R.オウエンにおける「合資関係」変遷の思想的意味

 

                           武 田 晃 二

Ⅰ 序

 ロバアト・オウエンが18才から54才まで(17891825年)綿紡績工場の経営者−しかも成功した−であったことは、ひろく知られている。しかし、オウエンにおける経営者としての実体はけっして一様ではなく、年代順に追っていくと、共同経営者、単独経営者、支配人、合資人兼(総)支配人、合資人筆頭総支配人と変遷している。実はこの変遷はかれの社会思想ときりはなしては考えられない。小論はオウエンのこの経営者としての変遷を思想的側面から分析し、かれの社会思想の解明に資料的一素材を提供しようとするものである。

 言うまでもなく、この時期は近代的資本家=ブルジョワジ−が主として綿紡績業の中から出現してくる胎頭期である。しかしながら、この時期に産業資本家が胎頭してきたということと、この時期(産業革命の初期)に特定の人間が綿紡績業者として成功したということとは、まったく別の事柄であり、区別されなければならない。(1)

 「産業革命そのものは、その初期の段階では科学の寄与に全く頼らなかった。その開拓者たちは職人の発明家であり、かれらの成功は、例外的に好都合な経済的環境によって可能にされたのである」(2)が この「例外的に好都合な経済的環境」を構成するのは、資本(その多少を問わず)、経営的手腕、致富心そして発明的素質であった。つまり当時の、とりわけ綿業における「成功」は、それらの要素がさまざまに組合わされた結果としてもたらされたものであった。そしてその組合せは契約、提携、協力、支配、吸収、合資等々の経営主体のさまざまな結合形態を生み出した。(本論のテーマに用いた「合資関係」とは、とりあえずこれらの諸形態の総称として用いる)。さらに「最小限の資本をもちあわせているか、あるいはそれを手に入れることさえ出来れば、精力的で能力のある人びとに対してほとんど無限の前途をひらいていてくれ……新しい生産方法をとり入れる能力をもった者には巨額の超過利潤super profit)と成功が保障されていた、(3) そして「機械生産がいまだに一般的になっていない時期における超過利潤は資本の急速な蓄積と産業革命の初期における生産拡大を説明する」(4) イギリスの歴史家AL・モートンのこの指摘は重要である。オウエンの最後の合資関係において、かれと他の合資者たちとの矛盾が深刻化し、ついに解散を余儀なくされてしまうのも、単に宗教的対立からというよりも、むしろおそらくこの時期がすでに超過利潤の実現が困難になりつつあったことと無関係ではないと思われるし、この時期以後、イギリス産業資本主義が全面的に確立、発展していく中で、オウエンが経営者として再び二度と登場することがなかったのも、かれの「成功」とかれが「経営者」であったこととの関係が、特定の歴史的、経済的諸条件の中で解明されねばならないことを示している。さらに、モートンはオウエンの成功が「当時のイギリスにおいては例外的ではないが、きわめて注目すべき立志伝(a success story)」であると、述べているが、かれの成功を「きわめて注目すべき」ものとしたのは、もっぱらオウエンの個人的資質の問題である。それはかれの思想のためではない(ここではその側面を捨象している)。すでに述べたように、産業革命初期における綿紡績業の「成功」があるいくつかの要素の組合せに依存しているのだが、それらの諸要素の存在形態はさらにさまざまであり、一つひとつが分離独立して存在している場合や、発明的資質と資本はあるが経営的手腕がない場合とか…等々であるが―そのいくつかの要素を一人の人間の素質の中に同時に兼ねそなえ、かつ必要な物的条件に恵まれる人間が存在することもまた現実的に有り得ることであった。オウエンの成功を「きわめて注目すべき」ものとしたのはまさしくこのきわめて注目すべき個人的資質に依るものであった。ソビエトの歴史家ア・イ・ピスクノフ氏のつぎの指摘はそのような観点から重要と思われる。「空想的社会主義の他の代表者とくらべ、オウエンの特色およびすぐれていた点は、かれ自身が工場経営者であり、かつ生産条件やプロレタリアートの状態を実際に知っていたことである。資本主義の上昇発展期のタームをもちいれば、オウエンはself made man つまり〈自分本来の努力によってすべてを達成した人〉と尊敬をこめて呼ぶのにもちいられたそのような人間のカテゴリーに入りうるのはまったくもって当然である」(6)と。

 さて、このようにオウエンの「成功」が「(かれが)生きていた時代、かれが活動していた土地、そしてかれの個人的資質を考えれば、これはそんなに驚くべきことではなくなる」(7)とすれば、かれの思想の独自的性格はどこか別なところに求められねばならないのではないか。なぜならば、当時にあっては、特別な思想をもたなくとも、特別なブルジョア的なイデオロギーをもたなくとも、あるいは、何も空想的社会主義者でなくとも、企業家的、経営者的「成功」は十分可能であったのだから。

 本論では、この別なところに求められるべきオウエンの思想の内容を展開しようとするものではない。かれの思想の形成が、かなり早期になされたことはしばしば指摘されているところであるが(8)、これから展開するオウエンの18才以降始まる一連の「合資関係」の変遷は、とりもなおさず、この早期に形成されたかれの独自な思想を軸として展開していくのである。

 かれの思想内容の十分な展開は別の機会にゆずることにして、ここでは以下の展開の中からそれぞれに汲みとっていただきたいと思う。

 

 ※なお以下引用文のあとにすぐ( )で記したページ数はすべてRobert Owen; “ The Life of Robert Owen” (1858)(五島茂訳『オウエン自叙伝』岩波文庫、1961年)のものである。

 ※文中、傍点はすべて筆者のものである。

 

(1)ここで念頭においているのは、永井義雄氏の「オウエン=成功せる産業資本家」論である。永井義雄『イギリス急進主義の研究』(お茶の水書房、1962年)参照

(2)J.D.Bernal “Science in History” ( London,1965)(鎮目恭夫訳『歴史における科学』(決定版)p.314

(3)A.L.Morton「ロバアト・オウエン」 (『平和と社会主義の諸問題』 1971年冬季号)所収、p.18

(4)A.L.Morton “The Life and Ideas of Robert Owen” (London ,1962 )

p.18

(5)Ibid. p.19

(6)А.И.ПискуновПроблемы Воспитания в Учении Роберта Оуэна (1971) 、北海道大学教育学部教育史研究室資料(1971)、拙訳、p.2 および同資料中の「解説」p.23)をも参照されたい。

(7)A.L.Morton「ロバアト・オウエン」、前掲書、p.206

(8)A.L.Morton “The Life and Ideas of Robert Owen” 前掲書、p.9 など。

 

Ⅱ 「合資関係」の変遷

(1) オウエン―ジョーンズ(1789年)

 オウエンがマンチェスターで店員をしていた頃、その店に出入していた婦人帽の枠をつくる針金職人にジョーンズという男がいた。10年まえにクロムプトンによって発明されたミュール紡績機はその後改良されて、まさにマンチェスターにも普及されようとしていた頃である。「かれ(ジョーンズ)は当時マンチェスターに導入されはじめつつあった新しい巧妙な機械をもってする綿糸紡績界の異常な発明について話しはじめた」(p50)。当時、紡績業における発明・創意は―織布業と異なって―それを得たものの「成功と蓄財の機会」を確実に保障した。「いくらかの発明力のある、はなはだ活動的な心をもった一職人」 ( p50)ジョーンズも、この機会を逃がすはずはなかった。しかし、かれには一切の資本と経営的才能をもちあわせていなかった。かくして、かれはオウエンに対し「もし君が 100ポンド提供する気なら…莫大な儲けの半分をやるのだが」(p.51)と誘いかけた。当時の経営規模、生産手段の規模からして、資本の占める比率は相対的に他の要素よりも小さかった。ジョーンズがオウエンに期待したのは、したがって、資本よりも経営能力であった。オウエンはこの申出を信じ、ロンドンで馬具商を営む兄から100ポンドを借り受け―当時オウエンの年収は40ポンドであった―かくしてオウエンとジョーンズとの「提携」による共同経営が成立した。この工場はミュール紡績機の製造工場であって、40人の職人を雇っていた。

 「私(オウエン)はこの新機械に関して何の知識ももっていなかった……それが動いているのを見たこともなかった」、「私は何が必要なのか全然知らなかった」、「私はじきにジョーンズがいかに職工を管理するか、ないしは彼が始めたかくのごとき規模の商売をいかにとりしきっていくかについて全く何のアイデアももっていない単なる1職人にすぎないことがわかった」、「ジョーンズは簿記、金のやりくり、あるいは職工の監督についてはほとんど何も知らなかった」、「自分の合資者にあまりに商売の腕に乏しいのがわかっていた私は、びくびくものでやっていた」、「もしもこれらのことによく気を配ってやっていかなければ、われわれの商売はじきに中止され、われわれの破産に終るほかはない、とは私も知っていた」「だから私は帳簿付をし……収支一切を引き受け」、「朝は一番早く出勤し、夜は最後に工場を出た。いろいろの部門の職工をば極めてうまく監督した。実際何も知らなかったが」、「しかし万事を丹念に観察することによって、私は店中の秩序と規律を雑持した」(p.51,52,57.

 こうしてわずか数カ月にして、一定の成功をおさめたのである。オウエン、18才の時である。この成功をもたらした「提携」関係は、「発明力」と致富心をかねそなえた1職人ジョーンズが致富心はもたぬが、経営的手腕と「資本」を期待されたオウエンを抱きこんで成立したものである。

 ところが、この成功をもたらしている「提携」関係にそのバランスを破壊する新たな事態が生じた。世間では、この工場の成功はもっぱらジョーンズの手腕とみなした。ところがその頃、「綿糸紡績は大分儲かるというので資本をもっている多くの人々の注意をひきはじめていた」(p.58)こともあって、「相当な財産を持った(ただそれだけの―武田)資本家(オウエンの用いる資本家と経済学でいう資本家とは異なる点に注意武田)が共同経営の仲間入りを申し込んできた。野心家ジョーンズとこの「資本家」は秘かに話を進め、「かれらは早速私(オウエン―武田)に幾つかの条件を申し出た」(p.52)。オウエンは、しかし、すでに述べた理由から、ジョーンズと手を切るのにいささかも躊躇することなく、若干の財産処分したのち、ただちにこの「提携」関係は消滅した。

 はたせるかな、「ジョーンズとその新しい相手は、案の定、早速乱雑と財政困難に陥りつつあった」、「かれらは金銭の支払いを止め、ジョーンズは針金の婦人帽製造に復したと思う」(p.52)。オウエンは述べる。「これほど十分将来の見込みを懐かす商売を‥‥‥よく気を配って経営してゆけばそれは繁昌したであろうが」(p.52)と。

 あえて言えば、ここに示されているのは、成功の主因が発明的素質と経営的手腕との組合せであり、いかに資本があり、野心、致富心が大きくても、経局は失敗せざるを得ない当時の、すでに序で述べた、特殊な状況である。また、「将来の見込み」を十分認識していたオウエンが、いさぎよくこの「関係」を打切るその態度とその背景に働く感情的・思想的作用は、今後時あるごとにより力強く現出するのである。

 

(2)独立経営(1790年)

 「提携」解消の際、手に入れたミュール機(3台)、糸捲機、仕上げ機、ある建築屋から借り受けた工場用建物および3人の職工をもってやがて、「私(オウエン)は……この資本で……独力で商売(紡績業)を始めた」(p.57)。この工場は練紡という半製品を仕入れ、それをミュール機にかけて紡糸にし、糸捲機、仕上げ機を経て梱にし、それを織布業者(およびその代理店)に販売することを経営内容としていた。「私は平均して毎週6ポンドの利益を得、年若い開業したての者としては、よくやっているつもりであった」(p.57)。この年に合計して300ポンドの利益は後にドリンクウォーター氏を驚かすほどの額であるが、この成功が意味するものは、当時の社会的、経済的諸条件を考慮するならば、われわれにとってはきわめて重要である。当時の紡績工場経営がすでに一人の人間によるそれを不可能としていた当時に―それゆえにさまざまな「合資関係係」が存在したのであるが、短期間ではあれ、一定の成功をオウエン自身が収めたことは、オウエンの個人的資質の優位性と多面性を証明するものではあっても、けっしてかれのブルジョア性を証明することにはならないのである。

 この独立経営は、オウエンにおける新たな「合資関係」の成立のために、きわめて短期間しか存続しなかったが、しかし、オウエンはその後ふたたび独立した経営者になることがなかったという点で、この時期はオウエン解釈にとって重要である。

 

(3)オウエン―ドリンクウォーター(17911794年)

 オウエンが独立経営者として、一応の軌道にのった頃、マンチェスターで1、2を争う大紡績工場で支配人を募集していた。後のラナアック工場におけるD.デール氏と同様、この工場の経営者ドリンクウォーター氏も、外国貿易で得た莫大な資本を当時の風潮に乗じ、紡績工場経営に投資したのであるが、しかしその成功は技術的にも経営的にも有能な支配人が得られるかどうかにかかっていた。前任支配人に、他に有力な契約が成立したため、欠員となっていたのだ。「どうして俺はここへ来たんだ?一体おれにできるのか、この人たち、この商売をとりしまってゆくことが?」、「もしこの管理を申し込む前にこの工場を見ていたなら自分はこんなに僭越な行動をとろうなどと夢想もしなかったろう」 (p60~61)と86才の老オウエンは20才の頃を述壊しているが、ともかくかれは500人の男女、小児を雇う大工場の支配人となったのである。ここでかれは業務管理、原料購入、機械製造、綿糸製造、販売、計算帳簿、賃金支払を一手に引受け、「私は直ちに自己の最善をつくそうと決心し」(p.62)た。『自叙伝』にしたがえば、この自己の最善の内容は、第一に「マックガフォッグの店で精巧な優れた繊物にかこまれていた幼い日(1014才)の訓練」、第二に「幼なくして宗教の偏見を克服したことによって得た人間性の知識」(p.63)にもとづいていたことは注意に値いする。つまり、オウエンはのちにニュー・ラナアック工場の労務管理の方法にふれて「すでにドリンクウォーター工場で職工に試みはじめて成功したあの諸原理」(p.110)と述べているように、かれの社会変革の思想はその基礎ならびに確信としてすでにできあがっていたと考えるべきであろう。その結果として「わが工場の労働者はその時代にその後にもないほどの高い労銀をえており、地位もはるかに独立的であった」、「かれらの規律や訓練はマンチェスターの町の内外にわたってどの工場よりもすぐれていた」(p.65)。

 さて、ドリンクウォーター氏から絶大な信頼を受け、一年後には支配人としてではなく合資人として迎えるという協定を結んだオウエンは「私は20才にもならぬのにすでに一本立ちの地位におかれることになったのだ。私はまたこの工場の利益増進に有利と思えるときには、自分の思うままの途をとれる十分な力を与えられたのだ」(p.67)と満足しているが、ここでいう「自分の思うままの途」とは先に述べた「諸原理」を実現する道に他ならないのであるが、しかし、オウエンは思うままにならない諸条件をも同時に認識していた。オウエンにとって今後一貫して追求していくべき課題は自己の社会変革のプランを実行していくことであり、そしてそのことは同時にその実現を困難にする諸障碍を除去していくこと、であった。今後も、オウエンがつぎつぎと「合資関係」を変えていくのも、実はオウエンにとっては諸障害を除去していく過程であり、ニュー・ラナアックを去り、ニュー・ハーモニーの建設へと飛躍するのも、かれにとってはいわば一貫した課題の必然的帰結でもあった。

 オウエンがドリンクウォーター氏の工場を去ることになったいきさつも、かれの思想性を理解する上で興味深い。

 1780年代以降、イギリス紡績・織布工業は未曾有の躍進をとげたが、織布部門で大成功をおさめていた人物の中にS.オルドノウがいた。はじめてのイギリス製モスリン(ブリティッシュ・マル・モスリンと名づけられた)に成功したかれは同時に「野心家」で「最も企業心があった」(p.80)。かれは、したがって紡績1業者が大した儲けをしていると考え、すでに巨大な織布工場のほかに大紡績工場を建設する計画を立て「この工場の建設、そこへの機械の据えつけ、周囲の土地の購入と惜しげもなくその資本を使った」(p.80)その矢先であった。1793年恐慌が生じたのは。(1) 1792年の苦しいときがきたとき、その経費を払い続けていくにはどうしても大きな犠牲を要するほど計画が大きすぎた」)(p.80)。そこで野心家オルドノウは当時の大紡績業経営者ドリンクウォーター氏にとりいり、その援助のもとで自己の事業を進めようとしたのである。相手は商工業界での大立物であり、みずからにも野心がなかったわけでもないドリンクウォーターはこの申し入れを快諾し、したがって、すでに述べたオウエンとの「協定」を破棄する必要にせまられた。この経過を耳にしていたオウエンは「どうしても私は一緒にやってゆきたいお思いにならぬ方とはどんな方とも決して関係はしたくないので」、「けれど事情かくなるうえは、もはやどんなに俸給を下さってもあなたの支配人としておることはできません」と主張し、あらかじめ予想して懐にしのばせてきた「協定書」をドリンクウォーター氏の面前で焼きすててしまったのである。だがかかる態度は、86才のオウエンの述懐によれば「私の方でもそれは感情に駆られた行動だった」、「判断したのではなかった」。この述懐にもとづいてかれの思想性を分析すれば、当時、かれは冷静な判断によれば、とどまるべきであると判断させたその内容はどのようなものであったのか。すでに述べたように、オウエンは明らかにこの工場で「諸原理」を実践し、それはオウエンによれば「試み始めて成功した」と評価しうるほどのものであった。そして、その「原理」とは、すでに述べた二つの契機を基礎とするものであった。しかも、かれはそれまで「引続き楽しく自分の地位にあって仕事を進めていた」(p.78)のであり、やがては合資人として「自分の思うままの途をとれる十分な力も与えられ」ることになっていた時であったのだ。かれの「判断」はかかる諸条件にもとづいて下されるはずであった。にもかかわらず、述懐するようなおさえきれぬ感情の結果、かれが憤然として工場を去ったのは、オルドノウ氏のブルジョア性とドリンクウォーター氏への信頼が裏切られたことによるものであった。だがしかし、かかる事情も実はかれの「判断」(=知性)に対する確信と誇りを一層鮮烈にするものに他ならないのであって、両者は決して矛盾するものではなかったはずである(2)

 なお、この頃、オウエンはいわゆる「マンチェスクー文学・哲学協会」の会員として、自己の思想形成において重要な時期を過ごしているが、この点につぃては改めて論ずることにしたい。

 

(4)オウエン―マースランド(1793年)  

 オウエンは、ドリンクウォーター氏の支配人を辞めるといううわさが立ってまもなく、S.マースランド氏からおおむね次のような共同経営の申出を受けた。①大規模な新工場を設立する、②オウエンが共同経営に加われば、③資本を出し、④儲けの1/3を提供する、というものであった。だがここでも、オウエンは『自叙伝』の中で次のように述懐している。「これは実に手厚い申込みではあったが、彼が儲けの半分と申し出なかったので、私の感情がまたそれを断らしてしまった。健やかな判断力に抗らって、自分にも避けられぬ感情の圧倒的な力がここでまた顔を出した。当時の私の境遇では承諾するのが利益であったのだ」(p.83)と。この場合、われわれは「健やかな判断力」と「避けられぬ感情」との関係はすでに前項で述べたそれと基本において全く同質のものであったと思う。一応誤解ないようあえて付言しておけば、かれの思想を全体としてとらえるかぎり、かれがこの申出を拒否したのは、文字通り「儲け」の多少に求めるべきではなく、かれが断固として追求している「計画」にてらして、その理由を考えるべきであろう。一歩さがって、かれが自己の経営者的能力と実績にふさわしい報酬を求めていたとしても、ただちにそれがかれのブルジョア性を証明する論拠には決してならないのである。

 

(5)オウエン―ムールスン、スカース(1794年)

 前項の申し出を拒否して間もなく、「資本はあるが仕事をしたことがない」(p.84)ムールスン、スカースという2青年から共同経営の申込みがあった。管理の全体をオウエンがひきうけ、儲けは均分するというものであった。しかし、この新工場の建設中に「新たな協定がまとまって」この共同経営も結局実現じまいに終わった。

 

(6)オウエン―アトキンスン・バートン商会(17941809年)

 A この新しい協定は「私の将来の生活に今一つの方向を与える運命をなした」(p.84)。事実この協定の存続中に、つまり5年後にはD.デール氏から有名なラナアック工場の買取りがふくまれているのだ。

 この協定はロンドンのボロデール・アトキンスン商会とマンチェスターのバートン商会(いずれも富裕な老舗)およびそれらに属する何人かの人々とオウエンが「合資関係」を結び、かれらの工場(コールトン紡績工場)の経営および製品販売を行うというもので、工場経営全体はやはりオウエンに委ねられることになった。オウエンはこの頃すでに原料の鑑定、機械の改善・改良・経営的手腕において一流の人物と見なされていた。この協定によって、オウエンは従来の単なる支配人としてではなく、合資人兼支配人として登場してくる点は注意を要する。つまり、これまでのオウエンの地位は「合資関係」の一方の当事者にあったといえども、しかしそれはあくまでも「雇われる」立場においてであった。しかしこの新しい協定によって、オウエンははじめて合資人としての地位を得、かつ工場の経営に直接責任をもつ支配人としての立場から、この「合資関係」の中で強力な発言権を有することになったのである。

 工場は「早くも名を売り出し、着々と盛んになっていった」(p.87)。オウエンは「綿花を買い、糸を紡ぎ」(p.85)それを売りさばくために各地を走り回った。

 当時、オウエンの「注意は挙げて商売や勉強の方へ向けられ」(p.96)ていたが、その勉強の内容について若干考慮しておく必要がある。それはすでに述べたオウエンが一貫して追求しつづけていた課題に応えるためのものであったにちがいない。かれと「マンチェスター文学哲学協会」との関係は依然として続き、1795年(この協定の成立の翌年)には3本目の論文「機械工学と万人の幸福との関係に関する考察」(Thoughts on the Connection between Universal Happiness and Practical Mechanics)を、そして17974月には4本目の、そして最後の論文「社会的善の改善を目的とした意見の起因について」(On the Origin of Opinions with a View to the Improvement of the Social Virtues)を、それぞれその会合において発表している。これらの論文は、それ以前の二つの論文をもふくめて、表題のみが判明しているだけであるが、しかし『自叙伝』等から判断して、17年後に公刊される『新社会観』と一定程度結びつくものであったにちがいない。

 B オウエン、ニュー・ラナアック工場の総支配人兼合資人となる。

 オウエンは商用でしばしばグラスゴウヘ旅行することがあったが、1797年の夏のはじめてのグラスゴウ訪問はかれにとって「私の一生におけるひとつの新局面の原因をなしたもので、その後の私の行動の上に一大影響を与える事情になったものである」(p.90)、そのひとつは、かれの妻となるべきD.デールの長女カロラインとの出合いであり、他のひとつは、彼女らの紹介でオウエンがラナアック工場を見物したことである。「その工場を視察しおえたとき、その工場の前に立って、私は友人に言ったものだ。今まで見てきたどこよりも私はここを選びたい。自分が今まで長らく考えぬいてきた実行の機会を求めてきたひとつの実験を試みうるには―その瞬間には、いつまで待ってもこののぞみがみたされる機会が実際にあろうなどとは思いもしないで」(p.91)。この記述はわれわれに重要な示唆を与える。すなわち、かれの「のぞみ」はすでに指摘したように、かれがドリンクウォーター氏と「合資関係」にあった時期(17911793年)にすでに原型としてはできあがっており、かつその当時から「実行の機会」をねらっていたのであり、さらにその後の「合資関係」の変遷の中でも、つねに「実行する」立場から「今まで見てきた」のである。もっと言えば、かれの「合資関係」の変遷は、かれの「のぞみ」がみたされる機会をねらう、ということが主要な動機となって行なわれたといっても過言ではないのである。しかも、オウエンはこの時点ではまだD.デールと面識がなかったのである。(3)

 翌年(1798年)、オウエンは一年後には妻となるカロラインから父D.デールが工場を手放すという話を聞いた。その理由はすでに高齢であり嫡子がいない、絶えざる競争の激化に対抗できない、というものであった。オウエンは早速他の合資者と相談して、この工場の買取を決めた。双方の間にその買取の意図はすでにまったく異なっていたのであるが、ともかくオウエンは合資者同志の話合いにもとずいて、このニュー・ラナアック工場の総支配人兼合資者の地位を得ることになった。179910月頃オウエン28才の時である。「今や、私は自分の統制下になかつたような事件の成りゆきによって、長い間望んでいたが、自分の力で実行できるとは思いもかけなかった一つの実験をその上に試みる基礎を得た」(p.110)のである。

 ところで、180011日をもってはじまるこのニュー・ラナアック村の「統治」は、オウエンの位置づけによれは、つぎの通りである。「私がニュー・ラナアックで成し遂げられると思ったことは、根本的に誤った一制度の最もひどい害悪をある程度まで改善しようとするにすぎなかった」、「だから私がニュー・ラナアックで成し遂げたことは、ただ私がこの工場の統治を始める前に存在していた一つの設備の悪い工場と村落の状態の下においてできるだけのことをしたにすぎないということをつねに忘れないでほしい」(p.150~151)と。このようにオウエンが、『自叙伝』の読者にあえて注意を喚起しようとしているかれの「統治」に対する位置づけは、他で述べているオウエンのつぎの記述と合わせ考えるならば、かれの社会変革の論理構造を総体として把握可能たらしめる示唆を与えるであろうと考えられる。すなわち「原理上も実際上もこの急激なる変化にも達せず、また細大いずれよりも方向はずれずに、原理と一致した実践をするにも至らぬような改革案は、およそいかなる政治団体、宗教団体によって提議されてもただ価値がないのみでなく、人類全体に善、叡知、幸福を直ちに達成さすのをはばむあやまった妨害物なのだ」(p.156)と。つまり、オウエンがニュー・ラナアックでの全活動を原理にもとづく改良(変革の一部分)、にすぎないと認識していたことは、かれがすでに一貫した思想体系の中に、すでに原理にもとづく根本的な変革の論理がふくまれていたことを意味する。この根本的な変革の論理の全面的実践の展開は、とくに1814年以後開花するであろう。そして、オウエンのかかる認識が当時のイギリスにおける政治情勢に対するかれ独自の評価を一定程度反映していることにも注目すべきであろう。

 かくして、オウエンは総支配人兼合資人として「最初の8年間(1800~1808年)、私は(ニュー・ラナアック村において―武田)たえず人びとを訓練し、村や機械を改善し、将来の発展の基礎をおくことに従事した。それは根本的な欠点はありながらかかる実験的な工場がそうした目的のために用いられる限りにおいて、ただに綿糸紡績にとってだけでなく、世界の利益のための一実験として企てられたものである。」(p.153

 ところで、かれはこの頃から教育への強い関心を示しはじめた。かれはすでに10年も前からランカスターへの多額の援助を続けていたが(このことはオウエンが決して社会変革の拠りどころとしてコロニーに限定していたわけではないことの証左の一つになるわけであるが、ここでは触れない。)、この頃、オウエンはニユー・ラナアックにあって、教育施設の新設をふくむ事業の拡張計画を提示するにいたり、かれは他の合資人たちの反対を考慮して、自分の資力(1802年頃、オウエンは全合資総額の九分のlの持分と総支配人としての年俸1000ポンドを得ていた)の許す範囲内で、1809年にNew Institutionの建設に着工した。にもかかわらず、他の合資者たちの反対は激しく、かれらは「(オウエン氏の)諸計画は一々切り離してみればごもっともだが、その計画が、われわれの教育、習慣、実際に反対する結論に導かれるから、それは全体として間違っているに相違ない。われわれはすでに非常に大きいこの工場を統治し拡張するのに、そんなに新しい原理に基づいてすすめていくことはできない」(p.160)と主張し、遂に「合資関係」は決裂し、結局は84000ポンドで完全にオウエンの単独所有となった。ほぼ15年続いたこの「合資関係」はかくして終了したのである。

 

(7) オウエン―新合資者A1809~1813年)

 この解消によって一躍大紡績工場経営者としての地位を得たオウエンは、かねてから「機会があり次第いつでも合資をやっていこうという申し込み」を受けて、新たな「合資関係」を組織した。この頃までには「合資閑係」を必要とする構成要素の中で資本の占める比率は次第に大きくなっていくが、しかしオウエンが大規模紡績工場の所有者・経営者としての自らの判断に基づいてこの新たな「合資関係」の組織の必要性を認めたのは、言うまでもなくかれの「計画」の実践のためであった。また、この時はオウエンは自分の「計画」に即して合資人を選択する((8)の例のように)というところまでは考えなかった。

 持分の順位から言えば、新たな合資人はオウエン、デニスタウン(外国貿易商、実業家)、アレキサンダー・キャンベル(同)、ジョーン・アトキンス(ボロデール・アトキンスン商会の業務担当合資者、「野心家で権力とか儲けとかを大変ほしがる人」(p.164))、コリン・キャンベル(他の工場の合資者でもある)の5名で「合資関係」が構成され、工場名も「ニュー・ラナアック工場」と改められた。

 「われわれはこの新商会のもとでしばらくはニュー・ラナアックのわれわれの事業の経営活動をうまく進ましていた」、「そして私は性格形成のための新しい学校(前述のNew Institution)の建設をはじめていたのだ」(p.162)。だがしかし、まもなくして、前の「合資関係」において生じた同様の矛盾がふたたび表面化してきた。他の4人の合資者たちは叫んだ。「自分たちは紡績業者だ。儲けんがために商売をやっている実業家なのだ。児童教育なんかには何の関係ももっていないはずだ。誰だって工場の中で教育などやっているものはありはしない」(p.163)と。そしてさらに、オウエンの諸政策全般に対しても公然とした攻撃を開始し、オウエンは遂に進行中のNew Institution建設中止の正式の通告を受けるにいたった。だが、オウエンの社会変革の情熱は一歩もたじろがず、「労働者や工場を管理する私のやり方がお気に召さぬことはよくわかりましたし、私は私流のやり方でのみこの工場を経営して成功してゆけるのです。ですから、私は総支配人としての管理をやめ、単なる合資者としての利益を保留しましよう。私は自分の確信に反して仕事をしなくてはならぬくらいなら、年1000ポンドの給料などおかえしした方がいいと思う」(p.163)とオウエンは反論した。相互の全く相反する主張は遂にオウエンの意に反して競売という形で現実的に解決されることになった。1813年、オウエンすでに42才の時である。

 

(8)オウエン―新合資者B1813~1825年)

 オウエンは有力な新合資を募ってこの競売に勝利した。われわれはこの新たな「合資関係」の成立過程に注目する必要がある。すなわち、競売が行なわれた1813年は同時にかれの主著『新社会観』の発行年でもある。オウエンは述べている、「これら(『新社会観』を構成する4編の論文のこと―武田)は、富裕な博愛家や最良の仲間や貧民労働階級の状態改善のために積極的な方策を始めることに真剣に希望している人びとの最良の仲間の間に配布された。私が志している将来の仕事を助け、しかも妨げようとしない、また彼らの雇用している労働者からあまりに少ない賃金に対してあまりに多い労働を奪い取ろうとしないような合資者をその人びとの中から得ようとする考えをもって」(p.166)と 「私は安く買って高く売るようにだけ訓練された合資者には全くこりごりした」(p.166) ここに見られるように、オウエンはこれまでとは全く異なった視点から合資者を募っているのだが、実はこのこと自体、オウエンの思想の中に、自分を経営者であることさえ否定する論理がかなり顕在化してきていることを意味している。つまり、かれの積極的な求めに応じて新たな合資者となったのはジョーン・ウォーカー、ジョゼフ・フォスター、ウィリアム・アレン、ジョゼフ・フォックス、マイケル・ギッブズ、そしてジェレミィ・ベンタム(4)

の6名であり、それぞれ歯科医、政治家、紳士、哲学者らであった。オウエンは総資本の13分の5をもつ合資人筆頭ではあったが、しかしかれはすでに経営者として登場していたのではなく、かれの事業の遂行者として登場しているのである。「こうして自分の『新社会観』を世に公けにしてから、私の注意は一転して公的性格をもった諸方策に向かった」(p.206)。その後、オウエンの『ラナアック州への報告』(1821年)の執筆までのほぼ7年間におけるかれの主要な活動は、①労働者階級の状熊を改善する法案を議会に向けて働きかける活動(いわゆる工場法運動との異質性については別の機会に論じたい)、②1817年以後に始まるかれの社会変革輪の大煽動・普及活動、ニュー・ラナアック村における活動、に大別できるが、われわれは視点を限定しているのでそれらについてはここでは省略せざるを得ない。

 さて、オウエンのかかる努力をもってしても、これまで繰返されてきたオウエンと他の合資者たちとの矛盾は、今度の場合にも結局は避けることができなかった。この矛盾はオウエンの『自叙伝』によるかぎり、主として他の多くの合資者たちの信奉するクエーカー教とオウエンとの宗教上の対立としてあらわれるが、しかし序でも述べたように、産業革命の初期という特別の時期がすでに終り、本格的な全面的な産業資本主義段階へ移行しつつあった時期にあたること、オウエンの社会変革の諸実践が内外においてますますエスカレートしてきていること、などとの関連をも考慮しなければならないであろう。

 いずれにしても、従来とはまったく異質な「合資関係」であったにもかかわらず、かかる諸矛盾の結果、結局崩壊せざるをえなくなったのであるが、紙数の制限もあり、きわめて不十分であるが、この経過についてオウエンの次の部分を、長さをいとわず引用することによって、本論を終りたいと思う。

 「ニュー・ラナアックでは住民は深く満足し、彼らの子どもたちは最良、最幸福の人間となり、すべてのものが日に日に急速の進歩をとげつつあったこの年である。わが合資者の一人、ウィリアム・アレンがヨ−ロッパからかえってきたのは。大陸では彼はみずからロシアのアレキサンダー皇帝やその他若干の国王と交わってきたが、それは彼のあたまをなんの役にもたたぬまちがった方向へむかわせてしまったのだ。彼のこころはクエーカーの偏見とランカスター式の不完全な教育制度にせばめられていた。このランカスター式に対しては、その現在のようなものをつくるのに、私は物質的に援助もしていた。しかし、ランカスター式の委員会の狭量なこころと宗教的偏見とはそれ以上の前進をよくさせなかった。しかも、アィリアム・アレンは特にこのちょっとした進歩を、教育の完成と考えたのである。彼は帰るとすぐ私の行為一切をけなしてしまおうとした。なにしろ、私は全世界の迷信やあやまった宗教の一切をすでに公然と否定していたからだ。彼は私の合資者たちの普通の宗教ともっとすすんだ私の実践的な真の宗教観との間に不和の種をまきはじめた。彼は私流のやり方(この時代までにニュー・ラナアックのすべての小児を優秀、幸福な性格にするのにかくも著しく成功していたし、またそれを改善し、かつ彼らの親たちを幸福にし、彼らの状態および位置に深く満足さすのに、はなはだ貢献しておった)の放棄を提議した。彼のけちなクエーカー式の観念と彼が宗教からくる私の自然的教育の自由な方法を代えるに、すべて善良優秀な合理的性格を形成するに不可欠な音楽、舞踊あるいは軍事訓練等のないクエーカー式教育の束縛された小観念をもってすることによってである。しばらくの間、私は彼の浅薄な、偏した考えにはほとんど注意を払わなかった。そして、私は2年か3年の間は、私の常のやり方をつづけていった。しかし、彼の非常に神聖ぶることと、音楽・舞踊、軍事訓練をやたらに気にすることを見出して、私は遠からず別れる宿命をだんだん悟るようになった。数年ならずしてそれがおこったのである」(p.408~409) この経過を資料的にあとづければ、ウィリアム・アレンが帰英し、オウエンとの間の矛盾が表面化したのは1822年であるが、その2年後の1824122日にはオウエンとアレンとの間にオウエンが譲歩する形で協定が結ばれたが、翌年オウニンがアメリカ(New Harmony村開設のため渡米していた)から帰国した8月に、かれは支配人としての地位を辞任し、「合資関係」は事実上崩壊するのである。その後、1828年には、ニュー・ラナアック工場の最後の持株すらも売払って、オウエンとニュー・ラナアックとの関係は完全に消滅したのである。

 

(1)諸田実「産業革命期における諸「恐慌」」(高橋幸八郎編『産業革命の研

  究』、1965年、岩波書店、所収)参照のこと。

(2)この「判断」と「感情」については論じたものは他にない。

  プライドとして言及したものは、それぞれニュアンスの相違があるがつぎ

 のものがある。

 ・河上肇「ロバート・オウエン」(『社会問題研究』第15冊、弘文堂、1920

  年)、p.2

 ・北野大吉『ロバアト・オウエン』(1927年、同文館)、p.35

 ・五島茂『ロバアト・オウエン』(1927年、三省堂)p.60

(3)この点についてはPaul Mantouxはつぎのように述べている。

 「かれ(オウエン―武田)の社会主義は雇主(D.デール―武田)の博愛から

 由来している」—Paul Mantoux,La Revolition industrielle au 19e Siecle

 (1959徳増他共訳『産業革命』(東洋経済新報社、1964年)、p.672Mantoux

 はD.デールをオウエンの雇主である、という事実認識の点でも誤っている。

(4)オウエンとJ.べンタムおよび功利主義との関係については、従来から一

 つの論点になっているが、渡辺義晴「OwenismにおけるUtilitarianismの評

 価について」(信州大学紀要、1965年、№34)を参照されたい。

  なお、すでに紙数制限を大幅に超えているので、結論の部分は序の部分を

 もってこれに代えざるを得ない。             (おわり)

                                                            

(北大教育史比較教育研究室研究資料『教育史論考 1972年版』所収。ホームページ掲載に際し、誤字脱字等一部補正した。2011年9月)