はじめに

 

 第一部 『教育基本法の解説』による教育基本法解釈の検討

 

   前文

 

 名著と言われこれまで三回にわたって復刻されてきた『教育基本法の解説』(以下『解説』と略します)を、現時点であらためて出版しようと考えたのには理由があります。

 

 二〇〇六年に教育基本法は「改正」されました。この「改正」を契機に、とくに二〇一二年に安倍政権が成立して以来、政治の分野では集団的自衛権の閣議決定や特定秘密保護法の成立など憲法理念に反する政策が強行されてきましたが、教育の分野でも、「教育再生」の名の下に、あたかも戦前の教育へ逆戻りするのではないかと思われる教育政策が矢継ぎ早に強行されています。時代はまさに「戦争」に直面せざるを得ない状況となっています。

 

 戦争と平和がまさに緊張した局面を迎えているという意味では現在は敗戦直後の状況とよく似ているように思われます。教育基本法(以下「四七年基本法」とします)は日本国憲法とともに、「平和の体制」を構築するものとして迎えられ、その実質化が着手され始めました。『解説』(一九四七年)は戦争から平和を生み出すまさに産みの苦しみの最中に文部省から発行されたものです。

 

 しかし、それもつかの間、一九五五年に「自主憲法制定」構想を打ち出した自民党が結成されました。それに先立つ一九五一年には、憲法第二六条第二項に掲げられた「普通教育」について「普通教育偏重是正」を基本方針とする「政令改正諮問委員会」の答申が出されました。こうして日米両政府の戦略的判断で、日本国憲法も教育基本法も逆流に見舞われることになり、再び「戦争への体制」へと向かう政治構造が構築されていきました。それはさまざまな紆余曲折を伴いながら、今日、憲法「改正」を叫ぶ安倍政権に継続されています。

 

 この『解説』の意義は、こうした政治状況の中で言わば急速に忘れ去られていきました。復刻されてきたという事実そのものが、そういう状況に対する危機感の表れではなかったかと思います。

 

 とはいえ、今日においても、『解説』は「名著」と言われるほどには正確に読まれ理解されてきたとは言えないように思われます。『解説』の意義がしっかり理解されていないということは「四七年基本法」についても同じことが言えるのではないか。あるいは二〇〇六年の教育基本法「改正」(以下「〇六年基本法」とします)によって『解説』も「四七年基本法」もすっかり吹き飛んでしまったのでしょうか。私たちは決してそのようには考えていません。

 

 例えば、憲法第二六条には「教育」という用語とは別に第二項で「普通教育」という用語が用いられていますが、両者はそれぞれどのようなものか、とくに憲法概念としての「普通教育」とはどのような意義を有する概念なのかで、その点で憲法と教育基本法とはどのような関係にあるのか、についてほとんど解明されてこなかったように思われます。『解説』も名著であること自体は疑いないとは思いますが、やはり、憲法や教育基本法を正確に理解する上で不十分があったのではないか。私たちはそのような思いから『解説』についてあらためて検討してみることにしました。結論から言いますと、憲法第二六条の意義を深く理解していけば『解説』の意義があらためて理解されていくのではないか。逆に言えば、『解説』を深く理解することで、憲法・教育基本法もこれまでとは異なった深い理解が得られるのではないかということです。『解説』もまた両者の根本的な関係についての説明はあまり明確ではなかったのではないかと思います。

 

 日本国憲法と「四七年基本法」との関係については、これまで一般に、憲法の基本理念(国民主権原理、基本的人権、平和的生存権など)とされているものが憲法二六条を規定している、憲法の基本理念がすばらしいのは憲法の基本理念がすばらしいからだと解釈されています。しかし、私たちは第二六条第二項に掲げられている「普通教育」という用語自体が教育思想史的にも教育史的意味でも重要な教育理念を内在させており、憲法自体の基本理念はむしろ第二六条を補強する関係になっているのではないかと考えています。この点で『解説』が「普通教育」という用語について積極的に説明していること、当時の文部省が「教育は人間を人間として育てあげることを目的とする」(『新教育指針』一九四六年)と述べていることなどは、文部省がどこまで自覚的に理解していたかはともかく、「普通教育」の基本理念に迫る理解をしていたことを示していると思います。しかしながら、当時の文部省サイドに見られた「普通教育」についてのそのような理解が憲法第26条第2項に掲げられた「普通教育」という概念とは必ずしも明確には結びつけられていないように思われます。「人間を人間として育て上げる」ということは、『解説』がまさに説明しているように、その結果として人間にふさわしい国民を育てることになるのです。人間性を欠いた教育では真の国民は育成されないのです。「国民の育成」をストレートに求める「〇六年基本法」はその点で決定的な間違いをおかしているのです。このことを明確にしておくことは今日の教育問題を根本から解明していく上で極めて重要なことであると言えます。

 

 普通教育を「人間を人間として育て上げる」ととらえることで、この普通教育観は普遍性を得ることができます。教育現場においても家庭においても地域社会においても、その理念に基づいて共同することができます。そこではどういうことが人間らしいと言えるのかが問われるだけなのです。その答は、そのような問題を問い続ける国民の間にこそ存在しているのです。すでに世界人権宣言の教育条項や「子どもの権利条約」が掲げる教育理念についても、「人間を人間として育成すること」を掲げています。

 

 『解説』が発行された時点で、憲法第二六条第二項の「普通教育」概念の憲法制定過程上の意味が必ずしも明確に理解されていなかったことは、関係資料が長い間「非公開」にされてきたことと関係がありそうです。その重要な資料が1995年に公開され、この「普通教育」概念自体が「憲法ノ指導精神」と結びついて導入・確定されたことが明らかとなりました。ですから、私たちはそのような新事実をも含めて「四七年基本法」も『解説』も、あらためて深く解明しなければならないのです。

 

 現実には「〇六年基本法」が立ちはだかっています。「後法優先の原則」が無意識に働いているのでしょうか、「四七年基本法」は事実上「旧法」扱いとされ、国民の教育運動を励ます力になっているとは言えない状況があります。

 

 しかし、「〇六年基本法」は「四七年基本法」との関連で「後法」と言えるのでしょうか。「憲法の精神に則って」制定された「四七年基本法」は、性格上、「〇六年基本法」よりも「上位法」であると言えるのではないでしょうか。その意味において、日本国憲法のもとで「四七年基本法」は依然として今日私たち国民の依拠すべき法律と見なすことができるのではないでしょうか。

 

 百歩譲って「後法優先の原則」が働くとしても、私は「四七年基本法」を法律としてではなく、少なくとも憲法と一体となった教育理念を示す歴史的文書としてみることは今日なお有効であり、かつその理念は国民の中にしっかりと生き続けていると考えています。

 

 『解説』は、「名著」という評価もあって、批判的に検討することを躊躇する面があったのではないかと思います。本書では批判は批判として指摘することで、かえって『解説』の意義を再評価することになるのではないかと思います。読者の忌憚のないご感想・ご意見をお聞かせいただければ幸いです。

 

 

 

  二

 

 

 

 今回の復刻版発行は、『解説』の意義だけではなく問題点についても明確に指摘しすることで、本書が今日私たちが進めていくべき教育運動を教育法制面から考える力強い指針となるように構想しました。『解説』は「本法制定の由来」「本法の性格及び概観」および「本法の内容」の三章構成となっています。最初の二章は読者のみなさまに読んでいただくことにし、本書では第三章「本法の内容」を中心に検討していきたいと思います。前二章の要点はその中で触れることにします。

 

 第一部は『解説』を、単なる学術的な解説とせず、『解説』に即しつつ、「普通教育」の見地にたって、「四七年基本法」の各条項を実践的に解明することを意図しました。また、『解説』以来半世紀以上経過していますから、『解説』に関わる範囲でその後事態はどのように進展してきたかについても言及しました。また、「〇六年基本法」によって新たに導入された諸条項についても補論三で簡潔に検討しています。第二部は『解説』そのものの全文復刻です。

 

 なお、『解説』などからの引用にあたっては原則として現代仮名遣いに改めています。

 

 本書の発行にあたっては地歴社の塚原義暁氏からのお申し出が契機となっています。出版に至るまでいつものことながら多大なご協力を得ることができました。あらためて感謝申し上げます。

 

 

 

  二〇一四年十二月

 

                         武田晃二

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

第一部 『教育基本法の解説』による「四七年基本法」解釈の検討

 

 

 

 第一節 前文(教育の目的)について

 

 

 

 「四七年基本法」にはご存知のように前文が付されています。『解説』はこの「前文」について、「四七年教育法」の「基調をなしている主義と理想とを宣言するために」付されたものであることを強調しています。

 

 前文は、日本国憲法を確定したことを最初に掲げ、その「理想」の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」と述べています。つぎに、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と述べるとともに、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示する」と結んでいます。 

 

 「〇六年基本法」は、日本国憲法が示す理想についてはまったく言及していません。「真理と平和を希求する人間の育成」については「平和」という言葉を削除した上で「公共の精神を尊」ぶ「人間」を育成する、と改めています。また、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化をめざす教育」という文言は「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」に改められました。

 

 これだけでも「〇六年基本法」は憲法の基本理念と対極にあることがわかりますが、「〇六年基本法」は「前文」の最後に「日本国憲法の精神に則り」と書かれています。どう見ても矛盾する教育理念が日本国憲法に同居させられているという奇妙な教育基本法のもとに現在の日本がおかれているわけですが、この一文を大いに活用することで、「〇六年基本法」を日本国憲法(とくに第二六条)の見地からも大いに検討する必要があると言えます。 

 

 さて、『解説』では「前文」の「民主的で文化的な国家」という文言について、「真、善、美の文化価値の実現をめざす国家」などと憲法の理念とは異なるような説明もしばしば出てきますが、その辺りの解釈については賢明な読者にお任せすることにします。

 

 『解説』は「個人の尊厳を重んじ」について、憲法十三条および二四条を紹介しながら、「従来の国家は、極言すれば国家あって個人を知らなかった」と述べ、「人間は人間たるの資格において『品位』を備えているのであって、その品位が「個人の尊厳なのである」と述べています。

 

 さらに重要なことは、「人間の育成」という文言について、『解説』は「ここに人間と特にいったのは、過去においては国民ということが人間より先にいわれたが、よき国民たるには、まずよき人間でなければならず、よき人間はそのままよき国民となるとの信念に基づくものである」と述べていることです。「四七年基本法」前文について、このような解説がしばしば登場していることが『解説』の真価であるように思います。『解説』の筆者はここで「信念」と述べていますが、内容的には教育学の根本原理に他なりません。問題は「よき人間」とはどのようなものか、なぜそれに着目せざるを得なかったのか、それはどのように育成されるものであるのかが解明されることです。それについて私たちはすでに十八世紀フランスの思想家ルソーが『エミール』において解明したこと、そしてこれを基礎として、この間、「人間の育成」についての学術的探求が歴史的に進展してきたことを知っています。「47年基本法」はこのような歴史的遺産の上に策定されたものであることを確認しておきたいと思います。

 

 つぎに「普遍的にしてしかも個性的文化の創造をめざす教育」について、『解説』は「ある民族が国民的特性を得ようと努力することではなく、自らを忘れて普遍的妥当性を有する課題に自らをささげるとき、はじめて個性ある国民となることができるのである」と述べています。多少、注釈を要するかもしれませんが、ここで私はあえて新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」という作品を想起したいと思います。私だけがどうしてこんなにたくさん苦しみを背負わなければならないのだろうと悲しんでいるでんでんむしは、そこでそのわけを知りたくて仲間を尋ね歩くうちに、苦しいのは私だけではないのだ、誰でもが苦しみを背負っているのだ、ということに気づくと言う話です。個人的な疑問や知的関心を自分だけ閉じ込めないで、多くの人々と対話し、交流していく中で、私たちは誰しもが分からないことに直面しているのだ、誰しもが悩み苦しんでいるんだと言う普遍性に接近していく。この繰り返しを通して、子どもたちは人間というものを理解し、人間関係、社会関係の基本さらにはそれらと自分との関係や生き方、主体性などの理解を深めていくことができるのです。国民とか日本人についての理解や意識もその過程で個性的に形成されていきます。現実にはこの過程にはさまざまな日常生活の中で生起する諸力が作用します。複雑な個性的な過程を通して、子どもたちは徐々に国民あるいは日本人という意識や自覚が形成されていくのです。これら一連の過程で求められているのが、教育であり普通教育なのです。問題は学校教育とりわけ教育課程において、どのような普通教育が営まれるかが問われることになります。この点で、今日、「まなびあい」という言葉のもとに、まだまだ部分的とはいえ、すぐれた教育実践が試みられているのは心強い限りです。

 

第一条(教育の目的) 教育は人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 

 

 

 第一条(教育の目的)について

 

 

 

(1)教育の理念や目的は、教育基本法に先立って、憲法第二六条に掲げられている「教育」および「普通教育」という概念自体が示しています。このことはあまり知られていません。『解説』でも述べられていません。しかし、憲法が示す「教育」および「普通教育」の理念・目的も明確に示すことはきわめて重要であると思います。しかし、第一章では『解説』が示す「教育の目的」について述べることとし、憲法が掲げる「教育」「普通教育」の理念・目的については第4条のところで述べることとします。なお、日本国憲法の「普通教育」概念の性格については拙著『普通教育とは何か―憲法にもとづく教育を考える』(共著、地歴社、二〇〇八年)で述べています。

 

(2)第一条の「教育の目的」は学校のみならず、学校外の教育、社会教育さらには生涯教育なども含め、「あらゆる機会あらゆる場所で実現されなければならない」(第二条)とも述べています。その場合、実現されなければならないのはあくまでも教育基本法が示す「教育」であって、教育であればどんなものでもいいというものではありません。

 

○まず、「人格の完成」ということですが、『解説』によれば「人格」とは「自己意識の統一性又は自己決定性をもって統一された人間の諸特性、諸能力」であり、「完成をめざす」とは「その内容の全方向に発展せしめ、個人をそれぞれの能力に応じて、なるべく完全ならしめること」とされています。これはいささか難解な説明ではありますが、『解説』では力をこめて説明しているところでもあります。『解説』はこの説明を簡潔に「個性の伸長、完成」とも言い換えています。そしてこの「完成」は「普遍的な基準」によって「調和的に」もたらされなければならない、とも述べ、「一様に発展させる」とか「万人を同様に教育することではない」と釘をさしています。この「普遍的な基準」については、『解説』の筆者特有の理解もあると思いますが、私たちは主観的な個人的な見解に依拠するのではなく、私たち自身が、より客観的に、人間性に内在する性向に着目して探求していくべきもの、と思います。

 

 子どもたちは成長の中でさまざまな特性や能力を表出させます。これらの特性や個性は、教師や仲間関係の中でさまざまに受けとめられます。感心したり肯定的に受けとめられた場合、また自らも納得できた場合、それらをよりのばしたいという意欲が生まれて来るでしょう。つまり、そこに「普遍的な基準」が意識的無意識的に働いているのです。そうではない場合は、自らの特性や個性は複雑に展開することになります。ともかく個性や特性は一人の個人のなかで個性的に統一されて内在していると言えます。教育は個人に統一的に存在している諸特性、諸能力を、時間をかけて受けとめ解明し、その個人の人間的成長に資する方向で援助・指導していくのです。

 

 『解説』はさらに踏み込んで「人格の完成」とは「科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成」であり、「個人の尊厳と価値との認識に基づくものである」とも述べています。

 

 また、『解説』は「人格の完成」は「個人のために個人を完成するというにとどまるものではなく、かかる人間が同時に国家および社会を形成するよい人間となるように教育を行われなければならない」とも述べています。それぞれ重要な解説と言えます。

 

○『解説』は「平和的な国家および社会の形成者」について、憲法前文にも言及しながら「この平和は単に国際社会にのみ限られるべきではなく、国内のあらゆる社会において実現されなければならない」と述べています。

 

 しかしながら、平和はどうすれば実現できるのか、教育は平和とどのように関係するのかについての解説はかならずしも十分ではありません。 

 

 一般に「平和」とは「戦争のない状態」とも言えますが、厳密に考えれば「戦争のない状態」というものは相対的にしか存在しないとも言えます。条約や法律や約束や個々人の精神的状態のなかに存在するものと言えます。誤解や対立、もめごとやケンカ、衝突や暴力など広い意味で、戦争は人間社会に不可避的に存在しているものです。「誤解」を例に考えてみます。それはいつどこでどのように生まれたのか、どういう性質の誤解なのか、原因は自分なのか相手なのかそれ以外なのか、どうすれば解決できるのか、自らに誤解を解決しよう、解決したい、解決しなければならない、という思いや勇気があるのかどうか、ないとすればそれはなぜなのか、ということについて、教育の場でさまざまな機会に経験していくことが重要です。解決した場合は、こころからそれを認め合う、褒め合うという仲間関係、教育関係が重要です。このような経験が乏しい状況では「誤解」は固定化されより複雑に絡まり合い、解決不能な状況になります。誤解が誤解を生むと言う状況になってしまいます。このような問題を適切に解決していくことは普通教育の重要な内容となるもので、問題が生じたら担当の先生や学校と言う組織が対症療法的に解決すればいいというものでは決してありません。このような普通教育を通して、子どもたちは「戦争状態」を真に平和的に解決することができるのです。戦争の悲惨さなどを見聞したり、どんなに疑似体験したとしても、どんなに図解きしても、それ自体は重要であるとしても、「戦争」状況を解決し平和を実現しようとする自主的能力は育成されるものではありません。

 

○『解説』は「四七年基本法」第一条にならって、「平和的な国家および社会の形成者」として要求される「資格」について述べ、また「真理と正義を愛すること」について解説しています。

 

 これらのことについても「平和」について述べたことが関係しています。『解説』は、真理について、科学的、道徳的、芸術的などに言及し、「正義」については等分的、配分的などについて触れていますが、それらが教育とどのように関係するのでしょうか。

 

 真理、正義それぞれについて述べたいところですが、ここでは「真理」についてのみ触れておきたいと思います。

 

 子どもたちは日常生活の中で「真理」というものにどのようにつきあたっているのでしょうか。年齢によってもさまざまでしょうが、例えば、仲間の悪口を言えば、自分はすっきりしたり後悔したりします。相手は怒ったり不快になったりします。悪口を言われて喜ぶ仲間は見かけることはないでしょう。どういう状態が不快で、どういう状態が快であるか、それは経験的にしか把握できませんが、しかし、そこにも「真理」の一側面があります。あるいは水たまりで泥遊びしながらこうすれば水は流れる、こうすれば水はせき止められる、などさまざまな動きを通して水が流れるということについての真理を発見しています。そのような規則性がさまざまに応用されて機械技術が生み出されていくことも子どもたちは蓄積していきます。ここにも「真理」に関わる経験をしているのです。このようなことをベースに教育活動を通して、人々が実に多くの「真理」を発見しながら、人間社会を豊かに、かつ平和な社会を築きあげてきているのだということ知ることになります。そのことに誇りや歴史への関心を膨らましていくことでしょう。出来合いの知識や「実験」をふりかざして子どもたちに科学への興味を持たせようとする試みが社会や教育に蔓延していますが、そんなことで真理に接近できるものではありません。しかし、真に充実した普通教育のもとでは「真理」へ近づく機会は無数に存在していると言えます。「真理」や「正義」については他にも無数の事例が挙がるでしょう。大いに考えてみていただきたいと思います。

 

○『解説』は「個人の価値を尊ぶ」ことについて、憲法前文の「個人の尊厳を重んずる」と対比させて、解説しています。

 

 「すべての人が人間として一様に有する尊さ」としての「個人の尊厳」ではなく、『解説』は、それぞれの個人の資質のもつ測り知れない発展能力、個人の生み出す業績、それらを互いに尊び合うところに個人の発展があり、社会の発展が可能となる、と述べています。このこと自体はきわめて重要なことですが、「測り知れない発展能力」、「業績」をいきなり提示されても、子どもたちは一時的な感動を覚えても、おそらく持続する興味・関心をしめさないでしょう。

 

 普段つき合っている口数の少ない目立たない仲間やいじめに関わっている仲間との関わりを通して、ときにはあいつは誰もが考えないようなことを考えている、すごい音感や美感をもっているということに気づくことがあります。仲間の中にあるいは自分の中にそのような資質を見出したとき、そのような資質を認め、その表出を促したり、周りの人に理解してもらうことことを通して、誰でもがそれぞれ異なりながらすばらしさをもっていることに気づくのはそれほど難しいことではありません。問題はそのような関係に社会や教育現場が鈍感なだけなのです。「この個人の価値を軽視する形式的画一的教育の弊は、断然改められなくてはならない」と『解説』が強調しているのは、今日の教育がまさにその「弊」があまりにも深刻になっているだけに重要なことと言えます。

 

○「勤労を重んずる」ことについて『解説』は憲法第二七条と関連づけながら、社会の維持存続と勤労との関係を述べたのち、「みずから進んで働く精神に充ちた人間を育成しなければならない」と述べています。このことは現代日本にとっても重要な社会問題にもなっていますが、教育においてどのような課題があるかについては検討が必要のように思います。いろいろな議論や実践がおこなわれている問題ですが、ここでは敢えて簡略に、筆者が考えていることについて述べてみたいと思います。

 

 子どもたちは日常生活の中で、人々がさまざまに働く姿を見聞し、「働く」ことについて、きたないとか辛そうだなど複雑で否定的な観念を抱いています。ですから、教室の中では、親や身近な人々の仕事を、あらかじめ自分たちで調べておきながら、相互に紹介しあい、どうしてそのような仕事があるのか、人々はどのような思いで仕事をしているのか、仕事はどのようにして行われているのか、などについて、教師を交えながら、お互いに学び合うようにします。その中で、辛く目立たない仕事も社会になくてはならない仕事があること、人々はそれぞれの生活のなかで自分に合った仕事を見つけようとしていること、つらさとともに喜びを感じながら仕事をしていること、それぞれの仕事を通して社会に役立とうとしていること、どのような教科も「働く」ことと関連している、などということを学ぶことができます。青年期になるにつれて「働く」ことの意義や自分との関係を見出していくことができるようになります。このことは特別な「勤労教育、労作教育、職業教育」でなくても、日常の普通教育活動のなかでこそ行われなくてはなりません。

 

○「責任」についても『解説』は憲法第一二条と関連づけて、「基本的人権を守るために、国民が責任をもってこれにあたらなければならない」と述べていますが、教育を通してどうすれば責任を果たすことができるようになれるのかが解明されなければなりません。

 

 自分が行った行為について、他の仲間たちがどのように感じるのかはなかなか確認が難しいところです。しかし、教室の中では、さまざまな事例をとおして、人々が行った行為が他者に及ぼす影響について学び合うことはできます。この学習活動を通して、自分が果たせる責任とその内容・大きさ、仲間が負うべき責任、学校や社会が負うべき責任などについて、学ぶことができます。このような継続する知的訓練を通して、基本的人権を果たすためにとるべきさまざまな責任について判断し、行動することができるようになります。そのような訓練が不十分な教育のもとで、責任だけが子どもに負わされるというのは不条理なことと言わざるを得ません。

 

○第一条の最後に「自主的精神に充ちた」について考えてみたいと思います。

 

 「自主的精神」について『解説』は「すべての物事にあたってみずから主となって能動的に行動する精神」であり、「民主主義社会を発展させるもの」であり、「現下の日本において特に必要とされる」と述べています。

 

 子どもたちの行為は、初期の発達段階においては自己中心的と特徴づけられています。だからといって教育において「みずから主となって」といくら叫んでもそのようになるわけではありません。子どもたちはお互いに自己中心的に行動しながら他者の存在を意識し、徐々に周囲のことを考えながら行動することができるようになります。この過程で仲間に依存したり周囲に埋没するような行動も生まれてきます。消極的な行動をとるような場合もあります。クラスと家庭の中では異なる場合もあります。その子どもがどのようなことに興味や関心を持ち、それをどのように実現しようとするかはまさにさまざまですが、相手のことを考えながら、みずからの欲求を実現しようとするにはどのようにすればよいのかは、まさに子どもたちの学習活動のなかで育まれます。このような学習活動を教育課程の中で組織していくことが普通教育と言えるのではないでしょうか。

 

 「〇六年基本法」も「四七年基本法」も、教育の目的は述語としては「国民の育成」とされていますが、しかし、すでに前文でも述べたように「四七年基本法」の場合は「人間の育成」が前提とされていることが決定的に異なるところです。

 

 

 

 第二条(教育の方針)について

 

第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

 

 

 

  この「方針」という言葉について、『解説』は「筋道、心構」とも言えるもので、技術的に解釈されやすい「方法」とは異なるものであること、また教育者のためのものであるにとどまらず、一般国民の心構えである」と述べています。これらはいずれも重要なことと言えます。

 

 「あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」について『解説』は、教育は学校のみではなく「社会のあらゆる場所において」ということを強調しています。そのために第七条(社会教育)条項が設けられたと述べています。具体的には、新聞、出版、放送、演劇、その他の文化施設」における教育が挙げられていますが、重要なことは『解説』も述べているように、「社会のあらゆる場所において」行われる教育が「四七年基本法」第一条に示す「教育の目的」のもとに実現されなければならないのです。

 

 この間、社会教育や生涯学習が盛んに行われるようになってきましたが、関連施設でどれほど「教育の目的」が追求されて来たかはいささか疑問です。とりわけ、「〇六年基本法」のもとで、もっぱら「国民の育成」のみが強調され、伝統文化、日本文化や政治的色彩の強い「社会教育」等が行われ、子どもたちはその影響下におかれています。「〇六年基本法」になったのだから、ということではなく、「日本国憲法の精神に則った」四七年基本法を前提とすることは今日でも求められるべきであります。

 

○「学問の自由を尊重する」を取り上げます。『解説』は憲法第二三条(学問の自由)にも言及しながら、単に「保障する」ということではなく、とくに教育分野ではさらに立ち入って「学問の自由を尊重する」と定めている、ということに留意しています。「最も広い意味では、すべての人々が本来持っている真理探究の要求が自由になされなければならないということであろう。この意味で学問の自由の尊重は初等教育においても生かされなければならない」という解説は今日においてもきわめて重要なことと言えます。

 

 前にも述べたことですが、真理探究の要求は大人であろうと子どもであろうと共通していることであって、とくに学習活動が旺盛な子ども時代は、大人がある意味で当たり前とおもっていることでも、なぜだろう、どうしてだろうと疑問を感じます。それは普遍的な事実と言えます。

 

 ノーベル平和賞を受賞したマララさんは、お父さんが「川の岸に立って、この水はどこから来てどこに行くんだろう」と思いながら川を眺めていたという話や、コーランに「空がどうして青いのか、どうして海ができたのか、星はどうしてめぐるのか、を学ぶべきだと言っている」という話を紹介しています。(『わたしはマララ』六〇頁、四〇四頁、学研パブリッシング、二〇一三年)このような子どもたちの要求が今日でも子どもたちの内面を満たしています。しかし、現実にはそれらは孤立した日常生活の中で表面化せず、科学的批判的判断として開化していかないのです。

 

 東日本大震災で子どもたちは非日常的な悲劇的な体験を通して、あらゆることを直視せざるを得ない状況に置かれました。生命、自然、家族、仲間、地域、未来などについて、自分たちにとってそれは何なのか、どういう意味があるのか、などを本質に即して学ぶ機会にもなりえたと思います。しかし、現実は「復興教育」の名の下に、相変わらず学習指導要領に基づいて、詰め込みの学習を余儀なくされています。このような状況を変えていくことも「学問の自由を尊重する」ことで可能になって来ると言えます。

 

 『解説』は「学問の自由を尊重する」に関連させて「教授の自由」についても次のように述べています。

 

 「被教育者の年齢によって、教えてよいことと、教えて適当しないことがあるであろう。全く一般的なことであり、一定の発達段階にある学生には教育上極めて適当な問題の取り扱いも、もっと年の若い生徒の場合にあてはめることがすすめられないようなことがあるのである。」と。

 

 今日でも、現実の社会が要請しているさまざまな課題が、教育的配慮が不十分なままに教室のなかで扱われるという現実が広がっています。その最たる者が道徳教育と言えるのではないでしょうか。集団的自衛権などと関連して愛国心教育などが重視され「道徳の教科化」が政府サイドから叫ばれています。

 

 子どもたちは国に対する愛着心をどのように習得しているのでしょうか。子どもたちはみずから居住する地域の人々の生活を見聞しながら徐々に国への愛着心を高めていったり、あるいは戦闘機や戦地に向か自衛隊の姿を見ながら愛国心を育んでいる子どももいます。そこには普通教育の観点から考えるべきさまざまな課題がありそうです。戦闘機はどこに飛んでいくのだろうか、目的地で何をするのだろうか、乗員はどんな訓練をしているのだろうか、いつも楽しそうに生き甲斐を持って働いているのだろうか、仲間や家族はどのように受けとめているのだろうか、自分はどう考えたらいいのだろうか、などもし可能ならば、教育活動の中でも大いに学ぶことができます。そのことを通して、戦闘機を飛ばして国家間の問題の解決することはよいことなのかどうかを高校段階の道徳教育の課題とすることもできるでしょう。そういう一連の経過を簡略にしてひたすら注入の観点から教育を位置づけようとすれば、『解説』が指摘するように「教えて適当しないこと」も起こりえるのです。

 

 政府見解を教科書に記述するという閣僚の言明なども同じことです。『解説』はそういう問題に対して「教育基本法が示す教育の目的」を逸脱しないことを強く求めています。このことは「〇六年基本法」になったからと言って変えていいというものではありません。

 

○「自発的精神を養う」ことについて、『解説』は第一条に用いられている「自主的精神に充ちた」が主として教育の目的に関わるものであり、「自発的精神を養う」とは教育の方法に関わり、「個人の研究的態度を養う」という意味であると述べています。

 

「知識の切り売り教育が、過去においていかに理性の批判力と創造力の形成を妨げてきたであろうか」と述べながら『解説』はアメリカ教育使節団報告書から一部を引用しています。「生徒たちが理性に照らして、かつ可能な結果または実際の結果をもつて解答を吟味しながら、質問を発したり、いろいろな原因を調べたり、その意見を集団の批判に供したりすることができない限りは、発意と独創とは抑えられてしまう。」と。

 

 敗戦直後、つまり戦前の国家主義的教育が崩壊して憲法にもとづく教育に着手しようとしていた時期の文章ならまだ理解できますが、この箇所は、現代日本の教育問題の核心を突いたものとも言えるのではないでしょうか。子どもたちの「発意と独創」が抑えられている教育現場は、今日であれば、誰しもが認めざるを得ないのではないでしょうか。

 

 子どもたちは、発達段階のそれぞれにおいて、なんらかの理性を習得しています。そこには間違っていたり空想的なものも含まれます。それらを仲間との間での率直な交流を通して是正され、より高いレベルに成長していくのです。この延長の結果として、子ども特有の創意や判断力が養われ、社会に出て行って、大いに活動することができるのです。これは子どもの学習活動や授業のもっとも原則的な理解と言えます。

 

 『解説』では、「発意と独創」が抑えられてきた日本の教育制度について、なぜそうなってしまうのかについて、あまり言及していません。戦後、70年近くになっても、「発意と独創」を抑える教育政策、教育課程政策、授業形態などが強固に存続しています。子どもたちがテスト漬け、詰め込み主義、暗記主義、競争原理に追いやられています。なぜこのような状況が改められないのでしょうか。そこには、のちに述べるような日本特有の教育に対する行政主導の締め付けが行き届いているからなのです。近年では「学び合い」とか「協同学習」などの言葉をもちいて従来の「一斉授業方式」に代わる授業方式が一部に取り入れられていますが、このような基本的な原理が、理解はされていても、なかなか実現されていません。

 

○『解説』は「自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」について解説しています。

 

 現在の教育を考えたとき、教師と生徒、あるいは生徒同士の間に「敬愛に充ちた心のつながり」が希薄になっていることが一番問題なのではないでしょうか。『解説』は「敬愛の念の上に、はじめて相互の協力が可能」となり、「教育ということが全うされる」とも述べています。

 

 「心のつながり」がなぜ今日社会問題になるほど希薄になっているのでしょうか。これにはいろいろな見解があるでしょうが、私はやはり政府・文科省が推進している「個性重視の原則」が元凶だと思っています。

 

 一九四六年、文部省が『新教育指針』という教師向けの冊子を発行したとき、「新日本教育の重点」に「個性尊重の教育」を掲げました。これは人間性の上に個性が実現されるというもので、それ自体教育学的原理を踏まえたものと言えます。

 

 ところが一九八五年、中曽根内閣のもとに臨時教育審議会が設置され、その時の改革原理として登場したのが「個性重視の原則」でした。それは個人のみならず、「家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代」において、人間性よりも個性を重視する、というものでした。この改革原理が政府によって今日まで継承され強化されています。結局、家庭や企業や国家の個性はそれぞれのトップが決定するものであり、それぞれの構成員相互もそれぞれ個性的に自己実現を図るというものです。そのことによってそれぞれが活性化すると期待されました。

 

 しかし、そこでは人間的つながりは軽視され、学校でも企業でも「成績」や「結果」のみが重視され、一人一人の個性の内実はどうでもよいこととされています。いじめや低学力はこの政策の言わば必然的結果として生まれ、限りなく増加し陰湿化しているのです。このような「改革原理」は即刻改めなければなりません。

 

 「個性重視」政策のもとで、敬愛の念が育つはずもなく、相互に協力し合うことも期待できず、したがって「教育は全うされない」ことになるのです。この関係を教育者のみならず社会全体がしっかりと自覚し、現時点にふさわしく「個性尊重の原則」を取戻していくことこそ教育の変革と言えるのではないでしょうか。

 

 ではどうすれば「自他の敬愛」が人間関係、教育関係の中で成熟していくのでしょうか。子どもの場合であれば、やはり、仲間との遊びや学習活動のなかでそれぞれの個性を理解し合い、お互いに有している良さに気づき、それらをお互いに大事にし合おうとする関係の中でこそ育まれ、成熟していくのではないでしょうか。これは教師と子ども、教師同士、一般社会の中での人間関係でも根本的には同じことです。『解説』も「相互に教育し、教育され、協力一致してゆくところに偉大な文化の創造と発展がとげられるのである」と強調しています。

 

 「〇六年基本法」にともなって学校教育法も大きく「改正」されました。「教育の方針」に関係するところでは、発達段階が無視され、小学校の教育目標が中学校の教育目標に準じて位置づけられています。例えば、中学校の教育目的・教育目標について、これまでの学校教育法には、「小学校における教育の基礎の上に」とか「小学校における教育の目標をなお充分に達成して」という文言がありましたが、改正学校教育法では「義務教育の目標」がまず掲げられて、中学校は「義務教育として行われる普通教育」を施し、小学校は「そのうち基礎的なもの」を施すとされました。いわゆる「小中一貫校」についても中学校に併せて小学校との関係を一貫させることが意図されています。学校制度の一貫性というのは、普通教育を一貫させるということ以外にはあり得ないのです。

 

 

 

 第三条(教育の機会均等)について

 

第三条(教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

 

 

 

  『解説』は第三条を憲法第十四条第一項および第二六条第一項と関連させながら、「教育の機会均等」とは「すべての児童や青年に平等に教育の機会を与え、さらに教育にあたって被教育者の能力以外の属性によって区別しないということである」と述べています。「能力以外の属性」だけではなく、近年では就職上の差別や教育政策上の差別も挙げておきたいと思います。徹底した競争主義、詰め込み教育のもとで、成績や偏差値を根拠とする学力差あるいはその地域差が近年大きな社会問題になっています。それがために希望する高校、大学に入学できない、就職差別を受けるなどの子どもたちや若者が増えています。こうしたことも念頭におきながら論を進めていきたいと思います。

 

 『解説』は「教育を受ける権利を有する」とした場合、これに対する義務はだれが負うのかという憲法制定議会における議論の経過を紹介しながら、「要するに一つの宣言的規定として、国家がかかる権利の行使を妨げてはならないとともに、その行使を完全ならしめるための政治的義務を負うもの」といささか不明確な説明をしています。この不明確さは憲法第二六条の第一項と第二項との混同から生じているように思います。つまり、普通教育を行う学校と大学や専門学校などの高等教育を行う学校との区別を曖昧にした議論と言えます。

 

 普通教育について、国民・保護者はそれを子どもたちに受けさせる義務を有しており、国はそれを実現する憲法上の責務を負っています。このことについては、憲法第二六条第二項および「四七年基本法」第四条における「無償」規定と関係しますのでそこで改めて検討したいと思います。

 

 一方、高等教育については、国民は「能力に応じて」教育を受ける権利を有しているとされています。例えば、高等教育機関への入学選抜で合格した者はその学校に入学する能力を有する者と認定されたわけですから、そこでの教育を受ける権利を有することになるのです。その場合、『解説』は「(学力試験に合格した)優秀な人間にすべて国費でもって専門教育を受けさせるような方法をひらく必要はない」と説明していますが、合格者は入学する権利を有しただけであって、入学するかどうかは合格者の判断によります。国が入学者にそこでの教育を国費で受けることができるような義務を負っているわけではありません。この第三条は入学後に等しく教育を受ける機会を保障するための具体的措置をとることを国に求めているのです。国は専門教育を受けさせる義務を負っているわけではありません。以上のことは憲法第二六条に伴う明確な権利義務関係であり、「宣言的な規定」と説明する必要はないのです。

 

 本条は、その上で、高等教育・専門教育を受ける権利を有する者に「差別」なく受けさせることを教育基本法上保障しているわけですから、政府は当然その責務を負うことになります。

 

 さて、『解説』は本条第二項の「国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない」という規定について、「単に高等教育を受ける者についてだけではなく、義務教育を受ける者でも、家が貧困で就学困難な者について、その保護者を経済的に援助することも奨学の中に含めるのである」と説明しています。ここでも「高等教育を受ける者」と「義務教育を受ける者」について、憲法があえて区別して規定していることについての無理解があります。

 

 普通教育(義務教育)を受けさせることについて、憲法は明確に国の責務とし、その「無償」を保障しているわけですから、その趣旨を徹底することが求められるわけです。どんなに経済的に苦しくともその子どもが普通教育を受けることができるよう国は全力をあげるべき第一義的責務があるのです。奨学制度があるからというものではないはずです。しかし、現実は、ささやかな奨学制度にとどまっていて、十分な普通教育(義務教育)をすべての子どもたちに保障するまでには至っていません。

 

 「奨学制度」に関して、社会保障の観点から生活保護受給世帯の子どもを対象とした教育扶助制度がありますが、これに連動して、教育上の措置として準生活保護世帯の子どもには就学援助制度があります。その申請基準は自治体毎に設定され、自治体の姿勢によって運用実態はさまざまになっています。これらも憲法上の普通教育無償の見地から抜本的に改革する制度化が求められています。

 

 この間、公立高校の授業料無償化問題が大きな問題となりました。この問題も憲法理念からすれば当然でありむしろ遅きに失したと言えますが、教育基本法上は高校教育の無償化の対象にはされてきませんでした。政治上の施策として位置づけられ、したがって時限的なものにする、所得制限を設ける、朝鮮学校を排除する、私立学校を別だてにする、などきわめて不安定・不徹底な制度を余儀なくされています。これを憲法規定から導かれる法律上の無償化制度にしていくことが切実な課題となっています。

 

 大学生の奨学問題については、長い間、社会問題となってきました。筆者が50年前、大学生時代にも自治会などは奨学金の給与化の要求を掲げておりましたが、今日では、とくに奨学金が利子付きになってから事実上教育ローン化し、貸与を受けた卒業生たちは長い間多額の返済義務に苦しんでいます。

 

 なお、日本が批准している国際人権B規約(社会権規約)第一三条(教育への権利)は、初等教育、中等教育、高等教育別に「無償教育」およびその「漸進的導入」について規定し、その具体化をわが国に対して勧告してきましたが、高等教育について日本は、長い間「留保」していました。しかし、国内での批判に押されて、二〇一二年、この留保を撤回する旨回答しましたが、その具体化はなお実現していません。

 

 なお、「男女平等」は第五条で述べますが、人口の五%程度とされている「性同一性障害」あるいは「性的違和」も「教育の機会均等」問題として社会問題になっています。二〇一四年一一月二日、朝日新聞は「性的少数者」問題を取り上げた記事の中で、二一歳の青年が「性同一性障害」のためにいじめや学校に行けないなどに苦しみ、薬を過剰摂取して亡くなった事例を取り上げています。同居していた准看護師は「手術しても『ふつうの男』になれないと絶望していたのかもしれません」と語り、その若者は「ふつうを求めてなにがいけない」というノートを書き留めていたとのことです。

 

 「〇六年基本法」は「教育の機会均等」条項(第四条)にあらたに「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない」という文言を追加しています。これ自体は前進と言えますが、この場合も、「〇六年基本法」の理念・目的が重要な障害になります。

 

 

 

第四条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。

 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。

 

第四条(義務教育)について

 

 

 

 『解説』はまず憲法第二六条第二項について、それは「勅令で認められていた義務教育の制度を憲法において保障することとした」と述べています。このこと自体は首肯できますが、「義務教育の制度」の戦後転換については勅令から法定主義への転換にとどまるものではありません。『解説』は義務教育制度が「教育機会の均等」および「国家的見地」という二つの要請から行われるようになったことについて述べていますが、何よりも「義務教育」観の戦後転換があったことを明確にしておく必要があります。

 

 憲法制定過程で「教育を受ける義務は、保護者が少女に教育を受けしめる義務というように表現すべきでないか」(憲法問題調査委員会、一九四六年一月二三日、入江俊郎委員の発言)という議論がその転換の契機となったように思います。つまり、子どもに就学の義務があるのではなく、一方で教育を受ける権利を有する国民・保護者が、他方で子どもたちに対しては教育を受けさせる義務を負うこととされたのです。その場合の教育とは、もちろん普通教育のことですから、国民・保護者たちはすべて、子どもたちに普通教育を受けさせる義務を負うことになったのです。ここには子どもはすべて普通教育を受ける権利主体であるという認識が前提とされています。憲法第二六条はそのことを明文化したのです。

 

 その上で、本条は普通教育の義務年限を「九年」に限定し、さらに授業料不徴収を国公立の義務教育に限定したのです。この三重の限定は、不幸にして、今日に至るまで維持されています。しかし、憲法は一八歳未満までの教育を「普通教育」として、つまり普通教育の義務年限を「一二年」とし、それを受けさせることは国民・保護者の義務であるとし、その意味での「義務教育」を「無償」としたのです。憲法自体には「四七年基本法」の三重の限定はなかったことを確認しておきたいと思います。

 

 「四七年基本法」はなぜこのような三重の限定を行ったのでしょうか。その答えは「四七年基本法」の制定過程に求められます。このことについて『解説』は述べていません。

 

 「四七年基本法」制定(一九四七年三月)直前の「教育基本法要綱案」(一九四七年一月)では「一二年の普通教育」とされていましたが、大蔵省側からの圧力があり、「等分の間」という条件付きで「九年」に特定されたのです。なお、「〇六年基本法」は「九年」も削除され、義務年限は学校教育法に委ねられました。

 

 つぎに、憲法第二六条第二項が「義務教育はこれを無償とする」としているのに対し、「四七年基本法」が無償の範囲を「授業料」に限定していることについて、『解説』は「授業料の不徴収だけではなく、教科書、学用品の無償貸与または給与その他学費の国家的負担が理想であるが、現在の段階では、そこまで達することはできない」と述べています。また、「現在の国情に照らして明確にしたものである」としています。ある意味で憲法が示す「理想」をより具体的に示した教育基本法に「国情」論を挟み込むというのも理解できませんが、『解説』執筆者の苦悩の説明だったのかも知れません。

 

 「無償」の範囲については、教育刷新委員会でも文部省審議室長は、就学奨励に要するいろいろの経費、教科書、被服費、給与に要する費用、汽車通学による交通費などを例示して、「そこは無償にできるかどうか。このことはまだちょっと決め切れないところがあるのじゃないか」と述べています。半世紀以上経っても「理想」は却ってますますほど遠い「理想」になっていると言わざるを得ません。

 

 また、『解説』は私立学校を除外するのは憲法第二六条第二項違反ではないかという議論が出されていることを紹介しながら、「国立又は公立の学校で無償の義務教育が受けられるのに、みずから進んで私立の学校へ行くのは、無償で義務教育を受ける権利を放棄したものといいえられるからである」と述べているのは、憲法理念とは相容れないものです。「建学の精神」がどうであれ、普通教育については「無償」原理が貫かれるべきです。なお、『解説』は「すべての父兄が、自己の負担においてその子弟を適当に教育することができれば国家が義務教育の制度を設ける必要はない」と述べていることも、憲法理念とは異なるものです。

 

 現在、憲法理念というよりも地方活性化を根拠として、卒業アルバム、修学旅行費、給食費等を含む無償化を実施している自治体が憲法規定の実現と言うよりも地域活性化の観点から、一部とはいえ、実現していることは注目すべきことと言えます。

 

 さて、『解説』は「義務教育において施されるべき教育は普通教育である」と述べ、普通教育について重要な解説を行っています。その前に確認しておきたいことは、普通教育が「義務教育において施される教育である」という理解も必ずしも正確ではありません。普通教育というのは原理的には理念・目的・課程・制度等の全体を包括する概念で教育内容に限定されるものではないのです。

 

 『解説』は「普通教育」について、人たる者にはだれでも共通に且つ 先天的に備えており、又これある故に人が人たることを得る精神的、肉体的諸機能を十分に、且つ調和的に発達せしめる目的の教育をいうのである。かかる教育は、いかなる身分の者、またいかなる職業につく者にも共通に必要であるから、名づけて普通教育と称するのである」と説明しています。憲法上の概念としての「普通教育」は一般には無内容と理解されている中で、これは大いに積極的な説明であると思います。

 

 『解説』では触れていませんが、この説明は一九三九年に岩波書店が発行した『教育学辞典』の項目「普通教育」での説明を基本的に援用したものです。この『教育学辞典』に依拠していること自体、『解説』の見識を示すものと言えます。そこでは普通教育(一般陶冶)には、コメニウス、ルソー、ペスタロッツィらの「胸一杯に漲る情熱とともに盛り込まれていた」と紹介されています。

 

 『解説』の説明を言い換えると、普通教育とは「人間に内在する精神的、肉体的諸機能を発達させること」と言うことができます。人間の外から持ち込まれた特定の目的に支配される概念ではないのです。

 

 このような普通教育観は戦後の文部省の基本文書にも散見されます。例えば一九四六年に発行された冊子『新教育指針』は「教育は、人間を人間らしく育て上げることを目的とする」という記述にも普通教育の理念が表れています。

 

 『解説』はこのような普通教育観を前提として、「一八歳まで初等教育及び中等教育を義務とすることが最近における義務教育の理想とされている」と述べ、各国およびわが国における義務教育年限延長の経過を紹介しています。『解説』が紹介しているように、戦前において義務教育年限の到達点は「八年」でした。一九三八年、教育審議会は「初等普通教育」を行う国民学校の義務年限を「八年」と答申しました。この年限は戦時ということで結局は実現されませんでしたが、『解説』はこのことを受けて、ではなぜ戦後義務年限が「九年」に延長されたのかについて、アメリカ教育使節団報告書(一九四六年)にも触れながら、国民全体の一般的教養の向上、機会均等の見地、被教育者の心理的・生理的条件、の三点を挙げています。

 

 『解説』は憲法制定過程で政府原案にあった「初等教育」が「普通教育」に「修正」されたことを取り上げ、その理由について、「初等教育」に「中等学校の教育」を含める必要が出てきたために、「初等教育」に代わって「普通教育」という語句が選択されたと「想像」しています。なぜ『解説』執筆者があえて「想像」と表現しているのかについては理由がありそうです。それは憲法制定ににおいて「初等教育」が「普通教育」に「修正」された事情を知る速記録が当時秘密扱いにされてきたという事情がありそうです。その速記録が一九九五年になってようやく公開されることになったのです。このような重要文書が五〇年以上も非公開にされてきたことはきわめて問題です。

 

 さて、経過とはつぎのようなことです。

 

 最初に、一九四六年三月二日の憲法改正政府案第二三条第二項は「凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ保護スルニ児童ヲシテ普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ。其ノ教育ハ無償トス」となっていたことを紹介しておきます。「其ノ教育ハ無償トス」という場合の「其ノ」とは「普通教育」のことですから、当初は「普通教育」が「無償」とされていたのです。

 

 この「普通教育」はその直後の三月六日の憲法改正草案要綱では「初等教育」と変更されていました。衆議院で、政府原案の「初等教育」は適切でないということが確認され、ではどのような言葉を用いるべきかをめぐって議論され、「義務教育」にするか、それでは「語呂が悪い」、では「教育」ではどうか、「それではどういう教育かが明示できない」、「では国民教育ではどうか」などのやり取りが交わされました。結局、憲法改正委員会に「小委員会」が組織され、そこで議論されることになったのです。「小委員会」では種々議論があって、八月一日の第7回委員会で、佐藤達夫政府委員が「唯『教育』トヤッタラドウカト云フ御話ハ此ノ間カラ縷々承ハリマシタケレドモ、ソレデハドウモ『憲法ノ指導精神』ガダセヌモノデスカラ―狙ヒ所トシテハ、ヤハリ何カ多少手掛リニナルモノガ欲シイ」と回答したのを受けて、結局、芦田委員長が「デハ『普通教育』ト云フコトデ」ということで、それが最終文言となったのです(「衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録」、衆栄会、一九九五年、二〇五ページ)。

 

 佐藤達夫氏の判断には、戦前、高等学校も国民学校もともに「教育目的」に「高等普通教育」「初等普通教育」というように「普通教育」という語句を含んでいたことが根拠となっていたと考えられますが、同時に「普通教育」を「憲法ノ指導精神」と結びつけて答弁したことがきわめて重要なことと言えます。

 

 政府・文部省には当時、「普通教育」という語句自体が、近代民主主義思想を反映した概念であること、明治前期、政府部内や自由民権運動あるいは教育法令においてもっぱら「普通教育」という語句が用いられていたこと、戦前の学校とくに高等学校において教育の目的に「普通教育」という語句が一貫して用いられてきたこと、憲法制定過程で、GHQが提出した憲法案に「無償の普通義務教育」という語句が用いられていたことなどがともかくも観念されていたと思われます。

 

 佐藤達夫氏がなぜ「憲法ノ指導精神ヲ出ス」ことにこだわったのかは定かではありませんが、憲法改正の政府側のもっとも中心人物であったことから当然の判断だったとも言えます。しかし、あえて指摘しておきたいことは、佐藤氏自身、憲法の基本理念を「普通教育」に外から結びつけたというよりも、一九三九年発行の『教育学辞典』が示しているように、「普通教育」という語句自体に「憲法ノ指導精神」が内在していたことを嗅ぎ取っていたのではないかと思われます。

 

 

 

 「〇六年基本法」は、第五条(義務教育)を次のように改めています。

 

 「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う

 

  二 義務教育としておこなわれる普通教育は、各個人の能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする

 

  三 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う

 

  四 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。」

 

 

 

 「義務教育としておこなわれる普通教育」という語句が用いられていることに着目していただきたいと思います。「四七年基本法」も第四条は「義務教育」とされていましたが、その意味するところは大きく異なります。「四七年基本法」の場合は、普通教育があってその義務年限下にある教育を「義務教育」と称していました。しかし、「〇六年基本法」は義務教育の下位概念として普通教育を位置づけるというものです。しかも「義務教育として行われる普通教育」の目標は、もはや「人間の育成」ではなく、「国家及び社会の形成者」の育成とされています。さらに言えば「義務教育」の無償範囲は、依然として「授業料」に限定されていることは驚きと言わざるを得ません。

 

第五条(男女共学) 男女は、互いに敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。

 

 

 

第五条(男女共学)について

 

 

 

 『解説』は憲法第一四条第一項および第二四条第二項あるいは教育基本法第3条と結びつけながら、単なる男女平等にとどまらず、「男女が相互に敬重、協力し合わなければならないのであり、そのためには教育上男女共学の真価を認め、いかなる学校においても男女共学が認められるべく、国はこれを妨げてはならないと規定した」と述べています。また「男女共学とは、同一の学校に男女差別なく収容するというにとどまらないで、男女に共通な普通学科については、同一教室において教育することを原則とする」とも解説しています。

 

 『解説』はモンロー教育学辞典に依拠しながら、この条項がいかに重要であるかを強調しています。

 

 しかし、この間、普通教育における「男女共学」は制度的にはともかく、その実質においては極めて深刻な状況におかれています。今日、一九七九年の女性差別撤廃条約を契機に、とくに女子のみの家庭科必修問題が問題とされてきましたが、現代の日本において、若い女性が「主婦になって家事をし、子どもを産んで育てることが女性の生まれ持った才能だ」と諦観せざるを得ない現実を直視しなければなりません。

 

 二〇一四年一〇月、世界経済フォーラムは世界一四二カ国の男女平等ランキングを発表しました(朝日新聞二〇一四年一〇月二八日付)が、それによれば日本は一〇四位、教育分野では九三位にとどまっているとのことです。まさに男女平等後進国と言わざるを得ません。憲法や「四七年基本法」の男女平等規定が現実の政治でいかに蹂躙されているか、怒りを覚えます。学校教育・社会教育その他企業・役所その他社会全体において「男女がおのおの他の人格を尊重し、価値を認め、理解し合う」環境を多面的に実現する課題は依然として重要で切実な課題となっていると言えます。

 

 

 

第六条(学校教育) 法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

 

第六条(学校教育)について

 

 

 

 『解説』はこの条文について、主として「公の性質」と「全体の奉仕者」の二つについて解説しています。

 

 「公の性質」について、『解説』は、広くは「国家公共の福利のためにつくす」、すなわち「私の利益は仕えてはならない」という意味であり、狭くは「学校の事業の主体はもともと公のものであり、国家が学校教育の主体である」という意味であると解説しています。

 

 しかし、いずれにしても、「公の性質」はなによりも憲法理念、つまり国民主権原理にたって理解されなければなりません。このことは「〇六年基本法」のもとでも同じことです。

 

 「法律に定める」という場合の「法律」とは学校教育法のことですが、学校教育法はこれまで毎年のように「改正」されており、政治的な影響を強く受けています。教育や学校はとりわけ政治から独立したものでなければならないわけですから、学校教育法の諸規定もたえず国民主権原理に立って解釈することが求められます。

 

 さて、『解説』は、私立学校もまた「公の性質」を有するとしていますが、それは『解説』が言うような「私立学校が国の教育事業の一部となっている」からというよりも、そこで子どもたちが普通教育等を受けているという見地から把握する必要があると思います。

 

 『解説』は私立学校について、それが「公の性質」を有するがゆえに、私立学校の設置・廃止・設置者の変更等について監督庁の監督が必要であることなどを説明しています。

 

 さらに『解説』は「公の支配」に属しない事業への公金支出を禁じている憲法第八九条が、私立学校にも適用されるのかどうかについて述べ、私立学校はそのような事業と異なり「公の性質」を有するのだから、「公の財政的補助を受けることができる」と解説しています。

 

 また、『解説』は「法律に定める学校でない学校」、つまり学校教育法に定める「各種学校」についても、学校法人が設置する学校である限り、私立学校と同様の解説をしています。

 

 つぎに『解説』は、教員について、それが「全体の奉仕者」であることの意味を、憲法第一五条第二項および教育基本法第一〇条と関連させて解説し、「国公私立の学校の教員全般についていえば公務員的性格をもつものということができる」と結論づけています。

 

 「自己の職責を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」ということについて、『解説』は、教員は一般公務員と同じような「全体の奉仕者」にとどまらず「教育者としての特殊の使命」すなわち教育基本法に定める教育の目的や方針に従うということであり、「それから必然的に教育者としての愛の精神もおのずからわき出てくるのである」と述べています。

 

 「教員の身分は尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」について、『解説』は「政府並びに国民全体の努むべきこと」であり、「物質上の有形的な問題のみでなく、また精神上の問題であることに注意しなければならない」とし、教育刷新委員会が、教員には大学から小学校に至るまですべて同じ教員としての身分を定め、その間に差等を設けないとする趣旨を決議しているのも、「精神上の教員の身分尊重を図ろうとしているのである」と強調しています。

 

 教職員の身分、待遇上の問題については、今日まさに過酷ともいうべき状況が広がっています。日本国憲法の精神に則り制定された教育基本法がいかに豊かな教育環境、教職員組織を描いていたかはこの『解説』に示されている通りです。「改正」されたからといって消極的構えに陥ることなく、まさに現在、日本国憲法および「47年基本法」に立ち返り、そこから現状を打破するエネルギーを汲み取ることが今日まさに求められていると言えます。

 

 これに対し「〇六年基本法」は「四七年基本法」第二項を大きく改変し、「学校においては、教育の目標が達成されるよう教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない」としています。

 

 まさに学校観の根本的な変更を迫っているのです。「教育の目標」とは「人間の育成」ではなく「国民の育成」であり、学校は政府主導の教育を体系的組織的に行う機関とされ、その上で子ども達はひたすら「規律を重ん」じ、与えられた学習に「自ら進んで意欲」を発揮することを、法律上求められるのです。これに怠惰であるとか失敗すれば教育委員会、学校、教員だけではなく、子ども達も法律違反を問われることになるのです。

 

第七条(社会教育) 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。

 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。

 

 

 

第七条(社会教育)について

 

 

 

 『解説』は、戦前の日本における社会教育のあり方について「世界文明諸外国のそれには遠く及ばなかった」「ほとんど見るべきものはなかった」と総括しながら、憲法第二四条と関連させて、個人の尊厳、両性の平等にもとづく新たな家族関係などを実現するうえで、また「四七年基本法」が示す教育の目的や方針を実現させるために「社会教育」が重要であること、国及び地方公共団体が積極的に奨励の方法を講じること、などについて解説しています。この場合、「社会教育」を享受するのは、あくまでも教育を受ける権利を有する主権者たる国民であることに留意されなければなりません。

 

 この間、図書館、博物館、美術館あるいは種々のメディア等において、社会教育は広く発展してきたと言えますが、学校教育と同様、教育に対する国家統制の強化とともに、社会教育もその影響を強く受けてきた面があります。

 

 「〇六年基本法」第七条は冒頭「個人の要望や社会の要請にこたえ」という語句で始まっています。「要請」に応じて社会教育を行うということは「要請」がなければ社会教育を実施しない、あるいは「要請」があればどんなものでも「こたえる」ということにもなりかねません。「〇六年基本法」の「教育の目的」は「国民の育成」ですから、その見地から行政主導の社会教育が社会を覆っていくことが意図されることになりかねません。憲法の基本理念を実現する見地に立って社会教育は具体化されていかなければなりません。

 

 

 

第八条(政治教育)について

 

第八条(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

 

 

 『解説』は、真の民主主義の実現のためには「国民の政治的教養と政治道徳の向上」がぜひとも必要であるという見地から、戦前の政治教育のあり方を反省しつつ、アメリカ教育使節団報告書を参照しながら、本条の意義を解説しています。

 

 第一項にいう「公民」について、それは「国民」が「社会団体の一員としてのいわば公の立場とそれ以外の私の立場とが含まれる」のに対して、「社会団体の一員として、積極的に社会を形成して行く場合の国民」あるいは「政治上の能動的地位における国民」と説明しています。『解説』は触れていませんが、主権者たる国民と同義であると言うことができます。

 

 その上で、『解説』は「良識ある公民たるに必要な政治的教養」として、①「民主政治、政党、憲法、地方自治等、現代民主政治上の各種の制度についての知識」、②「現実の政治の理解力、及びこれに対する公正な批判力」、③「民主国家の公民として必要な政治道徳及び政治的信念」を挙げています。

 

 これらの教養を「教育上尊重する」ことについて、『解説』は、第1に、学校教育においても、社会教育においてもこれに努めなければならない、第2に、教育の行政の面で、このような政治的教養を養うことができるような条件を整えること、と解説しています。

 

 第二項の「学校」について、『解説』は「学校教育活動の主体としての学校自体」ということであって、その学校の教員が学校教育活動中に党派的政治教育をなすことが当然禁止されると見るべきである」と述べています。と同時に『解説』はその拡大解釈を懸念して「学校の内外を問わず、教員が全く個人の立場で、学校教育活動としてではなく、政治上の自由討議をなすときは、たとえそれが一党一派に偏するものであっても許されるべきである」。例えば、教員が校友会等に関係して政治活動をした場合でも、生徒の政治的批判力等の発達段階を考慮しなければならないが、教員の立場は、個人的な色彩が強いので、そこでの政治活動は自由である、と解説しています。

 

 「最も問題となるのは(中略)政党がその上に立っている世界観的なイデオロギーを教授する場合である」として『解説』は、学問的に取り扱われる限り問題はないが、政治的批判力が未発達な段階にある子どもたちに対して教えることは許されない、としています。

 

 最後に『解説』は「学校教育活動の主体」には含まれない「学校の施設が選挙運動等に利用されることを妨げるものではない」としています。

 

 この条文の基本はあくまで「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」というものであって、これを積極的に保障する条件整備を行う責務が政府にあることは今日ますます重要になっています。

 

 「〇六年基本法」はこの条項に関しては変更はしていませんが、「教育の目的および理念」が変わっているわけですから、本条にかんする解釈も変わってくることになります。

 

 

 

第九条(宗教教育)について

 

 

 

第九条(宗教教育) 宗教にかんする寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

 

 

 

 『解説』は憲法第二〇条および第八九条と関連させて、信教の自由、政教分離の原則の重要性を確認しています。また、わが国における宗教と教育との関係史を総括して本条を解説しています。

 

 『解説』は、この条項が、宗教一般を否定するものではなく、なんらかの宗教的信仰が将来の国民の道徳的向上のためにも必要であるから、「この宗教的信仰を培うには、教育上または教育政策上いかにすればよいかは極めて重大かつ困難な問題であり、この問題解決の基準を示そうとするのが本条である」とも解説しています。

 

 この「重大かつ困難な問題」について、余談ですがあえて筆者の考え方を述べてみたいと思います。例えば、仏教にせよキリスト教にせよマホメット教にせよその他の宗教にせよ、それらは森羅万象に内在する自然性や人間性の洞察の上に存在していると考えられます。したがって、人々はなぜ自然性や人間性を追求してきたのか、人々はどうすれば自然性や人間性の理解に到達できるのか、どうすれば日常生活のなかでそれらを感得することができるのか、について理解を深めることは重要な教育的課題と言えます。また、自然性や人間性が普遍的であるが故に、それゆえにこそ、現実には神格性、偶像性、祈祷性、教祖性、絶対性、独占性、至福性、忠誠性、福音性、異端排除性、暴力性、閉鎖性などの属性が、さまざまな集団や個人において、いわば必然的に生み出されてきました。したがって、さまざまな宗教的属性はなぜ生まれ強固になるのか、それらの弊害をどうすれば克服できるのか、についても多面的に理解することは教育上の課題となるものです。これらの教育課題についての理解を促す教育上の条件整備は独自に重要であると思います。しかし、それらは決して宗教教育においてということではなく、普通教育本来の基本的な内容として社会科教育等の課題になると思います。

 

 「〇六年基本法」は第1項に「宗教に関する一般的な教養」という文言を挿入していますが、その運用にあたっては、憲法の基本理念、普通教育の理念等に即して合理的に行われなければなりません。

 

 

 

第一〇条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 

第一〇条(教育行政)について

 

 

 

 『解説』は、わが国の戦前の教育行政が「教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。さらに、地方教育行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきたのである」と総括しています。まるで現在のわが国の教育行政を描いているかのようです。

 

 また、『解説』はアメリカ教育使節団報告書の一節を紹介しています。「日本の学校制度は従来しばしば批判の的になった。全制度を通じていろいろな点で重要な地位は、教育者として職業的訓練を受けたことのない人々が占めていたからである。多くの教育行政関係職員が、内務大臣またはその代表者によって任命され、またそれに対して責任を負うことになったのである」と。このような反省に立って、「新しい教育行政のあり方一般を示す」ためにこの第一〇条が構想された、と述べています。

 

 まず、憲法前文から出発し、教育は他の国家的公務活動と同様、国民主権原理のもとにおかれたことを確認しています。

 

 その上で、第一項の後半「教育は、・・・国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」という部分が設定された理由として『解説』は三つの理由を挙げています。

 

 すなわち、第一に「法律に定める学校の事業がもともと国の事業であるというのも、教育がその根源においては、国民から信託されたものであるからにほかならない。教育者もまた、国民から教育をなすことの委託を受けたものであり、国民の意思から離れて固有の権威をもつものではない」と明確に述べています。第二に、本法第六条からも導かれるが、「教育行政に対する国民の発言権が広く認められなければならない。第三に、教育は国民のために行われなければならないのであって、「国家そのものの発展とかある一部の者の利益のために教育目的が立てられてはならない」と述べています。

 

 これらは『解説』の執筆者(安達健二氏とされています)が全体の叙述から判断してとくに力をこめて強調しているように感じられます。さらに『解説』は第一項の「責任を負って」について、基本法が掲げる教育の目的や方針に反する教育は「排斥されなければならない」とまで述べています。

 

 つぎに、その前半「不当な支配に服することなく」について、政治も教育も国民主権原理に服するものであるという点では同一であるが、両者の間には「重大な相違点が認められなければならない」として、『解説』は次のように述べています。「政治は現実生活ことに経済生活をいかにするかを問題とするのであるが、教育は現在より一歩先の未来に関する」と。また「教育はたとえ民主主義下においても、そのような現実的な力によっては左右されないことが必要なのである」、「教育に侵入してならない現実的な力として、政党のほかに、官僚、財閥、組合等の、国民全体でない、一部の勢力が考えられる」、「教育はこれらの現実的な勢力の侵入に対してしっかりとした態度をとり、自主的に行われなければならないのである」と。

 

 このような相違点の指摘には現時点では異論があるかもしれません。政治自体も現実の政治とは区別されて政治法則に則った未来にかんする事業と言えるのではないか。逆に教育と言えども、現実の教育に対しては必然的にさまざまな現実的諸力が関心をもつ事業であり調整せざるを得ない事業と言えるのではないか、と。さらに教育は一面では未来に関する事業であるが、同時に子どもの諸能力の発達法則に即した科学的事業であるから、だからこそ不当な支配に服してはならないのではないか、と。しかし、これらの議論も、「不当な支配に服することなく」をより強固にする議論であると言えます。

 

 また、「直接に」という文言について、『解説』は「国民の意思と教育とが直結して」いて、その間に「いかなる意思も介入してはならないということである」と明快に述べています。その上で『解説』は「現実的な一般政治上の意思とは別に国民の意思が表明され、それが教育の上に反映するような組織が立てられる必要がある」と述べ、具体的にはアメリカの教育委員会制度を採用する価値があるとしています。

 

 この場合、「一般政治上の意思とは別に国民の意思を表明する」とは具体的にはどうするかが問題となります。「別に」とは「独立して」ということだと思いますが、憲法の教育理念や「四七年基本法」が示す教育の目的や方針を前提としても、より具体的で全般的な教育課題について審議し具体化できる権限を持った、政治から独立した制度を創造しなければ、たとえアメリカ式の教育委員会制度によったとしても国民の総意を表明することは難しいといわざるを得ません。

 

 『解説』は第二項が「教育行政の任務とその限界」を定めたものであり、「教育行政機構の根本的刷新が行われなければならない」と述べています。具体的には、アメリカ教育使節団報告書に依拠して、教育刷新委員会総会がまとめた「教育行政に関すること」という決議(一九四六年一二月二七日)を紹介するにとどまっています。

 

 その「決議」は、教育委員会、地方教育委員会および地方教育研究所、中央教育委員会をそれぞれ以下のように提案しています。

 

 教育委員会

 

 イ 教育行政はなるべく一般教育行政より独立しかつ国民の自治による組織を

 

  もって行うこととする。

 

 ロ そのために、市町村及び府県に公民の選挙による教育委員会を設けて教育に

 

  かんする議決機関とする。

 

 ハ 教育委員会は教育総長(仮称)を選任してこれを執行の責任者とする。

 

 ニ 管内の学校行政及び社会教育を掌り、学校の設置、廃止、管理、教育内容、

 

  人事、教育行政等の権限をもつ。

 

 ホ 地方財政と関連することから、地方との円滑な運営にとくに配慮すること。

 

 地方教育委員会

 

 イ 数府県を1単位として地方教育委員会および地方教育研究所を設ける。

 

 ロ 地域内の各府県の教育委員会の委員が地方教育委員会委員を選任する。

 

 ハ 上級教育機関に関する事項を扱う。

 

 ニ 各府県の間の教育内容、教育財政の不均衡を是正し、人事の適正を図る。

 

 ホ 地方教育研究所は、現実に即して教育に関する調査研究を行い、その成果を

 

  市町村及び府県教育当局に勧奨する。

 

 中央教育委員会

 

  文部大臣の諮問機関とし、重要問題の審議にあたる。

 

 

 

 以上、『解説』は第一〇条について解説していますが、この間、政府主導とも言える教育行政が進展する中で、全国学力調査、教科書、日の丸・君が代などとくに教育内容をめぐって、第一〇条はもっとも中心的な争点になってきました。

 

 「〇六年基本法」はこれまでの「国民全体に対し直接に責任を負って」という文言を「この法律及び他の法律の定めるところにより」という文言に、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として」の文言を「国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に」という文言にそれぞれ改変してしまいました。それは『解説』が述べてきた教育行政についての歴史的総括や「四七年基本法」第一〇条についての「解説」を完全に覆し、憲法理念および憲法の教育理念に反するものと言わざるを得ません。

 

 政府・自民党はこの「〇六年基本法」に基づいて、現在「教育再生」の名のもとに、戦前のような国家主導の教育支配を志向する教育政策を相次いで強行しています。教育行政に関して言えば、二〇一四年、政府は教育委員会をますます教育政策の下請け機関化する地方教育行政法の改悪を強行しています。

 

 なお、「〇六年基本法」第16条(教育行政)は「四七年基本法」第一〇条の二項構成を四項構成とし、第一項のなかにこれまでの二項の内容を詰め込み、「地方公共団体」と「国および地方公共団体」に関する条文二項を追加しています。「地方公共団体」の教育行政に対する権限を強化しつつ、全体として中央集権的教育行政体制を強化することを意図していることは明らかです。

 

 

 

 

 

第一一条(補則)について

 

11条(補則) この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が、制定されなければならない。

 

 

 

  『解説』はまず「本法は、教育宣言的ないし教育憲法的な規定が多く、これらの規定は、なおいまだ抽象的であって、これから直ちにひき出しうる実際的効果は少ない」と述べています。

 

 このことはより具体的な教育事業にとってはそう言えると思いますが、宣言的であろうと抽象的であろうと、その次元での効果は確認しておく必要があるのではないでしょうか。多くの国民にとって、教育とは何かを考える基本文献はたとえば教育基本法であり、また教育裁判では教育基本法が判例の基本的根拠となります。これらに反する教育法や教育政策が実施された場合、国民がそれらに反対する基準になるのが教育基本法であると言えるのではないでしょうか。どんなに抽象的であっても歴史的現実的な分析に基づいた理論的な結論であればそれに従わなければならない効果を有することになると思います。

 

 『解説』はその上で「今後制定されるべき教育法令は、すべて本法に掲げる原則に従って制定されなければならない」と述べています。本法に違反した法律は、ただちに「無効」となる訳でないにしても、「間接に憲法違反となって無効となることもある」と述べるとともに、そのような法律を制定することは「政治的、道徳的に好ましくない」と明確に述べています。このように言うことは「四七年基本法」のまさに「実際的効果」ではないでしょうか。このことに照らしても、「〇六年基本法」はまさに日本国憲法にも「四七年基本法」にも反するものであり、「無効」と言わなければなりません。

 

 『解説』はここに言う「法令」の意味について特に注意を喚起し、この場合の「法令」とは「法律命令」のことであって、法律に定めるまでもない「細部にわたる事柄」は省令などの命令に委任するという趣旨を「法令」と表現したと述べています。

 

また、この命令であっても「間接に本法の精神を実現したもの」と言えると述べています。

 

 このことで重要なことは、教育課程、学習指導要領のことです。教育政策・教育行政の根幹とも言える教育課程事業については憲法における普通教育概念にも関わらず、教育刷新委員会の審議等において、文部省=教育行政に委ねるという慣例的な姿勢は改められませんでした。「四七年基本法」でも教育課程についての条項は盛り込まれませんでした。

 

 学校教育法になってようやく「教育課程」という言葉は登場しますが、「教育課程に関する事項は文部科学大臣が定める」とされているだけで、具体的には文部科学省令である学校教育法施行規則(第五二条・教育課程の基準)にうつされ、そこでは教育課程の基準は「学習指導要領によるものとする」とされているにすぎません。

 

 とくにわが国の戦後の教育の在り方について特異なことは、国民主権原理と教育課程・教育内容分野との関係にかんする議論は消極的であると思います。戦後、占領期に民間情報教育局(CIE)が最も重視したのは教育課程・教育内容の分野だったことが想起されます。諸外国においても教育課程事業をどのようなものとして位置づけるかがもっとも基本的な教育政策であると言えます。

 

 教育課程・教育内容分野を前面に押し上げ、それを真に国民の立場から制度化していくことは、今日の「学習指導要領」漬けにされている学校教育のあり方を根本的に改める上でも、教科書行政のうえでも重要であり、憲法の教育理念の具体化でもあることから、早急に検討されていかなければならない課題であると言えます。 

 

 

 

補論一 憲法と「四七年基本法」との関係について

 

 

 

 ご承知のように、「四七年基本法」の前文には「日本国憲法の精神に則り」という文言があります。このことからも「憲法=教育基本法体制」(堀尾輝久氏、一九七一年)という言葉も一般的に用いられています。古野博明氏は「教育基本法と憲法の原理的一体性については、従来からよく議論されてきた」と述べつつ、それは「憲法二六条論に偏っていたのではなかろうか」と問いかけ、「憲法第三章(国民の権利、義務)の教育に関係する全体(中略)についても、教育基本法との関連できちんと議論していくべきではなかろうか」と論じています(『制定過程をめぐる論点と課題 教育基本法改正問題を考える④』つなん出版、二〇〇三年、二三頁)。

 

 これらの議論は憲法と教育基本法との関係を論ずる限りでは異論はありませんが、私は、憲法第二六条が「教育」と「普通教育」に分けて規定していること、教育基本法がこの二項を含めて構成されていること、教育基本法全体およびそこで用いられている「教育」「普通教育」の理念は憲法第三章(国民の権利義務)など、言わば教育条項外から意義づけられるべきではなく、憲法第二六条の「教育」「普通教育」概念に内在したものとして理解されるべきこと、憲法の基本理念や国民の権利義務条項は教育条項をいっそう強固にするものであること、などに留意すべきであると考えています。

 

 堀尾輝久氏は憲法上の「普通教育」概念について、それは「すべての国民が共通に必要とする教育」とし、さらに「憲法や教育基本法の精神の体現者として、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間であり、正義を愛し、労働を重んずる、自主的かつ創造的精神の主体としての国民の育成という共通の目的をもった教育」であると述べています(『現代教育の思想と構造』、岩波書店、一九七一年、三二九頁)。しかし、「普通教育」概念は憲法第三章や教育基本法前文に掲げられている理念にとどまらない、より普遍的な内容を有するものであり、それ故にこそ憲法第二六条第二項や教育基本法はより普遍的な、将来においてもいっそうその意義を発揮するものとなるのだと思います。

 

 

 

補論二 『教育基本法の解説』はその後どのように扱われてきたか

 

 

 

 一九四七年、日本国憲法および教育基本法が公布され、平和の体制が構築されましたが、ほぼ同時に「戦争の体制」への構築化が開始されました。アメリカ政府との同盟をいち早く画策した日本政府は、米ソ冷戦および朝鮮戦争勃発を背景としたアメリカ政府の世界戦略および対日戦略の変化を機に、一九五一年、サンフランシスコ単独講和条約および日米安全保障条約を締結しました。この年、リッジウエー司令官の声明を受け入れ、占領体制からの「独立」するということで内閣に設けられた政令改正諮問委員会は当初は政令全般を検討する構想でしたが、途中で解散すべきとの動議がでて、結局は同年一一月に「教育制度の改革に関する答申」のみがまとめられました。この「答申」は、あまり知られていませんが、今日安倍政権がすすめる「教育再生」政策に規模において匹敵するものといえます。

 

 この答申は「国情に合致させる」とし、日本国憲法の基本理念に対抗し、とくに普通教育条項(憲法第二六条第二項)を敵視し、「普通教育偏重を是正する」という「基本方針」を打ち出しました。このことによって文部省が一九四七年に発行した『解説』が事実上棚上げという状況になったのです。

 

 「答申」は、(一)学校制度、(二)教育内容および教科書、(三)教育行政、(四)教職員、で構成されています。

 

 「学校制度」について言えば、六・三・三・四制を維持するとしながらも、中学校に普通教育の課程とともに実用的職業教育の課程をおくとしています。高等学校にも普通教育の課程のほかに「職業教育に重点をおく」課程をおき「専門的職業教育」を行うとしています。また、「学区制は原則として廃止する」としています。国立大学については学芸大学を「教育専修大学」にするとしています。

 

 「教育内容及び教科書」については、「生活経験中心のカリキュラム」に「論理的なカリキュラム方式を加味すること」、教科書については「標準教科書を国家において作成する」などとしています。

 

 「教育行政」については、都道府県に教育委員会が大学以外の教育行政を担当し、人口一五万人程度以上の市には別の教育委員会を設置するとしています。この教育委員会の委員(定員三名)は「任命」とするとしています。大学財政について「重点的に増額する」などが述べられています。

 

 また、文部省の附属行政機関として「単一最高の審議機関を設ける」としています。この「審議会」の構成員には「広く社会の意向を十分に反映させる」として教育関係者が半数の超えないよう限定する」としています。

 

 教育刷新審議会を継承する形で一九五二年、文部大臣の諮問機関として中央教育審議会が発足しますが、それはもはや政令改正諮問委員会の「基本方針」に沿って設置されたもので、その政治的性格は今日に至るまでますますエスカレートし、今日では事実上、文部行政のお墨付け機関になっているといえます。

 

 この「答申」が今日、「教育再生」の名の下に安倍政権が進めている教育政策に匹敵すると申し上げたことがご理解できると思います。

 

 さて、このような「答申」はその後一九五五年に結成された自由民主党のいわゆる「自主憲法制定」構想によって理念上完成されたと言えます。この「自主憲法制定」構想と日米安保条約体制が日本国憲法・教育基本法がめざす「平和の体制」に抗する「戦争の体制」であることは言うまでもありません。翌五六年、鳩山首相は「教育基本法だけでは不十分」と発言し、臨時教育制度審議会設置法案を設置し、教育基本法の「改正」や教科書法案の提出をめざしましたが実現しませんでした。しかし、同時に提出された「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定され、教育委員の任命制が強行されることになりました。

 

 一方、「独立」と関連して、独立民主日本を担う国民主体の育成を目的とする教育運動が「国民教育」の名のもとに重視されていくことになりました。一九六四年に『国民形成の教育』を著した上原専禄氏は、「人間教育」が近代ヨーロッパの思想伝統になっているとした上で、その「人間教育」に対する「亜流ヒューマニズム」的理解を問題にし、そこから「人間教育」ではなく戦前とは異なる「国民教育」という概念を導きだしています。しかし、上原氏が「人間教育」を「人間であるはずの子どもをまさしく人間の名に値する人間にまで育成しようとする」教育と認識していたわけですから、それはまさに日本国憲法が掲げる「普通教育」の理念と結びつく可能性があったのです。しかし、運動の中では「普通教育」理念はすっかり忘れ去られて、事実上「国民教育」という概念が採用され、結果として「普通教育」概念は有名無実化し、教育学分野も含めて社会全体から急速に忘れ去られていきました。その異常な状況は今日まで持続しています。

 

 二〇〇〇年になって、教育学研究者竹内常一氏は「教育学は『普通教育とは何か』を本格的に問うてこなかった」(『教育を変える』桜井書店)という反省を表明してするに至りました。拙著『普通教育とは何か―憲法にもとづく教育を考える』(共著、地歴社、二〇〇八年)を出版したあとも大きな状況の変化はみられません。子どものおかれている状況、教育内容、教育制度それら全般にわたって教育荒廃が深刻になっている今日、「普通教育」概念が事実上死語に近い状態になっていることがいかに異常な出来事であるか、そのことがいかに国民にとって重大な損失となっているかはいくら強調しても強調しすぎることはありません。日本国憲法を全面的に活性化させ、普通教育概念の意義を全面的に実現していくことはまさに今日的課題でなければなりません。

 

 

 

 

 

補論三 「〇六年基本法」新設条項の検討

 

 

 

 「四七年基本法」が全一一条であるのにたいして、「〇六年基本法」は一八条となっています。両法に共通する事項を扱っている条文についてはすでに本文のなかで扱っていますので、ここでは新設条項にしぼって簡潔に検討することにします。新設条項は、「生涯学習の理念」(第三条)、「大学」(第七条)、教員(第九条)、「家庭教育」(第一〇条)、「幼児期の教育」(第一一条)、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」(第13条)、「教育振興基本計画」(第一七条)の八条です。以下、順に検討したいと思います。

 

 

 

第四条(生涯学習の理念)

 

 「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。」

 

  

 

 従来の社会教育条項とは別に生涯学習条項が第二条の「教育の目標」条項の次に配置されていることに留意する必要があります。「生涯学習」という法制上の用語は一般的な理解とはまったく異なり、一九八五年、中曽根首相のもとで設置された臨時教育審議会答申が打ち出した「生涯学習社会への移行」原則を受けたもので、一言で言えば、国民の生涯にわたる学習を「新たな公共」すなわち国家主義の見地から統制しようとするものと言えます。

 

 一九九〇年に「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」が制定されました。それはきわめて政治的な性格の強いもので、地方自治体が企画・実施する生涯学習計画を国の監督の下に置こうとするものです。

 

 また、二〇〇七年の学校教育法「改正」で小学校の教育目標(第三〇条)の第二項に「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう」という文言が用いられています。初等段階の学習・教育が生涯にわたって基礎となるということ自体は法律に明記するまでもないと言えますが、この文言が教育基本法の「改正」直後に表れたということから分かるように、それは「人間の育成」ではなく「国民の育成」「日本人の育成」という見地から低学年段階から「生涯学習」の基盤づくりを重視する政策の表れと言うことができます。

 

 また、中曽根元首相が会長を務める世界平和研究所が二〇一一年に打ち出した「教育改革試案」は、人生を「乳幼児期」「義務教育期」「青年期」「壮年期」「老年期」の五区分とし、生涯の全体にわたって、国がそれぞれの段階に応じた学習課題を提示する、という国家主導の生涯学習プランとなっています。その目標としては「日本の歴史・文化・伝統への深い理解・・・を養成することが、日本人として不可欠である」と述べ、例えば「義務教育期」の学習課題としては「伝統文化の百人一首など古典の暗唱など美しい日本語の習得」などを掲げています。

 

 ユネスコ・国際成人教育会議は一九八五年に「学習権宣言」を採択しました。そこには例えば「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる」ことも基本的人権としての学習権であるなどが述べられています。ポール・ラングランの著『生涯教育入門改訂版』が翻訳されたのが一九七〇年ですが、これを機に、教育の条理に立った生涯学習・生涯教育の理解がわが国においても広まっています。学習・教育を国家主導の「生涯学習」構想に吸収させてはなりません。『解説』の趣旨に立ち返り、憲法・「四七年基本法」の見地から社会教育、生涯学習活動を旺盛に進めていく必要があります。

 

 

 

第七条(大学)

 

 「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

 

二 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。

 

 

 

 「四七年基本法」では大学は第六条(学校教育)の「学校」のなかに含まれていただけで、「目的」規定は学校教育法に委ねられていました。学校教育法の「大学の目的」条項(第五二条)は「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」とされていました。

 

 「〇六年基本法」はこれまでの学校教育法の「大学の目的」条項に対し、「新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する」などが明記されています。「社会の発展に寄与」ということが行政主導、財政誘導のもとに統制される可能性が強まっています。

 

 これを受けた教育再生会議は、二〇一三年、「これからの大学教育の在り方について」(第三次提言)を出し、また、中央教育審議会は二〇一四年二月、「大学のガバナンス改革の推進について」をまとめ、学長権限を強化し、大学自治の根幹である教授会自治の形骸化することなどを提言し、政府は直ちに学校教育法等の「改正」に着手し、六月には学校教育法及び国立大学邦人法の一部を改正する法律」を成立させています。

 

 

 

第九条(教員)

 

 「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

 

 二 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修 の充実が図られなければならない。」

 

 

 

 「四七年基本法」の第六条(学校教育)から分離して独立した条項として新設されています。第一項では「全体の奉仕者」という語句が削除され、「絶えず研究と修養に励み」という文言が追加されています。第二項では「養成と研修の充実が図られなければならない」が追加されています。「〇六年基本法」において「教育の目的及び理念」が改変されていますから、研究、修養、養成、研修など教員全体に対する国家主導の教員統制がいっそう強化されることが意図されていると言えます。

 

 

 

第一〇条(家庭教育)

 

 「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

 

二 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支授するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。」

 

 

 

 「四七年基本法」の第七条(社会教育)から分離して独立した条項として新設されています。「父母・保護者」は憲法上、個人としてまた主権者たる国民として教育を受ける権利を有しています。その上ですべての子どもたちに普通教育を受けさせる義務を負っています。「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図る」こと自体は首肯できるとしても、それは「普通教育」すなわち「人間の育成」を目的として、行われなければならないものです。

 

 「家庭教育」という用語は、「四七年基本法」では家庭において行われる教育という意味で用いられており、家庭が自主的に行う教育についても社会教育の一環として国は奨励するという関係でとらえられていましたが、「〇六年基本法」では、「家庭教育」という言葉が法律用語として押し出されています。家庭像、家庭教育像が法定され、行政的な統制化におかれる可能性が強まっています。父母・保護者は「子の教育の第一義的責任を有する」とされています。つまり、父母・保護者の法的責任が問われることが前提とされています。

 

 

 

第一一条(幼児期の教育)

 

 「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない」

 

 

 

 新設の理由として、幼稚園と保育所の連携推進の必要性、幼稚園と小学校の連携の必要性などが挙げられています。これを受けて二〇〇七年「改正」の学校教育法では、これまで第七章に位置づけられていた「幼稚園」が学校種の冒頭に、すなわち第三章に位置づけられ。その目標(第二三条)には「規範意識の芽生え」などが掲げられています。

 

 本条にある「生涯にわたる人格形成の基礎を培う」とは「生涯学習の理念」条項(第三条)を想起させますが、「改正」学校教育法でも小学校の「教育の目標」には「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう」(第三〇条二項)という文言が用いられ、全体として幼児教育と小学校との連携の意図が強く表れています。

 

 

 

第一三条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)

 

 「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。」

 

 

 

 この間、法令等の改正により、学校評議員、学校運営協議会などが法制化され、学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力が推進されてきましたが、「その他の関係者」には、地域の関係行政諸機関、地域の企業などが行政主導で組み込まれています。教育の論理よりも行政・企業の論理で、学校、家庭、地域のあり方が強く影響を受けることが想定されています。

 

 

 

第一七条(教育振興基本計画)

 

 「政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。

 

二 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。」

 

 

 

 この新設が教育基本法「改悪」の重要なねらいの一つでした。「国会への報告」が要件とされているとはいえ、政府主導で「教育の振興に関する施策」を総合的かつ計画的に進めることを法制化したこと自体、憲法や「四七年基本法」の教育理念からは逸脱したものと言わざるを得ません。

 

 五年計画とされ、現時点では「第二期教育振興基本計画」が策定されています。

 

 そのポイントとして、文科省は①第一期計画が学校段階等の縦割りで施策等を整理していたのに対して、第二期計画では、各学校間や、学校教育と職業生活等との円滑な接続を重視し、「社会を生き抜く力の養成」など、生涯の各段階を貫く教育の方向性を掲げたこと、②検証改善サイクルの実現に向けて、第二期計画では必ずしも十分とは言えなかった成果目標・指標をできる限り明確に掲げたこと、③少子化・高齢化、グローバル化など、我が国が直面する危機的な状況を踏まえ、将来の社会のあるべき姿を描きつつ、その実現に必要な施策を体系的に整理したこと、などを挙げています。

 

 二〇一四年の教育委員会法「改正」で、行政主導の教育委員会制度に改変されました。地方公共団体の首長がいかなる教育計画を立てようとも、それは国が定める「教育振興基本計画」の範囲内にとどまることになります。

 

 

 

 以上、「〇六年基本法」成立とそれ以降の関連施策の動向を紹介してきましたが、全体として異常なスピードで反国民的な教育改革が強行されていることが顕著です。これらを最高法規として総括するものとして憲法「改正」が用意されているのです。

 

 しかしながら、日本国憲法は国民の手でしっかりと守られています。日本国憲法の意義は図り知れない可能性を秘めています。「四七年基本法」も本書で述べてきたように、実質的な生命力を保持しています。私たちは『解説』を真に深く受けとめ、その精神にそって日本国憲法ならびにその精神に則って作成された教育基本法をまさに日本の宝として活用していかなければなりません。