教育内容」について法制上依拠すべきものは学校教育法に定められた普通教育の目標といえるでしょう。例えば、初等普通教育の目標の一つに「日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと」とありますが、「観察し、処理する能力を養う」ために必要となる「教育内容」は必ずしも最小限である必要はありません。一人一人の子どもに相応しく用意されるべきものです。

 つぎに、「九八年答申」は「子どもたちの以後の学習を支障なく進める」ために、「厳選された基礎的・基本的内容」を「繰返し学習させるなどして、確実に習得させる」としています。

 「以後」も重要ですが「現在」こそ重要です。子どもたちは生活のすべてにおいて自ら主体的に学習しようとしています。将来のために何を学習しなければならないのかは、日々の主体的な学習や教育の結果として徐々に自覚されていくのです。また、子どもたちは日々の教育を通して人間としての成長を求めているのです。必要な教育内容を「確実に習得」することはそのためにこそ重要なのです。

 彼らが将来どのような人生を歩もうとその前提となるべきことは人間として成長していることです。そのために求められる「教育内容」は学校教育法が定める普通教育の目標や教育課程の大綱などを指針として教育に直接携わっている多くの教師や教育関係者などの自主的な研究成果に委ねられるべきものです。教育課程審議会がその「教育内容」とはこれだと特定し、それを確実に習得させ、その習得内容と矛盾しない枠内にその後の学習を押し込めるというのでは、そのかぎりでの教育内容の確実な習得は可能となるかも知れませんが、人間として本当に必要な学力の習得は困難になるのではないでしょうか。

 「九八年答申」はこうして「基礎・基本の徹底」のうえに子どもたちが「ゆとり」のなかで、⒜繰り返し学習、⒝作業的・体験的な活動、⒞問題解決的な学習、あるいは⒟自分の興味・関心等に応じた学習、に「じっくりと創意工夫しながら取り組めるようにすることに努めた」としています。

 ところで、「厳選」によって削除、移行統合、軽減される教育内容というのはつぎのようなものです。

  ①子どもたちにとって理解が困難であったり、高度になりがちになったりする内容

  ②単なる知識の伝達や暗記に陥りがちな内容

  ③各学校段階間又は各学年間、各教科間で重複する内容

  ④学校外活動や将来の社会生活で身に付けることが適当な内容

 これらの内容がなぜ削除等の対象となるのかについての明確な説明はありません。必要に応じて高度でも構わないし、暗記が必要である場合もあるし、重複が必要である場合もあるのではないでしょうか。問題は教育内容の厳選にあるのではなく、「教育内容が十分に理解されていない」ところにあるのです。なぜ「理解されていない」のかを徹底的に解明し、人間の育成にとってほんとうに必要な教育内容とはなにかを十分時間をかけて検討することです。

 「九八年答申」は教育課程審議会の「常設化」を提起しています。それは「教育課程の編成・実施の実態等の調査・分析」、「教科等の構成の在り方」などについて「研究等を踏まえて、不断に見直し、その改善に向けた検討を行う」ためとされています。

 その第一弾として教育課程審議会は二〇〇〇(平成十二)年十二月に「児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について」を答申しています。そこでは「評価の機能は、各学年、各学校段階等の教育目標を実現するための教育の実践に役立つようにすること及び児童生徒のよさや可能性を評価し、豊かな自己実現に役立つようにすることであり、学校教育における評価の役割は重要である」と述べています。「各学年、各学校段階等の教育目標」とは何を指すのか、児童生徒の「よさや可能性」とはなにか、またそれらをどのように評価するのか、「豊かな自己実現」とはなにか、など不明確な点がありますが、いずれにせよ学校教育法が定めている各学校段階の普通教育の教育目標に沿った教育評価の在り方についてはまったく言及されていません。

 なお、教育課程政策のありかたについては、国家主義的な方向での教育課程審議会の常設化という方向ではなく、教育権は主権者たる国民に存すること、普通教育を子どもに受けさせる義務主体は国民にあるのだと言う見地に立って教育課程の大綱的基準を策定するために必要な制度はいかにあるべきかを根本的に検討することこそが求められているのではないでしょうか。

 

  第六節 「生涯学習社会」の構築

 

(一)臨時教育審議会答申が提起した「生涯学習体系への移行」は九〇年に入ってその具体的な輪郭が次第に明かになってきました。中央教育審議会は一九九〇年一月三〇日に答申「生涯学習の基盤整備について」をまとめました。早くもその年の六月には「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法」(以下、「生涯学習振興法」とします)が制定され、八月にはそれに基づいて生涯学習審議会が文部省内に設置されました。一九九一年の第十四期中央教育審議会答申は「生涯学習の視点」、「生涯学習社会への対応」および「改革の実現のために」など生涯学習社会のあり方について提言しています。

 これを受けた生涯学習審議会は一九九二(平成四)年七月、最初の答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」をまとめました。また、生涯学習審議会はその後、一九九六年四月に「地域における生涯学習の充実方策について」、一九九八年九月に「社会の変化に対応した今後の社会教育行政のあり方について」、一九九九年六月には「学習の成果を幅広く生かすー生涯学習の成果を生かすための方策についてー」および「青少年の『生きる力』をはぐくむ地域社会の環境の充実方策についてー」、そして二〇〇〇年十一月には「新しい情報通信技術を活用した生涯学習の推進方策について」を、それぞれ答申しています。

 一九九九年六月の答申「青少年の『生きる力』をはぐくむ地域社会の環境の充実方策についてー」は約一〇万字におよぶ大部なものですが、その冒頭部分では文部省が一九九八年に行った「子どもの体験活動等に関するアンケート調査」の結果について言及し「地域での体験が豊富な子どもほど、道徳観・正義感が身についているという注目すべきことが明らかになりました。私たちは、自信をもって子どもたちの体験を充実させるための地域社会の環境づくりを進めていこうではありませんか」と述べています。道徳的判断力の育成は普通教育の重要な目的と言えますが、この答申で言うところの「道徳観・正義感」というものが道徳的判断力とどのような関係にあるかについては厳密な分析が求められます。このことを曖昧にしたままでは結局「生涯学習社会」というのはさまざまな体験の組織化を通して構築される「道徳・正義」社会ということにならざるを得ないでしょう。

 ここではとくに普通教育の視点から「生涯学習社会」構築の意味について考えてみたいと思います。

 第十四期中央教育審議会答申(一九九一年)は「生涯学習の視点」として「今後は学校教育をも含めた社会のさまざまな教育・学習システムを総合的にとらえ、人々の学習における選択の自由を拡大して、生涯にわたる学習活動を支援していくことが重要である」として述べ、学校教育を「教育・学習システム」として位置づけています。

 この「教育・学習システム」について一九九二年の生涯学習審議会答申は「各省庁、地方公共団体、特殊法人、公益法人、企業等の教育研修機関や研究機関の蓄積する専門的な情報や技術を、生涯学習のために活用することも重要であり、これらの関連施設や研究施設等を、新しい生涯学習の場としてとらえることも必要である」と述べています。

 「各省庁」といっても文部省(文部科学省)のなかでも、普通教育機関とそれ以外の教育・研究機関等がふくまれています。教育基本法や学校教育法に定めのある教育機関とそうでない機関もあります。それぞれが相互に関連しあいながらかつ独自の機能を発揮することによって社会全体の教育・文化の発展が可能になるのですが、それらが「生涯学習社会」という「教育・学習システム」のなかに包括され「融合」化することになれば、それぞれが「生涯学習社会」という全体のなかの部分として機能することが求められることになります。ここにも「個性重視の原則」が貫徹されることになります。普通教育機関をどのように発展させるかは憲法理念のもとでは教育権の主体たる国民の総意に基づくわけですから、その国民の総意を「生涯学習社会」あるいは「教育・学習システム」の枠内に押し込めようとするのは無理なことです。

 なお、第十四期中央教育審議会答申は「学校」を「生涯学習の基礎」と「生涯学習機関としての学校」とに区分しています。前者には小学校と中学校、後者には大学・短大、高等専門学校、高等学校、専修学校があげられています。高等学校が「生涯学習の基礎」を担う「初等中等教育」に含まれていないことに留意しておきたいと思います。

 同じ普通教育機関でありながら高等学校を小・中学校から切り離して「生涯学習機関としての学校」と位置づけるのは、法制上は義務制ではない高等学校に「生涯学習機関」としての役割をおしつけ、義務制の教育機関を「生涯学習機関」に従属させるという意味で「生涯学習の基礎」教育機関としているのです。高等学校は今日異常なまでに多様化・個性化され、普通教育機関としての実質を喪失させられているのが現実です。答申はこのような高等学校の現状を追認しさらに「生涯学習機関」として位置づけようとしているのです。

 ところで、小学校・中学校が「生涯学習の基礎」としての役割を担うとはどういうことを意味するのでしょうか。答申は小・中学校では「生涯にわたって学習を続けていくために必要な基礎的な能力や自ら学ぶ意欲や態度を育成する」と述べています。答申によれば、生涯にわたってどのような学習を続けていくかは個人によってそれぞれということなのです。個々人によって異なる学習の基礎となる能力などを育成する教育と、個人差を前提としながらも人間としてしっかり育てる普通教育とは明確に区別されるべきです。そのうえでそれぞれを充実させていくことは必要ですが、小学校・中学校の目的を一方的に「生涯学習の基礎」として位置づけるのは無理というものです。

 以上述べてきましたように「生涯学習社会」は急速に構築されてきていますが、その「社会」は日本国憲法や教育基本法が想定した社会とはまったく異質なものといえます。「生涯学習社会」への移行はすでに具体化されつつありますが、それが全面的に実現するためには結局は教育基本法さらには日本国憲法の理念・目的と基本的に矛盾せざるをえなくなるでしょう。

 

  第七節 「生涯学習社会」構築に連動する中央教育審議会の諸答申

 

 生涯学習社会の輪郭が明確になっていくのにあわせて中央教育審議会等は精力的に政策提言を行っています。

 

「心の教育」

 

 一九九八(平成一〇)年六月、中央教育審議会は「幼児期からの心の教育の在り方について」を答申しました。これは十万字におよぶ膨大な内容となっていますが、答申と言うよりは「未来に向けてもう一度我々の足元を見直そう」「もう一度家庭を見直そう」「地域社会の力を生かそう」「心を育てる場として学校を見直そう」というように直接国民に呼びかける文書となっています。その冒頭では「我が国は、継承すべき優れた文化や伝統的な価値を持っている。誠実さや勤勉さ、互いを思いやって協調する『和の精神』、自然を畏敬し調和しようとする心、宗教的情操などは、我々の生活の中で大切にされてきた。そうした我が国の先人の努力、伝統や文化を誇りとしながら、これからの新しい時代を積極的に切り拓いていく日本人を育てていかなければならない」と述べています。

 

「地方教育行政の在り方」

 

 つぎに、中央教育審議会は同年九月、「今後の地方教育行政の在り方について」という答申をまとめました。地方教育行政のあり方自体が中央教育審議会への諮問事項となったのは今回がはじめてです。教育委員会法が廃止されて「地方教育行政の組織運営に関する法律」が制定されたのが一九五八(昭和三十三)年ですから、それ以来の政策提言ということになります。この答申は一言で言えば「生涯学習社会」構築のための地方教育行政のあり方を全面的に提起したものと特徴づけることができます。

 答申は「はじめに」、「第一章 教育行政における国、都道府県及び市町村の役割分担の在り方について」、「第二章 教育委員会制度について」、「第三章 学校の自主性・自律性の確立について」および「第四章 地域の教育機能の向上と地域コミュニティの育成及び地域振興に教育委員会の果たすべき役割について」からなっています。各章ともそれぞれの章であつかう制度の「概要と課題」のほかに四~五項目を配置し、それぞれに「具体的改善方策」を掲げ、その方策は総計すると一四六項目にのぼります。

 教育行政については中央教育審議会としてははじめての答申ですから、戦後教育改革の原点をふまえそれ以後五十数年間の中央教育行政および地方教育行政のあり方について立ち入った総括が期待されていましたが、今回の答申はそのような歴史的総括や中央教育行政のあり方についてはまったく言及していません。

 しかし、この間、臨時教育審議会、中央教育審議会、教育課程審議会などによる審議会答申行政は飛躍的に強化されてきました。また多くの調査研究協力者会議等が組織され中央教育行政機関としての文部省の調査研究機能も強化されています。また、一九九〇年にはいわゆる「生涯学習振興法」が制定され文部省にあらたに生涯学習審議会が設置され、関連省庁とも連携して「学校教育を含む社会のさまざまな教育・学習システム」全体にたいしコントロールする強力な権限をもつに至りました。また、いわゆる「地方分権化」推進の名のもとで中央教育行政をまさに全国の隅々にまで浸透させることが企図され、さらに「文部科学省」への再編によって中央教育行政権限のいっそうの強化が予想されます。このように中央教育行政の権限強化とセットになって今回の答申が作成されていることに留意しておきたいと思います。

 答申は「教育改革の成否は、各学校と各地域が教育改革の理念と目標を踏まえて、実際にどのような取組を行うかにかかっている」と述べていますが、「各学校と各地域」は「教育改革の目標と理念」を実現させるものとして位置づけられていることに留意したいと思います。

 答申はそのような認識のもとに、学校、地域、教育委員会についての「改善方策」もしくは「改革の方向」を提起しています。

 学校については「子どもの個性を伸ばし豊かな心をはぐくむ」ため、「学校の自主性・自律性を確立し、自らの判断で学校づくりに取り組むことができるよう、学校及び教育行政に関する制度とその運用を見直す」としています。ここでは学校評議員の設置が提案されており、この評議員は「九六年答申」が提言した「地域教育連絡協議会」の構成員となるとされています。

 地域については、「地域内の学校や関係機関・団体等が連携し、保護者や地域住民の協力を得て子どもの生活と行動の環境を整備し、子どもがさまざまな体験を重ねることができるよう学校、関係機関・団体及び家庭の相互の連携協力を促進する」としています。

 教育委員会については、「主体的かつ積極的に行政施策を展開することができるよう」に教育委員会制度を見直すとともに、「教育行政に地域住民や保護者が積極的に参画するシステムを導入する」としています。

 最後に、「各地方公共団体が主体的に施策を実施し、各学校が自主的に教育活動をおこなうこと」が「同時に教育委員会や学校がより大きな責任を負うことになる」という関係を明確にする、と述べています。

 答申は地方公共団体と教育委員会の関係について、地方公共団体が主体となって多面的かつより強力な「施策を実施」し、それを受けて「各学校が自主的に教育活動を行う」という関係を前提として、それに応じて教育委員会や学校の責任が左右されるという見解を示していますがこのような見解はまったくあべこべの議論であると言わざるを得ません。そもそも教育のあり方、とくに普通教育のあり方は主権者である国民の総意、地域住民の教育要求を基礎に日本国憲法や教育基本法が示す教育の理念・目的に即しておこなわれなければならないものなのです。教育委員会や学校の責任はそれらにたいしてこそ負うべきものではないでしょうか。

 

「初等中等教育と高等教育との接続」

 

 また、中央教育審議会は一九九九年十二月、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」という答申(以下「九九年答申」とします)を文部大臣に提出しました。

 「接続」とはどういうことでしょうか。「九九年答申」はつぎのように述べています。一方では、大学進学率上昇の傾向は当分の間進んでいくこと、他方では高等学校の多様化が進んでいること、という状況のもとで大学と高等学校との「接続」の課題として(一)「自ら学び、自ら考える力」と「課題探究能力」の育成を軸とした教育、(二)後期中等教育段階における多様性と高等教育段階における多様性との「接続」、(三)大学と学生とのより良い相互選択を目指して、(四)主体的な進路選択、の四点を指摘しています。

 大学進学率はともかく、「高等学校の多様化」については「中高一貫教育の導入や新学習指導要領の実施などにより」と説明されているように政府・文部省の教育政策の進展を期待した将来予測を前提としてこの答申が構築されていることが大きな特徴と言えます。しかし、そこで現実に予想される事態としては、限りなく多様化・個性化された学校制度、教育内容、教育方法のもとで、子ども達は生き生きとした人間的・社会的感性を結実させることなく不本意なままに相互に「個」別な存在として、与えられた「個」としての生き方にひたすら駆り立てられているという情景ではないでしょうか。そのような高等学校を卒業した生徒たちが、さらに進学する際には、わけもなく自らの適性や意欲をあおられてそれらを手際よく選り別けてくれる入試方法にたすけられて大学に進学し、入学後もその宿命にそって各自に期待された「課題探究能力」に邁進するという姿ではないでしょうか。

 「九九年答申」はその上で「具体的な教育上の連携方策」を提示していますが、ここでは最初の「高等教育を受けるのに十分な能力と意欲を有する高等学校の生徒が大学レベルの教育を履修する機会の拡大方策」について考えてみたいと思います。

 各大学では、科目等履修生制度を活用して、高校生が大学レベルの教育を履修する機会を拡大する、その際、夏期休業期間中の集中講義の形態をとったり、大学入学後にその単位を認定するなどの工夫をする、また、公開講座やSCS等の通信衛星による教育の機会を活用して高校生に大学のもつ幅広い教育機能を提供したり、さらに大学の教官が高等学校を訪れ専門分野の学問を紹介したり講義をおこなう、「飛び入学」については数学・物理以外の分野への拡大を検討する、などが提起されています。

 このような方策はそれ自体としては可能であり必要である場合もあり得るでしょう。しかし、今日の高校教育の課題は、多様化された学校類型のもとで、それぞれにおいてすべての高校生に基本教科に関する十分な生きた学力を習得させ、リアルな理性的な判断力が習得できるように全力をあげることであり、今日の大学教育の課題は、教養教育と専門教育との関係についてのいっそう深い検討をすすめながら大学院をも含めたトータルな大学教育の在り方を明確にし、すべての大学生が自ら選んだ専門分野について社会の期待に応え得るしっかりとした専門性を習得できるように促すことではないでしょうか。

 普通教育機関としての高等学校自体の本来の目的を徹底すること、学校教育法に示された目的に沿って大学教育のあり方を抜本的に改革していくこと、これらが双方で進展していくならば、「接続」という問題自体が解消されることになるのではないでしょうか。

 

   「教養教育」

 

 二〇〇〇年十二月二五日に中央教育審議会がまとめた「新しい時代における教養教育の在り方(審議のまとめ)」(以下「まとめ」とします)について普通教育の見地から検討しておきます。

 「まとめ」は戦後日本が達成した物質的な繁栄に比して精神的な豊かさが追い付かなかったという相変わらずの図式を前提として新しい時代に求められる「教養」を提示しています。「精神的な豊かさ」が「追い付かなかった」ことの真剣な解明がないままに新しい時代の「教養」を模索するという発想には飛躍があるのです。「まとめ」は新しい時代に求められる「教養」を培う上での「初等中等教育」の役割について「基礎・基本の徹底」として「国民として共通に身に付けるべき基礎・基本を確実に習得させること」を、「自ら学び、自ら考える力の育成」として「問題解決的な学習や体験的な学習を積極的に取り入れ」ることを、そして「豊かな人間性の基盤づくり」として体験活動の機会を増やすことや道徳教育を充実させること、などを提案しています。「個性重視の原則」や「生涯学習体系」に対応する「教養」論、「教養教育」論にほかなりません。

 「教養」とは何かについては一概に言えませんが「人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす」(「日本大百科全書」)という定義を前提とするならば、教養はまさに普通教育の理念の抜本的な具体化によってはじめて実現するのです。「人間の育成」については何も語らず、「国民の育成」あるいは「個性の重視」という視点からだけでは真の「教養」は育ち得ないでしょう。

 

  第八節 なぜ教育基本法の改正か

 

 まさに二〇世紀末の二〇〇〇年十二月二十二日、教育改革国民会議は最終報告(以下「最終報告」とします)を首相に提出しましたが、その中で教育基本法改正を提起しました。町村文相はこれを受けてただちに「しっかりと取組んでいきたい」との談話を発表しました。

 「最終報告」は「はじめに」、「人間性豊かな日本人を育成する」、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」、「新しい時代に新しい学校づくりを」および「教育振興基本計画と教育基本法」の五つの部分からなっていますが、そのなかで教育基本法改正を含む十七項目の提案を行っています。

 「最終報告」は日本の教育の荒廃は見過ごせないものがある。いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している」と述べていますが、ここに指摘された荒廃現象がとくに臨時教育審議会が設置された一九八四年以降に社会問題化したことについての真摯な解明がないまま、いわば一億総懺悔的な反省を求めたところで、危機は何一つ解決しないのです。さまざまな分野での教育関係者もそれぞれに荒廃の根絶のために苦慮しつつも奮闘しているのです。そのような努力を鼓舞し、教育政策のどこに問題があるのかを全面的に解明し荒廃を根絶する見通しのある適切な政策転換をおこなうことこそが今求められているのです。

 しかしながら、「最終報告」は「臨教審をはじめ改革案は幾度も出され、改革への努力が行われてきた」が改革はなかなか進んでいない、したがって「今求められているのは、何よりも実行である」と強調しているのですが、そこには反省のひとかけらも見当たりません。それどころかその実行を強権的に可能にするものとして教育基本法の改正を位置づけているのです。

 教育振興基本計画作成と教育基本法改正をのぞく十五の提案というのは、臨時教育審議会以降の中央教育審議会や生涯学習審議会および教育課程審議会等が出してきた諸答申にすべて盛り込まれていたものであり、とくに新しい提案があるわけではありません。ここでは教育振興基本計画と教育基本法改正について検討することにします。

 教育振興基本計画については、「最終報告」の五つの部分に対応して「具体的な項目」を掲げています。

 「人間性豊かな日本人を育成する」については、生涯学習、社会教育、幼児教育、家庭教育、学校での奉仕活動、芸術・文化教育、スポーツなどが、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」については、中高一貫高、大学の施設等の教育・研究基盤整備、プロフェッショナル・スクールや研究者養成型の大学院整備、若手研究者及び研究支援者の養成・確保、科学研究費、奨学金、私学振興助成など、「新しい時代に新しい学校づくりを」については、IT教育、英語教育、環境教育、健康教育、障害のある子どものための教育、科学教育及び職業教育、公立学校の教職員配置、教員の研修、公立学校の施設整備、私学振興助成などが、そして「グローバル化に対応した教育」については、海外子女教育、学生・生徒・教員など教育のあらゆる分野の国際交流、留学生支援、などが揚げられています。

 これらの項目の多くは教育基本法と矛盾することなくすでに推進されているものです。教育基本法の改正によってこれらの項目がすべてつぎに述べるような「観点」から位置づけられることになるのです。なお、「最終報告」が指摘するような「教育の危機」を根本から打開するための項目はまったく含まれていません。本書との関連で言えば、普通教育とそれ以外の教育との区分がなされているわけではなく、「生涯学習体系」のなかに融合されています。教育基本法改正によって教育基本法から普通教育という用語は削除されるのでしょうか。

 「最終報告」はその上で教育基本法の改正をつぎの「三つの観点」から提案しています。この順序に教育基本法改正の意図が明確に表れています。

 ①「新しい時代を生きる日本人を育成すること」

 ②「伝統、文化など次代に継承すべきものを尊重し、発展させていくこと」

 ③「教育基本法の内容に理念的事項だけではなく、具体的方策を規定すること。教育に対す  る行財政措置を飛躍的に改善するために、教育振興基本計画策定に関する規定を設けるこ  と 

 「最終報告」は最後に、「教育基本法の改正の議論が国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」としています。

 第三章でも述べましたが、戦後、文部省は戦前の教育について「極端な国家主義と軍国主義」と特徴づけた上で、そこでの教育の理念に関して「過去においては国民ということが人間よりも先に言われた」ことを挙げていましたが、国民を超えて日本人を優先する「最終報告」が「国家至上主義的考え方や全体主義」にならない保証はどこにもありません。

 政府・文部省は戦後早くから教育基本法の改正を企図してきました。臨時教育審議会の答申は「教育基本法の精神に則って」とは書きましたがその内容はあきらかに教育基本法の解釈改悪というものでした。自民党は一九九三年以降教育基本法見直しを政策課題として掲げ政府に迫ってきました。二十一世紀は教育基本法改正という重苦しい政治問題で幕開けしそうですが、教育や普通教育の条理を尽くした冷静な論議を求めたいと思います。

 教育基本法は、第一に、日本国憲法の理念・原則と一体の準憲法的性格を有しています。そのことは、主権は国民に存することを「人類普遍の原理」として宣言していること、教育権は国民にあること、すべての子どもに普通教育を受けさせることは国民すべての義務であること、普通教育は義務制であり無償であること、などを受けていることを意味しています。第二に、教育の理念として「人間の育成」を第一義的なものとしてそのうえに「国民の育成」を位置づけていること、第三に、普遍的な文化のうえに個性的な文化の普及徹底を図るとしていること、第四に、以上のような基本理念のもとに普通教育をふくむ教育全般について教育の目的・方針を明確に条文化していること、第五に、教育機会の均等の原則を明確にしていること、九年間という制約はあるものの普通教育を無償かつ義務制としていること、「学校」は「公の性格」をもつものであるとしていること、「教員」は「全体の奉仕者」であり、教員の身分は尊重されなければならないとしていること、社会教育は「奨励」されるものと規定していること、「政治的教養」や「宗教に関する寛容の態度」等は尊重されるべきものとしていること、などきわめて重要な条項が配置されていること、第六に、教育行政が政府に対してではなく国民に対して直接責任を負っておこなわれるべきものであることを明記していること、など世界に対しても誇り得る法律といえます。

 もちろん半世紀前という制定当時の歴史的制約もあって普通教育についての規定が明確ではないなど、指摘されるべき論点もないわけではありませんが、現時点では改正すべき論点はみあたりませんし、改正すべきではありません。

 一九九九年に入って日本国憲法の改正論議が政治の世界で浮上してきました。憲法調査会も設置されています。憲法改正問題も教育や普通教育とって直接関わる重大問題と言えます。また教育基本法改正問題の行方も憲法改正問題に深く関わっています。

 ところで、一九九四年十一月三日、読売新聞社は「憲法改正試案」を公表しました。この「試案」、とくに前文や教育条項に関してはこれからの憲法改正論議においても有力な案の一つとなることが予想されますので、ここではこの「試案」について普通教育の見地から検討しておきたいと思います。

 教育に関連して「試案」は次の二点を改正しています。第一点は現行日本国憲法(以下「現憲法」と略す)第二十六条第二項について「子女」という用語を「子ども」に改めたことであり、第二点は、現行第八十九条(公の財産の支出又は利用の制限)について「又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し」の部分を削除したことです。

 最初に、第二点について簡単に指摘しておきたいと思います。読売新聞の「解説」によれば、国民の教育権保障のためには私学の存在を抜きには実現できない、しかしこの条項があるために公費支出が憲法上できないのだということを論拠としているようです。しかし、私学も教育基本法第六条に言う「法律に定める学校」に含まれており、当然「公の性質」を有するものです。現に国は学校法人を有する私学に対しては教育基本法第六条に基づいて公費支出を行なっているのです。憲法第八十九条に言う「教育」とは「公の性質」を有さない私的教育事業を意味するものですから、この条項を削除することになれば、なんらかの教育事業を行なっている宗教団体等に対して「公の財産の支出」を禁止している憲法上の歯止めを失うことになるのです。

 さて、第一点について言えば、字句上の、しかも改善ともいえることから、「試案」では重要な改正はないように見えます。このことから「試案」に見るかぎり教育条項については基本的な改変はないとも言えますが、果たしてそのように言えるでしょうか。

 現憲法の前文は国民主権原理が「人類普遍の原理」であること、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とする「政治道徳の法則は、普遍的なものである」ことを明記しています。「試案」には「基本的人権」という言葉はあるものの「人類」、「普遍」さらには「人間」という言葉がまったく見あたりません。強調されているのはもっぱら「国民」あるいは「日本国民」であり、また「民族の長い歴史と伝統」です。

 「試案」前文は日本国憲法の理念と根本的に矛盾し対立するものといわざるを得ません。「試案」は国民性・民族性を第一義的とし、普遍性・人間性を第二義的とするという国家哲学を憲法理念に据えようとするものであり、理念が変れば、教育条項の文言がなにもかわらなくてもその性格はすっかり変ってしまうのです。普通教育という用語がそのままでもその性格はまるで変ってしまうのです。

 なお、「試案」は現憲法第二十三条(学問の自由)は現行通りとしていますが、これについても理念がかわれば当然その性格は変ることになるでしょう。