佐藤功著復刻新装版『憲法と君たち』を読む

 

 

 

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 1955年に出版された佐藤功著『憲法と君たち』が、201610月、60年ぶりに時事通信社から復刻新装版として出版された。企画から10年越しの難産だったようである。佐藤功氏(1915-2006)は、本書を「解説」する木村草太氏が「1955年に刊行された『憲法(ポケット注釈全書)』は(中略)60年たった今でも憲法学者や裁判官・弁護士などの専門家が『この条文って何をいっているんだろう?』と思ったときに、最初に開く本の一つ」と評するほど権威ある憲法学者である。

 

 佐藤功氏は家族思いの几帳面な人柄だったようで、その彼が中学生を念頭に「君たちは『憲法』ということばを知っているかしら」という書き出しで本書を執筆したのは1955(昭和30)年のことだった。佐藤氏40歳の時である。

 

 1952年のサンフランシスコ講和条約の発効による占領終了に伴い、復古主義的傾向をもった自主憲法制定の動きの顕在化にたいする危機感からこの本が書かれたと木村氏は述べている。しかし、別な事情もあったように思う。

 

 すでに1947年、文部省は『あたらしい憲法のはなし』を新制中学校1年生用社会科教科書として発行しており、また、1949年までに文部省著作教科書『民主主義』が刊行され、1953年まで中学校および高校の教科書として使用されていた。1946年から1948年までの短期間、文部省著作の教科書が発行されていたのである。1949年に検定化されるまでの一時期はこれらは教科書や副読本として使用されていた。

 

 1952年には『あたらしい憲法のはなし』自体発行されなくなった。このような状況のもとで、憲法解説本を子どもたち向けに出版しなければと佐藤氏が考えていたに違いない。こうして1955年に本書が刊行されたのであった。

 

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 さて、復刻された本書を一読していささか複雑な気持ちになった。復刻した積極的な意義を感じた面と、むしろあえて復刻しなくてもよかったのではないかと思う面の両面があるように思った。

 

 憲法の理念や前文そして条文についての佐藤氏自らの説明も重要であるが、130ページから135ページの戦争放棄の箇所は特に説得力を感じた。「なるほど、すべての国はその国の内部で、平和のための憲法を持っている」、「しかし、国と国との間に、何か争いが生じた場あいには、やはりそれは最後には戦争によって解決するというほかはない」、ここで佐藤氏は原爆投下の問題を挟んで続ける、「すべての国のひとびとは平和をねがっているのだが、そのなかでも、わたしたち日本国民が、一番大きな声で、もう戦争はやめようと叫ぶことができた。そこで日本の憲法が生まれたのだよ」、「日本の国民は戦争を放棄する。そして戦争のために必要な軍隊は、いっさい持たないということを、今の憲法がきめたのだ」と。

 

 このことは、子どもたちに限らず、まさに今日のように「安全保障法」(またの名「戦争法」)をもっている現代であればこそ、国民全体が共有するべきであろう。

 

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 私が「復刻」に消極的な気持ちをいだくのは本書の前半部分である。消極的な気持ちを抱くのは佐藤氏が叙述した内容についてではなく、今日の時点で憲法について子どもたちに呼びかける内容としてこのような記述でいいのか、むしろ誤った認識を与えることにならないかという思いからである。

 

1) 本書の冒頭「この本を読む君たちに」は「憲法は、その国の国民がどのような理想を目ざしているかをあらわしたものだ」から始まっている。このことを子どもたちはどうしたら理解することができるのだろうか。

 

 子どもたちはまず、「国の理想」ということでつまずいてしまうのではないだろうか。大人にとってもなかなか難しい問題だ。

 

 子どもたち自身が自らの生活の中でどんな生活を願っているか、それらを実現するにはどのような仕組みが必要なのだろうかなどを考え合う中で、その一番大本をきめているのが憲法というものなんだ」ということを、とりあえず確認することからはじめた方がいいのではなかろうか。具体的にはこれから考えていこう、ということでいいのだ。

 

2) つぎに、佐藤氏はロビンソン・クルーソーの話を例に挙げて「人間の社会」の説明をする。

 

 この切りだし方は社会科学入門などで用いられる類型的なものだが、これを子どもたちに適用できるのだろうか。ロビンソン・クルーソー物語を理解するにはさまざまな前提条件をクリアしなければならない。

 

 私は子どもたちに「社会」を理解してもらうには、自分たちの日常生活をお互いに知ることから始めた方いいと思う。

 

 家族や地域にはさまざまな仕事や職業をしている人々がいる。朝から晩まで忙しそうにしている。何のためにどのような仕事をしているのかを周りの人たちから聞いて持ち寄り教師とともに話し合っていく中で、人間にとっての働くことの意味、生産・流通・消費の過程、権利や義務、ルールや仕組み、秩序と法などについてイメージが明確になっていくのではないか、それらを考えて行く先に憲法というものがあるんだということにも理解が広がっていくのではないか。 

 

3) 佐藤氏は人間社会と動物の社会との違いに触れた後、歴史的な説明を進めていく。

 

 佐藤氏は「人間の社会はずっと大むかしは非常にかんたんなものだった」として、野蛮な時代から、人間が成長して歴史が進歩してきたと描いている。このような歴史観を子どもたちに提示していいのだろうか。

 

 話を進めていけば行くほど、氏族社会の諸制度の原生的民主主義的性格、それらが崩壊する原因と経過、あらたに支配的になる社会経済制度の特質とその限界、必然的に生じる階級闘争、戦争などなど、さらにそれらを克服していこうとする人類の努力とたたかい、人類がめざすべき社会、などを説明しなければならなくなる。その上でそれらと憲法との関係などを説明しなければならなくなる。

 

4) 佐藤氏は「憲法のはじまり」について説明している。

 

 「ほんとうの憲法は専制政治に反対して、人間の値うち、人間の尊さをひとびとが考えたときに生まれる」、人間の尊さというのは生命・財産・幸福のことであり、国家というものは、これらを守るためのものだ、そのために政治、規則というものがあるのであって、どんな支配者もそれには従わなければならない、「ひとは生まれたときから自由であり、平等だ、おかしたりすることができない権利、基本的人権をもっている、これを守るのが国家であり,憲法というものだ、と。

 

 もちろん、佐藤氏は近代憲法について述べているのだが、その意味を子どもたちは理解できるだろうか、また基本的人権が生まれながらのものだということを子どもたちは理解できるのだろうか。

 

 まず、基本的人権について。ここでは自由について考えてみる。やはり、子どもたちの日常から考えなければならない。子もたちは誰でも親や教師などからなんらかの不快な束縛・制約を受けることがあるだろう。そのような時、どのように対応するか。子どもたちは良くも悪くもさまざまな知恵をめぐらす。このようなことを仲間同士で、できれがば教師を交えながら、交流する。その中で各自が自分のとった対応を反省し、束縛・制約にもさまざまあること、守った方がいい束縛・守る必要のない束縛などの区別があることに気づいていく。守るべき束縛の意味を考え、守らなくてもいい束縛を振り払うためにどのようにしたらいいのかあれこれ考え、工夫し努力する。そういう中で束縛を越えて自分の可能性を広げることができることに気づくのではなかろうか。こうして、自由についての、また自由であることを権利として自覚しようとする意識が生まれる。自由、もしくは自由権は生まれつき備わっているわけではなく社会関係の中で自覚されていく。もちろん、自由になりたいという人間性や性向を誰もが内在させていることを前提としてのことだ。

 

 佐藤氏が挙げた財産や幸福についても、それぞれ性格は違うが、基本的には同じようにして子どもたちは意識化していくのではなかろうか。自由、財産、幸福などについての意識や自覚はその後もいっそう概念化され、理性化されていく。それらが法として自覚され、さらに最終的には憲法で保障されるべきだという意志をもった主権者として自立していくのである。

 

 では、近代憲法についてはどうか。これはむしろ憲法とは何かについてのまとまった概念を自覚した高校段階の子どもたちにとっての学習課題の対象になるのではなかろうか。

 

5)佐藤氏は自由と責任についても述べている。「人間の歴史は弱肉強食の時代から、すべての人間が自由となり、そしてその自由な人間が自律と責任を自覚した人間となり、そのような人間がそれぞれの役目を持って、おたがいに力を合わせて共同の社会生活をしていくというふうに成長してきた、その成長の歴史だと言えるのだ」と述べている。その適否はともかく、それは全体として歴史的観点からの自由・責任論である。

 

 しかし、子どもたちに対して呼びかけるときは、歴史的な見地からというよりもむしろ発達段階的な見地からの理解を基本に据えるべきではないか。例えば、友だちに対して話したことで相手がどのように受けとめたか、正確に受けとめてくれたか、誤解したのではないか、などで不安になったりする。誤解されたら報復されるのではないかなどとあれこれ心配する。このようなことは誰しもが経験することである。これらの経験をおたがいに交流する中で、正確に受けとめられるようにするにはどうしたらいいのか、誤解された場合にはどのように対応したらいいのか、などについて仲間たちの体験を聞きながら、責任についての意識が芽生えてくるのである。

 

 「自己責任」ということがうるさく言われているが、自己の行為の意味について周りの人たちからも意見を求め、その行為に見合った責任をとるということは誰にでもできる。問題は、自分の行為の意味についてあれこれ吟味する機会が与えられないままに行為から遊離した責任のみが求められるということだ。「自己責任論」とはそういう閉ざされた社会関係、人間関係を前提とした無責任な議論だ。そのような社会で責任感は育ちようがない。子どもたちについてもそれは言える。

 

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 佐藤氏は本書の後半を「3 日本の憲法はどんな憲法か」「4 日本の今の憲法のどこをほこってよいか」として叙述している。

 

 ここの部分は、冒頭に述べたように、憲法制定に直接深く関わった著者ならではの説得力に満ちた内容であり、子どもたちに対してというよりも、現代の大人、国民すべてが熟読すべきものである。ここでその内容についてあれこれ述べることは私にとっては論旨から外れることになるので、論旨に沿う形で平和と民主主義のみを取り上げて考えてみたい。

 

 平和について。

 

 やはり子どもたちに身近な問題からはじめる。自分たちの生活の周りには誤解やケンカやトラブルがあることの事例を持ち寄る。そのどれかを取り上げて、解決した場合どのような気持ちになったか、解決しなかった場合どのような気持ちになったかなどの体験談を語り合ってみる。それが解決するかどうかを教師が参加する中で話し合う中で、その原因をしっかりと掴むこと、またその原因を取り除くため、もし相手との関係に原因があるならば、自分としてはどのような努力をすべきなのか、相手に何を求めるべきなのか、相手とどのような話し合いをすればその原因を取り除くことができるのかなどについて見当をつける。その見当に基づいて自らも反省しながら相手と真剣な話し合いをする。

 

 その結果、トラブルが解決した場合、その瞬間が平和と言えるのだということに気づかせる。その平和的状態が持続するかどうかは、相手とどのような約束をしたかにかかっている。平和的状態を持続させる制度として国内外の法律・条約があることにも気づかせていく。

 

 こういう教育のもとでこそ、国内外の対立・紛争等についても平和的に解決するということを日本は憲法原則としていることを若者たちは納得し受け入れるだろう。

 

 民主主義についてはどうか。

 

 子どもたちの周囲にはクラス、部活仲間、遊び仲間、兄弟・家族などの集団がある。ここでは異年齢・性別などを考えて家族を取り上げてみたい。家族でなにかを決める場合、お父さんにすべてを任せるということはもはやないと思われるが、お互いの意見をよく聞いて誰かが「じゃあこうしよう」と提案してきめる、ということでみんなが納得するという場面を経験した子どももたくさんいるだろう。話し合っていけばみんなが合意できる結論が得られるという体験を繰り返していくなかで、そういうシステムを民主主義というのだということが理解できるようになる。大人たちの政治の世界も民主主義を原則とするということが憲法に定められているんだ、ということが理解できるようになるだろう。

 

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  本書の末尾はあまり感心できない。

 

 「君たちは、いつまでも子どもじゃない。どんどん大きくなる。そして大きくなったら、こんどは君たちがこの憲法を動かすことになるのだよ。そうだとすれば、そのときのおけいこを、今からやっておくことがだいじだということになるね。そのおけいこというのはなんだろう。それは憲法の尊さということを、今から知っているということだ。憲法の尊さをよく知って、そして、憲法を守るという決心を、今のうちからしているということが、それがそのおけいこということだよ。そして憲法は君たちのまわりにある。クラスの規則も、学校の規則も、図書館の規則も、おうちのいろんな規則も、それはみんな君たちにとって、小さい憲法なのだ」

 

 さまざまな受けとめ方がなされるように思われる。子どもに対する佐藤氏の誠実さを損なわないように心がけるつもりでいるが、いろいろ気になる文章である。

 

 子ども時代は大人時代に対する準備期間、おけいこの時間ではない。子どもたちは子どもたちで真剣にその時代を生きている。約束や責任を守るために時には命までかけることもある。

 

 家族や仲間ともゆっくり心を開いて語り合いたいが、多忙さやSNSなどが壁となって誰も相手にしてくれない、テストに追い立てられいつも劣等を意識させられ、二重三重の貧困を余儀なくされ、いじめに苦しみ自殺まで追い込まれてもいる。長期にわたるそのような子どもの時代のもとで、周囲のあれこれの規則は守るべきものというよりも、うっとおしい、邪魔なものだとしか感じられない。どんなにそれが自分たちにとって憲法だと言われても、そのようには受けとめられない。

 

 周囲の規則の延長上に憲法があるのだろうか。周囲の規則も子どもにとっては自分たちが作ったものというよりは大体はすでに与えられている。憲法もそういう意味では規則と同じだ。しかし、自分たちが子ども時代を通して、権利とか、自由、平和、民主主義などについて大切なものだと理解したことが、憲法の基本理念になっているということは確認することができる、そういう点では規則と憲法とは根本的に別物だ。憲法の尊さはむしろ大人になってから自覚するものではなかろうか。周囲の規則がどんなに自分たちにとって必要なものであると感じられたとしても、尊いものという意識は出てこないのではないか。

 

 最後に佐藤氏は「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」で本書を結んでいる。子どもたちへの期待を込めたメッセージとしては理解できるが、子どもたちが憲法を守るべきだと思わない限りそのメッセージは空疎なものとなってしまう。守るべきものだと子どもたちが思うためにはこれまで私が述べてきたようなことが実現されていなければならない。

 

 さらに現時点で加えるならば、「子どもの権利条約」のことである。日本国憲法には国民の権利・義務や基本的人権に関わる条項が30以上あるとされている。これらの条項は、私の理解では、やはり「国民」にとっての条項であって、より積極的に子どもを含めた条項であるとは言えない。憲法第13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の尊重)、第23条(学問の自由)、第26条(教育を受ける権利、普通教育を受けさせる義務)などが対応するとみなされているだけである。

 

 これに対して、1994年に日本が批准した「子どもの権利条約」には18歳未満のすべての子どもに保障されるべき権利として40前後の条項が挙げられている。例えば「性的搾取・虐待からの保護」(第34条)は日本でも重要な子どもの権利として考えられている。今日、子どもの権利を論じる場合は、日本国憲法だけではなく「子どもの権利条約」と併せて考えなければならないだろう。

 

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  本書の「解説」で木村草太氏は「いま、憲法は、新たな困難にぶつかっています。それは、憲法の大切さを訴える言葉がどこか上滑りして感じられる、という困難です」(195ページ)と述べている。木村氏はそのことに「理解」を示しながらも、だからこそ「佐藤功は何と戦うためにこの本を書いたのかを想像してみて下さい」と呼びかけて、復刻版の意義を強調しているが、しかし、その「上滑り」がなぜ生じているのかをこそ解明すべきではないか。その解明はさまざまだろうが、それに対する私としての検討が本稿の意図したところであった。

 

 日本国憲法や立憲主義の重要性を説く論者が、子どもたちに向かって語る場合に、しばしば佐藤氏と似たように論じていることに私は違和感を感じてきた。子どもたちに向かって語るとき、子どもたちがそのことをどのように受けとめるか、自分が述べたことをしっかり理解してくれるだろうか、を深く考えて論じているつもりなのだろうが、必ずしもそうはなっていないというところにそもそも「上滑り」の原因があるのではないか。「このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えない」(『エミール』岩波文庫第75刷、上巻23ページ)はフランス18世紀の思想家ルソーの名言であるが、そのことを想起せざるを得ない。啓蒙主義に陥ったり、ただやさしく書けばいいのだろうという気分で論じてはいないだろうか。

 

 私も現代日本における憲法状況について深刻な危機意識を感じている一人である。だからこそ本稿を書く必要を感じたのだ。もちろん、本稿で述べたことが全面的に実現するには、学校教育、教育課程、教育内容、教育方法、授業の持ち方などのかなり思い切った改革が必要となる。このようなことまで、憲法学者など法曹関係者に期待することは無理でもある。しかし、縦割りに甘んじることなく、ぜひこの分野でも学問分野間の相互交流、相互理解を推し進めてもらいたい。ルソーが『社会契約論』と『エミール』を同一年(1762年)に執筆したことの意味を想起して、社会科学分野と教育学との相互理解、日本国憲法と「子どもの権利条約」との相互交流はぜひとも進めていかなければならない。

 

 最後に、憲法学者等に求めたいことは、憲法26条における「教育」と「普通教育」概念との関係、第2項の「普通教育」とはどのような概念なのかを、歴史的にも、憲法制定史的にも、現状分析的にも旺盛に進めていただきたいということである。

 

 佐藤功氏は『日本国憲法概説』(新版第10刷、1971年、学陽書房)で憲法第26条第2項について「義務教育とは、国民が保護する子女に義務として受けさせるべき普通教育を指し」と説明している。日本国憲法誕生の過程から言えば、いささか消極的説明と言える。

 

 この第2項の「普通教育」については、憲法制定過程において小委員会まで設置して議論した結果、佐藤達夫政府委員が「憲法ノ指導精神」を出すためには単なる「教育」ではなく「普通教育」ということにした、と答弁し了承されたという経過があった。まさに「普通教育」は「憲法の指導精神」と一体のものである。本稿での記述内容はその「普通教育」理念に由来するものであるということを強調しておきたい。