7 普通教育に関する諸説

1)「普通教育のとらえなおし」

 文部省の教育政策においても教育運動の分野でも普通教育への関心が希薄化していく中で、堀尾輝久氏は1971年、「普通教育のとらえなおし」を訴えた。堀尾氏は「普通教育が、必然的に画一的・統制的配慮を要請するものではありえない」と主張しつつ「普通教育」とは「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」であり、かつそれにふさわしい「教養」を中心として構成されなければならない、と論じた。堀尾氏の場合、普通教育を自由学芸との関連で位置づけていること、資本主義的分業のもとでの部分的人間を克服するという課題と結びつけていることなどが特徴であるが、「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」の内容をどのように具体的に構築していくのかを解明することが求められる。

2)中内敏夫氏は普通教育の定義を「教育学の難問のひとつ」としながら「公共の理性に従って生きる制度的人間の教育」としている。「公共の理性」を設定するという問題の立て方が普通教育についての理解を困難にさせているように思われる。

3)佐藤学氏の普通教育論

 1990年代に入って佐藤学氏や竹内常一氏の普通教育論が表明されている。佐藤氏はアメリカにおけるカリキュラム研究に学びながら「普通教育」とは「リベラルアーツの伝統をひくエリート主義の教養教育に対する批判を通して発展してきた共通教養の教育を意味しており、民主主義社会の公共的責任を担いうる市民を形成することを目的とし、現実社会の課題に積極的に応える一般的内容の教育を意味している」と述べている。(「学びの文化的領域」参照。佐伯胖他編『学びへの誘い』、東大出版会、1995年、所収。)

 このような普通教育論が現実のわが国においてどのような現実的な意味をもちえるかについて議論を発展させることが期待されている。

4)竹内常一氏の普通教育論

 竹内氏は「普通教育概念は、戦後、正面から問われてこなかったのではないか、という疑いを持っています。国民教育概念とか主権者教育論とか共通教養論とかいったことばで普通教育論は語られてきましたが、『国民国家』批判をふくんで『普通教育』という概念を根本的に問いなおしてこなかったという思いを持っているのです」、「教育学は『普通教育とはなにか』を本格的に問うてこなかった」、「いま強行されようとしている『教育改革』は、新自由主義・新保守主義の『強い国家」への要求に応えて、理念的にも、内容的にも、制度的にも『普通教育』を再編するどころか、それを解体しようとさえしているのです。このために、私たちはいま、あらためて『普通教育』とはなにかを問い返し、バージョンアップされた「普通教育』を構築していくことが求められているのです」と述べている。(「『教育を変える』、桜井書店、2000年)

 竹内氏は同時に「あらためて『市民教育としての普通教育』、平和的な世界をつくりだす『政治教育としての普通教育』の創造」を提起している。「市民教育」、「政治教育」を強調する氏の普通教育論が「人間を人間として育成する」普通教育論とどのような関係になるのかの解明が期待される。