第四部 普通教育の現在と未来 
 
 第一章 教育基本法「改正」と普通教育
  
  第一節 基本理念・目的の転換
(1)改正教育基本法は基本理念を「国民の育成」としており、改正前教育基本法の基本理念=「人間の育成」を逆転させています。これは普通教育の理念の否定をも意味します。なお、この「国民の育成」という基本理念は普通教育を含む広義の教育についての基本理念であることに留意していただきたいと思います。
 改正教育基本法の前文は改正前のそれが有していた戦後教育の意義、すなわち日本国憲法が掲げる理想の実現に応えるという趣旨の文言を削除し、理想を日本国民の願望一般に置き換えています。これでは何が理想なのかはまったく不明確になり恣意的な解釈を許すことになります。
 また、前文には「人間の育成」という語句そのものは用いられているのですが、第一章のタイトルが「教育の目的及び理念」とされ、そこに「国民の育成」とありますから、前文の「人間の育成」はきわめて抽象的な飾り文句、法律用語の実質を欠いた語句となっています。
 全体として、改正教育基本法の前文と改正前の前文とはまったく性格を異にしていると言えます。
(2)改正教育基本法は第一章を「教育の目的及び理念」とした上で、第一条に「教育の目的」を掲げています。骨格は「教育の目的は・・・国民の育成を期して行われなければならない」となっており、形式的には改正前の基本法の骨格と同じですが、条文全体の意味はまったく異質なものになっています。
 「人格の完成をめざす」については「国民の育成」という文脈に位置づけられており、改正前の「人間の育成」と結びついた「人格の完成」ではなくなっています。
 改正前の基本法にあった「真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」はすべて削除されています。しかも、これらの語句は「我が国と郷土を愛する」などの語句とともに第二条の「教育の目標」のなかに置かれることになりました。
 
  第二節 教育目標の新設
 改正教育基本法には改正前には定めがなかった五項目にわたる「教育目標」が掲げられています。これらはすべて「国民の育成」、すなわち恣意的な特定の国民像の育成という理念のもとに解釈されることになります。したがって、「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し」や「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」などが文言自体は多様な解釈があり得るとしてもすべて「国民の育成」との合致が求められることになり、総じて統治権力を有する時の政府の許容範囲に押し込められることになります。
 第三条には「生涯学習の理念」が新設されましたが、それは「生涯学習社会への移行」政策の具体化であり、「国民」として学習成果を適切に生かせるように学習することが求められます。
 次章第一節でも述べますが、二〇〇七年に改正された学校教育法には小学校の教育目標について「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない」(第三十条二項、傍点引用者)と定めていますが、このことも「生涯学習の理念」から導かれるものです。
  
  第三節 「義務教育として行われる普通教育」とその定義
 改正教育基本法第五条で「義務教育として行われる普通教育」という新語が導入されていますが、中学校までの「普通教育」が「義務教育」の目的に従属させられています。改正前の基本法の「人間の育成」という理念と結びついた普通教育はもはや存在する余地がなくなっています。
 「義務教育として行われる普通教育」とは、改正教育基本法によれば、「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うこと」と定義されています。前半と後半は別々のことを述べています。前半は普通教育の理念に近いものですが、後半は「国民の育成」すなわち国民教育の理念を言い表したものと言えます。この二面性については国会審議でも「バランス」「均衡」という言葉で議論がありましたが、改正教育基本法自体が「国民の育成」を基本理念にしているわけですから、全体としては「国民の育成」という文脈で解されることになります。
 「義務教育として行われる普通教育」という語句は改正学校教育法における基本概念として重要な位置づけを与えられることになります。
  
  第四節 教育行政理念の転換
 改正教育基本法の重要な問題点に教育行政理念の国家主義への転換があります。
 改正基本法第十六条は「教育は(中略)この法律及び他の法律の定めるところにより」行われるべきものであ」ると定めていますが、、改正前は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」とされていたのです。改正によって教育のあり方は国民の総意に責任を負って行われるのではなく、改正基本法や他の諸々の法律によって行うとされたのです。

 二〇〇六年の教育基本法「改正」案に関する国会論議でも「改正」案が「不当な支配に服することなく」という語句を残しているものの「教育は、この法律及びその他の法律の定めるところにより行われる」としたことで教育内容に対する国家的介入を抑制する保障を削除することになるという批判に対して小坂文部科学大臣は答弁不能に陥ってしまいました。
 国民の総意は議会制民主主義原理に基づくことになりますが、それ自体は多数決の原理に支配されているのが現実です。一九七六年の最高裁判例が示しているように法律に基づいた教育行政機関の行為であっても行為によっては「不当な支配」に当たる場合があるのです。
 普通教育行政が教育理念・教育目的そしてまた国民の教育要求に直接責任をもってそのための条件整備を抜本的に拡充することが今日切実に求められています。
 改正された教育基本法が普通教育の原理に反して政府主導の教育行政機構を強化しようとしていることは歴史に逆行していると言わざるを得ません。
 なお、国会審議に当たっては教育関係法は他の法にたいして独自の性格を有するわけですから、一般的な審議とは相対的に区別された審議ルールが求められます。現状ではそのようなルールが形成されていません。そのような方向での国民の努力が求められています。
 改正基本法は、教育行政に関して「国と地方公共団体との適切な役割分担」についての規定を新設していますが、「教育に関する施策を総合的に策定」するのはあくまでも「国」とされています。普通教育の見地から言っても普通教育制度の全般は国の責任で行われるべきものですが、それはあくまでも国民の総意に基づくことが前提とされていることであって、行政府主導を意味するわけではないのです。
 改正法は第十七条で、政府は「教育振興基本計画」を定めるとしていますが、これは国会審議の対象ではないとされ、報告義務しかありません。中央教育審議会答申等によればこの「教育振興基本計画」には「これからの教育の目標」、「教育改革の基本的方向」をはじめ当面する具体的な政策目標に至るまで広大な範囲を含むものとされています。このような計画が国民の総意に関係なく政府主導で実施されることになります。
  
  第五節 その他の条項と普通教育
 改正教育基本法は改正前の基本法にない新たな条項を設けています。すでに述べた「教育の目標」「生涯学習の理念」「教育振興基本計画」をはじめ「私立学校」「教員」「家庭教育」「幼児期の教育」「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」 の各条項です。これらについても普通教育の見地から検討していく必要があります。

 以上、主として普通教育の見地から改正教育基本法の問題点を述べてきましたが、総じて日本国憲法の教育条項と齟齬しており、違憲性が強いと言わざるを得ません。教育基本法の「改正」を主導した中央教育審議会の当時の会長は、教育基本法が悪いから直すのではなく、新しい時代に向けて直さなければならないところがあるから直すのだという趣旨のことを述べています。当時の文部科学大臣も「普遍的理念」を「継承する」と答弁しています。これらのことから改正教育基本法の解釈や具体化にあたっては日本国憲法の理念とともに改正前の教育基本法の理念等をも生かしていくことが課題になると言えます。
 なお、「普遍的理念を継承する」と言うことの意味について付言しておきます。それは基本的理念を継承するという意味ではまったくないということです。教育勅語についても「夫婦相和シ」「兄弟友ニ」などは「人の道」を説いたものであり普遍的な意義を有するとして現代にも必要だという議論がありましたが、そのことを想起していただきたいと思います。

 第二章 教育三法改正と普通教育
  
  第一節 学校教育法改正と普通教育
(1)二〇〇七年六月に改正された学校教育法は第二章「義務教育」を新たに設けています。その冒頭条項(第十六条)は「保護者は、次条に定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う」としています。この条文を憲法および改正教育基本法の該当条文と比較してみましょう。
 ○憲法第二十六条第二項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する  子女に普通教育を受けさせる義務を負う」
 ○改正教育基本法第五条「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところによ  り、普通教育を受けさせる義務を負う」(傍点引用者)
 「すべて国民」⇨「国民」⇨「保護者」の変化は、ある意味では法律のレベルの変化に応じているとも言えますが、述語は同一の「普通教育を受けさせる義務を負う」となっており、義務を負っているのはあくまでも「すべて国民」であって、「保護者」に矮小化できないものです。
(2)改正学校教育法は改正教育基本法を受けて「義務教育として行われる普通教育」の目標を左記のように十項目掲げています。

  第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に  規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
  一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の   精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
  二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を   養うこと。
  三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、 それらをはぐくんできた   我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平   和と発展に寄与する態度を養うこと。
  四 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養う   こと。
  五 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
  六 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
  七 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養う   こと。
  八 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達   を図ること。
  九 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
  十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養   うこと。 
 
 この目標は改正教育基本法が「教育の目標」(第二条)として掲げた五つの項目を実現するためのものとしていますが、内容的には目的を実現するための目標というよりも概ね改正教育基本法の五目標に改正前学校教育法の小学校(初等普通教育)の目標として掲げていた八項目を継ぎ合わせたものとなっています。
 改正学校教育法は各学校の目的および目標を大きく改変しています。改正前学校教育法のように小学校から高等学校までを「普通教育」と括った上で初等・中等・高等に区分する、さらに小学校を基本に据えてその後の学校の目標を組み立てるという考え方を排し、「義務教育として行われる普通教育」という語句をなぜか中学校の目的として掲げ、小学校の目標を「義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なもの」とし、高等学校については「高度の普通教育」としています。
 中学校を主体にすると言うのは「義務教育」の到達目標を基本に小学校を位置づける、あるいは上級から下級を位置づけるという考え方に立ったものと言えます。
 改正前教育基本法は「人間の育成」を基本理念に据え、その上で改正前学校教育法は普通教育の各段階の目標を定めていたのです。どの段階でも「人間の育成」という基本理念が貫かれるという考え方に立っていたのです。しかし、小学校の教育が中学校の目標規定に従属するということになれば、子どもたちはいつも上を向いた教育を強いられることになります。「義務教育として行われる普通教育」の目標には「規範意識」や「我が国と郷土を愛する態度を養う」などが含まれるわけですから、それらの「基礎的なもの」が小学校に押し付けられることになります。
(3)改正学校教育法はとくに小学校の教育について「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない」(第三十条二項)と定めています。知識、技能、思考力、判断力、表現力などをフルに動員されて「国を愛する態度を養う」ために活用されなければならないことが強調されるとともに、それが「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう特に意を用いなければならない」とされています。これでは学校全体が洗脳組織にされてしまいかねません。ここには「生涯学習体系への移行」政策が具体化されていると言えます。
(4)改正学校教育法は学校を教育機関から事実上行政機関へ変質させています。
 改正学校教育法は幼稚園から高等学校までのすべての学校に副校(園)長、主幹教諭および指導教諭を置くことができるとしています。(第三十七条等)
 副校(園)長、主幹教諭には「命を受けて」と文言が付されており、教育活動に携わることなくもっぱら「校務」をつかさどるものとされています。これまでもあった副校長とは性格を異にするものです。
 「命を受けて」という語句は戦前の国民学校令や今日では教育委員会規則等で用いられている概念であり、行政用語として用いられてきた語句です。したがって、戦後の学校教育法の職員規定には用いられてこなかったものです。学校を事実上行政機関化するものと言えます。
 指導教諭は教育に携わるとともに教諭等に対する指導助言を行うものとされています。必置の教頭は教育に携わりつつ校長や副校長を助けるものとされています。
 国会審議で副校長や主幹教諭を新設したことについて、伊吹文科相は「担任の先生をできるだけ生徒と向かい合わせるための仕組み」と強弁していますが、戦前にすらなかったような管理体制の強化のもとで専門性を生かした教職員の真摯な教育活動は可能なのでしょうか。
(5)改正学校教育法は新たな教育理念・教育目標規定を実効あるものとするために外部評価制度や情報提供システムの構築を義務づけています。(第四十二、四十三条等)
 教育活動や学校運営の状況についての評価は文部大臣が定める基準によることとされており、また、評価の結果を受けた改善措置を講ずることが義務づけられています。
 また、情報提供については「保護者及び地域住民その他の関係者」との「連携及び協力の推進に資するため」とされています。改正教育基本法のもとでもっぱら「国民の教育」という理念にたって政府が決定する「教育振興基本計画」に基づいて教育行政が推進されていくわけですから、「保護者及び地域住民その他の関係者」もまたそのような趣旨の「連携」させられ、「協力」することが求められます。このことは逆に「保護者及び地域住民その他の関係者」の論理と学校が「連携・協力」することが求められることになります。「国民の育成」の理念のもとに教育委員会や地域社会と学校との「連携・協力」網が張り巡らされることになります。

  第二節 教員免許更新制と普通教育
 教育三法案の一つである教育職員免許法「改正」案は教員免許更新制を法制化しています。免許更新制とは教育免許の有効期限を一〇年とし、更新講習をクリアした者に免許の更新をし、クリアできなかった者の免許を剥奪すると言うものです。
(1)法案の国会審議で伊吹文科相は「その時代その時代に必要とされる新たな知識をもう一度確認するため」などと答弁していますがそのような理由は到底成り立たないものです。ルソーは「同一の人間は一度だけしか教育にたずさわることができない」と述べていますが、それは最初に教職についた段階で教師としての基本的な資格を習得しておかなければならない、それさえあればその後のさまざまな変化があっても研修等を含め切磋琢磨しながら自己成長していけるということを述べたものと言えます。文相が言う「新しい知識」というのは事実上ほぼ一〇年ごとに改訂されてきた学習指導要領に対応せよ、あるいは政府が決定する「教育振興基本計画」に沿った教育方針等を遵守せよということをすべての教職員に迫るものです。
(2)この制度の導入を提言したのは二〇〇六年の中央教育審議会答申ですが、二〇〇二年の中教審答申では「導入については、なお慎重にならざるを得ないとの結論に至った」と述べ、「我が国全体の資格制度や公務員制度との調整という問題に加え、一定の単位の修得をもって一般大学・学部においても教員養成を行っている現行の開放制を含めた教員養成制度全体の抜本的見直しも視野に入れた検討が必要」というあまりにも当然の判断を示していたのです。なぜ同じ審議会の姿勢が数年も経たないうちに転換するのでしょうか。このことについて中央教育審議会は次のように説明しています。①今回の更新制は「(二〇〇二年)答申で検討した更新制とは、基本的性格が異なるものである、②二〇〇二年更新制は教員の適格性確保および教員の専門性向上という性格を有するものであったが、今回のそれは「その時々で求められる教員としての必要な資質能力が保持されるよう定期的に必要な刷新(リニューアル)を図るための制度である、と。これでは説明になりません。あまりにも政治的な順応主義的答申と言わざるを得ません。
(3)戦後教育改革のもとで戦前の教員養成制度に対する厳しい総括のうえに、教育基本法は「教員の身分は尊重される」と規定し、その上で「大学における教員養成」という原理を確立したのです。その後、政府・文部省は教員養成政策、教員免許制度の改悪を矢継ぎ早に推し進めてきました。
 一方、ユネスコと国際労働機関(ILO)は一九六六年に「教員の地位に関する勧告」を採択し日本も賛成しています。そこでは「教員の継続教育」に一章をあて「当局と教員は、教育の質と内容および教授技術を系統的に向上させていくことを企図する現職教育の重要性を認識しなければならない」など六項目を勧告しています。国際的には基本的人権、子どもの教育を受ける権利等を拡充する方向での教員養成政策の確立が志向されているのです。わが国が一九九四年に批准した「子どもの権利条約」もその流れに位置づくものです。しかし、子どもの権利保障という見地からではなく、もっぱら「科学技術や社会の急速な変化」、もっと言えば政府・文部科学省の意向にのみ教職員を従わせようとする更新制の導入は世界的な動向に逆行するものと言えます。
  
  第三節 地方教育行政法「改正」と普通教育 
(1)教育三法の最後の一つは「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」です。
 戦後スタートした教育委員会制度の根拠法である教育委員会法は発足まもない一九五六年、参議院で警察官五〇〇人を動員して廃止され、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定されました。
 この間、教育委員会は政府・文部省と教職員・地域住民との間にあって複雑に変遷してきました。今日、教育委員会の存廃をめぐって議論がありますが、今回の「改正」は、教育委員会制度にたいする政府・文部科学省の関与を強化する方向での「改正」といえます。
(2)「改正」法は、①合議制の教育委員会が自ら管理執行する事項を特定しそれ以外について教育長の権限を強化する、②教育委員会の共同設置を認める、③教育委員会に対し文部科学大臣は一定の条件のもとで是正・改善の「指示」をしたり、「地方自治法」による「是正の要求」を行うことができる、などとしています。どのような場合に指示を出すのかについ文科相は「私が判断した時」、「(どんな状態かは)定義はあらかじめできない」などと述べ、文部科学省の大幅な介入を示唆しています。    

  第四節 教育再生会議報告と普通教育
 二〇〇七年の一月と六月、安倍内閣(当時)のもとで設置された教育再生会議が公表した第一次報告および第二次報告(以下「報告」とする)はマスコミや教職員組合が挙げて「改悪教育基本法の具体化そのもの」、「せいては百年の大計を誤る」と評しているように三ヶ月程度という短期間に密室審議のもとで改悪教育基本法に対応した教育制度の全面的改変を方向づけたものです。
 「報告」は「七つの提言」「四つの緊急提言」を、「第二次報告」は①「 学力向上にあらゆる手立てで取り組む―ゆとり教育見直しの具体策」、②「心と体―調和のとれた人間形成を目指す」、③「地域、世界に貢献する大学・大学院の再生―徹底した大学・大学院改革」、④「『教育新時代』にふさわしい財政基盤の在り方」および第三次報告に向けての検討課題(十一項目)から構成されています。ここでは「ゆとり教育の見直し」を中心に検討することにします。
 「報告」は「七つの提言」の冒頭に「ゆとり教育の見直し」を掲げ「授業時間の一〇%増加」を求めています。「第二次報告」ではその具体策として「夏休み等の活用、朝の十五分授業、四十分授業にして七時間目の実施など弾力的な授業時間設定、必要に応じ土曜日の授業も可能にする、などを掲げています。
 これらがなぜ「ゆとり教育の見直し」と言えるのでしょうか。
 いま「ゆとり」政策の反省が求められているのは、「ゆとり」政策によって子どもたちが仲間たちとお互いに学びあいながら充実した学習をすることができなくなっている、学習教育活動にさまざまな格差が生じ、お互いにストレスを感じるようになってきている、その結果として子どもたちの間に人間関係が作れなくなっている、生き生きとした真の学力が失われてきている、いじめや不登校などが依然として増加している、一言で言えば深刻な危機的な状態が「ゆとり」政策の結果であることが明白となり、その廃止が求められているからです。
 もしそうであるならば、何が基礎・基本であるのかを徹底して再検討し、真に子どもたちにとって学びがいのある授業、子どもたちにとって仲間同士相互に学びあい助け合える学校環境等を再構築していくことではないでしょうか。教職員が子どもたちとともに真にゆとりのある学習・教育環境を再構築していくことではないでしょうか。現行の学習指導要領の枠組みや拘束性を抜本的に再検討することではないでしょうか。
 これらのことにまったく触れることなく、提言されているような具体策をならべても結局は荒廃状況をいっそう悪化させるだけではないでしょうか。
 「ゆとり」政策は第三部第四章第六節でも述べたように、マスコミ等が描くような「詰め込み」から「ゆとり」へというような単純な政策ではなく、一九七六年以降、学習指導要領全般に関わる総合的施策として展開されてきました。
 教育内容を「基礎・基本」として量質ともに「厳選」した上で、一方では詰め込み主義をより徹底し、他方において「ゆとりの時間」、「生活科」さらには「総合的な学習の時間」等を教育課程の領域外にも配置し、教科学習から分離し、もっぱら自然体験、社会体験などを中心として合理的指導を放棄して「自ら責任をもって考える」ことだけを強要し、さらに学校五日制の導入・拡大によって平日の授業時間を高密度化するとともに土曜日などの休日における子どもの生活・学習領域と時間を自由・放任化し、子どもたちや子育ての世界に競争原理や格差原理を導入する、このような総合的な政策としてエスカレートしてきたものです。この基本的な枠組みの根本的な転換こそが今緊急に求められているのです。
 「報告」は「ゆとり教育の見直し」と称して「授業時間の一〇%増加」を求めていますが、「ゆとり」政策の根幹を変えないままの「増加」ですから結局夏季休暇の短縮や七時間授業などの高密度化等という子どもたちにさらに犠牲を強いるだけの対策になっています。驚くべき現状認識と言わざるを得ません。
 「報告」はいじめや暴力を振るう子どもに対して出席停止措置や事実上体罰容認などを提言しています。このような対症療法では事態は悪化するばかりだということはすでに証明済みではないでしょうか。
 「報告」は「学校選択制」を提言しています。学校選択制については新聞等も学校の二極分化等を指摘しています。すでに実施している東京では「自分たちが学校を選択しているようで、実は学校に選ばれている」という保護者の声も出されています。選択を余儀なくされることで保護者や子どもたちの不安や悩みが深刻化しています。このような選択制が全国に拡大されることで、子どもたちは家族や地域生活やいろいろな仲間の中で培われる豊かな人格形成が破壊され、実生活から遊離した競争や効率優先の生き方を強いられることになります。
 「報告」は二〇〇七四月に実施された「全国学力調査」を継続的に行うとしています。「学力調査」については国会審議でも、ある参考人は「極めて弊害が多かった」、「反対の闘いがあったというだけではなく行政でやめていったというのが実情」と証言しています。多額の予算を支出して調査の対象となる学年全員に漢字検定を受けさせる学校も出ています。ています。事前のテスト漬け、校長による答案改ざん等が各地に起きています。授業時間だけではなく夏休みや学校行事、放課後などが「学力調査」対策のために使われ、、子どもの学力向上に支障が出ているとも報道されています。東京都ではあの地域はバカな子どもが多いというような言い方が保護者や子どもたちの間にもひろがっていると言われています。中止をもとめる声が高まっています。
 「学力調査」は保護者や子どもたちが切実に求めている真の学力をすべての子どもたちに習得されているかどうかを検証するためのものではなく、「学習指導要領」等の教育施策の成果を検証するものであること、すなわち教育行政上の必要から計画されたものであって、子どもの立場に立って計画されたものではないという認識が次第に広がっています。中止する方向で検討することを強く望むものです。

 第三章 いじめ・不登校等と普通教育
 
 教育基本法「改正」を提言した二〇〇三(平成十五)年の中央教育審議会答申は、今日、青少年や教育をめぐって危機的状況があるとして、青少年が夢や目標を持ちにくい状況の中での規範意識や道徳心、自律心の低下、いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊、青少年の凶悪犯罪の増加、家庭や地域社会の教育力の低下、学ぶ意欲の低下、子ども虐待、学校や通学路における事件等を挙げ、「危機の背景には、様々な要因が複雑に絡み合っており、すべてを教育の責任に帰することは適当ではない」と述べています。「複雑に絡み合っている」というのは文部科学省サイドの政策文書に共通に見られるフレーズです。このようなフレーズには、これらの危機のもとでどれほど多くの子どもたちが、どれほど多くの関係者が苦しみ、傷つけあい、人生を狂わせられているかについての深刻な受けとめ方は感じられません。
 いじめ、不登校を取り上げただけでも、実態分析から因果関係を解明し適切な解決方向を示すことはもちろん簡単ではありません。家庭や地域社会にその原因がある場合もありますが、だからこそ教育の問題、学校の問題として引き受けるというのが教育の存在理由なのではないでしょうか。
 今日の教育・学校の現状はこのような危機を打開するというよりも、むしろ助長する方向に向かっているのではないでしょうか。複雑に絡んでいる諸要因を解きほぐし、少なくとも教育政策と結びついた学校環境との関係で解明すべき課題は何なのかを明らかにすることが切実に求められています。
 結論から言えば、これらの問題の少なからぬ部分が、「人間を人間として育成する」普通教育の内実を破壊し、「個性重視の原則」に基づく教育改革や総合的な「ゆとり」政策の必然的な結果であると言わざるを得ません。以下、いじめ問題と不登校問題を普通教育の視点から取り上げることにします。
 
  第一節 いじめ問題と普通教育
 文部科学省のデータでも、二〇〇三年度におけるいじめ発生件数は小学校で六、〇五一件、中学校で一五、一五九件、高等学校で二、〇七〇件となっています。
 文部省は一九九六(平成八)年、「いじめの問題に関する総合的な取組について」(局長通知)を出していますが、その中で「学校における要因」として①単一の尺度で児童生徒を評価しがちな傾向がなおみられること、②一人一人の個性、特性を伸ばす教育が十分に行われていないこと、③ともすると指導に柔軟性に欠け、児童生徒の多様な実態に十分対応できていないこと、④学級内に信頼、思いやりや正義感、あるいはいじめは卑怯な行為であることの認識などを行き渡らせる指導が徹底していないこと、などを掲げています。それぞれについて検討してみます。(傍点筆者)
 ①について。「単一の尺度」ということで多元的な尺度を導き出すのは問題です。普通教育の理念も「人間を人間として育成する」と言う意味では単一の尺度と言えるのです。むしろ教育の条理を貫こうとせず、財界などからの要求に妥協してさまざまな教育外的評価基準を導入しているところに教育荒廃やいじめを引き起こす原因があるのではないでしょうか。
 ②について。「個性重視の原則」の見地から「個性、特性」を重視してきたところに、他者を理解できない、人間関係を作れない、人間を「もの」としか見れない感性を醸成してきたのではないでしょうか。
 ③について。「多様な実態」を強調するあまり、個々の子どもたちに内在している人間的感情、人間性への自覚を促す学習・教育環境づくりを軽視してきたのではないでしょうか。
 最後に④について。いじめは卑劣な行為だとする認識を徹底すると言っても、他者に自分と異質な部分があっても、直接的に不快な感情を抱きすぐ行動に移す以前に、不快な感情を言葉で伝え相互に理解しあえる学級関係を作ること抜きには徹底しようがないのです。
 以上見てきたように、このような「通知」で事態は解決するはずはないのです。むしろ、「人間を人間として育成する」という普通教育の理念を明確にする、人間性の意識化のなかでこそ個性・特性も自覚できる、あるいは多様な実態の深部に共通性・普遍性が内在していること等を強調する、卑怯な行為とはどのような行為であるのか等について日常的な学習・教育環境において認識が深まるような教育を重視する、などの教育政策への転換こそがいじめ問題の根本的解決の方向になるのではないでしょうか。
 フィンランドの小学校四年の教科書に次のような設問があります。
  「次の問題について、あなたの意見を述べなさい\友だちと二人で考えましょう\ク ラス全員で考えましょう。
   A  からかうことと、いじめることとはどのように違うと思いますか。
   B  どのようなことが、いじめの原因になりますか。
   C いじめをやめさせるためには、どうすればいいですか」
というものです。三つの項目について考えたり話しあう機会を三段階に分けて求めています。この設問だけでも数時間は必要ではないか思われます。フィンランドの教科書にはこのような設問がよく見かけますが、教師の適切な指導の下で、四〜五名のテーブルを囲んで、時には授業中に図書館等に出かけたりしながら、話し合いを深めていくという学習・教育環境のもとではいじめは個々には生じるとしても基本的には発生しないのではないでしょうか。

  第二節 不登校問題と普通教育
 文部省・文部科学省のもとに置かれた調査研究組織は一九九二(平成四)年に「登校拒否(不登校)問題について」を、また二〇〇三年には「今後の不登校への対応の在り方について」をそれぞれ提出しています。そこでは「不登校」は「どの子にも起こりうる」、「様々要因が複雑に絡み合っている」という認識のもとに、「教育が果たすことができる、あるいは果たすべき役割が大きいこと、また現在の取組には改善の余地がある」と述べるとともに「学校への支援体制や関係機関との連携協力等のネットワークによる支援、家庭の協力を得る」必要があることを述べています。
 二〇〇二年時点で小中学校の不登校児童生徒数は十四万人弱とされていますが、当該児童生徒数は当時で一一七〇万人ですから一%、一〇〇名に一人、数学級に一人ということになります。氷山の一角とも言われますからこの数字をどう見るかは難しいといえますが、これをもって「どの子にも起こりうる」と言えるかどうかは疑問だと思います。「様々な要因が複雑に絡み合っている」という認識と重ね合わせると、主たる責任が教育行政にあるという見地には立たないという立場が強くあらわれているように思います。
 なぜ一九九〇年代から増加しはじめ十年経過しても増加しつつあるのか、なぜ教育が果たすべき役割を指摘するのか、因果関係をより明確にする必要があるように思います。
 筆者は臨教審が掲げた「個性重視の原則」にもとづく教育改革のもとで、家庭でも地域でも学校でも子どもたちは孤立した生活を強いられ、クラスの中で仲間同士で学びあい助け合いながら学習することが困難になってきており、仲間を十分に理解することができず、したがって勉強する喜びを感じることも少なく、成績や競争に追われる、ささいなことでも人格的に傷つけてしまう、このような環境が同じ学級集団で継続すれば、一%程度の比率でいわゆる不登校が生じるのも理解できます。
 しかし、教育というのは子どもたちがそのような状況に置かれているのであればあるほど、その状況に追い討ちをかけるのではなく、緩和する方向でこそ役割を果たすべきです。しかしながら、この間の教育政策はけっして真の意味で緩和する方向には向かっていません。「人間を人間として育成する」という普通教育の理念は学校現場では生かされていないのです。
 日本国憲法はすべて国民は子どもたちに普通教育を受けさせる義務を負っていると定めています。このことに気づいた国民からは次のような声が上がっています。
 ある親は 「普通教育を受ける」=「登校する」ではないわけだから、何らかの事情で不登校になっても、それがために普通教育を受けることができなくなるというのは問題ではないか、憲法の理念からすれば不登校になった場合でもその子どもにどうすれば普通教育を保障するのか、を考えるのが政治の責任ではないかと、と述べています。
 不登校問題を根本的に解決していく見通しとして憲法における普通教育条項とセットにして考えることが重要と言えます。
  
   第四章 普通教育に関連する国際環境

  第一節 戦後理念=「世界人権宣言」と「子どもの権利に関する宣言」
 国連は一九四八年に「世界人権宣言」を採択しました。それ基本的人権と自由の尊重を指導および教育によって促進し、基本的人権の普遍的かつ効果的な承認と遵守を加盟各国に求めつつ、第二十六条において「すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない」、「教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない」(第二十六条)と宣言しています。
 つづいて、一九五九年、国連は「子どもの権利に関する宣言」を採択しています。これは一九二四年の「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」を発展させたものです。
 「子どもの権利に関する宣言」は「人類が子どもに対してその最善のものを与える義務を有している」とした上で教育原則を含む十原則から構成されています。
 原則6は「子どもは、その人格の調和のとれた全面的発達のために、愛情および理解を必要とする」と述べ、原則7で「子どもは教育に関する権利を有する。教育は、少なくとも初等段階においては、無償かつ義務的なものとする。子どもは、その一般的な教養を促進し、平等な機会に基づいて、その能力、その独自の判断能力ならびに道徳的および社会的責任感の発達を可能とし、かつ、社会の有用な一員となることを可能とする教育を享受するものとする」(傍点引用者)と述べています。ここで言う「教育」は本書で言うところの普通教育の理念とほとんど重なるといっていいでしょう。
  
  第二節 生涯教育の提言、 「学習権宣言」と普通教育  
 (1)一九六五年、ユネスコ成人教育推進国際委員会は生涯教育について提唱しています。 その担当部長であったP.ラングランによれば、現代人は人口の増大、科学的知識や技術体系の進歩、政治的挑戦、情報などの急速な諸変化によってかつてないさまざまな挑戦を受けている、これらの挑戦すべてに満足すべき仕方で対処することができるためには、さまざまな障害と抵抗を克服して、人間の自己実現のために、その全生涯を通じて、教育訓練を継続していかなければならない、すなわち急激な社会の変化に人間が人間として存続していくために導かれた教育社会が生涯教育であるというものでした。例えば「科学的知識及び技術体系の進歩」という課題に直面して「もし、明日の技術に自分自身を適応させることができるような技術者を養成しようと欲するのであれば、生徒には何よりも学ぶことを教えなければならない」と述べています。
 生涯学習とはこのような理念に基づいて初等教育をはじめあらゆる教育制度・学校制度の根本的な革新を求めるものでした。
 このような生涯学習の理念は普通教育の理念と根本において矛盾するものではなく、、社会が急激に変化すればするほど普通教育を普通教育として充実させていかなければならないということを指示するものでした。
(2)ユネスコ国際成人教育会議は一九八五年、「学習権宣言」を採択しています。これは「学習権なくしては、人間発達はありえない」、という「学習権は基本的人権の一つである」ことを国際機関として宣言したものですが、具体的には次のような権利を掲げています。
 学習権とは、
  読み書きの権利であり、
  問い続け、深く考える権利であり、
  想像し、創造する権利であり、
  自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
  個人的・集団的力量を発達する権利である。
 これらの学習権は成人教育の課題として提起されたものですが、普通教育にとってもきわめて重要な示唆を与えるものです。
 たとえば「問い続け、深く考える権利」の内実をなす能力は子どもたちにとっては日々の学習・教育環境の中で子ども同士がお互いに深く交流しあう中で育てられていくものです。このような学習・教育環境を保障することは学習権の土台をなすものであって普通教育にとっても重要な課題となるものです。
 近年のこれらの国際文書から言える一つの特徴は、直接子どもに関してあるいは普通教育に関してではなくても、例えば、成人の学習や地球問題・環境問題等の国際的な討論が深まれば深まるほど子どもの普遍的な教育への国際的な認識が深まっていくということです。一九九〇年の「万人のための教育世界宣言」には「基礎的な学習のニーズを満たすことは共通の普遍的な人間的責任である」と記述されています。また、一九九七年の「成人の学習に関するハンブルク宣言」とともに採択された「未来へのアジェンダ」では「教育への権利は万人の普遍的な権利である」と記されています。
 二〇〇二年に国連総会で決議された国連「ESDの一〇年」も多くの人類的課題を掲げる一方で「教育を横断的事項の一つに特定したことを歓迎し」、とりわけ「普遍的な初等教育を達成すること」を緊急の課題として掲げています。
 ついでながら、筆者としては国連等の国際機関が「初等教育」という概念をさらに発展させて「普通教育」という語句に転換していくことを期待しています。
  
  第三節 「子どもの権利条約」と普通教育
(1)一九八九年、「子どもの権利条約」が国連において採択されました。日本政府は一九九四年に批准しました。
 この条約は、子どもを「十八歳未満のすべて」であるとした上で、すべての子どもが生命に対する固有の権利、表現の自由の権利などを有していること、思想・良心および宗教の自由、平和的な集会の自由など広範な権利を掲げています。日本国憲法が掲げる国民の権利・義務も「子どもの権利条約」が掲げる諸権利の内実を育成していくことによってさらに実効あるものに底上げすることが出来るのではないでしょうか。
 「子どもの権利条約」は「教育についての子どもの権利を認め」、「初等教育を義務的なものとし、かつすべての者に対して無償とする」(第二十八条)と定めたうえで、教育の目的を「子どもの人格、才能ならびに精神的および身体的能力を最大限可能なまでに発達させること」(第二十九条ⓐ)としています。この目的規定はわが国の普通教育の定義についての行政解釈とほとんど重なると言っていいでしょう。
(2)「子どもの権利条約」に基づいて国連に置かれた子どもの権利委員会はその実施状況を締約国からの報告に基づいて審査し、必要に応じて提案・ 勧告等を行っています。一九九九年、日本政府に対し「総括所見」を提示しています。そこではいくつかの「肯定的要素」を列挙した後、二十項目以上におよぶ「主な懸念事項」が挙げられています。第二十二項は「競争が激しい教育制度のストレスにさらされ、かつその結果として余暇、運動および休息の時間が得られないために子どもたちの間で発達障害が生じている。(中略)学校忌避の事例が相当数にのぼることを懸念するものである」と述べています。 これら懸念事項はわが国の普通教育を含む子どもの諸権利に関する制度的諸問題を考えるうえできわめて重要と思われます。
 二〇〇四年に提出された日本政府に対する国連・子どもの権利委員会の総括所見は「とくに差別の禁止、学校制度の過度に競争的な性質およびいじめを含む学校での暴力に関する勧告は充分にフォローアップされていない。委員会は、これらの懸念および勧告がこの総括所見においても繰り返されていることに留意するものである」と述べています。                                     日本政府は「子どもの権利条約」に関して教育基本法等でほぼカバーしているから国内法をあらためて整備する必要はないという姿勢ですが、仮にそう言えるのだとすれば、教育基本法に理念的に矛盾する教育基本法「改正」は条約違反ということになるのではないでしょうか。 
  第四節 「教員の地位に関する勧告」と普通教育
 ユネスコの特別政府間会議はこれまでの教育に関する国際文書等をふまえて、一九六六年、「教員の地位に関する勧告」を日本政府も賛成して採択しています。この「勧告」は前文で「不断の道徳的・文化的進歩および経済的社会的発展に本質的な寄与をなすものとして、役立てうるすべての能力と知性を十分に活用するために、普通教育(general education)、技術教育および職業教育をより広範に普及させる必要を認め、教育の進歩における教員の不可欠な役割、ならびに人間の開発および現代社会の発展への彼らの貢献の重要性を認識」して「教員がこの役割にふさわしい地位を享受することを保障」しなければならないと述べています。
 さらに「指導的諸原則」として教育について次のように述べています。
 「教育は、最低学年から、人格の円満な発達並びに共同社会の精神的、道徳的、社会的、文化的及び経済的進歩を目ざすとともに、人権及び基本的自由に対する深い尊敬の念を植えつけるものとする。これらの価値のわく内で、教育が平和並びにすべての国家間及び人種的又は宗教的集団間の理解、寛容及び友好に貢献することを最も重視するものとする。
 教育の進歩が教育職員一般の資格及び能力並びに個々の教員の人間的、教育的及び技術的資質に負うところが大きいことを認識するものとする。
 教員の地位は、教育の目的及び目標に照らして評価される教育の必要性に相応したものとする。教員の適切な地位及び教職に対する公衆の正当な尊敬が教育の目的及び目標の完全な実現にとって大きな重要性を有することを認識するものとする。
 教職は、専門職と認められるものとする。教職は、きびしい不断の研究により得られ、かつ、維持される専門的な知識及び技能を教員に要求する公共の役務の一形態であり、また、教員が受け持つ生徒の教育及び福祉について各個人の及び共同の責任感を要求するものである。」
 また、「教育目的と教育政策」の部分では「教育は、一般公共の利益に役立つ基本的重要性をもつ業務であるから、国家の責任であることが認識されなければならない」(傍点引用者)とも述べてもいますが、以上はすべて普通教育の理念とも基本的に合致するものです。
(2)「教員の地位に関する勧告」は教育についての原則的な立場を述べたうえで「教職への準備」、「教員の継続教育」、「雇用とキャリア」、「教員の権利と責任」、「効果的な授業と学習のための条件」、「教員の給与」、「社会保障」、「教員の不足」などについて具体的に規定しています。
 二〇〇七年、ユネスコと国際労働機関(ILO)の共同専門委員会(CEART)が「指導力不足」の教員を転職させる政策や教員評価政策について調査するため調査団を派遣すると言われています。このような調査は異例とも言われており、わが国における教員の地位がきわめて劣悪であることを国際機関が認定したことを意味するものです。
 子どもの権利保障、教育財政、教員政策など全般にわたって日本政府の対応が国際的に理解されていないことは明らかであり、普通教育制度全般の抜本的な改革が強く求められます。

 補論 普通教育と教育学研究
 
 戦前の日本において、①庵地保が一八八〇年に『民間教育論』、一八八五年に『通俗教育論』を著し、普通教育論を本格的に論じたこと、②一九〇〇年以降、『普通教育学』など師範学校生を主な対象とする教育学文献や「普通教育」、「普通教育新聞」などをタイトルとする教育誌や新聞が発行されたこと、③沢柳政太郎は一九〇九年、『実際的教育学』において「教育学がその研究対象とする教育の範囲は学校 教育中の普通教育に限定したい」と主張したこと、④一九三九年に発行された『教育学辞典』(岩波書店)に学術的見地から石川謙・船越源一署名の「普通教育」の項目が収録されたこと、などについては本書第三部で述べた通りです。
 戦後、普通教育論についてまとまった著作はありませんが、少なからぬ教育学研究者等がこれについて言及しています。
 一九六〇年代は主として「国民教育」論(論者によってそれぞれその性格を異にしますが)という枠組みのもとで勝田守一、矢川徳光、五十嵐顕氏らが普通教育をも包含する問題を論じました。なお、上原専禄氏(一九六〇年)はルソー等が提起した「人間教育」の意義を認めながらも、歴史学者の立場から、戦後台頭してきた「亜流ヒューマニスト」が唱える「人間教育」論の非科学性や教育政策の反動化を指摘し、「国民教育」論を展開しました。 しかし、その主張は日本国憲法や教育基本法における普通教育とは結びつかず「国民教育」として展開されたことについては第三部で指摘した通りです。 ここでは、一九七〇年以降に主張された堀尾輝久、中内敏夫、城戸幡太郎各氏の普通教育論および一九九〇年代における佐藤学氏等の普通教育論について検討しておきたいと思います。

  第一節 堀尾輝久氏の普通教育論
 堀尾輝久氏は一九七一年に普通教育があまりにも「画一的・統制的」になっている現状をとらえて「普通教育のとらえなおし」を提起しています。 戦後、教育学研究をリードした一人である勝田守一氏が「普通教育」について論じなかったことなどを併せ考えるとそれ自体は積極的な提起と言えますが、普通教育をどのように認識しどのような方向でとらえなおすのかについては検討すべき課題があるように思います。
 結論から言えば、堀尾氏の普通教育論は普通教育概念の歴史的・具体的な検討から導き出されたというよりも、氏独自の普通教育論から導かれていると言えます。
(1)堀尾氏は「普通教育」を「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」であり、それにふさわしい「教養」を中心として構成されなければならない」と述べています。
 「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」とは何なのでしょうか。それにふさわしい「教養」とは何なのでしょうか。普通教育の理念はそれを求めているのでしょうか。それを設定することは可能なのでしょうか。
 ルソーやカント を引き合いに出すまでもなく、普通教育は子どもに内在する萠芽としての「理性」に働きかけて人間にふさわしい理性にまで育成していく社会的営みであって、その時代や国民が必要とする理性や教養を子どもたちに習得させていくことではないのです。
 戦後、「人間の育成」を基本理念とする方向が明確になる中で、学習指導要領一般編(試案)」のみが「教育の一般目標」の名のもとに「国民一般の教育について具体的な教育の目標」を設定しましたが、堀尾氏の「普通教育」観も基本的には同じような見地に立っていると言えます。
(2)堀尾氏の普通教育論をもう少し具体的に検討することにします。
 堀尾氏は、普通教育の概念は「ギリシャの自由学芸の思想に連なり、さきにルソーやコンドルセにみたように、近代教育における人間の解放と教育の平等の思想の中で、分業的人間=部分人への批判意識とむすびついて、新しく意味づけられた。このような普通教育の概念は、内容的に、一般教育(養)の概念と連続する。普通教育は、ヨーロッパ語で、l'instruction   commune、allgemeine   Bildung といわれることは、このことを物語っている」と述べています。
 「普通教育」概念を「自由学芸」やルソーやコンドルセの思想あるいは「分業的人間=部分人への批判意識」などと関連させて捉えること自体は重要ですが、しかし、第三部でも述べたように、普通教育に関してルソーとコンドルセを同列に論ずることには無理があります。「大人の理性」から教育論を導き出すことを根源的に批判し「人間の育成」を主張するルソーの普通教育論と「市民の育成」を主張するコンドルセの普通教育論とは明確に区別しなければなりません。堀尾氏が言うところの「一般教育(養)」の概念はコンドルセの普通教育論に近いものです。コンドルセは新たな一般教養をストレートに普通教育の教育内容としてもちこみ、ルソーは何が一般教養(ルソー自身が一般教養という言葉を用いているわけではありませんが)であるかについて自ら判断できる能力を有する人間の育成を普通教育の課題としたのです。
(3)堀尾氏は「普通教育には、共通の文化=一般教養を形成することを通して、人々を結びつける任務が期待されていた」と述べています。
 「人々を結びつける」ことを理由に一般教養等と普通教育を同一視することは出来ません。ルソー自身、「共通感覚」という言葉を用いて、子どもたち同士が教師に導かれながら感覚・知覚等を鍛えあうことを(普通)教育の中核に据えています。
(4)堀尾氏は普通教育は「高等教育の対立概念としてではなく、逆に高等教育は、一般教育(普通教育)をその主要な部分として含むものだと考えられよう」と述べています。
 高等教育とは一般に大学教育を意味しますが、日本国憲法第二十六条との関係で言えば、大学教育は第一項に言う「教育」概念に属し、普通教育は第二項に位置づけられています。堀尾氏は日本国憲法における「教育」と「普通教育」との区別に留意していません。
 以上、見てきたように普通教育と一般教養あるいは高等教育とを同質のものと捉え、それぞれが未分化なまま論じられているところに堀尾氏の普通教育論の特徴があると言えましょう。

  第二節 中内敏夫氏の普通教育論
 中内敏夫氏も普通教育について積極的に発言しています。 普通教育の定義は「教育学の難問のひとつ」としたうえで、普通教育を「公共の理性に従って生きる制度的人間の教育」(傍点引用者)とする「西欧古典近代の通念」にそってその今日的検討を行っています。
 中内氏はこの「西欧古典近代の通念は「共通」と「制度的人間の教育」の二つを根本的な契機としているとして、「制度的人間」のその時代に共通な「人間像(臣民、公民、市民など)」の探求に普通教育の歴史的な性格と内容を見いだそうとしています。
 「公共の理性」にせよ、堀尾氏が言うところの「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」にせよ、普通教育を「時代の理性」や「大人の理性」から説明しようというところに普通教育の定義を「教育学の難問のひとつ」にしてしまっている理由があるのではないでしょうか。

  第三節 城戸幡太郎氏の普通教育論
 城戸幡太郎氏は一九七八年に「国民的常識を養う普通教育」という文章を書いています。 城戸氏は教育基本法や学校教育法の制定過程において教育刷新委員会の委員として参加し、普通教育の位置づけ等に重要な役割を果たしています。
 城戸氏は「国民的常識を養う普通教育」において、「常識を養う」のが「人類にとっての基礎教育」であり、「われら日本人にとっての国民的常識をやしなう普通教育である」と述べています。
 城戸氏にあっては、人間は思想の普遍妥当性を要求するものであり、また人間は教育の力によってかれらの社会、歴史的現実の生活を形成し発展させていく、そしてその教育の力として表現される人間の心構えが「常識」(コモンセンス)である、そしてその「常識」は「人間の生命力または生活力と、活動力または労働力の根源」となるものと説明されています。
 城戸氏は「文化の創造と社会の発展によって新しい時代を作る力を将来の国民となる子どもに期待する」のが「普通教育」であり、「普通教育」は「国民のすべてにその力を養う教育である」とも述べています。
 思想の普遍妥当性を要求するという人間観を根拠に普通教育を説明しようとする城戸氏の普通教育論は堀尾輝久氏や中内敏夫氏のそれとは明かに異質な普通教育論といえます。
 城戸氏は以上のような普通教育論を前提として学習させられるべき知性の内容について言及し、「国民的常識としての教育的カテゴリー」というものを提唱し、性質、分量、関係、様相という四つのカテゴリーを挙げています。これらのカテゴリーの学習にあたっては「自分達の実際生活に即して自分で物事を考える判断力と批判力と構想力を養う」ことがめざされなければならないとしています。
 このようなカテゴリーの学習を通して、城戸氏は「生徒の個性を伸ばし、相互の思いやりと助け合いによって社会的協同体としての国民生活において、それぞれの持前を生かし、それぞれの社会的役割を果たさせることをめざしている。それが、社会を発展させ、新しい時代を作り出して行くための根本であることを国民に了解させるものが国民のための普通教育である」と結んでいます。
 いささか難解な普通教育論ですが、私は城戸氏の普通教育論のなかに普通教育の本質に迫る重要な論点が含まれていると思います。
 第一に、人間の普遍的諸力を養うことを基本にしていることです。これは教育基本法の理念である「人間の育成」につながるものです。
 第二に、常識(コモン・センス)を養うことに着目していることです。単なる一個の生命体としての人間が自らをまた他者を理性的存在としての人間として自覚していくためにコモンセンス(共通感覚)を養う教育が不可欠であるというのが、とくにルソーの普通教育論でもありました。
 第三に、「教育的カテゴリー」を提唱していることです。性質、分量、関係、様相という四つのカテゴリーが妥当であるかどうかについては検討が必要ですが、普通教育における教育課程を編成していく上で示唆的と言えます。
 第四に、「自分達の実際生活に即して自分で物事を考える判断力と批判力と構想力を養う」ことを学習指導の原則にしていることです。普通教育を受けることはすべての子どもにとって権利であるという見地に立つならば、学習すべき内容が子どもたちにとって生きた意味のあるものでなければなりません。そして普通教育を通して「自分で物事を考える判断力と批判力と構想力」を現実に習得できるようにしなければなりません。このような普通教育こそがすべての国民が子どもたちに受けさせる義務を負っているものなのです。

  第四節 佐藤学氏等の普通教育論
(1)九〇年代の普通教育論は教育理念や教育目的あるいは教育史的な考察だけではなく、教育課程や教育内容あるいは具体的な現実的な教育課題と結びついて普通教育論が展開されているように思います。
 佐藤学氏は一九九〇(平成二)年に『米国カリキュラム改造史研究』(東京大学出版会)を刊行して以来、しばしば「普通教育」について発言しています。そのなかで一九九〇年代以降のわが国の高校教育の再編動向を念頭におきながら「『普通教育』という概念は、死語になりつつある」とか「『普通教育』の復権を求めて」という発言をおこなっています。
 佐藤学氏は一九九三(平成五)年の日本教育学会第五一回大会特別シンポジウムにおいて次のように述べています。
 「普通教育とは、ある特定の生徒たちに、ひとまとまりの統合された文化内容で、共通の知識や価値意識を目的的に提供する教育を意味している。それは、よく誤解されているように、スペシャリストに対して、ジェネラリストの教育を求めるものではない。そこで言われる general であることとは、カリキュラムの内容において、学ぶ生徒の側の主体的で共同的な統合を要求する概念であり、学校で学ぶ知識と市民社会で共有すべき知識の関連を形成し、それらの知識を一貫性をもってカリキュラムに組織することを要求するものである。したがって、普通教育は、市民社会で共有すべき知識を組織した『カリキュラム( curriculum  )  』、その知識を学び合い共有し合う『コミュニティ( community ) 』、それらの学習における『総合的な一貫性( coherence ) 』の三つのCで構成されるものであり、逆に言えば、この三つのCの構成要素に支えられて、普通教育は、本来の機能を全うするものなのである」と述べています。
 以上のように、佐藤氏は近年のアメリカの中等教育改革のなかで主張されている「普通教育」概念について概ね紹介しながら、 「普通教育」とは①「中等教育の大衆化にともなって成立した概念」である、②「高校を旧来のエリート教育から脱却させ、大学進学者の教育と多様な職業への準備教育の両者を統合する総合的な中等教育のあり方を示す概念」である、③「大衆化した中等教育が可能にする民主主義社会の建設を志向する概念」である、と述べています。つまるところ、「普通教育」とは「中等教育」の教育内容を示す概念と言えるようです。
 このような「普通教育」論はアメリカではともかく、西欧や日本での「普通教育」概念とは性格を異にしています。概して言えば佐藤氏の普通教育観はわが国の普通教育史からみちびかれたというよりも、氏独自の見解を展開しているということができます。
(3)佐藤学氏は「普通(一般)教育の課題ー民主主義の伝統」を論じるなかで、「暫定的に一般的な内容領域を措定すれば」としてつぎの七領域を提示しています。
 ⑴言語の思慮深い活用の経験=言語の教育
 ⑵科学的な探求の経験=自然科学の教育
 ⑶量と空間に関するシンボルと論理の経験=数学の教育
 ⑷社会の認識と社会的正義の経験=社会科と社会諸科学の教育
 ⑸労働と技術の経験=技術の教育
 ⑹芸術の享受と創造の経験=芸術の教育
 ⑺身体の運動と保健の経験=身体の教育。
 佐藤学氏は、わが国の状況に即して「普通教育」における「内容領域」の意義を論じていますが、全体としてこれらは学ぶべき内容として位置づけられています。一九四七年制定の学校教育法には「初等普通教育」の目標が掲げられていますが、それらは佐藤学氏の「内容領域」にほぼ対応するものとなっています。目標であれ領域であれ、普通教育の内容を明確にしていく上でこのような文節化は不可欠な作業であり、さらに発展させていくことが求められています。
(4)竹内常一氏は「『普通教育とは何か』が教育改革をめぐる論争の焦点となっている」と発言しています。 さらに「普通教育概念は、戦後、正面から問われてこなかったのではないか、という疑いを持っています。国民教育概念とか主権者教育論とか共通教養論とかいったことばで普通教育論は語られてきましたが、『国民国家』批判をふくんで『普通教育』という概念を根本的に問いなおしてこなかったという思いを持っているのです」、「教育学は『普通教育とはなにか』を本格的に問うてこなかった」、 「いま強行されようとしている『教育改革』は、新自由主義・新保守主義の『強い国家」への要求に応えて、理念的にも、内容的にも、制度的にも『普通教育』を再編するどころか、それを解体しようとさえしているのです。このために、私たちはいま、あらためて『普通教育』とはなにかを問い返し、バージョンアップされた「普通教育』を構築していくことが求められているのです」と述べています。 
 このような発言自体についてはまったく同感ですが、竹内氏には「市民教育としての普通教育」ないしは「政治教育としての普通教育の創造」という発言もあり、それらが本書で論じてきた普通教育の理念とどのような関係にあるのか、今後の検討課題と言えます。

  第五節 諸科学の発展と普通教育
 近年飛躍的に前進している諸科学の成果も普通教育論の今後に重要な影響を及ぼすことでしょう。人間が基本的に有している諸能力の内実を脳組織のレベルでも解明し、それらの人間的な成長発達を保障することがいかに大きなエネルギーを発揮するかについても解明が進んでいくように思います。
 田中一氏(物理学、二〇〇〇年)は、脳科学、認知科学、情報科学の成果の唯物論的意義を論じつつ「論理神経系が人類の一人一人のなかに形成され、脳内に論理情報過程が進行しはじめたのは、そう遠くない時期であると言うことである。論理情報過程が現在の学校教育という人為的な知的環境の中にあって急速に定着しつつあると考えるべきではないか」と注目すべき発言を行っています。 田中氏は「学校教育」あるいは「初等中等教育」という言葉を用いていますが、このような研究を普通教育論の見地から学んでいく必要があります。
 澤口俊之氏(認知神経学、二〇〇〇年)は前頭連合野等の意義に着目し、その部位の発達にとって幼少期の重要性を指摘し、この期間に子どもたちが「普通の環境」で育つことが必要であると述べています。「普通の環境」の中核をなすものは普通教育と言えますが、普通教育はこれら最新の諸科学の成果と深い関連を有しているのです。
 哲学の分野では、鈴木茂氏(一九八九年)は「マルクスがかわることなくもちつづけた、人間の根本性格をなすものとしての、『自由な意識的活動』とそれに照応した共同的社会性とは、個々人をこえて種としての人間が身につけた生得的な本性であって、巨視的にみれば人類史は、そういう本性の成熟してゆく過程にほかならない、というものである」とのべています。 普通教育の世界も「種としての人間」の自覚と深く結びついているといえます。このほか「国民国家論」批判、ジェンダー論など社会科学の成果にも普通教育は深く関わっています。
 牧野広義氏(一九八七年)は「人間論の問題は専門をこえた共同研究が必要」であると述べています。 私自身、普通教育論は共同研究が必要であると思っておりますが、さらに普通教育論を深める立場から人間論のレベルでの共同研究にも参加していく必要がありそうです。ルソーの「わたしたちがほんとうに研究しなければならないのは人間の条件の研究である」はひきつづき二十一世紀の課題であり、普通教育の課題であると言えます。