第四章 課題と展望

       ー普通教育の再生は可能かー

 

(一)普通教育は理念・目的をはじめ教育課程、内容、方法、諸制度、歴史、政策、運動などから構成される包括的な概念ですが、本書は理念・目的を中心に論じたものです。たとえば教育課程審議会答申については理念・目的のレベルでは述べていますが学習指導要領のレベルには及んでいません。理念・目的以外の分野についても引続き検討していかなければなりません。

(二)普通教育論については戦後まとまったものはとくにありませんが、少なからぬ教育学者がこれについて言及しています。一九六〇年代は主として「国民教育」論(論者によってそれぞれその性格を異にしますが)という枠組みのもとで勝田守一、矢川徳光、五十嵐顕氏らが普通教育をも包含する問題を論じました。なお、上原専禄氏(一九六〇年)は歴史学者の立場から戦後台頭してきた「亜流ヒューマニスト」が唱える「人間教育」論の非科学性や教育政策の反動化を指摘しつつ「今日の日本、という歴史的時点において、とくに『国民形成』の教育が重要な意味を帯びる」と述べていましたが、同時にルソー等が提起した「人間教育」に言及してそれは「常に、それぞれの時代の、それぞれの社会において、歴史的・現実的な問題をになうものとして、具体的に問題にした」とも述べています。⑴ 後者の指摘が日本国憲法や教育基本法における普通教育とは結びつかず「国民教育」として展開されたことについても今日の時点でなお解明するべき課題があるように思います。

 その後、教育内容に対する国家統制の強化などが進む中で、堀尾輝久氏(一九七一年)は教養論を中心に「普通教育のとらえなおし」について論じました。⑵ 中内敏夫氏(一九七八年)は「公共の理性」という視点から「普通教育」論を論じました。⑶ 城戸幡太郎氏(一九七八年)は「国民的常識を養う普通教育」を執筆しました。⑷ 佐々木享氏や鈴木英一氏も普通教育について言及しています。

 一九九〇年代に入って、佐藤学氏(一九九五年など)はアメリカにおける中等教育改革のなかで主張されている「普通教育」を紹介しながらわが国の普通教育についても論じています。⑸

 竹内常一氏(二〇〇〇年)は「普通教育概念は、戦後、正面から問われてこなかったのではないか、という疑いを持っています。国民教育概念とか主権者教育論とか共通教養論とかいったことばで普通教育論は語られてきましたが、『国民国家』批判をふくんで『普通教育』という概念を根本的に問いなおしてこなかったという思いを持っているのです」、「教育学は『普通教育とはなにか』を本格的に問うてこなかった」、「いま強行されようとしている『教育改革』は、新自由主義・新保守主義の『強い国家」への要求に応えて、理念的にも、内容的にも、制度的にも『普通教育』を再編するどころか、それを解体しようとさえしているのです。このために、私たちはいま、あらためて『普通教育』とはなにかを問い返し、バージョンアップされた「普通教育』を構築していくことが求められているのです」と述べています。⑹

 本書では、歴史的現実的事実の分析から普通教育の理念・目的を展開することを意図したことから、以上のような普通教育論については直接検討していませんが、今後さまざまな普通教育論が展開されることが予想されます。

(三)歴史的現実的事実の分析からと書きましたが、それはあくまでも理念目的レベルのことであって、普通教育という言葉と必ずしも結びつかないまでも教育実践や教育運動のレベルでは事実上普通教育の理念・目的と合致したさまざまな成果が蓄積されてきているように思います。これらの成果の普通教育の視点からの分析も今後重要な課題となってくるでしょう。

(四)教科書裁判、学力テスト裁判等に見られるように日本国憲法や教育基本法の理念・目的を直接争点とする裁判でも事実上普通教育をめぐる諸問題が論じられてきました。

(五)特に近年のあまりにも深刻な教育荒廃等を契機としてジャーナリズムやマスコミも教育問題を大きく取りあげるようになってきました。また、さまざまな教育改革論が展開されていますが、これらの中にも部分的であれ事実上普通教育といえる論議も出ています。

(六)脳神経科学や生命科学の分野など近年飛躍的に前進している諸科学の成果も普通教育論の今後に重要な影響を及ぼすことでしょう。人間が基本的に有している諸能力の内実を脳組織のレベルでも解明し、それらの人間的な成長発達を保障することがいかに大きなエネルギーを発揮するかについても解明が進んでいくように思います。

 田中一氏(物理学、二〇〇〇年)は、脳科学、認知科学、情報科学の成果の唯物論的意義を論じつつ「論理神経系が人類の一人一人のなかに形成され、脳内に論理情報過程が進行しはじめたのは、そう遠くない時期であると言うことである。論理情報過程が現在の学校教育という人為的な知的環境の中にあって急速に定着しつつあると考えるべきではないか」と注目すべき発言を行っています。⑺ 田中氏は「学校教育」あるいは「初等中等教育」という言葉を用いていますが、このような研究を普通教育論の見地から学んでいく必要があります。

 澤口俊之氏(認知神経学、二〇〇〇年)は前頭連合野等の意義に着目し、その部位の発達にとって幼少期の重要性を指摘し、この期間に子どもたちが「普通の環境」で育つことが必要であると述べています。⑻「普通の環境」の中核をなすものは普通教育と言えますが、普通教育はこれら最新の諸科学の成果と深い関連を有しているのです。

 哲学の分野では、鈴木茂氏(一九八九年)は「マルクスがかわることなくもちつづけた、人間の根本性格をなすものとしての、『自由な意識的活動』とそれに照応した共同的社会性とは、個々人をこえて種としての人間が身につけた生得的な本性であって、巨視的にみれば人類史は、そういう本性の成熟してゆく過程にほかならない、というものである」とのべています。⑼ 普通教育の世界も「種としての人間」の自覚と深く結びついているといえます。このほか「国民国家論」批判、ジェンダー論など社会科学の成果にも普通教育は深く関わっています。

 牧野広義氏(一九八七年)は「人間論の問題は専門をこえた共同研究が必要」であると述べています。⑽ 私自身、普通教育論は共同研究が必要であると思っておりますが、さらに普通教育論を深める立場から人間論のレベルでの共同研究にも参加していく必要がありそうです。

(七)国際的にも「学習権宣言」(ユネスコ、一九八五年)や発達権宣言(国連、一九八六年)、「子どもの権利条約」(国連、一九八九年採択)などは普通教育論を支える重要な文書といえます。

 また、普通教育の動向についての諸外国の研究も今後重要になってくるでしょう。

(八)文部科学省の設置にともなって中央教育審議会は何らかの再編を余儀なくされると思われますが、今政府に求めたいことは普通教育について一元的に審議する真に民主的な審議会を創設することです。このためにも広範な国民的運動の広がりが重要であると思います。

(九)政府・文部科学省が意図する教育基本法の改正は普通教育の法律からの抹消を意味しますが、かりにその意図が実現したとしても普通教育自体はそれによって消えてしまうわけではありません。普通教育の世界は本書で述べてきましたように、一定の歴史的諸条件のなかで生まれるべくして生まれたものであり、人類が存在する限り存在するものであり発展せざるを得ないものです。「人間の育成」に全面的に敵対する教育政策は人類や国民の教育要求と根本的に矛盾せざるをえません。このような近視眼的な教育政策はかりに実現したとしても短命に終わらざるをえないでしょう。

 

 ⑴上原専禄「国民形成の教育」、岩波講座『現代教育学』第四巻、所収。

 ⑵堀尾輝久『現代教育の思想と構造』、岩波書店、一九七一年。

 ⑶中内敏夫『教材と教具の理論』、有斐閣、一九七八年。

 ⑷城戸幡太郎「国民的常識を養う普通教育」、『季刊国民教育』別冊『新学習指導要領読本』、一  九七八年、なお、城戸幡太郎氏は戦後の教育刷新委員会で普通教育について重要な発言をおこな  っています。

 ⑸佐藤学「学びの文化的領域ーカリキュラムの再構築」、佐伯朕、藤田英典、佐藤学編『学びへの  誘い』、東京大学出版会、一 九九五年。

 ⑹竹内常一『教育を変える』、桜井書店、二〇〇〇年。

 ⑺田中一「価値情報過程と唯物論の根拠」、『経済』二〇〇〇年一二月号、新日本出版社。

 ⑻澤口俊之「若者の『脳』は狂っているー脳科学が教える『正しい子育て』」、『新潮45』二〇  〇一年一月号。

 ⑼鈴木茂『理性と人間』、文理閣、一九八九年、六五ページ。

 ⑽牧野広義『人間と倫理』、青木書店、一九八七年、二八七ページ。