第五章 「個性尊重の教育」
     ー戦後教育課程政策の出発と普通教育ー

 はじめに

 普通教育のあり方はより現実的には教育課程の問題であり、教科構成や教育内容さらには教育方法の問題といえます。
 教育課程の大綱をどのようなものとして構想し制度化するかは政治の上でも重要な関心事として扱われてきました。
 戦前、とくに一九〇〇(明治三十三)年の小学校令改正前後から教育課程は各学校令施行規則によって法令化されることになりましたが、それ以前にあっても教育令や学校令に位置づけられた「教則綱領」「教則大綱」「学科及其程度」などによって文部卿あるいは文部大臣の統制化におかれていました。
 戦後、日本国憲法・教育基本法の制定によって教育課程のあり方も「改革」を余儀なくされました。
 学校教育法には普通教育の目標が定められることになったわけですから、戦前のパターンで言えば、教育課程の大綱は学校教育法施行規則によって具体化されることになりますが、戦後の出発点においてはこれから述べるような過程を経て、文部省の著作物として「学習指導要領一般編(試案)」を発行するにとどめ、具体的な教育課程の編成や教育内容等は教師や学校の判断に委ねられることになりました。ところが、それも束の間、その後の歴史は、「学習指導要領一般編(試案)」の位置づけを根本的に改変し、戦前のように、学校教育法施行規則のなかに強固に結びつけられるようになっていきました。
 「学習指導要領一般編(試案)」は、学校教育法の制定とは平行して作成されていきましたから、そこには学校教育法制定過程で紆余曲折のあった各学校の目的や「普通教育」の目標にかんする論議はほとんど反映されませんでした。ですからその後の学習指導要領の変質過程においても学校教育法が示す普通教育の目標は事実上無視され、法定された目標規定は有名無実化することになりました。
 「学習指導要領一般編(試案)」はもともと文部省の著作物として編まれたわけですから、教育行政の限界などという制約なしに教育内容・教育方法あるいは評価のあり方のかなり細部にまで踏み込んだ内容になっています。ところがそのような著作物とい性格が基本的には踏襲されながら学校教育法施行規則上に位置づけられることになったわけですから、その後の教育課程政策や行政は教育基本法の制約がありながらも教育内容はもちろんのこと、指導計画の作成、指導上の留意事項等に至るまで、ある意味で戦前以上に教育課程への広範な政治支配がひろがっていると言えます。本章ではとくに普通教育の視点から戦後教育課程政策の展開課程を概観してみようと思います。

 第一節 戦後の教育課程改革の展開

 戦後の教育改革は極東委員会やアメリカ国務省、連合国総司令部(とくに民間情報教育局)さらにはアメリカ教育使節団等の意向と関連しながら進められて行きますが、そこでの重要な課題はいうまでもなく教育課程の改革であり、教科書のあり方に関する問題でした。民間情報教育局(CI&E)教育課の任務でもアメリカ教育使節団の任務でも筆頭に掲げられたのは教育課程の問題であり、教科書の問題でした。
 一九四六年三月五日に来日したアメリカ教育使節団はその総会等において「教育課程と教科書」、「日本の学校における教育課程」、「日本の教育方法」などをテーマに公開討論会やパネルディスカッションや講義を行っています。そこでは日本の教育課程編制を貫く基本哲学の特質等がきわめてリアルに報告されています。
 これにたいして、アメリカ教育使節団に協力する「日本側教育家委員会」も五つの特別委員会を組織してそこでの検討結果を報告書にまとめていますが、この報告書には教育課程の問題が独立の項目としてとりあげられていませんでした。その理由については「具体的な教育課程の問題はつねに文部官僚の手に委ねてきたそれまでの日本の教育界の伝統に由来するものであろう」(『戦後日本の教育改革第六巻・教育改革総論』、東京大学出版会、一九七六年、一二六、一二八ページ)という指摘がなされていますが、それは戦前の政府・文部省が教育課程の問題を軽視していたからではなく、それとはまったく逆に国家権力の独占的な事項として位置づけてきたことを意味するのだと思います。そしてこの「伝統」が戦後、原理的に転換されることなく、すわなち民主主義的な改革を経ることなく継承され、今日に至っていることを直視しておく必要があると思います。
 敗戦直後、文部省やGHQは「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」、「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」などの措置をとるとともに、文部省にあっては早くも国語、算数の教科書編集に着手したり、内部に公民教育に関する委員会(公民教育刷新委員会に再編)や教育課程を改訂するための研究会などが組織されています。この段階は戦前体制の枠内での一定の見直しという認識にとどまっていたようですが、やがて教育課程制度の枠組み自体の改革に進むことを余儀なくされていきます。改革されるべき課題は、第一に大日本帝国憲法の「改正」であり、第二に教育勅語の「改正」であり、第三に国民学校令及び国民学校令施行規則の「改正」であり、第四にその他の学校令(中等学校令・同施行規則、青年学校令・同施行規則)の「改正」でした。改正に「  」を付したのはいずれの法令も政府当局の思惑を越えて改正ではなくそれらの廃止と新たな法令の制定へと向かっていったからです。
 次節で述べますように、文部省は一九四六年四月に教科課程改正準備委員会を省内に設置していますが、その頃には教育課程制度改革をめぐる情勢は大きく進展していました。
 第一の大日本帝国憲法については、国民主権原理に立ち教育条項を盛り込んだ新たな日本国憲法の骨格(憲法改正草案)が発表されていました。
 第二の教育勅語については、新教育勅語草案の作成が準備されるなど教育勅語の取扱は依然として流動的な情勢でした。教育基本法の構想はこの段階ではまだ課題とされていませんでした。この構想について文部大臣がはじめて発言したのは教育刷新委員会第二回総会(九月十三日)とされています。
 このような状況でしたから、教育課程を規定している国民学校令・同施行規則ほか各学校令等の取り扱いは依然として不明確のままでした。教科課程改正準備委員会が発足した直後の七月、辻田文部大臣官房文書課長は「憲法改正草案に抵触する法令について」という照会文書を省内各局等へ出していますが、それにたいして学校教育局は各学校の目的規定などが抵触すると回答しています。この頃になって文部省としてもようやく各学校の目的規定や教育課程を新憲法に即して全面的に改正せざるを得ないという判断に傾いたようです。
 ところで、この間、戦後教育改革の目的や方針あるいは新たな学校令などを策定する動きもGHQや文部省内部でも進められていました。民間情報教育局(CI&E)は敗戦の年の秋には文部省教科書局にたいして新教育の方針に関する教師向けのガイドブックを作成するよう指示しています。それは翌年、教科課程改正準備委員会発足とほぼ時を同じくして『新教育指針』として発行され全国の学校に配布されました。この内容について本章第四節でもふれます。
 教育の目的については、教科課程改正準備委員会の冒頭で教科課程改正に先だって「教育の目的」を明確にする必要性が確認されその検討がなされています。このことについては第三節で触れることにします。
 新たな学校令を準備していたことについては、教科課程改正準備委員会が発足した直後の六月十九日に文部省内で「学校教育法要綱」が作成されていたことが最近になって判明しています(東京法令『日本の教育課題』、一九九六年、第八巻所収)。この「学校教育法要綱」は「本法の目的は教権の確立と教育の機会均等を保障し学校教育を確立すること。学校教育は人格の価値と尊厳の認識を基礎とし個人の才能と適性に応じ個性の完成と国家社会の責任ある成員となるの自覚を目標とすること」と述べています。戦前の国民学校令等がすべて「皇国ノ道ニ則リテ」「国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と規定していることと比して、また小学校から大学までを含むすべての学校を包括していること、などの点で大きな転換とは言えますが、その後作成されて行く学校教育法案とは質的に区別される過渡的な性格を有するものでした。
 以上のことから、教科課程改正準備委員会の発足の段階では、戦前の教育課程の基本的枠組み自体の抜本的な転換は文部省内ではほとんど自覚されていなかったといえるでしょう。国民学校令・中等学校令を中心に戦前の教育課程の枠組みと改革されるべき課題について簡単に触れておきたいと思います。
 敗戦直前の教育課程制度は、国民学校については国民学校令(一九四一年公布)と同施行規則、中学校・高等女学校および実業学校については中等学校令(一九四三年公布)のもとに中学校規程、高等女学校規程そして実業学校規程、さらに青年学校については青年学校令(一九三九年公布)と同施行規則によって構築されていました。これらの学校令および施行規則あるいは規程によって各学校の目的、教科・科目の構成、各教科・科目の要旨と内容および課程さらには教科書制度等が規定されていました。戦後の教育課程政策は客観的にどのような改革課題に直面していたのでしょうか。
 第一に、「初等普通教育」を行う国民学校・初等科の義務年限が基本的には八年制まで構想されていました。つづく高等科を含めると「初等普通教育」は十年制まで到達していたことになります。戦後改革はこの水準をいっそう前進させるものでなければなりませんでした。
 第二に、国民学校令は教科・科目制をはじめて導入し、教科として国民科、理数科、体錬科、芸能科、実業科の五教科をおき、計十八の科目を配しています。中学校規程にあっても同様の五教科の他に外国語および修練を加えた七教科計二十七科目が配されていました。一八九〇(明治二十三)年の小学校令改正以来、施行規則には教科の「内容」および「留意事項」とも言うべきものが記載されておりましたが、国民学校令施行規則や中学校規程からは教科および科目のそれぞれに「要旨」が記載されることになりました。とくに教科の「要旨」はきわめて政治的・イデオロギー的性格の強い内容で当然新憲法の趣旨に抵触するものでしたから、教科・科目制をふくめそれぞれの「要旨」の削除ないしは見直しは必至でした。なお、中学校規程には教科についての「要旨」にほぼ国民学校令施行規則と同様のものが掲げられていましたが、科目についての記述はありませんでした。
 第三に、国民学校令施行規則や中学校規程には「教育ニ関スル勅語ノ旨趣ヲ奉体シテ教育ノ全般ニ亙リ皇国ノ道ヲ修練セシメ特ニ国体ニ対スル信念ヲ深カラシムヘシ」をはじめ十項目(中学校規程は六項目)にわたって教育に際しての留意事項が列挙されていますが、それらの多くは基本的には新憲法の理念に抵触するものでした。
 第四に、国民学校令および施行規則では「国民科」という教科のもとに「修身」、「国語」、「国史」、「地理」の四科目がはじめて「統合」されました。また、「理数科」という科目のもとに「算数」と「理科」の二科目が統合されました。なお、「算数」という名称はそれまでの「算術」が国民学校令ではじめて改称されたものです。「体錬科」という教科には「武道」が新たに加わりました。また、「芸能科」には「音楽」、「習字」、「図画」、「工作」、「裁縫」、「家事」の六科目が、「実業科」には「農業」、「工業」、「商業」、「水産」の四科目が含まれていました。
 中学校規程でもそれ以前の中学校令施行規則の諸教科が「統合」されています。
 これら教科・科目の変遷は戦前約半世紀に及ぶ教則綱領、教則大綱、各学校令施行規則もしくは学校規程のうえで展開されていたものですから、戦後教育課程の改革はこれら省令等の根本的な総括の上になされるべきものでした。教科課程改正準備委員会がこのことについてどのように総括しようとしたのかについては次節で述べることにします

 ところで、明治五年の学制以来、教科(教科という言葉自体も学科や教科目とか若干の変動がありますが)は順位の変更、名称の変更、初等段階への導入さらには「統合」などが行われてきました。このような「統合」など教科構成の変遷はなにを意味するのでしょうか、その変遷から戦後教育課程改革はなにを教訓として導き出したのでしょうか。以下、簡単に振り返っておきましょう。
 「修身」は一八八〇(明治十四)年以来首位教科もしくは科目でした。「国語」は一九〇〇(明治三十三)年の小学校令改正でそれまでの読書・作文・習字の三教科を統合して生まれた科目です。結局「国語」は三教科を統合し、さらに「国民科」という教科に統合されるという経過をたどっています。「国史」については「歴史」、「日本歴史」そして「国史」と名称が変遷しています。これらの科目は当初は初等段階には位置づけられていませんでした。「地理」については「地理」から「日本地理・外国地理」さらに「地理」と変遷していますが「歴史」と同様当初は初等段階にはなかったものです。「理科」については教育令の時期に「博物」、「物理」、「化学」、「生理」とされていたものが一八八六(明治十九)年の小学校令の段階で「理科」に統合されています。
 このような変遷に見られるいくつかの特徴についてみておきたいと思います。
(一)戦前の小学校は基本的には尋常・高等の二段階で構成されていましたが、初等段階では修身、読書、習字、作文、算術、体操などが基本教科であり、高等科になって歴史、地理、理科、図画、音楽等が配置されていました。その関係がやがてくずれ、高等科の諸教科が次第に尋常科の教科のなかにも置かれるという傾向を示しています。
(二)各教科の「要旨」等には初期の段階では例えば「児童ノ日常見聞セル事項」、「児童ノ目撃シ得ル事実」、「眼及手ヲ練習シテ」、「耳及発声器ヲ練習シテ」などの言葉が多用され相対的に児童の立場から教科の「要旨」を特徴づけていたのに対し、徐々に特に国民学校令施行規則になると「国運ノ発展」、「科学ノ進歩」、「国防」などの社会的要請から「合理創造ノ精神」、「分析的論理的ニ考察スル力」、「全体的直覚的ニ把握スル態度」などが強調されていく傾向がみられます。
(三)教科の統合が全教科に広がっていきますが、その際の統合の論理は子どもにとって何が基本的な教科かという視点からではなく、もっぱら社会的国家的な観点から構成されていく傾向が見られます。国民学校令施行規則には「各教科並ニ科目ハ其ノ特色ヲ発揮セシムルト共ニ相互ノ関連ヲ緊密ナラシメ之ヲ国民的錬成ノ一途ニ帰セシムベシ」とあり、また中学校規程には「教育内容ノ全体的統一ニ意ヲ用ヒ学校内外ノ生活ヲ挙ゲテ皇国民錬成ノ一途ニ帰セシムベシ」とあります。可能性として生まれながらにもっている人間的な諸能力を自由な環境のなかで徐々に発現させ、それらをよりまとまった人間的理性として結実させていくという観点からではなく、国定の統合された人間像をあらかじめ特定し、そのような鋳型にはめた人間像を大量生産するために教科・科目を位置づけるという見地にたって教科・科目あるいは教育課程が構成されているのです。
(四)「修身」については、戦前の約半世紀の間にその性格や位置づけは大きく変化しています。国民学校令施行規則ではその「要旨」は「教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キテ国民道徳ノ実践ヲ指導シ児童ノ徳性ヲ養ヒ皇国ノ道義的使命ヲ自覚セシムルトス」とこれ以上の表現はないといえるほど国家主義的な方向性がエスカレートしています。
 「修身」がそれまでの末尾教科から突如として首位教科に格上げされた一八八一(明治十四)年の「小学校教則綱領」では「主トシテ簡易ノ格言、事実等ニ就キ児童ノ徳性ヲ涵養スヘシ又兼テ作法ヲ授ケンコトヲ要ス」と規定されていましたから、そのエスカレートぶりは明確といえます。
 とくに一八九〇(明治二十三)年の小学校令以来、「修身」は基本的には大日本帝国憲法・教育勅語体制を支える重要な位置づけが与えられていたわけで、戦後、一時停止となった日本歴史、地理とも異なる特別な扱いを受けることになったのも当然と言えましょう。「修身」が教科としてではなく特設「道徳の時間」として騒然とした情勢の中で「復活」するのは一九五八(昭和三三)年のことです。
 特設「道徳の時間」にせよ、道徳教育にせよ、その明確な位置づけは依然としてあいまいであり、普通教育における位置づけを明確にする課題はいまなお探求途上にあると言えるのではないでしょうか。
(五)文部省内に教科課程改正準備委員会が組織されたことと関連して「教科課程」という用語について触れておきたいと思います。
 法令上「教科課程」あるいは「教育課程」という言葉は戦前にはありませんでした。「課程」という言葉は国民学校令などで「課程及編制」というように用いられていますが、そこでの主たる内容は教科・科目の構成についてです。「教科課程」という言葉もそのような意味において用いられているものと思われます。
 ところで、国民学校令施行規則第一章には「儀式、学校行事等」を「教科」と「一体」のものとして扱うとされていますが、このことは「儀式、学校行事等」と「教科課程」とは区別していたことを意味します。教科課程改正委員会のもとで最初の「学習指導要領一般篇(試案)」が作成されることになりますが、そこでは教科のみの課程が提示されています。 一九五一(昭和二十六)年発行の「学習指導要領一般篇(試案)」からは「教科以外の活動」(小学校)、「特別教育活動」(中学校、高等学校)が含まれることになり、「教科課程」も「教育課程」と改められていくことになりました。両者の当否については今日なお検討の余地があるように思います。
 なお、「君が代」については一九〇〇(明治三十三)年の小学校令施行規則以来、国民学校令施行規則に至るまで一貫して紀元節、天長節、明治節および一月一日に特定して「職員及児童『君ガ代』ヲ合唱ス」とされているだけです。国歌という規定はなされておりませんし、卒業式などについての規定もありませんでした。ましてや「教科課程」に位置づくものではありませんでした。今日の「学習指導要領」はその限りでは戦前の国民学校令施行規則の上を行っていると言うべきでしょう。
 最後に、国民学校令にはじめて導入された「初等普通教育」という概念について述べることにします。
 国民学校令第一条は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と規定しています。すでに述べたように国民学校は義務制の初等科だけでも修業年限は八年制とされていました。それに二年制の高等科が加わって十年制の「初等普通教育」機関として発足することになっていました。そして「初等普通教育」は五教科十八科目を包摂する概念でした。
 中等学校令や高等学校令には「高等普通教育」という用語が用いられておりましたし、「中等普通教育」という概念の制度化についての議論も行われていました。
 これら高等、中等、初等という概念は今日のそれとは異なり、社会階層的な性格を有した概念であり、「初等普通教育」という概念は国民大衆すべてに対する基礎的な教育を意味していたのです。
 戦後は、戦前の中学校や青年学校をも取り込んで「普通教育」機関として出発することになるのですが、したがってその「普通教育」概念は戦前の「高等普通教育」や実業教育をも包含することになり、あらためて普通教育を段階的な性格を有する高等、中等、初等に三区分するというように転換することになったのです。この転換の過程にはアメリカ教育使節団報告書が提起した六・三・三制や帝国議会、教育刷新委員会、文部省等での論議の結果が反映されているのですが、教科課程改正準備委員会が発足した当時においては、文部省自体まったく見通しをもっていなかったようです。

 第二節 教科課程改正準備委員会の発足と「教育の目的」

 このような状況のもとで、文部省内に教科書局監修官や視学官を中心に教科課程改正準備委員会が組織されることになりました。
 その第一回協議は一九四六(昭和二十一)年四月十七日に開催されています。この日、政府は「日本国憲法草案」を発表しています。しかし、この時点では文部省は憲法改正の方向がどうなろうともそれとは平行して国民学校令をはじめとする現行学制のままで教科課程の改正や教科書発行は可能だと判断していたようです。
 第一回協議では教科課程改正を、①現行学制を前提とする、②アメリカ教育使節団報告書を参照する、③教育の目的を根本的に検討した上で教科課程の協議に入る、という方針のもとに検討するとしています。
 第三の、教育の目的を根本的に検討するということは具体的には国民学校令および同施行規則や中等学校令に掲げられているそれぞれの目的規定を再検討するということですが、注目すべきことは同時に進展していた日本国憲法や教育基本法制定の動きとは別に文部省内部においても独自に「教育の目的」が検討されていたことです。
 第三回協議(四月二十三日)に提出された勝田守一監修官執筆の「教育の目的」案は日本における普通教育史上非常に重要な意義を有していると思います。なぜならば、この委員会のもとで最終的にまとめられた「学習指導要領一般編(試案)」が教育目的を「社会の要求」と「児童の要求」という二元論的見地から説明しているのに対して、勝田監修官の「教育の目的」は明確に人間性の育成、したがって基本的には「児童の要求」の見地から一元的に展開しているのです。
 勝田監修官によれば、「教育の目的」は「人間性の理想にもとづいて、社会、とくに国民社会のすべての成員をして、人間性に内在する一切の価値を開発実現させて、よりよき国民社会と人間性に充ちた生活の建設のために、個人を育成することである」と述べています。ここには理想主義的な見地からではあれ国家や社会およびその変化にあわせて教育を考えるのではなく、人間にあわせて教育を考え、さらには社会を考えるという見地が明確に表明されています。
 「教育の目的」はさらに「人間性そのものに含まれている普遍的な意味によって、愛国の義務と個人の良心、精神的理想と世俗的活動、個人的関心と社会全体の福祉との間に、一切の矛盾はのぞかれ、また、国家の発展と国際協調との間に自然な調和がうち建てられる」と述べています。ここにはすでにシェリング研究者であった勝田氏のすぐれた思想的表明を感じますが、しかしそのような思想的表明からどのような教育論が導かれるかは具体的に検討してみなければなりません。
 「教育の目的」はその上で「児童・生徒・学生の各人をして、人間性に対する敬虔な精神をもって、相互の人格及び個性とその生活とを正しく尊重する習慣を養はせるとともに、社会の全体のために自発的に関心し、自他の協調によって生活の真実の価値を創造し、社会の健全な進歩に資するに必要な、知的・道徳的判断力、身体的活動力及び技術的実行力、ならびに人間の本性に根ざす審美的能力を、かれらの生活と活動性から展開させるやう啓発しなくてはならない。この目標にとって、教育活動の全体が企画され、さらに教科課程もまたそれにもとづいて編成組織される必要がある」と結んでいます。「人間性に対する敬虔な精神」というものがすべてに先行し、さまざまな人間的諸能力をそのような「精神」にそって啓発するように教科課程を編成しなければならないと述べているのです。
 勝田氏にとって「人間性そのものに含まれている普遍的な意味」とか「人間性に対する敬虔な精神」というものは人間自身のなかに具体的に存在しているものではなく、人間の外にあって人間を方向づけるなんらかの普遍的な精神なのです。戦前のような天皇の思召とか日本精神などからは解放されているとはいえ、観念的な見地に立っていると言わざるを得ません。
 この「教育の目的」論には、国民は基本的人権として教育を受ける権利を有していること、すべての子どもは普通教育を受ける権利を有していること、主権者である国民はすべて子どもたちに対して普通教育を受けさせる義務を有していること、というような見解はありません。全体として観念的な人間観にたった教育目的論ということもできますが、しかしその歴史的意義は高く評価されるべきでしょう。
 教科課程改正準備委員会はおおよそこの「教育の目的」案に沿って作成された「教育計画の大綱」等の検討をするとともに、教科課程改正委員会への改組にともなう人選などの検討をおこない、文部省内の学校教育局・教科書局の主要メンバーのほぼ全員からなる教科課程改正委員会が六月二十一日に発足するにいたりました。
 ところで、その前々日の十九日には第四章で紹介した「学校教育法案」が作成されており、文部省としてはひきつづき学校教育法施行規則の作成に着手することが念頭にあったと思われます。現に五月二十九日に開催された第十二回準備委員会では「国民学校ノ教科課程ノ修正カラ初メル」ことが確認されていました。しかしながら、その後の情勢は文部省の意向通りにはいきませんでした。教科課程改正委員会の発足とほぼ同時に、この委員会の中に民間情報教育局(CI&E)教育課側の意向を受けて「教科課程連絡委員会」が組織されることになり、一方、民間情報教育局側にも「カリキュラム委員会」が組織され、八月以降は「連絡委員会」と「カリキュラム委員会」双方の会合などが頻繁に行われ、その過程の中で国民学校の教科課程修正方針とは異質の方向がめざされることになっていくのです。

 第三節 『新教育指針』ー個性尊重の教育ー
 
 教科課程改正委員会の発足とほぼ時期を同じくして、文部省は『新教育指針』を作成し、全国の学校に配布を開始しました。それは五回に分けて計三十万部発行されています。これはすでに前年の秋にアメリカ民間情報教育局の指示を受けて、当時教科書局第一編修課長だった林伝次氏や石山修平氏を代表執筆者として、アメリカ教育使節団が来日(三月五・六日)する以前にはすでに作成されていたともいわれています。目次を紹介しておきましょう。

 はしがき
 第一部 前編 新日本建設の根本問題
  第一章:日本の現状と国民の反省、第二章:軍国主義及び極端な国家主義の除去、第三  章:人間・人格・個性の尊重、第四章:科学的水準および哲学的宗教的教養の向上、第  五章:民主主義の徹底、第六章:結論ー平和的文化国家の建設と教育者の使命
 第一部 後編 新日本教育の重点
  第一章:個性尊重の教育、第二章:公民教育の振興、第三章:女子教育の向上、第四章  :科学的教養の普及、第五章:体育の改善、第六章:芸能文化の振興、第七章:勤労教  育の革新、
 第二部
  第一章:はしがきー第二部のめあて、第二章:教材の選び方、第三章:教材の取り扱い  方、附録一、附録二 

 この文書は勝田守一監修官の「教育の目的」案と同様、基本的には人間性の育成を基調として執筆されているもので、学校関係者に新鮮な影響をあたえたとされています。この文書のとくに第一部後篇・第一章は「個性尊重の教育」となっており、次のような構成になっています。
 一 教育は何ゆえに個性の完成を目的とするか
 (1)個性の完成は、人生の目的にかなった幸福なものとする
 (2)個性の完成は、社会の連帯性を強め協同生活をうながす
 (3)個性の完成は社会の進歩をうながす
 二 教育の方法において、個性を尊重するにはどうすればよいか
 (1)生徒の自己表現を重んずること
 (2)生徒の個性をしらべること
 この文書では日本国憲法草案の「すべて国民は個人として尊重される」という条項をひきながら、「新日本教育の重点の一つとして、個性の尊重を取り上げ」たと説明しています。戦後四〇年経過した一九八五年に発足した臨時教育審議会が打ち出した教育改革の基本原則が「個性重視の原則」ですから、その意味では臨時教育審議会は戦後教育改革の理念をあらためて確認したようにも見えますが、臨時教育審議会は戦後教育の総決算を主張する中曾根内閣の主導のもとに発足したわけですから、奇異に感じられるのも当然です。しかし、それは言葉の上での問題であって、『新教育指針』が掲げる「個性尊重の精神」と臨時教育審議会がいう「個性重視の原則」とはまったく正反対の関係にあるのです。『新教育指針』がいう「個性尊重の教育」を「決算」する見地こそが臨時教育審議会の「個性重視の原則」にほかならないのです。「個性尊重」と言わず「個性重視」としたことにも臨時教育審議会の意図が表れているというべきでしょう。「個性」という言葉に新鮮さを感じて臨時教育審議会の答申やその後の「個性化」政策に期待した人が多かったと思いますが、ここにも政府・文部省が好んで用いる言葉のマジックの典型例を見ることができます。このことは第七章でもあらためて論じることにします。
 さて、『新教育指針』は次のように述べています。
 「教育は、人間を人間らしく育てあげることを目的とする。人間らしく育て上げるといふのは、人間性をおさへずゆがめずに発展させて、りっぱに仕上げることである。しかるに、すでに述べた如く、人間は人間であるといふ点ではみんな同じであって、だれでも人間性をそなへているのであるが、その人間性のあらはれ方は、各人においてそれぞれちがっている。そこに個性が成り立つ。したがって人間性をのばすといっても、実際には一人々々の個性を完成することのほかにはあり得ない。みんなを同じ人間にすることもできないし、望ましくもないのである」と。
 この『新教育指針』も勝田氏の「教育の目的」案と同様、国民の教育権、子どもの普通教育を受ける権利、子どもに普通教育を受けさせる国民の義務、という日本国憲法草案が規定しようとしている普通教育観を共有しているわけではありませんが、人間性に着目し、その実現こそが教育であるという見解を明確にしている点で、きわめて重要な意義を有するものといえます。勝田氏の「教育の目的」案や『新教育指針』に示されている考え方あるいは教育観は民間情報教育局(CI&E)教育課とかアメリカ教育使節団報告書からの影響というだけではなく、わが国の教育史においても深部をながれていたものといえましょう。とくに後にみるように、明治前期、自由民権運動を支えていた教育観の中にはこのような見解が明確に示されていましたし、そのような考え方はその後も生き続けていたといえるのです。

 第四節 教育刷新委員会と普通教育問題

 コース・オブ・スタディ作成にいたる過程は同時に教育刷新委員会での教育基本法案や学校教育法案の審議の過程でもありました。教育刷新委員会は内閣直属の機関として六月二十四日の衆議院での吉田首相によってその設置が表明され、八月九日の官制公布により発足し九月七日に第一回総会が開催されるという経過をたどりますが、その性格をめぐって民間情報教育局教育課と文部省との間に深刻な矛盾が生じていました。
 教育課側は教育刷新委員会の自治・独立性を主張し、文部省側は教育刷新委員会を文部大臣の諮問機関的な性格に留めようと画策したのです。最終的に教育刷新委員会は民間情報教育局教育課からも文部省からも独立した機関として発足することになりましたが、そのことは教育刷新委員会における教育課程に関する基本方針の策定にとっても重要な意義をもつものでしたが、他方では教育課程のあり方についてはもっぱら文部省が担ってきたというこれまでの「伝統」を存続させることにもなりました。文部省はこの「伝統」を保持しながら民間情報教育局教育課が要求するコース・オブ・スタディ作成をうけいれながら「教科課程」作成をどのように一体的に進めるかという課題に当面していくことになるのです。
 ところで、教育刷新委員会第一回総会(一九四六年九月七日)で「現下の教育に関する緊急重要の問題」について説明に立った山崎文部次官は教育の根本的改正が必要であるとして、教育内容について「従来生徒、児童の能力に適応しないのみならず画一的でありました、此の際教科内容の全面に亙りまして真理の探求と人格の完成並に社会全体の責任と自覚とを有する世界的日本人を育成する見地に立って再検討を加え」たいとのべています(『教育刷新委員会教育刷新審議会会議録』第一巻、十五ページ)。しかしながら結局は、「教刷委は、戦後の教育課程の改革には直接にはほとんど関係がない」(『戦後日本の教育改革』第六巻、一三〇ページ)と評されるに留まっています。ここにも教育課程の改革に臨む政府・文部省のなみなみならぬ決意を見ることができます。

 第五節 「学習指導要領一般編(試案)」作成へ

 第二章で述べましたように日本国憲法改正案の審議で衆議院憲法改正特別委員小委員会は一九四六年八月一日、第二十六条第二項に「普通教育」という用語を用いることを決定しています。このことがその後の教育課程立案や学習指導要領の作成にどのような影響をあたえることになるのでしょうか。
 教科課程改正委員会は同年八月一日に開催された第二〇回協議において、初等教育の新しいカリキュラムを作成し、民間情報教育局(CI&E)教育課側に提出したとされていますが、そこには「社会科」という新しい教科を設けることが含まれていました。九月に入って教科課程改正委員会は「社会科」を新設することを決めていますが、その「社会科」は単に民間情報教育局(CI&E)教育課側の構想をおしつけられたというよりも、戦前からわが国にあった社会科構想の具体化という性格を有するものでした。
 九月二十六日に開催された教科課程改正委員会では「国民学校教科課程案」なるものが検討されています。小学校ではなく国民学校という名称を使っていることから、依然として現行体制へのこだわりが委員会内に存在していたことがうかがわれます。
 教育の目標、教科の内容や教科課程、学習指導法等を全体としてどのように構想するかについての協議のなかからコース・オブ・スタディを作成するという方針がうちだされ、そのための教科別の委員会が組織されることになりました。
 こうしてコース・オブ・スタディ(これは学習指導要領と訳されました)の作成に着手することになりましたが、学習指導要領と教科課程とはどのように関係するのかについて、当時の議論の状況は明確ではありません。しかし、国民学校令がそうであったようにかなり詳細な教科編制が国民学校令施行規則に規定されていましたから、教科課程改正委員会内部では、学習指導要領とは別に将来学校教育法が成立した段階で学校教育法施行規則に盛り込む教科課程の基本方針をどうするかは当然意識されていたと思われます。そのことと学習指導要領の作成とは別問題だと考えられていたと思います。
 他の教科より遅れて進展した社会科のコース・オブ・スタディについては十月下旬から初等用と中等用のグループに別れて作成に着手することになりました。
 十一月三日、日本国憲法が公布されました。これ以降、教科課程改正委員会における教科課程論議には普通教育という言葉が用いられるようになりました。
 十一月十四日の改正委員会では「国民学校における自由研究について」が討議されています。社会科とともに新しい教科として「自由研究」を導入するというのです。
 第四章でも述べましたが、この頃、学校教育法の策定を急いでいた文部省では、普通教育を目的とする学校を六・三・三制度として構想するという考え方が固まりつつあり、それぞれの学校の名称を小学校、中学校、高等学校とする方向で議論が進んでおりました。
 当時、文部省内では戦前の中学校や高等学校と区別して「下級中学校」・「上級中学校」あるいは「仮称中学校」・「仮称高等学校」という言葉が用いられていました。のちに「新制高等学校」という言葉が生まれていきます。問題はそれぞれの学校の教育目的をどう規定するかでした。小学校を初等普通教育とすれば、中学校はどうするのか、高等学校は高等普通教育でいいのか、その場合専門教育あるいは職業教育をどのように位置づけるのか、が重要な論点でした。
 小学校、中学校、高等学校という名称が確定したのは十二月二十四日付の学校教育法要綱案においてですが、そこでは「小学校の目的は『初等普通教育』、中学校の目的は『高等普通教育』、高等学校のそれは『高等の普通教育並びに専門教育を完成すること』とされていました。小学校、中学校、高等学校についての現行のような目的規定が盛り込まれたのは翌年(一九四七年)一月一五日の学校教育法案においてです。
 一月十一日、青木誠四郎氏が「コース・オブ・スタディについて」という講演を行っています。この講演のメモによれば、教育基本法における教育の目的や教育の方針についての教育刷新委員会での議論をふまえつつ、とくに教育の目的について「個人生活について」、「家庭生活について」、「社会生活について」、「経済生活および職業生活について」の四領域についてそれぞれ三〜九項目を列挙しているなど、三月二十日に発行された「学習指導要領一般編(試案)」の第一章「教育の一般目標」とほぼ同一の内容が記されています。
 一月二十三日、文部省は新学制に備えて教育課程・教育内容等についての要綱を発表していますが、そのことについて当時の『文部時報』は次のように伝えています。「六・三・三制度に基づく新学制の実施に備えて、文部省では教育内容の研究を進めてきたが、現在までの研究結果は、新教科課程は、理想的な文化国家として、人類の福祉に寄与することを目途として編成され、教科目は人間性に内在する一切の価値を開発し、育成することを主眼としている」と。
 この記述で注目されることは、文部省のこれまでの主要な研究課題は教科課程についてであって、学習指導要領ではないこと、教科課程の編成原理に基づく教科目は「人間性に内在する一切の価値を開発し、育成すること」を主眼にしているということです。このような記述が実際に文部省が進めている教科課程作成の内実と合致したものであるかは疑問のあるところですが、このように表明せざるを得ないこと自体当時の情勢の反映とも言えましょう。
 二月十八日付の学校教育法案からは小学校の「初等普通教育」、中学校の「中等普通教育」、高等学校の「高等普通教育及び専門教育」についてのそれぞれの目標が盛り込まれることになりました。普通教育が三段階に区分され、それぞれの目標を法定したということはわが国の普通教育の歴史のなかで画期的といえますが、そのことが並行して作成されている「学習指導要領一般編(試案)」になんら反映されていないことも指摘しておく必要があります。「学習指導要領一般編(試案)」には結局「普通教育」という文言すら用いられなかったのです。
 二月二〇日の教育刷新委員会総会は「六・三義務制実施断行に関する声明」を決議していますが、その際日高学校教育局長は「教育刷新委員会の決議した学制改革案概要」を朗読しています。そこには小学校、中学校とも「普通教育を行う」と記されています。なお、「六・三義務制実施断行に関する声明」では「普通教育」という言葉が用いられていますがそれは「国民的基礎錬成たる普通教育」とされており、普通教育についての戦後的転換についての認識をまったく欠落させたものになっていることはきわめて残念なことと言わざるを得ません。
 このような経過のもとに、三月二〇日、「学習指導要領一般編(試案)」が文部省の著作として文部省から発行されることになったのです。
 この「学習指導要領一般編(試案)」の第三章は「教科」となっています。これは教科課程改正委員会が教科課程問題と学習指導要領作成とを同一委員会の任務として、しかも四月からの新学制に間に合わせるという政治日程との関係で、かなり無理してこの第三章を組み込んだものと私は推測しています。
 なお、各教科編も平行して作成されていたのですが、社会科、理科、算数・数学については五月に発行されています。また、四月には文部省は「新制高等学校の教科課程に関する件」を通達しています。
 五月二十三日に公布された学校教育法施行規則(省令)は小学校について、第二十五条で「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱いについては、学習指導要領の基準による」と規定しています。一方では「学習指導要領一般編(試案)」という文部省発行の著作物にすぎないものが、試案という文字のない単なる「学習指導要領」とした上で、しかもそれを「基準とする」とされたのです。「試案」であるとか「文部省の著作物」とはいいながら、教科課程のみならず、「学習指導法の一般」や「学習結果の考査」をも含む「学習指導要領一般篇(試案)」がはやくも「学習指導要領」として学校教育法施行規則に組み込まれることになったのです。このことによって、戦前では考えられなかったような領域にまで文部省の統制が拡大されるという教育課程制度の新たな戦後的枠組みができあがっていったのです。
 なお、学校教育法施行規則によれば、中学校については「学習指導要領」という言葉は用いられておりません。高等学校については、「学科の種類」等は「高等学校設置基準」、「教科に関する事項」は「学習指導要領の基準による」とさだめられました。
 さらに、七月二十五日に出された教科書局長・学校教育局長連名の文書「学習指導要領の解釈及び適用について」では、学習指導要領に関する文部省の解釈が「正当」であることを各都道府県知事宛に求めています。これは「学習指導要領一般編(試案)」が「教科課程をどんなふうに生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びきとして書かれたものである」と述べている趣旨からはほど遠く、文部省の解釈を「正当」として教師に押しつける見地を明確にしたものといわなければなりません。

 第六節 「学習指導要領一般編(試案)」について

 ここで「一般編」とは、小学校、中学校、高等学校の各学校および各教科を通じた総論という意味が含まれていると思います。第二章「児童の生活」では、十八歳までの子どもの生活が叙述されています。ただし、高等学校の教科課程については実施が昭和二十三年度からということで省略されています。
 また、「試案」とは、「この編集のために作られた委員会の意見と、一部分の実際家の意見によって、とりいそぎまとめたものである。この書を読まれる人々は、これが全くの試みとして作られたことを念頭におかれ、今後完全なものをつくるために、続々と意見を寄せられて、その完成に協力されることを切に望むものである」という序論の一文のとおりですが、それはあくまでも将来とも「試案」のままでいくということを述べているわけではありません。また、今後とも今回のように文部省の著作物として発行していくということを述べているわけでもありません。したがって、より完全なものを作成し、それを今後の教育課程編成の基準としていくということを否定していると読むことはできないと思います。
 本論は次の五章構成になっています。「第一章 教育の一般目標」、「第二章 児童の生活」、「第三章 教科過程(ママ)」、「第四章 学習指導法の一般」、「第五章 学習結果の考査」
 第一章の「教育の一般目標」は、生活を四領域、すなわち個人生活(七項目)、家庭生活(三項目)、社会生活(九項目)、経済生活および職業生活(六項目)、に区分してそれらについて「国民一般の教育について具体的な教育の目標」が記述されています。
 四つの生活領域、計二十五項目の目標については「編集委員会が、いまわが国の社会状態と、これから向かって行くべき方向について、いろいろ考え合わせて、その規準となるべきことをあげてみたもの」と述べていますが、なぜ四つの生活領域に区分したのか、これら二十五項目がなぜ現在および将来の社会状態からみちびかれるのか、むしろいつの時代にあっても目標となり得るものではないのか、などの疑問が残ります。
 このことに関して言えば、学校教育法の初等普通教育の八項目の方が現実の社会状態からというよりは人間のもつ諸能力に依拠してそれらの諸能力を育成するという見地から導き出されている点できわめて対照的といえます。
 教育の根本的な目標については教育基本法に示されているとされていますが、日本国憲法や教育基本法が広義の教育と普通教育とを区別していること、学校教育法ではさらに具体的に初等普通教育、中等普通教育、高等普通教育についての目標が具体的に規定されていること、などについてはまったく自覚されていません。このことは学習指導要領の作成が学校教育法の制定過程とほぼ平行して進められてきたという事情もさることながら、日本国憲法・教育基本法および学校教育法がしめす戦後教育改革の理念・目的とはかなり異なった立場からおこなわれたことを意味するのではないでしょうか。
 第二章の「児童の生活」についてはどうでしょうか。
 第一節は「なぜ児童の生活を知らなくてはならないか」と魅力的な問題を提起し、次のように述べています。「教育の目標は、教育の根本目的をもとにして、広く社会の求めるところを考えてきめたものである。もちろんわれわれは教育の実際をここに方向づけてこの目標の達成に努力しなくてはならないが、ただここで考えなくてはならないのは、このような目標に向かって行く場合、その出発点となるのは、児童の現実の生活であり、またのびて行くのは児童みずからでなくてはならないということである。このことを忘れて、ただ目標にばかり目をうばわれていると、教育はからまわりすることになり、形式的になって、ほんとうに目標とするところに達しがたい」と。
 この場合、「児童の現実の生活」を出発点として「教育の目標」に向かう、というのはどういうことでしょうか。出発点と目標とは本来別物ではなく、出発点から出発したらその出発点にふさわしい目標へ到達できるという関係なのではないでしょうか。出発点は決まったが走ってみたら全然別な目的地へついてしまったというのは出発点の設定が間違っていたのか、あるいは走る過程に問題があったかいずれかでしょう。目標は目標としてきめておいて、その目標とはまったく別に出発点をきめるということはありえることなのです。この「学習指導要領一般編(試案)」でもっともわかりづらい点はここにあると思います。私は「児童の現実の生活」を出発点とするのであれば、「児童の現実の生活」自体の中に目標を設定するべきだと思います。
 「児童の現実の生活」といっても家庭や地域や学校での生活もありますし、現実社会ののさまざまな影響を受けながら子どもたちは生活しています。と同時に、子どもたちはそれらの現実生活のなかで自分たちが人間としてもっているさまざまな能力を形成していますがそこには教育として、あるいは普通教育としてひきうけるべきさまざまな課題をもかかえています。身体的能力、知的能力、知的能力、情動的能力、社会的能力、精神的能力などそれぞれの能力形成上、現実にはさまざまな課題をかかえています。それぞれの発達段階に応じて子どもにふさわしい能力形成をうながすことが、それぞれの時期の教育課題になるのです。そしてそれぞれの発達段階を通じて基本的な教育課題・教育目標が設定されることになるのです。
 「学習指導要領一般編(試案)」は「年齢による児童生活の発達」から一足飛びに「第三章 教科過程」の説明に移っています。教育課程を論じる前に教育目標・教育内容等についての言及があって然るべきだったと思います。また、教育課程を論じるとしても、あくまでも「試案」や「著作物」としての性格を一貫させるべきであって、いきなり実際の教育課程政策の方針ともうけとめられるような記述は適切ではなかったと思います。にもかかわらず、現実的な方針ともうけとめられるような内容になったのは「学習指導要領一般編(試案)」がたんなる言葉通りの「試案」でも「著作物」でもなく、直後の学校教育法施行規則が示すように当初から「教育課程の基準」として構想されていたことを示すものと言えます。
 小学校の教科課程については、社会科の新設、家事から家庭科への変更、自由研究の新設が大きな特徴となっています。中学校の教科課程については、小学校の家庭科が職業科に組み込まれたこと、社会科、自由時間が新設されたこと、さらに必修科目と選択科目をもうけたこと、が特徴となっています。
 「学習指導要領一般編(試案)」は各教科等や時間数、年間計画等について説明のほか学習指導法の一般、および学習結果の考査についての記述があります。それらについてはここでは省略することにします。