岩手大学教育学部定年退職記念講演(最終講義)

 

 

            

        千の風になって

 

                  岩手大学教授  武田晃二

 

         

                   と き 2009年2月21日                    

                   ところ 岩手大学教育学部2号館会議室               

 

一  なぜ「千の風になって」か

 ただいまご紹介いただきましたように、私はこの三月で岩手大学を退職いたします。感無量といった心境もありますが、これでよかったのだろうかと考えますと、いろいろ心残りも感じています。このような機会を設け準備していただいた各位にお礼申し上げます。本日は、名古屋、札幌など遠方からも来ていただいた方もおります。せっかくの機会ですので、愚直の一語につきる私の半生記にお付き合いいただければ幸いです。

 
 さて、「千の風になって」というなにやら謎めいたタイトルについて、まず説明させていただきたいと思います。別にここで声をはりあげて歌おうというわけではありません。皆さまよくご存知の「千の風になって」という曲の歌詞は、ドイツ系ユダヤ人の女性がヒットラー政権のもとで老齢の母をドイツに残したままアメリカに亡命し、その後母の死を知らされたにも関わらず、強まる反ユダヤ政策のためにドイツにある墓標を訪ねることができないでいる悲しみを、詩人でもある友人メアリー・フライが作ったものと言われています。ナチズムの犠牲者の鎮魂歌でもあるのです。私の研究テーマは普通教育論ですが、この普通教育という言葉も、死んでいるわけではありませんが、国家等によって圧死のような状態にされています。教育学者の佐藤学氏はつぎのように述べています。「改革の進行においてもっとも危機的な問題の一つは、『普通教育』の概念が、ますます死語になりつつあることである」(佐藤学『カリキュラムの批評ー公共性の再構築へ―』、世織書房、1998年)

 普通教育は、現在の日本においては、まさに名ばかりで、理念も実体も死んでしまっているといっても過言ではないのです。日本国憲法に用いられている用語であるにも関わらずです。これでいいのか、なんとか生き返らせて、トキのように美しく飛び交って欲しい、さわやかな春の風のように吹き渡ってほしい、と、ずーっと考え続けてきました。このような思いがこもったタイトルだとご理解いただければ幸いです。

 

二  教員になるまで

 私はなぜ自分が教育学を専攻することになったのだろう、なぜ誰もやらないマイナーなテーマを選んだのだろうと考えたときに、少年時代のいくつかのことを思い出すことがあります。私は札幌で生まれ育ちました。少年時代は昆虫採集に明け暮れていました。また、私には三つ下で小児まひを患った妹がおりました。ぎこちない姿で近くを散歩すると、子どもたちが石をぶつけてくるのです。私は怒りというよりも何故だろうと考えました。また、夕方になるとリヤカーを引いて豆腐を売りに来るがんもどきのような顔をしたお兄さんの後ろを金魚のフンのように一緒について歩いていました。小さな森で一休みするのですが、そのお兄さんはいろいろな話をしてくれました。あとでわかったことですが、お兄さんは北大理学部の大学院生でした。ある晩、お兄さんは大きな望遠鏡を私の家まで持ってきてくれて月を見せてくれました。そのときの感動は今も脳裏に焼き付いております。あの感動は何だったのだろうか、なぜお兄さんを慕っていたのだろうか、と考えたりしました。また、私の家は郊外にありましたが、日曜日になると町の教会から若いお兄さん・お姉さんがやってきて紙芝居などを見せてくれました。そのことについても、お兄さんお姉さんは日曜日なのにどうしてわざわざ遠くに来て子どもたちに話をしてくれるのだろう、どうして私たちはそれを心待ちにするのだろう、などとあれこれ考えました。あまりかわいくない子どもだったと思います。高校生の頃から、町の教会に通うようになりました。と同時に、神とは何か、などをめぐって深刻に葛藤もしました。父は大学の図書館職員でしたが、少年時代、小樽で小林多喜二と文学上の親交がありました。大学生時代、私は父に、殺された親友・多喜二のことをどう思うかと尋ねたことがありました。父は「出た杭は打たれる」と短く答えました。私はそのような言い方に納得できず、しばしば大喧嘩になりました。この問題もその後の人生上の大きなテーマになりました。筆名が中津川俊六でした。私が三七歳の時、父は亡くなりました。その直後、私は、『中津川俊六全集』全二巻を出版いたしました。母は土建業の家庭に生まれたお嬢様でした。竹子という名前の通り、竹をわったようなすっきりした考え方をする人でした。この両親を通しても教育とは何かを考えることがありました。

 

三  模索の時代

♠ 経済学の勉強

 青年時代はドストイェフスキーの『罪と罰』など、主にロシア文学を読んでいました。北海道学芸大学の前半は社会学からはじまっていろいろな分野の勉強をしましたが、三年生からは経済学を専攻することになりました。卒業論文を書くことになっていましたが、論文を書くなんておこがましい、本を読むだけで精いっぱいです、などと指導教官に言ったことがあります。その指導教官は変に納得してくれました。北大経済学部に学士入学し、元京都府知事蜷川虎三の門下生であり社会統計学派の権威である内海庫一郎先生の講座に所属しました。当時、「夢は夜ひらく」という歌が流行っていました。私たちのゼミナールは夜まで続いていましたから、終わった後は「ゼミは夜ひらく」と替え歌を歌いながら、そのまま飲み屋へ、という生活でした。物とは何かなど徹底的に教わりました。先生は「家なき子」などの本に関心をもたれ、しばしばその経済学的な解釈をしてくださいました。「君が教育学に関心をもっているのは理解できる。私も退職したら教育学を勉強してみたい」とおっしゃたことがあります。

♠ オウエンの研究 

 私が経済学を勉強していても、いつもそれは教育とは何かを知るためだという気持ちがありました。そんなこともあって、気持ちの赴くままに大学院の教育学研究科に進みました。母はがっかりしました。これで老後は私には期待できない、と思ったようです。兄が母の期待を受けとめてくれました。大学院では教育史・比較教育学講座に所属しました。しかし、私が考えたいような教育学をそこに見いだすことがなかなかできませんでした。悩んだ揚げ句、ロバアト・オウエンを研究テーマに選ぶことにしました。レーニンがマルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分としていた経済学と哲学については、日本において研究が進んでいるが、社会主義の部分は遅れている、その分野で教育はどのように位置づいているのか、という問題意識からでした。マルクス(一八一八–一八八一)やエンゲルスはロバアト・オウエンらの思想をどのように批判したのか、オウエンらが構想した教育論はかれらの中でどのように位置づけられていたのかという視点から、ロバアト・オウエンの諸活動の全体を明らかにしようと考えました。周囲からは「何で今さら空想的社会主義なのか」と散々言われました。明治大学の五島茂教授を軽井沢の別荘に訪ねるなどして、研究に打ち込みました。この仕事は無意味ではありませんでした。

♠ 大学紛争の中で

 時あたかも大学闘争のまっただ中でした。そのさなかに私たちが科研費讒言事件と呼ぶ卑劣な事件が起きました。科学研究費の使途に不正があるとでっち上げ、会計検査院を利用して同僚教官を追い出そうと画策した事件です。使途に不正はありませんでした。でっち上げられた教官は教育基本法研究の第一人者である故鈴木英一教授です。当時は助教授でした。追い出そうとしたのはその後中央教育審議会にも関わっている I 氏です。この事件は教育学部民主化闘争へと発展していきました。北大闘争も併行していました。これらの闘争の先頭を切っていたのは、のちに新しい歴史教科書を作る会をリードする藤岡信勝氏などです。私はこれらの経験を通じて、人間とは何か、組織とは何か、歴史とは何か、大学とは何か、教育とは何か、などを考えざるを得ませんでした。

 学部が封鎖されている中で修士論文「イギリス産業資本段階における児童労働の実態とその教育学的考察」を書きました。

 

♠ 小さな橋の上で

 大学院の博士課程に進学してしばらくたつと、多くの人は、このテーマで本当に飯を食っていけるのかという深刻な問題に直面します。私の場合、二六歳位がそういう時期でした。結構悩んだあげく、学内の小川にかかっている小さな橋の上で、ある種のひらめきが生じました。「将来、教員をめざそうとしている若い青年たちと教育について語り合える仕事につきたい」と。私にはこの道しかないんだと思うようになりました。また、そのことがその後の私の教員生活を支えてくれました。

♠ 渡辺義晴先生のこと

 この頃、私は渡辺義晴という人が訳したオウエンの『社会変革と教育』という本を読んでいます。その巻末に渡辺先生の解説が載っていて、これにある種の衝撃を受けました。文体の平易さといい、解釈の奥深さといい、学問的基盤の確かさといい、こんな学者がいるのかと思いました。この先生に指導を受けたいと強く思いました。四十歳も離れている先生に早速お手紙を差し上げました。先生からは折り返し「さきころは、めずらしいお手紙拝見しました」で始まる分厚いご返事をいただきました。信州大学の哲学の教授でわが国におけるスピノザ研究の権威です。以来、お亡くなりになる一九九八年までの二七年間、時々松本を訪れ、浅間温泉にもつかりながら、徹底的にご指導いただきました。集中講義に岩手大学にも来ていただきました。また、亡くなられた後に浅間温泉で開かれた追悼集会では記念講演を依頼されたりもしました。

♠ 緊張して三〇歳を迎えた

 さて、話を戻しますが、この時期、中学校時代の恩師、大石雅二先生のお宅でクラス会があった際、あれこれしゃべっていた私に向かって、先生は「思想というのは三〇歳位にならないと形成されないものだよ」というようなことをおっしゃいました。その一言が妙に気になりました。できれば私もそのような自覚をもちたいと考え、ノートを取りながらあらためて古典の読書に集中することにしました。三十の誕生日を迎えようとしていたときは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』(一八七八年)を読んでいました。そして、その本の末尾に次のような一節を見つけたのです。「行政における民主主義、社会における友愛、同権、普通教育は、経験と理性と科学がつねにめざしているつぎのより高い社会段階をひらくであろう。それは古代の氏族の自由、平等、友愛の復活ーただしより高い形態における復活となるであろう」。我が目を疑うような感動をおぼえました。

 私はここで言う「普通教育」とはどんなものかという観点から、これまで読んできた文献をあらためて読み直していきました。この中から生まれたものが『国民教育の基底』に収録された「国民教育の課題」です。このタイトルからもわかるように、この時点では、私にとっては、普通教育と国民教育との関係が未分化でした。内容的には「普通教育」について論じたものです。この本の出版直後に、縁があって岩手大学からお誘いを受けたのです。

 

四  岩手大学の教員として

♠ 「道徳教育の研究」を担当することが条件

 私は学生諸君や同僚からも道徳教育の先生と言われてきました。赴任にあたって、「道徳教育の研究」という授業科目を担当することが条件とされていました。専門分野でもなければ、正直なところ、道徳教育については考えたこともなかったのです。青天の霹靂という感じでした。以来三二年間、ともかくも担当してきましたが、これが私の教育学研究を深めることになったと思っています。ありがたいことだと思っています。道徳教育は我が国における位置づけはともかく、教育学のいわば主軸に位置づくものであって、この問題を抜きにした教育学研究は底が浅いものになりがちなのです。

 道徳教育の講義の必要性もあって、ルソーの『エミール』(一七六二年)を読み始めました。学生と合宿しながらも読みました。あるいは現場の先生たちを交えた読書会をもちました。この読書会は毎週一回十三年間続きました。ルソーのことで二点、触れておきたいことがあります。

 その一つは、ルソーは理性の萌芽は子どもたち自身に内在していると捉え、その内実とその発展法則を分析解明し、そこに普通教育の根拠をおいたということです。カントも『教育学』(一八〇三年)においてこの点に注目して「われわれは理性認識を子どもの中に持ち込むのではなく、むしろこれを子どもから取り出す( heraushelen )ようにしなければならない」と述べています。もう一つは、ルソーが共通感覚という概念を教育論の基軸に据えたということです。いずれもそこに見られる個人主義的な性質は批判的に継承していかなければなりませんが、それらは今日の教育学研究にとってもきわめて重要な要素となるものです。なお、赴任してまもなく、中村雄二郎氏の『共通感覚論』がもてはやされました。しかし、中村氏がルソーに依拠しながら、ひたすら青年期の感覚の訓練をのみ強調するのはルソーの誤読であると大いに憤慨したものです。ルソーは青年期における理性の確立を期待して子ども時代における共通感覚の訓練を重視していたのです。

 

♠ 庵地保との出会い

 一九八六年のことです。教育学者の中内敏夫氏の著作に、庵地保の『民間教育論』という本が「普通教育論を説いた初期の文献」と紹介されていることを知り、庵地保の研究を始めました。中内先生に直接伺っても、庵地保に関するそれ以外の手がかりは何もないのです。しかし、これは徹底的に調べなければならないと思いました。全国の電話帳から庵地という姓をすべて拾いだし、といってもそれほど多くはないのですが、片っ端から電話をかけたり手紙を書いたりして関係者を探し出すところからの作業です。年譜を完成させ論文にまとめることができたのが一九九〇年です。丸四年かかりました。かれは東京府学務課、今日で言えば東京都教育庁、の職員で、福澤諭吉の薫陶を受けた大変な学識のある人でした。明治五年の学制の理念を深く理解し、その見地から普通教育制度の拡充に尽力した人です。しかし、明治一三年の教育令改正前後に、政府部内の自由民権派が排除され、天皇を中心とする教育支配が強化される状況が進行していました。そのことに危機感を感じ、庵地は『民間教育論』を出版したのです。一八八〇(明治一三)年に書かれた『民間教育論』の冒頭には「此編ヤ専ハラ普通教育ノ要領ヲ摘シ務メテ平易ノ文字ヲ用ヰ以テ民間ニ告クル所アラント欲ス」と書かれています。その後も庵地は教育界で活躍しますが、国家主義教育の台頭のなかで、追われるようにして教育界を去っていきました。

 庵地保の研究を通して、私は明治前期の普通教育研究に進んでいきました。これまでの教育史研究ではほとんど触れていないのですが、私は、明治前期は「普通教育の時代だった」ことをいわば発見しました。この時期の普通教育研究の全体についてはまだ公刊していませんが、私家本として『明治前期普通教育論史研究序説』としてまとめております。

♠ 「普通教育の時代」から「国民教育の時代」へ

 明治前期の普通教育研究からさらに発展して、その後、戦前戦後の普通教育制度史に取り組んでいきました。まだまだ一部しか検討していませんが、ここでは現在と密接に関わる二つのことについて触れておきたいと思います。 その一つは、明治二十年代に入って「普通教育の時代」から「国民教育の時代」に転換した、ということです。

 この転換を象徴する人物で大窪実という人がおります。当時、小学校条例取調委員ですが、かれには「国民教育」と題する演説(一八八五年)が残っています。大窪はその演説の中で、「普通教育」という言葉には、「各人自己ノ為メニ教育スルコト」と「国民タルニ適当ナラシムル為メニ教育スル事」という二つの「要点」が含まれているとし、このような普通教育を「国民教育」と呼ぶべきである、と論じたのです。

 当時、つまり明治二〇年代初頭、普通教育という概念は、一般にどのように認識されていたのでしょうか。『教育報知』という新聞によれば「普通教育」とは「人間ノ能力ヲ発達調和セシメ社会ノ一個人タルニ欠ク可ラサル要状ヲ具備セシメントノ目的ヲ以テスルモノ」であり、「教育ノ基本タリ根底タリ之ナケレバ他の教育ハ一モ成立ス可ラザル位地ニ立ツモノナリ」と書かれていました。つまり、大窪実が言うように、「国民の育成」という要点は普通教育という言葉には含意されていなかったのです。ですから、大窪は普通教育を変質させ、そのような普通教育を「国民教育」と呼ぼうと主張したのです。

♠ それは現在の問題

 皆さん、今回の教育基本法「改正」問題でこれと同様のことが再現されたのをご存知でしょうか。改悪された教育基本法第五条で、これまでの「普通教育」を「義務教育としておこなわれる普通教育」と改変したうえで、それは「各個人の能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるもの」と定義しています。つまり、大窪と同じ、「二つの要点」を掲げているのです。このような「二つの要点」をもつ教育はもはや普通教育ではなく「国民教育」なのです。改正教育基本法は義務教育としておこなわれる普通教育」というわかりづらい言葉をあえて用い、事実上、国民教育を義務教育として法定したのです。

 この大窪の演説を合図のようにして、大日本帝国憲法、教育勅語を経て、明治二三年の小学校令改正で、それまでの法令用語であった「普通教育」が「国民教育」へと転換されていったのです。まさに時代は普通教育から国民教育へと転換していくのです。

 私たちの目の前で、同じことが再現されているのです。しかし、当時と決定的に異なることは日本国憲法第二六条第二項、つまり普通教育条項が現実に存在している、ということです。政府文部省にとってもそれは最大のアキレス腱です。ですから、今後は、この憲法条項を何らかの形で骨抜きにする政策を強めてくるでしょう。ですから、私たちは、憲法全体および普通教育条項の重要性を訴え、普通教育制度の国民教育制度への転換を許してはならないのです。

♠ 普通学科と普通教育の二重構造

 もう一つの論点は、戦前は全体として普通学の系列と普通教育の系列という二重構造が制度化され、そのことが戦後にも強い影響を与えているということです。資料④および⑤をご覧下さい。⑤を簡略にしたものが④です。論点に入る前に、資料そのものについて若干説明をしておきたいと思います。上段が普通教育の系列、下段が普通学科あるいは高等普通教育の系列です。それぞれに普通という言葉が用いられていることから、しばしば議論が混乱しています。明治初期、大学の科目として専門学と対になった普通学が置かれ、中学校の目的は普通学の基礎としての普通学科とされていました。それに対して小学校の目的は普通教育とされ、普通学科と普通教育とは別系統の教育系列として構想されたのです。その後、中学校も高等学校も、教育目的は「高等普通教育」あるいは「精深ナル程度ニ於テ高等普通教育」などと称するようになり、それぞれの関係がややこしくなっています。戦後、大学で用いられている「一般教育」は戦前における「精深ナル程度ニ於テ高等普通教育」を継承したものです。戦前の中学校の教育目的である「高等普通教育」は戦後、中学校の「中等普通教育」と高等学校の「高等普通教育」に分化していくのです。

 

 

♠ この二重構造への回帰か?

 さて、第二の論点というのは、昨年改正された学校教育法が、学校制度を戦前型に大きく改変したことです。先ほどの資料④の右側をご覧下さい。これまでの学校教育法は、憲法理念を受けて、小学校から高等学校までの教育目的である普通教育を、初等、中等、高等の三段階に区分していました。改正学校教育法はこれをすっかり変えています。まず、中学校を「義務教育として行われる普通教育」としたうえで、小学校はそこから派生させて「義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なもの」とし、高等学校は「高度な普通教育及び専門教育」としたのです。お分かりでしょうか。そこにどのような意図が込められているのでしょうか。

 改正学校教育法は、中学校までを義務制として、その点で高等学校と区別し、高等学校の義務制化を限りなく遠ざけた上で、「高度な普通教育」という言葉で戦前の「精深ナル程度」という意味合いをもたせ、限りなく大学に「接続」させようとしています。戦前の大学予科制度を想起させます。最近言われている「接続」テスト構想もその文脈に位置づくものです。高等学校について言われる「専門教育」はもはや「大学」に接続することを直接目的としない、また普通教育機関ではない職業訓練学校、戦前の実業学校として位置づけるというものです。

 一方、中学校と小学校について言えば、「義務教育として行われる普通教育」、すなわち先ほど触れましたように、それは事実上、「国民教育」のことですが、それを中学校から規定して小学校を位置づけるという、これまた戦前の学校制度を志向した構想になっているのです。順序が逆になっているのです。

 改正学校教育法の意図は今後どんどん具体化されていくことになるでしょう。と同時に憲法の普通教育条項との矛盾はいっそう深まっていくことになると思います。

♠ 教育学研究の対象は普通教育 

 この時期の私の普通教育研究の中で、明治末期、沢柳政太郎が「教育学の対象とする教育の事実は(中略)普通教育である」(『実際的教育学』一九〇九年)と述べていたことも知りました。沢柳の普通教育の理念は私とは異なりますが、卓見であると思います。このことをあいまいにしたままで教育学研究を進めることはできるのかとすら考えています。

♠ 「鉱脈を発見したな」

 正確には覚えていませんが、八〇年代中頃だったと思いますが、先輩同僚であった駒林邦男先生が私に向かって「鉱脈を発見したな」とおっしゃって下さいました。

 その頃は、臨時教育審議会が「個性重視の原則」を教育改革の基本原則とする答申(一九八五年)を出していた頃です。ここで言う「個性重視の原則」とは普遍性よりも個性を重視するというものであり、戦後文部省が標榜した「個性尊重の教育」(『新教育指針』一九四六年)の対極に位置するものであることを機会あるごとに書いたり、発言してきました。私なりに普通教育研究の重要性に確信を持っていた頃でした。駒林先生はそのような私の研究関心に何かしら感じられたのかも知れません。

♠ ソ連邦とロシア共和国の「普通教育」

 ソ連邦が崩壊する直前と直後、私は教育学シンポジウムでソ連邦を、そして在外研究でロシア連邦共和国を訪れています。

 最初のとき(一九八八年)、モスクワのピスクノーフ教授宅を訪れた際、教授から八月二十五日付の「教員新聞」を見せられました。見開きで教育科学アカデミーのワーキンググループがまとめた普通教育改革に関する見解が載っていたのです。その二日前には国民教育国家委員会に設置されたヴニークと称するグループが同様に普通教育改革に関する見解をだしています。いわば普通教育論争が行われていることを現地でリアルタイムで知ることになったのです。これには驚きました。帰国して両者をいろいろ検討してみましたが、前者は学校の民主化、人間化、後者は生涯教育体系としての普通教育、教育行政の民主化などを掲げています。しかし、両者とも、想像以上に依然として国家主義的な性格が強く、かつ将来展望としては自由主義、市場原理を志向するものでした。 二度目のとき(一九九三年)、ロシア共和国連邦教育法が出されました。ここにも普通教育に関する条項がいろいろ出されていました。しかし、全体として市場原理主義の見地に立ったものです。資料⑥は当時、「教員新聞」一面に掲げられたものです。右肩には「教育法は存在している。しかし、それは実現されない。なぜか?」という説明がついています。ロシアの教育の行く手を暗示しているように思います。

 モスクワ教育大学大学院の学生から「普通教育を研究するなんて、もう古いわよ」という話を聞きました。よく聞いてみると、その場合の普通教育とは日本で言えば「国家主導の義務教育」のことなのです。このような普通教育が雪崩を打つように市場原理主義の方へ転換しているのです。普通教育に関する基本理念がソ連邦のもとで構築されてこなかったこと、普通教育の理念に基礎づけられた法制度が確立していないとどういうことになるのか、を考えざるを得ませんでした。

 在外研究の後、戦前日本における普通教育研究に一応の整理をしたのが、「普通教育論研究ノート」です。

 

五  普通教育研究の新たな段階へ

♠ ようやく公開された重要史料

 一九九五年になって、わが国における普通教育論研究にとっても決定的といってもいいほど重要な資料が相次いで公刊されました。一つは『衆議院帝国憲法改正案委員小委員会速記録』(衆栄会)です。憲法改正案委員会の審議において、第二十六条第二項の普通教育という用語をめぐって議論が紛糾し、小委員会が設置されその問題が検討されることになりました。小委員会速記録はそれまで未公開でした。小委員会でさんざん議論した結果、初等教育とか他の教育ではなく普通教育という用語をしかも「憲法の指導精神」と結びつけて、採用することで決着が図られたのです。この資料を入手して私は早速論文を書きました。資料⑦、とくに後半の局面転換の部分をご覧下さい。普通教育にはじまり普通教育に終わるドラマがそこでは展開されているのです。もう一つは『教育刷新委員会教育刷新審議会会議録』(全一三巻、岩波書店)です。これも基本的にはそれまでは未公開のものでした。この『会議録』を通して、教育基本法において用いられている普通教育という用語の意味があらためて解明されることになりました。この資料を用いて直接まとめた論文は書いていませんが、研究の成果はその後、あちこちで書いています。日本国憲法および教育基本法における普通教育についての研究は、これらの資料の検討なしにはありえないという状況が生まれたのです。

♠ 日本国憲法に位置づいたことの歴史的な意義

 普通教育概念が 「憲法の指導精神」と結びつくことによって、憲法上の普通教育概念はきわめて重要な意義を有することになります。私はこれを五点に整理しています。

 第一は、戦前の教育に対する深い反省が込められていることです。当時、文部省が『教育基本法の解説』(一九四七年)という書物を出していますが、そこではこのように述べられています。「ここに人間と特にいったのは、過去においては國民ということが人間より先に言われたが、よき國民たるには、まずよき人間でなければならず、よき人間はそのままよき國民となるとの信念に基くものである」と。

 第二に、憲法制定に関わった政府・国会の関係者の内部に、十八世紀西欧における近代民主主義思想あるいは普通教育についての一定の見識があったことです。一九三九年に岩波書店は『教育學辭典』を出版していますが、そこには「普通教育」という見出し語があリ、普通教育が近代民主主義思想と結びつけて叙述されています。戦後、文部省はこの辞典の普通教育に関する定義を自らの行政解釈として利用しているのです。

 第三に、戦前の普通教育制度が想起されていたことです。さきほど資料①をご覧いただきましたが、そこに見るように戦前の教育制度は全体として普通教育制度と言っても過言ではないほど、普通教育という行政用語が用いられていました。しかし、普通教育制度は複雑に展開していますが基本的には二重構造をなしていました。日本国憲法の普通教育概念が連続・非連続の問題を含みますが、戦前の普通教育制度の延長上に位置づけられることは云うまでもありません。

 第四に、明治前期は、普通教育という言葉が政治思想等と結びつけて論じられていたことも憲法制定過程では想起されていたと思います。福沢諭吉も普通教育について言及していますが、明治初期の政治思想は明治維新という革命の独特な性格を反映して複雑な性格を有していました。そのなかで普通教育の理念は自由民権運動によって強くサポートされていました。他方、いわゆる明治十四年の政変直後に、文部省は「小学教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ、普通教育ノ弛張ハ国家ノ隆替ニ係ル」で始まる「小学校教員心得」を通達しています。天皇の独立命令権を確保するために明治憲法には普通教育条項は盛り込まれませんでしたが、そのこと自体、普通教育と政治制度との緊張関係が自覚されていたことの証左であると思います。憲法制定過程で普通教育概念が憲法上の位置づけを明確にし、しかも「憲法ノ指導精神」と結びつけて最終的に選択されたことには歴史的根拠があるのです。

 最後に、連合国総司令部(GHQ)が提出した憲法改正案には「無償の、普通義務教育を設けなければならない」という条項が盛り込まれていました。しかし、憲法制定の過程全体から判断して、その要素を過大評価することはできないと思います。

 以上のことは『普通教育とは何か』でも述べていますのでご参照していただければ幸いです。

 

六  「排除と誤解の経過」の解明

♠ さっそく「普通教育偏重是正」政策

 ところで、戦後、日本はアメリカと単独講和を結び安保条約を発効させました。これに対応して、吉田首相の私的諮問機関である政令改正諮問委員会は、一九五一年に答申を出しました。そこには「普通教育を偏重する従来の制度を改め」るという基本方針が掲げられたのです。教育基本法が制定されてから四年しかたっていないのにどうして普通教育に偏重していると言えるのでしょうか。このいわば普通教育偏重是正政策はその後、年々その方向をエスカレートし、二〇〇六年の教育基本法改正につながるのです。

 

♠ 国民教育論の提唱

 他方、民主勢力側からも、安保条約等によって日本の独立が危うくなるという危機感から、独立民主日本を担う国民主体の形成という見地にたった「国民教育」論が論じられていきました。それ自体は理解できるのですが、その議論は普通教育論を事実上否定する側面を内在させていました。例えば、歴史学者の上原専禄氏は「近代ヨーロッパ」の思想伝統になっている「人間教育」についての「亜流ヒューマニズム」的解釈を批判し、それに代えて独立民主日本の国民主体の形成という意味をこめて「国民教育」論を提唱しました。この場合、上原氏は「人間教育」について「人間であるはずの子どもをまさしく人間の名に値する人間にまで育成しようとする教育」と認識しているわけですから、この「人間教育」は「憲法の指導精神」と結びついた「普通教育」と結びつく可能性があったはずなのです。しかし、「普通教育」への結びつきは自覚されることなく、国民教育という用語が流布されていきました。政府文部省の側からも民主運動の側からも「普通教育」は軽視もしくは無視されていくことになります。私はこの状況を「排除と誤解の経過」と特徴づけましたが、普通教育という言葉の死語化はこのような状況の中で生じたのです。

 

七  堀尾輝久氏の「普通教育のとらえなおし」論の解明

♠ 「近代教育原則」に内在する二つの流れ

 さて、堀尾輝久氏は『現代教育の思想と構造』(岩波書店、一九七一年)で「普通教育のとらえなおし」を提起しています。一九七一年に出版されたものです。私は多少違和感を感じながらもそれまでは立ち入った検討ができないでおりました。また、検討すれば根本的かつ全面的なものにならざるを得ないとも感じていました。私が問題点を明確に自覚したのは九〇年代になってからのことです。

 堀尾氏は、近代教育原則を現代に継承・発展するという見地に立っています。そこまでは理解できます。しかし、近代教育原則をどのように認識するかで、その継承発展の道筋は大きく異なってきます。近代教育原則と言われるものは、大きく二つの流れがあります。一つはコンドルセに代表されるような「市民の育成」を理念とするものであり、もう一つはルソーに代表される「人間の育成」を理念とするものです。堀尾氏は前者の「市民の育成」の流れを基本に、そこから、私事性の原理⇧親義務の共同化⇧国民の教育権(=教師の教育権)⇧国民的教養としての「普通教育」、を引き出しているのです。堀尾氏は、そのような見地から、わが国の義務教育と一体となった普通教育の現状を「とらえなお」そうと提起したのです。堀尾氏の場合、この「市民の育成」論は今日では「地球市民の育成」という形で論じられています。

 しかし、近代教育原則はこれとは別に、ルソーの「人間の育成」という教育理念の流れがあったことに留意しなければなりません。ルソーは市民社会を含む大人社会から導かれる人間観を相対化し、子どもたち自身に内在する理性の萌芽をその成長発展の道筋に即して育成していく教育理念を主張しました。人間としての感性を十分に鍛えることによって真に自主的な理性的人間、『社会契約論』で描いた民主政治の担い手を育成することができるのだと主張しました。この理念は、マルクスやエンゲルスにも事実上継承され、かつ、とにかくもルソーの民主主義思想が受け入れられたわが国明治初期の教育思想にも影響を与えています。このことが戦後の日本国憲法にも受け継がれているのです。普通教育は私事ではなく、本質的に社会的共同事務であり、親義務に由来するのではなく、「教育を受ける権利」を有する国民すべての義務として、憲法に位置づけられているのです。また、国民的教養として子どもたちに伝えられるものではなく、子どもたちの能力を育成するという見地から教育内容あるいは教育課程は構築されていかなければならないのです。

 

八  増田孝雄、塚原義暁氏との出会い

 一九八九年、私はたまたま月刊誌で「子どもの学習権と普通教育」という論文を目にしました。書いたのは元小学校教師で東京都教職員組合執行委員長をしているという増田孝雄という方でした。私はかねてから普通教育に関して学校現場あるいは教職員サイドからの発言はないものかと期待していましたものですから、早速増田さんにお手紙を差し上げました。すると、すぐにお電話をいただきました。「学生に教えるように普通教育について教えてほしい」というのです。私はぜひ共同研究をしましょうと応えました。こうして増田さんとの交流が始まったのです。十七歳も年上の方でした。その後、私の在外研究の関係で交流が途絶えた一時期がありました。

 一九九六年になって、ある本のことをきっかけで、地歴社の編集長である塚原義暁氏を知ることになりました。かれは私の普通教育論に関心を持ってくれました。また、塚原氏は増田さんとも交流がありました。そんなわけで、三人の親密な交流が始まったのです。やがて、塚原氏の肝いりで、「子どもと教育基本法」というシリーズを出そうではないかということになり、二〇〇二年からこれまで四冊発行してきました。塚原氏の普通教育への関心も半端ではありません。しばしば大げんかをしながら共同研究を進めてきました。このような仲間ができたことは私にとってはまさに願ってもないことでした。

 

九  教育基本法改悪に抗して

 二〇〇三年に入って、教育基本法改悪の動きが急に政治問題化してきました。中央教育審議会がその年の三月に「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」という答申をまとめたのです。私は、普通教育の見地からこれを全面的に批判する必要を感じ、『子どもと教育基本法』シリーズの第三集で、「教育基本法『改正』論を問う」と題する文章を書きました。また、教育基本法改正案が国会で可決された二〇〇六年十二月、「教育基本法「改正」案と国会審議の検討」というタイトルで「子どもと教育基本法」第四集として出版しました。私にとって初めての単著です。教育基本法改正案に関する国会議事録自体を全面的に検討したものとしては類書は未だ出ていないと思います。

 教育基本法改正には愛国心教育を導入するなどいろいろ重要な問題が指摘されますが、普通教育論の見地から言えば、教育理念を「人間の育成」から「国民の育成」に転換し、「普通教育」を「義務教育として行われる普通教育」という文言に変えたという意味で、違憲性の強いものになったという点を指摘しなければなりません。

 一方、憲法第二六条第二項、すなわち普通教育条項がにわかに脚光を帯びざるを得ない状況が生まれています。

 四七年に制定された教育基本法は、義務年限を九年に特定したり、国公立に限って小中学校における授業料不徴収を規定するなど一定の制約がありますが、憲法理念に徹すれば、十八歳未満のすべての子どもたちに、障害の有無に関わらず、また私立の学校を含めて、無償の普通教育を保障するという展望が開かれるのです。もちろん、改正教育基本法とはきびしい矛盾関係にあります。しかし、私たちは、憲法に基づく普通教育を目指すことが国民として求められているのです。最高法規としての憲法、そしてその普通教育条項をよりどころとして、普通教育制度の抜本的な拡充を政府に迫っていかなければなりません。現在、このような国民運動を進めやすい状況が生まれているのではないでしょうか。

 

十  国内外の動向等

 ご存知の方がおられるかもしれませんが、ヤフーか何かで私の名前を検索すると、「論文優秀者」という見出し語が最初に出てきます。これについて一言しておきます。実は衆議院憲法調査会が「憲法調査会に望むもの」というテーマで論文を募集したことがあります。締め切り直前だったんですが、この機を逃す手はないと考え応募してみました。二一四点中の一九点に入ったということなのですが、内容的にはどうということではないのです。しかし、「官報」にともかくも普通教育についての文章が載ったということ自体は意味があったと思っています。資料⑧です。

 さて、普通教育についての内外の動向について簡単に触れておきたいと思います。国連は一九八九年に子どもの権利条約を採択しています。わが国も批准しているものです。これについては、意見表明権などを中心に日本でも関心を呼んでいますが、私は第二八条の教育への権利、および第二九条の教育の目的条項に留意したいと考えています。第二八条では「初等教育」という言葉が用いられており、第二九条ではその目的は「子どもの人格、才能ならびに精神的および身体的能力を最大限可能なまで発達させること」とされています。ここでいう「初等教育」というのは事実上「普通教育」とほぼ重なるものです。諸外国の教育法規には普通教育という用語はあまり用いられていないのですが、国際条約で事実上普通教育の理念が確認されていることは重要なことだと思います。

 また、フィンランドの教育が注目されていますが、フィンランドの基礎教育法や実際に行われている教育の実情は、事実上、普通教育の理念が生かされているように思います。福田誠治氏は著書のなかで、学力世界一の秘訣は「普通の教育をフツーに」(『競争やめたら学力世界一』)やっていることだ、と述べています。彼が言う「普通の教育」が日本国憲法や私がいうところの「普通教育」とどのような関係にあるかは検討されなければなりませんが、フィンランドの憲法に普通教育条項があるわけではありません。むしろ普通教育の理念から言えば、特に、高校段階が高等学校と職業専門学校の二本立てになっていること、また、OECDが行っているいわゆるPISAがもとめるリテラシーが、全体として、経済的な視点に傾いていること、などの問題点が、フィンランド国内からも指摘されています。

 文部科学省の全国学力調査に唯一参加しなかった犬山市は永年にわたって教育改革を行ってきました。そこでは「学び合い」が合言葉になっています。普通教育という言葉は用いられていませんが、ここでも事実上、普通教育の理念に迫る教育改革がすすんでいるように思います。このように、内外で事実上、普通教育の内実を作り上げる試みが進められています。

 また、教育学者の竹内常一氏は、二〇〇〇年に出した本(『教育を変える』)の中で、「教育学は、『普通教育とはなにか』を本格的に問うてこなかった」と述べていますが、教育学者の内部からもこのような反省が出始めています。

 

十一  研究の活力源、あるいは「現実から出発する」ことの私なりの世界

 私は、「現実から出発する」ということを心がけて研究教育活動を進めてきました。これはなかなか大変なことです。教職員組合とか日本科学者会議は私にとってはそれ自体の活動もさることながら、縦割りになりがちな、あるいはアカデミックになりがちな生活環境に反省の機会を与え、常に歴史的大局的な視点に立って、あるいは現実から出発して研究していくことを私に教えてくれました。

 また、臨時教育審議会が設置されたことを契機に「教育を考える県民のつどい」を現場の先生方とともに結成し二〇年間続けてきました。教育基本法の改悪が政治日程に上ってきた段階で、「教育基本法の改悪に反対する岩手県民共同の会」を結成し重要な成果を挙げることができました。この活動の中から現在は「憲法に基づく教育をすすめる岩手県民共同の会」が組織され、約三〇〇名の会員とともに活動しています。この会では憲法の普通教育条項の意義を深くとらえて活動していくことを基本方針として確認しております。

 私は、岩手大学教員として、三二年間、学生の教育に関わってきたわけですが、どうも当初の夢は実現半ばというのが実感です。すぐれた教育者になるというのは至難のことだと痛感しています。しかし、学生との交流もまた私にとっては「現実から出発する」重要な機会となるものでした。

 大学の管理運営面でも、学生部長など若干の経験をさせていただきました。これらの仕事を通じて、大学と普通教育、大学と教員養成、大学と憲法および教育基本法、大学と地域社会など、との関係などを考える重要な機会となりました。岩手大学が国立大学法人になって、教育学部はとりわけ苦難の道を余儀なくされています。このことについても、私は私なりに普通教育論研究と関連づけて、つまり、教育学部の存在意義を普通教育の見地から考えております。

 また、この間、ソ連邦(ロシア、ウクライナ)、ロシア連邦共和国、イギリス、アメリカ、カナダ、韓国を訪問する機会に恵まれました。これら全体が、私にとって、「現実から出発する」よい機会となりました。

 

十二  ようやく、スタート地点に

        ー子どもたちの周りに、教育の世界に、いつも普通教育の風が吹きわたるようにー

 昨年十月、地歴社から『普通教育とは何かー憲法に基づく教育を考える』を出版いたしました。普通教育についての理念的枠組みを提起したつもりです。いろいろ感想も伺っています。浜林正夫氏からは新聞広告への推薦文をいただきました。年明けには、憲法研究所のホームページにも紹介されました。そこには「本書は、教育学・教育論としての価値もさることながら、法律論・法学的な観点からの教育問題へのアプローチという視座を示すものとなっている」と記されています。資料⑨をご覧下さい。

 また、大学の今年度後期の講義でも本書をテキストに使ってみました。レポートの課題として、今日のわが国の教育問題を任意に取り上げ、それを普通教育論の見地から論ぜよ、と言う課題を出したのです。二クラス計一五〇名近くの学生諸君は、実にさまざまな教育問題をとりあげ普通教育論の見地から論じてくれました。授業に対する感想の一つをご紹介したいと思います。「私は、この授業を受けるまで「普通教育」について特に意識することはありませんでした。 単なる教育と普通教育では、いったい何が違うのか、そもそもそのようなことをわざわざ取り上げて考えることがなぜ必要なのか疑問でした。しかし、普通教育が日本国憲法によって保障された教育の根幹となる大切な理念であると知り、そのことを知らないまま現在まで教育を受け続け、しかも教員を志望している自分がとても恥ずかしくなりました。普通教育が目指す「人間を人間として育成すること」、すなわち人間として当たり前の感情と判断力をもった人格の育成こそが、教育における根幹なのだと知った時の驚きは、私にとってとても大きなものでした。この授業を受けて、これまで無関心だった普通教育の理念について、じっくり考えることができ、たくさんの発見がありました。本当にこの授業を受けて良かったと思います。」

 私としてはやっとスタート地点に立てたというのが実感です。普通教育研究には、学習指導要領体制全般の抜本的な見直しをはじめ重要な課題が山積しています。各地でも、全国的にも、また全世界的にも、普通教育の理念を広げて行かなければなりません。

 そして、子どもたちの周囲に、また教育現場の隅々にいたるまで、普通教育の風がまさに千の風となって吹き渡るようにしなければなりません。退職後も、国民の一人として、皆さまとともに、そのような事業に微力ながら続けていきたいと考えています。

 これまでお話ししてきた私の仕事は、家内をはじめ、実に多くの方々に支えられて進めてきたものです。いちいちお名前は挙げませんが、この場をお借りして心から感謝の意を表したいと思います。

 最後に、もう一度エンゲルスの言葉を想起して拙い私の話の結びとしたいと思います。

 「行政における民主主義、社会における友愛、同権、普通教育は、経験と理性と科学がつねにめざしているつぎのより高い社会段階をひらくであろう。それは古代の氏族の自由、平等、友愛の復活ーただしより高い形態における復活となるであろう」

 ご静聴、心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

                 (見出しを付すなど一部修正加筆した)


資料  ①~⑨