論説

(2)普遍と個性

ー近現代日本教育史をつらぬく基本概念ー

1)教育基本法前文に「普遍的にして個性豊かな文化」という文言がある。臨時教育審議会第1次答申は「個性重視の原則」を教育改革の基本原則としたが、その説明にあたって教育基本法のこの箇所を引用しながら「普遍的にして」という語句を削除した。これは作為か不作為か?という小生の問いに対して、多くの学生は<作為>と答えた。なぜかと尋ねると、普遍という言葉は画一的で硬直した印象を与えるものだから、あるいは戦前との価値観の転換を表現する必要があったから、というのである。つまり、教育基本法前文にも本来「普遍的にして」という文言は不要だったというのである。この議論の顛末はおくとして、その数日後に森首相の「神の国」発言が飛び出したのである.戦前も戦後も「神の国」ということが普遍的真理だと政治家が言う以上、学生の言い分通り、教育基本法から「普遍的にして」という文言を削除しておいた方がよかったということにもなりかねない。

2)臨時教育審議会が「普遍的にして」という文言を排除したのには理由がある。教育基本法前文の「普遍的にして個性豊か」では都合が悪いからである。戦後、文部省が「普遍的にして」という言葉を教育基本法前文に用いたのは豊かな人間性と結びついた普遍的な文化を生み出すことが個性的な文化を創造することになるという理念を明確にするためであった。文部省が敗戦直後に発行した「新教育指針」が「個性尊重の教育」を掲げたのも同じ趣旨に立つものだった。しかし、50年代以降の教育政策は普遍と個性を対置させ、人間性と切り離した「個性重視」を国策の基本に据えたのである。臨教審が言う「個性重視の原則」はその集大成と言える。

3)このような意味での「個性」重視政策は戦前にも一貫していた。1927年の文部省訓令「児童生徒ノ個性尊重及職業指導二関スル件」以降、職業指導上さらには軍事的目的から「個性調査」が行われていくようになった。もっと遡れば、教育勅語が出された翌年(1891年)、江木普通学務課長は「国卜云フモノ其国ヲ組織スル所ノ分子ヲ其国ノ特性ニ適当サセル様ニ務メナクテハナラヌ」と強調して教育勅語の精神に則った<特性>重視の原則を教育政策の根幹に据えた。

4)今日,「個性重視の原則」が学校教育を支配している。学級崩壊や少年犯罪の増加はそのことと無縁なのであろうか。臨教審の「個性重視の原則」で<豊かな人間性のうえに個性が開花する教育>は到来するのだろうか。    

(日本科学者会議編『日本の科学者』20009月号、「扉のことば」)

 

(3)江戸時代に普通教育が完成?

 普通教育という言葉は実にさまざま意味で用いられていますが、大きく二つに分けることができます。国民一般を対象とする一般教養という意味の普通教育と子ども時代にのみ対応する普通教育です。近頃読んだ内藤湖南の「普通教育」観は前者の見地に立ったしかも独特な見解と言えます。

 内藤湖南(1866~1934年)は「日本文化の独立と普通教育」と題する講演を行っています。亡くなる4年前の1930年、64歳のときの講演です。(ネットでも掲示されています。また、内藤湖南著『日本文化史研究増訂版』(弘文堂、1930年)にも収録されています。)
 内藤は、その時代に行われた「字書、教科書」にその時代の「普通教育」が具体化されているという見地に立って、「字書、教科書」の変遷から、日本の教育を4期に区分しています。第1の時期は、公家教育を主体とし「新撰字鏡」が用いられた時代であり、教育が支那文化本位であり、国語はそれを翻訳するためにのみ用いられた時期であるとしています。第2の時期も、公家教育が主体ですが、「倭名類聚抄」に見られるように、国語が主となり、それに支那文字を従属させる教育が行われた時期、とされます。第3の時期は、武家を主体とする中流教育の時代であり、「伊呂波字類抄」に見られるように、国語の教科書が支那文字の字書から離れて独立したが、やはり支那文学の様式に拘束されている時代、としています。最後の第4の時期は、「庭訓往来」に見られるように、商人を中心とした庶民教育の時代であり、支那文学の様式を離れて、国語と必要知識とから教科書が成り立ってきた時期、であるとしています。
 このような「教科書即ち普通教育」(傍点武田)の歴史を概観しながら、内藤は「徳川時代に於ては四民中でも最も下の階級であったのであるから、その最下級まで教育が及ぶことになったので、普通教育の完全な独立、完全なる普及を併せ示した」と結論づけています。また、内藤は「日本の国語による普通教育の独立といふものは庭訓往来に始まり、商売往来で完成した」とも述べています。
 さて、その時代の教育に支配的な影響をもたらした「教科書」などの内容を「普通教育」という言葉の意味として理解する見地は、日本ではこれまでむしろ一般的だったといえます。これまでわが国においては、普通教育は「現代に生きる国民のすべてが共通に必要としている一般的・基礎的教育」(傍点武田)と広く理解されています。このような普通教育の対象は子どもだけに向けられるものではなく、国民全体を対象とするものです。このような普通教育観は、フランス革命期のコンドルセの普通教育観に由来していると言えます。彼は、成人と子どもに分けながらも、それぞれを対象とした「市民」育成のための普通教育論を提唱しています。
 これに対して、「人間を人間として育成する」という独自の社会的な営みに着目し、したがって、子ども時代にのみ対応する教育を「普通教育」と理解する見地も18世紀西欧に生まれています。その代表者が『エミール』(1762年)を著したルソーです。哲学者カントも『教育学』(1803年)において同様の見解を表明しています。
 日本では、明治初期に、大別すればルソー的な見地にたった「普通教育」観が紹介され、明治前期はむしろ「普通教育の時代」とも特徴づけられる時代でした。前島密は1867年に「漢字御廃止之議」を将軍徳川慶喜に提出し、内藤と同様、普通教育を日本文化の独立の問題と結びつけて論じていますが、その教育の対象は庶民一般ではなく、「少年」でした。
 大日本帝国憲法や教育勅語が制定されて以降、普通教育の理念は排除され、国民教育という用語が支配的になっていきますが、この場合でも教育の対象は国民一般ではなく、「子ども」でした。
 日本国憲法は第26条で「教育」と「普通教育」とに区別し、普通教育をすべての子どもに受けさせることが主権者たる国民の義務であるとしています。
 内藤が用いた「普通教育」という言葉は、明治以降の普通教育制度史には位置づかない独特なものですが、広くは「国民的常識」あるいは「一般教養」をもって普通教育の内容とする普通教育観に位置づくものと言えましょう。それにしても、徳川時代に普通教育が完成したという認識は、明らかに内藤湖南独自の見解と言えるでしょう。(2009/9/22)